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2021年1月

2021年1月31日 (日)

上昇指令と逆噴射を同時では墜落 (磨墨知137a)

 

 「ボケイング(ボケing)」とは、「ボケ」の現在進行形(ing)形である。

 人は愚かな存在だ。啓発セミナーに参加して刺激を受け、自分を変えようとアクセルを一杯に踏むが、内なるもう一人の主人公がブレーキをかける。

「やめとけ、ヤメとけ。そんなこと無理、無駄。笑い者になるだけ」

 それに納得して、やろうとした改革に逆噴射していたのが、今までの己である。

 乗っているのが自転車なら、その場で止まっているだけで、お笑い劇場で済む。しかし人生でそれをやれば、人生沈没である。それで失恋、左遷、挫折である。飛行機の離陸で逆噴射をかければ、墜落である。

 それこそ優柔不断、ホバリング(ボケイング)である。要は認知症一歩手前である。

 

経営のアクセルとブレーキ

 経営者が会社経営で、スロットレバーを引きながら逆噴射をかければ、会社が倒産してしまう。

 日産は、ゴーンが会社立て直しのためとしてリストラのスロットレバーを全開にしたが、未来への投資にはブレーキをかけた。その裏では、ゴーンはお手盛りの贅沢三昧をしていた。

 世の中は急速に変化している。グローバル経済競争の世界では、現状維持で投資削減では、現状維持さえむつかしい。それは敵前逃亡で、負け戦なのだ。日産は、将来への投資をケチったため、その後、魅力ある新車を市場に投入できなかった。だから日産は沈没した。日産はゆでガエルのように、少しずつ茹で上がっていった。その過ちが露見するのに、20年の歳月を要した。ゴーン・チルドレンも甘い汁を吸っていたためだ。

 私の前職の会社も、学閥優先の決断できない経営者がのさばっていたので、スロットレバーを引きながら逆噴射をかけるという経営であった。市場の変化に対応した必要な技術投資が出来ず、ジリ貧になり創業60余年で市場からその名が消えた。世間にはそんな事例がゴロゴロしている。

 

人生の岐路

 自分の人生を振り返っても、人生の岐路での選択で、アクセルとブレーキを同時に踏み込む過ちを繰り返していないか、見直そう。20年後にその間違いに気が付いても、その時は手遅れである。日産のように。

 

実践至道

 自分の内なる声が2つもあるとき、何方を信ずるかは、直観に順う勇気を持とう。命は刻々と尽きていく。世の中は激変している。今からでも遅くない。命が尽きる前に、一歩前に出よう。己のボケイングに気付いた時に、何か新しいことに挑戦・実践すべきだ。何かを実践すれば、なんらかの答えを世間は示してくれる。

P10500021s  馬場恵峰書 2008年

 

2021-01-31 久志能幾研究所通信 1906  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月30日 (土)

スロットルレバーを引こう  (磨墨知137)

 

 飛行機は離陸しないことには目的地に着けない。目的地に達するために、まず離陸に、集中的にエネルギーと時間を使おう。最初の熱き決意がないから、反対勢力に潰される。

 新しいプロジェクトを立ち上げるには、通常の20倍のエネルギーがいることを覚悟すれば、どんな苦難にも耐えられる。その覚悟がないから、些細な障害で挫折する。

 

「創業期(新しい仕事)には、平常業務の20倍のエネルギーがいる」

     テンポスバスターズ社長 森下篤史

 

外科医は手術中に電話に出ない

 人生を成功するためには、脇目も振らず、一つのことに全精力を注力する。一時一心一念道、人生二度なしである。スロットレバーに命をかける。なにせスロットレバーを引いている時は、人生で一番不安定な時なのだ。

 外科医は、癌の手術中に携帯電話には出ない。目の前の手術に全力投球である。パイロットは離陸中にコンビニに寄らない。寄れば墜落だ。

 この当たり前のことが出来ない人が多い。目的を持って出発したのに、なぜ途中で寄り道をするのか。

 

魂と魂の出会い

 友と話していれば、それが己の人生で今、一番大事なご縁の出会いである。友と会話することは、友を己の鏡として、己の癌になる寸前の部位を摘出手術しているのだ。出会いとは、魂と魂の出会いだ。ご縁は一期一会、その時は、二度と来ない。人が人生の成功をもたらしてくれる。

 その大事なお話し中に、勝手に割り込んでくる携帯電話に何故出るか? その電話が話(人生)の腰を折るのだ。そんな無礼な電話には、あとから電話をすればよい。着信履歴があるではないか。その些細な行動が、信用を失なわせる。信用とは、蓄財の基礎である。信用を失っては、金持ちにはなれない。

 

目の前のお客を無視

 8年程前、自宅で、リフォーム工事で耐震補強設計の打ち合わせ中に、その設計事務所の社長に携帯電話がかかってきた。電話相手が「今いいですか?」と聞いたが、その社長は「いいですよ」と答えて会話を始めた。私はその社長に「帰れ」と怒鳴って、会議を打ち切り、耐震補強設計の依頼をキャンセルした。人を馬鹿にするにもほどがある。その業者は、私より電話口の客の方が大事だとボディランゲージで示したのだ。その後の仕事での不誠実さが予想されたので、キャンセルが正解である。縁なき衆生は度し難し。

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Photo

Dsc089821s  馬場恵峰書

2021-01-30 久志能幾研究所通信 1905  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月29日 (金)

写経書とのご縁  CANON TS-E50mmF2.8L

 

 2012年夏の明徳塾で、恵峰先生が写経書を紹介された。先生のお弟子さんが仏壇のご先祖に供えるため依頼された写経書の写しである。私も自宅仏壇に供えるには良いなと思って手を出そうとしたら、それを手にして見ていたT代表がその書を抱えたまま手放さなかった。明徳塾運営上の職権乱用ではないかと思った。

後から恵峰先生に話したら、別に書いて上げるとの事で、後日、手に入れることができた。佛が餓鬼になる事例を見ることもよき勉強ではある。ああしてはいけないと教えてくれている。欲しいと決断しても、入手が出来ないときもある。それが人生である。それでも、願望が強く、ずっと思っていれば、何時かは何とかなるものと最近は達観できるようになった。これも歳の功かなと思う。

 

写経書の撮影のご縁

 その後、恵峰先生より中国で先生の書を出版するので、軸の写真を撮って欲しいとのお話があり喜んでお受けした。丸順の今川順夫最高顧問からの写真集作成のご依頼のご縁も重なり、構えてカメラを新調した。CCDがフルサイズの一眼レフCANON5D-Ⅳの最高級品(当時)である。それを買えるのもご縁である。そうでないとこのカメラは買う気にもならなかった。なにせデカイし重たいし高価だし、持ち歩くには構えてしまう代物である。

 2014年12月10日に、恵峰先生宅で約60本のお経の軸を撮影した。福田琢磨氏に手伝って頂き、約6時間をかけて撮影した。今回は構えて行ったので、不思議と失敗の写真は一枚の無かったのに我ながら驚いたもの。やはり高いものにはワケがある。

Photo  馬場恵峰書

 

レンズの変遷

 最初は書画撮影として、マクロレンズ CANON EF100mmF2.8L(580g)を使用した。書画を撮影するには、歪が少なくよいレンズであった。その後、検討を重ねて、あおり機能付きのレンズ CANON TS-E50mmF2.8L(945g)を購入して、愛用することになった。重量も当初のEF100mmの1.5倍、価格も2倍以上となったが、書画を高精度に撮影するには、高性能のレンズである。

 その後、カメラ本体をCANON5DⅣからSONYα7RⅣに変更したが、レンズはアダプターをかませて、このCANON TS-E50mmF2.8Lを使用している。このレンズは、オートフォーカスもズームもなく、手動でピント合わせである。SONYにはこれに相当するレンズがないために、敢えてCANONレンズを使用している。CCDではSONYに分があるが、レンズはCANONに優位性がある。カメラのボディもレンズも最高のものとなると、現在では叶うメーカがないのがマニアの悩みである。

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 恵峰先生宅での撮影状況 2014年12月10日

 マクロレンズ100mmを使った撮影

 

2021-01-29 久志能幾研究所通信 1904  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月28日 (木)

幸福度を上げよう  辛型コロナ対策 (磨墨知453)

   

 幸福になるために、欲望を小さくして時間を創る。

   幸福=充足/欲望

 欲望を小さくすれば、充足までの時間は短くできる。

 「足るを知る」は禅の言葉。

 欲望を大きくするから、なかなかに器が埋まらない。立って半畳、寝て1畳、飲んで三合で、人が消費できることには限度がある。お金を使うにも大きなエネルギーが必要だ。それが原因で体を痛めて早死にしては、何のために金儲けをしたのやら。グローバル経済主義者のように集めても集めても飢餓感を増やすだけでは空しい。必要以上にかき集めても、物理的に使いきれない。

(私の本音、それにつけてもお金の欲しさよ?)

 

サムソン総帥の肥満

 サムソンの総帥・李健煕は、韓国一の財産を貯めても、72歳に急性心筋梗塞で倒れ、それから6年間も意識不明でベッドに横たわった。体形から見て飽食と運動不足が原因(推定)だと思う。彼は意識が回復せず78歳で死亡した。その後の遺族達の醜い裁判沙汰の財産争いが結末では、何が人生の幸せかを考えてしまう。その後継者の長男が刑務所行きでは浮かばれまい。

 人生の勝負は死の瞬間である。その時、「いい人生だった」と思えれば、その人の勝ちである。李健煕は、そうは思わなかっただろう。死の前に、金は無力である。

 

欲望のパンデミック

 カルロス・ゴーンは倒産寸前の日産に乗り込み、先人が貯めた資産を切り売りし、従業員を必要に以上に解雇した。彼に特別の経営能力があったわけではない。冷酷に経営資源をカットしただけである。外人だから冷酷に人員整理が出来ただけだ。まるで新型コロナウイルスのように、寄生した細胞を食い物にしながら、ゴーンは増殖して金満肥満になっていった。金を集めても集めても満足することがない。欲望のパンデミックである。

 

馬場恵峰師の無価珍

 人が死んだ後に残るは、集めた量ではなく、世間、後世に与えた量の記録である。馬場恵峰師は、中国に250回以上も自費で旅行をして、(一回30万円として)8千万円近くの金を使ったが、表面的には何も残っていない。しかし恵峰師の頭の中には友情と経験と智慧という無形の財産が残った。それを「無価珍」という。それが恵峰師の芸に深みを与え、後進を育てる肥やしとなった。

 「無価珍」とは金では計り知れないほどの凄まじいお宝という意味である。

 

中国の恵峰先生への評価

 中国政府は、1993年、馬場恵峰師に刺繍で織り上げた肖像画を贈った。刺繍肖像画を過去に贈られたのは、日本人では田中角栄、日中友好議員団の参議院議長である。先生の肖像画の前作がスカルノ大統領の刺繍肖像画であった。この刺繍肖像画の製作には1年間かかる。この刺繍肖像画は、中国共産党の許可がないと制作出来ない。

 中国政府は、2000年、馬場恵峰師を浙江省8000万人の名誉市民として表彰した。

 馬場恵峰師は2003年に渓流希望小学校の建設に尽力をされた。名誉校長の称号送られている。与えたことに対する中国からのお礼である。

 2004年、中国桐蘆県教育功労賞、受賞。

 馬場恵峰師は、日本では祖父、父と三代続けて、2013年に長崎県民賞を授与されている。国に対して叙勲を県が申請中であったが、叶わなかった。日本の対応が情けない。

 

独占欲という辛型コロナ

 己の集めているもの、集めてきたモノは、社会で何の価値があるかを振り返ろう。己の死の後、それがどういう価値を産むかを考えよう。なんでも自己のモノにしたいという独占欲は増殖する。新型コロナウイルスと同じである。それが不幸の始まりだ。金銀財宝は、あの世には持っていけない。

 

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 刺繍肖像画

P1010479s  建設に尽力されて贈った渓流希望小学校

P1070259s   渓流希望小学校の開校式 2003

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 馬場恵峰書

 

2021-01-28 久志能幾研究所通信 1903  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月27日 (水)

弘法大師とのご縁 写経ツアー

 

 馬場恵峰師は、2014年6月26日に空海大師が修行をした西安(長安)の清龍寺で写経納経をする写経ツアーを実行された。私もこの写経ツアーに誘われたが、目の手術の関係で断念した。

 弘法大師が修行をされた長安の清龍寺で、馬場恵峰先生と一緒に写経納経をされたのは素晴らしいご縁である。弘法大師のご縁は、その深遠なる教えを具現化した高野山中門につながる。私は松本明慶大仏師作の四天王像と対面できたのはよきご縁であった。

 日本に現存する曼荼羅は、空海大師が清龍寺で修行をして、中国から日本に持ち帰った元禄本がオリジナルとなっている。

 

清龍寺で写経会

 この写経ツアーでは20名の参加者が、2時間音一つ立てず無言で写経に集中した。それは見事な姿であったと同行された馬場三根子先生は回想する。

 その間に恵峰先生は2枚の写経をされた。さすが凡人とは書く速度が格段に違う。恵峰先生は別に15枚の写経・軸を持参され納経された。両親や親戚、知人のために書かれた写経であるという。

 馬場恵峰師は、「写経が一番のご先祖供養になる」と言われる。恵峰先生は軸に書かれた般若心経を清龍寺に奉納された。先生でも般若心経を書くのには2時間を要する。それも表装された軸に直接書かれる。佛技である。

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2  西安 青龍寺 金剛堂(写経をした場所)

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 写経を奉納する恵峰先生と受け取る管主寛旭和尚

 寛旭和尚は将来の中国仏教界のトップに立つ方である。

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左端 恵峰先生、齋藤明彦氏  西安(長安)にて   撮影:福田琢磨氏

 

2021-01-27 久志能幾研究所通信 1902  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月26日 (火)

調和=弱肉強食(コロナの考察)  磨墨知452

 

 滅びゆくものを無理に「保護」しない。保護する時間と金が無駄である。その保護するエネルギーがその種全体を弱くする。

 弱者の滅びは、自然界が調和している証しで、自然界の原理原則である。弱いものを保護するとますます弱くなる。滅びるものが滅びず、全てが栄えるとはすべての種が絶滅する事。一種だけ繁栄しすぎるのは生態系が崩れて全てが滅ぶのだ。その場合の保護は見せ掛けの援助となる。宇宙全体の時間経過に逆行する。

 

免疫力低下での死亡

 新型コロナで死ぬのは年間3,414人(2020年)癌では373,584人 (2018年)、脳梗塞で62,122人 (2017年)誤嚥性肺炎で約40,000人、心筋梗塞で37,222人(2018年)糖尿病で13,969人(2017年)、インフルエンザで毎年約10,000人、である。全て自然の摂理に反した狂った生活、狂った食生活を送ってきて、体の免疫力が低下して病魔に負けたのが原因である。

 新型コロナで死亡する多くが、免疫力の低下した疾患持ちの人達であるが、新型コロナだけでなく、他の病気でもそれは同じである。新型コロナで死ぬより、他の病気で死ぬ人が多い。

 癌でも、癌そのものが原因で死ぬわけではない。癌で免疫力が低下して、肺炎等で死ぬのが大半である。

 だから癌を罹患した私は、自分の免疫力向上に力を注いでいる。死んでもいいから、免疫力向上である。それこそが健康管理である。

 マスコミが新型コロナの恐怖を煽り過ぎるにはワケがある。他の病気(生活習慣病)の死因が、マスコミの大スポンサーの提供する食品の取り過ぎが原因であるので、それから目を逸らすためとしか思えない。例えば、酒、煙草、砂糖、食用油、添加物防腐剤が大量に入ったスィーツ・菓子・食品類である。

 病原菌も他の生物を攻撃して生きるのが自然の営みである。病気で死ぬのは、免疫力を低下させる「美味しい」食品を多く取ったためである。美味しいものには毒がある。

 

非武装中立の愚

 自然界の冷酷な掟で、無防備な生命体は他の攻撃を受けて死ぬ。アフリカのサバンナに生息する弱い動物は、その嗅覚、聴覚、視覚を最大限にして身を守っている。その注意を怠った動物がライオンに食われている。

 非武装中立をほざいた社会党の党員が、家の戸締りをせず寝ていたとは聞いたことがない。平和な日本でも、戸締りを忘れれば、泥棒に入られる。

 ネットの世界でも、PCのウイルス対策、詐欺防止をしていないと、詐欺に引っかかる。

 中国共産党は尖閣諸島、沖縄を虎視眈々と狙っている。中国共産党は尖閣諸島に年間1000回もの領空侵犯、領海侵犯を繰り返している。その対策が、自衛隊のスクランブル出撃である。その度ごとの自衛隊機スクランブル出撃でのガソリン代だけで、年間100億円である。そのガソリン代は全て税金である。なんでそんな国のドンを国賓として招かねばならぬのか。それを推進する二階俊博は売国奴である。

 永世中立国のスイスの軍隊は半端ではない。国民は全て徴兵制で一度は軍隊に入る。だから永世中立国を守ることが出来る。

 国を守る軍隊を持たなかったチベットは、1948年、中共共産党の軍隊に蹂躙されて、120万人が殺され(人口の2割)、国が滅んだ。日本に換算すれば、2000万人が殺されたと同じである。

 1952年、韓国は日本に軍隊がないスキを狙って、日本領土の竹島を占領した。日本に自衛隊が発足したのは、1954年である。国を守る軍隊がないとどうなるかを、竹島が強奪されたことで証明される。

 かの英国は、19世紀にアジアアフリカの諸国が、無防備をよいことに、武力にて、植民地として国を盗んだ。それで日の沈むことのない大英帝国を作り上げた。要は泥棒大帝国である。今の新型コロナよりも質が悪いウイルス国家であった。そのため、植民地にされたインドでは、イギリスによる過酷な植民地統治時代に頻発した飢饉の死者数は、推計で5000万人を越える。新型コロナでの死者数どころではない。

 

健全な生活に強靭な免疫力が宿る

 健康な人が持っているのが、自衛隊に相当する体の免疫力である。芸能人たちは、札束を切って豪遊し、その免疫体制を弱めていた。金に任せて大酒は飲む、タバコは吸う、夜更かしはする、結果は睡眠不足。飽食いっぱいで肥満体。そうして免疫力が低下した体は、新型コロナウイルスの攻撃を受けてひとたまりもなかった。冷たい言い方だが、親から授かった体を大事にしなかった自業自得である。

 健全な生活を送っている健康な人は、新型コロナに罹っても重症化はしない。現代人がかかる病気の大部分は、人間が、人間も動物で、一つの生物であることを忘れて、やりたい放題で体を傷める生活をしたのが原因だ。だから疫病の蔓延は、自然界が自惚れた人間に鉄槌を下した現象である。応力は弱いところに集中する。機械力学の根本原理である。

トヨタ経営の鉄則「自分の城は自分で守れ。」

 

2021-01-26 久志能幾研究所通信 1901  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月25日 (月)

両界曼荼羅で自分探し

 

 曼荼羅は、サンスクリット語のnandalaの音写した言葉で、本来の意味は“本質、中心、真髄などのもつもの“を表し、仏教では仏の悟りとその世界を意味する。特に密教においては、聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表した図をいう。

 

人生の俯瞰図

 曼荼羅は日本密教の教えの中心ともなる大日如来を中央に配して、更に数々の「佛」を一定の秩序にしたがって配置した人生の俯瞰図である。「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。

 胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面である現象世界として捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面である精神世界として捉えている。こういう概念を1300年も前に曼荼羅の図に表した創造者の知恵には、畏敬の念が起こる。

 

生きている意味

 胎蔵曼荼羅には様々な姿の佛の御姿が表されている。一人ひとりの佛にも意味がある。各々の佛が曼荼羅の世界でその場所のお役目を果たしている。自分が歩む人生で、与えられた時代とその与えられた場所で、佛としてのお役目を果たすのが、自分の使命である。己は何のために生れたか、自分探しが人生の曼荼羅である。人は生きているだけでも、佛の価値がある。

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上図:胎蔵曼荼羅(岩田明彩師作)   松本明慶仏像彫刻展(仙台・藤崎)

松本明観師、岩田明彩師、(2014年11月20日)

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2021-01-25 久志能幾研究所通信 1900  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

人生の曼荼羅  死肉を喰らう

 

 人生を俯瞰的に見ると、人生はピラミッドや高山の頂点を目指して歩む姿に例えられる。それは人生の宇宙観であり、緻密に築かれた城の石垣にも例えられる。

 

人生のピラミッド

 人生の目標とする所が山の頂点なら、俗世間的に言えば会社の社長である。佛の世界ではそのトップは大日如来である。そこに達するには、地獄界、畜生界、邪鬼界、人間界、天界、菩薩の世界を経ないと到達できない。人は生まれながらに頂点で生まれるのではなく、試練・修行を経て悟りの境地に達する。お釈迦様も釈迦王国の滅亡、修行、試練、弟子の離散の地獄を見て、悟りの境地を得られた。お釈迦様は万能の存在ではなく、悩みある我々凡人と同じ人間である。また大日如来も単独では存在できない。その回りの菩薩、天、鬼がいてこそ存在できる地位である。

 

人生街道で出会う仏様

 人生では、あるときは地獄の鬼と対面するときもある。不渡り倒産の危機に直面して七転八倒の苦しみを得ながら進む地獄界のときもある。時には鬼となって相手に借金の返済を迫るときもある。天として(部下や会社の)守り佛として会社を自衛する四天王となるときもある。人間とは人を殺めるような鬼畜の性もあれば、童を愛する天女のような心の両面を持つ。その心は流転して無常である。すべて己の観念が作り出している世界である。

 

受戒位

 人間とは「人」と「人」の間にある「門」を毎「日」渡り歩き、悟りの世界を求めて歩く修行僧といえる。どれだけ富財宝を手に入れても、死ぬときは全て手放して裸であの世に旅たつ。それ故、人生では、貯めた財宝ではなく、人に与えた価値で評価される。

 それを悟るにどれだけの失敗・恥・経験を積むかが、人生の修行である。人は痛い目を経験しないと目が覚めない愚かな存在である。かの釈尊でさえその過程を踏襲された。そういう目に会わないと、人の痛みが分からない。自分が仏になるための戒を授けられたのだ。

 

死肉を食らう佛

 足る知るを知らない輩が餓鬼道に堕ちる。その心はガリガリに痩せ、外見の腹だけが異様に膨らみ、目に付く人のもの手当たり次第に死肉を食らうが如き食い様である。食べても食べても、集めても集めても満足しない飢餓地獄の世界である。毘舎遮は、死肉を喰い、血をすすって飢えをしのぐ。死肉を喰っても血をすすっても満腹せず、ひたすら喰いまくる。死肉を喰う同じ仲間であっても、目も合わせず、会話さえしない。

 

曼陀羅の餓鬼

 餓鬼は東寺の曼荼羅図にも描かれている。餓鬼は劫波杯(血を盛った杯)や人の手足を持ち、これを食らう死鬼衆として描かれている。餓鬼とは人間の性である。曼荼羅図に描かれている姿は、衆生が餓鬼道に堕ちないようにとの戒めである。

 現代は拝金主義者、グローバル経済主義者という餓鬼が、社会で大手を振って君臨している。金を集めるだけの強欲に支配され、冨を独り占めする。下水が詰った状態の様で腐臭が凄まじい。四天王としての六根を麻痺された現代人が死鬼衆に食われている。

 その姿を弘法大師は、1300年間に予言した。貧富の差が拡大して、格差社会が酷くなっても、富者がひらすら死肉を喰う様は、現代資本主義社会と同じである。カルロス・ゴーンは日産社員を必要以上にリストラし、浮いた金で贅沢三昧をした。まるで死鬼衆の様である。

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 東寺 曼荼羅図 外金剛部院(部分)死鬼衆

 

自然の摂理

 死肉を喰う族も必要だ。それも必要悪だ。森林の枯れ葉が、次世代の芽の肥やしになるのは、自然界の摂理である。そういう人間がいて、佛もいて社会が成り立っている。自分の死後に、死肉(財産)を喰われても、いいではないか。どうせ来世には持って行けない。それがこの世で役立てば本望だ。そういう仕組みのなかで、己はどうするのかが佛から問われている。

 

死肉を喰らう佛に遭遇

 私もこの2年間だけでも、人から煮え湯を飲まされた事件が数度あった。その輩たちは超富裕層で、病気持ちの老人たちであった。それは全ての事例で共通していた。死期も近い老人たちが、まるで死肉を喰うような仕打ちを私にした。それは曼荼羅で、死肉を喰う佛として描かれて様と同じだ。死肉を喰っているのは、佛である。それが人生だと弘法大師は曼荼羅で教えている。

 

古希での受戒位

 私は古希も近い歳で情けない目に会った。「そういう縁を避けよ」、「人の本性を見極めよ」との佛の教えである。縁なき衆生度し難し。修証義に曰く「善悪を弁えざる邪険の輩には群すべからず」と。

 第二の人生で悟りに到達したい。悟れなかった人が、現世で餓鬼道・幽霊道に迷いこむ。帰らぬ過去の後ろ髪を引かれ、まだ来ぬ未来に目を向け、虚ろな目を向けて迷う生き様である。すべて人のせいにする被害者意識の人生である。

 

人皆佛

 人生の曼荼羅に、自分の歩いた履歴が表れている。その曼荼羅の中に現れている佛に自分の宇宙観が現れる。出会うご縁は全て自分を良くしようと現れる佛である。だから人生に無駄な縁は無く、自分以外は全て我が師である。死肉を喰う輩も仏様である。貧乏神のコスプレで現れる逆縁の菩薩にも尊い教えがある。

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 馬場恵峰書、文は小田泰仙作 

 

2021-01-24 久志能幾研究所通信 1899  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月23日 (土)

中門とは曼荼羅への入口(改)

 

 弘法大師が高野山の立体曼荼羅が広がる根本大塔の前に中門を設置して、門の四隅に四天王を配した意味は深い。その先に人間の歩く道がある。まずその門を通らないと始まらない。人生の目的地までは千里の道のりである。

 『新約聖書』マタイ伝第七章に「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」という。「狭き門」は、キリスト教で天国に至ることが困難であることを例えた言葉である。転じて、入学試験や就職試験など、競争相手が多くて突破するのが難しいことの例えである。

 仏教でも同じことを教えている。人は狭い門の母の経道を通り、母親を苦しめて人間界に生まれてきた。決して大門を楽に通ってきたわけではない。大門は人も動物も生き物が通ってくる。その中で魂を持った人間だけが、その次の中門に入れることができる。

 

中門を通れる資格

 人間は自分の使命に向って進む。動物は欲望のまま生きる。中門に入界審査官の四天王が立ち、通る人の心に問うている。仏道界では中門を通れるのは、魂を持った人間だけである。欲にまみれた餓鬼は、その門を通れない。中門の四隅に立つ四天王が己の魂を誰何する。

 世の中は、グローバル経済主義の強欲に取りつかれた餓鬼が跋扈している。餓鬼の世界は、金を集めても集めてもその欲が満ちることはない。多くの餓鬼は、金欲にまみれ、食欲にまみれ、性欲にまみれ、虚楽に酔って、此の世を過ごしている。利他少欲とはかけ離れた世界である。己はその四天王の目を直視できるのか。肥満した体、醜く出っ張った腹、たるんだ頬、下品な顔立ち、すべてが過去の強欲さの蓄積の証しである。

 その中門の先には大宇宙を表す立体曼荼羅が広がっている。己の目的地はどこか。何のために人間稼業をしているのか、自問しよう。

039a0676s   高野山中門 2015年4月25日撮影

039a0680s  広目天 松本明慶大仏師作  高野山中門  2015年4月25日撮影

039a1203s  増長天  松本明慶大仏師作  高野山中門  2015年10月8日撮影

 

人の狭き門

 人として生まれたのなら、構えた門の下に何を置くかである。門の下に「人」を置けば「閃き」である。門の中に人がチラッといるのを見るという意味である。閃きは生きている人間にだけに与えられている。閃きは仕事、修行において求めるものを探求し艱難辛苦の果てに天与されるもの。贅沢三昧の極楽温泉に浸かり心が緩んだ人には授からない。

 

 「間」とは門を閉じても日光、月光がもれるさまから、隙間を意味する。月の光は日に照らされて放つ光である。だから「閒」とも書く。言動から佛性の光が漏れ出るのが人間である。己は縁ある人に何を照らし与えているのか。功徳ある照らしでありたい。光を吸い込むブラックホールの存在では哀しい。

 

 「開く」は「門」+「幵」で、「幵」は、両手の象形である。門に両手をかけて開くの意味を表す。己の人生の新しい門は、己の両手で渾身の力で押さないと開けられない。開けられないのは門が重いからではなく、力の出し方が足りないのだ。

 

 「才」を置けば「閉じる」である。「閂」も同じである。門を木のかんぬきでとじた様を表す。己という人生の門にかんぬきをしては、人生は始まらない。かんぬきだけは置くのを避けたい。見ざる聞かざる言わざる、ではサルの畜生である。

 

 門の下に「口」を置けば「問う」、「耳」を置けば「聞く」。人生を生きていくために、己の門の下に何を置くかが問われている。

 

 門の下に「木」を置けば、(ひま)である。閑だから考えることが出来る。夢を抱くことが出来る。ラテン語でスカラーとはラテン語で「閑」である。ギリシャ社会では、労働は奴隷に任せて、特権階級が閑だから思想を練ることができた。それがスカラー(哲学者)である。

 

 門の下に心を置けば、「悶える(もだえる)」。口には出さずに、心を門の下に置いて公衆に晒す状態である。金に悶え、名誉欲に悶え、性欲に悶え、食欲に悶えて、恥を天下に晒している。それは智者の行為ではない。悶えた人間は、中門をくぐれない。

P11202771s  馬場恵峰書

2021-01-23   久志能幾研究所通信 1898  小田泰仙

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2021年1月22日 (金)

未来は変えられない。過去を変えよう。 磨墨知151

「何になったら」、「もし~だったら」を止めよう

 

 「●●になったら、やる」と言わないで、やるべき事は即実施しよう。言い訳や逃げ道を作るから、目的が達成できない。今までやってきたことが無駄となる。大事なのは今。出来ることから実行しよう。千里の道も一歩から。

 

 未来は変えられないが、過去は変えられる。

 過去を変えないと、今のままの人生が未来に続く。

 過去がどんなに悲惨であったとしても、その逆境が自分を鍛えてくれた学習の場として解釈する。そうすれば悲惨であった境遇が、よき訓練の場だったと解釈できる。そのためには今が輝いていなければならない。だから今に全精力を使え。

 死んだ時間を振り返ることなかれ。大切なのは今の時間。死んだ子の歳を数えても時間は戻ってこない。数えていれば、日が暮れる。命は一刻一刻と尽きていく。人生の大事を急げ。

Img_44212s  馬場恵峰書

2021-01-22 久志能幾研究所通信 1897  小田泰仙

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