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2017年9月 8日 (金)

新地蔵菩薩尊の開眼法要

 快晴に恵まれた2016年4月30日9時、大倉家、山田家の両家、丸順の今川順夫名誉会長、石寅の4代目藤井社長も参列され、総勢50名ほどの参列者の中、室村町四丁目新地蔵菩薩像の開眼法要が執り行われた。読経の前に藤井社長が巻いたさらしの紐を取り、大倉家、山田家の方がさらしを取り(除幕)、新お地蔵様が姿を現された。最後に、藤井社長が6尺の杓丈を左手に挿して、完成である。杓丈は教義的には煩悩を除去し智慧を得る効果があるとされる。

 

地蔵尊の思い出

 今川名誉会長は幼年期、この近くに住んでみえて毎日、お地蔵様に「行ってきます」と挨拶をして出かけ、帰ってきたら「ただ今」と挨拶をして親しんでいたという。現在93歳で足が少し悪いがお元気で現役である。「地獄のシベリアに抑留されても生きて帰ってこられた。現在も93歳で元気なのは、このお地蔵様が守っていただいたご利益ではないか思う」と挨拶をされた。木村自治会長が、「この地区の77歳以上の老人は52人で、住民の18.1%を占め、この興文学区では断トツの比率である。全国平均で75歳以上の比率が12.3%(平成25年)(77歳以上比率は推定10%)を考えると、これは延命地蔵菩薩尊が105年間もこの地区を見守り続けていただいたお陰ではないか」と披露された。

 

住職からの歴史の説明

 妙永寺の竹中住職様が、開眼法要の読経の後にお寺とこのお地蔵尊の歴史のお話をされた。明治43年当時、鐘紡(前身の鐘淵紡績、その後の鐘紡、カネボー)の社員やこの地区の住民で亡くなる人が多いので、鐘紡が妙永寺の現在の住職の曽祖父の住職に相談をして延命地蔵菩薩尊として建立したという。土地は大倉家が提供し、石寅(創業明治15年)の初代の藤井寅吉氏(寅年生れ)がお地蔵様を彫りあげた。当時は現在より南に10mほどに位置していて、その前に同志館という地区の公民館があったという。妙永寺は大垣城が築城される(伝・明応9(1500)年)前からある歴史ある浄土真宗のお寺である。昔は仏教を信ずることは敷居が高くて、地位が高い人やお金持ちしか仏教に帰依できなかった。浄土真宗では阿弥陀佛に帰依する本来であるが、延命地蔵菩薩像を身近にして拝む人が増え、民衆にも仏教が広まったという。

 

大垣の繊維産業の興亡

 鐘紡は当時の花形の一流企業であった。赤レンガの鐘紡の工場倉庫(図1)が、現在は大垣市産業遺産として室村町3丁目の六甲テキスタイル(株)の敷地内に保存されている。時代の変遷で、大垣の繊維産業は壊滅した。父は近江絹糸紡績大垣工場が出来た時、第一陣として彦根工場から転勤になって大垣に来た。私は満1歳になってから、大垣に転居した。時に地蔵尊は生誕41歳の働き盛り(?)である。地蔵尊の働き盛りの時は、大垣を始め日本の繊維産業は大盛況になりつうある時であった。大垣は水が豊富で、九州や遠方の各地から集団就職で多くの女子が大垣の繊維産業に就職をした。しかし繊維産業にも生老病死がありその衰退に合わせて、父が勤めていた近江絹糸紡績大垣工場も消え、現在は工場跡が駐車場、新興住宅地に変貌している。お地蔵様の明治、大正、昭和、平成の105年間の時代が終った。私はその歴史の半分の64年間を共有できたのは幸せである。

 

図1 鐘紡の工場倉庫 2016年5月4日撮影

図2 藤井社長がさらしの紐を解く

図3 大倉家と山田家で除幕

図4 姿を現した地蔵尊。手前は石寅の藤井社長

図5 今川名誉会長の挨拶

図6 開眼法要の読経

図7 妙永寺の竹中住職様から地蔵尊の歴史解説

   住職様が地蔵菩薩尊建立の経緯をお話しされた。

   前列 山田様、大倉様、今川名誉会長

 

2017-09-08

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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