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2017年10月 2日 (月)

魂の会話という演奏会プロジェクト

 2017年9月29日、「世界で一流の音楽を楽しむ会」主催のドイツトップチェリストの「TIMMコンサート」が大垣市音楽堂で開催された。私はスタッフの一人として、写真撮影・ビデオ撮影を担当した。プロの演奏を相手に、本格的な撮影・ビデオ撮影は初めての経験であった。その過程でリハーサル中の演奏家の行動がレンズ越しに垣間見えてよき経験となった。今までの人生でも、なかなかこんな機会はない。

 2年前も同じTIMM親子と河村先生の演奏会であったが、それから場数が増え、私のクラッシックの造詣が少し深くなり、今回のリハーサルの見聞を、レンズを通して見て、いろんな面が観えてきた。

 リハーサルでは、フルサイズCCDの一眼レフに、100~400mmズームレンズを装着して最後列席から約300枚を撮影した。しかし本番では一眼レフのシャッター音が問題になるので、本格的な撮影は遠慮して、無音の小型デジカメで数枚の撮影にとどめた。リハーサルで、しっかりと撮影出来て良かったと思う。現在、無音シャッターのカメラを手配中で、10月10日前後に入荷予定である。次回の演奏会には間に合いそうである。

 

デュエット演奏

 「デュエット演奏とは、二人の音楽家が楽器を媒体として作り上げる魂の会話プロジェクトである」が今回、私が体得した演奏会の定義である。そのプロジェクトは試行錯誤の産物で、一つひとつ、丁寧にお互い音を確認しながら作り上げる芸術作品なのだ。一人の音楽家の出す音は、魂の響きである。魂とは己の内なる「鬼」が「云う」と書く。己の魂の叫びをピアノなりチェロに託した音を響かせる。

 ピアノが「タタタッタ…….ターン(どう? 美しいでしょ?)」と鍵盤をたたくと、チェロが「ビンビン ビーン(そうだね、ぼくも同感だ!)」と会話をするが如くに音が流れるのがデュエット演奏である。交互に魂の会話を交わすのが、美しいハーモニーになってくる。美しくなければ、魂の会話が成立していない。

 

リハーサル

 リハーサルでは、TIMM息子がピアノの位置を観客席側に50センチ前に出すように指示をした。最初の位置では、舞台が広すぎて、客席から見て奥過ぎると言う。そこまで気を使ってのリハーサルである。

 TIMMパパは、TIMM息子と河村先生のデュエット演奏を観客席から聴いて、アドバイスをしている。それも観客席の場所を2回変えての助言である。

 リハーサルでは、3人が会話をしながら、演奏の微調整を繰り返し、それがすぐどう演奏に反映されて、変化したかが、わかるので興味深かった。3人が、「ここはもう少しテンポよく、もう少し強く、アレグロで、この間を強調しよう」とかの会話をしているようである。2人が小フレーズを演奏後に話し合いをして、すぐそれが演奏に反映される。それも目で合図をしたり、直接相手の所に行き、楽譜で示しての微調整である。

 

本番演奏

 「本番では、完成された演奏であり、その苦労のプロセスは見えない」と素人の私は思っていたが、実際は上手くいくかどうかは賭けで、上手く行く場合もだめな場合もありと河村先生から教えられた。人生と同じで、本番で練習通り、理屈通りにはいかないようです。それが人生の面白さでもあるのだ。今回、河村先生の本音を聞かせて頂いたのも大きな学びであった。今回、そのリハーサルの一部始終を見聞できたのは幸いであった。どんな人生のプロジェクトでも、一人では完成しない。共に戦う仲間との会話と魂のぶつかり合いがあって、素晴らしいプロジェクトが完成する。人生演奏は、いつも本番の演奏なのだ。主役は己である。ダメでもともと、チャレンジを続けていきたい。

 

図1 TIMM親子 Juernjakob Timm、Juernjakob Timm

図2 Juernjakob Timm と河村義子先生

図3 ピアノの位置を変更

図4 Juernjakob Timm と河村義子先生

図5 Andreas Timm と河村義子先生

図6 Juernjakob Timm と河村義子先生

図7 Andreas Timm と河村義子先生の極秘会談

図8 TIMMパパのアドバイス

図9 客席で二人を見守るTIMMパパ

図10 Andreas Timm から河村義子先生へ極秘指令

図11 席を変えた場所で聴き入るTIMMパパ

図12 開幕での河村義子先生の挨拶

図13 本番でのJuernjakob Timm と河村義子先生

図14 本番でのTIMM親子と河村義子先生 

 

2017-10-02

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

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2017年9月30日 (土)

「ティムコンサート」第一報

 昨日、2017年9月29日、大垣スイトピアセンター音楽堂で開催されたドイツのトップチェリストの「ティムコンサート」に、スタッフとして参加した。そのコンサートのリハーサルから本番までと、打ち上げ会をビデオ撮影3時間分、写真300枚余を撮影した。その後、深夜までかかって、その編集とビデオのBD化をした。

 睡眠4時間半で起きて、翌日(9月30日)の朝食会場でティムさん親子に写真データのUSBメモリとビデオで撮ったBDをプレゼントした。その写真内容をiPadで見せると、二人は朝食そっちのけで見入っていた。そんなリハーサル中の写真を大量にとった撮った酔狂な人は過去にいないみたいで、大変喜ばれて嬉しかった。私は、普通のプロは撮らない写真を、人生の観点と芸術の視点で撮影した。それもCCDフルサイズの一眼レフに100~400mmのズームレンズを付けての撮影である。ビデオも16時から20時30分までの収録である。普通はそんなリハーサル中の状況をビデオに撮らないだろう。なにせプロに頼めば、交通費、宿泊費、日当と高額の金を請求されるはず。ティム親子もそんな自分たちの大量の演奏会中の写真を見たことがないようで、大変喜んでいただけた。

 

サービスとは

 スピードが相手を喜ばす。そこまでやってくれるのかとの感激が相手の心を打つ。これがドイツに帰国後、1ヵ月経ってから見ても、感激は半減するだろう。サービスとは、相手の予想を超えたものを提供しないと感激はない。現代は、それがIT技術の進化で可能になったのは幸せである。これを商売に使わない手はない。これからの生き残りには、相手の心を揺さぶるビジネスの戦略が必要である。それと対極にあるのがお役所のサービスである。そのサービス姿勢には、怒りさえ覚える。

「ティムコンサート」の経緯は、別途、ブログで掲載します。

 

2017-09-30

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2017年9月 1日 (金)

「子と音cotoneKiDS」の響き

 2017年8月29日14時から、大垣市民病院のロビーで患者さん達を慰問する「子と音cotone」の「院内ふれあいコンサート」が開催された。

 

「子と音cotone」プロジェクト

 「子と音cotone」は、河村義子先生が子供達の芸術性や思いやりの心を育成するために立ち上げたプロジェクトである。cotoneの「co」はフランス語で「ともに」の意味。「tone」は音色である。音楽の力を次世代に託すとの思いがこもっている。

 主に10代の小学生・中学生の音楽大好きな子どもたち8名ほどが集まって歌、鍵盤ハーモニカ、ダンスのレッスンを月に2回している。皆で、ハーモニーを作る喜び、楽器のアンサンブルを楽しんでいる。イベントやコンサートなどの発表の場に参加することで、皆とステージを作り上げる感動を体験している。子どもたちは、歌って、踊って、鍵盤ハーモニカや打楽器、ピアノを始め、いろんな演奏にチャレンジしている。ライブやコンサートも積極的に体験している。ちょっぴり恥ずかしがり屋さんでも、すぐみんなと仲良くなれて楽しんでいる。

院内ふれあいコンサート

 「子と音cotoneKiDS」が音楽好きな仲間とアンサンブルすると、皆キラキラと輝いて、一流音楽家のように生き生きと音楽を奏でる。純粋な子供たちの音楽は、聴いて見ていても楽しい。プロの演奏家が奏でる音楽とは別の音の響きがある。可愛さが溢れている。カメラを向けると皆笑顔でVサインである。

 竹嶋真優さんの迫力あるエレクトーン独奏もあり、楽しい演奏会であった。私もその昔、エレクトーンを3年間ほど挑戦して、仕事の忙しさにかまけて挫折した経験もあり、懐かしく聞かせていただいた。

 この「院内ふれあいコンサート」では、大垣市職員の方が、前回の「院内ふれあいコンサート」と同じように運営支援をされていた。私が以前、車ではねたあの奇縁の方です。市の支援に感謝。

 

喜びを与える嬉しさ

 院内コンサートのように、目の前で患者の皆さんが喜んでくれるのを、小さい頃から体感すると、人に喜びを与える嬉しさが体験できるのは素晴らしい。良き情操教育の場だと思う。今回は、「子と音cotoneKiDS」のお母さんたち「cotoneMAMA」も参加して、子供達と一緒に合唱した。お母さんが、子供に優しい眼差し向けながら合唱する微笑ましい風景であった。

 なんでも、昨年、たまたまこのコンサートを見て、すぐ入会した子もいるとか。その子が、今回はメンバーとして参加している。現在、メンバー募集中です。是非、皆さんのお子さんを参加させてください。連絡は下記HPからどうぞ。

https://cotone-oogaki.jimdo.com/kids/

https://www.facebook.com/%E5%AD%90%E3%81%A8%E9%9F%B3cotone-179631062229766/

mail:info@co-to-ne.ne.jp   tel:0584-78-1126

 

今回の学び

 「子と音cotoneKiDS」の皆さんの集合写真を撮影しようとレンズを向けたが、引率の先生に、それでは患者さん達の顔も写ってしまうので、逆の正面玄関を背景に撮影して欲しいとアドバイスをされた。その方向は逆光になるので、撮影時に避けたカメラ方向であった。人生では還暦を過ぎても学ぶことは多い。

 逆光での撮影は、外の明るさの影響で、少し撮影範囲の光量が変わるとてきめんに顔が暗く写ってしまう。なかなかにカメラのセンサーが過敏すぎて、撮影に苦労をした。

 

2017-09-01

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2017年8月29日 (火)

人生の局を奏でる ~カナデノワコンサート

 2017年8月20日、第1回から第3回までのカナデノワコンクール入賞者によるカナデノワンサートが開催された。ゲストに石原佳世・岡崎章ご夫妻を迎えて、ピアノデュオ演奏も披露された。

 

人生で己の局を奏でる

 このコンサートでは、小学1年生から中学生、高校生、大学生、プロまでが出演する。出演者を見ると、人の成長を象徴した人生の縮図である。出番が来たら、黙って縁台の上がり、演奏して舞台を降りる。前回の大垣フォーラムホテルの音楽会が、身内のお披露目とすると、今回の大垣市音楽堂でのコンサートは、実社会でのお披露目の場である。カナデノワコンクールでの厳しさが、今後の人生を歩む上で大きな経験となる。コンサートへの出演は、自分の意思で決めて、その技を披露する。それでお金が儲かるわけではない、今まで培ってきた己の技を披露するだけである。それが己の肥やしとなる。それがお金以上の価値である。

 

曲から局へ

 人生の課題の当たり前を、当たり前にこなす。それが人生だ。己の小さな「曲」を血のにじむまで練習する。そして、その鍛錬をもとに大きな人生舞台で、デュオ演奏としての仕事が「局」なのだ。これで学んだ喜びを糧として、社会の大局を目指して人生を歩んで欲しい。

 

人生のアンサンブル演奏

 カナデノワコンクールは、出場者の演奏技術の向上を目指すだけでなく、アンサンブルを通して人との協調性を育み、 音楽を楽しむ心を育て、参加過程そのものが豊かな人格形成になることを目的としている。審査では、「お互いの音をよく聞いて演奏しているか」「演奏者同士がそれぞれ協力して意欲的なアンサンブルをしているか」「音、歌に心が込められていてそれを伝えようとしているか」等を主眼点としている。より豊かな音楽表現の競演が望まれている。やっつけ仕事では人を感動させられない。心を込めて仕事をしたい。その人生の局は、一人では奏でられない。自分の思いを仕事に込めて、世に問う。多くの仲間、パートナーとの協業があってその努力の成果が2倍にも3倍にもなる。人と人との間で奏でるのが人生の仕事である。その小さな第一歩が、この舞台でのアンサンブル演奏なのだ。

 

一番喜んでくれる人

 人生の晴れ舞台を身内の人が一番喜んでくれる。親は勿論、祖父祖母が見に来てくれる。コンサート用晴れ舞台の服装の準備も大変だ。自分が大きくなった時、親になって、子供のために演奏会用の服を作ってやる時、昔の親の恩に感謝の念が沸き起こる。きっと祖父祖母もその援助をしたはず。その時、親や祖父祖母が生きていれば幸せであるが、往々にその時には親はいない。

 

カナデノワコンサートの生い立ち

 カナデノワコンクールでは、ピアノの独奏だけではなく、連弾や「こどものうた」も対象である。主催者の河村義子先生の「子ども達には音楽を仲間と共有できる楽しさ知って欲しい」という思いからである。30年以上、ピアニスト、ピアノ教師をしてきた経験から、音楽教師仲間や同窓生、教え子らと今回のプロジェクトが実現した。

 河村義子先生は中学の時、作曲家高木東六氏らが審査員を務めた大垣市芸術祭での演奏で入賞した。発表会や演奏会とは違うコンクールの厳しさ、気構え、緊張感が脳裏に刻まれたという。当時は楽譜のコピーも録音もなく、自分の演奏をゼロから作っていった。大学生や熟年世代に音楽を教え、ボランティアでも音楽活動をしながら、自分が受け継いだ教え方や、音楽の価値を次世代に伝えたい思いが、今のカナデノワコンクールで形となった。「音楽界の環境が激変している。一人で弾くピアノ演奏だけでなく、仲間と奏で合い、感じ合うことで音楽が何倍も楽しめて、相手と心が通い合う感動を味わって欲しい」との思いでこのコンクールとコンサートと企画した。「コンクールという厳しさも経験も必ず人生で生きてくる。そのきっかけになれば」と。第一回から第3回までのコンクールで、約200名がステージに立った。そのうちに30名余が今回のコンサートで腕を披露した。

 今回の演奏会は、名目的には市と教育委員会の後援とパンフレットには記載してあるが、実質的に支援はゼロである。市の実質的な支援を要望したい。当面は期待できないので、市民の草の根運動でこういう活動を支えて、大垣の文化を維持してくしかない。私も支援させていただいた。いつの時代も行政は、後追いである。市民の草の根運動で、行政を指導していくしかない。

 

音楽堂とは

 環境的に、大垣市スイトピアセンター音楽堂は、優良ホール100選に選ばれている。スタインウェイとベーゼンドルファーのどちらかを選んで出場できるコンクールである。ベーゼンドルファーのピアノは、前大垣市長の小倉満氏の尽力で導入された。素晴らしい大垣の音楽堂を広く知ってもらい、地域活性化に繋げていきたいという思いも込めている。

 

石原佳世・岡崎章のピアノデュオ演奏 「春の祭典」

 「春の祭典」はストラビンスキー作曲のバレエ音楽で、古代ロシアの春を迎える儀式で、いけにえの少女が息絶えるまで踊り続けると言うシナリオである。作曲者自身の手によって、連弾用に編曲がされている。パリで初演された時、不協和音の連続で、5拍子、7拍子、11拍子という不思議なリズムに観客は大ブーイングをしたとか。そんな初演から100年経った今は、革新的なかっこいい音楽として20世紀を代表する名作となっている。クラシック歴の浅い私には、石原佳世・岡崎章のピアノデュオ演奏は、激しいジャズの様で、真似して弾きたくとも弾けない高度な技の連続であった。私のレベルではついて行けない。100年前にパリで初演された時に観客が感じた心境が理解できた。

 

 

カナデノワとは

【奏でのわ「輪・和・羽」】を意味し、アンサンブルを通して、心の・輪、響の・和を大切にしながら豊かな心で大きく・羽ばたいて欲しい、という願いを込めた。ピアノは一人で演奏することの多い楽器であるが、連弾や歌とピアノなど、誰か共演することで、楽しさが倍増する。家族やお友達同士など音楽を愛する仲間が、ともに感じること、共に表現することの新たな喜びを分かちあい、さらに絆を深めるきっかけとなること祈念して名付けた。

 

カナデノワ:kanadenowa シンボル&ロゴ

「音符」「人」をモチーフに、人と人、心と心、歌やメロディー、ハーモニーを奏でてつながって羽ばたいていく様子を音符のイメージに見立てたデザインとした。グリーンを基調としたカラーは、音符から若葉が育っていくことを彷彿とさせ、先進的ながらも、協調性、芸術性の願いが込められている。

 

河村義子

 大垣市出身。名古屋市立菊里高校から愛知県立芸大、同大学院でピアノを専攻。演奏活動の傍らシルバー世代や子どもたちの音楽活動などを支援する。現在、岐阜聖徳学園大と大垣女子短大で講師を務める。家族は夫と息子。

 

図1 大垣市学習館音楽堂

図2~8 出演者達

図7、8 石原佳世・岡崎章のピアノデュオ演奏

図8 全員で記念撮影 

図6 皆の記念撮影を横でおばあちゃんが見守る姿は微笑ましい

 

2017-08-29

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2017年7月28日 (金)

人生能舞台という音楽発表会(改定)

 人生の舞台とは、幕が上がっている間だけが舞台ではない。幕が上がるまでの血みどろな練習、舞台への階段を上がる時の挙動、舞台を下りるときの後姿も全て人生劇場の演技である。観客が見る舞台での演技は一コマに過ぎない。一刻たりとも気を抜けない。観客は見ていなくても、神様仏様そして内なる己という佛が見つめている。

 舞台での一番の見せ場が、曼荼羅で言えば中心の大日如来である。その一番の見せ場を盛り上げるため、各場面での佛達の演技がある。すべて見せ場のための脇役である。それが大日如来を支える観音菩薩であり、四天王であり、邪鬼である。歌舞伎でも脇役がいて主役を支えている。脇役無き主役など存在しない。邪鬼あっての四天王である。脇役としてお役を頂いたら、どれだけ脇役に徹することが出来るか、それが将来主役を演じるときの練習となる。

 一局を舞い舞台を下りて初めて「人生曼荼羅の織物」での横糸を形作る一尊が完成する。人生とはその連綿とした行動の積み重ねである。観客が見ている時だけが、舞台ではない。人生とは、1875尊が演じる曼荼羅である。どんな役者も最初は脇役である。最初から主役を演じるエリートは、晩年にその借金を払う。

音楽発表会

 2017年7月23日(日)、大垣フォーラムホテルの「天の間」で、「かすみの会」(代表・河村義子)と「音えんぴつ」(代表・伊藤応子)主催の音楽発表会があり、私は河村先生の依頼で写真撮影に赴いた。私はその発表会を見て、能舞台を連想してしまった。役者(演奏者)は5歳から40歳代までの23名である。演奏者は一言も発せず、舞台に上がり観客に一礼をしてピアノに向かう。ある子は能芸者として歌を披露。ひたすらピアノを弾き、歌って、演奏が終われば一礼をして舞台から降りる。その一挙一動作が能の舞台役者である。それよりも舞台に上がる前の練習が、大舞台であったはず。演奏会という能舞台では、一人で全役を務める大役である。

演奏会場の雰囲気

 今回の大垣フォーラムホテルの会場は、95名の観客席で、昔の宮廷音楽会を連想させられた。大ホールのような大上段に構えるのではなく、同じ視線で音楽が楽しめた。弾くほうも身近に聴衆の目と耳を意識しての演奏である。将来、プロを目指している子は、大垣市の音楽堂での演奏を希望するようだ。どちらも捨てがたい魅力があり、毎年、交互に開催すればよいかもしれない。

 惜しむらくは、ピアノが40年程前のヤマハのグランドピアノG3であった。大垣は水の都で、ウィーンとも友好のある音楽の都である。大垣市スイトピアセンター学習館の音楽堂は、日本百選の選ばれている名ホールである。調律師が苦労をして調律をしたので問題がないが、大垣市で一番格式あるホテルとして、もっと良いピアノがあると市民から喜ばれるだろう。

能舞台の人生スタイル

 事前に登録したメッセージを司会者が紹介した後、本人は一言も発せず、ピアノに向かい弾く。ある人は頭をかしげてピアノを弾き、音楽にのって体を動かしながら、ある子はひたすら背筋を伸ばしてまっすぐ前を凝視してピアノを弾く。座る椅子の高さを真剣な目で調整して着座する子。

 最年少の5歳の女の子が「初めての舞台です。緊張していますが、一生懸命に弾きます」との司会者からの代読メッセージが流れる中、ピアノを健気に弾いたのは微笑ましく可愛くあった。舞台に立ち、床の印の位置で一礼して、観客席の親に視線を向けたしぐさが微笑ましい。一緒に連弾した河村先生が優しく見守りながらの演奏であった。5歳で初舞台とは偉いな....。(私も河村先生から、発表会に出なさいと「脅迫?」されているが、逃げ回っている....(^-^;)

 この演奏会を区切りに受験勉強に専念しますと宣言した高校生もいた。ニコリともせず能面のような表情でピアノを弾く子もいた。よほど緊張しているようだ。事情を聞けば直前まで上手く弾けず、一夜漬けみたいな猛練習をして当日に臨んだようだ。それも人生である。同じような経験が今後、立て続けに起こるはず。この修羅場のような経験がきっと活きるはず。若い学生が男女で連弾をした。息を合わすのに大変な練習が必要であったはず。それでも、晴れ舞台の発表会で皆さんが間違えず立派に弾いたので素晴らしかった。ここから近い将来、国際舞台で活躍する子が巣立っていくことを祈念したい。

 ハラハラドキドキは観客の親御さんの方である。多くの親御さん方がカメラを持ち、ビデオを回し、緊張して我が子の演奏を見守っていた。演奏会後に、舞台で記念撮影をしている家族が多くいて微笑ましい。そんな愛情を与えられた子からは不良はでまい。

ゲームの邪鬼が人生を食い殺す

 芸を習うとは、自己を習い、自己と向き合い、自分つくりである。若い時に快楽に流した時間は、大人になって涙となって返ってくる。最近はピアノ等の芸事の稽古でなく、同じ時間をゲームに没頭する子が多い。しかしゲーム大会で一番をとっても、誰も褒めてくれまい。親も自慢したくもない。10年後に芸事に励んだ子と、ゲームで時間を無為に過ごした子と人格が同じであるはずがない。本人ではなく、親がわが子の躾に失敗して、子供の犯罪で後悔の涙を流すときもある。どれだけゲームに時間をかけても、精神の成長にはなんの役にも立たない。その分、成長の時間が削がれる。なんら生産性の向上、人格の向上に役立たないゲームへの没頭は亡国の前兆である。私も一時期、パソコンゲームの「上海」に取りつかれたことがあるが、これは中毒みたいなものだ。その後に時間を無駄にしたとの後悔の念が残るだけ。ゲームで殺人ゲームをしても、リセットすればそれで生き返る。そんな感覚をゲームで飼育された少年達が、いじめや凄惨な殺人事件を起こしている。そんなゲーム事業で業績回復をしようとしているソニーは許せない。ソニーの社是にゲームで日本人を不幸にするとは書いていない。草葉の陰で創業者の井深さんが泣いている。

 

スマホのゲーム利用者は約6割・・・・うち半数が毎日ゲームを起動

 MMD研究所は、「スマートフォンゲームに関する調査(利用実態編)」を実施した。同調査によると、スマートフォン所有者のうち、ゲームを利用したことがある人は61.7%で、そのうちの51.6%がゲームを毎日起動することがわかった。

 スマートフォンゲームの1日の平均起動時間は、77.1%が30分未満である一方、10.3%の人は1時間以上であった。調査期間は、8月8日から8月11日。調査対象はスマートフォンを所有している15歳~う59歳の男女566人。(インターネットコム) (2013年8月21日 読売新聞)

 

図1 最年少演奏者。きちんと床の印の場所に立って一礼

   観客席の親に向けるまなざしが可愛い

図2 お姉さんがタンバリンで伴奏をしながら優しくサポート

図3、4 最年少演奏者と河村先生が連弾

図5 河村先生と連弾

図6 先生が優しくサポート

図7~8 ピアノ伴奏での独唱。伴奏は河村先生、伊藤美幸先生

図9 ピアノの他にトロンボーンもの多才な神徳くん。伴奏は伊藤応子先生

図10 椅子の高さを真剣なまなざしで調整

図11 吾が子の演奏にやきもき

図12 演奏会後、先生から講評と花束をもらう

図13 出演者全員で記念撮影

図14 人生は能舞台

図15 過去から未来へ「人生曼荼羅の織物」

 

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2017年7月18日 (火)

ジャズ喫茶からヤマハジャズクラブへ 3/3

演奏会の収支

 ヤマハジャズクラブ演奏会のチケット代は3,000円、入場者は多くて100~150名で全収入は30~45万円である。そこから5人のジャズメンに出演料、交通費、宿泊費、食事代等を払うので、各ジャズメンにはそんなに多くのお金は渡らない。東京のジャズメンだと、2日間を拘束される。それで一人10万円以下の収入である。たまたまヤマハさんのご支援があり、ヤマハホールの利用料が無料であるのが救いであった。そのコンサートも毎日あるわけではない。遠方だと、内田先生が岡崎の病院に泊めて宿泊費を負担されていた。内田先生の全面的支援なくしてヤマハジャズクラブの活動はありえないのが実情であった。

人生舞台の収支

 ライブハウス・ラブリーでの打上会時、隣に座ったジャズメンが私に「今の仕事が充実していますか?」と聞いたので胸を張って「yes」と言えたのが、今では懐かしい。彼がそんな質問をすること事態、ジャズメンの生活が厳しく、将来に希望が見出せない生活をしていたのかもしれない。超一流以外の音楽家では、生活を立てるのはかなり難しい。特にジャズは儲からない。クラッシック音楽家でさえ儲からない。その道で生計を立てるのは大変である。音楽の練習にかける時間と情熱を、他のビジネスに向ければ大成功間違いなしなのだが、音楽の世界ではままならぬ。それでも人生好事魔多しで、音楽を目指す人は減らない。それだけ音楽に魅力があり、日本の文化が熟成してきた証であろう。音楽は好きでないとやれない職業である。ヤマハジャズクラブで活動して、ジャズメンの生活を垣間見ることで、自分の恵まれた仕事環境を確認できた場でもあった。

「今の仕事が充実していますか?」

 当時は胸を張って「yes」と答えたが、その後の会社人生で、いつもyesと答えらえられない自分がいたのは冷酷な現実である。会社人生は山あり谷ありである。今振り返ってみて、仕事そのものに没頭できている時ほど幸せな時期はない。それが仕事そのもの(私の場合は製品開発)に没頭できればまだしも、職位が上がって管理職としての仕事が入ってくると、そうもいかない。係長ならまだしも、課長や室長の中間管理職になると、上下の圧力で押しつぶされそうになったことが、何度もあった。「yes」とは言えない時期の方が多い。しかしそれがあったからこそ、今の自分がある。人生舞台で多くの経験と試練を受けたことに感謝です。

 好きな技術の世界ではなく、給与の高さに目がくらみ金融業で働くのが幸せとは限らない。銀行等で成績を出すため必死に働かされ、50歳前に支店長になれなければ、銀行から出されてしまう。その出向先で、その会社の社長に気に入られなければ最悪である。その時、己に何の腕・技術があるかが問われる。なければ路頭に迷う。たとえ支店長になっても上司から「お前の代わりは幾らでもいる。首になりたくなければ、死ぬまで働け。明日までに目標を達成しろ」と言われる修羅場の世界があることを最近知った。そしてその銀行の元支店長経験者の平均寿命は、日本人のそれより10年も短い。給与が安くても、音楽や自分が選んだ好きな世界で生きるほうが幸せである。人生はお金ではないのだ。それが分かるのは還暦後である。でもその時では遅いのだ。

芸術とは「匂い草」

 芸術の「芸」とは、草冠と「云う」から構成される。「云う」は匂うの意味で、「匂い草」の意味である。ある時期、ある場所、ある人には、良い香りで受け入れられるが、それが何時で何処でも誰にでも、通用するわけではない。何時でも何処でも誰にでも通用する世界が、「法」である。それ故、芸術家で、成功する人は生きた時代で、たまたまピンポイントにその世相に合致したごく少数の人だけである。凡人には、お金のためといっては語弊があるが、まず生活の確保が必要である。非凡な才能があっても芸術家は、全員が稼げるわけではない厳しい世界である。昔のヨーロッパの音楽・絵画・彫刻の芸術家でも、パトロンがいて生活が成り立っていた。多くの音楽家は恵まれず、天才のシューマンでも極貧のうちに亡くなった。ゴッホもモーツアルトもレンブラントも極貧のうちに死んだ。死後に世相が変わり、その芸術性が受け入れられて、評価されたに過ぎない。しかし、その時には当人の芸術家には遅いのだ。それでも自分を信じて自分の芸術を創造し続けるのが、真の芸術家である。私の場合、凡人の才能で、自動車産業という恵まれた環境でメシを食えて、その片手間の趣味で音楽が楽しめたのは幸せであった。今、人生を振り返り実感する。

 

図1~4 演奏会後のライブハウス・ラブリーでの打上会での思い出の写真。図3の中央は岐阜のジャズ喫茶ゴーストのママ。ママは皆さんの憧れのマドンナであった。私もゴーストにはよく通った。

 

2017-07-18

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2017年7月17日 (月)

ジャズ喫茶からヤマハジャズクラブへ 2/3

第100回記念コンサート

 ヤマハジャズクラブ入会後、数年した1981年に100回記念のコンサートに出会うご縁を頂いた。営利目的でないジャズの演奏会が100回も続き、その記念コンサートである。それも内田先生の長年の尽力の現れである。それをお手伝いさせていただく機会に出会えたのも、ご縁である。

 聴衆は200名を超え大盛況であった。会場は日本楽器名古屋店の7階ホールである。日本を代表するジャズメンが集まり、お祝いとしてのコンサートが4時間半にわたり開催された。当時、これだけの著名なジャズメンが小さなジャズクラブのコンサート集まった事例はないのではないかと思う。全て内田先生の人徳である。会場は樽酒、升酒も振舞われ大盛況であった。その日は、私は照明係を担当した。たかが照明、されど照明、日本を代表するジャズメンの演奏会で初めて照明係を担当して緊張した。その7階ホールも、2017年現在は改装されて、半分の大きさになっている。ヤマハジャズクラブコンサートは150回まで続いたが、1997年、内田先生の引退で幕を閉じた。内田先生は、収集したジャズ関係のLPや資料、スタジオ施設を岡崎市に寄付された。今、岡崎図書館に展示されている。

 

図1 コンサート風景

図2 コンサート風景

図3 コンサート終了後の記念撮影

   前列中央に渡辺貞夫氏と内田修先生

   前列左端 伊藤邦治会長、2列目中央に著者

図4 当日の演奏プログラム

 

2017-07-17

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2017年7月16日 (日)

ジャズ喫茶からヤマハジャズクラブへ 1/3

内田修先生の逝去

 日本のジャズの父と言われた内田修先生が、2016年12月11日、肺炎のため87歳で亡くなられたことを、ブログのために己の音楽経歴でこの件を調べていて知った。これも「馬場恵峰卒寿写経書展写真集」出版から生じた佛縁である。このニュースが手元に届かなかったのが残念であったが、これもご縁である。直前の2017年4月6日(木)に先生の追悼コンサートがヤマハビルであった。その頃は、出版準備と渡欧の準備で忙殺されていた。ご冥福をお祈り申し上げます。

ヤマハジャズクラブへ

 学生時代からジャズに興味がありLPレコード収集やジャズ喫茶めぐりをしていた。ジャズ喫茶やレコード店に通ううち、ヤマハジャズクラブの存在を知り、お願いしてスタッフにして頂いた。ヤマハジャズクラブの主催者は内田修先生である。活動内容は、年に数回ある演奏会の企画・運営のお手伝いである。当初から、演奏会のチケットの販売ノルマがあることは承知していたので、数枚売って、残りは自己負担でもいいなと甘い考えであったが、事態はそんなにも甘くなかった。まず全く売れない。無償で進呈しても受け取ってもらえない。交友関係にそんなにジャズを好きな人はいない。また当時は日本経済の高度成長の最盛期で、回りの仲間は残業につぐ残業で、わざわざ時間外の夕刻に、勤務地から名古屋市納屋橋まで出かけてジャズ演奏を聴くという余裕は無かった。皆さんひたすら働いていた。定時の帰るのさえ気が引けた時代である。そんななか演奏会に知った人がこないと、肩身が狭いのである。チケット代は負担しているのだが、会場に知った人がいないのは辛いもの。

 私も3、4年ほど活動したら、工作機械見本市出品機の開発にどっぷりつかるようになり、平日は深夜まで働き、土日も無いような状態になり、ヤマハジャズクラブのスタッフ会議にも出られなくなり自然退会になってしまった。

内田先生宅のスタジオ

 内田先生は自宅の半地下の一室にスタジオを設置されていた。ここで先生の懇意のジャズメンが集まり録音をしたテープ、レコードも多い。LPレコードの総数が3万枚とかで、羨ましさを通り越して、違う世界の話として羨む気持ちも起きなかった。図1の写真は整然とされた状態で展示されているが、当時は、レコードや他のジャズ関係の品々で溢れて洪水のようだった。

 内田先生宅のスタジオには3万枚のレコード収集の宝庫があって圧倒された思い出がある。ちなみに先生に、「このレコードの全部聞いたのですか」と伺ったら、「ノー」であって少し安心した。先生のところへ、関係者が無償で毎月、多くのレコードを送ってくるようだ。嫌でも集まってしまうとか。今、冷静に考えてみると、3万枚のレコードを試聴するとなると3万時間弱の時間を要する。普通の仕事人が有効就労期間中に取れる時間は、4時間×365日×40年で計58,400時間である。その過半の時間をジャズ音楽のレコード鑑賞だけに費やせるわけが無い。特に内田先生は、大きな病院の院長先生である。そんな時間を付加価値の生まない鑑賞だけに使うはずが無い。

内田先生の奥様とのご縁

 内田先生は奥様を乳がんでなくされた。その手術も内田先生が執刀されたが、妻にメスを入れる辛さと、結果として1982年12月26日に亡くなられた不幸を慮ると忍びないものがある。なまじっか己の腕にガンの手術する技があるのも残酷な運命である。奥様のガンを直すことができればまだしもであった。

 生前、奥様は内田先生がジャズにお金を使い過ぎるのをスタッフの世話人に嘆かれていた。我々スタッフの前では、にこやかに迎え入れて頂いたが、10名ほどのスタッフが先生宅で打ち合わせのため出入りするだけでもかなりの出費である。まして日本のジャズの父として、経済面で恵まれないジャズメンの多くを面倒見た先生の財政的負担は大きかったはず。病気のミュージシャンがいれば自分の病院で診察して療養させ、お金や住まいに困っていれば自宅に呼んで何日も過ごさせるなど、彼らの心身のケアを買って出られた。1975年、日野皓正が渡米前に健康診断のため内田病院を訪問。1977年、内田病院に入院していた久野史郎が逝去。1981年、宮沢昭が内田病院で手術を受け、2ヶ月間入院。1982年、渡辺貞夫が内田病院に入院とお世話になったジャズメンは数知れず、である。それを陰で支えたのが隆子奥様である。お金の面は内田先生がされたが、実際の面倒は奥様がされたはずである。内田隆子奥様は日本ジャズ界のマリア様のような存在であった。その多くのジャズメンの面倒を見る心労が、ガンの遠因となったのではないかと思う。改めてご冥福をお祈り申し上げます。

 当時、ヤマハジャズクラブのスタッフの集まりが岡崎市の内田先生宅で開催され、20時ごろから始まり終わりが深夜に及ぶ。そのため、終電車がなくなり、いつも奥様に案内をしていただき、内田病院の病室に泊めて頂いた。これが契機で車を買う決心がつき、1978年にカリーナ1600ccを購入した。回りの会社仲間に比べれば5年遅れの入手である。

冨田家とのご縁

 内田隆子奥様は冨田家の出身であった。冨田家は岡崎市の名家で、世界的なシンセサイザー奏者の冨田勲氏もこの家系である。また冨田環社長は、私の入社時の社長である。冨田社長は昭和45年(1970年)から昭和50年(1975年)まで社長を務められ、その後会長として昭和56年(1971年)まで勤められた。私の入社後、8年間がご縁のあった時期である。平成2年(1990年)12月、冨田環最高顧問(当時)の葬儀では、お手伝いをするご縁を頂いた。関係ある各部で、各1名の幹部がお手伝いに参上した。その一人に選ばれたことに感謝している。思えばその当時が、前職の会社の全盛期であった。1991年にバブルがはじけて、前職の会社は地獄の奈落に転落する。

 

図1 岡崎図書館に寄贈された内田先生の録音スタジオの機器

   当時の情景が再現されている

図2 隆子夫人全快祝いセッションの打ち上げ会で内田先生ご夫妻。

   その全快祝いの1ヵ月後の信じられない突然の訃報であった。

   1982年11月22日 伊藤邦治氏撮影

図3 内田先生と私(奥側)

  演奏会後の打上会で(1978年ごろ)

 

2017-07-16

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2017年7月 7日 (金)

ヤマハ掛川本社 ピアノ工場見学

 技術者(自動車部品開発者、工作機械開発者、生産技術開発者、人材育成担当者)としてピアノ製造工程に興味があり、その見学をお願いして、2013年12月17日、名古屋の販売課長の小川さんの案内で掛川の本社工場を見学した。普通は10名位のグループで見学ツアーを組むのだが、たまたま当日の見学者は私だけという幸運に恵まれた。工場案内者の西郷さんに各工程を案内して頂いた。

 ショールームには、明治天皇がお買い上げされ、練習もされたという1903年製造のピアノの音色を真横で聞かせていただいた。案内の西郷さんがスケールを弾いた。ピアノが「ご高齢」で完全な調律ができない状態とのことで、スケールを弾いただけで曲は弾かれなかった。それでも明治天皇が弾かれた音色と思いを馳せると何か感じるものがある。弾くことを勧められたが、畏れ多く辞退した。今思うと少し残念であった。このピアノは大阪の博覧会に出品され1等賞を獲得し、天皇家がお買い上げになった。その後、民間に払い下げられ、幾多のご縁を経て、ヤマハ本社に戻ったという。現在、近代化産業遺産として登録されている歴史の証人である。

 20世紀最大のピアニストと称されたロシアのスヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテルが来日時、演奏会で使ったコンサートピアノの前で記念撮影をした。早く弾けるようになりたいもの。しかし、この時も今も私はまだリヒテルの偉大さが理解できていない。なにせレコードを聴いていないので評価をしようがない。今まではジャズ一本槍で、まだクラッシックに疎く、興味を持ち始めたったばかりで、その面の知識が疎い。

ショールーム全体の雰囲気は素晴らしい。

 惜しむらくは、創業者の紹介パネルの英文である。学校英語の書き方で、世界の音楽家や著名人が見学に訪れるヤマハの看板ショールームのパネルとしてお粗末である。テクニカルライティングにこだわりのある私から見て、ビジネスとしての正しい簡潔な英語になっていないのが残念である。英語ができるのと、世界に通用するビジネス英文を書けるのとは、全く別の世界である。外国なら子供でも英語ができる。しかしその英語は、ビジネス社会では通用しない。それは日本語でも同じである。またルビが振ってある日本語であるが、小さい子を対象としたのは分かるが、ピアノを弾くようなレベルの高い子を対象にしているはずで、ルビは不要ではないか。これを読む大多数の人には、ルビはうっとうしい。

 この時点(2013年12月)では、猫足のピアノを発注したばかりで、納期は半年先であった。2014年4月1日の消費税8%アップ前に、おりこうさんな猫足のピアノは、3月末に滑り込みセーフで日暮れの夕刻、猫足でソーッと自宅にやってきた。

 

図1 明治天皇ご愛用のピアノ

図2 説明書

図3 最初のオルガン

図4 日本楽器製造株式の表示のあるピアノ

図5 昭和初期のピアノ

図6 小室哲哉のスペシャルEXPOピアノ

図7 リヒテルが使ったピアノ

図8 リヒテルのピアノの前で

図9 ヤマハ創業者 山葉寅楠の説明パネル

図9 ヤマハショールーム

 

2017-07-07

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2017年6月21日 (水)

ピアノが奏でる人生(改定)

 ピアノはハンマーでピアノ線の弦を叩くことで音を創る。大きく叩けば大きな音が生まれ、小さく叩けば小さく鳴る。弦が叩かれて共鳴板に響いた大きな音も、何時かは闇夜のしじまに消える。大きなエネルギーを持って生まれた音も、何時かは無の空間に引き戻される。音楽として連続した音を出すには、ハンマーで弦を叩き続けなければ、音は静寂の中に消えてゆく。叩いて音を出し続けてこそ、ピアノは音楽を奏でることができる。

 

 人として生を受けても、いつかは死の世界に引き戻される。生まれた以上は、世を響かせる音を出すことだ。人間として世の中に問いを発し続けてこそ、生きている証である。それの問いが消えたとき、静寂な死の世界が広がる。

 世の中に響かない活動は、死の演奏である。動いて、話して、書いて、モノを生み出してこそ、世に問う音が響く。世の中という共鳴板に共鳴してこそ価値がある。己の力で鳴らない隣の弦を共鳴させてこそ生きている証である。ベーゼンドルファーのピアノ(92鍵)にあるプラス9本の弦は、弾かれず鳴りはしないが共鳴して音に芳穠さを与える。自分の弦を鳴らしても、単弦が鳴るだけでは、音は死の闇に吸い込まれる。デッドの人生劇場では成果が闇に吸い込まれる。場と付き合う人を変えて、ライブの世界に身を転じてこそ、仕事をする価値が生まれる。出した音に共鳴してくれる聴衆があっての人生である。

 

 同じ鍵盤を弾いても、ハンマーが叩いて出す音は同じではない。叩く速度や加速度が違えば音も変わる。だから何千回、何万回と弾き込まないと納得できる音は完成しない。練習の励むのは技量を身につけるためだけではない。人間としての変容を目指すのだ。人間が変容してこそ、出す音が変わる。自分の修行(練習)量によって出る音に差があることが分かるには、鍛錬という修行をつんだ後である。職人として同じ製品を作るにしても、名人と呼ばれる人は、日々向上を目指しており、その作品に違いが生まれる。同じ鍵盤を叩いても、回りの状況や指に込める思いの差により、出てくる音は輝きもするし、悲しみを漂わせる音色ともなる。出す音は、回りで自分を支える聴衆とのハーモニーなのだ。

 

人生のご縁が並ぶ鍵盤の前で、どのキーを弾くかは自由である。自分と言うハンマーでご縁を叩いた結果が、自分の命の響きなのだ。「命」とは、「人」を棒(「―」)で「叩」くと書く。人の人格では、ご縁(仕事・人・事件)の叩き方が問われる。一音一音を叮嚀に慎重に心を込めて叩きたい。

 

 私はいくら指が動いても音に輝きがなかったら、ピアノ本来の持っている良さは出ないと思うんです。確かに指が動くことも大事ですが、良い音色を出せるか否かは、自分の耳が納得するまで、その音を何千回、何万回と繰り返すことでしょうか。(ピアニスト 川上ミネ 『致知 2014-2 p76』)

 

自分が生きた証を音の余韻として、どれだけ永く世に残せるかが、生き様として問われる。人生舞台の幕が開き、自分の仕事(演奏)が人生ホールに響き渡る。幕が開く前の血の滲む訓練が問われる瞬間である。自分が鍵盤を叩いた練習量に比例してその音は遠くにまで響いていく。そのエンディングでどんな曲を奏でるのかを考えたい。死に様まで考えた編曲・演奏をして、人生劇場を飾りたいと思う。幕は下りても演奏の余韻は残る。心地よい余韻を残して人生舞台を去りたいと思う。

 

ウィーン楽友協会資料室長のビーバー・オットー博士博士の漢字名は、「音 美波」である。サントリーホールの社長の命名とか。あまりのぴったりの名で感心してしまった。音は空気の振動である波による現象である。波は水の振動である。船が港を離れて沖に向かっていくとき、その後には航跡が残る。人が浄土の旅立つさまは、船が汽笛を鳴らして静々と岸から離れてゆく状況によく似ている。その航跡を乱れた跡ではなく、美しい航跡として長く人の目に焼き付けて去りたいものだ。

  

図1 ベーゼンドルファーを弾く河村義子先生(2017年6月19日 大垣市音楽堂)

図2、3 サマランカホール(岐阜市)

久志能幾研究所 小田泰仙記 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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書の著作権は馬場恵峰師にあります。所有権は久志能幾研究所にあります。

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