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2019年7月16日 (火)

「市長道」の外側を歩く小川敏市長

 小川敏市長が「市長道」の外側を歩くのは、その要件を理解していないからである。「道」を歩く以上、大垣に付加価値を創造しないと意味がない。単に名誉欲だけで市長を勤めているから成果が出ない「市長道」を歩くには、使命感、経営能力、人間性が必須である。

 

志の有無

 市長になった動機が重要である。今までの政策を見ても、大垣を良くするために市長になったとは思えない。たまたま東大出であるので、東大出がいない田舎の遊びも同然の財界サロンのトップに推され、たまたま前市長が死去され、推されて市長選に出て市長になったに過ぎない。福岡市の高島宗一郎市長のように、福岡を変えたいと、熱い志をもって市長になった人とは対照的である。

 小川敏市長に、大垣を良くするという使命感があり、経営能力があり、人間性があって、市民に慕われれば、大垣はもっと発展しただろう。現在は、小川敏市長には、その3つの要素が全て欠けている。

 

財産の目減り

 だから、この18年間で大垣は衰退をし続けた。都市の通信簿は、その土地の地価である。大垣市の地価は、小川敏氏が市長に就任して以来18年間、毎年下がり続けて、結果として半分になった。小川敏市政は、18年間も無為無策であったのだ。市民の財産である不動産価格が半分になったのだ。私の財産も半分になった。両親が坪50万円で買った自宅の土地は、現在坪25万円である。大垣市民は、みんな同じ被害者である。

 

1)事の軽重の区別を知らず

 小川敏市長は、俺が俺がと行事には必ず出て挨拶をしないと気が収まらないようだ。市長として重要な任務は、大垣の将来を考えて手を打つことなのだ。それを代理に任せれば済む挨拶さえ、自分でしなければ気が済まないようだ。その挨拶は、中身のない話ばかりである。だから全ての行事に出て挨拶をして、それで時間に追われ、会合の時間に遅刻をして、参加者を待たせるのが常時である。私も待たされた。それでは待っている市の関係者の幹部はたまったものではない。大垣の業務の非効率の元凶である。それでは「道」の完歩はあり得ない。「もっと大事なことがあるだろう」と私は言いたい。小川敏市長には戦術はあっても戦略がない。だから大垣は衰退する。

 

ドイツの市長の例

 大垣の友好都市のシュツットガルト市では、4人の副市長がいて、業務を分担している。第一市長は選挙で選ばれるが、4人の副市長は行政が選ぶ。各種の文化事業や、市の行事には副市長が対応する。大垣市のように、市長が総てを対応していては、大事なことが疎かになる。

 

2)市長としての使命感欠如

 大垣を発展させようという使命感があれば、ギネス挑戦の水饅頭の食い合いで、無駄なギネス用の費用や実施の工数を使わないだろう。単なる通過点でしかない市制100周年記念行事で、小川敏市長は、無理に100個の行事をねん出して、無理やり市民のお金を使いまくる醜態を見せた。だから後世に何も残せなかった。それで大垣の恥を全国に知らしめた。本人がそれを恥と思っていないのが、大垣の恥である。

 

3)聞く耳を持たず 

 小川敏市長は人の話しを聞こうとはしない。だから誰も握手さえしに行こと思わない。揉み手をして、お世辞を言い、ペコペコして寄ってくる人しか眼中にないとの噂である。

 小川敏氏が市長になってから、市民との座談会は一度も開催されていない。形式的な座談会はあったが、それは事前に質問者と質問内容が制限されていた。サクラばかりの座談会で、言いたいことも言えない座談会であった。懇談会では、小川敏市長が一方的に喋って、時間が経てば、質問を受け付けず去っていくという。

 ある商店街の人が、先の市長選の時、市長との座談会を申し入れたが、「今はその時期ではない」と拒否された。2年がたったが、今だ座談会が開催される気配はない。

 

4)経営能力なし

 小川敏市長は経営能力がない。それは大垣の地価が18年間で半分になっても、何も手を打たなかったことで証明される。

 大垣駅前商店街の半数以上がシャッターを下ろしたのに、何も手を打たないことからもわかる。大垣駅前商店街の多くの人が泣きながら、街を去った。

 大垣ドローン墜落人身事故での、事前の危機管理、後処理の経過を見ても、危機管理能力、責任感、使命感がないことが推察される。今だ大垣市役所の再発防止策も公表されない。

 室村町アンダーパスが水没した事件でも、その後処理がお粗末すぎる。事前の非常用ポンプの点検の不備、己の危機管理のなさを、「広報おおがき」で「水害に対して、小川敏市長が直々に視察しました」と醜態事件を美談に捏造してしまう厚かましさである

 元気ハツラツ市が大垣駅前商店街に、何の経済効果を出せないことが明白なのに、人の話しも聞かず、ずるずると10年も継続することで、経営判断力がないことが証明される。

 これでは小川敏市長は「市長道」を最後まで歩けまい。大垣市長は、隘路に落ちて水没であろう。市民を見守る佛様が許さないだろう。

 

2019-07-15   久志能幾研究所通信No.1259  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

基軸とはなにか?

 「道」とはWAYを基軸にした付加価値創造である。コマは軸心がふらついたり、心がずれていたり、軸が2つあると、コマや車は高速回転ができない。

 その軸心とは、国では憲法であり、企業では会社理念であり、市では市民憲法である。個人では道徳、人の道、倫理と言われる概念である。

 基軸が歪み、曲がっていては、見苦しく、振動を伴って回るので一目で分かる。だからこそ、「基」になる「軸」と表現される。

Way

 WAYを基軸にした価値創造でのアウトプットは、下記の式で表される。

 付加価値=B-A 

    B:工数を費やした後の状態

    A:工数を投入前の状態

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  単なる通過プロセスでは付加価値はゼロである。あくまでもWAYを基礎とした行動から生まれる付加価値が問題となる。

 

2019-07-16   久志能幾研究所通信No.1258  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年7月15日 (月)

「仕事」:事に仕えて付加価値を創る

道を選び、道を歩き、自分を拓く

 

 自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえの無いこの道。広いときもある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。

 この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。なぐさめを求めたくなる時もあるう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

 あきらめろというのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいる道。ともかくもこの道を休まずに歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのない道ではないか。

 他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

 それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道が開けてくる。深い喜びも生まれてくる。

                      松下幸之助  1968年

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  東山魁夷「道」、馬場恵峰書

 

「道」とは何か?

 「宗教」と「道」は何が違うか?

 例:浄土宗と“TOYOTA WAY”

 宗教には教祖がいて、その教典があり、信徒がいる。それは多分に他律的な戒律があり、またそれは 個人の幸せを目指している。また宗教法人設立は、この3点セットでないと法律的に認められない。

 

オダ佛教?

 キリストが説いたからキリスト教、釈迦が説いたから仏教、マホメットが説いたからイスラム教である(私が説いたらオダ佛教?)。その本質は、どの宗教も同じである。その土地の文化と歴史に合った宗教が育った。茶筒を水平に切ったら円で、縦に切ったら長方形、斜めに切ったら楕円形となるように、切る方向で見え方は違うが、本質は変わらない。だから切った結果を議論しても無意味である。それなのに愚かな人間は、己の宗派にこだわり凄惨な宗教戦争の歴史を繰り返してきた。

 日本で発達した神道や道徳や神社、自然を崇める行為は、海外の宗教とは、その定義からみて異なっている。日本では他の宗教を全て受け入れる大きな器を持っている。だから日本では凄惨な宗教戦争は少なかった。為政者が自分の支配が脅かせるのを恐れての宗教弾圧はあった。

 

「道」の価値観

 「道」とは、自然、社会との共存を目指し、自律的な約束事として存在する。現代風にいうと、「 TOYOTA WAY 」や、「PANASONIC WAY 」がこれに相当する。その意味で、会社理念は宗教に似ている。しかし「道」の概念は、自律的、共存的な考え方で、日本発の価値創造がある。世界のどこにもない価値観である。そこに日本が世界に誇れる価値観がある。

 

「道」の語源

 道の前に道はない。自分の道は自分で創るべし。自分が歩いた跡が道となる。新しい分野を開拓する場合も同じである。自分の首をかけて、誰も歩いたことのない道を歩く。それが道の開発だ。

 「道」という漢字は、生首をぶら下げて、四つ辻(シンニュウ)を歩くと書く。その昔、古代中国では、都市は城壁で囲まれていた。その外は魑魅魍魎が住む怖しい場所と考えられていた。だから城壁を出て外に行くときは、怖しいので捕虜の異国人の首を刎ねて、その生首を魔除けとしてぶら下げて、恐る恐る歩いた。その歩いた跡が道となった。

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    馬場恵峰書

 

2019-07-15   久志能幾研究所通信No.1257  小田泰仙

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2019年7月10日 (水)

修身:神を目指さない、人を目指せ

 人は角熟を目指すべきで、円熟を目指してはならない。円熟は完ぺき主義で、神を目指すことである。神とは人ではない。だから「人でなし」である。そんな存在を目指そうとすると、人生が狂ってしまう。人は最期まで人間であって神ではない。人間としての欠点を持っていても、持てる技が卓越すると、その欠点が人間味となる。それこそ角ばったまま、熟する状態である。それが、人として目指すべき人間像である。

 人が死までの時間を意識して、円熟という完璧さを求めるから絶望的になる。人と言う存在は不完全な存在だから、寿命というスケールでは円熟(神)の域には達成できない。

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死生観

 人と生まれて、死を考えると、必然的に死生観を持つようになる。日本では、仏壇、法事等でご先祖を思い出すことが多い。いつもご先祖様が身近にいるのを感じるのが日本社会である。そして、いつかは己もご先祖の一人となるのだという考えが奥底にある。それが日本人の死生観を形作ってきた。

 欧米では、そういう考えはないようで、死んでしまえばそれで終わり、後は神様にお任せという世界のようだ。お墓でも日本は先祖代々のお墓が多いが、欧米では個人のお墓が多い。キリスト教と仏教の死生観の違いである。

 

アメリカが抱く恐怖

 その死生観も日本の「家」の制度で支えられてきた。それが玉砕や特攻を生んだとして、戦後GHQは、恐怖心から「家」の制度を破壊した。それほどに、日本兵の戦いぶりにアメリカは戦慄したのだ。

 なぜアメリカは、ご先祖を祀ることがそんなに怖いのか、日本人にはその怖れが分からない。だからGHQが行った日本精神破壊工作があまり理解できず反対もせず、従ったようだ。

 

一神教の教えが世界を不幸にした

 キリスト教では、「キリスト教徒以外は人間ではない」が教えである。そのキリスト教は現世重視の教えで、死後は神様任せである。だから現世は拝金主義、合理主義、現世主義という思想で走っているいるようだ。その究極の姿が、戦前の植民地獲得狂騒であった。欧米では、それを新航海時代と自慢するが、真実は「西洋文明が未開発の民族から強盗殺人をし放題にした時代」である。植民地から巻きあげた上がりで欧米人は贅沢三昧をしたが、多くのアフリカ、アジア民族が地獄を見た。西洋の学校では、それは教えない。アメリカで原住民インデアンを900万人も虐殺したことは、伏せて西部開拓時代と教えている。すべて勝者の歴史である。すべて人の道から外れた行動である。

 第二次世界大戦後、さすがに植民地政策はまずいというので、それが形を変えて、グローバル経済主義狂となった。それでまた貧富の差が拡大して、各地で紛争が起きだした。その根本原因を作ったのは植民地政策である。それは白人が神から選ばれた民族であるとの白人優位論から来ている。欧米は時代が変わっても本質は変わっていない。

 

東洋思想

 それと比較すると、東洋思想は、生命に優劣を付けず、人間も自然の一部として考える。そういう日本の精神文化の素晴らしさが納得できる。だからそれを大事に守らねばならぬ。拝金主義者に利他の心は分からない。

 

欧米の労働観

 欧米は現世を楽しむため、必死に稼いで、金がたまればさっさと引退して、のんびりと暮らす。それが欧米労働者の夢である。日本人のように、生涯現役で社会のために働くという考えはないようだ。彼らには、労働は神が罰として与えた苦役なのだ。

 

西洋の価値観の押しつけを拒否

 私が中間管理職時代、労働組合から、管理職も定時で帰り、有給ももっと取れと横やりが入った。私は仕事が好きで、もっと仕事がしたいのであって、別に苦役で仕事をしているわけではないと文句を言いたかった。しかし当時の赤狩りのような雰囲気では、黙って従うしかなかった。

 皆さん(新入社員)は、自分の価値観を明確にして、働いて欲しいが、この講義のメッセージである。

 

2019-07-10   久志能幾研究所通信No.1251  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年7月 9日 (火)

修身:二つの教育

 人は修身として、人間になるために学ぶ。その学びには2つの種類がある。一つは与えられる教育、もう一つは自ら学ぶ教育である。

 

「つ」までの教育

 人の「一つ」から「九つ」までの教育は、親が与える躾である。「九つ」までに躾ができていないと、挨拶ひとつできない人が出来上がる。「つ」の間に、脱いだ靴は揃える、挨拶、掃除を躾られないと、大きくなっても小人(ことな)のままで、大人(おとな)になれない。だから目上を敬わない習慣ができる。

 

GHQの日本精神破壊工作

 今の社会が堕落した風潮は、親が躾を放棄した結果である。大学教授も「今の親が、子共の教育上で一番悪い」と嘆いている。こんな親に誰がした。

 戦後、60年が経って、GHQが施した日本精神破壊の工作が効いてきたようだ。我々はそれを打破せねば、日本再生は叶わない。

 

日本の役割、自分の役割

 欧米の文化思想は、科学技術万能論、金儲け万能主義である。科学とは、物事を細分化して、さらに細分化して物事の本質を極める手法である。すべて金に換算して考える。その究極の姿が、グローバル経済主義として世界を席巻した。それは金融工学という道具まで開発して、金儲けに邁進である。それで世界は、99%の富を独占する1%の富裕層と1%の富しか配分されない99%の貧困層に峻別された。

 東洋の思想は、その逆で、統合の文化である。心を自然と一体化して考えるの東洋思想である。また人の心までは分解しようとは考えない。金で人の心は買えない。西洋思想とは価値観が違うのだ。

 科学技術の前に、人としてその技術が正しいかを考えねば、本末転倒の結果となるのは、歴史が証明している。科学が最大に発達して、毒ガスが開発され、原爆が開発され、水爆が開発された。欧米の為政者は、「それで戦争を早期に終結できて、人類の幸せに貢献した。それが科学の勝利である」という。それが人類の幸せなのか。

 日本は精神文化の再興で、世界に貢献せねばならない。その第一歩が己の人間としての完成である。自分の役割とは何かを考えて欲しい。金儲けの為に、親は君たちを教育したわけではない。

 

与えられる教育と取りに行く教育

 会社に入るまでは、与えられる教育である。会社に入ったら、与えられる教育はなくなり、自ら学ばないと世間から置いていかれる。会社は儲ける場所(今までの教育を試す場所)であって、教えてくれる場所ではない。自ら学ばないと、20年後の会社人生が保証されない。会社の寿命も30年を切った。製品寿命は10年である。私の前職の会社も製品寿命の見極めを誤り、市場から消えた。企業は、常に新しい飯の種を作っていかないと、会社自体が存続できない。その賞味期間が、どんどん短くなっている。会社が学びを怠り、進歩できなくなった会社が市場から淘汰される。

 

第二の敗戦

 JALも倒産した。日産も倒産しそうになり、ルノーに吸収されそうになっている。GМも潰れた。マツダも潰れそうになり、一時、フォードに身を預けた。三菱自動車も潰れる寸前である。トヨタでも、この技術革新の激動に時代、明日も分からない。安泰であった銀行も潰れる時代である。松下電器が大リストラを行い、シャープは潰れそうになり、台湾の会社(実質は中国)に身を売った。三洋電機は消滅した。グローバル経済主義狂の蔓延である。

 すべては経営の驕りで、経営者が利己主義に走った結果である。会社存続の志を見失い、経営の学びを怠り、経営の本質を見誤り、危機管理を怠り、結果として、世界経済戦争に敗れたためである。

 経営の本質は、皆で仲良く食べていける社会(経済)の実現である。「経済」とは仏語である。それが世界は、グローバル経済主義狂に席巻されてしまった。全世界にとって、第二の敗戦である。

 

瓶の例え

 人が学ぶ姿は、広口瓶、狭口瓶の姿に例えられる。入り口を広く貪欲に学んで欲しい。口の大きさで、学ぶ量が異なる。狭口では、世間が教育のネタを降り注いでも、入りきらない。世間が悪いのではなく、受け手の問題である。

 いくら口が大きくても、横になったコップでは、上から水を注いでも、水は溜まらない。立ち上がって、世の学びを多く受け入れて欲しい。

 自分はどんな瓶に例えられるか、考えて欲しい。蓄えた「水」は世のために使って欲しい。何かに注がないと腐ってくる。

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2019-07-09   久志能幾研究所通信No.1250  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年7月 5日 (金)

君たちは何のために現場実習をしたのか?

私は「修身」の講義で新入社員に問う。

「何のために辛い工場での現場実習をしたのか?

 あなた方はそこから何を学んだのか?

 皆さんに取って実習は何だったんだ?

 そこで皆さんは、どんな付加価値を生み出したのか?」

 

 トヨタ系の企業では、新入社員は全員が工場でラインに入って現場実習を経験する。多くの若者は、その期間、苦役として黙々と耐えるだけの人が大部分である。

 君たちは(新入社員)は一過性の実習で過ごすだけだが、その現場で一生を働く人もいる。それを知って欲しい。

 皆さんは、一生そこの現場で働くために、今まで大学で学んできたわけではないのだ。もっと付加価値の高いアウトプットを社会に生み出す責任がある。

 新入社員たちに、経験した実習の意味を考えて欲しいと思い、このテーマを与えていた。

 

本との出会い

 私が実習の意味を真剣に考えたのは、科学工業英語検定(TEP)1級の受験勉強の為、「ビスネスマンの父より息子への手紙」で「教育の計画」の項を読んでからである。人は学ぶ意思があると、多くのご縁にであう。この本との出会いもご縁である。英語を学ぼうと思わなければ、読もうとは思わなかった本である。そのお陰で、新入社員に考えてもらうご縁を頂いた。

 私は47歳で、3年間、三度目の挑戦でTEP1級に合格した。これが私の人生の自信となった。このスキルは、論理構成と伝達能力の獲得であった。英検1級合格者は日本に10万人以上も存在する(年間2500人の合格者)が、TEP1級合格者は日本に500人以下である。いくらTOEIC900点があって、文章に論理構成が出来ていないと、合格しない。

 

私が実習を受けなかった意味

 実は(幸いなことに?)私は現場での実習を経験していない。私の入社当時、急に会社の仕事が忙しくなり、会社は現場実習の出す労力を惜しんで、我々の世代の新入社員を職場に直接配属させて仕事をさせて、それを実習としたためである。だから私はラインの現場実習を経験していないが、それが良かったかどうかは、分からない。しかし後日、それに相当する経験は多く積んだ。

 

教育の計画

 私は毎年夏休みには、地元の製紙工場の経理部で働いた。それはいい経験になった。しかし君には、そのころの私の次のエピソードに注意してもらいたい。ある夏私は経理の仕事がもらえず、その工場で肉体的に一番きつく、汚い仕事につく羽目になった。一日に8時間、週に6日、交替制の仕事だった。その結果、私は2つのことを思い知らされた。そういう仕事を一生続けなければならない人がいること、そしてその人たちが生涯に与えられた時間のかなりの部分を過酷な作業条件のもとで費やしていることである。私は二度とそういう人たちの仲間入りをしなくてもすむようになろうと決心した。本から離れた時間を無駄にしてはいけない。前もって計画を立て、自分の選んだ職業分野で、実地で経験を積むために使って欲しい。君の年齢ではほとんどあらゆることが新しい経験になる。学ぶのは遅いより早いほうがいい。

 訳本   『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』 城山三郎訳   新潮社

 

EDUCATINS

  During my summer, I worked in the accounting offices of the local paper mil. It was excellent experience. However, I would like you to especially note the following episode during of my life. One summer I could not get the job in accounting and I ended up working in one of the physically toughest, dirtiest jobs in the mill; eight hours a day, six days a week, on shift work. That left me with two major impressions; the work some men had to spend their whole working lifetimes performing , and the tough working conditions under which they were spending such a great portion of lifetimes. I made certain I would not have to be one of them again. Do not waste that time you get away from your books. Pan ahead and use it getting some one-job experience in your chosen field. At your stage in life, most everything is a new experience. Better to learn it sooner than later.

           “LETTERS OF A BUSINESSMAN TO HIS SON by G.KINGSLEY WARD “

 

2019-07-05   久志能幾研究所通信 No.1246 小田泰仙

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2019年6月27日 (木)

学ぶと何になれるのか?

 人が學ぶ目的は、人間になること。人間とは、人と人の間で生きていける存在である。

 人間でなく、自分の欲望を制御できない存在は、餓鬼である。餓鬼は畜生にも劣る存在である。畜生であるライオンでも、満腹になれば、目の前のウサギを襲わない。ライオンでさえ、自然界の調和を乱さない。しかし餓鬼になると、使い切れないほどの金があっても、さらに欲しくなり、会社の金にも手を染める。日産ゴーン被告のように。

 だからせめて人間になってから死んでほしい。そのために「修身」の学びがある。

 

グローバル経済主義狂の教え

 個人主義が発達した欧米ではその利他の精神が無く、グローバル経済主義狂の洗脳教育で、利己主義が横行し、小欲、利他の精神はない。それで1%の富裕層と99%の貧困層が生まれる結果となった。戦前は、植民地強奪戦争が起きた。現代はそれが姿を変えて、グローバル経済主義狂として跋扈している。

 それに反旗を上げたのが、欧州のポピュリズムの動きである。今までの金持ち優先の政策が異常であったのだ。

 グローバル経済主義狂が跋扈すると、大企業だけが繁栄し、庶民が貧困に落ちていく。だから日本の少子高齢化が止らない。若者の給与が下がり続けているので、結婚もできない。だから子供が生まれない。真の原因を探さないと、少子高齢化の歯止めはできない。それを明確にすると、政府の利権に目がくらんだ役人が、己の天下り先への気兼ねで、都合が悪いので、口が裂けても言わないだけである。

 共産主義社会でも同じ状況が生まれている。共産主義社会は平等な世界を目指したはずであったが、権力を握った支配層が、富の独占をして、西洋の資本主義社会以上の格差社会が生まれている。そんな世界は幸せな社会ではない。

 

人間と動物の違い何か?

 人間の特性は、使命、時間、言葉、人間、恥、気付きがあることである。それが動物との違いである。

 狼に育てられた少女(インド)のように、人間として躾・教育がないと、人間にはなれない。

 大蔵省の堕落・汚職の原因は、人間としての素養がなく、学歴だけで官僚になったためである。接待でノーパンしゃぶしゃぶなんて、けしからん。(と表向きは言うものの、うらやましい?)

 一年後の皆さん(新入社員)の言動が、来年度の新入社員への活きた業務マニュアルとなる。だから心して、人間として成長して欲しい。

 

なぜ学ばないといけないか

 学ばないと、宿命的な存在にしかなれない。それでは、飲食、睡眠、交尾の原始的な欲望のまま生きることになる。それでいいのか?

 しかし、学ぶことで、運命的な存在、つまり人間的存在となるのだ。

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2019-06-27   久志能幾研究所通信 小田泰仙

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2019年6月24日 (月)

なぜ、学ぶのか?

 私は「修身」の講義で新入社員たちに問う。

「なぜ学ぶのか?」、「なぜ読書をするのか?」と。

 

現状分析

 現在(2006年)、日本の10歳以上の人の勉強時間はたった12分である。今もこの傾向は変わらないだろう。

 日本人の一日の余暇行動活動は6時間23分で、そのうちの学習・研究(学業以外)は12分である。(総務省統計局「社会生活基本調査」(2006年)

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 『週刊ダイヤモンド』2008年11月29日号

 

将来の危機

 こんな状況で、グローバル化が進み、国際競争が激化する中、日本は生き延びていけるのかと思うと、心配で心配で夜も寝られない。私の年金はどうなるのだと。だから昼間、眠たくなり居眠り?

 現に40年前、日本の基幹産業であった家電、半導体産業が中韓の猛撃で滅亡した。今は自動車も電気自動車、自動運転等が海外で開発が進み、日本の優位性が揺らいでいる。日本は将来の為の投資をしなければならない。

 

人間に投資

 読書や勉強は、自分への投資である。その一人一人が集まって日本である。それは日本の将来への投資となる。投資しなければ、アジア諸国が追いつてきて、追い抜いていく。彼らはハングリー精神が旺盛である。豊かな日本でのんびりと育った君たち(新入社員)とは、格段の差がある。今のままでは、皆さんが学生時代に蓄えた知的財産は減価償却して、皆さんの価値は下がる一方である。

 スマホをいじり、ブログやネットサーフィンをしていても、それは学びではない。ネット上の情報の99.99%は、価値の薄い情報である。本や雑誌の活字に触れなければ、物事を考えて、俯瞰的に観て選択・決断するという能力が育成されない。その能力が身に付かないと、考えが軽薄になり、人間としての品格がなくなる。商品開発、営業、経営で、最後の勝負は、人間力の差できまる。人間力が出来ていなければ、人生航海で沈没である。だから現在、企業人、役人の世界での不祥事の多発している。それが現代人の病を物語っている。いくらAIが進んでも、人間力にはかなわない。

 

学びの意味

何故学ぶのか。何故読書をするのか。 

 体の栄養は食物である。心の栄養は、読書、学びである。 

 

 学びは、自分自身を深く考え、自分を変えていくための行動である。

 

 学びは、単なる知識を集約、記憶することではない。単なる知識の集積ならコンピューターがやってくれる。とても人間では勝てない。

 

 本当のものを知るということは、賢くなることではなく、むしろしみじみと自らの愚かさを知り、世の不思議を感じて心からそれに頭を下げること。学問とは自分自身の癖とか性質までを考えて、直し得るところまでいかないと、本当の学びない。(元京大総長 平澤興)

 

 人は学ばないと人間ではなくなる  安岡正篤

 

 愚者は自分の失敗から学ぶが、賢者は他人の失敗からも学ぶ

 

 読書とはロケットを打ち上げること。狙いを定めて発射ボタンを押すこと。行動しないと成果はゼロ。計画して行動する(知行一致)。

 

自分の存在への問い

 ・なぜ皆さんは日本人なのか?

  なぜイラク、アフガニスタンでないのか?

     なぜ生まれた?

     なぜ今の時代に生まれたの?

     なぜ、今ここにいるのか?

 そこまで考えて、日本人に生まれたことを感謝して、社会へ恩返しとして貢献するために学ぶのが真の学びである。

 

2019-06-24   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年6月10日 (月)

君が部長なら、誰を指名解雇するのか? その基準?

リストラで生き延びる人、淘汰される人

 あなたがある部署の部長と仮定して「部員30人中、9名の指名解雇者を選出せよ」との業務命令が上からきたら、どういう基準で選出するのか? 答えよ! リストラしないと会社が倒産して、4,000人全員が路頭に迷う事態になる。

 これは私の「修身」の講義で、対象が新人・中堅の技術者たちに出した質問である。私はこの回答には言及しなかった。その意図は、現実社会を中堅技術者達に知らしめ、自分がその立場なら、どうしたかを考えてもらい、働く意味、生きる意味を考えてもらうためであった。答えは各人の価値観で変わる。

 

実例

1960年頃 近江絹糸   経営不振で人員整理

  一級ボイラー士の有資格者も解雇され、大の男が泣いた。

  彼は、当時の父の仲間。当時私は小学生で、両親が夜、人員整理の話しをしていたことを良く覚えている。   

 

1949年 トヨタ自動車の人員整理・労使紛争

      創業者の豊田喜一郎が退任 

1954年 当社の人員整理   365人を解雇(全従業員の30%)

   「2度とこんな事態は繰り返さない」と社長は固く心に誓った

1993年 パイオニアの指名解雇

1995年 日産の座間工場閉鎖

2001年 松下電器の希望退社募集(実際は指名の肩たたき)

 

 

死の強制収容所アウシュビッツからの生還  

 

          死亡率    死者

ドイツ強制収容所  79% (ユダヤ人434万人 ガス室で大量殺戮)

シベリア抑留    12% (日本人7万人 極寒の屋外で強制労働)

          抑留初期は80%の死亡率

 

どんな人が生き延びたか?  どんな人が死んだか?

貴方が強制収容所の看守なら、どういう基準で囚人をガス室に送る?

 強制収容所では、看守も懲罰の対象であった。シベリア強制収容所の看守も懲罰的な意味合いでシベリアに送られ、その看守の役割を負わされている。看守自身も常にその業務成果が監視されているので手抜きはできない。

 

生きる目的

 その中で、看守から死の選別をされずに生き延びた人は、「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」(ニーチェ)ことが出来た。また未来に目的を持ち、自分の存在価値を認めていた人たちだけが生き延びた。

 それに対して、生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、生きていてもなんにもならないと考え、自分の存在価値をなくし、がんばり抜く意味を失った人は、いくら若く頑強な体でも、あっけなく死んでいった。(「夜と霧」ヴィクトル・E・フランクルより)

 「昨日まで元気で働いていた若い頑強な仲間が、朝、隣のベッドで冷たくなっていた。」(シベリア抑留体験者の言葉。私の父もシベリア抑留者)

 

ガス室に送られないために

 ドイツ強制収容所から生還し、その体験を記した『夜と霧』の著者(心理学者)、ヴィクトル・E・フランクルがとった行動が下記である。

 

◇ 働ける体であるように見せる

      働ける状態でなければ、自動的にガス室行き

      常に若く見えるように、行動した。

   立ったり歩いたりする時は背筋をピッと延ばしていた。

      若く見えるように髭を毎日剃った。

   最後のパン一切れを人に与えても、ガラスの破片で髭を剃ってもらった。

       病気にならない--- 病人になれば、自動的にガス室行き

◇ 常に未来を信じる

     近い将来、講演会で自分が演説している姿を思い浮かべた。

◇ 収容所での苦しみは意味があると認識する

     無意味だとすると生きることの価値が無くなる

◇ 愛する人との魂での会話を絶やさない

◇ 感動を失わない

     沈みゆく太陽の夕焼けの風景に感動

◇ ユーモアを失わない

       自分を見失わない魂の武器

 

リストラの選別対象になる人

 「会社が倒産の危機に際した時、リストラの選別対象になるのはどんな人か」を考えて欲しい、との質問を新人にした。

 リストラされると今の経済状態では再就職は至難の技である。当時、年間34,000人の自殺者(2004年当時)がいて、増加の一途であった。それを受講生に考えてもらった。

 

生きるとは

生きるとは、

 ・生きる義務を引き受ける行為

 ・生きることへの問いに正しく答える義務

 ・生きることが各人に課す課題を果たす義務

 ・時々刻々の要請を充たす義務

 

 生を受けた以上、与えられた命を全うさせる義務がある。そうしないと、生を授けてくたご先祖に申し訳ない。今生きている己は、全てのご先祖の代表である。

 

苦しむとは、何かをなしとげること

  「夜と霧」ヴィクトル・E・フランクル

 

生きるとは、仕事をすること

 会社生活は、人生の一番大事な時(一番エネルギーの高い時、一番充実した時)に、一番多くの時間を費やす舞台である。そこで元気でないと、人生がうまくいかない。会社ではリストラ対象にされる。

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2019-06-10   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年6月 9日 (日)

自分と私の違い

 「修身」として、身を修める為には、まず己の存在を定義する必要がある。

 自分とは何か、私とは何か、人とは何か、人間とは何か

 「自分」とは、全体の中の「自ら」「分」である。「自分」は、禅語である。自分だから、己の分際を知っている。知っているから組織の一員として動ける。だから利他が生まれる。

 「自分」の反対の言葉が「私」である。自分が全体の中の存在であるのに対して、自己は、一匹オオカミのように己だけを考える存在である。西洋の個人主義の思想が生まれる。だから分裂して利己を考える。

 「私」とは禾偏(稲)を腕(ム)で抱えて、自分のモノだと主張している様を表した象形文字である。そこから私という言葉が生まれた。 

 「人」とは、文字のように一人では自立できず、支え合って生きる存在である。

 「人間」とは、人と人の間で、生きていける存在である。人とのコミュニケーションが出来ない人は、ホモサピエンスではあるが、人間ではない。

 

自己を表す言葉がその国の文化

 英語では、自分を表す言葉はI,my等の限られた数だけである。しかし日本語は、私、自分、己、拙者、愚弟、朕、小生、我、吾、俺、ワシ、と周りの状況に合わせて、己を表現する言葉が100個以上にも及ぶ。それだけ全体の中の己の存在を意識して表現している。それが日本の気配りの文化である。常に相手を考えて、自分の行動を決める。組織あっての自分である。うまくいかないからと、他人を巻き込んでの自殺は、利己主義である。

 

植民地強奪戦争の原因

 グローバル経済主義は、「I」が優先で、「自分」の放棄である。俺のモノは俺のもの、人のモノも俺のモノである。人のことなどは知ったことがない、が原則であった。だから戦前の植民地強奪戦争が起きた。

 インドは英国の植民地にされ、2000万人が英国の搾取で餓死した。英国人にとって、インド人は人間でないので、その生死は知ったことではないのだ。

 アメリカ建国時には、1000万人の原住民(インディアン)がいたが、950万人が虐殺された。現在はインディアンは50万人しかいない。アメリカ人(当時の英国人)が、Iを主張して、新天地開拓で自己の利益の為、インディアンの命と土地を強奪した。先住民のインディアンの分際は知ったことではなかったのだ。

 中国のアヘン戦争の原因は、英国人が中国人にアヘンを売りつけ巨額の利益を得たことに起因する。英国人にとって、己の利益が最優先で、中国人の命は知ったことではなったのだ。

我々はその歴史を俯瞰して、現在の欧米の行動を見る必要がある。

 

社会の病巣

 今の社会は、自己主張の価値観がぶつかり合うからうまくいかない。グローバル化とは、「I」の主張のぶつかり合いである。だから結果として強者がのさばり、弱者が切り捨てられ、就職できない人が絶望から、凄惨な事件を起こす。その事件の真因は、グローバル経済主義化で、弱者が切り捨てられたためである。「自分」というように、地球社会の一員という考えであれば、犯罪も戦争は起こらない。

 

新封建社会の建設の愚行

 「I」が優先のグローバル経済主義は、現代に新たな封建社会を作る元凶である。グローバル経済主義は、貧富の差を拡大する。グローバル経済主義は、1%の富者と99%の貧者を作りだす悪魔の仕組みである。その影響で中流層が厚かったアメリカも、貧困者が増えて、世相が殺伐となってきた。

 最近頻発する凄惨な無差別殺人事件の遠因は、弱者切り捨てで、職に就けない人が、絶望して起こす事件は、復讐と絶望からの事件である。中高年で職がなく引きこもっている人が、日本には61万人もいる。若者でも54万人で、計105万人が引きこもりである。

 政府は、その問題を解決せず、安易に、安い賃金の外国労働者を80万人も導入しようとしている。企業は正規社員を減らし、非正規の社員を減らして、人件費を下げる取り組みをする。

 グローバル経済主義では、海外で奴隷のような極安の賃金で働かせて、それで作った格安の製品が日本に流れ込む。それで正規の日本製品が売れない。だから製造業が衰退して、益々日本人の給与がさがる。悪循環である。これでは日本経済は復活しない。日本は、欧州が移民政策を導入して、欧州社会を混乱に招いた実例から何も学んでいない。日本政府は、同じ過ちを犯そうとしている。

 

自分ファースト

 今、反グローバル化を推進しているアメリカ、イギリスがうまくいっている。

 反グローバル化は、自分の組織を大事にするである。だからアメリカファーストである。そのために、自分を組織の一員として、能力を最大限に発揮する。全体を俯瞰して、組織に自分が何を貢献できるかを考える。その上で、自分ファーストでよい。

 日本再生には、「修身」の教育が必要である。

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2019-06-09   久志能幾研究所通信 小田泰仙

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