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2017年6月21日 (水)

ピアノが奏でる人生(改定)

 ピアノはハンマーでピアノ線の弦を叩くことで音を創る。大きく叩けば大きな音が生まれ、小さく叩けば小さく鳴る。弦が叩かれて共鳴板に響いた大きな音も、何時かは闇夜のしじまに消える。大きなエネルギーを持って生まれた音も、何時かは無の空間に引き戻される。音楽として連続した音を出すには、ハンマーで弦を叩き続けなければ、音は静寂の中に消えてゆく。叩いて音を出し続けてこそ、ピアノは音楽を奏でることができる。

 

 人として生を受けても、いつかは死の世界に引き戻される。生まれた以上は、世を響かせる音を出すことだ。人間として世の中に問いを発し続けてこそ、生きている証である。それの問いが消えたとき、静寂な死の世界が広がる。

 世の中に響かない活動は、死の演奏である。動いて、話して、書いて、モノを生み出してこそ、世に問う音が響く。世の中という共鳴板に共鳴してこそ価値がある。己の力で鳴らない隣の弦を共鳴させてこそ生きている証である。ベーゼンドルファーのピアノ(92鍵)にあるプラス9本の弦は、弾かれず鳴りはしないが共鳴して音に芳穠さを与える。自分の弦を鳴らしても、単弦が鳴るだけでは、音は死の闇に吸い込まれる。デッドの人生劇場では成果が闇に吸い込まれる。場と付き合う人を変えて、ライブの世界に身を転じてこそ、仕事をする価値が生まれる。出した音に共鳴してくれる聴衆があっての人生である。

 

 同じ鍵盤を弾いても、ハンマーが叩いて出す音は同じではない。叩く速度や加速度が違えば音も変わる。だから何千回、何万回と弾き込まないと納得できる音は完成しない。練習の励むのは技量を身につけるためだけではない。人間としての変容を目指すのだ。人間が変容してこそ、出す音が変わる。自分の修行(練習)量によって出る音に差があることが分かるには、鍛錬という修行をつんだ後である。職人として同じ製品を作るにしても、名人と呼ばれる人は、日々向上を目指しており、その作品に違いが生まれる。同じ鍵盤を叩いても、回りの状況や指に込める思いの差により、出てくる音は輝きもするし、悲しみを漂わせる音色ともなる。出す音は、回りで自分を支える聴衆とのハーモニーなのだ。

 

人生のご縁が並ぶ鍵盤の前で、どのキーを弾くかは自由である。自分と言うハンマーでご縁を叩いた結果が、自分の命の響きなのだ。「命」とは、「人」を棒(「―」)で「叩」くと書く。人の人格では、ご縁(仕事・人・事件)の叩き方が問われる。一音一音を叮嚀に慎重に心を込めて叩きたい。

 

 私はいくら指が動いても音に輝きがなかったら、ピアノ本来の持っている良さは出ないと思うんです。確かに指が動くことも大事ですが、良い音色を出せるか否かは、自分の耳が納得するまで、その音を何千回、何万回と繰り返すことでしょうか。(ピアニスト 川上ミネ 『致知 2014-2 p76』)

 

自分が生きた証を音の余韻として、どれだけ永く世に残せるかが、生き様として問われる。人生舞台の幕が開き、自分の仕事(演奏)が人生ホールに響き渡る。幕が開く前の血の滲む訓練が問われる瞬間である。自分が鍵盤を叩いた練習量に比例してその音は遠くにまで響いていく。そのエンディングでどんな曲を奏でるのかを考えたい。死に様まで考えた編曲・演奏をして、人生劇場を飾りたいと思う。幕は下りても演奏の余韻は残る。心地よい余韻を残して人生舞台を去りたいと思う。

 

ウィーン楽友協会資料室長のビーバー・オットー博士博士の漢字名は、「音 美波」である。サントリーホールの社長の命名とか。あまりのぴったりの名で感心してしまった。音は空気の振動である波による現象である。波は水の振動である。船が港を離れて沖に向かっていくとき、その後には航跡が残る。人が浄土の旅立つさまは、船が汽笛を鳴らして静々と岸から離れてゆく状況によく似ている。その航跡を乱れた跡ではなく、美しい航跡として長く人の目に焼き付けて去りたいものだ。

  

図1 ベーゼンドルファーを弾く河村義子先生(2017年6月19日 大垣市音楽堂)

図2、3 サマランカホール(岐阜市)

久志能幾研究所 小田泰仙記 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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