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2018年12月 4日 (火)

スマホ廃人寸前のITマナー

 静かなホテルのレストランやセミナー会場、電車内で、携帯電話を掛ける礼儀知らずの輩が多い。パシャパシャとパソコンのキーボード音を立て、甲高い騒音をまき散らすのは礼儀知らず、である。ITが身の回りに普及すれば、それに相応したマナーが必要だ。

 その昔、私が研究開発部に勤務していた時、静かな室内で、私の横の管理職がワープロのキーボードを、いかにも仕事をしているとそれ見よがしに、大きな音を立てて打っていた。横にいる私は、静かに考えることが阻害されて大迷惑であった。文句を言っても、相手は静かに考えることの意味が理解できないようであった。

 

金儲け万歳

 2018年7月、「「源氏物語」に学ぶ人間学」のセミナーが、京王プラザホテルで開催された。会場でセミナーが始る前の時間、私の横に座った女性(自称講師、代表)が、メールの返信でパソコンの大きなキーボード音を発散させていた。その御仁が「和の心」を看板に背負う講師なので、お笑いであった。源氏物語のセミナーで、私は1000年前の世界に思いを馳せているのに、何も殺伐としたメールのやり取りでカリカリしなくても、と思うのだ。何が和の心なのか。何が源氏の雅なのだ。

 

和歌からつぶやきに

 現代日本人もITツールに振り回されて劣化した。1000年前は、恋の思いを和歌一通で、心の思いを伝えていた日本の麗しき女性はいま何処。今はつぶやき(ツイーター?)に。日本女性の雅の心は消滅した? この後、私はその女性が主催するセミナーに誘われたが、そのレベルを見て断った。人は、しぐさでも足元を見られる。知らぬは本人ばかり。

 

スマホ廃人

 最近はスマオの画面にかじりついて、道路や混雑する駅構内を闊歩する男女の若者が多い。人の迷惑など知ったことかのモラルの低落である。ITが日本人を堕落させている。なんのためにITなのかと憤慨である。私はスマホはやらないが、家ではITを駆使している。その昔は、私はIT部門の室長を務めていて、IT関係の知識は人並み以上だが、それでもスマホは不要と考えている。今はガラケーで事足りるので、、スマホはやらない。人に迷惑をかけてまで、スマホをすることではなかろう。

 スマホ画面に夢中になりで、直前の老人に気が付かず、自転車でぶつけて死亡事故まで起こす女子学生まで出るのは世も末である。

 子供もスマホ依存症で、10代は9割までがスマホが普及している。何かおかしくないか。世は、石川結貴著『スマホ廃人』(文芸春秋社刊)まで話題になる時代である。

 日本人は障子を閉める時も、音を立てず閉めるのが礼儀だが、不満の心があると、障子は閉まる時にバッシと声を上げる。それで相手の心が観える。パソコンのキーボードで無神経に音を立てて叩く人は、「私はIT礼儀しらずです。私は金儲けのためには、人の迷惑などは考えません」と声なき声を上げている。

 

2018-12-04 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年11月21日 (水)

言葉との出会いが運命を創る

出会い

 男と女が出会うと子供ができる。男と男が出会って、それで仕事が生まれなければ、本当の出会いではない。単なる飲み会の出会いは、本物の出会いではない。

 2018年11月21日、致知出版社主催の講演会で藤尾秀昭社長のお話しを聴いた。そこで教えられたのが上の森信三師の名言である。これは本に書かれざる名言という。今日は森信三師の命日(1992年11月21日)である。

 

人と言葉の出会い

 人と言葉が出会って、人生の運命という子を生む。いかに良い名言に多く出会うかで、自分の運命が決まる。私もいろいろと辛いことに出会う度、また新しいプロックトの推進で悩むとき、本から多くの元気と示唆をもらった。そのたった一言で、新しい道に進めることができたと思う。

「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきに、只想え、気高く、強く、一筋に。」(中村天風)

 組織として、プロジェクトを成功させるには、個人の力だけではなく、組織の力を出すことが必須である。そのために、メンバーが足りないところを補い合って、組織が一丸となって新しい力が沸き起こる。

「才は不才を助け、能は不能を憐れみ、一円一体となるところ、生々の徳が現われる。」(二宮尊徳)

 

天を師として

 多くの人は、本から、人から、経験から学ぶ。しかし、偉人は天からも学ぶ。二宮尊徳は天から学んだ人である。

「音もなく 香もなく 常に天地は、書かざる経を 繰り返しつつ」(二宮翁夜話巻の1の冒頭)

 森信三師の年譜に「1928年(昭和3年)33歳、二宮尊徳の「二宮翁夜話」の開巻劈頭にある『天地不書の経文を読め』との一句により、学問的開眼を得たり。」とある。

 それと同じことを佐藤一斎は「太上は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経を師とする」で表現した。この言葉は天地自然を師とする人間の偉大さを表している。

Photo

 この書は馬場恵峰師が2018年10月31日に『佐藤一斎「言志四録」51選訓集』として揮毫を完成された。この書は、私が12月末に先生の書の写真集として出版する予定で、その中の一頁である。私が、2018年10月21日、馬場恵峰師を佐藤一斎の町・岩村にご案内して生まれた作品である。私は恵峰先生と出会って、よき仕事を生むことができた。これが男と男が出会ってできる仕事(子)である。

 

2018-11-21 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年11月18日 (日)

我慢より辛抱を選ぶ

 何事もなすにも時折・・・不安挫折そして行き詰りはある。それは飛躍する為のエネルギーの蓄積の時。根気よく思考熟慮して、決してあせるまいぞ。仕事をするうちに、新たな発想も生まれる。辛抱という木に実は結実する。日々心がけていこう。(2018年 馬場恵峰記)

 

心棒

 人生で、どんなことがあってもブレない心棒があれば、うろたえない。芯がブレなければ、どんな嵐でも耐えられる。その心構えを辛抱という。心棒の木、辛抱の木、信望の木、心房の木とも言う。

 

辛抱

 やりたいことをやらずに我慢などする必要はない。やるべきことをやって、辛抱して、それをやり遂げるのだ。「辛」は、入れ墨をするための針の象形文字である。つらい、つみの意味を表す。やることは、己の体に入れ墨するくらい痛いことなのだ。我慢してやらないのは、楽なのだ。逃げなのだ。

 やれるのに、やりたいことを我慢しても、それができる状態になっても、やれない日が来る。辛抱できる体力が無くなる時がくる。お金が無くなる時が来る。心房が止まる時がくる。何時までもあると思うな、親とカネ。そして命も100年も持たないのだ。

 己にご縁と体力があり、some moneyがあれば、やってしまおう。それに出会うのも行幸である。その対象物(挑戦に値する事象)に出会うのは有難いこと。

 

我慢

 七慢の一つである(佛語)。七慢とは、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、下劣慢、邪慢を言う。慢とは「忄」(心)+「曼」〔音〕で、心が伸びたるんで怠るを意味する。

 「我慢」の意味は、①我をよりどころとして心が高慢であること、②我を張ること、③じっと耐え忍ぶこと、である。

 当初の意味の「自分自身に固執する」ところの①の意味から②に転じ、さらに③の意味となった。

 七慢は人が持つ煩悩である。その煩悩を断ち切るのが不動明王の持つ宝剣である。佛法、佛像を作り出した古代の賢者は、人の持つ慢心を知っていた。慢心を持つ人の本質は、2千年前から少しも変わっていない。

1p1040936  不動明王像  松本明慶仏像彫刻美術館の許可を得て掲載しています。 

 

出会い

 2018年10月31日、馬場恵峰先生宅で、先月から気になっていた下記の軸を、決断して入手した。同じ文句の別の軸もあり選択に迷ったが、恵峰先生の推薦で、絹本の軸に書かれた下図の軸を入手した。

1p1060016

2018-11-18 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年11月15日 (木)

浜松国際ピアノコンクール(3) 家康「しかみ像」のご縁

 2018年11月10日(土)と11日の浜松国際ピアノコンクールのチケット入手に失敗して、半日の時間が空いた。10日の朝、会場で15時から追加チケットが販売されることを確認して、気分転換で浜松の観光名所の中から浜松城を選択して散策した。

 そこで徳川家康が敗戦した時の肖像画『徳川家康三方ヶ原戦役画像』、通称『顰(しかみ)像』を見付けて嬉しくなった。元亀3年(1572)12月、浜松市街東部の三方ヶ原で、武田信玄と徳川家康との合戦があり、家康は命からがらに敗走し、なんとか浜松城に逃げ込めた。その際、この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせた。この絵は、「憔悴し切った家康の表情」が巧みに描かれている。己の慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられている。顰(しかみ)とは、顔をしかめること。

 本物は徳川美術館にあり、ここの展示はレプリカだが、それを感じさせない出来であった。レプリカでも身近で見たのは、初めてである。

 

辛いこと

 自分の惨めな姿を絵に描かせた家康はただモノではない。いわば臥薪嘗胆である。経営者として、日々、辛いことばかりで、夜、酒を飲まないと寝られないでは、経営者失格だ。経営者は辛いことは目を背けず、現実を直視せねばならぬ。酒は百薬の長というのは嘘だ。

 どれだけ少量でも酒は毒であると、最近の英国の研究で明らかになった。食品は胃で消化されるが、酒は肝臓で、薬物と同じプロセスでしか分解されない。だからお酒を飲むとは、薬物パーティをすること。だから私は今、完全禁酒です。

 経営者は辛くて当たり前。その辛さを受け入れられなければ、経営者になってはダメである。己の決断に、社員の生活がかかっている。それを酒で胡麻化してはダメ。酒は思考を麻痺させる。経営者なら辛いことは、覚えていなければだめだ。それに己の成長の糧が埋まっている。「しかみ像」はそれを象徴している。

 

ご縁

 2018年11月12日、アクトシティホテルで朝食後、ロビーを通ったらホテルの売店で「しかみ像」の手ぬぐいの展示品が目に飛び込んできた。お店の中を散策して、この手ぬぐいを何かのご縁と思い入手した。一枚1080円で、徳川美術館認定商品とある。色は白と青があったが、青の方が心情を良く表しているようで、青を選択した。己の戒めの絵として飾るのもよいと思ったからだ。翌日、思い直して、白の作品も追加購入した。家康さんも、400年経っても、地元の経済活性化に貢献している。偉い方だ。

 この絵を気に入ったのは、10年まえ、「人の一生」という徳川家康遺訓を馬場恵峰師が揮毫し、その軸を10年間も誰も買わずに、私が購入できたこと。ご縁とは、一つだけでなく連綿とした繋がりを持っている。

P1050800  浜松城で展示のレプリカ「しかみ像」

P1060012_3 「しかみ像」の手ぬぐい

Photo  馬場恵峰書 

新説

 この絵は、家康が書かせたのではないとの新説が学芸員の原史彦さんより出されて話題になっている。そういう話題が出るだけ、家康は超有名人である。そんな歴史の話題のご縁に誘ってくれた浜松国際ピアノコンクールである。

 「家康の『しかみ像』に新説が! 家康が描かせたはウソだった!」

https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/hamamatsu/shikami/

 

2018-11-15 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年11月11日 (日)

銀河鉄道夜行便は冥途行き

 我々が乗車している銀河鉄道の夜行列車は、昼も夜も37兆個の細胞が、我々が寝ているときも、心臓を動かし、血を送り、肺を動かし、命を長らえさせてくれている。しかし、その列車の乗車時間は僅か80年間である。ある人は、65歳で認知症になり、人間としての命を終え、途中下車である。

 ある人は、医師から余命1年と宣告され、「金はいくらでも出すから、助けてくれ」と泣きつく。それを拒否されると、このヤブ医者め、と泣き崩れる。銀河鉄道には強制途中下車もあるのだ。

 

ハードスケジュール

 2018119日、第10回浜松国際ピアノコンクール第一次予選第一日目で、朝の10時半から夜810分まで、ピアノコンクールの演奏を聴き続けた。一人20分間の課題演奏、それが3人続き1時間。その後10分の休憩の後、おなじパターンで夜8時までコンクールが延々と続く。その95名の挑戦者の演奏が5日間も続く。弾く方は、自分の人生がかかった真剣勝負である。聴く方も体力勝負である。演奏会だから狭い椅子から動けず、エゴのme症候群になりそうである。さすがに、私は体力の限界でお昼過ぎ、お腹が膨れて眠たくなった。

 

列車は止まらない

 5分か10分ほど寝てしまったようだ。目が覚めると、そんなことはお構いなく、演奏者の人生をかけた死闘のコンクールは続いていた。自分が寝てしまっても、乗車した銀河鉄道夜行列車は驀進していた。自分が寝ていても、心臓も血液も、肺も動き、一秒一秒ごとに冥途に向かって驀進していた。冥土への到着時間は決まっている。浜松のイベントは何事もなく進行していた。

はこの世で何をしようとしているのか。それを自問してしまった。このコンクールを聴いて、己はどんな付加価値を生み出したのか。その分、己がこの世で活動すべき時間が減ったのだ。

 

到着予定時間

気が付けば、夜行列車の最終地到着時間まで平均であと12年(希望は40年?)しかないではないか。今から何を残して逝くのか。銀河鉄道は冷酷な定時運行で、止まってくれない。振り返れば、この8年ほどの間に、多くの仲間が途中下車していった。みんな想定外での途中下車であった。学生時代の友人は、年賀状で「そろそろゆっくりしたいね」と書いてきて、その3月に途中下車である。残された奥さんと子供が気の毒であった。

 

乗り換え案内

 今、走る電車の中で、新しい行く先を考えている。銀河鉄道は意思さえあれば、行き先も乗り換えも可能である。人生は、いつ新しい線路を思いついて乗り換えても、遅いということはない。意志だけの問題だ。

 途中停車駅が、ゴルフ駅や赤ちょうちん駅なら、それをすっ飛ばす特急列車に乗り換えよう。あの世までの乗り換え時間が僅かなのだ。

「お急ぎください」との仏様の声が聞こえる。優しい車掌さんの声だ。

 

2018-11-11  久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年11月10日 (土)

磨墨知85 . 原理原則から見て判断する

物事は何が正しいのか? 原理原則から、それを判断すること。そのクライテリア(判断基準)は何か?

その判断基準を周りの都合に合わせ、自分の都合で毎回、変えるから問題が起こる。基準に従って判断して、問題が出れば社会が間違っているのだ。正しいとの信念があれば、気にすることはない。間違いない判断は時間を節約する。迷いこそが時間の浪費の最たるもの。クライテリアが明確でないから、無駄な金と時間と人手を使う。

 

大垣市制100年記念行事にクライテリアなし

大垣市制100年行事を開催するなら、次の100年につながる有意義な行事にするというクライテリアがなければ、愚劣な行事はしてはいけないのだ。

クライテリアが明快でないから、偽ネス毒水饅頭共食いの愚行が行われた。市民税900万円が2週間で無駄になった。大垣市のギネス記録は、市民税を使わなかった三島高校のコロッケ記録に負けたのだ。ギネスを取るのと金を使うのが目的で市民無視で実施した行事だから、4か月も経った今でも、恥さらしなことに、ギネス達成の祝い横断幕が大垣市庁舎に掲げられたままになっている。市民として恥ずかしいたらありやしない。その予算額の半分が使途不明である。

ドローンによる菓子散布行事も市民憲章で謳うクライテリア「安全」を考えれば、実施はあり得ない。だからドローンが世界初の人身事故で、墜落して見物客にけが人が出たのに、大垣行政の責任者が、業者に全責任を押し付けて、雲隠れするのだ。大垣市の職員に安全と道徳というクライテリアがないからだ。

ミッキーマウスのパレードも大垣市制100年にはなんの関係もないイベントである。このクライテリアは何か? 大垣市TDL の営業宣伝パレードに振り回されただけだ。大垣市制の次の100年に何の意味もないパレードであった。市民税の無駄であった。600万円がパー。

ミッキーマウスのパレードの影響で、翌週の賑やかしだけの大垣祭り山車特別曳そろえも、見物客1万人しか動員できないので、実施しても意味がなかった。子供たちの勉強時間を奪っただけ。山車を曳く学生アルバイト代が市民税で投入された。無駄だ。何のために?のクライテリアがなかったのだ。単に100個のイベントを行うという愚劣な考えだけが先行しただけだ。

「大垣さん大集合」も、市制100年のクライテリアには、頓珍漢な行事である。その大垣姓の100名を交えた大宴会で20名の市の職員がどさくさに紛れてご馳走を盗味した。それが次の100年にどういう貢献をするのか。市民税泥棒である。一人10万円の散財で1000万円が消えた。後世に何の価値も生まない。

朝鮮通信使行列も、「なんのために?」のクライテリアがないから、歴史の事実を捻じ曲げて、大嘘の行列を仕立てるのだ。日本政府は、徴用工裁判の不当性で、韓国との国交断絶さえ考えているのに、小川敏市長が韓国に媚びを売っているのだ。

大垣市制100年行事は、小川敏市長が、目立ち我利の行事をしたいがため、分捕った予算の消化と業者に金をばらまきたいがための行事で、明確なクライテリアがなく、本来の筋から逸脱するから、事故を起こすのだ。大垣市制100年行事予算3億4千万円を浪費して会計報告をマル秘にするから汚職が疑われるのだ。市の財政が杜撰になるのだ。

 

己の人生のクライテリアは明確か?

自分は何のために働いているのか。なんのために金を稼いでいるのか。金ができたら働かないのか。人生は、お金のためにあるのではない。自分は何を目指して生きているのか。人は、何のために書を書き、仏像を彫り、音楽を奏で、写真を撮り、文書を作るのか。

そのクライテリアが明確でないと、道半ばで、人生道に迷う。その価値基準を明確にして仕事に取り組もう。そうでないと、定年後の人生が認知の人生となってしまう。今の日本社会は、65歳以上の15%が認知症である。

 

2018-11-10  久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年10月23日 (火)

他人は変えられない、自分が変わるしかない

 他人を変えるために心血を注ぐのは、時間の無駄である。他人は変えられない。他人など放って置けばよい。自分だけ自己満足すれば良い。矢だけ相手の急所に射って、問題を明確にすれば、後は相手の問題である。必要なら警察が対応してくれる。それは自分の仕事ではないのだ。

 他人に構うから、心穏やかになれない。自分の世界に閉じこもろう。誰にも負けない努力をして己の世界を作れば、他の世界は気にならない。そうすれば、他の世界の方からすり寄ってくる。

 

容認の力

 他人を容認しよう。己は自己満足をすればよい。人を恨んでも、天災を呪っても意味がない。人智では対抗できない大きな力には、それに肯定も否定もしない。容認するのだ。受け入れるのだ。人を許すのだ。それが長生きの秘訣である。そうすれば、悩まないし、悩みは消える。

 松下幸之助翁は、終戦後、GHQから戦犯、財閥指定をされ、なす術のない状況に追い込まれた。戦争中はお国のために武器を作るのは国民の勤めであった。それで松下電器は財閥指定された。松下さんにできたことは、容認だけである。その時、松下幸之助翁はPHP研究所を創った。それがあったから、今のパナソニックがある。

 

2018-10-23   久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年10月16日 (火)

人の料理の仕方、食い方

 久志能幾研究所で、人の食い方、人の料理の方法を研究している。それは自分が善く生きる術を研究すること。人を観れば、自分の生き方の反面教師となる。久志能幾研究所の仕事は、人間ウォッチングである。

 

食えん人

 しかし最近は食えん人が多すぎて、料理しようがなく閉口している。それも煮ても焼いても食えん人が多い。食えん人は、死んでも食えない。食えん人は、認知症に罹っており、成仏しても極楽に行って、認知症のため、話が通じない。せめて来世では迷惑をかけないようにしたいもの。

 体の滋養物に相当する、人生の慈養縁を沢山摂取することが、人生を豊かに満心させる。

 人生で甘いものばかり摂取する人では、糖尿病になる。人生での甘いものとは賄賂である。子供の甘えかしである。悪徳お役人は心臓が賄賂で、太い儲毛が生えている。その弊害で羞恥心を無くす。ワサビだらけの人では、付き合えない。ワサビはほんの少しあればよい。アル中では、正気を失う。脂ぎった人では、生きざまが油脂で汚れている。ピリッとする調味料なら、人生の味付けで美味し人生を送れる。

 

聖人の生き様

 聖人のような方では、うまみ成分がなく、完全無欠な神様食を食べているようだ。それでは、無味乾燥の食生活にかる。なにか少し不純物が混じったほうが、人生の旨味が出てくる。その旨味を付けることが、人間の欠点で、人間味のあることだ。自分の長所を伸ばせば、その欠点が人間味となる。神様のように完全無欠の味では、飽きが来る。やはり人間として生きたい。

 

明徳を明らかに

 人に喜んで食べてもらう人間になるには、徳を積むことだ。陰徳を積むことだ。素直な人間になることだ。明徳を明らかにすることだ。自分は誰に食べてもらうために、生まれてきたか。自分がこの世で、世に尽くして、食べ尽くされることが、最大の喜びである。それを天命という。

 

2018-10-16 久志能幾研究所 小田泰仙

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法話 「苦」とは

 2018年9月6日、広島の福屋で開催された「松本明慶仏像彫刻展」で、同時に開催された「広島新四国八十カ所の霊場お砂踏み巡り」の催しで、曹洞宗の住職様の法話を聞いて感銘した。今まで「苦」について、勘違いをしていたことが判明して、刮目した。我68にして67の非を知るである。世の中は知らないことばかり。

 

苦とは

 仏教での「苦」とは、一般的な苦しみの意味ではない。苦とは、生老病死のように、いくら努力をしても自分では何ともならないこの世の定めをいう。

 「苦」のある人生をどう生きるかが仏教の教えである。いくら努力をしても老いは避けられない。死なない人もない。その状況で、己はどう生きるのか。それが仏教の教え。

 死という苦は、何をしても避けられない。その頂いた命をどう使うか。生あるものは、必ず老を迎える。昔できたことができなくなる。その老いをどう見つめるか。それが仏教の教えである。答えはないが、それを見つめて生きるのが、修行である。

 

2018-10-16 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年10月15日 (月)

大垣倫理法人会の不倫

 大垣倫理法人会は、毎土曜日の朝、経営者モーニングセミナーを某ホテルで開催している。伊藤ひでみつ県会議員は、氏の議員会報で、「この場で学んでいます」と大威張りである。しかし、その場所は公共の場のホテルレストランである。その場で、大垣倫理法人会の会員は、傍若無人のふるまいである。小川敏大垣市長は、この会の顧問を務める。

 

大歓声

 ある朝、2018年9月22日、そのレストランで朝食を取ったら、担当者がピリピリして不機嫌であった。訳を聴いてみたら、レストランの奥の部屋に陣取った大垣倫理法人会が、場違いな歓声と拍手の騒音を立て続けに出しており、宿泊の客から苦情を言われたという。それは新入会員の紹介と自己紹介で歓声と拍手の連弾であった。まさに傍若無人の振る舞い。

 それが終わった後も、数人の幹部が残り、1時間ほど、隣の部屋まで聞こえる大きな声や笑い声で議論をしていた。周りの迷惑は知ったことではないのだ。

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ホテルの対応の変化

 以前は、倫理法人会のメンバーは早朝セミナーの後、朝食をホテルのレストランで、一般客と同席して取っていた。しかし、あまりに非常識な振る舞いが多く、他の客への迷惑行為が多かったので、ホテルが客の苦情で別の会場にした。しかし、その変化を倫理法人会の幹部は分からなかったようだ。

 経営者は、世の中のわずかな変化を捉えないと、経営者として失格である。また倫理法人会は会員の入れ替わりが多いようだ。会員は単に仕事のツテを求めて会員になっているようだ。入会の動機が不純なのだ。

 

講師の傍若無人

 ある朝、朝の経営者セミナーの講師が、外車をホテルの玄関のど真ん中に後ろ向きに止めて、平然としていた。伊藤ひでみつ県会議員が最敬礼で、講師をお見送りしていた。異常だ。ホテルの正面のど真ん中に止めれば、客が呼んだタクシーが駐車できない。排気ガスが、ホテルに出入りする人に、まともにぶつかる。そんな感性で、何が経営者を指導する講師なのだ。非常識極まりない。

 

会員の下世話話

 朝のセミナーが終わった後、参加した会員が話し合っている話しが下品なのだ。節税とか、後継者問題で、占いとか、金儲けとか、所詮、中小零細企業の社長のおばん達の下世話な話題ばかりが聞こえてきた。モーニングセミナーの講演とは隔絶したレベルである。

 

人の上に立つ人の道

 丸山敏雄師は、「人の上に立つということは、真っ白い衣を着て、ぬかるみを歩くようなものだ。泥を撥ねまいとして、一歩一歩細心の注意をして歩く。その繊細さがなければ、その団体は知らず知らず堕落していくのだ。」(p363 神渡良平著『一粒の麦 丸山敏雄の世界』致知出版社)

 

 丸山敏雄師の言葉は、万人の管理者が肝に銘じるべき言葉である。丸山敏雄師が草葉の陰で泣いている。

 

2018-10-12 久志能幾研究所 小田泰仙

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