ma_人生経営・会社経営 Feed

2017年11月 9日 (木)

正しく見ていますか? 見えていますか?

 2017年11月9日~14日、大佛師松本明慶仏像彫刻展が、東武百貨店池袋店で開催されている。私は、本日東京に出かけた。会場には560点(公式には540点)の仏像彫刻作品が展示された。通常のこの種の彫刻展では300点ほど展示であるが、今回は非常に数が多かったので、見回るに大変であった。その詳細は、後日報告します。

 東京に向かう新幹線の中で、珍しく進行方向左側の席になり、天候が良かったので「左手に富士山が良く見えます」との車内アナウンスで、思わずお上りさんの如く、カメラを向けて写真を撮ってしまった。そこで新しい発見があった。

 

現代の歪んだ風景

 シャッター速度2000~250分の一で写った写真を見て考えてしまった。遠くの富士山は美しく写っているが、手前の電柱や建物が傾斜して歪んで写っている。これは電子シャッター特有の現象であるが、これで現代の歪んだ世相に考えが及んでしまった。

 現代のマスコミ上では、フェイクニュースや偏向記事が氾濫している。真実の姿が、誇張されて、故意に事実が歪められ、我々に伝えられている。それは属してる社会、会社、時代、組織が超スピードで走っているため、誰かの利益のため、歪んで我々に真実の姿が伝えられ、我々の目には歪んで映されているためである。その事実が歪んでいることに多くに人は気が付いていない。多くの人は洗脳教育の如く、それが真実だと思いこまされてしまっている。

 遠くのもの(古典、経典、故事、偉人の真言)は、時代が変わっても風雪に耐えた事実であるので、歪まずに我々に正しく伝わってくる。我々は、素直な目で近直のものを見ないと、道を誤る。それを、今日の富士山の写真を見て感じた。富士山は千年の時代を通して美しい姿を我々の目に写してくれる。大佛師松本明慶仏像彫刻展に出向くので、そのご褒美で仏様が与えてくれたご縁であったようだ。

 

図1~3 歪んだ鉄塔、電柱、建物

   遠くの富士山は美しくそびえている。

 

1p1030870

2p1030873

3p1030875

2017-11-09

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年11月 1日 (水)

機内映像がローマ帝国終末を彷彿とさせる

 私は年に12回ほど、恵峰師書の写真撮影と通院のため、中部国際空港と長崎間を航空機で往復している。その航空機の機内放映の内容が、退廃したローマ時代末期の飽食の様を見るようで辛い。ローマ帝国の滅亡は、外敵の侵略のためではない。ローマ人が退廃して内部から崩壊したのだ。飽食に明け暮れ、飽食を宣伝し、TVグルメ番組が幅を利かす日本の現状は、ローマ時代末期の飽食の様と同じではないのか。日本は金儲け主義の企業が、日本人を衰退の道に追いやっている。航空会社の企業使命は、乗客を安全・安心・快適に目的地に運ぶこと。この機内放映行為は会社理念に反している。現在は、安全・安心・不快適である。これは現在のテレビ番組も同じである。

 

痴呆番組を見せる拷問

 機内放送の映像では、食べるシーンばかりのCM映像を何度も何度も流す。僅か小一時間内に、多い時は10~20回も、である。「うまい、うまい!」といって恍惚の表情を浮かべる痴呆的な顔の映像を、何度も繰り返し見せるのは映像暴力である。見るに耐えられず不愉快になる。機内で身動きが取れないので、目に飛び込んでくるのを拒否もできない。身動きもできず、見たくないものを強引に見せられるのは拷問である。新幹線や他の乗り物では、こんな拷問はない。テレビなら消せばよいが機内放送では、それもできない。海外の航空会社でもこんな拷問はない。いつから日本は、人の食べる姿を見せつける下品な会社が跋扈する国に成り下がったのだろうか。

 

金儲けの果ての姿

 最近の日本は隣国のように段々と下品になってきている。日本人の品格下落の助長を日本を代表する航空会社がやっている。金儲け万能の会社と思わざるを得ない。日本人は食いすぎで病気になり、30年前は10兆円であった医療費が40兆円になり、その負担を国民に強いている。その一因が、あまりに多い食物関係、特にファーストフード・清涼飲料、加工食品関係のTVのCMではないだろうか。その延長線上の病状が、肥満、ガン、認知症患者の増加である。金儲け主義のグローバル経済主義の果てが、1%の富裕層と99%の貧困層の格差社会への転落なのだ。テレビという洗脳教育兵器の恐ろしさに、目が覚めないわが国民が情けない。最近は、そのテレビも偏向報道、フェイクニュースを平気で流す媒体にまで堕落した。そのマスコミは、良識から指摘があってもそれに対して居直る恥知らずである。早く我々が目を覚まさないと日本が滅亡する。

 

サブリミナル効果という犯罪

 映画のフレームの中にポップコーン等のジャックフードの画像を挿入すると、映画放映の休息時間に、無性にその食べ物を食べたくなるのをサブリミナル効果という。それは法律で禁止された手段である。それと同じことを、堂々と機内放送で実行しているのが現在の国内航空会社である。テレビなら消せばよいが、機内では如何ともしようがない。中部国際空港から長崎への便は限定される。客は航空会社を選べない。これは、陰でこそこそするサブリミナル効果どころではなく、堂々としたメインリミナル効果である。これは暴力である。

 教養の高い人は公衆の面前で、生理現象である食べる姿は見せない。痴呆的な表情で食べ続ける姿を、「金儲けのため」に乗客に見せる企業行動は狂気である。そのために高い航空運賃を払っているのではない。繰り返し飽食の映像の放映は洗脳教育の一種で、日本人の愚民化に手を貸している。これは日本を代表する航空会社の企業ブランド毀損悲劇の事例である。経営診断での興味深い「失敗事例」にはなる。私は今、執筆中の本の事例に、本件を追加する予定をしている。

 

サブリミナル効果

 1900年、米国の心理学教授Dunlapは瞬間的に見せるshadowがMüller-Lyer illusionの線の長さの判断に影響する、と述べた。20世紀半ばにはマーケティング業者が広告にその技術を用い始めた。1973年には、ゲーム「Hūsker Dū?」の宣伝にサブリミナル刺激が用いられ、それが使われたという事実がウィルソン・ブライアン・キイの著書で指摘されたことで、米国連邦通信委員会で公聴会が開かれ、サブリミナル広告は禁止されることになった。日本では1995年に日本放送協会(NHK)が、1999年に日本民間放送連盟が、それぞれの番組放送基準でサブリミナル的表現方法を禁止することを明文化した。

 現在、映画やテレビ放送などではほとんどの場合、使用を禁止されている。

 当初は心理学、知覚心理学だけの領域であったが、現在は広告研究、感情研究、社会心理学、臨床心理学など幅広く様々な関心から研究されている。

 1957年9月から6週間にわたり、市場調査業者のJames M. Vicaryは、ニュージャージー州フォートリーの映画館で映画「ピクニック」の上映中に"実験"を行なったとされている。ヴィカリによると、映画が映写されているスクリーンの上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し二重映写(フィルムのフレームを差し替えたと信じている人が多いが誤解である)したところ、コカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことであった。しかし、ヴィカリは、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、この実験の内容と結果についての論文を発表しなかった。

   この項、wikipediaより編集

 

図1 機内のどこからもで食べるシーンを見せつけられる。

   嫌やでも目に飛び込んでくる。拷問である。

図2~7 食べるシーンが繰り返し繰り返し放映される

1p1090441

P5  

2017-11-01

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年10月25日 (水)

経営のカスの視える化と治療

病気の精密検査と治療

 2017年10月24日、日帰りで4か月毎の定期検診のため、久留米市の真島消化器クリニックに出かけた。その後、帰路の飛行機の時間までに余裕があったので太宰府天満宮にお参りをしてから帰宅した。天満宮参拝の話は、門前町の賑わいぶりに感心したので、第二報で報告する。

 4か月前の診察では、2017年4月の10日間のウィーン訪問での洋食のためか、血管に溜まったカス(プラーク)の改善が芳しくなかった。今回は、その後、それを反省して精進を重ね、その結果を楽しみに出かけた。その精進の甲斐があってか、血管プラークの症状はかなり改善された。2週間前の名古屋市立大学病院での目の網膜静脈閉塞症の診察でも、その症状がかなり改善された結果を得た。

 

図1 私の血管内にたまったプラーク層の改善

 1年前から改善。2017年10月24日 真島消化器クリニックにて

 プラークの厚み1.74mm →1.59mm→ 1.33mm

 放置すると高血圧が進み脳梗塞、心筋梗塞、ガン等を誘発する。

 

根本治療

 この病気の治療は基本的に食事療法である。糖分、油分を避けて野菜を豊富にした和食を摂る食事療法である。糖分や油分、ファーストフードなどの質の悪い食物が血管内にプラークを堆積させる。それが高血圧、脳梗塞、心筋梗塞、ガン等を誘発する。薬を飲んでの対処療法ではダメなのだ。真因を突き止め、治療として医食同源で、食事と生活スタイルを変えないと病気は治らない。その前に、現状把握として、自分の血管の状況がどうなっているかの検査が必要である。私は、4か月毎に真島消化器クリニックでプラークの厚みを検査してもらっている。大垣から久留米までの旅費は高額であるが、死病に罹ってから、「金は幾らでも出すから助けてくれ」と医師に泣きつくことを思えば安いもの。死んでもいい(?)が、健康は自分の手で守らなければ駄目である。生死は神仏の管轄範囲、健康は自分の管理項目である。

 

人生経営と持てる経営資源

 人生とは、一定量のご縁(人)、お金、寿命(時間)、情報という経営の資源「ヒト・モノ・金・情報」をいかに効率的に組み合わせて使って、どれだけの付加価値を後世に残すかである。どんなに資源を持ち過ぎても、人の寿命という時間制限があるので、余分な資源は無駄になるだけである。人の寿命もその範囲は10年20年程である。その値も人の長い歴史から言えば、誤差範囲である。どれだけ資源を集めても、持っていても、あの世には持って行けない。所詮、その資源は、人生仮想コインの利用回数券でしかない。使えなければビットコインも紙屑である。その人生仮想コインも、健康という使う為の道具を大事にしないと、賞味期限切れになってしまう。情報も頭に入れる量には限度がある。携帯の番号11桁が覚えられない人間様のオツムで、入れる量は知れている。どんなものでも一定量を超えると暴力になる。道でも流す車やモノが多すぎると大渋滞になる。水路でも、流す水が多すぎれば氾濫する。

 

人の病気と組織の病気は同じ

 組織でも、新陳代謝がなく大垣市のように17年間もの長期政権では、組織内に腐敗物が溜まり、組織が腐ってくる恐れがある。停滞すれば腐臭が漂う。長期になれば組織は硬直化して癒着も起きやすい。人の血管で例えれば、甘いもの、油分、人工の添加物を多くとれば、血管内部にプラークとして蓄積して、高血圧、脳梗塞、心筋梗塞、ガン等を誘発する。同じように組織でも、美味しい仕事や脂ぎった仕事で、甘い汁を吸い極楽を味わうとすると、物事が停滞して腐敗、汚職、市民無視、ヒラメ症状、お役人根性丸出しの症状になってしまう恐れがある。長期政権で癒着が横行しやすい環境になっている恐れもある。長がイエスマンのヒラメに取り囲まれて、頭を使わないからボケてきたのかもしれない。

 

大垣市都市構造の病気

 大垣市の都市構造でも、人間の組織構造と同じで、健康管理・設備管理を怠ると病気にもなる。老化した道路網を放置すると、渋滞が発生する。都市の病気である。体が弱るように、大垣市が衰退する。大垣駅前通り商店街のように。道路の排水設備を定期的に更新しないと、都市の大動脈の基幹道路で冠水、水没する事態となり、大垣市の経済血路の道路がマヒする。脳梗塞・心筋梗塞と同じである。この事象は全て、大垣市の行政の怠慢による人災である。 

図2 冠水した大垣市室村町アンダーパス(地下道)

昭和30年(1955)の建設以来62年間、設備更新を放置した結果である。

Photo

1p1090454

 

2017-10-25

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年10月22日 (日)

習字人生と書道人生の差

習字とは

 公益財団法人「日本習字教育財団」は、馬場恵峰師の師匠の原田観峰師が創業した。習字の「習」とは、白鳥の子(「白」が鳥の胴体を表す)が羽を広げて、親のお手本通りに飛ぶ練習をしている様を表す表形文字である。習字は、ひたすら師匠が提示した課題を書くことに尽きる。いかに師匠の字体に合うように修行を積むかである。何も考えず、ひたすら師匠の真似をする。しかしお手本通りの「習字」をするしかないから、字が上手くならない。自分では、その課題を作れないし、その課題のレベルから逸脱もできない。

 

書芸とは

 「芸」とは匂い草の「云」に草冠を付けた表意文字である。特定の人には良い匂いかもしれないが、万人に受けるわけではない。時代が変わり、人が変わり、場所が変わると評価されない。現代は流行を追い崩して読めない字を、「芸術は爆発だ」とか言って、テレビや雑誌で氾濫している。それを理解できない庶民を煙に巻いている。字とは、意思を伝える道具である。何時でも何処でも誰にでも読める字が、正道である。書芸は遊びであり、書道ではない。

 

書道とは

 習字にて取得した基本を使い、何時でも何処でも誰にでも読める字を、相手と状況に合わせても文字を創作するのが書道である。守破離である。書く紙、使う筆、使う墨、依頼してきた相手の人格・要求レベルに合わせて、誰にも真似できない字を揮毫する。そこに新しい発見がある。習字は舗装道路を歩むようなもの。書道は、道なき獣道を歩むようなもの。血の滲む苦労をして獣道を歩いた後に道ができる。

 

料理術と料理道の差

 料理学校で習ったことをそのまま実際の料亭では使い物にならない。教科書通りには、料理を作れるが、実際の現場では場末の料理旅館の料理でしかない。それは単なる料理術である。

 自分が料亭の料理人で、カウンターに座った一見さんからの注文に、相手が望む料理を出せるかどうかが、料理道として問われる。相手の服装、身に付けた小物、言葉遣い、相手の顔色から、相手の懐、意図、健康状態を見極め、出す料理のレベル、価格、味付け、塩加減を判断しなければ、一流の料理人ではない。それまで見極めて料理するのが、料理道である。料理でも安ければいいのではない。常連さんが接待のお客を連れてきたら、安くするのではなく、相手に恥をかかせないような高価な料理を出さないと、料理人として失格である。これは全ての仕事に通じる話である。

 

模範囚と人生道

 成績優秀でよい学校を出て、大企業・お役所に勤めて、順調に出世をして部長や校長先生、警察署長になり、功成り名を遂げて定年退職をした人が、一番認知症になり易いと言う。それは社会の通念で、良き人生との観念にとらわれた人生の「模範囚」である。40年間の会社生活・お役所生活で、前例に習い、新しいことはせず、自分の頭は使わず、気だけを使い、ハンコだけを押す作業ばかりの事なかれ主義で生きてきた咎が、認知症として現われる。それはまるで「習字の人生」である。お手本の課題から逸脱できないのは、人生の囚人としての模範囚である。だからボケる。

 馬場恵峰師は、書道を究める為に歩いているのでボケず、91歳の現在も現役で夜遅くまで字を書きまくっている。国立病院の医師からは20歳代の頭の回転と呆れられている。現在も30mの巻物に挑戦をして、揮毫を進めている。その進行状況を私に自慢げに話してくれた。その目は、新しいことへの挑戦で輝いている。

 上記の話は2017年10月19日、恵峰先生宅で30m巻物「日本古典和歌集」を撮影した時、休憩のお茶の時間に、師が話してくれた内容をヒントに作成しました。

 

図1、2 30mの巻物に揮毫する恵峰先生 2017年10月19日

図3、4 30mの巻物「日本古典和歌集」2007年書

1p1030729

2p1030744

34k8a4140

44k8a4144  

2017-10-22

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

縁の努力よりも、縁の選択が重要

 敬縁は人生の心がけである。縁を敬う努力は大事であるが、それが良縁か悪縁かを見分ける眼力をつけて、縁の選択がもっと重要である。時にはそれが生死を分ける。悪縁は自分の人生を地獄に引き落とす。2013年2月、ほぼ同時期に、師の奥様と昔の上司の妻からの便りを受け取った。この文面ほど、「文は人なり」を実感した手紙はない。その文面から伝わる人間味の温度差に、人格の格差を感じた。私の母は、苦労して養った彗眼で、当時の上司の妻の言動を見て酷評していた。その正しさが20年経って証明された。

 

師の奥様の温かさ

 80歳の現役(2013年当時)で師の片腕として活躍されている奥様の文面の温かさには感謝です。若い頃、師は原田観峰師(1911~1995)の京都で、月給6万円の薄給で師事し、奥様は長崎で書を教えながら5人の子供を育てる苦労をされた。師が京都から長崎に帰るだけで旅費4万円が飛ぶ。そんな奥様が、私みたいな若造を「小田先生」と呼んでくださる。

 片や、夫が役員であったのを鼻にかけて、昔の夫の部下を上から視線で見下し、冷たい手紙をよこした。知人に見せたら、「上から視線の手紙だね」と知人は感想を言った。還暦を過ぎた大人を捉まえて、文面中で「幸夫さん」とよぶ無神経さである。手紙の書式も、気候の挨拶で、「冷たい天候」との子供まがいの表現である。その手紙で、私が思い出したくもない写真を20年経ってから無神経に送り返してきた。昔の写真などは、自分がネガを持っているので不要である。この妻の人間性と知性が垣間見える。夫が役員であったという色眼鏡を鼻にかけたまま(下を向くと色眼鏡がずり落ちるから)、ふんぞり返ってこの20年間を生きてきた。不幸なのは夫である。

 

会社人事とは上司の好き嫌い

 こんな妻も制御できない人が組織の上に立つと、部下が不幸になる。1974年から1年間、机を並べて、同じ仕事をした仲間が、この上司による好き嫌いの人事異動で、性格的に全く合わない海外の営業部に飛ばされて、それの心労が原因で病気になり、54歳で浄土に旅たった。会社の人事・出世とは、個人の能力差ではなく、上司の好き嫌いに起因する。私は、上司の妻の人格を見抜いていた母のお陰で、命拾いをした。母はそんな上司にも、私のために盆暮れのお中元お歳暮は欠かさなかった。合掌。

Photo  

2017-10-22

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年10月20日 (金)

人生は敬縁から始まる、敬遠ではダメ

 野球の試合での敬遠は、勝負からの逃げである。人生球場では、敬縁をしないと人生が回らない。人生経営では、来る「縁」に対して、「敬って」接せしないと、仏様に嫌われる。それは「嫌縁」。人から打たれるのも人生、叩かれるのも人生。人から笑われ、嘲られて、人は強くなる。そんな縁に出会ったことを感謝しよう。来る縁は、全て己の波動が招いたもの。縁起である。

 

病気

 病気に罹ったのではない。病気という縁を頂いたのだ。大病になって手遅れになる前に、仏様が小さな病気という使者を遣わしてくれたのだ。自分の生活を正すきっかけを授けてくれたのだ。その縁を敬わず、無視するから不幸になる。病死をする。病気になり、自分の体を見直し、日本一の医師の門を叩くご縁を頂いた。自分の体を知る機会を得た。素晴らしいご縁からの贈り物である。

 

不運

 不運に落ち込み、人生を悩み、人生の師を探して日本中の師の門を叩いた。その過程で多くの学びがあった。そして良き師に出会って、その後の人生が好転した。素晴らしき不運とのご縁である。不運のご縁を敬って、なおざりにしなかったためである。もう一人の自分を探し求めたからである。

 

事故

 この世で起こることは全て必然である。悪いことに出会ったら、自分の生き方や仕事の仕方を見直せとの神仏からの啓示である。その縁に感謝をして、生き方を変えよ。あなたを訪れる「縁」様は、貴方に変わって欲しい、過ちに気づいて欲しいとやって来る。そのメッセージに気が付かねば、縁様の期待を裏切る「裏切り者」である。どんな事象にも意味がある。その意味を悟るのが智者、賢者である。どんな事象にも表裏がある。表面的な事象ではなく、その裏に潜む神仏の啓示を観よう。

 本稿は20171019日、馬場恵峰師のお話しからヒントを得て作成しました。

図1 恵峰先生書「いずくかより 来たりし去りゆく人の道 縁の恵みは人生の宝なり」

 伊勢神宮遷宮で使用の桧の鉋削り屑で新立広美氏作成 2015年入手

1dsc006583  

2017-10-20

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年10月 7日 (土)

人間の能力の磨き

 私の会社生活38年間で、何度も異動をさせられた。そのたび度に、最初は戸惑うことばかりであった。その部署で何年もやってきた人からは、ド素人扱いを受け、落ち込んだ日々ばかりである。表には出せないが、自分の無知と実力のなさ、知らないしきたりを教えてくれないことへの苛立ちが出た人生であった。

 

異動の効果

 恥をかき、ののしられ、あざけられて、だんだんと仕事が分かってきた。その部署の人はそんなつもりではなかったとは思うが、異動した身で、初めて体験することには、何事もこたえるもの。しかし、色んな部署で経験を積むことは、同じ部署だけで長く勤めるのとは別の能力が身につくし、広い観点も備わる。今の時点で、過去を振り返ると、当時、ほとんど移動のなかった人の視野の狭さが良く見える。人は色んな部署を経験して、成長する。なまじっかの力があり、異動がないと成長が限られるようだ。昔の上司に言わせると、その部署でトップと最下位の成績の人間は異動させないと言う。成績最優秀な人を、上司が手放すわけがない。最下位の人を異動させれば、異動先の部長から恨まれる。結局、成績2番からブービーまでの人間が異動の対象となる。これがサラリーマン社会なのだ。異動の解釈は様々である。東洋と西洋では解釈が違う。

 

A rolling stone gathers no moss. 《諺》 転がる石には苔が生えない

《★【解説】 商売変えは損あって益がない; 絶えず恋人を替えている人は真の愛が得られない[結婚できない]; 《米》 ではまた絶えず活動している人はいつも清新だの意に用いる》. 研究社 新英和中辞典

 

還暦を迎えての感慨

 私にとっては、自分の意思ではなく、会社の命ずるまま、異動先の新部署の仕事をただ黙々と担当してきた。辞める能力もその勇気もなくである。異動の繰り返しというエイジング試験を人生の耐久試験を終えて退職をした還暦の時、やっと死にもせず、脱落もせず、耐久試験を終えたという感慨であった。

 人の能力は、ののしられ、恥をかき、自尊心、固定観念と言う能力の周りの付いた膜を剥がすことで、表れ、磨かれると悟ったのは、50歳も過ぎたころであった。まるで砥石の目たてや、硯の目立てと同じだと理解できた。

人は、人と言うダイヤモンドでしか磨かれない。

1img_63931

2017-10-07

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

 

2017年10月 4日 (水)

運命のページをめくる佛

楽譜のページをめくる人

 演奏会を回すのは主役の演奏家だけではない。裏方の黒子が支援してくれてこそ、上手くいく。聴衆の目に入っていて、気がつかないのが、演奏者の横にいてピアノの譜面をめくる人の存在である。彼女は黒子に徹して、目立たないが、緊張で震えている。演奏を熟知していて、間合いを測って絶妙のタイミングでページをめくらねばならない。めくる前に、次にページの端を少しめくって、一気にめくる準備をしている。緊張の一瞬である。しかし、師のそばで緊張ある演奏の場を共有できることは、何事にも代えがたい学びの場でもある。弟子として幸せだと思う。担当するには、高度な技量も必要とされる。

 ページをめくる人の一番重要な要素は、演奏者と深い信頼関係のある人でなければならないことだ。嫌なオーラが出る人が後ろにいては、ピアニストは演奏に集中できない。だれでも担当できるわけではない。演奏者とページをめくる人は、厚い信頼関係で結ばれた共演者なのだ。

 演奏会後のサイン会会場で、ティム親子と彼女の記念撮影をした。彼女の顔は、緊張で顔がこわばっていた舞台上とは、別人のような素敵な笑顔で印象的であった。お役目ご苦労様でした。

 

人生のページをめくる親

 親は子供が学校に上がる時期が来ると、黙ってランドセルを買ってくれる。遠足がある日が近づくと、遠足のお弁当や服装を準備してくれる。黙って大学の入学金、授業料を払ってくれた親。人生のページがめくられる度に、黙って準備をしてくれる存在が両親である。当時は甘えて当たり前と思っていたが、TIMMコンサートで河村義子先生の後ろでページをめくる彼女を見ていて、両親を思い出した。今にして遅まきながら、改めて両親に感謝の念が湧いてきた。当時の貧しい給与で自分に贅沢をさせてくれた。感謝しても限りがないが、気が付いた時は、両親はこの世にいない。世の中で、黒子に徹して貢献することがあるはずだと思い、精進をしている。合掌。

 

佛がめくる運命のページ

 この世は一期一会。楽しかった恋の日も、家族団らんの日も、過ぎ去ったページは二度と見ることはできない。運命のページは自ずとめくられていき、恋した日に戻りたいと思っても、ページを抑えた指の下には、既に死を迎えたページがあるかも……。 毎日を今日が最期の日と思い、一生懸命に生きたい。一日一生。

 

図1~5 TIMMコンサートのリハーサルで

  大垣市音楽堂 2017年9月29日

図6 「人生という本」馬場恵峰師書 2012年

  師にお願いして揮毫していただいたら、金の色紙に書かれていて感激した。

図7 「人生という本は最高の本である」馬場恵峰師書 2016年

   色紙の言葉を、軸に揮毫していただいた。

14k8a3229

24k8a3245

34k8a3266

44k8a3345

54k8a3363

6dsc001611

7039a34461

2017-10-04

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

 

2017年9月23日 (土)

「ドレイもん」と「ドラえもん」の闘い

  「ドレイもん」とは、教えられた教義の鎖に繋がれた奴隷のような思考回路の人をいう。自分の価値観が明確でないから「これでいいのだろうか」といつも不安である。「ドラえもん」は、自由な発想で「これでいいのだ」とやったことを自分で自信をもって認める姿なのだ「奴隷もん」にはタモリのような自由な生き方はできない「奴隷もん」が組織の上に立つと、その組織は不幸になる。

 

政界の深層心理学分析

 フリンセスやガソリーヌと称せられる山尾志桜里議員の顔を見て、何か違和感を覚え、またどこかで見たか顔ではないかと頭に引っかかっていた。山尾議員の顔は端正で美形である。しかしその顔にオウム真理教徒の面影があった。何か思いつめたような、それでいて無機質な顔なのだ。まるで洗脳教育を受けて感情を無くしたようにとも思える。その顔は人相学でいう法令が薄かった。それはなるべく感情を表に出さないように訓練をしてきた顔なのだ。それは深層心理学の洗脳教育のためだと思い至った。

 

司法洗脳教育

 彼女は司法試験に7年の挑戦で合格した。その結果は美談のようであるが、心理学的には問題がある。本来、そんな努力をしないと受からない頭の悪い人は司法界に進むべきではない。一発で合格するような特別な才能の人が、その道に進むべきだ。7年の受験勉強は、洗脳教育として、彼女の思考回路に悪影響を与えた。「国家試験のようなものを、5年以上は取り組むべきではない」と、どこかの書で読んだ覚えがある。司法試験は、問題を作る試験官の考え方に合うように、必ずしも正しくはない法律を、司法試験の問題を作る試験官の考えと合うように解釈をすることが強いられる。問題を出した人の思考回路に洗脳されるように、ひたすら過去問題集を解く訓練(修行)をする。それが7年間も続くと、洗脳教育として、カチンカチンの固定観念が作られて、思考が固定される。模範解答以外の考えが浮かばなくなるし、思い浮かべてはならないのだ。(その時代に通用する)法律文面通りの思考をする優秀な頭にはなるが、文面通り以外は考えられない欠陥を持つ思考回路が作られる。なおかつ東大を出て司法試験に合格したことで、ちやほやされ、己もやればできると舞い上がり、優越感が起こり、己は特別な人間だと思うようだ。特別の人間だと己が思い込むと、社会の道徳も超越して生きることが許されたエリートだと考えるのだろう。

 この洗脳教育の成果?が、山尾議員は自分の頭で考えられないので、「これでいいのだろうか」と迷い、議員辞職のつもりが、言うだけ番長に言い含められて、議員辞職を撤回してしまう。いいわけないではないか。それで恥もなく次回の選挙に立候補である。人生道の論理構成が間違っている。豊田議員は、病気と言って入院、記者会見拒否である。謝罪の記者会見も、優等生のマニュアル通りの回答しかできない。臨機応変の機転がないのだ。共に日本の最高学府を出た才女である。頭はいいかもしれないが、世の常識が考えられないように洗脳教育されてしまった。

 

保育園落ちた、日本死ね

 山尾議員は「保育園落ちた、日本死ね」を引用して、安倍総理を国会で攻めたが、「日本死ね」という思想の持ち主に賛同して取りあげること自体に、思考回路に違和感を感じる。それが社会の味方だとの論陣は異常である。それは上から視線で見て、己は偉いのだとの自己洗脳作用が及ぼしているとしか、思えない。

 

合理的な思考だけのオツム

 それの結果が、今回の不倫騒動であろう。常識があれば、ガソリン多額請求事件を秘書のせいにせず、管理監督不行き届きで責任をとるべきだ。自分の置かれた立場で、マスコミに狙われることを考えないというお粗末な行動は、目を覆うばかりである。東大を出て、司法試験にだけは受かったアホである。司法試験だけが受かる能力しかない欠陥人間となった事例である。合理的に考えられるとは、合理的にしか考えられないのだ。東大出での豊田真由子議員も同じ思考回路である。すべて、東大を出て己は偉いのだとの洗脳教育を受けたのだ。そう解釈すると、かの政治家どもの非常識な言動の疑問が氷解する。

 

私の受けた洗脳教育

 私は宮仕えの会社生活で、長年、会社の価値観の洗脳教育を受けたことになる。日本人の大分部分がそうであるはずだ。定年後は、その束縛から解放されて自由な発想ができることは嬉しいことだ。川柳の「今日からは 黒をクロ と言い」のような世界からの解放である。それこそタモリの生き方で、「これでいいのだ」と思うことだ。そう思わないと自分を追い詰めて、自分を地獄に落としてしまう。

 電通の自殺をした東大出の若い女子社員は、電通の洗脳教育に染まったのだろう。「ドラえもん」の「これでいいのだ」というおおらかな考え方があれば、死ななくてよかったのにと、残念に思う。会社の成果など、己の命に比べれば軽いもの。

 

性格の形成

 人は一日に20回の決断をするという。20年で、20回×365日×20年で146,000回の思考訓練をうけることになり、その思想と性格が固定される。それが人格・性格の形成である。それは固定観念と言われる。精神科医のエリックバーン博士(1910年~1970年)は、この理論をもとに「対人交流」という理論を立てた。これは子供の頭の形成過程での話しであるが、大人でも、回りから頭をさげられて長年を過ごすと、同じ洗脳教育を受けるのと同じ効果があると推定される。

 

市長17年間という洗脳教育

 小さい組織の長として17年間も君臨すると、誰もそのリーダーに本当のことは言えなくなる。反対もできなくなる。リーダーが人格者なら、そうはならないが、自分がお山で一番偉いと思い込みの洗脳教育を自分に課した人間では最悪の結果となる。日々、部下がかしづいて、仕事が回るので、己は一番偉いのだ、との洗脳教育を繰り返し受けることになる。ヒラメの取り巻き役人も、市長の顔色を見て、言葉の匂いでやるべきこと、やらなくてもいいこと、やってはならないことを本能的に嗅ぎ分けて対応する。それが市民にとって、不幸せになる政策でも知ったことではない。ヒラメは己の保身が最優先である。民間企業の市場原理は働かない。だから多選の弊害が目に付き、多選を禁ずる法案が検討されている。見識ある人は、己が多選にならないように身を引くものだ。

下図は固定観念のイメージ図。表に出る言動は、氷山のように内部の1割である。

Photo

2017-09-23

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年9月21日 (木)

自分とは何か、我とは何か

 「自分」とは、生かされている全体の中で、「自ら」の「分」である。己は世の中の一部として考える姿である。その反対が「利己」である。己のことだけしか考えないから、囚われの闇の世界に落ちていく。

 「我」とは稲(禾)を刃先がぎざぎざしたほこ(戈)で刈って、自分のものにしている様を表わす。「私」とは稲(禾)を腕(ム)で自分のものとして抱える姿を表している。

 

私の使い分け

 英語を筆頭にした欧米の言語では、必ず主語として「私」が書かれる。文法的に主語がない文章は成立しない。しかし、日本語では、往々にして「私」がない文が存在するし、なくても理解できる。それが日本社会の特殊性が表れている。日本では、文書で「私」を前面にだすと、押しつけがましく、謙虚さが無くいように思われる。だから手紙が論文では、私はあまり出てこず、「そう思われる」と誰が思うか曖昧な文章が多い。それも日本人だけの世界なら許されるが、現代の世界を相手にしたビジネス社会では、問題となる。ビジネス社会では、主語と主張を明確にしないと、察しの文化は通用しない。日本文化の社会と欧米式の社会の見極めをして、使い分けをして、主義主張を明確にして論理を展開すべき時代となった。

 

自分の使命

 自分とは曼荼羅という人間舞台で、一つの役割を演じる一佛なのだ。人生曼荼羅で、天から与えられた使命のため、あるお役目を演じている。その使命を知るための業が修行である。そして段々と成長(出世)して、中心の大日如来に近づいていく。せめて大日如来に王手をかけた状態でこの世を去りたいもの。投げる人生であってはならない。天に召されるまでに、いかに未完成で、より高く魂を向上させるかが大日如来(宇宙の真理)から問われている。芸術も人生も同じで完成はない。人生とは自分つくりの芸術活動なのだ。

 

「芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。1日を大切に精進したい。」  奥村土牛画伯

 

2017-09-21

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

4k8a99231

Photo