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2018年9月24日 (月)

「妖怪飛行船巨鯨号」で行く人生航路

 この「妖怪飛行船巨鯨号」は水木しげるさんが一番気に入っていた絵だという。この絵のご利益が「交通安全」というので、気になり、知人が2018年8月26日に大垣に尋ねてきたとき、一緒に展示会に見に行って追加購入を決めた。これも何か導かれたようだ。聞けば、水木さんの版画を数枚購入した人も多くいたとか。

 それが今日9月24日、入荷してやっと自宅に飾ることができた。聞けば、先の大垣ヤナゲンでの展示会(2018年8月20日~8月27日)で100点ほど売れたとか。大垣市で開催された水木しげる版画展であったが、遠く郡上とかの岐阜県全体から来たお客さんに売れたという。それだけ水木しげるさんの人気が高いのだ。

 

水木しげるさんの版画

 水木しげるさんの版画は、それ専用に描いているので貴重だという。手塚治虫、石森慎太郎、水島新司さんなどの版画は、アニメ用に作った原画から版画にするので、今後、いくらでも出すことができる。しかし水木しげるさんの版画は一点一点、力を込めて描いている。水木さんは2015年に亡くなられたので、もう新しい版画が出てくることはないという。

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水木しげるの想い

  この版画は、「交通安全」がご利益というだけで、詳細の説明はなかった。私が、水木しげるさんの意図を想像して語ると、下記になる。あくまで私の私見です。

 鬼太郎が肉団子をねずみ男の目の前にぶら下げて、ねずみ男がかごの中で必死にかごを回している。まるで我々が、周りを見ずひたすら、目の前にブラ下がった餌につられて、金儲けに向かって走っているようだ。

 その飛行船の船長は己なのだ。その状況で、誰も前を見ていない。一つ目小僧は後しか見ていない。鬼太郎も一つの目で、ちらりと前を見ているだけ。ご先祖を象徴する火の玉だけが、心配そうに両目で前を見ているだけ。

 巨大な鯨のどんがらの皮の中に水素が入っていて、妖怪飛行船は空中に浮いている。その水素とはご先祖様の御恩である。我々はその恩恵で、たまたまこの世に泡沫のように浮かぶように生きている。鯨の皮は、それを象徴している。

 ご先祖様の指令を受けた「子泣きじじい」が、妖怪飛行船の下にしがみつき、飛行船の下側に取りついて前後に移動することで、妖怪飛行船が上を向いたり、下を向いたりと姿勢を変える。「子泣きじじい」は鬼太郎を助けて、悪さをする妖怪と戦う老人妖怪で、その身体は瞬時に石のように硬くなり、敵に抱きつけば2トンほどの重量になって押しつぶすという。何もないときは昼間から酒を飲んでいることが多い。まるでご先祖様の思し召しで、我々の運命の上昇、下降を操っている様を象徴している。

 

ご利益

 9月18日の老人の自転車とのヒヤリ事例で、もう少しで人身事故になるところを、ご先祖様に危ないところを助けて頂いたようだ。それもこの絵を注文してあったお陰と思う。

 

2018-09-24 久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年9月19日 (水)

花より団子の墓参り

 2018年9月19日、8月のお盆に行く予定だった墓参りを本日、行ってきた。大垣から名古屋に住む叔母を車で迎えに行ってから、彦根の墓地に行ったので、往復で318キロの走行距離となった。朝8時に出て、帰宅が夕刻の6時である。名古屋市内の渋滞もあり、長時間の運転は60台後半の私には応えた。若い時は良いが、年齢を重ねると、遠距離・長時間運転は、安全上で控えるべきと、再確認した。来年は、叔母に大垣まではタクシー・電車で来てもらい、それから車で送迎しようと思う。

 

お花のお供えをヤメ

 最近、近所の花屋と道徳的なトラブルがあり、今年はお花を買わずにお墓参りをした。そのトラブルが、商売道義上、宗教上、信用上で、あってはならないトラブルで、その花屋とは縁を切った矢先である。そのトラブルを佛の啓示と思い、いつもその店で準備して彦根に持っていくお花を取りやめた。その代わり、お寺さんにお供えするお菓子を奮発することにした。

 法事の時は、きちんとお花をそなえればよい。毎日は、自宅の仏壇に、お花とお供えを供えてして、お花の水を替えている。私は毎日、朝のお勤めで読経し、写経をしている。

 今日の墓参りで、この1年間の写経分を持参し、お焚き上げをお願いした。毎日写経と言っても、一日は数行で、1週間で般若心経が1枚である。それは恵峰先生が、毎日、数行でよいから、写経を続けるとよいと教えられたのを実行している。

 

変更事項

 考えれば、お墓にお花をお供えしても、炎天下では、水の補給をしないと数日で枯れてしまう。私には遠隔地のため、毎日の水補強は不可能である。お墓にお花を供えても、ご先祖様以外は誰も喜ばず、現世では己の見栄でしかない。お寺さんもお花の枯れた後の後始末で、仕事が増える。

 それでそのお花分の金額をお菓子のお供えに代えれば、それがお寺さんとしてお参りに来た人への茶菓になり、お寺さんも喜ぶ。私も、墓参りでの必要総金額が減る。ご先祖さまも、子孫が、金銭的余裕ができてうれしいはず。ご先祖、お寺、当家、菓子屋の4方に益があり、花屋だけが損である。それも経済の原則で、因果応報の帰着である。

 

40万円の節約

 当家の墓は3基あり、3対のお花のお供えが必要である。彼岸とお盆の時のお花代がかなりの出費である。特にお盆時は、お花にホウヅキの花が付き値段が跳ね上る。花屋には稼ぎ時で、客が足元を見られているようで、何か、納得できない。

 この処置で、概算すると、40年間で40万円程の節約となる。ご先祖様も子孫の節約での金銭余裕ができ、お喜びのはず。

 

時期の変更

 今年の夏は異常に猛暑で、とても墓参りに行く元気がなく、この9月の涼しくなった時期の墓参りに変更した。お寺さんに聞けば、このお盆は、お参りにみえた方が少なかったとか。

 今回の墓参りでは、9月の涼しい気候で、落ち着いて墓前で手を合わせることができた。来年も、この時期の墓参りに変更する予定である。お墓が地元にない場合は、何も8月15日のお盆の時期にこだわる必要もあるまい。自宅の仏壇の前で、お盆のお供えをすればよいこと。

 

2018-09-19  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年9月16日 (日)

お金の作り方、私の金銭哲学

 2018年9月15日、京都府民ホールのアルティでのサラ・ディビスさんのコンサートのため京都に出かけた。アルティは、松本明慶仏像彫刻美術館より徒歩5分の場所にあるので、先に美術館を訪れた。昨日は、演奏会後に知人と食事をして帰宅が遅くなり、更に町内で不愉快な事件があり、ブログがアップできず恐縮です。

 

明慶さんのお話し

 美術館では、珍しく松本明慶さんが居られて有益なお話が聞けた。

 「今まで創ってきた仏像の新しいアイデアは、ものになるのに、10年はかかった。いくら私に力があっても、一人ではできない。皆の力があってできたこと。エジソンンも弟子が5000人いて、それを実用化するのに大きな力となった。エジソンのアイデアも、いうなればチャチなアイデアであるが、それを実用化するには膨大に人工がかかる。エジソン一人で、それができたわけではない。松本工房も40人の弟子がいて、その皆の力で今のアイデアが込められた仏像ができている。」と。

 

お金つくりの蘊蓄

 昼時、明慶さんから、美術館前の喫茶店でカレーをご馳走になった。明慶さんに出会って、8年目で初めてのこと。ご縁のカレーを食べるにも、10年くらいはかかるのを実感した?(笑) 食事をしながら明慶さんは「小田さんは、どこからお金を作っているの?」と聞かれたので、思わず私の金銭哲学と、その蘊蓄を述べて感心してもらった。

 「お金を使わないから、お金が残らない、豊かになれない。お金を使わねば、お金はたまらない」と私の金銭哲学を披露した。

 

お金は人生劇場の入場券

 貧しい身なりの独居老人が亡くなって、後から床下に、数千万円の札束が発見されたという話をよく聞く。お金はお足である。お足を足止めするから、お金に恨まれて嫌われるのだ。水とお金は、流さねば腐ってくる。恨まれる。お金を足止めすれば、お金エコノミー症候群になってしまう。それでは豊かになれない。

 一万円札は日本銀行券で、お金ではない。本当のお金とは「金塊」である。一万円札の日本銀行券は、人生劇場の入場券でご縁の交換チケットも兼ねている。それも有効期限があり、生きている間しか使えない。

 

退職金が紙くずに変身

 たまに預金封鎖、銀行券更新があり、紙くずになることがある。母方の祖父が退職金を銀行に預けていたが、昭和22年に新円切り替えの憂き目にあい、紙くずとなった。その話をよく母から聞いた。お金を銀行に預けていたためである。お金は「天」に預けねばダメである。

 

お金の魂

 お金は使ってこそ価値がある。お金を正しく使うと、お金がお友達を連れて帰ってきてくれる。正しく使わないから、大切に扱わないから、お金が己を見限って逃亡するのだ。

 モノには精霊が籠っているが、お金には魂が籠っている。お金の「魂」は、己の心に住む鬼が云うと書いて「魂」である。お金の使い方に、己の本心が現れる。その本心を見透かして、お金は逃げもし、寄ってもくる。全て己の心が決めること。

 

ご縁兌換券

 お金はご縁の出会い用の交換券である。お金を使って、出かけ、良いものを買い、良い出会いを見つけ、新しいご縁を捕まえるのだ。そのご縁が自分の未来を創る。そのお金を銀行や床下に閉じ込めて、預金通帳を見て自宅で一人、ニタニタしていては、幸運の女神とは出会えないし、誰も寄り付かない。

 

馬場恵峰先生の無価珍

 馬場恵峰先生は、自費で中国に240回以上も行かれた。一回30万円の旅費として7千万円ほど使った。形には何も残っていないが、しかし頭の中には智慧とご縁がお宝として貯まった。それを無価珍という。無価珍とは、計り知れない価値あるお宝という意味である。それで今の馬場恵峰先生がある。現在92歳、現役で、頭脳明晰である。60歳の時、社会貢献として1億円の借金をして350坪の土地に日中文化資料館を建設した。24年をかけて、借金を完済した。84歳の時である。

1img_3558   日中文化資料館

2img_3557   付属図書館

人への投資

 私は買うなら一番良いものを、付き合うなら一流の人と、そのためにお金を惜しまない。トータルでは、その方が人生経営が効率的で安く、お得なのだ。だから預金通帳の残高は少ないが、無価珍というお宝は貯まった。

 お陰で超一流の先生達の謦咳を聞くことができた。早稲田大学名誉教授篠田義明先生、ミシガン大学のスチブンソン教授、マセイズ教授、馬場恵峰先生、松本明慶先生、三好輝行先生とご縁ができた。

 

本への投資

 その出会いと同じ価値のある本の出会いのため、私は本代もケチらない。昨年は、書籍代が65万円であった。本の内容を、自分で経験して、それを本にすることを思えば、1000円の本代は、安いのだ。そう思って本を買っていたら、いつの間にか、本の総重量が4トンを超えた。高さ2.4m×長さ20mの本箱分の蔵書の量である。それの本棚(3列のスライド本箱)と収納書庫もリフォームで700万円をかける羽目になった。本は重いので床の補強が大変であった。その投資をして多少は智慧が付いた。

 

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日本企業の守銭奴

 今の日本の景気が良くならないのは、貧乏人が預金通帳を見てニタニタしていると同じである。企業は社員の給与を上げず、内部留保に努め、設備投資も控えている。これでは、企業は成長しない。社員は給与が上がらないので、財布の紐を閉めてお金を使わない。悪循環で、これでは景気が良くなるわけがない。

 

布袋様

 布袋様は弥勒菩薩の化身である。菩薩とは如来を目指して修行の佛道を歩く仏様である。布袋様は、現世で自由奔放に諸国を背中に袋を背負って歩く禅師である。その袋を堪忍袋という。その堪忍袋に無価珍を貯めている。無価珍は、諸国を歩き回ることで、経験を積み、智慧が付き、それが何物にも代えがたいお宝となっている。布袋様は、その堪忍袋の口をギュッと握りしめて、それが外にこぼれないようにしている。でもたまには、堪忍袋の口を緩めて、怒りを見せて、持てる智慧を少し出すのも、仏様の愛嬌である。豊かになるために、布袋様を見習って生きよう。先人が考えた智慧は素晴らしい。

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 馬場恵峰書画

2018-09-16  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年9月11日 (火)

極楽浄土の方向への旅

極楽の苦 

 9月6日から3日間、西方浄土の方向にある広島市と長崎県大村市に行ってきた。そこで、体験したことは、極楽浄土の近くに行くと、そこは認知症者ばかりの気に溢れ、遠い霊界からも便りがあり、話が通じなく地獄の苦しみを味わうこと。

 極楽浄土には、昔お世話をした人が大勢いたが、私を見て、「あんたは誰だ?」と言われて、悲しくなった。これは地獄だ。極楽浄土にいる人は、お上が決めた悪法でも、それが絶対だと痴呆のように守り、私がそれを指摘すると「なんでや?」と言われて、こちらが地獄も見る。苦である。

 

苦とは

 仏教でいう「苦」とは、通常の苦しみの意味ではなく、四苦八苦の己がいくら努力をしても思い通りにならない人生の掟を意味する。四苦とは「生老病死」で、極楽でも思い通りにならないことが「苦」である。いくら頑張っても老いも病も死はやってくる。その中で、どう生きるかが仏教の教えである。仏教では輪廻転生を説かれている。だから、極楽にも地獄にも「生老病死」はあるようだ。

 

極楽性症候群

 見ていると、極楽にいる人は、一日中やることがなく、考える必要もなく、やる必要がなく、期待もされず、ボケーと安楽にふわふあと暮らしているだけだ。それは現世で「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」の極楽状態である。極楽とは、本人には極楽であるが、周りの人は地獄なのだ。それなら、現世も同じである。地獄はあの世ではなく、この世が地獄なのだ。それが悟れれば、怖いものはない。

 

極楽で地獄の苦しみ

 仕事師の私は、極楽は、気が狂いそうなほど暇で、地獄の苦しみを味わった。相手が認知症では話が通じず、地獄の苦しみである。極楽での喧嘩は、空気とやり合うことなのだ。言いたいことを言っても空気に吸い込まれ、通じない。ぬり壁と戦っているようで、地獄である。仕事をさせてくれ、である

 

地獄の楽

 それに比べて、地獄には人間味あふれた仲間が一杯いる。話し相手も多い。話せばわかる人も多い。閻魔様の掟では、一度でも嘘を言えば地獄行きである。嘘も方便は通用しない。だから全員が地獄行きである。極楽に行く人の多くは、認知症で罪の意識のない人である。

 平和に暮らして、罪を罪と思わずに極楽トンボで人生を過ごした人より、世のためにあえて罪を犯した波乱万丈の人と話した方が面白い。波乱万丈だから、智慧を使って生きてきた。嘘も方便で罪を犯してきた。危機管理で、強弁もした。この世の地獄の業火と真剣に向き合うと、大げんかもするし、戦いもある。それでこそ、火もまた涼し、の境地となる。それこそ現世で、仕事冥利で極楽ある。現世でも、一日中、やることがなければ地獄である。会社で厄介者を辞めさせる手段は、仕事を与えないこと。いろいろと何かがある今が一番幸せなのだ。

 

布袋様の教え

 以上の結論を夢の中で布袋様に教えられて、大村市のホテルで目が覚めた。布袋様は、弥勒菩薩の化身である。布袋和尚は現実性豊かな自然奔放な禅師である。布袋様が背負う袋を、堪忍袋という。その堪忍袋の口を堅く握りしめているのが布袋様である。堪忍袋には稀有なお宝が満杯である。痴呆に満ちた境界では、堪忍袋の口を固く握りしめよ、が教えである。痴呆な人に堪忍袋に入ったお宝を放出しても意味がない。猫に小判である。痴呆の人に怒っても、己が馬鹿を見る。現実を見て、相手を見て堪忍袋から出すお宝を決めよ、である。

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 馬場恵峰書  2018年9月7日入手

 

言えない苦しみ=地獄

 大垣市のド田舎は、長老達が何事もなあなあと穏便にすませて、考えたり、問題点を指摘してはいけない極楽世界なのだ。長年やってきたことを変えてはいけないのだ。大垣市各組織の古い幹部達には極楽である。外から来た常識ある市民には地獄である。

 

生きている証

 いろいろとあるから、生きているのだ。死んでしまえば、何もなく、地獄の苦しみを味わうのだ。人生の旅が、サハラ砂漠を行くように平坦ばかりでは、行けども行けども、同じ景色で辛い旅路となる。山あり谷ありと、いろいろとあるから良いのだ。今の難解な雑事をいかに世のためにこなすのが、頭の活性化にもなり、認知症防止にもなり、生きているという実感が湧いてくる。

 以上が今回、西方浄土の方角にある広島と長崎に行ってきた学びである。犬も歩けば棒に当たる。ご縁を得るには出かけねばならぬ。今回は、布袋様に出会ったのが最大の収穫。

2018-09-11  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月 7日 (金)

お釈迦様と人生の逆走者

 いつもは寡黙なお釈迦様が最後の大事な法話をされるというので、3000人の弟子が集まった。

信心深い弟子たちは、心待ちにお釈迦様が口を開くのを待った。傲慢な弟子は、「釈迦が最後に大事な法話をするというなら聞いてやろう。どんな話をするか見ものだ」と上から視線の態度でお釈迦様を見つめていた。

 しかしいくら待っても、お釈迦様は、じっと目をつぶり座禅を組んで瞑想を続けておられた。舎利子(お釈迦様の一番弟子)が、「お釈迦様、皆がそろいました。ご法話を」と。それでもお釈迦様は瞑想を続けた。

 そのうち、弟子が一人去り、二人去りと座を立って行った。舎利子が「お釈迦様、ご法話を」と2回目の督促をしても、じっと目をつぶり座禅を組んで瞑想を続けておられた。しびれを切らして、さらに多くの弟子が席を立っていった。

 ほとんどの弟子がいなくなった頃、お釈迦様はおもむろに目を開けて「さて、本当に私の法話を聴きたいという弟子だけが、残ったようだ。それでは法話をしようか」とお話を始められた。

 3千人いた弟子で、残っていたのは23人だけであった。口先でお釈迦様をいくら美辞麗句で褒めても、実際に残るのは3千人いても23人だけなのだ。後の衆生は、お釈迦様の説く道を逆走する裏切り者なのだ。

 

法華経の教え

 以上のお話は法華経に書いてあるお話である。いくら口で美辞麗句を並べても、実際にお釈迦様の教えを行動に移す人は千人に3人である。千三つとはよく言った言葉である。

 昨年の2017年、私は、馬場恵峰先生の90歳の卒寿記念として『馬場恵峰卒寿記念写経展 報恩道書写行集』を書籍として発刊した。馬場恵峰先生がこの30年ほど揮毫してきた写経の軸、書、屏風を長崎波佐見町の「馬場恵峰卒寿記念写経展」で展示され、それを私が写真に撮り編集をして、写真集として出版した書籍である。

 

出版顛末記

ところが全く売れない。買ったのはお弟子さん達だけで、関係のお寺さんも見向きもしない。先生が講師として、1億数千万円以上の売り上げに貢献した大阪のN教育研究所のT社長が買わない。直接、案内を送っても、社長もその幹部も買わない。その社長は、口では道徳だ、人徳だと宣伝して商売をしている。先生にお世話になっている九州のT塾のO社長が買わない。その関係者が買わない。その社長たちや幹部は、「先生には大変お世話になっています」と口では言うが、肝心な時はそっぽを向く。大会社の社長の身で、わずか7000円の出費なのに。なぜ恵峰先生の卒寿のお祝いの心が表せないのか。社長業は家庭の主婦ではないのだ。私はT社長とは縁を切った。

 

2000年の人間の歴史

それが「人生の真理だ、2000年前の法華経にそう書いてある」と、恵峰先生から慰められた。「それでその社長や関係者の人間性の本音が露見して良かったね。今後の付き合い方を変えればよいのだ」と恵峰先生から慰められ、先生と今回の事象を慰め合った。本が全く売れないのは、恵峰先生にも想定外であったようだ。恵峰先生が、心血注いで揮毫してきた写経集である。年老いてからの、世間から突き付けられた厳しい現実である。ゲーテが言うように、「努力は人を裏切る」のだ。今年の初めの話である。

 

人生の真理

私は、今回の顛末で法華経から人生の真理を学んだ。2000年の風雪に耐えた経典は素晴らしい。司馬遷の『史記』に出てくる人間模様と同じく、人間の本質は2000年前と何ら変わっていない。むしろ拝金主義の横行で、人間性が劣化しているようだ。

 

2018-09-07  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年9月 5日 (水)

優しい人がガンになる

 憎まれっ子世に憚る。優しい人がガンになる。優しい人は、言いたいことも言えず、仕事を抱え、問題を抱え、悩みを抱え、ストレスを多く抱えるからガンになる。ガンまでも行かなくても、胃潰瘍、神経失調症、不眠、うつ病になる。ストレスがあるから、食べてはいけないモノを余計に食べて、肥満になり病気の原因を作る。

 私はガンになる要因の半分は、精神的なものだと思う。最近、身近な人がガンになられて、私は落ち込んでいる。

 

正道を行く

 正しいことを嫌われていいから言おう。言わなくてストレスをため込むよりいい。そうしないと、鬱病になってしまう。そうすると自分の人生時間を病気に奪われる。家族を悲しませる。正しいことを言わないと、その組織は死ぬ(倒産、失業)。正道を行って、冷遇されたら、それは組織の方が間違っていると思おう。違法なら、いつかは露見する。正論を言わないと、業務上過失致死罪に問われる恐れさえある現代である。

 タカタのエアバック事件、三菱自動車の事件、JR西日本の違法教育が起因の脱線事故を起こすより、正しいことを言って、左遷された方が、死亡事故を起こすよりも、また自殺に追い込まれるよりはいい。正しい辞職や左遷は、自分の運命を好転させる。それは仏様のご配慮と思おう。

 上司の違法な指示に従うのは、会社での成功(出世)が、人生の勝利の価値であると洗脳教育をされているのだ。電通で、東大出の女性が過労で自殺に追い込まれた事件があった。彼女は会社の出世至上主義教に洗脳されたのだ。死ぬくらいなら何故、やめなかったのか。命と出世とどちらが大事なのか。障子を開けてみよ、世間は広いぞ、別の道がいっぱいあるではないか。

 

自分の価値観

 会社内や世間での成功が、一番の価値観と思うから、定年後に不幸になる。自分の価値観を会社の価値観に迎合させた罰である。人がどう思おうと、自分が幸せと感じればよいのだ。自分が幸せになる努力を必死にやろう。そうやって水木しげるさんは幸せを手に入れた。

 最近、水木しげるさんの版画を入手してから、水木しげるさんの生き方に興味を抱き、著作を7冊ほど入手して読み込んでいる。そこで共感したことにヒントを得てエッセイを書いている。

 

気とは

 「元気」、「やる気」、「病気を治す気」になる「気」になろう。正しく生きる「気」になろう。「気」は旧字では「氣」と書く。「米」は米粒のような小さいものの意味。音符の「気」は湧き上がる蒸気の意味。霊気、水蒸気の意味。その気にならないと、何事も成就しない。日本の景気が良くならないのは、政府に景気を良くする本「気」がないから。デフレだ、少子高齢化のせいと、諦め「気」味になっているからだ。

 

水木しげるサンの幸福の7か条

 1.成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

 2.しないではいられないことをし続けなさい。

 3.他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。

 4.好きの力を信じる。

 5.才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

 6.なまけ者になりなさい。

 7.目に見えない世界を信じる。

 

好きなことに全力投球

 ノーベル生理学賞を受賞された大村智先生も、稼ごうとして特許料200億円を得たわけではない。研究が好きだったのだ。水木しげるさんも稼ごうとして妖怪漫画を描いてきたのではない。絵を描くことが好きで、片腕しかない身で、それしか生きていく術がなかったからだ。家族思いの水木さんは、生活の糧を得るのに必死だったのだ。必死ではあったが、水木サンルールを作って、それを信条に生きてきた。だから93歳の天寿を全うした。

 

睡眠の水木ルール

 水木さんは、「ゲゲゲの女房」の布枝さんに「手塚さんも、石ノ森さんも、みんなすごい漫画家だったけれど、あの人たちは眠らずに仕事をした。オレもあまり眠らなかったけど、あの人たちはそれ以上だった。だから早く死んでしまった。人間は眠らなきゃダメなんだ」(p217)と回顧している。ご先祖から頂いた命だ。大事に使わなくては罰が当たる。

 

なまけもの

 「ナマケモノになりなさい」は、水木さんの超一流の逆説的な言い回しである。水木さんほど、死に物狂いに漫画を描き続けた人はいない。自分の好きな道だから、人から言われなくとも必死になれる。それ以外の世間の雑事はなまけなさい、である。

 新婚当時、水木さんが一心不乱に漫画を描いていた。その後ろ姿からオーラがでていて、新妻の布枝さんは、水木さんの仕事姿を、ぼーっと眺めて感動したという。

 その二人が年老いて、富士山の小屋に行ったとき、布枝さんは、「私じゃない人と結婚していたら、どうなっていたのかなぁ」と水木さんに聞いた。水木さんはポツリと言った。「よかったんじゃないか、お前で、いつもぼんやりばかりしていて」、「ぼんやり? 私、ぼんやりしている?」、「とんでもなく、ぼんやりだ」、「そうかなぁ」、「ああ、横を見ると、いつもお前がぼんやりと立ってたな」。

 黙って見守るのは慈愛の仏様なのだ。ごちそうさまでした。水木さんは、慈愛に満ちた仏様に見守られて、93歳の天寿を現役のまま全うした。

(内容の一部は、武良布枝著『ゲゲゲの女房』実業之日本社刊 を引用)

 

2018-09-05  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月 2日 (日)

「生老病死」で人生賛歌

 「生老病死」は四苦といわれるが、見方を変えればそれは人生の喜びである。それを四苦と見ると、生命の存在を侮辱することになる。生あるものは、必ず死がある。死を考えるより、生まれたことを喜ぼう。

 

 生とは、何ものに代えがたい喜びである。筑波大学の村上名誉教授の説では、人間として生まれる確率は、1億円の宝くじが1億回連続で当たると同じくらいの幸運である。己が牛、豚に生まれなかったことを喜ぼう。

 

 老とは、大成する意味で、人間としての到達点である。大老、長老、と大事な名前である。それは精神の熟成である。最近は、年をとっても精神が痴態化する人が増えた。それは老成とは言わない。退化である。老になれば、尻の赤い若造ではないのだ。

 

 病とは、命を長らえさせる役目があるから、長生きできる。病を得ても、直ぐ死ぬわけではない。病は神仏からの警告である。そのままの生活態度なら、死は早いよと、優しく教えてくれている。その悪い生活習慣を直せばよいのだ。そんな親切な声に喜ぶべきだ。

 病とは、人生道を制限速度以上で突っ走ってきて、神様からスピード違反の切符を切られただけである。師も見込みのない弟子には、何も言わない。言っても無駄だから。言ってももらえただけ幸せである。少し人生の疾走速度を落とせばよいだけだ。自分の体が悲鳴を上げているのに、それを無視するなど鬼である。そのまま走れば突然死である。突然死は、何物にも代えがたい悲劇である。病とは、人生道スピード違反の取り締まりレーダなのだ。それを無視すれば御用で、あの世生きである。

 

手塚治虫さんの死

 手塚治虫さんはスキルス性胃癌におかされた。当時の習慣として本人には病名は告げられなかった。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚さんは、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。最後は昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言って、死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と仕事への執着心を無くさなかった。それが手塚さんの最後の言葉であったという。

 

人生の「水木サンルール」

 天才と呼ばれた手塚治虫さんは、仕事に超多忙で、いわば暴走して60歳で亡くなられた。命を削って仕事をされたのだ。まるで突然死である。例えれば神様から超高性能ベンツを与えられて、命の意味を勘違いして飛ばし過ぎたのだ。

 水木しげるさんは、途中でそれの誤りに気が付いて暴走スピードを抑えて、仕事量を減らし、人生の「水木サンルール(幸福の7か条)」を取り戻し93歳の人生を全うされた。長生きしたから、紫綬褒章、文化勲章を授与された。水木しげるさんは血のにじむ努力をされた方で、手塚さんのような天才ではないと思う。その生き方には、妖怪の導きと援助があったように見える。妖怪の霊が、いつも水木さんを見守っていたようだ。

 凡人の私には、天才肌の手塚治虫さんより、水木さんの生き方が参考になる。我々に与えられた人生の乗り物は、良くて日本車の2500ccクラスの能力なのだ。水木さんは、その車を大事に乗って、境港市に水木ロードを作った。

 

 死とは、生を生むために前工程である。死があるから、生がある。死なくして生はあり得ない。生まれるてくる胎児も、手の指の間の細胞が死ぬことで、指が形成される。今あるモノが死ぬことで、新しいものが創られる。

 徳川家康や菅直人やヒットラーが、現代でも生きていれば困る。菅首相が今も首相の生命を保っていたら、日本は破滅である。徳川家康がまだ生きていたら、安倍さんも政治がやりづらかろう。TTPどころか、鎖国である。徳川幕府が死んで、明治政府が生まれて日本は発展した。死は現状に新しい息を吹き込むのだ。死があるから緊張感がある。任期もその職の死である。死があるから、任期を意識して仕事ができる。

 いつまでも己がその座を死守して居座っていては、後進が育たない。新しい目が出ない。後進に道を譲るのがそのポストの死である。そうやって組織は成長していく。新陳代謝のない組織は、永遠の死があるだけ。

 

 余生とは、生への冒涜である。人生で余った生などあり得ない。余命を楽しむ人は認知症の人である。すでに死んだ状態である。毎日が、新しい命の生まれであり、寝る時がその日の死なのだ。翌朝、まだ息をしていれば、まだこの世でやることがあるとの神仏の声なのだ。「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」では、業病に悩む人は、その命をくださいと懇願するだろう。

 

水木サン 幸福の7か条

 1.成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

 2.しないではいられないことをし続けなさい。

 3.他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。

 4.好きの力を信じる。

 5.才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

 6.なまけ者になりなさい。

 7.目に見えない世界を信じる。

 

お見舞い品

 以上は平澤興著『平澤興語録 生きよう今日も喜んで』(致知出版社 1000円)にある「四苦即四喜」の章の内容にヒントを得て記述した。著者は元京都大学総長で、ノーベル賞候補にもなった業績を上げられた。この本は、小冊子で全152頁、大きな活字で少ない文字なのですぐ読める。これは病気見舞いに最適の本である。私は今までに病気になった方に累計で30冊ほどを贈っている。皆さん、この本を読んで、生きる力をもらったと大変喜ばれる。病気でなくても、生きる力をもらうために、お勧めの本である。

 

2018-09-02  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年8月29日 (水)

「ぬり壁妖怪」との遭遇

 2018年8月24日、ヤナゲン大垣本店での水木しげる版画展で「ぬり壁と狩人」を「幽霊電車」と同時に購入した。

 8月26日、友人が突然訪ねてきたとき、縁を感じて一緒にこの「水木しげる版画展」を再度見に行って、気になっていたもう一枚を購入した。どうも「買え買え」という妖怪の声に取りつかれたようだ。

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「ぬり壁」とのご縁

 その絵の説明に「夜の海岸やひとけのない道、森の中などで突然現れて人を驚かせる。押しても引いてもびくともしない。大きさを自由に変える。」、効能として、「意思が強くなる」とある。とある。これは水木しげるさんの反戦思想の代表作で、意志の固さの象徴の絵だと聞いて、購入を決めた。

 水木しげるさんは第二次世界大戦のラバウルでの戦闘で、左手を失う大けがをする。その時、上官はなぜ死ななかったのだと罵倒したという。それで水木さんの反戦思想が芽生えたのだろう。

 この絵は、どんなことあっても、自分を守るために立ち塞ぐ大きく防御壁を表している。理不尽なものへの抵抗でもある。それに立ち向かう水木さん自身を象徴している。そんな「ぬり壁」の妖怪に守られて、水木さんは戦後を生きた。

 人は壁に守られて生活している。他の理不尽な攻撃に対して、守ってくれるのは自分の内なる「壁」である。壁は黙って敵の攻撃を防いでくれる。そこに水木さんは妖怪の霊気を感じた。その壁はシャイで無口である。しかし意思は固く己を守ってくれる。たまにいたずらで人を驚かせるのは愛嬌である。

 

水木さんが「ぬり壁」と遭遇

 「ぬり壁」は福岡県の海沿いに出没すると言われる。壁の姿をした妖怪である。夜道を歩く者の前に突然立ちはだかり、行く手を遮る悪戯をする。

 第二次世界大戦で、戦場に駆り出された若い水木さんは、「ぬり壁」に出会って命拾いをした。当時、水木さんの部隊はラバウルにて敵軍に襲われ、水木さんは仲間とはぐれて、一人森の中を逃げ回っていた。すると目の前に突然巨大な壁が立ち塞がった。それはコールタールで塗られたような平らの壁で、触ると指が入る柔らかさであった。ハッと気付けば四方がその壁に囲まれており、身動きができなかった。水木さんは、なす術もなく、いつしか疲労困憊で眠ってしまった。明るくなり目覚めた時には、その壁は消えていた。しかも、水木さんが寝りこんだ場所の目前は断崖絶壁で、そのまま進めば命がなかった。水木さんは見えない妖怪に見守られて救われたのだと感じた。帰国後、文献を読んで、あの時に遭遇したのは「ぬり壁」だったと確信した。

 

自分の「ぬり壁」経験

 自分の人生で、何か形のない壁にさえぎられて、前に進めず忸怩たる思いで退散したことは多い。後日、それを振り返ると、そのまま進むと悲惨な状況になることが予想され、そのまま進まなくてよかったと思うことが度々ある。それはご先祖様が形なき「ぬり壁」となって守ってくれたのだと今にして思う。

 大自然の中でごく一部として生かされている自分は、見えないものへの畏敬を疎かにしない生き方をしたい。それを水木さんの「ぬり壁と狩人」が教えてくれた。感謝。

 

2018-08-29  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年8月28日 (火)

「神佛無限会社」の経営診断

 会社とは、有志が集まって世のために働く組織である。有限会社、合名会社、合資会社、株式会社等とあるが、皆さんに幸せを与える神佛が集まった会社は無限会社である。その会社の製品(幸せ)を手に入れるには、正しい対応が必要である。

 

「祈り」を経営分析

 無心の利他の祈りには、冷静に回りが見える力を与える。単なる自分のための祈りには、お賽銭に託した押しつけがまさがある。わずか100円で、あれもこれもは、低価格競争防止法違反である。神様だって、神社の建屋の維持管理、減価償却でお金が必要なのだ。その神社仏閣からご利益があるか無いかは、全て己が作り出す業である。それを神仏に責任を押し付けてはクレーマとなる。

 祈りは運命と願いをつなぐ架け橋である。その架け橋とは自己犠牲の行動である。行動なき祈りは戯言である。行動なき人に幸運が訪れることはない。

 

女神様は丸禿

 幸運の女神には前髪はあるが、後ろ髪はないとされる。だから女神が来たら前髪を掴まないとダメである。しかしそれは俗説である。神様とは人間よりも進化した存在である。禿とは人間が動物的に進化した証である。だから本当の幸運の女神様は丸禿げである。それではかっこ悪いのでかつらをかぶっているに過ぎない(オダ仏教の仮説?)。

 かつらの毛を掴んでも、すぐかつらが取れて幸運の女神様は逃げていく。幸運の女神様を髪だけで掴もうとするから無理が出る。また捉まえられてもいつかは去っていく。それよりも幸運の神様に惚れられるような行動と人格を身につけるべきである。そうすれば、神様からすり寄ってくる。幸運の神様が近寄らないのは、あなたがケチだから。人間はいつもカラ手形、不渡り手形を発行するから、神様もゲンキンなもので、神佛無限会社はゲンキン取引である。

 

約束履行練習

 幸運の神様は信用金庫の頭取が大好きである。神前で「○○しますから〇〇をお願いします」と百万遍誓うことは、自分に対して、小さな約束事を守る練習である。自分に対して約束したことが守れない契約不履行者に、幸運の女神は微笑まない。自分への約束事を愚直に守る人に幸運は訪れる。

 

桐壺天皇の愛

 女性(女神様)は、自分を裏切らない人が好きである。自分へのひたむきな愛情であるからだ。それは願い事そのものである。地上120メートル(地上47階)の天上界から更衣の下界を見ると、それが納得させられる。天皇は更衣の身分の女性を愛してはならない掟がある。更衣とは、天皇の身のお世話はできる身分であるが、寝室には絶対に入れない。寝室に入れるのは女御という身分の女性だけである。それは摂政、関白、大臣、大納言、中納言の三位以上の身分の親の娘だけなのだ。だから更衣の身分で天皇に愛されるのは、まるで地上47階から地上を歩く女性を探して愛するごとき状況である。そういう掟を破る意思がないと、女神との愛は成り立たない。そこに人間ドラマがある。

 世界に冠たる小説『源氏物語』があったから、三島由紀夫は、小説家の筆を折って「盾の会」を作り、肉体を鍛え、自衛隊に突撃して割腹自殺を遂げたとも言われる。三島由紀夫は『源氏物語』を凌駕する作品を創れなかったのが、この事件の原因ではないかと、境野先生は言う。それほどの作品である。そんな素晴らしい作品が1000年も前に日本女性が書いた。日本の誇りである。日本の女性は女神だと境野先生はいう。

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境野勝吾先生の「源氏物語に学ぶ人間学」(全5回)講座が行われている京王プラザホテル47階。そのロビーからの展望。回りは新宿高層ビル群。2018年8月17日

 

報恩感謝

 50歳60歳までは社会や回りの人に支援され、生かしてもらい活動し、生活の糧を得てきた。ここまで来られたのも、皆さんの御恩のお陰である。60歳になれば、今度は回りの人に恩返しをする時である。それが今、不幸であるなら、今まで精進してこなかった証である。常に現実は正しい。全て神様仏様が示す因果応報である。初老を迎えた身で、神社仏閣で自分のためだけに必死にお祈りをする姿は滑稽である。それだけ真剣にお祈りするなら、なぜ今まで必死に生きてこなかったのか。

 神社仏閣は、感謝申告所である。お願い受付場所ではない。そんな不届き者が多いから、初詣で神社が大混雑する。神様がいくら24時間365日体制と言っても、神様だって忙しいのだ。たまには神様の身になって考えよう。それが考えられないようでは、幸せにはなれない。正月のそんな忙しい時に行かなくてもよい体制を作ろう。それが幸せの第一歩。

 

無財の七施

社会からご恩を受けて60歳を迎えたのなら、自分のことでなく、皆さんのことのためにこそ祈るべきだ。それが自分の分際を考えた祈りである。

 ベートーベン曰く「神に頼るとはなんたることか。自分で自分を助けよ。」と。

 60歳過ぎになったら、奪う人から与える人になれ。金が無くとも七施をせよ「無財の七施」(『雑宝蔵経』巻6)とは

 ・ 眼施    目による施し

 ・ 和顔悦色  笑顔による施し

 ・ 言辞施   言葉による施し

 ・ 心施    まごころによる施し

 ・ 身施    体=労働による施し

 ・ 床座施   席を人に譲ることによる施し

 ・ 房舎施   住まいによる施し

 

目の付け所

 目に見えないものに、目を向けないと幸せにはなれない。それが目の付け所。水木しげるさんは、それに目を向けて、妖怪作品を描きつづけて、文化勲章を授与された。水木さんは文化勲章を願って、作品を作ってきたわけではない。妖怪が水木さんを助けたのだ。妖怪も神仏の親戚である。

 

2018-08-28  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年8月27日 (月)

心に刃を向けよ

 人生とは、我儘な己の「心」に「刃」を向けて、「これでいいか、これでいいか」と問いかけ続ける己との戦いである。人生の最大の敵は己なのだ。それが自忍である。「忍」の字から「認」の字が生まれた。人生の最大の敵は、怠惰な己である。自認とは、己の怠惰な心を認めること。自忍がなければ、単なるケダモノ、良くて極楽とんぼである。

 

他人に刃を向けて

 今は、その刃を放り投げ、目先の餌につられて自堕落に過ごす政治家が多いから、世が悪くなる。その刃を他人に向ける輩が多いから、殺伐たる世相になる。フェイクニュースという武器を使って、人を傷つける輩も増えた。アメリカでは銃の乱射事件の頻発である。それでは世界は幸せになれない。

 その根本原因は、心の教育が疎かになっているからだ。自制心、自律心、自尊心、自励心、利他の心の育成が疎かになっている証である。2018年8月7日の大垣で、大村智博士は、講演会「私の半生記」で、その危惧を話された

 

心にグサッと

 要は、心にグサッと来ないと目が覚めない。それが人間の愚かさである。ケダモノが心にグサッと来て目が覚めたという話は聞いたことがない。グサッときたら、人間である証である。芸術の美に接してハッとすることも自認である。

 だから師も言っても仕方のない弟子には、グサッと刺す言葉を投げない。私も部下を持っていた時代、見込みのある部下しか叱らなかった。それが社会なのだ。

 

人間の正しい生き方

 人間として正しい生き方とは、生きる道標の経典、戒め、経営理念を前の車に乗せて、後ろの台車にやり遂げるべき仕事、経営を乗せて走る。後の台車に金、女、博打、酒、強欲、利権を乗せてはならぬ。3番目の車の荷台を見れば、その人の人生がわかる。3番目の荷台を見なくても、1番目の車の上を見れば、その人が分かる。

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 やりたいことだけをやるなら、ケダモノである。意に添わなくても、やるべきことをやるのが人間である。人間の「間」の字は、門の真ん中に太陽が顔を出すような人を象徴する。太陽のような行動をとるのが人間である。食べ物にしか興味がなければ、ケダモノである。

 

㊙慢体

 裏金、酒、たばこ、ギャンブル、女に溺れるのは、自分で自分を制御できないからだ。だからケダモノである。我々は豚や牛ではないのだ。人間として生きるべきだ。でもそれは個人だけの問題で、些細な事象である。

 政治家が、名誉欲、権力欲、覇権欲、利権等に取りつかれるのは、心が㊙慢体になるからのだ。それによる民衆への被害は甚大である。これは昔から政治家が取りつかれる病気で、世界中を地獄に落として来た。それは、今も続いている。己の傲慢さ、欲望、我儘を美しいスローガンで隠して民衆を騙している。その本心はマル秘なのだ。

 

大垣市の㊙慢体

 大垣市長としてやるべきことは何か、何をやってはいけないのか。大垣市という三貨車を運転するのに、何を一番目の車に乗せるか。小川敏大垣市長は、その選択を間違っているから、大垣市が衰退していく。その間違った「大垣中心市街地活性化政策」を掲げて失敗して、さらにそのPDCAを回さないまま、性懲りもなく間違った「大垣未来ビジョン」を一番目の車に掲げるから、大垣市は衰退に向かって一直線である。岐阜県の他市は、リニア景気で成長しているのだ。それは駅前の地価の推移を見入れば一目瞭然である。

 東大を出たという驕りがあるから、目の前の失敗に目を背け、誰の意見も聞かない。老いの醜態である。65歳以上の人は15%が認知症であるとの統計データがある。68歳の小川敏市長は、日ごろの姿から見ると認知症ではないかと疑わざるを得ない行動が目につく。高学歴者だから、認知症にならないわけではない。警察署長や校長先生は、気を使うが頭をあまり使わないので、退官後、認知症になりやすいという。

 行政には、市長を神輿に担ぎ上げ、うまい汁を吸っている人が、いるのかもしれない。市長が神輿に祭り上げられると、あまり頭を使わなくなるようだ。操る方には、市長は認知症のほうが都合良いようだ。

 

大垣市の三貨車

 小川市長は7月1日の炎天下にしゃしゃり出て、スーツ姿での「社会を明るくする運動」の大垣駅前通りのパレード行進や、8月7日のわずか1分24秒の大村博士紹介の自慢演説は、認知症ごとき症状である。大垣市長が出る必然性もないし、誰も喜ばない。それで何の付加価値も生まれない。かえって市民には迷惑である。それよりも、その時間を実の市政に専念して欲しいが市民の願いである。それがわからないようでは、認知症の初期症状である。大垣市長は三貨車の1番目の指南車に、間違った指針を乗せているので暴走している。

 小川敏市長は大垣市政100年目の節目1年間で、記念行事の名目で、3億円余の娯楽遊行費を使う迷走である。それが未来の大垣のために何の意味があるのか。ギネス毒饅頭食い合い900万円、大垣さん大集合で1000万円、TDL パレード600万円等のどんちゃん騒ぎをして何が残るのか、そのお金があれば100年後の大垣のために種を植えてほしい。

 

2018-08-27  久志能幾研究所 小田泰仙  

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