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2019年7月15日 (月)

「仕事」:事に仕えて付加価値を創る

道を選び、道を歩き、自分を拓く

 

 自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえの無いこの道。広いときもある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。

 この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。なぐさめを求めたくなる時もあるう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

 あきらめろというのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいる道。ともかくもこの道を休まずに歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのない道ではないか。

 他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

 それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道が開けてくる。深い喜びも生まれてくる。

                      松下幸之助  1968年

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  東山魁夷「道」、馬場恵峰書

 

「道」とは何か?

 「宗教」と「道」は何が違うか?

 例:浄土宗と“TOYOTA WAY”

 宗教には教祖がいて、その教典があり、信徒がいる。それは多分に他律的な戒律があり、またそれは 個人の幸せを目指している。また宗教法人設立は、この3点セットでないと法律的に認められない。

 

オダ佛教?

 キリストが説いたからキリスト教、釈迦が説いたから仏教、マホメットが説いたからイスラム教である(私が説いたらオダ佛教?)。その本質は、どの宗教も同じである。その土地の文化と歴史に合った宗教が育った。茶筒を水平に切ったら円で、縦に切ったら長方形、斜めに切ったら楕円形となるように、切る方向で見え方は違うが、本質は変わらない。だから切った結果を議論しても無意味である。それなのに愚かな人間は、己の宗派にこだわり凄惨な宗教戦争の歴史を繰り返してきた。

 日本で発達した神道や道徳や神社、自然を崇める行為は、海外の宗教とは、その定義からみて異なっている。日本では他の宗教を全て受け入れる大きな器を持っている。だから日本では凄惨な宗教戦争は少なかった。為政者が自分の支配が脅かせるのを恐れての宗教弾圧はあった。

 

「道」の価値観

 「道」とは、自然、社会との共存を目指し、自律的な約束事として存在する。現代風にいうと、「 TOYOTA WAY 」や、「PANASONIC WAY 」がこれに相当する。その意味で、会社理念は宗教に似ている。しかし「道」の概念は、自律的、共存的な考え方で、日本発の価値創造がある。世界のどこにもない価値観である。そこに日本が世界に誇れる価値観がある。

 

「道」の語源

 道の前に道はない。自分の道は自分で創るべし。自分が歩いた跡が道となる。新しい分野を開拓する場合も同じである。自分の首をかけて、誰も歩いたことのない道を歩く。それが道の開発だ。

 「道」という漢字は、生首をぶら下げて、四つ辻(シンニュウ)を歩くと書く。その昔、古代中国では、都市は城壁で囲まれていた。その外は魑魅魍魎が住む怖しい場所と考えられていた。だから城壁を出て外に行くときは、怖しいので捕虜の異国人の首を刎ねて、その生首を魔除けとしてぶら下げて、恐る恐る歩いた。その歩いた跡が道となった。

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    馬場恵峰書

 

2019-07-15   久志能幾研究所通信No.1257  小田泰仙

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