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2018年9月11日 (火)

極楽浄土の方向への旅

極楽の苦 

 9月6日から3日間、西方浄土の方向にある広島市と長崎県大村市に行ってきた。そこで、体験したことは、極楽浄土の近くに行くと、そこは認知症者ばかりの気に溢れ、遠い霊界からも便りがあり、話が通じなく地獄の苦しみを味わうこと。

 極楽浄土には、昔お世話をした人が大勢いたが、私を見て、「あんたは誰だ?」と言われて、悲しくなった。これは地獄だ。極楽浄土にいる人は、お上が決めた悪法でも、それが絶対だと痴呆のように守り、私がそれを指摘すると「なんでや?」と言われて、こちらが地獄も見る。苦である。

 

苦とは

 仏教でいう「苦」とは、通常の苦しみの意味ではなく、四苦八苦の己がいくら努力をしても思い通りにならない人生の掟を意味する。四苦とは「生老病死」で、極楽でも思い通りにならないことが「苦」である。いくら頑張っても老いも病も死はやってくる。その中で、どう生きるかが仏教の教えである。仏教では輪廻転生を説かれている。だから、極楽にも地獄にも「生老病死」はあるようだ。

 

極楽性症候群

 見ていると、極楽にいる人は、一日中やることがなく、考える必要もなく、やる必要がなく、期待もされず、ボケーと安楽にふわふあと暮らしているだけだ。それは現世で「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」の極楽状態である。極楽とは、本人には極楽であるが、周りの人は地獄なのだ。それなら、現世も同じである。地獄はあの世ではなく、この世が地獄なのだ。それが悟れれば、怖いものはない。

 

極楽で地獄の苦しみ

 仕事師の私は、極楽は、気が狂いそうなほど暇で、地獄の苦しみを味わった。相手が認知症では話が通じず、地獄の苦しみである。極楽での喧嘩は、空気とやり合うことなのだ。言いたいことを言っても空気に吸い込まれ、通じない。ぬり壁と戦っているようで、地獄である。仕事をさせてくれ、である

 

地獄の楽

 それに比べて、地獄には人間味あふれた仲間が一杯いる。話し相手も多い。話せばわかる人も多い。閻魔様の掟では、一度でも嘘を言えば地獄行きである。嘘も方便は通用しない。だから全員が地獄行きである。極楽に行く人の多くは、認知症で罪の意識のない人である。

 平和に暮らして、罪を罪と思わずに極楽トンボで人生を過ごした人より、世のためにあえて罪を犯した波乱万丈の人と話した方が面白い。波乱万丈だから、智慧を使って生きてきた。嘘も方便で罪を犯してきた。危機管理で、強弁もした。この世の地獄の業火と真剣に向き合うと、大げんかもするし、戦いもある。それでこそ、火もまた涼し、の境地となる。それこそ現世で、仕事冥利で極楽ある。現世でも、一日中、やることがなければ地獄である。会社で厄介者を辞めさせる手段は、仕事を与えないこと。いろいろと何かがある今が一番幸せなのだ。

 

布袋様の教え

 以上の結論を夢の中で布袋様に教えられて、大村市のホテルで目が覚めた。布袋様は、弥勒菩薩の化身である。布袋和尚は現実性豊かな自然奔放な禅師である。布袋様が背負う袋を、堪忍袋という。その堪忍袋の口を堅く握りしめているのが布袋様である。堪忍袋には稀有なお宝が満杯である。痴呆に満ちた境界では、堪忍袋の口を固く握りしめよ、が教えである。痴呆な人に堪忍袋に入ったお宝を放出しても意味がない。猫に小判である。痴呆の人に怒っても、己が馬鹿を見る。現実を見て、相手を見て堪忍袋から出すお宝を決めよ、である。

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 馬場恵峰書  2018年9月7日入手

 

言えない苦しみ=地獄

 大垣市のド田舎は、長老達が何事もなあなあと穏便にすませて、考えたり、問題点を指摘してはいけない極楽世界なのだ。長年やってきたことを変えてはいけないのだ。大垣市各組織の古い幹部達には極楽である。外から来た常識ある市民には地獄である。

 

生きている証

 いろいろとあるから、生きているのだ。死んでしまえば、何もなく、地獄の苦しみを味わうのだ。人生の旅が、サハラ砂漠を行くように平坦ばかりでは、行けども行けども、同じ景色で辛い旅路となる。山あり谷ありと、いろいろとあるから良いのだ。今の難解な雑事をいかに世のためにこなすのが、頭の活性化にもなり、認知症防止にもなり、生きているという実感が湧いてくる。

 以上が今回、西方浄土の方角にある広島と長崎に行ってきた学びである。犬も歩けば棒に当たる。ご縁を得るには出かけねばならぬ。今回は、布袋様に出会ったのが最大の収穫。

2018-09-11  久志能幾研究所 小田泰仙  

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