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2017年9月

2017年9月30日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (28)極楽とんぼ

 自動車技術会中部支部報『宙舞』の挑戦というコーナで、2003 年に人力飛行機で日本記録更新の人力飛行機開発者ヤマハ発動機(株)エンジン開発室の鈴木正人さん(当時)に、インタビューをした。鈴木さんは1979年からほぼ毎年、20年に渡り彦根市の琵琶湖で鳥人間コンテストにチャレンジしている(2005年現在)。彦根とのご縁である。

 その時のご縁で、技術者として記録に挑戦する真摯な姿にほれ込み、しばらく鈴木さんのチーム「エアロセプシー」の「極楽とんぼ」追っかけをしたことがある。長野県の農業飛行場や東京の日本航空学園の飛行場まで足を伸ばした。前の勤務先の会社では、技術部門の教育担当責任者として鈴木さんの講演会を企画し、講演をして頂いた。

 

創造とは

 この鈴木さんとのインタビューを通して、ヤマハ発動機の感動・創造・挑戦という社風に興味を抱いた。その縁でヤマハ発動機前社長の長谷川武彦著『感動創造経営』を読み感銘した言葉が、創造の「創」の字の解説である。

 という文字の偏である「倉」には、傷という意味がある。つくりの「リ」(りっとう)は、文字通り刀のことである。つまり「創」という字は、刀傷を表しているということだ。私は「創造」という文字をみたときに、刀で切られた傷を思い描いてしまう。

 刀傷というのは、自分を刀で斬る人はいないから戦闘状態のときに他人に切られるのが自然である。もちろん刀傷だから、深く切られれば死ぬことになるが浅く切られたキズは、時代劇の一場面のように、焼酎を吹き掛け、晒をまいて「死んでたまるか!」と気合を入れれば傷跡に肉が噴き、治っていく。そしてその新しい肉と皮膚は、以前に増して強固なものになってくる。これこそが人間の生命力であり、創造の「創」につながる。(長谷川武彦著『感動創造経営』PHP研究所刊 より)

 

井伊直弼の決断の結末

 井伊直弼公が新しい日本国の創造のため、「千古を洞観し、古今を一視する」として断固たる決意でとった行動は、結果として日本国として、傷だらけ、血みどろの闘争になり、多くの犠牲者の中から後を継ぐ新しい芽を噴きださせ、幕末の争乱を経て明治維新となり、工業国家を目指す近代国家が成立する。

 井伊直弼公が斃れた後150年余を経て、世界の冠たる工業国家となった今日、彦根の空を人力飛行機で世界一を目指して挑戦している自動車技術者の夢が舞っている。井伊直弼公は文武兼備の才人であった。時代が彼を要求しなければ、市政の一文化人として名を残しただけであろう。文化人としての彼は茶道の書も著している。その井伊直弼公の眠る地(菩提寺の清涼寺の門は琵琶湖の方向を向いている)で、人力飛行機の技術の花と20年に渡る若人の技術者の志の華が、鳥人間コンテストとして、琵琶湖の上空で舞っている。感慨深いものがある。

 

現代の黒船来襲

 若人が平和な琵琶湖上空で技術を競う中、それに海の外では、北朝鮮問題、尖閣問題、韓国の反日運動と問題が押し寄せている。その折、国内では、反日思想の新聞、テレビ、雑誌のマスコミ、政党が日本を跋扈している。幕末の騒乱の折は、幕府と討幕の対立はあったが、反日の動きはなかった。幕末の騒乱に乗じて、日本での利権を確保しようとした英国、フランスの画策はあったが、それを退けて明治政府への政権交代が実現した。

 しかし、現代は身内の虫が獅子を食らい「日本打倒! 安倍政権打倒! なんでも反対!」と叫んで蠢いている。それも代案を出さずに反対だけを叫ぶ。私は安倍政策に全面賛成ではないが、サヨクの日本打倒には賛成しかねる。それを異常と考えないで見過ごしている日本人が情けない。アサヒ等の反日の新聞を購入し、反日のテレビ番組の反日報道をなんとなく見ているのは、敵に塩を送っているのと同じである。今は第二の国難の時である。座していれば日本は亡ぶ。日本を亡ぼすのは、日本国内の害虫である。

 

図1 「極楽とんぼ」の飛騨エアパークでのテスト飛行

    2004年5月29日

図2 鈴木正人さんとパイロットの中山さん

   鳥人間コンテスト会場で  2004年8月1日

  この日は、台風接近の強風のため、飛行機を無駄に壊すだけになる飛行を取りやめの決断をする。やめるというのも、1年かけて作った大事な飛行機を無駄に壊さないための未来に対する大きな決断である。猪突猛進は愚かである。その決断の経緯をまじかで観察できた。同席していた長谷川武彦ヤマハ発動機前社長も賛成であった。多くのチームがメンツの為、飛行を強行して強風にあおられて墜落していった。

図3 長谷川武彦ヤマハ発動機前社長と

   鳥人間コンテスト会場で  2004年8月1日

   チームのシャツを贈呈されてご機嫌な私

図4 琵琶湖での鳥人間コンテスト風景  2005年7月17日

 

2017-09-30

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墓改建開眼法要の色紙

 2015年11月29日、自家の墓改建での開眼法要で、馬場恵峰先生をお招きした。その後の宴席のため恵峰先生が色紙を準備され、開眼法要の宴席で参列者に好きな色紙を選んでいただき進呈した。皆さんに喜んで頂けてよかった。

 

選ぶ言葉には人生への思いがある

 色紙を選ぶのに、その人の人生観や考え方、想いが伝わってくる。「一時一心」の色紙をKさんが選ばれた。Kさんはその書が欲しいなと思っておられたが、私の親戚に遠慮して手を控えていたら、この色紙が残ってKさんの手に渡った。この言葉は仕事に思いをかけた念がある。選ぶべくして、行くべく人に選ばれた色紙である。

選んだ色紙を見るとその人の考え方が透けて見える。若い人は時間を大事にすべきで、「寸陰応惜」の色紙を選んだ。「笑門福来」は、本当に笑っているような「笑」の字が素晴らしい。「光明」の色紙は、姉妹の夫がシベリア抑留で戦死してその姉妹と残された子供を見守った親戚が入手した。

 「迷わずあせらず胸張って」は、以前に、先生の講話に感銘を受けて、私が恵峰先生に揮毫していただいていたもの。今回の色紙とは別だが、気に入っているので掲載する。

 これらの色紙の中には30年前の材料で、現在は入手不能の色紙もある。当日の色紙の一部を掲載します。

 

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「ティムコンサート」第一報

 昨日、2017年9月29日、大垣スイトピアセンター音楽堂で開催されたドイツのトップチェリストの「ティムコンサート」に、スタッフとして参加した。そのコンサートのリハーサルから本番までと、打ち上げ会をビデオ撮影3時間分、写真300枚余を撮影した。その後、深夜までかかって、その編集とビデオのBD化をした。

 睡眠4時間半で起きて、翌日(9月30日)の朝食会場でティムさん親子に写真データのUSBメモリとビデオで撮ったBDをプレゼントした。その写真内容をiPadで見せると、二人は朝食そっちのけで見入っていた。そんなリハーサル中の写真を大量にとった撮った酔狂な人は過去にいないみたいで、大変喜ばれて嬉しかった。私は、普通のプロは撮らない写真を、人生の観点と芸術の視点で撮影した。それもCCDフルサイズの一眼レフに100~400mmのズームレンズを付けての撮影である。ビデオも16時から20時30分までの収録である。普通はそんなリハーサル中の状況をビデオに撮らないだろう。なにせプロに頼めば、交通費、宿泊費、日当と高額の金を請求されるはず。ティム親子もそんな自分たちの大量の演奏会中の写真を見たことがないようで、大変喜んでいただけた。

 

サービスとは

 スピードが相手を喜ばす。そこまでやってくれるのかとの感激が相手の心を打つ。これがドイツに帰国後、1ヵ月経ってから見ても、感激は半減するだろう。サービスとは、相手の予想を超えたものを提供しないと感激はない。現代は、それがIT技術の進化で可能になったのは幸せである。これを商売に使わない手はない。これからの生き残りには、相手の心を揺さぶるビジネスの戦略が必要である。それと対極にあるのがお役所のサービスである。そのサービス姿勢には、怒りさえ覚える。

「ティムコンサート」の経緯は、別途、ブログで掲載します。

 

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2017年9月29日 (金)

書聖 日下部鳴鶴の生き方

 日下部鳴鶴(1838~1922)は数奇な運命に弄ばれた。しかし逆境に負けなかった偉人である。普の人間なら、その境遇に絶望して道を誤ったかもしれない。彼は安政6年(1859)、22歳のとき彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子になり、その長女・琴子と結婚して日下部家を継いだ。万延元年(1860)桜田門外の変で義父・日下部三郎右衛門は闘死する。日下部家の当主が非業に死を遂げたので俸禄が激減して、生活に困窮することになる。明治になり政府に仕える身となり、才能を認められて大久保利通の側近として太政官書記官にまで出世して日本の国づくりに尽力した。大久保利通を父のように慕うが、明治11年(1877)に大久保利通が暗殺された。その暗殺を誰よりも早く目撃したのが鳴鶴自身であった。大久保利通の非業の死の翌年、彼は突如官を辞し一介の浪人として書を志すことになる。

 

馬場恵峰師のご縁

 それは鳴鶴が42歳の決断であった。馬場恵峰師(11代)が窯元を廃業し、書の道に転じたのは43歳の時で、鳴鶴とほぼ同じなのは偶然ではない。論語に曰く「四十而不惑(40歳にして惑わず)」。恵峰先生に窯元廃業の引導を渡したのが鳴鶴の書を手本とした原田観峰師(1911~1995)である。原田観峰師は日本習字の創立者である。

 

政治から芸術の世界へ

 実の父のように慕う二人の非業の死に巡りあう数奇が運命に、鳴鶴はどんなにか嘆いたことか。ドロドロした政治の世界から身を引き、芸術の道に入り、その哀しみを書に昇華した。その結果、日本の三大書家の一人として名を残すことになる。恵峰先生も日本書道界のどろどろした人間模様に嫌気がさし活路を中国に求め、今の業績がある。佛様の人智を超えた差配で、二人の非業の死がなければ、鳴鶴も偉大な書家にはなれなかったのかもしれない。偉大なる仕事をする人間には、それに相応した苦難が、彼を試すために襲いかかる。それなくして、人間の内なるダイヤモンドは磨かれない。

 陰があるから陽がある。陽ばかりの人生はありえない。全てバランスの問題である。そう思うとき、不運に出会ったのは、今までの悪縁の業が消え、新しい運命が開くときと感謝するべきである。そう思い、運命に従えば、佛様が一番良いようにしていただける。

 

お金の舞う世界

 現在の書の世界は、変に崩して読めない字を、これが芸術だとして持て囃されている。日展や他の展覧会も賞を取るのが目的のような「競争」の場と化して、裏でお金が動く世界となっているようだ。芸術に競争という言葉は不似合いである。しかし審査員の気に入られなければ、入選は難しいので、相応のことが裏でドロドロした人間模様が起こりがちである。最近、その裏話の事件が新聞を賑わしたのは記憶に新しい。以前、デパートの画商から叙勲書家の先生の作品だといって、1本の軸を見せられたが、すこしも感動もなく何処がいいのかも分からないが、叙勲の先生の作品だからと百万円だという。これは書道界が作る上げた換金できる手形である。芸術作品ではないと思う。

 恵峰師は、そんな世界を離れ、何時でも何処でも誰にでも分かる美しい字を書くことを心がけてみえる。師は崩して読めない字を芸術だとしては認めない。また金で動く競争社会の日展などには応募されない。賞を取るのが目的で、書を書いて見えるのではない。後世にお手本として残す作品を書いてみれる。その書体は、日下部鳴鶴の書とそっくりである。

 

日下部鳴鶴と原田観峰の写真、経歴等は下記をご覧ください。

日下部鳴鶴(1) http://www.shodo.co.jp/blog/souseki2/2017/05/25/post-125/

原田観峰  https://www.nihon-shuji.or.jp/about/profile.html

 

図1 本来面目 馬場恵峰先生書 2015年 本書のために書いて頂いた

 

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2017年9月28日 (木)

ご縁の破れ窓理論

 惚けの始まりか、認知症の始まりか、単なる運動神経の老化のせいか、2015年11月初旬にバック時に壁にぶつけて自車のバンパーを傷つけてしまった。半年前に悪戯でボディに傷をつけられたため、全面塗装をしたばかりである(警察に被害届を提出)。車歴15年でも全面塗装後は、気持ちよく乗ることができていた矢先のことである。このまま放置しておいても、大した問題ではないが、何か引っかかるものがあり、修理することにした。修理費用で4万円余がかかったが、そのまま放置するより、懐に痛い思いをすることで、今後、細心の注意をすることができると考えての修理であった。

 

運命の家

 その修理が、2015年11月14日に終り、11月15日(日)に納車された。恵峰先生の墓石の字を確認した翌日のことである。たった一つの傷を放置すると、全体が崩壊するという「蟻の一穴」の格言と「破れ窓理論」を思い出して、修理をして正解であったと思う。

 これから思い起こしたのが、ご先祖や周りのご縁の展開での歴史の流れに俯瞰すると、ご縁の風が入ってくる運命の窓が破れていると、家が傾く事象に思い至った。小さな縁を大事にしない人たち、ご先祖のご縁を大事にしない人たちは、破れ窓の「運命の家」に住んでいると思う。破れ窓の在る家には「破れご縁」が入ってくる。悪縁が悪縁を呼ぶ悪魔のサイクルに陥るようだ。逆も真なりで、よきご縁と付き合うと、良きご縁が循環するようで、それを今回のお墓つくりで体感した。

 

ご縁の割れ窓理論

 私の親戚にも両親の23回忌の法事をやらない家があった。七回忌以降の法事はやっていないようだ。そんな考え方だから、その家とやり取りをしても不愉快になったので、付き合いをやめてしまった。それが当方にとってはよき展開であった。「君子悪縁に近寄らず」である。今回のお墓作りで体得した人生の智慧を理論で説明したのが「割れ窓理論」ある。それを私なりに解釈したのが「ご縁の割れ窓理論」である。

 

割れ窓理論

割れ窓理論(英: Broken Windows Theory)とは、軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング(英語版)が考案した。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」との考え方からこの名がある。

 

割れ窓理論では、治安が悪化するまでに次の経過をたどる。

1.建物の窓の破れを放置すると、それが「誰もここを関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。

2.ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。

3.住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなり、環境を悪化させる。

4.凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。

したがって、治安を回復させるには、一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる。警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する、などを行う。

        Wikipediaより 2015年11月18日(再編集)

 

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日下部鳴鶴とのご縁

 2015年7月、松居石材商店の松居さんと話をしていたら、彦根出身の有名な書家がみえて、その特集の小冊子(図2)を見せて頂いた。見れば日本の三大書家の一人とある。彼の義父は、桜田門外の変で闘死をした日下部三郎右衛門である。日下部は井伊直弼公の籠のすぐ側で護衛をしていて、襲撃された時、闘って力尽きて斃れた。日下部は護衛武士の組頭である。桜田門外の変の後、他の彦根藩士と同じく日下部鳴鶴は俸禄が激減し、生活に困窮したという。それでも義父は闘死であるので、日下部鳴鶴は家名を継ぐことができた。(図1)

 今までご先祖の「黄鶴」を探していたご縁で、松居さんが「鳴鶴」という名の書家を教えてくれた。これも縁でしょう。

 

日下部鳴鶴と恵峰師とのご縁

 2015年8月24日、自家の墓石の揮毫をして頂くため先生宅を訪問した時、恵峰先生に鳴鶴の小冊子を進呈した。そうしたら日下部鳴鶴は恵峰先生の師である原田観峰師がお手本とされた方だと恵峰先生はいう。その冊子をお贈りできたご縁のめぐり合わせに驚いた。父の長兄の小田礼一は原田観峰師から書道教授の免許を授かっている。それは恵峰先生が観峰師に師事した時より少し前の時であるので、恵峰先生と小田礼一とは面識がない。礼一の甥の私は恵峰先生に師事している。不思議なご縁である。

 

お盆の萬燈供養

 2015年8月15日、長松院でお盆の萬燈供養の法要があり、初めて参加をした。お盆には、8月13日にお墓にお参りをして、ご先祖の霊を自宅にお連れする。お盆の間、自宅で過ごしていただき15日にお墓に帰る。その時の道案内として古い瓦を使った燈篭でお送りする。それが萬燈供養会である。この歳になって初めて知った作法である。

 萬燈供養会の後の小宴で、隣に座った真下良祐氏(千葉県)が書家で、日下部鳴鶴の話題で話が盛り上がった。そこで長松院の床の間に掛けてある井伊直政公の軸に書かれた書が日下部鳴鶴書であることを教えてもらい驚きである。この20数年、何回も見ているが、そんな意識が無いので全く気がつかなかった。もっとも新任の住職様も知らなかった事実ではある。書のサインである「日下東作」は日下部鳴鶴の若いときの雅号である。

 

図1 「桜田門外の変」時の供揃図 『彦根市市史』より

図2 『日下部鳴鶴コレクション』国宝・彦根城築城400年祭実行委員会発行

2007年3月21日発行 全61頁

図3 長松院 正門

図4 長松院 境内

図5 長松院 萬燈供養 

図6 長松院 萬燈供養 古い瓦を使った燈籠

図7 長松院 座敷 井伊直政公の騎乗姿の書画

図8 井伊直政公の軸の日下部鳴鶴(日下東作)署名

 

2017-09-28

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大垣・大本営発表: ハツラツ市の戦果

大垣・大本営発表

 元気ハツラツ市実行委員会委員長の松本正平氏によると、通常の営業日と比較して「飲食店の売上が200%~250%、物販店舗の売り上げが100%~200%アップした」と、双方とも元気ハツラツ市が行われていない日よりも売り上げは増えており、成果を上げている。

     岐阜経済大学 2013年度学内ゼミナール大会参加論文より

       (小川大垣市長は岐阜経済大学理事)

https://www.gifu-keizai.ac.jp/campuslife/study/seminar/doc/2013/11-kikumoto.pdf

 

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 上記は、著作権法の問題よりも、公共の利益のための情報開示が重要である。この情報はネットで公開されている。大垣市民の生活に影響のある情報である。岐阜経済大学も補助金として国民の税金が使われている。国民が抱える問題提起の為の引用が、著作権法が問題になるなら、法律が間違っている。法律を改正すべきである。今の著作権法は、いじり過ぎて、本来の著作権の趣旨がおかしくなっている。かえって人類の知的財産の価値向上を阻害している。アメリカなどは、後出しジャンケンで、金儲け主義丸出しでデズニーの著作権を筆頭に保護期間を50年から70年に延長する画策をしている。

 

「うっそー!」と市民から疑問の叫び

 元気ハツラツ市当日は、飲食店は20%の売り上げ増であるが、物販店舗は売上半減である。当日は商売にならないので、多くの物販店舗は店を閉めている。

 商店街は元気ハツラツ市を止めるか、運営方法を変えて欲しいと怨嗟の声に満ちている。元気ハツラツ市実行委員会委員長は、運営方法を改善して欲しいとの商店街の皆の意見を委員長権限で黙殺している。また1年交代とされている委員長の座を、7年間も居座ってその座を離さない。よほど美味しいものがあるのか。来年は開催頻度を月1から月2にする計画もあるそうだ。それで大垣駅前商店街の息の音が止まる。元気ハツラツ市の目的は大垣駅前商店街の活性化ではなく、金をばらまき、商店街の息の音を止めるのが目的のようだ。

 

ハツラツ市当日は休業、商売にならないから

 大垣駅前商店街で平日は開店しているが、元気ハツラツ市の当日は、市役所からの開店要請があってもお店を閉めている店が約10店程存在する。元気ハツラツ市実行委員会の大本営発表では、売り上げが増えているはずなのに、なぜ稼ぎ時の元気ハツラツ市当日に休業するのか? なんでお店を閉めて売り上げが増えるなのか?

 大部分の物見遊山として電車で来る客は、一般の物販店舗で買い物などはしない。買っても荷物になるからだ。車で来る大垣市内の客は、駅の北側の大規模小売店アピタの無料駐車場に車を停めて、元気ハツラツ市に来るが、帰る時、アピタに悪いと思いそこで買い物をする。日本人の心理である。ますます大垣駅前商店街の売り上げが落ちる。

 大垣市以外からお店を出している屋台は20店程である。その分、大垣商店街の売り上げは減る。経営分析でいうカニバリゼーション(共喰い)の現象である。それが、駅前商店街のシャッターを下ろした店舗の数の多さに現れている。現実の姿が正しい。

 

大垣中心街地商店数推移

 615店舗(1988年) → 419店舗(2007年) 32%減

           → 364店舗(2014年)(推定)41%減

        (大垣市中心街地活性化計画より)

大垣中心街地小売業の年間販売推移(万円)

 34,656万円(1999年) → 21,612万円(2004年)38%減

             → 19,630万円(2007年)44%減

             → 18,048万円(2012年)48%減  

                       (大垣市商工観光課資料より)

大垣市中心部の歩行者通行量

 24,089人(1994年) → 10,160人(2009年)58%減

         (大垣商工会議所調査)

大垣駅前商店街の大通りの店の61%の店が閉店

2015年~2017年だけでも約40店舗が閉店した(20%に相当)

 

大垣・大本営発表の戦果を疑問視

 元気ハツラツ市を2011年に開催してから、近直のこの3年間でさえ、12軒ほどの店がシャッターを下ろした。閉鎖した大規模小売店のヤナゲンB館のテナントを計算に入れると40店舗近くが閉店した。それは全192店舗中で20%にも及ぶ。結果として大垣駅前商店街の大通りに面した店だけでも61%の店が閉店に追い込まれた。元気ハツラツ市を始めてから、なぜこんなに閉店が加速するのか。

 松本氏の言うように、「元気ハツラツ市が行われていない日よりも売り上げは増えており、成果を上げている」のに、なぜ大垣市発表の商業統計値で、大垣駅前商店街の売り上げが落ちているのか。なぜ、元気ハツラツ市を始めて2年目で、5年前よりも4ポイントも売り上げが減るのか。大垣市商工観光課発表と大垣大本営発表とどちらが正しいのか。

 それをレポートした岐阜経済大学の学内ゼミナール大会参加論文にも疑問を感じる。小川大垣市長は岐阜経済大学理事である。自分の大学の偉いさんのことは学生も真実は書けないのか。それとも純粋な学生は、狡猾な大人に騙されているのか。

 

広告宣伝費10%の異常

 元気ハツラツ市年間予算1,800万円とは、大垣中心街地小売業の年間販売額の約10%である。売り上げの10%もの宣伝広告費を投じて、なぜ、売り上げが落ち、お店の閉店が増えるのか。

 なぜそれが7年間も続くのか。経営では当たり前のPDCAが、なぜ回らないのか。極論を言えば、行事を止めて、その10%を配分したほうが、お店としては利益率が10%向上する。普通のお店の宣伝広告費は3~5%である。それの3倍もの金をばらまいて、なぜ成果が出ないのか。それも市民の血税である。だれか懐に入れていませんか。そのお金があれば、各店舗の設備投資が出来る。1億2千万円余の金で、知恵を使って有望テナントを誘致すれば、もっと活性化するはず。近くの岐阜市玉宮通り商店街や長浜市、彦根市には、良き事例が存在する。

 

2017-09-28

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年9月27日 (水)

墓石の材質の選択

 2015年に自家のお墓を改建したが、そこで検討の対象になったのが、石材の選定であった。日本の御影石は一般的に高価だが良質である。しかしもっと安価でより良質の石材がインド産にあり、今回の選択とした。その理由は、硬い石は水を吸わず、凍結等での石の劣化を防止できるからだ。高価な国産のブランド石でも柔らかい石では水を吸う。吸水率で石の種類を見ると下記の差がある。今回選定したインドグリーンブラック(M-1H)は吸水率ゼロである。

 石材は自然天然材のため、同じ産地の石でもばらつきが大きい。公表データからおおよその傾向は分かるが、最終判断は、サンプル石材を叩いて、音を自分の耳で確認するのが良い。硬い石は甲高い音が、柔らかい石は低い音がする。私は自分の耳で確認をして納得した。

 

          圧縮強度 kgf/cm2    吸水率(%)

花崗岩(御影石)     1,500       0.25 

 安山石        1,000        2.5

 凝灰石               90                17.2

 砂石           450                11

 

愚かな選択

 同じ御影石でも前表のように、その硬度や吸水率にはばらつきが大きい。同じ御影石を使った碑でも、単に価格だけで御影石を選定すると、質の悪い御影石が提供される場合がある。図3,4の碑はある公共団体の祈念碑の例である。この碑を手配した担当者も、請け負った商社も、石材のことを知らないで入札方式で、コストだけで見合う御影石を選定して製作した。その結果がわずか15年後に、水を吸い冬季に凍結してヒビが入ったみすぼらしい姿の晒しである。個人の碑ならともかく、多くの人が目にする公共の碑には相応の石材を選定しないと、子や孫の世代に金をケチったことが露見して恥をかくことになる。

 

お地蔵さんの石材

 お地蔵さんの彫刻には砂岩が使われる。素材が柔らかいため彫刻がしやすい。しかし吸収水の高い砂岩は、長い年月で傷みが激しくなる。そのお地蔵様がお堂に納まっていれば良いが、外に露出した状態で祭られて、それが寒冷地だと傷みが顕著になる。

 私の町内の室村四丁目地蔵菩薩(明治43年(1910年)建立)は、昭和20年の空襲でナパーム弾を浴びたせいもあり、その傷み方は痛々しい。後ろの衣が剥げ落ちている。冬の雨の日に吸い込んだ水が凍結・解凍の繰り返しをして、105年の年月で現在の姿になったようだ。

 

50年後の成果

 石材の経年変化は50年後でないと分からない。墓石の素材の選択の責任を子孫がとることになる。そのため、私は石屋さんの勧めで一番硬い石を選択した。石も人も叩かれてその真価が分かる。そして長い歳月の風雪がその本質を明らかにする。

 

表1 各種の御影石の比較

図1 各種の石材のサンプル

図2 石材の硬さは叩けば分かる

図3 築15年でヒビが入った御影石(某記念碑) 

図4 水を吸っている御影石(某慰霊碑)

図5 風雪で傷んだ墓石 築52年

図6 室村町4丁目地蔵菩薩像の台座

 

2017-09-27

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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白檀の佛像とのご縁

 松本明慶先生は高さ5mの木造大佛を総白檀で製作された。この大きさの大佛を総白檀で造佛するのは1,400年の大佛造り歴史の中で初めてである。白檀は佛の宿る木とも言われ、鋼鉄のように硬い香木である。それ故、細かい細工をする彫刻には最高の木である。佛像という伝統工芸の制限多き世界での新技法の開発は、創造性そのものである。その過程で多くの工夫が盛り込まれ、汗と涙の苦労が窺える。その製作過程の記録はNHK「仏心大器」にある。オンデマンドでご覧ください。

 

白檀の入手

 総白檀の大佛製作には大量の白檀の材木が必要である。白檀は輸出制限のある木で、大量の白檀の木の入手にはインド政府の許可が必要だが、それがなかなか許可されなかった。担当部署にいくら説明してもその利用法が理解されないため、許可が下りない。インド政府曰く、「ラジブ・ガンジー首相を荼毘に附すために使った白檀の総量が4トンである。それなのに23トンもの白檀をよこせとは何事か」である。松本明慶先生は、その必要性を説明するため、白檀で製作する大佛と同じ構成で、紅松(ロシア産)で実物大の雛形大佛を作成して、白檀の木を無駄には使わないことをインド政府に実物で説明して、理解を得た。

ラジブ・ガンジー首相は1991年、スリランカの紛争介入を巡るテロで、遊説中に暗殺された。ラジブ・ガンジー首相はインディラ・ガンジー首相の長男で、初代首相ネール氏の孫にあたる。

 

白檀の原産地はインド。インドでは古くはサンスクリットでチャンダナとよばれ佛典『観佛三昧海経』では牛頭山に生える牛頭栴檀として有名であった。栽培もされ、紀元前5世紀頃にはすでに高貴な香木として使われていた。産出国はインド、インドネシア、オーストラリアなど。太平洋諸島に広く分布するが、ニュージーランド、ハワイ、フィジーなどの白檀は香りが少なく、香木としての利用は少ない。特にインドのマイソール地方で産する白檀が最も高品質とされ、老山白檀という別称で呼ばれる。

初めは独立して生育するが、後に吸盤で寄主の根に寄生する半寄生植物。幼樹の頃はイネ科やアオイ科、成長するにつれて寄生性も高まり、タケ類やヤシ類などへと移り、宿主となる植物は140種以上数えられる。雌雄異株で周りに植物がないと生育しないことから栽培は大変困難で、年々入手が難しくなっており、インド政府によって伐採制限・輸出規制が掛けられている。(Wikipedia 2014/7/17より)

 

見守り

 教育者の最大の務めは、生徒を黙って見守ること。ご本尊が家を見守ってくれる。みほとけの使者「魂」が、自分を見てくれていると思い日々、精進できる。みほとけはどんなメッセージを使者に託したのか、ご本尊に見守られ、「魂」に睨まれて考える日々である。松本明慶先生作「魂(オニ)」(白檀)は2014年3月18日納佛、仏壇に納める御本尊の釈迦如来座像(白檀)は2015年2月23日納佛、3月3日開眼法要を執り行った。3月3日は桜田門外の変の日である。それを意識せずに執り行ったが、後からそれを石屋さんに指摘され驚嘆した。ご縁である。

 

図1 松本明慶先生作 「魂(オニ)」(白檀)2014年3月18日納佛

   軸は馬場恵峰先生書  伊勢神宮御神水で磨墨

  

2017-09-27

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人生のコンプライアンス値

 コンプライアンス値とは 1÷〔剛性値〕 で表される。機械関係の専門用語である。この剛性値とは、ばね乗数と呼ばれる数値で、ばね乗数とは1キロの加重を与えたら、ばねがどれだけ撓むかを示すばねの強さである。

 人生という乗り物のコンプライアンス値とは、悪の誘惑に対してどれだけ耐えられるかの強さの値である。自分の役職に対して贈賄側が金品を示して、見返りを要求した場合、自分がどれだけで堕ちるのか、その金額値でもある。100万円の賄賂で堕ちれば、自分の心のコンプライアンス値は100万円である。たった100万円で人生を悪魔に売ったことになる。心のコンプライアンス値を高めないと、人生航海で沈没する。

 

造船でのコンプライアンスの設計

 船の設計で一番大事なのは、障害や荒波に対して船が傾いても、復元する力である。いかに荒波の中を安定して航海するか。何があっても平常心で安定して航行できるか、それが船の設計に問われる。

 1625年に建造された世界最大の戦艦WASA号は、処女航海で湾を出るまでに、突風に会い沈没した。船としてのコンプライアンス値が低かったのが原因である。その設計の恥さらしは、2000年代の現在もWASA号博物館内でその恥を晒している。

 人生のコンプライアンス値不足で、政財界の汚職事件で名を汚した事件簿が、歴史に刻まれて新聞の縮小版となり国会図書館に保管されている。

 

操舵装置の設計

 車の操舵装置(PS)の設計で一番大事なのは、真っ直ぐ走る能力である。曲がるのは簡単である。しかし、道路の凹凸や小石にタイヤが取られても、それに影響されずに真っ直ぐにタイヤを保持する能力がPSに求められる。PSには、操舵における剛性とあそび、そして高コンプライアンスが求められる。人生航海での必要な能力と同じである。

 

人生の操舵装置

 人生でも、誘惑に負けて、人生道で悪い方向に曲げるのは簡単である。人生を真っ直ぐに走るのが難しい。人生にはあまりに多くの誘惑が満ち溢れている。また、ささいなことに悩み自殺する人が絶えない。それも人生のコンプライアンス値が低いのだ。コンプライアンスは、遵法精神とも言われる。自分の人生で定めた「法」(戒め)に、いかに遵守するかで、人生(=命)を輝かせもし、堕落もさせる。いくら頭が良く能力の高い人でも、堕落しては人生価値がゼロになる。ゼロならまだしも、奇跡で生まれ親が手塩をかけて育てた命を地獄に落とすことになる。自殺で、大事な命を自分の手で殺めるなど、一番人の道に反している。

 

学あり智慧なき人生

 人生のあるべき道から誘われて道を誤る人が多い。洗脳教育のように、世間から、ちやほやされて、己は偉いのだとの勘違いになり、常識ある目で見たら、目を覆うばかりに愚行を繰り返す政治家が絶えない。

 伊川先生言う、人、三不幸あり。少年にして高科に登る、一不幸なり。父兄の勢に席(よ)って美官となる、二不幸なり。高才有って文章を能(よ)くす、三不幸なり。(『伊川文集』)

 年の若いのにどんどん地位が上がる。世の中はこんなものだと思う自惚れ者が出来上がる。これは修練を欠いたまま偉くなる不幸者である。実務経験が少ないのに市長になり、ヒラメの取り巻き役人により自惚れ者が出来上がる。これは官僚だけではない。親のお陰で若輩が社長になったりして、己の会社の不祥事が起こり、その記者会見で「なりたくて社長になったのではない」と愚かな居直りをする者も出る。

 今は東大をでたからと、若くて有能だと言われてちやほやされる。これは当人にとって不幸だ。記憶力が高く、司法試験に受かり検察官になるほどの才能があって、口が達者であれば、それも大きな不幸である。山尾志桜里議員は、元検察官として弁が建つはずなのに、ガソリン代過剰請求や、自身の不倫には説明責任を放棄する。人生の悪の誘惑に負けたのだ。記憶力は高くても、人生道の道徳コンプライアンス値が低いのだ。学があっても智慧がないのだ。 

 人間でも、動物でも、植物でも本当に大成するためには、「習い、知と与(とも)に長じ、化、心と与に成る。」という長い間の年期をかけた修練・習熟・修養という期間が必要である。

 

WASA号博物館

 WASA号は、1628年に当時世界最大の木造戦艦として製造された。その約100 年前の1521年にスウェーデン貴族のグスタフ・ヴァーサがスウェーデンを建国し、1523年に王位に就いた。1630年に、ヴァーサ国王の孫グスタフ2世アドルフが、リボリアを征服し、ドイツの新教徒を保護するという名目で、ドイツに侵攻して、第3期30年戦争(スウェーデン戦争)を引き起こした。その後スウェーデンは領土を拡大して、大国時代を迎えることになる。当時スウェーデンは列強に伍し、その勢力拡大を計っていが、それは長くは続かなかった。ヴァーサ号はその時代の戦艦である。その時日本は、やっと関が原の戦いが終わって、徳川の時代になったばかりである。当時の世界で、軍事大国で科学技術の先進国であったのがスウェーデンである。スウェーデンは、なんとドイツに戦争を仕掛けた歴史ある国でもある。かつ国王の名が、「アドロフ」には歴史の因縁を感じる。

 しかしヴァーサ号は設計ミスのため(頭でっかちの不安定構成)、1628年8月10日にストックホルム港から処女航海に出たところ、港湾を出る前に突風に会い、転覆沈没してしまった。大砲の積み過ぎが原因とも言われる。この点で、歴史的な名戦艦である。戦わずに平和的に?沈んだのだから、いかにも未来の平和国家スウェーデンを予見するようなエピソードと言える。とはいえ世界最大の戦艦を建造するとは、スウェーデンは当時の軍事大国であった。

 この艦は1961年に334 年ぶりに、水深31mの海底から引き上げられて修復され、現在はWASA号博物館として展示されている。沈んだ場所は分かっていたが、技術的な問題でこの時まで、引き上げることが出来なかったとか。極寒のバルト海の底に沈んでいたため、木造艦といってもあまり腐食もせず、原型をほぼ止めており、当時のスウェーデン黄金時代としての艦船装飾、彫刻像、備品等がつぶさに見えて、歴史的な鑑賞には興味深い。だだし古い木造艦のため、湿っぽく暗い雰囲気はあまり楽しいものではない。(1985年記)

 

図1 WASA号

   排水量 1300トン   大砲 64門    乗員 435人

   全高  61m    全幅  4.7m

 

2017-09-27

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