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2020年12月

2020年12月31日 (木)

小川敏、「人権蹂躙を推進」を宣言

 

人を植える 

 一年の計は穀を樹えるに如くはなし

 十年の計は木を樹えるに如くはなし

 終身の計は人を樹えるに如くはなし

        『管子権修』

 

 大垣市長という小川敏はこの20年間、以上を全て無視した。小川敏は一番大事な「人を植える」ことを放棄した政治屋であった。大垣市の歴代市長でこんな市長はいない。

 小川敏が植えたのは、汚川に育つ利権の木である。

 

教育を破壊

 小川敏は、大垣市の教育費を削り、それを自分達の給与に振り向けた。小川敏は、大垣市の児童生徒一人当たりの教育費を県下最低にした。小川敏は、大垣市役人の給与を県下一の高給にした。岐阜市のそれよりも高い。小川敏は、大垣の教職員の給与を県下最低にして、岐阜市のそれより200万円も低くした。それで人が育つはずがない。

 

児童虐待

 小川敏達は、児童生徒たちを、折角の休日の朝に駆り出し、一商店街の金儲けのイベントの餌としてこき使い、36度の炎天下で、元気ハツラツ市行事のステージで躍らせた。豊田市で児童が熱中症で死亡した直後でさえも、その踊りを強要した。

 

餅の誤嚥で老人を死亡させた  人の命が最大の人権

 誤嚥性肺炎で年間4万人近くが死亡している日本の高齢化社会で、無料の大垣駅前商店街餅つき大会(2020年2月)を開催して、高齢者の餅を配るのは、準殺人行為である。

 それを実行した小川敏、小倉利之市商連理事長、松本正平専務理事は、老人が死亡したことを知っても、責任を問われるの恐れて、弔問にも行かず、知らんふりである。彼らは地獄の使者である。この3人は、その後の説明責任さえしない。

そ れでいて新型コロナウイルス騒動で、その広報対策として小川敏は各所に顔を出し大威張りである。その前にやることがあるだろう。

 小川敏よ、説明責任を果たせ!

 

ドローン墜落人身事故  人の命が最大の人権

 2017年、大垣ロボット博で、世界初ドローン墜落人身事故が起きた。大垣市が企画し、事前飛行確認で監督をして行った行事なのに、その人身事故の責任を業者だけに押し付けて、大垣市の責任者はドローンである。小川敏は、その説明責任は放棄した。怪我をした人の人権、ドローン会社の責任者の人権はどうなったのだ。一つ間違えば、死亡事故であった。人の命が最大の人権だ。

 小川敏よ、説明責任を果たせ!

 

 大垣市の新市庁舎には、大きな垂れ幕「私たち大垣市民は人権を尊重するまちづくりを進めます」が掲げられている。大垣市民は人権尊重を推進するが、小川敏は「人権蹂躙」を推進である。

 

人権無視で売名行為

 そんな小川敏は、前記の件の説明責任を放棄して、寄付を受け取るだけの仕事で、新聞紙上に頻繁に登場して売名行為である。その寄付で小川敏は何をしたというのだ。そんなに6選のために顔を売りたいのか。

 

2  岐阜新聞 

  小倉利之と松本正平の二人は、餅つき大会の餅で老人が死亡したことを知っても、責任を問われるの恐れて、弔問にも行かず、知らんふりである。死神である。

 

2020-12-31 久志能幾研究所通信 1879  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年12月30日 (水)

日本人の劣化と陰湿化 ―― 弱きをくじき、権力に迎合

 

 怒る人間の数の多さが、大垣市の未来を決める。大垣市の未来を考えることに真剣な人間が、小川敏の失政に怒るわけだ。怒るのも大垣市のことを思っているからだ。何も考えていない人間は無視である。

 正規に行動して怒る相手は、権力者や立場が上の強い人間たちである。新型コロナ対策で、日本政府の失政を怒る人間が、政府を批判するのだ。

 

 ところが、SNSで批判する輩は、権力者にでなく、弱者の個人を攻撃する。弱きをくじき、強者にヨイショである。だから日本はおかしくなった。

 卑怯者は匿名をよいことに、無責任なコメントを私のブログに寄こす。こういう人間が、子供のいじめの元凶の類だ。こういう親が子供をおかしくする。子供は親の後ろ姿を見て育つ。だからSNSでの誹謗・中傷が氾濫し、生徒達に自殺者、鬱病者、登校拒否者まで生んでいる。

 人は外出自粛でも、親の死に目に会うために遠方に旅せねばならぬ時もある。無神経に誹謗だけする人間には、そんな憶測さえできない冷たい血が流れている。

 誹謗とは。感情的に、理性で判断せず、目下だと思っている人間を見下して、「人を非常識だ」と非難する。自惚れていて、人を見下し、理性で判断できない批判者が一番非常識で狂っているのだ。

 

国家破滅への道

 社会に匿名の密告者がはびこり、そういう人間が烏合の衆となり、社会を愚民化して、ナチスという亡霊を生みだした。その亡霊が覇権軍国主義を煽り、第二次世界大戦で約8,000万人の死者を生んだ。

 日本でも新聞社が扇情記事で国民を煽り、太平洋戦争へと世論を導いた。新聞社は戦争の景気の良い話題が欲しいのだ。それで正論を言いたくても言えない社会風潮になっていった。ナチスを選んだのは、民主主義の元、善良なドイツ国民であった。ナチスに熱狂した民衆が、正論の世論を封殺した。日本が太平洋戦争に巻き込まれたのは、正常な意見を封鎖した国の空気であった。正論を言う人間を「非国民!」の一言で殺した。その元凶と同じムジナの一人が、今回のような匿名の卑怯者である。

 そういう無責任なSNSの匿名の誹謗で、つい最近、若きプロレスラーの木村花さんが自殺した。

 

私のブログで言いたいこと

 私のブログ記事「コロナ対策で、青酸カリを薄めて飲む?」で言いたいことは、コロナ対策として、自分の身を守るため、政府が推奨している正規の方法を徹底的にやると宣言しただけだ。その原則は自分の健康管理だと書いただけである。健康管理こそ、社会への貢献であるとの主張である。

 それを私への誹謗者は、それを医療関係者に話題を逸らして、鬼の首を取ったように私を非難している。個人的な事情で旅行をしたことを、論理の飛躍で非難している。九州に4回も行くとは、非常事態である。好きで行っているわけではない。それに対する憶測が出来ない冷血漢なのだ。人の親が死んでも知ったことではないのだ。

 これは日本の野党の攻撃手法そのものである。論理のすり替えなのだ。口先だけの民主党が政権を取り、2011年の東日本大震災での狂った対応で、日本を国家存亡の危機に際に追い込んだ。

 同じ穴のムジナが、自分は匿名という要塞に籠って正論を攻撃している。卑怯者なのだ。こんな親が子供をイジメの加害者に育てる。だから学校でいじめが増大している。

 

 それなら、なぜ小川敏と小倉利之が、36度の炎天下で子供達を踊らせる狂行に抗議しないのか。大垣市が主催の餅つき大会で、老人が誤嚥して死亡した事件を、小川敏と小倉利之が隠蔽したことを非難しないのか。なぜコメントを出さないのか。

 これらの誹謗者は、この話題から逸らすための大垣市の回し者としか私には思えない。

 

匿名は無意味

 いくら匿名でも受信者側は送信者のIPが明示される。それで犯人が割り出され、若きプロレスラーの木村花さんをSNSで誹謗して死に追いやった卑劣な犯人が逮捕された。

 

 記事「コロナ対策で、青酸カリを薄めて飲む?」に対するコメント

IP:133.106.254.41 匿名

医療従事者がどれだけ必死で対応してくださってるのか少しは考えて発言してください。無責任すぎます。

投稿: | 2020年12月29日 (火) 00時57分

 

 

IP:59.86.40.185 匿名

〇〇分の一という数字は、何か根拠がおありなんでしょうか?

1ヶ月で4回も九州に出かけるなんて、”常識的範囲”を超えていると思います。

それに、対策は万全と言われたって、迎える側としては、遠方からの来客を望まないでしょう。

いくら自分が発症しなくたって、ウィルスを運んでしまうことはあり得るでしょう。

遠方への移動など、もっと自粛されるべきだと思います。

投稿: | 2020年12月29日 (火) 06時06分

 

 

IP:182.251.244.12  匿名

息子達には正月に帰省しないように言い、従いますが、決して奴隷ではないですよ。

投稿: | 2020年12月29日 (火) 20時04分

 

2020-12-30 久志能幾研究所通信 1878  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月29日 (火)

兵どもが夢の跡 人間関係の葛藤は戦争だ

 

 毎日、大垣の「ミニ奥の細道」を歩いていると、会社勤め時代に仕事の上でビジネス戦争を交わした仲間のことが思い出される。

 定年後の10年間の人生を振り返ると、会社時代とは違う仲間、師との付き合いの中、多くの人間関係での葛藤を思い出す。そんな思い出が、東北の地で詠んだ芭蕉の句と重なりあう。

 

「夏草や 兵どもが 夢の跡」   (岩手県平泉町)、

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 (山形県・立石寺)

 

 そんな仕事上でのチャンバラも今は昔である。この10年間の人間関係の葛藤が夢のようである。蝉が地上に出て、騒々しい鳴き声を響かせるのもせいぜい1週間である。長い人生を思えば人間の絶頂期の数年は、蝉が鳴く期間と同じであろう。どんなに騒々しく働き栄達を極めても、10年もたてば会社から消える。一緒に一時期を戦い、ゴマすり戦争に敗れ飛ばされ、過労死や病魔に襲われ亡くなったビジネス戦士を思うと、哀愁を感じる。芭蕉も戦国時代に思いをはせ、上記の俳句を詠ったのであろう。自分はよくぞ無事に還暦を迎えられたと神仏に感謝したい。それから10年が経ち、癌に侵されたが何とか生き延びさせてもらっている。感謝である。

 

諸行無常

 その帰属した会社さえグローバル競争時代を迎え、同じグループ会社と合併を余儀なくされ消滅した。グローバル競争時代にあっては、年商5千億円の自動車部品メーカは、中小零細企業なのだ。それでは生き延びられないと親会社からの指示で戦略的合併をさせられた。うたい文句は対等合併であったが、実質的に吸収合併で、吸収された方は、悲哀を味わうことになった。

 会社の寿命も60年である。いくら花形産業としてもてはやされても、それは10年も続かない。いつかは衰退産業となり消えるのが運命だ。諸行無常である。会社生活の38年間、私は何と闘っていたのか、歩きながら考えている。

 

 人生は旅であると芭蕉は詠う「旅に病んで 夢は枯野を駆け巡る」それが実感として伝わってくる。

 

無意識の罪ある人生

 私も昨年は癌を患い、余命宣告され、芭蕉の読んだ句が、頭をかすめたことが度々であった。人は必ず死ぬ。それを前提に考えると、目の前の葛藤など些細なことだ。死んだ後、「後は野となれ山となれ」では投げやりの人生だ。そうでなく、人としてこの世に何を残すかを考えて生きたい。やりたいことではなく、やるべきことをやって、浄土に行くべきだ。人には使命、天命がある。それを実行する道具の体を大事にしないのは、天に対する反逆である。

 

人皆わが師

 人生を振り返ると、「他人の言動や病は自分の師」なのだ。周りには、悪の師が多いが、そういう事をしてはならないとの反面教師でもあった。家族をタバコで癌にさせ結果として殺しても、その自覚もないまま、その夫も息子もまだ煙草を吸っている。家族がタバコを吸えば、乳がんの発生率が1.6倍になる。煙草は認知症のリスクも上げる。

 新型コロナウイルスに罹るのも、発病する原因が自分にあったのだ。それをはねのける自己免疫力が低下していたのだ。

 そういう人間の無意識の行動が、反面教師として「人皆わが師」である。

 

地獄への下り坂

 私自身も、長年の狂った生活、狂った食生活で、自分を自分で癌に追い込んだ。その真因を悟らず、対処療法で済ませるから、多くの人は地獄に落ちていく。多くの人はその自覚さえない。自分がそういう罪を犯さないように、自分が反面教師の役目をしていた。自分が病の床に着かないと、そういう夢は見ない。

 人は知らず知らずに「がんセンターへの長い坂」を登り、「地獄への下り坂」を辿っている。すべて自分が原因なのだ。

Photo

馬場恵峰書『奥の細道』全集 日中文化資料館蔵

2020-12-29 久志能幾研究所通信 1877  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月28日 (月)

コロナ対策で、青酸カリを薄めて飲む?

 

 新型コロナウイルスは青酸カリのような毒をばらまいている。疾患を持った高齢者が新型コロナウイルスに罹ると、死の危険が急増する。

 しかし何故か日本人の新型コロナウイルスによる死亡者数は、欧米に100分の一レベルである。その理由がはっきりしないが、日本人は過去のサーズ等で得たウイルスへの免疫力があるとか、BCGを接種していることが効いているかと推察されている。

 

青酸カリ如き対策

 以下は私が各種の資料を読んで得た知識、状況証拠から推察した内容である。私は下記の対策をしている。

 まずマスクをすることで罹患の危険性が100分の一になる。

  マスクで飛沫感染が激減する。

  電車内や人込みでは、むやみに会話をしない。

  自宅内も、来客とはマスクをして会話。

 手を洗うことで罹患の危険性が100分の一になる。

  15秒間、流水に晒す。

 帰宅して、靴底を洗うことで罹患の危険性が10分の一になる。

 帰宅して、顔を洗うことで罹患の危険性が100分の一になる。

  私は顔を洗い、そのタオルはすぐ洗濯籠に入れる。

  本格的には、外出して帰宅したら全身をシャワーで流すと良い。

  武漢で新型コロナウイルスから免れた人は、全身シャワーを常用していた。

 湿度を管理すると菌の飛散距離が激減する。加湿器設置。

 部屋の換気を十分にする。

 トイレでは、蓋をして流す。そうしないと飛沫が30万個飛ぶ。

 便座は、使用前にトイレットペーパーで拭く。

  蓋をして流しても、噴霧飛沫が便座についていると推定。

 当然、男子も座って小水である。

 規則正しい生活、食事、睡眠で、免疫力が維持される。

  暴飲暴食をやめ、体を温め、良質な睡眠を執る。

  お風呂は、40度の湯で10分間、肩までつかる。シャワーでなく。

  部屋は真っ暗にして眠る。小さな光も安眠を妨げる。

  睡眠直前のスマホ、パソコンのブルーライトが安眠を妨げる。

  床に就く1時間前からスマホ禁止。  

 免疫力向上・自律神経の活性化の為、朝晩に冷水のシャワーを浴びる。

 毎朝、体温、体重、体脂肪率を測定して、記録に残す。5年間欠かさずやっている。

 体液の下水に相当するリンパ腺のマッサージを朝晩、欠かさない。

 酒の出る宴席には出ない。私は完全禁酒です。

  酒は微量でも、発がん性物質を含んでいるため、人から免疫力を奪う。

  宴席では、つい唾を飛ばして激論になり勝ち。

  酩酊した頭で議論して、得るべきものは少ない。得る物はコロナ菌。

 食えん人との付き合いを止める。食えん人と付き合うと下痢人生だ。

  朱に交われば、赤くなる。付加価値の高い人と付き合おう。

 

 以上の対策で、新型コロナウイルスの危険性が(1/100)×(1/100)×(1/100)×(1/10)=一億分の一に低下する。

 

 身の回りはウイルスが舞っているが、体内に侵入するウイルスの脅威が1億分の一になれば、その毒素に対して体内の免疫力が打ち勝って、発病しない。青酸カリを飲んでも、1億倍に希釈すれば、無害と同じになる。

 

正しい対策

 新型コロナウイルスを闇雲に恐れるのでなく、理性を持ち、正しく対応すればよい。日本のマスコミは新型コロナの恐怖を煽り過ぎである。その陰に、金儲けをしている輩がいる。国民からある話題を逸らすたくらみをしている。それを見ぬこう。

 誰がマスクの売り惜しみをして、儲けたのだ。

 なぜ一部の業者だけを潤すGo To キャンペーンを画策したのだ。

 なぜ減税で全国民に支援をしないのだ。

 新型コロナに罹るのは、正規の対策を無視している人が大半であると推定される。特に疾患を持った高齢者が無防備すぎるようだ。今まで、そういうルーズな生活だから疾患を持つ身になった。その人間が、国民の税金で賄う医療費の増大をさせ、医療制度を崩壊に導いている。理性でやるべき防御策を取ればよい。

 

脅威の死因

 新型コロナウイルスで亡くなられた人は、12月現在3,000人余である。それよりも恐ろしい病気で多くの人が死んでいる。それがよほど脅威である。

 日本では、お風呂で年間2万人が死ぬ。誤嚥性肺炎で4万人が死ぬ。自殺で2万人、一時は自殺者が3万人を超えていた。交通事故死で3千人だが、一時は1万人を超えていた。インフルエンザに罹り突然に毎年3千人が死ぬ。心疾患で20万4,387人(2017年)が死ぬ。そのうち3万7,222人(2015年)が急性心筋梗塞の即死同然で死ぬ。それがこの20年間で2倍に急増している。

 新型コロナウイルス対策よりも、まず心筋梗塞、脳梗塞、誤嚥、交通事故、鬱病、癌、認知症にならない対策の方が優先である。そうやって狂った生活習慣、食生活を改めれば、自己免疫力を上り、新型コロナウイルスにも罹りにくくなる。

 

認知症の脅威、奴隷人生

 だから私はコロナを恐れて外出を控えることは、常識的範囲でしかしていない。この1ケ月間で4回も九州に出かけた。人には親の死に目に会わねばならない事情があるように、行かざるを得ない事情が人にはあるのだ。もし行かなければ、一生の後悔となった。意を決して行って良かったと思う。相手からは涙を流して喜ばれた。

 状況を判断して、万全のコロナ対策をしての九州行きである。人から非難される筋合いではない。無責任な輩が匿名で非難誹謗をする。そういう輩が日本の未来を暗くする。そういう匿名での非難誹謗が自殺者まで生み出している。陰湿な社会現象だ。

 日ごろの外出も、前述の対策を欠かさない。出かけることを病的に控えると、人との付き合いが無くなり、刺激がなくなり認知症になってしまう。家族から外出を控えるのを強制されるのは、自分の頭で考えることを放棄した奴隷人生である

 自分の健康管理を万全にして、病気にならないように全力を尽くす。それが医療関係者への最大の貢献である。医療産業は国の富を増さない。検査工程と同じで、無くなれば幸せになれる。狂った生活をすれば、医療費が増え、国へ損害を与える。そのために健康管理である。

 

2020-12-28 久志能幾研究所通信 1876  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月27日 (日)

曼荼羅の佛様が 寄ってたかって 私を幸せにしてくれる(改)

 

 自分に厳しいことを言ってくれる方は、私を育ててくれる佛様だ。辛口の批評は、自分の行動の何所がいけないのかを教えてくれる。試験の成績が悪いのは、今の勉強のやり方が間違っていると親切に教えてくれている。

 仕事での失敗は、何か間違っていると教えてくれている。市場での失敗は、自分の見識の未熟さを教えてくれている。市場は神の如くの評価をする。

 大垣市の公示地価の暴落は、市長の小川敏の失政を市場が告げている。

 病気とは、己の体の使い方に関する佛様の苦言なのだ。認知症は、狂った食生活、狂った生活習慣をしていることを教えてくれている。癌は生活習慣病である。狂った食生活、狂った生活習慣の結果なのだ。

 私を幸せにしようと思わない相手は、無視をする。愛の反対は憎悪でなく、無視なのである。

 人が甘い言葉をいい、お世辞やおべんちゃらを言うのは、自分をKY(空気の読めない人)に育てるための罠である。厳しいことを経験しないと、実社会ではやっていけない。KYになっては出世など夢の話。正規社員にもなれない。厳しい叱責で研鑽を積み自分の能力、精神力、人を見る目が養われる。佛の皆さんが私のために、能力向上のため、幸せになって欲しいと鍛えてくれている。どうしようもない人には誰も何も言わない。私もサラリーマン生活で、部下を持った時、見込みのない人間は無視をした。そうしないとやっていけない。

 自分に向けられる厳しい言葉を、自分を鍛えるための愛の言葉と解釈をしよう。そう思うとき、曼荼羅の佛様がよってたかって自分を幸せにしてくれる。

 

耳中常聞逆耳之言    

 耳には常に痛いことばかり。それが自分を鍛えることになる。甘い言葉で褒められるのは、遅延性の毒を盛られるようなもの。(洪自誠著『菜根譚』)

 

 あなたを地獄に落とす贈賄側の人間は、甘言で誘いノーパンしゃぶしゃぶ接待に連れて行く。苦労をしていない高級官僚が簡単に堕ちる罠である。

ああ、私も誘われたい…..

Img_42812s  馬場恵峰書

2020-12-27 久志能幾研究所通信 1875  小田泰仙

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2020年12月26日 (土)

一人では成佛できない  「學」とは

 

 2011年4月6日に第50回京都佛像彫刻展に出かけたら、偶然、松本明慶先生にお会いできた。展示されている佛像を説明していだいた。そこには若い佛師の作品が展示されていて、中には松本工房から独立して、佛像を作っている佛師の作品も展示されていた。素人目から見て、松本工房の佛師の作品に比べて、出来が落ちるのがわかる。明慶先生によると、独立したくらいだから腕はいいのだが、独立当時から作品のレベルが変わっていないという。つまり時間が止まっている。

 これは、独立した仏師が、自分の世界に閉じこもってしまい、松本工房で大勢の仲間との切磋琢磨が無くなり、成長が出来ないとのことである。自分の世界と比較して、身につまされるお話である。人は、批判、指導により人間として成長し、その作品の出来に影響するのだと。作品がその人自身を冷酷に表す。

 菩薩とは如来になるべく修行中の佛様をいう。菩薩様は修行をしながら衆生を救う佛様として拝まれている。一人では成仏できない。回りの仲間がいてこそ、自分が成仏への修行ができるのだ。仲間は自分の鏡なのだ。仲間に手を合わせて感謝しよう。

 その学びは、仏像彫刻に限らず、全ての芸術、学問にも当てはまる。

 

「學」

 「學ぶ」の「ワかんむり」は「学びの館」を表し、下の「子」は、学びの館で過ごす生徒を表している。その学生たち、教師との対話をしている様を冠の上の象形文字で示している。一人では学べないのだ。一人で学べるのは超人である。凡人の我々は師に従って、仲間と議論をしながらその道を進むのだ。それを表した文字が「學」である。

 師との出逢いこそ、最大の学びである。だからこそ、「3年かけて師を探せ」である。

 また一緒に学ぶ仲間のレベルも影響する。良き仲間を探そう。朱に交われば赤くなるのだ。

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Img_43861s  馬場恵峰書

 

2020-12-26 久志能幾研究所通信 1874  小田泰仙

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2020年12月25日 (金)

賽の河原のピアノ弾き(改2)

 

 賽の河原の石積とは、親の供養のための童子の願行ではない。それは己が成仏させられなかった己の願行である。「禁煙・禁酒、毎日6時間勉強」と願をかけ、最初の数日間だけは実行するのだが、内なる鬼が「そんなしんどいことは止めて、もっと気楽にしなはれ」と天使の声の如く耳元に囁きかける。

 今まで積み上げてきた禁煙・禁酒、勉強の継続という名の「石積の供養塔」を壊すのは鬼ではなく、怠惰な自分である。成就させることのできず、途中で投げ出した供養塔が、人生でどれほどあることか。幼くして死んだ子は、自分が投げ出した三日坊主の象徴である。賽の河原の石積はあの世ではなく、己の「人生という大河」の両岸にある。チャレンジしては、途中でおっ放り出した死屍累々の山に手を合わせたい。

 

内なる地蔵菩薩

 積み上げた石積を壊す鬼を止めるのが、己の内なる地蔵菩薩である。佛像は己の心を現す鏡である。自分の心には鬼も住めば、佛も宿る。場面ごとに鬼と佛が心の鏡の中に交互に現れる。堕落に誘う鬼の時もあれば、己を厳しく裁く裁判官の時も、救いの佛さまのときもある。すべて自分の心が決める。

 

地蔵和讃

 賽の河原の積み石の「地蔵和讃」は、子供に対する寓話ではなく、怠惰な大人への説法である。「三途川の河原の石積」はあの世ではなく、己の心に存在する。地獄に堕ちる前に、自分を救ってくれるのは、地蔵菩薩という名の自分である。菩薩とはひたすら修行道を歩く佛様である。

  『失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる(松下幸之助翁)』。

 諦めるから、失敗になる。三日坊主を殺すのは自分の内なる劣等感という鬼である。邪気を振り払い、ひたすら目標に向かって、壊されても崩されて賽の河原の石を積み上げ続ける。そうすれば内なる地蔵菩薩が助けの手を差し伸べる。自分を救うのは自分である。

 Photo

 松本明慶先生作 白檀 地蔵菩薩  松本明慶佛像彫刻美術館蔵

  写真掲載には、松本明慶佛像彫刻美術館の許可を頂いています。

 

馬鹿じゃなかろうか

 賽の河原の石を積み上げ続けられるのは、純真な心を持ち続けた童だけである。中途半端に大人になり、純真さが薄れ、雑草が心に芽生えると、石を積み上げる気力も失せる。人から見て「馬鹿じゃなかろうか」としか思われないことをしなくなる。それは成長ではなく退化である。バカではないかと思われることを平然とやり続けられる人間になりたいもの。

 

 ピアノには誰しも憧れるが、習得は難しい楽器である。必死に練習をして、やっと弾けるようになったバイエルンの練習曲でも、翌日になると指が絡んで上手く引けないことが多々あり、自分の才能の無さに忸怩たる思いをさせられる。ピアノを習熟するには毎日8時間の練習を10年間すればよいというが、それだけの情熱をほかの面に向ければどんな道でも成功者になれる。プロ相当の腕になるには、賽の河原の石積の試練を乗り越える情熱が必要である。才能よりも弾きたいという情熱をいかに継続させるか。それを持続した人だけが、三日坊主の鬼の手から逃れられる。

250

岩崎洵奈さん  ベーゼンドルファーModel 250

 ベーゼンドルファー東京 2016年3月13日

 

 前写真のピアノはベーゼンドルファーModel 250で、ウィーンのオペラ座で100年間弾かれ続けた歴史を背負う。このピアノを弾ける舞台に辿りつく前に、賽の河原に消えたピアノ弾きは無数にいる。

 100年間も現役で活躍したピアノが存在することは稀有である。その修復が完了してベーゼンドルファー東京ショールームに展示された。2016年3月13日、ピアニスト岩崎洵奈さんの演奏で、このベーゼンドルファーModel 250と現フラグシップのModel 290 Imperialとの弾き比べのミニコンサートが開催された。招待を受け現地に出向いた。ミニコンサートの後、Model 271 を少し弾かせてもらって幸せでした。

 

三途の河で地蔵菩薩

 人生で情熱を傾けられる道を見つけて、人からは馬鹿じゃなかろうかと呆れられても、それを意に介さず、我が道を歩き続けられる人は素晴らしい。そういう人は、迷わず胸張って浄土へ向って歩き続ける。思いを心に刻んだ三日坊主が生きながらえると、三途の河で地蔵菩薩に逢える。

 宮仕えの時は、60歳までという期限があった。定年後はその制限が無くなる。レッスンの遅々たる進捗にめげず、悠々とレッスンを続けよう。こちらは死ぬまでにマスターをすればよい。死ぬまでにゆっくりと賽の河原の石積をすればよい。智慧と使える時間の量は、孫よりも多いと認識しよう。

 

2020-12-25 久志能幾研究所通信 1873  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月24日 (木)

人生深山の峠、義子先生の深山の峠

 

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、最上川の急流を舟で下り、霊山巡礼登山で旅の峠を迎えた。芭蕉は、山岳信仰の霊山で知られる出羽三山の一つである月山に登った。元禄2年(1689年)6月6日、頭を白木綿の宝冠で包み、浄衣に着替えて、会覚阿闍梨と共に、宿泊地の羽黒山南谷の別院から山頂までの8里(約32km)の山道を登り、弥陀ヶ原を経て頂上に達した。時は既に日は暮れ、月が出ていた。山頂の山小屋で一夜を明かし、湯殿山に詣でた。他言を禁ずとの掟に従い、湯殿山については記述がない。唯一、阿闍梨の求めに応じた句として、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」で秘境の感銘を詠んでいる。現代でも、湯殿山での撮影は禁止されている。

 『奥の細道』の作風は、この峠を境に雰囲気が大きく変わる。芭蕉三百年恩忌(1994年)で『奥の細道全集』(上下巻)を揮毫された馬場恵峰師も、この峠の記述を境に巻を分けて構成された。

 

人生の峠

 小さな人生にもドラマがあり人生の峠がある。しかし、その峠にもたどりつけず鬼門に入った仲間が身近で10名余にも及ぶ。還暦を迎えて、無事に人生の峠に辿り着けた有難さを強く感じる。還暦を迎えてからも仕事仲間の5名の訃報に接した。還暦は人生の峠である。

 還暦後に出会った音楽の師の河村義子先生にもドラマがあった。私が還暦を迎えた直前に義子先生は癌にかかられた。それが治癒した後の5年後に癌が再発され、余命5年と宣告されたようだ。手術をするとピアニストとして生きていけないと分かると、ピアニストとして最期まで生きたいと決断されたため、手術を拒否され、音楽道の深山に進まれた。その当時に、私とご縁ができたのは、仏様の差配だろう。

 

人生の深山

 人には、語れぬ人生の深山がある。人生で、いつかは足を踏み入れねばならぬ深山である。芭蕉は死者としての白木綿の宝冠で包み浄衣に着替えて、山に入った。人は経帷子に身を包み、人には見せられぬ醜い自分を見るために、山を登る。人生で一度は越えねばならぬ峠である。その峠で、過去の自分の臨終を見送る。

 死者として深山を上り、新しく生まれた赤子になって、上ってきた山道を下る。「他言を禁ず」の戒律は、人には語れぬ醜い己の臨終への佛の経なのだ。峠を下れるだけ幸せである。峠を下れずに、山腹で骨を埋める仲間も数多い。自然が唱える不易流行の経の声を聴き、己が神仏に生かされていることに感謝を捧げる。

 義子先生も癌を患ってから、弟子に真の病気状を知らせたのは、限られた人だけであった。義子先生は、黙々と人生の音楽深山の石段を一歩一歩登って深山に分け入り、後進を育て、後世に残る仕事をされた。しかし義子先生はその深山の峠で、越えねばならぬ峠を越えられず、帰らぬ人となった。享年61歳。若すぎる死である。明日の12月25日は命日である。ご冥福をお祈りします。

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 出羽三山の一つ 羽黒山 ニの坂   20191024日撮影

  合計2,446の石段が続く

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  馬場恵峰書 『おくのほそ道』上巻 最終頁  日中文化資料館蔵

 

2020-12-24 久志能幾研究所通信 1872  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月23日 (水)

明日死ぬる気配も見せず蝉の声(芭蕉)  磨墨知123

 

 今を精一杯生きているからこそ、鳴く声に生命力を感ずる。明日の命は分からない。今やるべきことをなせ。やりたいことではなく、やるべきことを成せ。交通事故、天災、新型コロナウイルス禍で、明日がどうなるかも分からない世の中だ。

 蝉は土中で成長し、成虫となって地上でたった1週間の命を輝かせる。その間に子孫を残すために全力を尽くす。人ならば、死を前にして世に残すものに全力をかけて臨みたい。それが出来なければ、蝉にも劣る存在になってしまう。

 

明日は死

 日本では、お風呂で年間2万人が死ぬ。自殺で2万人、一時は自殺者が3万人を超えていた。交通事故死で3千人だが、一時は1万人を超えていた。新型コロナやインフルエンザに罹り突然に3千人が死ぬ。心疾患で20万4,387人(2017年)が死ぬ。そのうち3万7,222人(2015年)が急性心筋梗塞の即死同然で死ぬ。それがこの20年間で2倍に急増している。死は他人ごとではない。

 人は遅くても50年後には死ぬのだ。10年20年は誤差範囲である。

 

余命宣告

 私も河村義子先生の葬儀後に、胸騒ぎを覚えて検診を受けたら癌が発見された。その癌の5年後生存率が51%だと医師から言われた。5年後に半分が死ぬ。余命2.5年の宣告と同じである。だから私は残された時間を大事にしている。時間は命なのだ。

 河村義子先生は余命5年と宣告され、手術をするとピアニストとして生きられないと分かると手術を拒否して、ピアニストとして音楽道を全力で生きる道を選択された。私には死ぬ気配も見せなかった。だから義子先生の突然の訃報に茫然自失である。

 人生で余命20年も5年も、人生の長さから言えば、誤差範囲である。余命1ヶ月なら、金を使いまくり毎日楽しく過ごせばよい。しかし1年以上も余命があるなら、人生で一仕事が出来る。虚楽的な生き方では、娯楽が逆に苦痛になる。だから余命宣告された人は、命をかけて世に残す仕事に全力をかける。

 

不死の者

 多くの人は時間などいくらでもあると思って時間を無駄して生きているが、今日が人生最期の日かもしれないのだ。余命を意識して一日一日を大事に生きている者から見ると、他人は不死の者であるかのように振舞っている。しかし、いくら頑張っても後50年は生きられないのだ。だからこそ無為に生き永らえるよりも、限りある命を輝かせて、今を全力で生きたいと思う。

 

時間の伝教師

 私は見送られるよりも、知人を見送ってあげたい。だから私は時間の大切さを皆さんに伝教している。

 

 12月25日が河村義子先生の命日である。河村義子先生の追悼写真集(全134頁)が完成し、明日、印刷会社から自宅に届く。河村義子先生を覚えている人がいる限り、この記録がこの世に残る限り、義子先生は皆さんの心の中で生きている。明日、義子先生のご霊前にこの追悼写真集を届けます。

Dsc09866s 『追悼写真集-河村義子先生に音楽道を學ぶ』

 2020年12月24日、10時半に自宅に届いた

2020-12-23 久志能幾研究所通信 1871  小田泰仙

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2020年12月22日 (火)

大垣市の傲慢さ、「各位」の傲慢さ

 

 大垣市から、年末歳末助け合い募金の案内が町内回覧で回ってきた。冒頭の文字を見て絶句である。冒頭に「各位」とある。今時、お願いする文書で、「各位」と書くとは傲慢すぎる。明治時代のお役所からの通達ならともかく、令和の時代の公式文書では、呆れを通り越して怒りである。日頃の小川敏の言動を見れば、当然の帰着である。部下は傲慢な小川敏の背中を見て、仕事をするからだ。部下は左遷が怖いので、小川敏のやる通りに仕事をする。

 

下々の者どもよ

 その文面も上から視線である。各位とは、上から視線で、「下々の各位の者どもよ、殿様からのお達しであるぞ。金を出せ」である。各位とは、宮中での官位を決めた言葉である。身分制度がない現代で、死語である。

 福祉体制が整った現代社会では、共同募金などは、うさん臭い募金である。それよりも豊富な福祉予算を使って施設におカネを回せばよいのだ。大垣市は他市よりも税金が高い。寄付金の依存度もダントツで高く、小川敏が自慢げに御用新聞に頻繁に掲載させる。なぜ貰うほうの小川敏が威張っているのか。

 しかし、その使用用途に不明金も多い。その集金団体も、役所の天下り先となっている。その天下った役人の給与も半端ではない。だから募金しようとする意欲が萎える。

 

寄付の半強制

 市役所からの寄付依頼書は、善意の寄付を、半強制で各家庭に400円を割りあてである。善意の押し付け、横暴である。その会計報告もまともではない。巷の噂では寄付金額の2割から3割がご苦労さん会、事務員の給与に振り向けられるようだ。

 大垣市は、赤十字社募金で寄付金額に応じて、金を集めた団体に7%のキャッシュバックまである。なにかおかしくないか。

 

市民を助けない小川敏

 大垣市からの要請案内で、年末歳末助け合い募金を強制するなら、何故、新型コロナ対処の市民への支援金が、海津市の10分の1しかないのだ。この年末歳末助け合い募金は小川敏の市民への裏切りとしか思えない。小川敏は自分達の給与カットも辞退せず、議会もその提案を否決した。人に寄付を強制するなら、まず己が模範を示せ。

 

子供の躾、部下の躾

 子供は親の言う通りにはならない。親が背中で示すように、親のやるようにやる。大垣市長の小川敏は寄付金集めで忙しい。岐阜新聞に寄付者とツーショットの写真が目白押しである。乞食行政のオンパレードである。小川敏の子供に相当する大垣市役人どもが、小川敏の背中を見て、寄付金集めでも、小川敏のように上から視線で「お仕事」をするのは当然の帰着である。一事が万事である。

 

行きつく先が非人間行為

 だから今年の大垣市の新春餅つき大会で、老人が餅の誤嚥で死亡しても(殺しても)、担当責任者(小倉利之理事長、松本正平専務理事)は弔問にも行かず、知らんふりをするのだ。人間のやることではない。市の行事で市民が死亡しても、小川敏がその説明責任を放棄するのだ。小川敏が市長であることが、大垣市の最大の不幸である。

 その死亡事故の責任の追及さえ、大垣市議会でも問題にもしない。岐阜新聞も中日新聞も無視である。そんな新聞を子供に見せれば、子供がおかしくなる。

 

P1140203 2020-12-22  久志能幾研究所通信 1870  小田泰仙

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