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2019年2月21日 (木)

夢興落花 人身得ること難し

正月のお供えものの謂われ

正月に昆布、スルメ、屠蘇、ミツカン、密柑、を供えるのはなぜか。子供に聞かれても親は答えられないから、子供から尊敬されない。201912馬場恵峰先生は、これは書いて残しておかねばと、「夢興落花 人身得ること難し」を揮毫された。

 

夢興落花 人身得ること難し

渋柿も振り落とされ、皮を剥かれ、寒風に晒されて、吊るされて、手入れ重なり白い粉を吹き、渋が砂糖のように変わる。渋そのものの甘味である。人生の心の灯台としたい。

昆布は海の塩水の中で生き育ち、海の試練に左右に揺れ、切れることなく自在に伸び、長いまま干され、柿と同じように白粉の甘さ生じである。

スルメも鳥賊の時、足は十本あって海の中で敵に会うと墨をかけて身を守る軟体動物。干されると軟が固くなり甘味はかみしめる程生まれる。

密柑は初夏に白い小花をつけて晩秋に実を結ぶ。中身は一つ一つ丁寧に包まれ、味覚を感ず黄色の皮は湯の中でも泳ぐ。密柑の種類も多く、人間生活の中でも多くのうるおいを与えている。

屠蘇は白朮(キク科植物の「オケラ、オオバナオケラの根茎」、山椒、防風、桔梗、桂皮などを砕いて調合、紅絹白絹を三角形に縫った袋に入れ、ミリンや酒に浸す。新年頭に飲み延命長寿を祈念もある。した。「甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地」(漱石の句)もある。

先人たちに智慧、今新たまってどうこういうのではない。豊衣豊食の時代だからこそ、物の大切さと事の謂われを学び知るべきだと思う。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事 大伴家持「万葉集 大伴家持」

恵峰93歳日々歩み始める亥年二日に書述へ書物とす。  馬場恵峰

 

会社の末路

「夢興落花 人身得ること難し」に示されるように、正月に飾られる品物や、祝いに席に呼ばれる人には、相応の苦労、試練がないと人間の「味」が出てこない。エリートのように苦労せずスレートで階段を駆け上る人は、試練に脆い。その顔は傲慢さで弛緩している。

 

人生の荒波を避けて

私の昔の部下の二人が、有名校を出て特別扱いで入社してきて、専務、役員からちやほやされ、それを鼻にかけ鼻持ちならぬ態度であった。無名大学出の私は露骨に無視された。二人は、有力役員が占める出身大学で、会社の金で博士号を取らせてもらった(費用約2000万円)。将来の役員は間違いなかった。しかし、当初の博士号を取った技術が、自動車会社が取り組んだ技術開発で、その博士号を取った技術が不要となって、当初予定の機械開発は中止となった。その一人は不本意として、退社して大学の助手に転出してしまった。会社から受けた恩に、足で泥を掛けたのだ。エリートは恩知らずである。もう一人はその後、室長までは偉くなったが、後ろ盾が無くなってその後、閑職に追いやられて、鬱で出社しなくなってしまった。

 

えこひいきの被害を味わう

当時、私は彼らの上司なのに、完全に無視される悲哀を味わった。本来、主任の私が海外見本市視察出張の順番であったが、役員のえこひいき丸出しの差配で、私より若く経験もないこの社員が、私を飛び越して海外見本市視察の席を手にした。私は情けなかった。えこひいき人事に、宮仕えの身では何も言えない。

 

巻き返し

幸いなことに、同時期にあった会社創立50周年記念懸賞論文募集「10年後の会社を考える」で、応募論文200通の中、私は最優秀賞を獲得し、副賞としてその海外見本市視察出張の席を入手できた。私の論文のテーマは、人財育成である。その論文技法も「テクニカルライティング」の手法を使って、論理的に論旨を展開した。

 

後日の悪夢

当社が吸収合併されて消えた後、その鼻持ちならぬ元部下が某大学の助教授として、新会社の開発センターに「ご」指導に来た。役員と部長がお相手をしていたが、なぜ当社を足蹴した輩を「先生、先生」と持ち上げるか、どの面下げて、昔足蹴にした会社の指導をするのか、と呆れた。恥知らずである。もう少しで私もそのお相手をさせられそうであった。まさにブラックユーモアである。2008年頃の話しである。

 

別のえこひいき人事

同時期、三菱電機から途中入社してきた同年の某大学卒が職場に来た。何も超一流の三菱電機から格下の当社に来なくてもよいのに、同窓の役員に泣きついて転職したようだ。前職では浮いて、いたたまれなくなって退職したという噂だ。彼の配属先の課長は、「彼は同世代のМ主任より仕事は出来ないのに、給与だけは高い」とぼやいていた。本人は学業は優秀かもしれないが、当社で何も実績のないまま、あれよあれよという間に出世して、役員になった。私が横で彼を観察していても、技術があり実績を上げたとは思えない。説明の口だけはうまかった。新会社になって、しばらくして子会社の役員に転出して、いつの間にか消えた。子会社の社長とうまくいかなかったようだ。だれに聞いても、今どこで何をしているか不明である。こんな人をえこひいきする役員が跋扈すれば、会社もおかしくなるのも当然である。

あれから30年経って、その立場が逆転して、私は落ち込まず臥薪嘗胆して頑張ってきてよかったと思う。自分で自分を褒めてあげたい。

 

エリートに支配された会社の末路

その後、特定大学の派閥学歴を出世の条件にしていたその会社は、左前になり、格下の競合会社に、名目は対等合併であるが、実質的に吸収合併されて消えた。

吸収された社員の方は、塗炭の苦しみを味わった。昔の仲間の室長クラスは、ほぼ全員、中国とかに条件の悪い海外の現地工場に飛ばされた。それに対して、合併相手先の幹部はぬくぬくと国内勤務である。部署異動先を見ても、吸収された方は、人事で悲哀を味わった。決断の出来ない無能なトップが、会社の方針変更を遅らせ、会社の寿命を60年に短くして、私が人生を捧げた会社を消滅させた。

 

経営者の仕事

経営者の最大の仕事は決断である。経営者の最大の罪は、すべき決断をしない事。挫折を知らないエリートは決断が出来ない。苦労もしない実力もない学閥エリートに支配された会社の末路である。

 

こんな日本に誰がした

同じようなエリート主義経営の悪例が、東芝、東電、日産等で、連日マスコミをにぎわせている。学校の秀才が、経営には不適との事例である。先人が血と汗で築いた日本経済基盤を、名門というエリート意識の大学出が、ガン細胞のように先人の築いた礎を浸食した。欧米の経営方式を猿真似して、未来へ投資をせず、利益だけを追求し、会社組織をぼろぼろにしている。その結果、1970年頃は国際経済競争力が、世界1位であったが、現在は25位に没落である。天網恢恢疎にして漏らさず。

 

大垣行政の末路

同じように、東大出というだけで、市長が痴呆的に君臨している大垣市は、就任以来、年率1%で経済没落を続けている。数字は正直だ。近隣他市は、名古屋リニア景気の恩恵を受けて沸いているのに、大垣市は地価も上がらず、大垣市だけが中部圏で取り残されている。大垣の未来に何の貢献もしない市制100周年記念行事で、34千万円も浪費(業者を儲けさせるだけ)する愚行に血道を上げている。名目的エリートに支配された痴呆都市の末路である。

 

2019-02-21  久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月11日 (月)

河村義子先生が教える人生評価

 人は棺を覆ってその評価が定まる。評価する以上は、その評価基準が明確でないと、評価ができない。

私が信ずる評価法は、一生に間にどれだけ稼いだか、集めたかではない。どれだけ人に与えたかである。人生はお金ではないのだ。お金は人生で価値を生み出すための手段に過ぎない。それを間違えるから、人生道を誤り、社会に害毒を流すことになる。長い目で見て、その誤謬の実例が今の欧州の混乱だと思う。この世では、最高のことしか起きない。因果応報である。

 

欧州の混乱の真因

欧州人の過去の覇権主義思想が、現代欧州社会に混乱を起こすという、最高の結果をもたらしたのだ。欧州の現代人は、ご先祖がしでかした罪の尻ぬぐいをしているにすぎない。その真因を探らず、対処療法で、手当をしているから、混乱が収まらない。欧州のご先祖は、アフリカから現地人を奴隷として拉致して、金儲けをしてきたのだ。アジアを植民地にして、アジア人を見せしめで虐殺してきた。それが植民地政策であった。今更、人権重視だ、差別反対だと、ほざいても、現実の欧州社会は、有色人種に明確な差別がある。アメリカを発見したコロンブスは、奴隷商人であった。

 

ホリエモン語録

 「誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買えるのです。」、「人間を動かすのはお金です。世の中にカネで買えないものなんて、あるわけないじゃないですか。」、「お金が最も公平な価値基準です。」

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 以上の言葉の真偽は、ホリエモンが棺に入らないと、分からないだろう。少なくともグローバル経済主義的には、正しい考え方だろう。それを実践することで1%の富者は、99%の富を独占することができた。それで99%の人が不幸になる社会が正しいのだろうか。戦前は、植民地政策、侵略戦争で、覇権国が富を独占できた論法である。私の個人的見解では、間違っていると信じている。

 

河村義子先生の評価

 義子先生は音楽と後継者育成に命を掛けたが、お金は貯まらなかった。わずか(?)100万円程の演奏会主催費用の捻出に苦労をされた。コンサートは、金儲けでやるなら、やらない方がましなのだ。大垣の子供たちの音楽教育のため、命を掛けて音楽活動をされた。あしながチケットを子供たちに贈って、音楽の素晴らしさを体験させた。大垣の音楽文化を向上させるために、教育と音楽活動に命を捧げた。だから、葬儀の弔問客が1000人にもなった。私は良き師と巡り合って幸せだと思う。河村義子先生は、人生の価値評価とは何かを、体で教えてくれた。感謝。合掌。

 

2019-02-11   久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月 9日 (土)

自分の遺影を撮影

 終活の一環として、私の遺影用の撮影を20192月6日に行った。やはり5年毎くらいに、スタジオで撮影をするのが良いようだ。その前は、定年後の還暦時に、パスポート用を兼ねて写真館で撮影をした。

それ以降、毎年、私は受験票に貼る証明用の写真で撮影をしていたが、写真館で正式に撮るのは、9年ぶりである。やはり証明用写真と、正式のスタジオで撮る写真ではレベルが違う。

 

両親の遺影

28年前の母の葬儀では、母のまともな写真が無くて、大騒ぎをした苦い経験がある。昔の人は写真を撮られるのが嫌いのようで、母の写真はほとんど無かった。結局、従妹の結婚式の披露宴の時に写した小さな写真を引き伸ばして使った。鮮明な写真でないが致し方なかった。

 18年前の父の葬儀の時は、母の例に懲りて、父が胃がん手術で入院直前に、写真館に行って家族写真を撮り、それが霊前を飾った。その写真が間に合って良かったと思う。

 

時間の危機管理

 遺影は後に残った人のためである。自分のためではない。後に残った人に苦労を掛けては申し訳ないと思い、今回、9年ぶりに自身の姿を撮影した。後の残った人が、遺影用の写真を探し回る時間が、勿体にない。遺影用の写真がないと、それを探す時間(命)を奪うことになる。それは人生の罪である。何事も準備をしてあれば鬼に金棒である。それが無駄になることが、最大の効果である。保険も同じである。それが危機管理である。どうせ近い将来、必ず必要となることは、事前にやっておくべきだ。

 

自分は盆栽の木

 自分の全身像と上半身像を撮影して、その映像画面をモニターでみて盆栽を連想した。盆栽も、育てた人の丹精込めた労苦がその姿に表れている。同じように、己の体は、己が人生で費やした汗水の結果が全身の姿と顔相に表れていた。

 酒に溺れ、飽食で過ごせば、肥満、ビール腹になるだろう。それで肝臓を傷めれば、黒い顔や目の下に黒い膜も出るだろう。

日頃、しかめっ面で過ごせば、カメラの前で「笑って」と言われても、ぎこちない顔つきでしか写らない。笑わないので、法令が鍛えられず、法令線が薄くなり、ノッペラボウの顔となる。眉間にしわがあるかもしれない。

日頃、テレビばかり見て過ごせば、痴呆的な顔つきになるだろう。日頃、運動もせず、歩きもしないと、姿勢も悪い姿でしか写らない。

 今回、その自分の写真を見て、そういう姿でなかったので安心した。加齢の為、少々、頭の毛が薄く、白いのは致し方あるまい。己の体は、己の人生の作品なのだ。

若作りの遺影

 その写真も、老いぼれた姿よりも、まだ体力があり若い姿の時がよい。だから早めの遺影撮影は、おすすめなのだ。老いぼれてからは、写真撮影をする気にもなれまい。私も多くの葬儀に参列したが、若い時の遺影の方が、好ましいと思う。

 

スタジオの差

 パスポート用の写真を2010年に、街の馴染みの写真館で撮影した。今回、大手カメラチェーン店の系列のスタジオで撮影したが、その設備のレベル差に驚いた。まずカメラ機材が違う。スタジオの環境が違う。撮影場所も広く、照明設備も金がかかっており、撮影補助機材が違う。街のスタジオでは普通の三脚で撮影である。今回のスタジオでは医療器械の設備のようにカメラスタンドの下に車輪が付いており前後左右がスピーディに動き、上下、回転がスライド式でスピーディに行えるカメラスタンドがある。お店もお客が多く来て、儲かるから益々良い設備を導入できる。

 自分の全身像を撮影して、その場で映像画面をモニターで見ることができた。以前の街のカメラ屋では、カメラ屋が数枚写真と撮り、そこからカメラ屋が選別して仕上げである。

衰退している街(大垣市のように)のスタジオでは、お客があまり来ないので、設備投資ができず、悪魔の下降スパイラルで、益々儲からず、設備投資ができない。これはお店だけの責任ではない。

 

河村義子先生の遺影

河村先生の葬儀で祭壇を飾った遺影は、日頃、先生がパンフレット、HP等で使っている写真であった。現在も「かすみの会」のHPにその写真が掲載されている。そのお顔は美しい写真で、その写真が先生のレッスン室に貼られた演奏会のポスターに使われていた。こちらから聞いたわけではないのに、河村先生は「この写真が気に入っている」と言われた。5年前の当時、「この写真は、私の葬儀の遺影にも使うの」と説明されたので、私は冗談だと思い呆れた。今にして思うのは、そのころ、がん告知をされ、手術をせず、最期までピアニストとして生きる決意をされたころである。鈍感な私はそんなことには思いもよらなかった。後で聞けば、名古屋のスタジオで撮影されたとか。並みの決意では、名古屋まで行って写真を撮るまいと思う。その点でも偉い方であった。

 

2019-02-09   久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月 8日 (金)

浜松国際ピアノコンクール(11)ピアノ選定はロシアンルーレット

 2019年2月3日、第10回浜松国際ピアノコンクール(以下、浜コン)の裏話を語る梅田智也さんのトークセッションと梅田さんのピアノコンサートが、名古屋ヤマハホールであった。そこで梅田さんが語ったピアノ選定の舞台裏のお話です。

 梅田さんは先の浜コンで、セミファイナリストに残り、日本人作品最優秀演奏賞を受賞した。

 

ピアノ選定

 浜コンで、挑戦者に与えられたピアノ選定の時間は10分間である。ヤマハ、スタンウェイ、カワイの3台のピアノの弾き比べであるから、実質的に9分間で、3台のピアノを各3分間弾いて、どれを選ぶか決める。そのピアノは舞台上に3台置かれている。問題は、舞台の中央に置かれたピアノの響きが一番良いのだが、自分が弾きたいと予め想定しているピアノが何処に置かれているかは、その時にならないと分からないことだ。その3台のピアノは公平を期すため、ある順番ごとに、舞台の上で回して入れ替えられる。各ピアノもメーカーのトップ調律師が命を掛けて調律したのだから、最高レベルに仕上がっている。その差は分からない。どのピアノの響きが一番番いいかは、置かれた場所で全く異なって聞こえるので、益々わからないという。まさにロシアンルーレットである。

 梅田さんも、限られて時間内で3台を弾き比べしても、全くわからなかったという。舞台を支援するスタッフも、挑戦者のほぼ全員が、ピアノの差は全く分からないというと言っていた。

 

手がかり

 唯一、その手掛かりは、ピアノ選びの挑戦者に、前の順番の挑戦者がピアノ選定で試弾している時間を、そのピアノの響きを観客席で聴くことができること。中央で弾かれているピアノの響きや両端に置かれたピアノの響きで、その鳴り方を推定するしかない。またそれも聴く場所で、違って聞こえるから厄介だ。浜松の中ホールでは、審査員席がある二階席が、音響的に一番良いようだ。

 

決め手

 だから挑戦者がピアノを選ぶのは、今まで数多く弾き込んで、素性の分かったピアノを選ぶのが順当のようだ。梅田さんの場合、CFXの高音の澄んだ響きに惚れてヤマハCFX を選定したという。

 たしかに、私も浜コンで、今までにない澄んだピアニシモの音を聞いて、すごいなとヤマハCFXを見直した。調律師の花岡さんの力である。挑戦者もヤマハの指名が一番多かった。

 

己の「ピアノ選定」の基準

 我々も、人生で数人の候補者の中から、人生を戦うための相棒一人を選ばねばならぬ状況に直面することがある。それは結婚相手やリストラ対象者、昇格対象者、後継者の選定、その場合の判断基準は、その時の特別の振る舞い(プレゼン)ではなく、日頃に接した行動から判断するのが一番、自然である。その場だけや、お見合いの席の時だけ一番格よく見せても、ダメなのだ。己の「ピアノ選び」の基準は何かを、振りかえろう。

 

経営の場での「ピアノ選定」

 その選定の失敗事例では、シェイクスピアの戯曲「リア王」が思い浮かぶ。この戯曲は、虚言を言う姉妹に騙された愚かな王の物語である。最近頻繁に目にする不祥事を起こした会社のトップは、間違った「ピアノ選定」で選ばれたのだろう。大企業の社長といえども、「リア王」を笑えまい。

 今にして何故、ソニーのストリンガーが社長に選定されたのだ。グローバル経済主義、短期成果主義を掲げた彼が、ソニーを没落させた。彼を選んだ前社長の責任は重い。成果主義で一時的な成果を誇っても、永続性はないのだ。企業の最大の役目は永続性である。

 己の使命も、ご先祖から預かった命を長らえさせねば、達成できない。刹那的な快楽に身を任せて、命を削ってはならぬ。

 

2019-02-08   久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月 7日 (木)

終活に目覚める

 昨年の漢字は「災」であった。最近の災害、不慮の事故、病気の増加を見て、いつ何時、事故に逢うやも、病気になるやもしれずと目覚めて、終活の準備を始めた。

 脳梗塞、心筋梗塞、交通事故、飛行機事故に遭遇すれば、即死状態で、何も準備ができない。私も後20年もすれば、ヨイヨイになって、その準備に頭も回らなければ、体も動かず、電車にも乗れないかもしれない。その時、お金も底をついているかもしれない。

 昨年末に河村義子先生の逝去という縁に出会い、それを「今、終活をやっておくべき」との佛様からの啓示を解釈した。これも危機管理である。

 死亡通知が銀行に回ると、その人の預金は封鎖である。親族でも、遺産相続人全てのハンコがないと、私の葬儀費用でも一円も下ろせない状況に陥る。だから生前の準備が重要なのだ。どうせ一生の間に、必ず必要となる費用である。それなら前払いが良い。

 

葬儀費用を前払い

 思いたった日が吉日である。2015年に自家のお墓は改健したので、今回は、お葬式の準備と死後50年分の法要の準備を始めた。2019年2月4日(立春・大安)、お寺さんにお話しをして、葬式費用と死後50年間分の法要費用を支払った。戒名分を含め、お寺さんへの心付けを追加して総額百万円である。他人に頼めば、心付けもままならぬ。これで38年後(?)までの間に、いつでも安心(?)して死ねる。それが何時かは分からないのが、幸いである。朝、目が覚めたら、まだ人生でやる気ことが残っているとの佛様のお告げである。後38年間を生きるつもりで、頑張りたい。煩悩を超越した108歳まで生きるのが目標である。

 

お墓の護持会費の前払い

 それとお墓の護持会費の前払いをした。前払いと言っても、遺産の一部を物納する契約書を作成しただけである。きちんと司法書士事務所で契約した。

 お墓の土地は、お寺から借りているだけで、買ったわけではない。お墓の護持会費が数年間滞たり、所有者の存在が確定できなくなると、お寺は官報にその旨を公示して、申し出がないと1年後にお墓を撤去できる。それはお墓に関する民法で定められている。

 私の菩提寺は約200家の檀家があるが、約80家が連絡不能で、そのお墓が朽ちたままになっている。多くの家が、東京に出ていき、お墓が放置されたままになっている。お寺さんは、無縁になり朽ちたお墓の撤去費用を負担せねばならぬ。80家もそれがあると、費用が膨大である。それは残った檀家が均等に負担せねばならぬ。そんなご先祖のお墓を放置して東京に行ったままの家は、不謹慎である。罰が当たりますぞ。墓石は簡単に廃棄をできない。お寺で御精魂を抜く法要をして、大阪のある業者に委託する。その業者は近畿地方で1社だけだとか。お寺の損益分岐点は、檀家が200軒である。お寺離れのこの時代、お寺経営も大変である。

 

受戒会

 戒名を受けるため、この4月に「受戒会」として、法要をすることになった。一般的に、お葬式の時、戒名を授かるが、それはあくまで、応急処置である。本来、生前中に「受戒会」を執り行い、戒名を導師から授かるのが正式である。

 受戒会は己の戒名を知って、己の生き方の戒めとして戒名を授かるのだ。その戒名で、来世を佛行に励む。「戒」とは、己が生きていく上での「いましめ」である。それを背負って、戒律を守り、受戒会の後、今世と来世を生きる。それが戒名である。院号は、導師が己のために来世に建ててくれるお寺の名前である。

 

戒名

 亡くなられてから、応急処置として戒名を付けると、お寺さんも、本人の人となりが分からず、親族に生前の生活ぶりを聞いて応急的に名前を付ける。しかし生前に戒名を授与されると、お寺さんも、本人と話をして、その人に相応しい戒名を授けることができる。本人も候補の戒名から選択することもできる。100年後でも、その戒名を見れば、その人の人柄が思い浮かぶのが良い戒名である。その点で河村義子先生の「聖観院教音義愛大姉」は素晴らしい戒名である。

 

危機管理

 何事も、準備だけをしておけば、その時に慌てずに済むし、やるべきことの80%はやらなくて済む。後の20%をその時に対応すればよいのだ。全ては無理である。それが人生を生きる知恵だと思う。私はそうやって生きてきた。

 危機状態の時、敵味方の明徳が明らかになる。危機の時は己が戦争に巻き込まれたときである。個人にとって戦争とは、己が大変な目に逢った時だ。その時、助けてくれない人は敵なのだ。少なくとも味方ではないことが明らかになったのだ。今後、その人と付き合って得るべきものはない。その人の行動が、その人の人生経営の収支報告書なのだ。そこでその相手の徳のレベルが明らかになる。

 

2019-02-07  久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月 6日 (水)

終活 「棺」を新調

 人は朝まで、死んだように熟睡するのが、健康の秘訣である。それも22時か遅くとも23時には、床に入るのが熟睡の秘訣である。幸いなことに私はまだ、夜にトイレで起きることなく、朝まで熟睡である。

 人生では、人は毎夜、死んだように眠る。翌朝、人生の目が覚めて、一日がスタートする。その長い人生で、たった一回だけ、目が覚めないときがあり、その時は、そのベッドが棺になる。だから毎日、我々は棺に寝ているのだ。人生の3分の1を過ごす場所だからこそ、多少は贅沢をしたい。熟睡が体の保全と翌日の活動の栄養素となる。いつ死んでもいいが、死ぬまでは健康を保って生きていきたい。

 

「棺」布団の新調

 河村義子先生の年末の逝去もあり、思うところがあり、今回、羽毛の布団を新調した。人には「羽毛の棺」を買ったと冗談で言っている。普通の綿布団に比べて本当に暖かく、軽く、体に負担をかけずに熟睡できる。体を冷やすから健康を害するのだ。それを防ぐのが危機管理である。完全にはその危機を防げないが、その確率を減らすことは、僅かな投資で可能である。羽毛布団の価格は、健康を考えれば安いと言える。実際、羽毛布団は、結構なお値段がしたが、健康を考えれば満足である。考えてみれば、人生の3分の1を過ごす場所である。

 

羽毛布団業界は二重価格業界

 何事も経験すると世の中の仕組みが分かってくる。今回の知見は、この羽毛布団の業界は二重価格制になっていることだ。その裏事情を知らないと、定価上は高価な羽毛布団を、値引き率が大きいと見せかけて買わされる。

 今回、馴染みの業者にそれを教えてもらい、安く買うことが出来た。羽毛の産地は、片やポーランド製、もう一方はドイツ製であった。製造・販売の会社は、何方も日本の一流メーカで同一である。競合の店は、私をカモだと見て、吹っ掛けたようだ。今回、ほぼ同一レベルの製品を10万円以上も安く買うことができた。

 

2019-02-06  久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月 5日 (火)

年賀状の終活

 昨年末は、河村義子先生が12月25日に突然亡くなられ、その対応もあり、気力も失せ、年賀状に手を付けられなかった。それで弔意を表すためもあり、1月15日の幕の内が終わってから、来た年賀状に対して返礼の年賀状をボチボチと書き始めた。それがやっと2月2日に、全ての年賀状の発送が終わった。そこで多くの学びがあった。

 

義理年賀

 今まではこちらが年賀状送ったから、義理で来ていた年賀状があった。こちらが出さなければ、相手からも来ないのである。今まで誰が義理で年賀状を出していたかが明確になり、年賀状の終活ができた。

 

両面とも印刷の年賀状

 宛先も、裏面も印刷の年賀状をもらっても、嬉しくない。また相手の近況が分からない。やはり一言の手書きのコメントがないと、商売のダイレクトメールと同じになる。

 2012年頃、松下幸之助関係の経営セミナーで知り合った酒屋の経営者から、そんな年賀状をもらったので、返信をせず、会ったときそのワケを話したら、翌年から年賀状が来なかった。その経営者は東日本大震災で多額の寄付(数百万円)を某知事にしてきたと豪語していた。

 ちなみに 内閣府は、東日本大震災の被害額は約16兆9000億円と推計額をまとめて、発表した。

 それと比較して、酒による社会的損失額は4兆円である。決して無視できない金額である。それに対して、煙草の社会的損失額は2兆円である。我々はもっと酒の弊害に目を向けるべきだと思う。酒屋は己の商売が、社会にどんな影響を与えているかを、認識するべきだ。両面印刷のダイレクトメールのような年賀状のご縁で、酒の被害に関心を持つことができた。

 私は、現在、完全禁酒です。

 

社会的損失

 2008年の厚生労働省研究班の調査によると、日本の飲酒人口は、男性の83.1%、女性の60.9%で、合わせて7472万人です。

 スクリーニングテストAUDIT 8点以上(アルコールの危険な使用)を問題飲酒とすると、男性の22.8%、女性の3.8%が当てはまり、合わせて1353万人。ふだん飲酒するときの1日飲酒量が純アルコール60g(ビール換算中瓶3本)以上の人を「多量飲酒者」とすると、男性の12.0%、女性の3.1%で、合わせて766万人にのぼります。

 飲みすぎはさまざまな病気や事故、職場では労働損失を引き起こします。研究班がこれを金額に換算したところ、社会的損失は年間に4兆1483億円! 酒税の3倍超です。飲みすぎは個人や家庭だけの問題ではなく、社会全体の問題でもあるのです。

アルコール依存症治療ナビより

http://alcoholic-navi.jp/understand/problem/social_loss/

 

子供の写真だけの年賀状

 私が年賀状を送った相手は、付き合のある人であって、会ったこともない子供ではない。その子供の写真を見ても嬉しくないし、不快でさえある。そんな写真を祖父祖母に送るなら許されるが、ビジネスマンとして、上司や仲間に送るのは、非常識だと思う。それは、自分の会社での格付けを下げる行為となるので避けるべきだ。私が知りたいのは、本人の近況報告、本人の今年の抱負なのだ。子供のことなど知ったことではないのだ。その子供が私に何をしてくれたのか。

 

生存確認状

 「古希だから、今年で年賀状を止めます」という年賀状を時々もらうが、年賀状とは、生存確認状なのだ。今までの付き合いで、古希になったから年賀状を止めますとは、情けない人だと思う。今までが、単に義理で年賀状を書いていたのかと興ざめである。そんな人は、こちらからお断りである。

 

私の年賀状

 ちなみに私は、宛先を毛筆で直筆しています。裏面は毛筆の書面を作り、それをコピーしていました。先年から、裏面はワープロで近況報告を作成して、一言、毛筆でコメントを追記することにしている。毛筆と言っても筆ペンですが、それでも全てパソコン印刷の年賀状よりは良いと思います。

 

2019-02-05 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月27日 (日)

人生経営での利益(りやく)

 お宝(体、時間、命、ご縁、お金)は、神仏・ご先祖からの一時的な預かりもの。その資源を使って人生経営をどうするかが問われている。それを有効に使うのも、無為にするのも、酷使してしっぺ返しを受けるのも全て己の人格のなせること。どのお宝も、あの世に持って行けない。その資源の効力が有効なのは、この娑婆中だけである。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。いつかは寂滅の世界に行く。その前提で生きるべし。

 

経営とは

 人生経営とは、人としてご先祖から与えられた資源を最大限に活用する行いである。会社経営とは、人の能力を最大限に活かすことである。人生経営では、己の持てる資源を使って、人生の利益(りやく)を出すことである。それが使命であり、天命である。

 

利益(りやく)

 仏教でいう利益は、俗世間の「利益(りえき)」ではなく、「利益(りやく)」と呼び、現実の生活苦からの離脱を求めて祈りつづけ、その恵みとして与えられた恩恵を、ご利益(りやく)という。その利益には、自分が利益を得るだけでなく、他の人を益すること、恵みを与えることである。仏教では、仏の教えに生きて得られた恩恵を、自利・利他の益(やく)としている。

 自ら利益を得るだけでなく、他の人びとを利益することが菩薩の精神である。仏の教えによって得られる利益(りやく)は、金銭上や物質上の利益ではなく、自らの生存在に自覚的に醒めて生きる、自覚者の誕生のことである。我々は、自らの命の尊さに目覚めて生きねばならぬ。

 

諸悪の根源

 命の尊さに目覚めれば、運が悪いとか、頭が悪いとか、肝臓が悪いとかは言えないはずある。すべて己の体を経営する自覚が足りなかったのだ。

 運が悪いのではない。運を悪くするような人生経営をしてきたのだ。

 体が弱いのではない。ご先祖から貸与された体を、怠けて安易な生活に溺れ鍛えなかっただけだ。体の適切な保全の経営をしてこなかったのだ。

 頭が悪いのではない。頭を鍛える経営をしなかっただけだ。

 肝臓が悪いのではない。肝臓さんを傷めつけるような経営をしてきたのだ。つまり酒を飲み過ぎたのだ。肝臓が悪いといったら、肝臓さんに悪い。肝臓さんは悪くない。肝臓さんを傷めつける経営をした己が悪いのだ。世は最高の事しか起こらない。酒を飲み過ぎれば、肝臓が悪くなるのが、生理学的に最高の結果なのだ。

 お金がないのではない。お金を大事に扱う習慣がなかったのだ。だからお金さんが、愛想をつかして逃げていったのだ。お金さんを大事に扱えば、お金さんが友達を連れて帰ってきてくれる。お金を儲けたければ、経営での顧客(お金さん)の満足度を上げればよいのだ。

 

己の後ろ姿を見つめる者

 自分の後姿を神仏に代わって子供、部下、世間が見つめる。世間の眼は、神の如きである。それでその家、組織の興亡が決まる。三田圭子の息子、みのもんたの息子、不祥事企業の社長の無様な姿がそれを示している。

 

積善の家に余慶あり

 今の己の姿が、ご先祖からの功徳の積分値である。己は、何代も続くご先祖の代表選手なのだ。ご先祖に恥ずかしくない行動を取りたいもの。自分の役割は、連綿と続くご先祖からの駅伝走者の位置付けである。己の使命は、何を受け取り、何を後世に伝えるのか。それを自問したい。

 ご縁に出会ったら、自分の為、家族の為、国のためにそのご縁を一期一会で受け止めて活かせ。それが命を授けてくださったご先祖様への御恩返しである。

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     馬場恵峰書

 

2019-01-27 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年12月19日 (水)

主人公の人生

 人生ストーリで、主人公は自分である。自分が主人公でなければ、奴隷の人生である。「主」とは「王」座に座った己を(、)で表した象形文字である。(、)は王座の上に灯る蝋燭の火も象形する文字である。自分を蝋燭の火として燃やして周りを照らす。そういう人生が、主人公の人生である。

 

人生は能舞台

 人生とは、能舞台やバレエの舞台のように、背景は刻々と入れ替わり、己がスポットライトに照らされる時も、暗転するときもある。己の力ではどうしようもない運命の流れである。その中で、自分にできることは、自分の天命、使命を知り、全力を尽くすことしかないのだ。泣いている暇はないのだ。

 

主人公と被害者

 人生は主人公の人生と被害者の人生の二つに分けられる。叩かれ踏み倒されても、心は燃えて立ちあがるのが、主人公の人生である。被害者の人生なら「なんで私だけ」と泣き続ける敗者の人生となってしまう。人生は己のために回っているのではない。そうなら日本だけでも、1億個の自分に都合の良い人生がなければならぬ。

 

天が師

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己に尽くせ。人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし」と西郷隆盛はいう。彼は沖永良部島の牢獄で、己を島流しにした理不尽な上司を恨まず、「言志四録」を熟読し、心を養成した。それが明治維新の原動力に昇華した。何時の時代も理に合わない上司が、自分の上に来るのが世の常である。だから人を相手にしてはダメなのだ。

私もサラリーマン時代の38年間で、数多くの上司に仕えたが、理に叶う上司は数人しかいない。それ以外は首をかしげざるを得ない上司莫迦リであった。それが人生なのだ。自分は、それを反面教師として学べばよいのだ。いわば上司の失敗事例の展示である。天がその悪い見本を示してくれたと思うことにした。私はそうならない上司を心がけて部下にあたった。

 

太上は天を師とし

其の次は人を師とする

その次は経を師とする

言志四録 志録2

024k8a10812   馬場恵峰書『佐藤一斎著「言志四録」51選訓集』より

 

2018-12-19  久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年12月11日 (火)

ソフトバンクの経営に違和感

 その昔、ボーダーフォンの携帯を契約していた。その後、TUKAがソフトバンクに身売りをするというので、携帯をauに変えた。選択肢にソフトバンクもあったが、それは避けた。理由は、当時、ソフトバンクの孫氏の経営のやり方に何か違和感を覚えていたからである。それよりも京セラの稲盛和夫さんの方が信頼できると、KDDIの系列のauに変えた。

 

天網恢恢疎にして漏らさず

 最近のソフトバンクの動向を見ていると、携帯をauに変えて、正解であった思う。何か違和感を覚えることは、本能が危険だと教えているのだと思う。会社は経営者次第である。日産ゴーン事件がいい例である。今のソフトバンクの中国、中東との派手な事件を見るとき、選択が正しかったと思う。それから見て、今の大垣市の社長は大丈夫? 天地自然の経は、その人に見合った事件しか起こらないことを教えてくれている。

 

太上は天を師とし

その次は人を師として

その次は経を師とする

   佐藤一斎「言志四録2」

 

2018-12-11   久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。