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2018年4月

2018年4月16日 (月)

累積閲覧回数25,000回

お陰様で、2018415日、本ブログの累積閲覧回数が25,000回を超えました。お礼申し上げます。

2018-04-16 久志能幾研究所 小田泰仙

佛像造りの創造性

京都の都メッセで仏像彫刻展

 2018年4月8日、京都の都メッセで仏像彫刻展が開催されたので出かけた。京都の仏師の作品20体が展示されていた。その中で、会場に入ると4尺(高さ3m)の紅松製の大仏である不動明王座像が睨んで出迎えてくれた。その姿は圧巻であった。その大仏は松本明観師の作である。

 その不動明王の目つきは厳しく、己の心の中の煩悩を見透かすようであった。己のために、叱って下さるお不動さんであった。ところが、お不動さんの懐の飛び込むように至近距離1mまで近づいて見上げると、「よう来た、よう来た」とその目は笑っていた。口元も微笑んでいるかのようであった。

 今回、松本明観師は、そういう目の錯覚で、目つきが変貌する仕掛けを創られた。目の形状を工夫して、見る角度で、仏様の目が笑ったり、睨みつけられたりたりする技法を創造した。その目の形状が今までと違うのでガラスの目を入れるのに苦労をされたという。

 今回のお不動さんは、己の心の中の煩悩を見透かして、叱って下さる。懐に飛び込めば、佛様の目が厳しい目つきから、優しい笑っている目に変化する。

 

水戸の松本明慶仏像彫刻展

 2018年4月16日、水戸の京成百貨店で松本明慶仏像彫刻展(会期4月12日~17日)があり、遠路5時間をかけて出かけた。そこにその不動明王座像が展示されていた。残念なのは、会場の天井高さが3mに制限があり、京都の会場よりも台座が低く設置されており、その迫力が半減していた。それでも、真下に座って見上げると、目に微笑を浮かべて迎えて頂いた。

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 不動明王座像 京成百貨店で 2018416

 松本明慶師より撮影の許可を頂いています。

松本明慶大佛師の目指すもの

 佛像という佛様は、拝み手を合わせれば、なにか心が安らかになるお顔でないと、手を合わす意味がない。松本明慶大佛師も、拝めば知恵や安らぎを授けてくれるようなお顔を目指して仏像づくりに精進されている。また参拝すれば己の煩悩を見据えて叱ってくださる佛様、佛に近づきその懐に飛び込めば優しく抱いてくれるような佛様を目指して佛像づくりをされている。古い伝統に縛られた仏像つくりではあるが、その中にも新しい挑戦と創造がある。

 実際の不動明王の目がどのように見え方が変貌するかは、京都の松本明慶仏像彫刻美術館で、皆さんご自身でご確認してください。

 この不動明王坐像の制作過程が、下記で放映されます。

 2018年4月29日 BS-1 クールジャパン 18:00~18:44

 2018年5月13日 BS-1 クールジャパン 12:00~12:44(再放送)

 

2018-04-16

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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自惚れは持たねばならぬ

自惚れは持たねばならぬが、自惚れてはならぬ(馬場恵峰先生談)

 自惚れは、人一倍の努力、精進をしなければ持てない。自惚れがない人は、その努力をしていない人だ。日本一になるには、日本一の努力が必要だ。人一倍の努力をしてきたという自負が自信となり、美人コンテストでも、私が一番美しいと思って振舞うから、美人として映える。それを自信がないかのように振舞っては、美人コンテストでは優勝できない。ピアノ演奏でも、仏像彫刻でも、どんなコンテストでも同じである。

 自惚れても謙虚さを忘れたら、鼻につく。それを鼻にかけては、自分の成長は止まる。そんな料簡では、世の中でうまくいかない。

 要はどこまで大きく、太く、未完成で終わるかを目指す旅が、人生なのだ。大きくなるだけではダメなのだ。大きく成長して、テンを味方につけて、太く豊かにならねば、後世に残る仕事はできない。更なる未完成を目指して、更なる精進が必要なのだ。

 

 馬場恵峰師は、今回の彦根、関ヶ原、大垣、犬山の訪問を終えて、中部国際空港より2018年4月15日18時10分発のANAで長崎空港に向けて帰路につかれた。Nさんと一緒に、先生たちをお見送りして安堵である。

 なぜ、今回の幹事たちが中部国際空港でお見送りをしないのだ。お見送りこそ、人としての感謝の礼儀である。

 

2018-04-15

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2018年4月14日 (土)

磨墨で真心を磨る

 2018年4月13日、盛岡の湯澤さんと齋藤さんが、遠路700キロを自車で交代しながら運転して大垣フォーラムホテルに日没後の18時15分に到着した。翌日の馬場恵峰先生の講演会に参加のためである。

 湯澤さんは、重い書道道具を恵峰先生に長崎から運ばせるのは忍びないと、岩手から書道道具を車に載せて駆けつけてこられた。新幹線か飛行機で来れば楽な旅行なのに、丸一日の運転の苦行である。

 翌日の4月14日、湯澤さんは開場の4時間前の9時半に大垣のホテルを出発して会場の犬山に向かった。講演会場で恵峰先生が揮毫時に使う墨液を準備するためである。その墨液を準備するために、講演開場前に会場で3時間をかけて墨を磨るのである。

 恵峰先生が揮毫で使う本物の墨液は、静かに、穏やかに、心を落ち着かせて、長い時間をかけて、墨を磨ることで生み出せる。ゆっくりと磨ると、下した墨の粒子が細かくてよい墨液ができる。速く急いで磨ると粒子が荒くてよい墨液はできない。

 恵峰先生の講演会を聴く人は誰もこのことを知らない。私も、今回初めて、こういう支援活動を知った。人知れず恵峰先生のために骨折って下さる湯澤さんに感謝です。盛岡から駆けつけて、磨墨で真心を磨るという無償の支援をされるのも、恵峰先生の人徳の賜物である。

 

磨墨修行

 磨墨修行とは、墨を己に見立て、硯を社会に見立て、自分をすり減らす修行を言う。下りた墨で、自分の作品を作り、世に問う。その墨を磨るにも、出来合いの墨汁では修行にならない。墨汁は石油から作られた化学製品である。石油のアルコール分が、筆の毛を痛める。自分の命の代わりの道具を痛めては、良い作品は生まれない。墨汁を使うとは、安易な仕事道具で仕事をするが如きやり方である。本物の仕事は泥臭い基本の修行から生まれる。

 世の中には、表舞台の裏では、このような磨墨をして世を支えている人がいる。それを今回のご縁で教えて頂いた。自己顕示欲で、世間を揺らして磨墨するようでは、鼻につく。パーフォマンスで、読めない字をダンスのように描く書家もいる。書の基本を忘れた遊芸である。書とは、文字で己の意思を人の伝えるためにある。今回の恵峰先生の講演会の準備でのご縁に接して、人生を観た。

 

2018-04-14

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2018年4月13日 (金)

足で人生の作品を創る

頭で作品を作るから、後世に残る作品や仕事が生み出せない。足で人生の作品はつくるのだ。頭だけで作った大学教授の作品は役立たないと同じである。(馬場恵峰師談)
この考えは、トヨタ生産方式の現地現物と同じである。


2018ー04ー13
久志能幾研究所 小田泰仙

2018年4月12日 (木)

自分という家のリフォーム

人生の家の柱は、一本だけだからうまくいかない。生活を支える柱があって、もう一本の柱を立てないから、定年後に迷いの人生となる。そのもう一本の柱は、文化教養の柱であったり、社会貢献の柱であったりする。自分の人生から会社人生を取ってしまったら、抜け殻の人生になってしまうのでは人生の敗残者である。もう一人の自分を発見するのが人生のリフォームである。新しい人生を開拓するために、自分の人生をリフォームされたし。(馬場恵峰師談より)

2018ー04ー12

久志能幾研究所    小田泰仙

2018年4月11日 (水)

休載連絡

この4日間ほど、馬場恵峰先生を送迎する関係で、ブログ更新が手薄になります。

なるべく時間を見つけて更新するようにいたします。

2018-04-11

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

2018年4月10日 (火)

中日新聞の忖度

新聞社の使命を放棄した寄付の記事

 2018年4月7日付の岐阜新聞と中日新聞の「西濃欄」に掲載された寄付の記事を比較して、「忖度」という流行語に思いあたった。

 中日新聞には、地元企業「太平洋精工」が大垣市に400万円を寄付した記事が掲載されていた。岐阜新聞には、「県外3社」が海津市にハリヨ湧水池事業に賛同(1140万円を寄付)した記事が掲載されていた。

 これを見て各新聞社の姿勢が明白になった。日頃、中日新聞社は、大垣市政に対する批判・提言記事は、皆無に近い。中日新聞社は、公共の公器であるべき新聞を私物化している。

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  中日新聞 201847

2p1100335 岐阜新聞 2018年4月7日

 

寄付という売名行為

 中日新聞の記事では、見出しの寄付企業の名前を見出しで大きく掲載している。売名行為、宣伝行為である。その紙面に対して、読者は購読料という金を払っているのだ。寄付するなら匿名ですればよい。宣伝したいなら、広告欄に広告料を払って掲載すればよい。自社のHPで宣伝すればよい。

 市民に伝えるべき、もっと大事な情報があるはずだ。その寄付宣伝記事が載れば、市民に伝えるべきその情報が、限られた紙面に掲載できないのだ。なにも社長がしゃしゃり出て、寄付しましたなど宣伝するのも不遜である。社長にそんな時間があるなら、その時間を経営に費やし、日本経済活性化のために汗をかいて欲しい。

 

情報とは

 「情報」とは「情け」の「報せ」である。その情報を与えて、読者の大垣市民にどう動いて欲しいのか、それがあって初めて正しい報道である。つまり「報せる」「道」なのだ。今の中日新聞はその「道」から外れている。つまり外道である。寄付の記事を見ても、読者には何のためにもならない。寄付を宣伝した企業が得をするだけだ。そんな情報は、情報過多の時代に不要である。だから新聞購読数の減少が止まらないのだ。新聞社は自分で自分の首を絞めているのだ。いまの中日新聞の西濃欄は、学校新聞みたいである。その記事を読んで「で、何なんだ?」である。時間の無駄である。読後感想は、虚しさだけである。その情報を得て、読者は嬉しいと思うだろか、自問して欲しい。

 寄付の記録としての記事ならテキスト文だけで、写真は不要である。文章が書いてあれば、くだらない記事でも読者は読まねばならぬ。時間の無駄である。時間とは命である。

 

寄付金の位置づけ

 太平洋精工は売上高205億円(2017年3月期)、グループ全体1,230人(2017年3月)の会社である。寄付額400万円を従業員一人当たりにすると3,250円である。一方では、匿名で、もっと大きな金額を寄付している個人が沢山存在する。

 岐阜新聞掲載の寄付をした県外の3つの企業の一つ、中日本氷糖は、従業員数139名(2017年8月現在)で、太平洋精工の約1/10の規模の企業である。ワンストップパートナーズも山口化成も、資本金から推定すると従業員は、遥かに少ないと推定される。その中日本水糖は、従業員一人当たりで、太平洋精工の約10倍の寄付額である。それを考えると、中日新聞社の記事の扱いが異常である。忖度そのものである。

 

何を伝えたいか

 テクニカルライティングの伝達文法では、題名にその記者の本音が現れる。ハイヨ湧水池事業を見れば、記者の伝達意図が明白だ。それがテクニカルライティングの原則である「一番重要な情報は、最初に書く」が原則である。記事の一番重要な文は、題名である。

 中日新聞は「太平洋精工が400万円を寄付」。

 岐阜新聞は「ハイヨ湧水池事業に賛同」。

 中日新聞は、「太平洋精工」の名を寄付の形で大々的に宣伝したいのである。中日新聞は、大垣市役所から紹介を受け、便益ある企業に貸しを与えたいのだと、推定されても致し方あるまい。

 岐阜新聞は、報道機関として公正な立場で「ハイヨ湧水池事業」を読者に伝えたいのだ。題名を見れば、その下心は露見する。遮二無二に太平洋精工の名を宣伝したいのなら、記事構成が新聞社としてお粗末である。もっと頭をつかって巧妙にすればよいものを。

 太平洋精工が教育関係に寄付をするなら、なぜ寄付をするか背景まで、調べるのが記者の使命である。つまり大垣市は教育軽視で、教育に金を出さないので、教育現場が荒廃して、見かねて企業が寄付をするのだ。この記事内容では、新聞社としての使命の放棄を宣言している。中日新聞は、単なる大垣市の言いなりの広報担当に成り下がっている。

 

誰が主役?

 大垣市が「子育て日本一を目指す」と豪語するなら、教育関係で寄付を受ける必要はない。それより大垣に文化関係の予算が市長の意向で貧困であるので、その面の寄付を受け付ければよい。

 写真の説明文で、なぜ市長の名が先で、寄付者名が後なのか。テクニカルライティングの表現でいえば、市長が一番重要と認識して、寄付者など後回しになっている記事構成である。そうやって記者は、大垣市長に忖度しているいる。そのやりかたが露骨であり、滑稽である。葬儀で焼香順序を間違えれば、大騒動である。中日新聞は、その焼香順番を間違えていると同じなのだ。

 

誰が出しゃばりたいの?

 なぜ寄付する善意には関係ない教育長までが中央にしゃしゃり出て写真に写っているのか。写真では、寄付に関して脇役であるはずの市長と教育長が中央にふんぞり返って、主役の寄付者が隅で小さくなっている。岐阜新聞は白黒写真であるのに、中日新聞のそれはカラー写真である。そのカラー印刷の費用を読者が負担している。お笑いである。

 それも過去の中日新聞の記事を見ても毎回である。毎回の寄付関係の記事でも主役は、寄付を受ける大垣市長であって、寄付するほうはオマケなのだ。記事に写真を付けるなら、寄付者だけの写真で十分ではないか。本来、それも不要である。寄付とは本来、陰徳である。それを威張ってどうするの? 政治屋や経営者に謙譲という美徳はなくなったのか。それがグローバル経済主義の流儀なのか。

 大垣市秘書室が、日頃通じている地元企業に便益をはかるため、新聞社に連絡をして寄付の場面の写真記事を掲載させるようにしたと推定されても致し方あるまい。これも忖度というのだろう。

 下世話な表現をすれば「(お上という)俺たちが活動宣伝として顔を売りたいので、ついでのお情けでお前の会社の寄付を新聞に掲載できるようにしてやる。お前は下座で控えておれ」である。可哀そうなのは市民である。

 市民が欲しい情報は、現在も急速に衰退を続ける大垣市の問題点の広報・摘出とその解決策の提言である。宣伝まがいの寄付の記事など読みたくもない。

 

岐阜新聞の常識、中日新聞の非常識

 岐阜新聞は、写真説明で寄付者の名前の掲載が、市長よりも先である。それが常識的な対応である。題名の付け方も岐阜新聞は正当で、中日新聞は忖度まがいである。

 記事情報は、記者や新聞社の「忖度」が絡むと記事の表現の優先度が逆転するのだ。中日新聞の寄付の記事は、市長名が先で、寄付者はとって付けたように後回しである。中日新聞は、後世に残る良き「忖度」のお勉強教材を提供してくれた。なにせ公共の媒体を使って、「忖度してます」と宣伝しているのだから。

 大垣市行政を監視すべき中日新聞社が、その使命を放棄して忖度しているのだから、大垣が衰退するのも故あること。

 

2018-04-10

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2018年4月 9日 (月)

円空佛に格物致知を見る

「飛騨の里」の現場を確認

 2018年3月17日、私は「飛騨の里」を確認するために出かけた。幹事が強力に推薦する見学地である。交通費約1万5千円と丸一日を費やした。その結論は、「飛騨の里」は飛騨の昔の農村の家屋敷を再現しただけで、学びとして見る価値が少ない、である。土曜日の休日でも観光客はまばらであった。こんな場所に見識豊かな経営者達を案内したら、幹事の恥である。先生は絶対に喜ばない。

 

後日談

  2018年3月20日、幹事から携帯にショートメールが来た。「今日、飛騨に行かれたのでしょうか」である。私は「17日に行きました。がっかりしました。場所の推薦は、責任をもってしてください。人の意見ではなく、自分の目で確認することが経営者の基本です。飛騨の里に皆さんを連れて行ったら幹事が笑いものになりますよ。岐阜の恥になります」と返信した。それに対して返信はない。

 幹事に返信ショートメールを打っても返信はいつも、絶対に無い。幹事は電子メールを使っていないので、メールを打っても当然、返信がない。以前に聞いた話では「メールは数が多いので見ないの」が戯言であった。ラインかフェイスブックは使っているようだ。だから幹事には携帯電話しか連絡ができない。今回の案内も全て手紙である。結果として、後日、幹事が開催場所を勝手に変えたので、本人が強く推薦した「飛騨の里」には、調査に行かなかった。その謝罪もない。信じて振り回された私がバカを見た。

 

格物致知

 人は人を観て、法を説かねばならぬ。人を観て対応しなければ、人生で地獄をみる。大事な命という時間が死んでしまう。法を説いても、逆恨みで、禍が飛んでくるときもある。悪縁に接し、それを切るのも仏道を習うである。悪縁に接して痛い目に合わないと、真のご縁は見えてこない。悪縁の炎に照らされて、真縁が浮かび上がる。それは五千万光年先から佛が照らす佛光により、闇夜に浮かび上がる真実である。

 現地に行って、自分の目で見て、対象物に触って、自分で考えて、その本質に達する。それが格物致知であり、「現地現物」というトヨタ生産方式である。人のご縁も、まさに格物致知である。真剣勝負をしないと、その人物の真価は見えない。表面的な付き合いでは、真価は露見しない。

 

飛騨の里

 「飛騨の里」は、合掌造りなど、飛騨の代表的な民家30数棟を並べた、昔の農山村風景を再現した集落の博物館である。各民家では、農山村の生活・生活用具を数多く展示している。要は、昔の農山村の風景を再現した集落形式の博物館である。一刀彫の実演や、漆の展示もある。昔の水車を利用した脱穀機などが展示されている。お雛様も古布で作った素朴なお雛様が飾られており、当時の生活ぶりが偲ばれる。生活や遊びに使った橇の展示もあり、当時の生活の大変さが伝わってくる。その農山村の人里離れた奥深い場所で閉鎖された中で育った文化は、交通の要所で育った文化とは、一味違う。私には合わない。

 「飛騨の里」内で実演をしていた飛騨の一刀彫の技も、松本明慶大仏師の40人の弟子達が切磋琢磨してお互いが技を磨いている様と比較すると、なにか見劣りがする。

 母の実家は農家であって、私が幼いころに見た、民具や農機具が展示してあり、懐かしさは感じた。それだけで、わざわざ見に来る価値は少ないと感じた。「飛騨の里」内には、飲食店は一切ない。

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六地蔵 

 六地蔵は現世と冥土の境に経ち、人々を守ってくださる地蔵菩薩である。釈迦の後、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの無佛の世界に住み、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)で迷い苦しむ人々を救うとされる。この六地蔵は、昔、高山市の宗猷寺火葬場道に祀られていた。建立は1740年頃である。一途に死者の冥福を祈った人々の心情が込められている。(説明看板を編集)

 建立は、私の祖先、北尾道仙が亡くなった頃である。1740年頃の数字を見て何か歴史を身近に感じた。時に元禄文化が花開いた時代で、地蔵信仰は1620年ころからだと言われている。弱い人間は、神仏等の何かに頼りたくなるもの。それは現代人も変わらない。自分が弱い存在と思うなら、自分を飾らず神仏に頼ればよい。それが自然に湧き起こる信仰である。

 

円空佛

 ここでの最大の収穫は、祠に安置された円空の仏像を拝めたこと。素朴な趣の仏様のお顔を拝めて何故なほっとした。円空(1632~1695年)は、江戸時代前期の修験僧で仏師・歌人である。各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残している。円空は生涯に12万体の仏像を彫る宿願を立て、全国に円空佛という木造の仏像を立てるため、諸国を行脚した。現在までに約5,300体以上の像が発見されている。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。岐阜県内で1,000体以上を数える。北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作の中にも、作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。その口元は、「円空の微笑み」という独特の柔和な造形が魅力的である。後期になるなるほど、円空の悟りの境地というか、柔和なお顔のつくりが人を引き付ける魅力がある。その柔和さは、全国各地を行脚して地獄の苦労を体験しないと生み出せまい。

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佛様の存在価値

 佛像という佛様は、拝み手を合わせれば、なにか心が安らかになるお顔でないと、手を合わす意味がない。松本明慶大仏師も、拝めば知恵や安らぎを授けてくれるようなお顔を目指して仏像づくりに精進されているという。また参拝すれば己の煩悩を見据えて叱ってくださる佛様、佛に近づきその懐に飛び込めば優しく抱いてくれる佛様を目指して佛像づくりをされておられる。古い伝統に縛られた仏像つくりではあるが、その中にも創造性が育まれる。

 円空も同じ心境で、皆さんを救うために12万体の仏像を彫る過程で、佛作りに創造性を生み出したのだろう。その成果で円空佛は初期と後期ではそのお顔が違う。それは円空が生み出した付加価値である。合掌。

 

2018-04-09

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2018年4月 8日 (日)

犬山城を調査訪問

 2018年3月24日、犬山城を調査訪問した。結論は、階段が急で、踏板の先が摩耗して丸くなっており、高齢者には非常に危険である。高齢者でなくても危険である。つい最近まで、個人所有のお城であったので、観光用にはまだ完全には整備がされていないようだ。高齢の先生の旅行の見学先としては不適である。階段幅が狭く、日曜日に人出が多く混雑が予想される時は、特に危険である。国宝というだけで、見る価値も、見るべき展示物は少ない。学ぶべき事項は少ない。物見遊山ならともかくである。先生は、見学に訪れる以上は、学びの価値ある場所を希望されている。

 最上階の展望の回廊も手すりが、昔の武士の体形に合わせた高さで、現代人には低すぎて、歩くと恐怖感を覚える。長良川の展望は素晴らしいが、それは単なる風景で、女子供たちには良いだろう。手すりの高さは人の臍の位置より高くないと、危険である。犬山城はその安全基準から外れている。彦根城は、最上階の展望の回廊には出ることが禁止されている。

 

彦根城を調査

 2018年4月3日、比較確認のため彦根城を調査した。犬山城と同じく国宝で、階段が急である。しかしその階段には滑り止めが付けられていた。手すりも持ちやすいステンレス製である。階段の幅も犬山城よりはるかに広い。また階段の上り下りは、上る人と下る人を分けて、交通整理している。安全のためである。犬山城ではこの上り下りの人達を交通整理する分離対策はされていない。

1p1040742 犬山城 階段のヘリが摩滅で丸い。滑りやすく危険。

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恐怖心一杯で手すりにしがみ付いて降りてくる老女

私も降りる時に恐怖感を覚えた。

休日は、入城に30分待ちとかで、大混雑である。ますます危険である。

この日は平日で人出は少なかった。

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4p1040764 犬山城 天守閣の最上階の手すりが異常に低い。歩くと恐怖感あり。

 6p1040749 犬山城 天守閣からの展望。高層ビルからの眺めに慣れているので、感動無し。

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彦根城 階段の滑り止めが設置。ステンレスの手すりも別に追加設置 

8p1100316彦根城 安全のため一方通行で昇降の交通整理がされる。

9p1100305 彦根城 天守閣の外の回廊に出ること禁止。

 

階段からの転落死亡者

 階段からの転落,床での転倒,足場,梯子,開口部などからの転倒・転落・墜落削を含んだ年間の事故死亡者数は男子2702 人,女子1435人,(1989 年)で、交通事故を除いた事故死亡者総数の26.8%を占めている。この死亡者数 はその年の労働災害による年間死亡者2419人(1989年)の約 1.7倍となっている。転倒・転落・墜落事故による死亡者のうち14.3%(1989年)が、階段からの転落事故である。階段転 落事故の内容について、転倒・転落・墜落事故は 家庭で多く発生し、高年齢者の多くが下肢骨折、特に大腿骨頸部骨折を原死因として死亡する割合が高いと指摘されている。

「日本における階段からの転落死亡事故の様相」永田久雄

日本建築学会論文集 1992年1月

 

ジャランの口コミ

 ジャランの犬山城に関する口コミが1500通ある。私はその内、最新の1,000通ほどに目を通した。正確に確認するため、再度、最新の500人の口コミ情報を見て、それをテキストでエクセル表に張り付けて統計調査をした。その中で、階段の危険性に言及した20人ほとんどが、「高齢者は絶対に上らせてはダメ」とコメントしている。

 そういう状況の中で、高齢の先生を犬山城に案内するのは、狂気の沙汰である。犬山城を旅行先にする幹事は、高齢の先生の命や仲間の命の危険性を全く意識していない。危機管理意識が皆無である。幹事達が楽をするために、見学先を選定したに過ぎない。先生の付き添いの方に、絶対に上らせないようにと申し送りをした。

https://www.jalan.net/kankou/spt_23215af2120008924/kuchikomi/

 

 2018年3月31日、南宮大社に参拝するため大垣を訪ねてきた知人と雑談したら、「犬山城には、高齢の先生は絶対に上らせてはダメ」と助言をされた。

 

2018-04-08

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