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2017年10月22日 (日)

習字人生と書道人生の差

習字とは

 公益財団法人「日本習字教育財団」は、馬場恵峰師の師匠の原田観峰師が創業した。習字の「習」とは、白鳥の子(「白」が鳥の胴体を表す)が羽を広げて、親のお手本通りに飛ぶ練習をしている様を表す表形文字である。習字は、ひたすら師匠が提示した課題を書くことに尽きる。いかに師匠の字体に合うように修行を積むかである。何も考えず、ひたすら師匠の真似をする。しかしお手本通りの「習字」をするしかないから、字が上手くならない。自分では、その課題を作れないし、その課題のレベルから逸脱もできない。

 

書芸とは

 「芸」とは匂い草の「云」に草冠を付けた表意文字である。特定の人には良い匂いかもしれないが、万人に受けるわけではない。時代が変わり、人が変わり、場所が変わると評価されない。現代は流行を追い崩して読めない字を、「芸術は爆発だ」とか言って、テレビや雑誌で氾濫している。それを理解できない庶民を煙に巻いている。字とは、意思を伝える道具である。何時でも何処でも誰にでも読める字が、正道である。書芸は遊びであり、書道ではない。

 

書道とは

 習字にて取得した基本を使い、何時でも何処でも誰にでも読める字を、相手と状況に合わせても文字を創作するのが書道である。守破離である。書く紙、使う筆、使う墨、依頼してきた相手の人格・要求レベルに合わせて、誰にも真似できない字を揮毫する。そこに新しい発見がある。習字は舗装道路を歩むようなもの。書道は、道なき獣道を歩むようなもの。血の滲む苦労をして獣道を歩いた後に道ができる。

 

料理術と料理道の差

 料理学校で習ったことをそのまま実際の料亭では使い物にならない。教科書通りには、料理を作れるが、実際の現場では場末の料理旅館の料理でしかない。それは単なる料理術である。

 自分が料亭の料理人で、カウンターに座った一見さんからの注文に、相手が望む料理を出せるかどうかが、料理道として問われる。相手の服装、身に付けた小物、言葉遣い、相手の顔色から、相手の懐、意図、健康状態を見極め、出す料理のレベル、価格、味付け、塩加減を判断しなければ、一流の料理人ではない。それまで見極めて料理するのが、料理道である。料理でも安ければいいのではない。常連さんが接待のお客を連れてきたら、安くするのではなく、相手に恥をかかせないような高価な料理を出さないと、料理人として失格である。これは全ての仕事に通じる話である。

 

模範囚と人生道

 成績優秀でよい学校を出て、大企業・お役所に勤めて、順調に出世をして部長や校長先生、警察署長になり、功成り名を遂げて定年退職をした人が、一番認知症になり易いと言う。それは社会の通念で、良き人生との観念にとらわれた人生の「模範囚」である。40年間の会社生活・お役所生活で、前例に習い、新しいことはせず、自分の頭は使わず、気だけを使い、ハンコだけを押す作業ばかりの事なかれ主義で生きてきた咎が、認知症として現われる。それはまるで「習字の人生」である。お手本の課題から逸脱できないのは、人生の囚人としての模範囚である。だからボケる。

 馬場恵峰師は、書道を究める為に歩いているのでボケず、91歳の現在も現役で夜遅くまで字を書きまくっている。国立病院の医師からは20歳代の頭の回転と呆れられている。現在も30mの巻物に挑戦をして、揮毫を進めている。その進行状況を私に自慢げに話してくれた。その目は、新しいことへの挑戦で輝いている。

 上記の話は2017年10月19日、恵峰先生宅で30m巻物「日本古典和歌集」を撮影した時、休憩のお茶の時間に、師が話してくれた内容をヒントに作成しました。

 

図1、2 30mの巻物に揮毫する恵峰先生 2017年10月19日

図3、4 30mの巻物「日本古典和歌集」2007年書

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2017-10-22

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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