l1_吾が人生の師天王 Feed

2017年11月29日 (水)

学ぶとは自分探し

 生物は、動物でなく人間に生まれても、学んで魂の浄化をし続けないと動物の世界に戻ってしまう。犬が躾で成長しても、自ら学んで魂の浄化をすることはありえない「学ぶことで運命的な存在、つまり人間的存在となる(安岡正篤師)」。魂を自分の意思で成長させられるのは人間だけである。テレビを見ながら飲んで食べて寝るだけの生活をすれば、動物園の野獣に成り下がる。まるでサーカスで踊らされている動物である。放送局の目的は痴呆的に番組を見させて商品を売ること。思考能力をなくしたテレビ漬けの人が認知症になるのもワケがある。まず畜生にでなく、人に生まれたという奇跡に感謝すべしである。「人として生まれるとは、1億円宝くじが百万回連続で当たると同じ確率である」と筑波大学の村上和雄名誉教授はいう。

 

人間界曼陀羅

 失敗、成功、喜び怒り悲しみ笑いの喜怒哀楽があって、それを糧に精神の成長をさせてこそ人間である。曼荼羅に描かれている佛様の数々も、人と同じような性格を持つ佛として表されている。決して完全無欠な佛ばかりではない。まさに人間界の縮図が曼荼羅である。

 

四天王の諭し

 人を堕落させる最大の敵は己である。怠惰な己が、己を安楽な動物界に誘い込み地獄に落とす。それを護るのが四天王である。犬のようにキャンキャンと自制心なく話し続けるのではなく、まず人の話を聞けと多聞天が睨み、人間として成長しろと増長天が一喝する。人間として文を書き、読み、口を閉ざして世間を見ろと広目天が睨み、成長したら人のために働けと持国天が一喝する。高野山では、四天王が建つ中門を無事に通過できると、その先に根本大塔の曼陀羅の世界が広がる。

 自分は何のために存在しているのか、己の使命は何か、それを追求するのが生きることである。学び続けると、魂が浄化され、その根本が明かになる。全ては人生の品質をいかに向上させるかである。

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久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2017年11月23日 (木)

人の目指す姿

角熟

 人は人を目指して、人となる。人は神や佛を目指してはならない。人を救うのは、人であり神佛ではない。己の心に巣くう鬼を、別の慈佛が見守り、己を救う。それが悟りの世界である。邪悪な鬼心と清らかな佛心の両方があり、その二つの鬼佛の自制レベルを高める修行が、人間の成長である。

 人は精神面と知識面の二つの世界を持つ。それが人間の幅である。精神面の浄化と技術面の両方の成長を目指して修行をするのが、人間の修行である。人が完全無欠の人間になってしまったら、「人でなし」になってしまう。それは、神であり「成佛」である。人は角張った欠点を抱えたままでよい。角のある欠点を補う長所を伸ばすのが、正しい成長である。それが「角熟」で、そうなれば欠点が人間味となる。人は角張っていてよい。角が柔らかであればよいのだ。

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図1 人の成長

曼陀羅

 「成佛」の姿である大日如来は、曼荼羅の中心に位置して、回りの菩薩がそれを取り囲んでいる。曼荼羅とは、サンスクリット語のnandalaの音写した言葉で、本来の意味は「本質、中心、真髄などを持つもの」を表し、佛教では佛の悟りとその世界を意味する。特に密教においては、聖域、佛の悟りの境地、世界観などを佛像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表した図をいう。

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 図2 東寺講堂 立体曼陀羅配置図

 東寺弘法市HPより  http://www.touji-ennichi.com/info/koudo_j1.htm

菩薩

 菩薩とは成佛を目指す修行中の佛である。曼陀羅の世界には、天や邪鬼、阿修羅、菩薩が存在し、多くの佛が大日如来を支えている世界が現実の世界の象徴として存在する。すべて佛の姿の現れである。人の内なる心には、慈佛の心もあれば鬼の心もある。両方を兼ね備えて人である。片方だけの人はありえない。曼荼羅には、微笑みの金剛波羅密多菩薩と憤怒の不動明王が左右に配置されている。口を開いて一喝している増長天があれば、口を閉ざして睨んでいる広目天が陰陽の対で存在する。この世は全てプラスがあればマイナスがある。良いことばかりの世界など存在しない。地獄があってこそ極楽がある。地獄から極楽に向かう修行が菩薩行である。

 

立体曼荼羅

 人の心を表した姿として佛像がある。弘法大師が京都の東寺講堂に、立体曼荼羅として人の心の世界が佛像を介して再現された。高野山の根本大塔の内部にも同じ立体曼荼羅が極彩色で再現されている。己は曼荼羅の世界で、何処に位置するのか、それが問われている。内部は撮影禁止なので、ご自身の目でご覧になることをお勧めします。または図録か画像検索で参照してください。

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図3 京都 東寺 講堂4dsc01155 図4 高野山 根本大塔 

2017-11-22

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2017年11月16日 (木)

幸運の女神の後頭はハゲ

 幸運の女神には前髪はあるが後ろ髪はない。来たチャンスは前髪で掴めとの格言である。2014年11月20日、仙台の藤崎百貨店で、絵佛師岩田明彩さんから曼荼羅の説明を受けていた。そのとき、その展示コーナ横に天女の佛画が展示してあり、営業マンとしての(?)明慶先生がその佛画の説明をされた。いい絵だな、と納得して手を出そうとしたら、同席の齋藤明彦社長が一瞬先に手を出して、天女様は遠く盛岡市まで拉致され飛んでいってしまった。震災復興で忙しい地を優先して先に盛岡に行かれたのは、慈しみある天女の心遣いであろう。齋藤さんが中国の清龍寺で写経納経した功徳のようだ。

 

天女

 天女とは欲界六天に住む天上界の女性の天である。吉祥天女、弁財天女はそのうちの一天である。六天とは欲界に属する六種の天、すなわち四王天・忉利天・夜魔天・化楽天・他化自在天である。

 幸運の女神と親しい天女にも後ろ髪はなかった。天女の後ろ髪は「かつら」であった。それに騙されると判断の遅れとなる。慈しみの天女が訪れたら、きつく抱きしめないと即去っていく厳しさがある。慈厳を併せ持つ佛様である。縁に対して己の眼力が試される。

 

人生という芸術作品

 芸術品の入手は一瞬の判断が勝敗を分ける。芸術という人生も同じで、一瞬一生で、一瞬の判断の遅れで、天女は手の届かない所に飛んでいってしまう。その一瞬一瞬の判断の積み重ねが、人生を創る。決して偶然の人生はない。自分の決断の連続が人生を創る。経営では社長の決断が、会社の未来を左右する。決断を正しくするには、決断の練習をすること。成功のためには、多くの失敗をするため小さい決断を多くすること。決断をしないのが最大の失敗である。

 明慶先生のモットーが「next one」であることを思い出し、気持ちを取り直して岩田明彩師に同じ佛画の製作をお願いした。その佛画が年内ぎりぎりの2014年12月30日に届き、年の良き締めくくりとなった。

 この作品「飛天」には絵佛師岩田明彩さんの特別の思い入れがあり、今後の「飛天」シリーズの代表作になるよう勉強をされているという。人生では跳ばねばならない時もある。天を翔ける夢の実現に精進している自分には励みになる絵である。ご縁に感謝。

 

図1 一瞬一生 馬場恵峰書 2014年

図2 絵佛師 岩田明彩師作「飛天」2014年

 

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2017-11-16

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2017年11月 5日 (日)

増長天が見下ろす我が臨死体験

 1999年(49歳)の時、ある研修で臨死体験の実習をさせられた。その時の己の情況を、18年の時間を経て眺めると、己が増長天になって天上から見る思いである。死の床にある己を上から見下ろす。視点を変えて見なければ観えない世界がある。一つ上の界から己を見ると、なんと己が愚かであるかが見えてくる。

  

感動と理動

 臨死体験の実習は理不尽に設定された。本来、不慮の事故とはいつも理不尽である。緊急事態が起きたとの想定で、それから逃れるため己だけを助けるアピールスピーチを強要された。結果として、私のスピーチは無視され、信頼していた唯一のパートナーからも裏切られ、講師から罵倒、酷評され、散々の目にあった臨死体験実習であった。理不尽な状況で、理性で戦おうとした己の愚かさが、今になって増長天の立場で見ると良く分かる。

 理性的に考える能力とは、なんと空しい力であるかを悟った体験でもあった。理性的に考える能力とは、理性的にしか考えられない偏った能力である。死の直前の場では、理性的な言い訳など何の意味も無い。なにせ理不尽な設定での臨死体験である。己を助けるために許された1分間のスピーチの訴え(ある意味の命乞い)は、理性的であるほど空虚であった。人は死に臨んでは、理性など無意味である。人は理性では動かない。「感動」はあっても、「理動」はない。人を動かすのは感情である。不合理でも相手の好悪で心は動いてしまう。そう思うとき、理性で見ていた世の雑事が空しく感じられる。

 命乞いをして認められれば、自分の命の代わりに仲間の一人の命が消える。人を死に追いやってまでして生き延びたいのか。たかが模擬の臨死体験実習で、何を一人でもがいているのか。人の生死は佛様の管轄範囲であり、人の管轄範囲は健康管理、人事管理までである。おこがましい越権行為の臨死体験に、何でそんなに落ち込んだかと、今にして己の愚かさを感じる。

 

佛動

 人は理では動かない。また感動をしても、多少は心を動かされても、それで生死を分ける決断の行動になるとは限らない。その時、己を動かすのは己れの奥から聞こえる佛の聲ではないか。感動ではない、理屈でもない、しかし動かざるを得ない何者かの聲が己を動かして、前に進ませる。その聲に素直に従うのが天命ではないか。

 

天命を知る

 50歳は天命を知るべき歳である。人は必ず死ぬことを知るなら、じたばたするのは見苦しい。死に接して、じたばたしたのは、人生に覚悟ができていなかったのだ。当時から18年間も経ち、多少は成長した今の時点で、増長天として当時を振り返っている。佛様は何のために己に命を授けてくれたのか。その命を永らえるために、何をすべきか。理性を前提に生きてきた己の生き様を見つめ直す機会となった。

 臨死体験をしてから人生観と死生観が少し変わったが、その後の修羅場の宮仕え期間を経て、人生観が少し風化しかかっていた。それが定年後に出あったご縁の数々で、人生観・死生観が進歩したのを感じる。

 いつ死んでも、後悔のない人生を歩みたい。一日一生、一日は一生の凝縮なのだ。そう思ってから、物事の決断に先送りはしないようになった。即決することが多くなった。間違った決断でも、気づいたら後で修正すればよいと居直ることにした。右か左か、どうせ多少の道草があるかもしれないが、行き着く先は同じである。そう思うと、気が楽になる。与えられたご縁を活かす方が、より大事であると思うようになった。

 

真の己の姿

 「真」とは人が逆さまになっている象形である。一説には、戦いで首を切り取った胴体の象形で、首のない敵の胴体を並べて数えることから、「真」の文字が使われたという。事件・病気・トラブル・研修・試験という佛光に照らされて、己の真の姿が闇夜に浮き上がる。目を覆って見たくない、己の影に真の姿が露見する。それを天界から増長天が見つめている。己を第三者の目で見よ、見たくないものを見よ、触れたくないものにも触れよと増長天の目は云っている。そうなった原因は、全て己であると。たとえ天は知らなくとも、己の内なる鬼は知っている。魂の叫びに耳を塞いできた咎が事件である。

 

 図1 増長天が見下ろす我が臨死体験

    松本明慶大佛師作 高野山納佛 

    馬場恵峰書

 図2 論語 馬場恵峰書

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2017-11-05

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2017年10月29日 (日)

子供の未来を食う死鬼衆

若い子のゲーム中毒

 私が大垣市立図書館で、若い子達と席を並べて国家試験のための受験勉強をしていると、目に付くのが若い子のスマホのゲーム中毒症状である。このゲームの魔力が若い子をダメにしている。私は彼らがゲーム蟻地獄に足を取られる姿を見る度に、どうにかせねばと苛立っている。

 若い子が学習室でも勉強中にゲームを始めると、1~3時間くらい連続してゲームに嵌っている。なにせそれを止める親の目はない。親は図書館で勉強していると信じている。愚かな親である。その間、無為な時間が過ぎている。無為ならまだしも、怠惰な心を植え付け、自分を律する心が死鬼衆に喰われている。脳がゲーム脳に浸食される。学生時代の貴重な勉強時間が毎日数時間も侵されれば、確実に学力低下である。そんなレベルの学生を会社は採用しない。まともな就職が出来ず、アルバイトやフリータへの道へ転落である。

 

死鬼衆としてのゲーム会社

 ゲームは非生産的な娯楽である。思考の抵抗力のない若い人を、ゲーム機やゲームソフトでゲーム中毒にさせるのは、麻薬を売るに等しい。若い人の青春が潰れていく。「若い時の命」と言う大事な時間が大出血で失われていく。誰がその血を貪って利益を上げているのか。ゲーム機、ゲームソフトを売るメーカである。血税で運営している学校や図書館がゲーム魔で蝕まれている。

 若い人たちが日本の未来を背負ってくれる。その若人を堕落させ、麻薬同然のゲームで金儲けするのは死の商人であり死鬼衆である。若人が世界の学生に負ければ、日本は沈没である。若いときの1時間の勉強価値は、年老いてからの1時間労働の5倍の価値(私の実感)がある。若いときに勉強しなければ、年収1000万円の課長職の給与が、フリータの給与で一生を過ごさねばならぬ。一生、年収は200万円である。

 

日本の未来の損害

 仮に日本の1学年の全学童の10%が毎日1時間、ゲームに没頭するとだけで、1兆8250億円の日本の損失である。それが6年間も続けば10兆円を超える。それを誰が食べているのか。

 損失金額=1時間×365日×50千円×10%×100万人

     =1兆8250億円/年 (一学年で)

       (時間アワーレートを5倍の50千円で試算)

 

 ソニーが業績回復をゲームで稼ごうと狼煙を上げている。ゲーム業界はゲームソフト開発にしのぎを削る。そんな死鬼衆まがいのビジネスに血道を上げるソニーなんか潰れてしまえ。貧すれば鈍す。若人の生血を吸うビジネスに手を出すソニーに未来は無い。さようなら、僕達のソニー。

 

ゲーム中毒の弊害

 スマホのゲーム利用者は約6割・・・・うち半数が毎日ゲームを起動

  MMD研究所は、「スマートフォンゲームに関する調査(利用実態編)」を実施した。同調査によると、スマートフォン所有者のうち、ゲームを利用したことがある人は61.7%で、そのうちの51.6%がゲームを毎日起動することがわかった。 スマートフォンゲームの1日の平均起動時間は、77.1%が30分未満である一方、10.3%の人は1時間以上であった。 

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 調査期間は、8月8日から8月11日。調査対象はスマートフォンを所有している15歳~59歳の男女566人。(インターネットコム) (2013年8月21日 読売新聞)

 

音楽を聞きながらの学習の弊害

 高校生や大学生が、音楽を聞きながら、学習室で勉強をするのも死鬼衆に犯されている。そういう人達に限って、大きな音を立てても平然としている。本人は音楽を聴いているので、自分が発する迷惑音に気がついていない。世間の声に耳を塞いでいる。音楽を聞きながらでないと勉強できないとは、就職しても音楽がないと仕事が捗らないことで、日本産業界の損失である。これは税金を使って、仕事のできない訓練をするという税金泥棒である。現在、5~10%の学生が学習室で、イヤホンで音楽を聞きながら勉強している。

これを見るとオウム真理教のヘッドギアを思い出す。これでは日本の学生の質が低下するのも故あること。音楽は疲れたときに脳を休めるために聴くならともかく、のべつまくなしに聴くのでは、思考回路が低下する。同じように痴呆的にテレビを見続けるのも、ヘッドギアを装着するのと同じである。

公共の図書館学習室ではスマホのゲーム、ヘッドフォンの音楽は禁止すべきである。

 

2017-10-29

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2017年10月18日 (水)

己が死鬼衆になるとき

 2014年末に人間ドックで各所の不都合が見つかり、暫く大垣市民病院に通院した。大病院に行くと老人の人生の縮図を見せられる。そこで目にした風景は、自分がまだまだ恵まれていることへの感謝の念と、未来の自分の姿への戒めでもあった。

 最近は私の近所でも介護施設の車椅子の人を運ぶワゴン車が数多く見るようになった。車椅子の人を見ると辛くなる。車椅子の人の多くが、顔が弛緩した状態である。生きているのではなく、生き永らえている趣である。車椅子を押す人が気の毒で見ていられない。介護は美しい姿ではあるが、現実は地獄である。未来の自分はそんな状態で生きながらえたくはないと思う。 

子供の未来を喰う鬼畜

 車椅子の生活は、車椅子になるべくして生活をしてきた咎といえば酷かもしれない。働き盛りの男性の介護退職者が年間14万8000人(2013年)で、この4年間で4割も増えた。年間退職者の15%である。50歳前後で親の介護で辞めた人や役員手前で辞めざるを得ない部長を見ると悲劇である。親は自分の息子の油の乗り切った大事な時期を意図せず食い物にする結果となる。日本の貴重な人財という財産が失われる。数年間の親の介護が終った後は、再就職する道も遠く貧困生活への道に滑り落ちる。親の健康管理の怠慢が原因である。自分の健康管理を若いときからしなければ、将来、己が子供の未来を食う鬼畜となる。己の堕落の咎を可愛い子供が背負う。 

母の病状

 私の母は太っていて69歳のとき、脳梗塞で亡くなった。68歳のとき、高血圧が遠因の脳溢血で倒れた。私は、もっと痩せろと何回も苦言を言ってたのだが、言い方が甘かったと今にして悔いが尽きない。子は親と同じ病気にかかりやすい。同じ食生活を長年続けていたからだ。親の罹る病気を学ぶことは親孝行であり、自分のためにもなる。

 母は手術後奇跡的に回復し一時帰宅もできたが、その後、脳梗塞となり意識がない状態が5ヶ月ほど続き大垣市民病院で亡くなった。入院中の間、80キロほど離れた勤務地から、夜、車を飛ばして病院に見舞いに行くのだが、意識の無い母を見舞うほど辛いものはない。制限速度以上で飛ばす堤防沿いの深夜の道中、少しハンドルを切って橋げたに激突すれば楽になれるとの誘惑に駆られたことも一度や二度ではない。地獄はあの世でなく、この世に存在する。子供に地獄を見させるのは、死鬼衆である。親ならば子供のために己を律するのが、子孝行である。親の健康管理は子にも責任がある。介護は負の仕事で、付加価値を生まない仕事である。人は死ぬ直前まで、現役であるのが幸せなのだ。ピンコロは、良く働いたことへの佛様からのご褒美である。生殺しは地獄である。

 

2017-10-18

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2017年10月17日 (火)

「ご縁硬化係数」との出会い

 心房細動という心臓の病を患い、動脈硬化係数という指数に出会うご縁を頂いた。動脈硬化係数とは、加齢に伴って血管の内壁が硬くなってくる状態を、コレステロールの値から推察する指数である。

 動脈硬化係数=LDL÷HDL

 悪玉コレステロール(LDL)を善玉コレステロール(HDL)で割った値が、動脈硬化係数で、2を超えると動脈硬化が進んでおり、脳梗塞や心筋梗塞の危険性が高まるという。そのシグナルが肥満・高血圧で、糖尿病、眼病、心臓病と体を蝕む病気の警報信号となる。肥満も高血圧も病気ではない。「そのままにしておくと病気になるぞ」との佛様の助言である。助言が悲劇であるのは、聞くほうが覚悟を決めて聴かないからである。図1は、私が高脂肪体質の改善に取り組んだ経過である。図2は、血管内部に付着したプラークの状況(図は厚み2.45mm、正常値0.9mm以下)のエコー検査写真である。一時、動脈硬化係数値が2.6もあったが、食事療法、減量に取り組んで1.4迄に改善した。

 

ご縁硬化係数

 上式を見て、人生の運不運の関係を示す人生方程式に思いが至った。悪縁の出会いの総量と良縁の出会いの総量の比率が、人生の運勢をきめる。

 ご縁硬化係数=悪縁の総量÷良縁の総量

 悪い縁との出逢いが人生を狂わせるが、強力な良きご縁があればそれも相殺される。良きご縁のレバレッジ(テコの原理)を利かせて、良き道に進みたい。袖擦りあう縁を如何に料理して良きご縁に味付けするかが問われる。フグの卵巣や肝臓のような悪縁をうまく捌き、取り除くが人生の名料理人である。

 川崎市の中一生惨殺事件(2015年3月)は、被害者が付き合っていた悪友の悪縁が原因である。人生の豊かさは、付き合う人のご縁硬化係数の大小で決まる。良い縁だけを得るのは難しいが、悪い縁に近づかないようにするのはそんなに難しくない。悪縁を避ければ、少しは良きご縁の環境になれる。「人生の管」内の環境整備が大事である。その管内を正常に、通過できる人生であるためには、その維持・管理と定期的な保守点検が必要である。管内の5Sで、悪縁を清掃すべきである。悪縁の蓄積からは腐臭が発生する。

 

人生舞台の美学

 人生は生老病死である。何時かは所属している界を去らねばならない。学校でも4年、修行も10年、会社も37年で去るのがこの世の掟である。去るときは迷わず、あせらず、胸を張って、受けたご縁を心にきざんで去っていきたい。その界のシガラミに囚われたり、その界が永遠にあると錯覚したりするから、回りの冷たい視線が目に入らず、皆が寝ている雑魚寝の寝室で、口に泡を飛ばして延々早朝まで議論をする醜態を晒す。

 毎回、ご縁がある度に、今の界を去る覚悟を決めれば、浄土に行くときの事前練習となり、じたばたせずにお別れができる。少しでも人格を高めて、惜しまれてその界を去りたいもの。生が素晴らしいように、人生を全うする死も素晴らしい。生も死も同じステージであり、二つの価値に優劣は無い。人生の一つのステージである死を美しく飾るためにも、日々を精進する決意を新たにした。

 

図1 血液検査の推移

図2 私の血菅内部のプラークの堆積状況 2.45mmの堆積    

    2016年10月14日 真島消化器クリニックにて

図3 馬場恵峰書 2011年10月

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2017年10月16日 (月)

中門とは曼荼羅への入口

 弘法大師が高野山の立体曼荼羅が広がる根本大塔の前に中門を設置して、門の四隅に四天王を配した意味は深い。その先に人間の歩く道がある。まずその門を通らないと始まらない。人生の目的地までは、千里の道のりである。

 曼荼羅とは、サンスクリット語のnandalaの音写した言葉で、本来の意味は“本質、中心、真髄などのもつもの“を表し、仏教では仏の悟りとその世界を意味する。

  

人生の狭き門

 『新約聖書』マタイ伝第七章に「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」という。「狭き門」は、キリスト教で天国に至ることが困難であることを例えた言葉である。転じて、入学試験や就職試験など、競争相手が多くて突破するのが難しいことの例えである。

 仏教でも同じことを教えている。人は狭い門の母の経道を通り、母親を苦しめて人間界に生まれてきた。決して大門を楽に通ってきたわけではない。大門は人も動物も生き物が通ってくる。その中で魂を持って生まれてくるのは人間だけである。魂を持った人のみが、その次の中門に入れることができる。人は自分の使命に向って進む。動物は欲望のまま生きる。高野山の大門には仁王様が立ち、中門に「入界審査官」の四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)が立ち、通る人の心に問うている。自分はその四天王の目を直視できるのか。その先には、大宇宙を表す立体曼荼羅が広がっている。自分の目的地はどこか。

 

人生の門の下に何を置くか?

 人として生まれたのなら、構えた門の下に何を置くかである。門の下に「人」を置けば「閃き」である。門の中に人がチラッといるのを見るという意味である。閃きは生きている人間にだけに与えられている。閃きは仕事、修行において求めるものを探求し艱難辛苦の果てに天与されるもの。贅沢三昧の極楽温泉に浸かり心が緩んだ人には授からない。

 「間」とは門を閉じても日光、月光がもれるさまから、隙間を意味する。月の光は日に照らされて放つ光である。だから「閒」とも書く。言動から佛性の光が漏れ出るのが人間である。己は縁ある人に何を照らし与えているのか。功徳ある照らしでありたい。光を吸い込むブラックホールの存在では哀しい。

 「開く」は「門」+「幵」で、「幵」は、両手の象形である。門に両手をかけて開くの意味を表す。己の人生の新しい門は、己の両手で渾身の力で押さないと開けられない。開けられないのは門が重いからではなく、力の出し方が足りないのだ。

 「才」を置けば「閉じる」である。「閂」も同じである。門を木のかんぬきでとじた様を表す。己という人生の門にかんぬきをしては、人生は始まらない。

 門の下に「口」を置けば「問う」耳」を置けば「聞く」。人生を生きていくために、己の門の下に何を置くかが問われている。かんぬきだけは置くのを避けたい。見ざる聞かざる言わざる、ではサルの畜生である。

 門の下に心を置けば、「悶える(もだえる)」。口には出さずに、心を門の下に置いて公衆に晒す状態である。智者の行為では、ない。

 

図1 大門 高野山

図2 中門 高野山 2015年再建

図3 四天王 持国天 大併師塩釜浄而作 松本工房修復

図4 四天王 増長天 松本明慶先生作 2015年

図5 四天王 広目天 松本明慶先生作 2015年

図6 四天王 多聞天 大併師塩釜浄而作 松本工房修復

図7 「道」 馬場恵峰書

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2017年10月15日 (日)

佛とは何か  マイナスGの世界

 佛を数式で定義すると 佛=人間-G で表される。「マイナスG」とは地獄から発生する引力からの解脱である。Gとは業であり、強欲であり、身にまといついた餓鬼である。佛に最も近い存在が純粋無垢な赤子である。その赤子も成長するにつれ、浅知恵を身につけ、小欲が強欲になり、色ものを集め出す。集めても集めても、食べても食べても満ち足りぬ餓鬼の世界に堕ちてゆく。餓鬼道に堕ちた人間も何時かは年老いて、次第に惚けが始まり、赤子のような状態になってあの世に旅立つ。人は裸で生まれて裸で死んでいく。生まれてから身についた重い業(G)を捨てれば、煩悩もなくなり幸せになれるのに、谷に蹴落とされても欠ない欲を持ったまま生きる。持つ欲を少なくすれば、佛の世界に近づけられる。小私少欲の世界に近づけば、心の平和が訪れる。今の欧州の難民問題、世界の貧富の差の拡大は、強欲主義のグローバル経済主義に起因する業なのだ。グローバル経済主義とは、昔の欧米列強による植民地強奪主義の化身なのだ。己ファーストなのだ。

 

自然の理法

 松下幸之助翁は真々庵の庭の一隅に「根源の社」を作り、悩みがあるとその場所に座って何時間も思索をしたという。松下幸之助翁にとって根源様とは、かくのごとくあるべき姿の如来様と同じで、人の根源にあると考えたようだ。その根源である己に何時間も自問自答をして、悩みを解決した。佛とは己の根源である。弘法大師が高野山に建てた塔に、根本大塔の名をつけて、中に立体曼荼羅を創造したのも、同じ由来のようだ。

幸之助翁は、宇宙根源の真理を追究して「宇宙に存在するすべてのものは、常に生成し、たえず発展する。万物は日に新たであり、生成発展は自然の理法である」と結論に達した。

 

新しい人間観の提唱

 宇宙に存在するすべてのものは、常に生成し、たえず発展する。万物は日に新たであり、生成発展は自然の理法である。

人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。人間はたえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができる。かかる人間の本性は、自然の理法によって与えられた天性である。

  昭和47年5月 松下幸之助著『人間を考える』PHP研究所

 

無理

 私が2012年の松下幸之助経営塾第4期で学んだ重たい言葉が「無理」である。「無理」とは、理に合わないこと。宇宙根源の法則に反すれば、必ず破綻する。「理」とはかくの如くあるべき姿である。それは真理、つまり如来である。

 

図1 「根源の社」前で、松下幸之助翁の心境を模擬体験する著者

    PHP京都本社内にて  2013年5月17日

図2 高野山 根本大塔 2013年3月31日

 

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2017-10-15

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年8月18日 (金)

笑顔は出世のパスポート

佛頂面

 佛頂面とは(佛の頭頂に宿る広大無辺の功徳を佛格化した尊の恐ろしい相に例えた語)無愛想な顔を言う。佛とは、純真無垢な赤子のような存在である。佛頂面とは、心の様をそのまま外に出てしまう赤子のような心の表れである。成長した大人なら、品ある笑顔で己の心の醜さをお化粧として隠すもの。それが出来ないのは小人の証。そうしないと、未成熟の人たちで構成される人間関係がギスギスする。未成長の己を人様の前に出す行為である。佛頂面は裸で人様に会うのと同じである。そんな人に幸せのご縁が訪れるはずがない。

 

他部へ応援に出てのご縁

 1982年ごろ、新研削盤の開発途中で、別部署の組立て機開発プロジェクトへ数ヶ月間、応援で出されることになった。新研削盤の開発後、多くの引き合いでテスト研削をするのだが、なかなかお客さんが買ってくれず、課内で一番余裕があると思われた結果もようである。

 プロジェクトは当社製品の全自動組立てラインの開発である。私はポンプの弁のフィルター自動組みつけ機の設計を任された。網状のフィルターを打ち抜き部品に圧着する組立て機である。研削盤設計とは勝手が違い、過剰な強度の機械を設計して、課長に笑われて苦労をした。今では良い思い出である。

 当時、その部に新入社員が二人配属されていて、その面倒を見るかたちとなり、気持ちよい環境であった。二人の新入社員は、非常に対照的な姿、性格であり絶妙のコンビでもあった。二人とも仲がよく、仕事は良くやってくれた。性格的に几帳面な子と豪快な子であり、小柄と大柄の体格で、よくこんな絶妙のコンビができたものと微笑ましかった。当時は、前の部署では一番下っ端であったが、ここでは二人の上であり、人を指導する体験となった。

 

30年後の因果

 その後30年が経ち、設計にはあわなかったような豪快な子が、現在は営業の部長に出世している。明るい性格の子は得をするのを目のあたりにした。この子(50も過ぎた元部下をつい「この子」と言ってしまう関係)は、それ以来、毎年、年賀状を送ってくれる。会社生活で一番長い付き合いの部下でもある。私が、定年を迎えた後、名古屋の料亭でご馳走をしてあげた。明るい子とは話をしていても楽しいものである。私がクソ真面目で、あまり明るくない性格であったため、羨ましくなる。部下は自分の鏡である。

 当時、夏の課の旅行行事があったが、前の職場の研究開発部ではこんな行事はなかった。上司が変わるとこうも職場雰囲気が違うものと感心した。応援期間が終わり、惜しまれながら(?)元の職場に引き戻された。二人の新入社員は残念がってくれた。

 

笑顔の価値

 ガガーリンが宇宙飛行士に採用された理由の一つが「笑顔」であった。宇宙から帰還した飛行士の笑顔が魅了的なほうが、国民は誇らしく思うだろう。アメリカを含めた世界に向け、その映像は送られた。(P135)(岡野宏著『一流の顔』幻冬舎 2005年)

 

 「人の顔色は、いわば家の門口のようなものだ。広く人に交わって自由に客を招き寄せるには、まず門口を開放して、玄関を掃除し、ともかくも人をきやすくさせることが肝要であろう。人と交わるのに、顔色を和らげようとせず、かえって偽善者の風を学んで、わざとむつかしい顔つきを見せるのは、家の入口に骸骨をぶら下げ、門の前に棺桶をすえつけるようなものだ」・・福沢諭吉『学問のすすめ』第17編「人望論」

 

 上記の件は、頭では分かっていても、現実に笑顔もままで過ごすのは難しい。実際に実行できる人が教養人である。母からは、「家を出たら7人の敵がいると思え」と教えられた。弱い人間が壁を作り、自己防御で難しい顔をするのだ。今まで自分は弱かったのだ。還暦を迎えてやっと顔に笑顔が出てきたようだ。自分の成長が遅いことは、2013年に自分史を書いて思い知らされた。

 当時、元の部署のT係長がやって来て、機械関係の雑誌の原稿を書いてくれと言ってきた。人を応援に出しておいて原稿書きはないだろうと、むくれたが、皆が忙しく対応できないのでと懇願された。上司の依頼なので、しぶしぶ書くことになる。結果として、自分のやってきた記録を公式記事に残せてよかったと今にして思う。来た縁は断ってはダメである。

 

図1 夏の課の旅行で(上高地)

 笑顔の中込さん(左端)と腕組して苦み走った顔をしている私(左から4人目)。これではダメですね。

 

2017-08-18

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