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2017年11月23日 (木)

人の目指す姿

角熟

 人は人を目指して、人となる。人は神や佛を目指してはならない。人を救うのは、人であり神佛ではない。己の心に巣くう鬼を、別の慈佛が見守り、己を救う。それが悟りの世界である。邪悪な鬼心と清らかな佛心の両方があり、その二つの鬼佛の自制レベルを高める修行が、人間の成長である。

 人は精神面と知識面の二つの世界を持つ。それが人間の幅である。精神面の浄化と技術面の両方の成長を目指して修行をするのが、人間の修行である。人が完全無欠の人間になってしまったら、「人でなし」になってしまう。それは、神であり「成佛」である。人は角張った欠点を抱えたままでよい。角のある欠点を補う長所を伸ばすのが、正しい成長である。それが「角熟」で、そうなれば欠点が人間味となる。人は角張っていてよい。角が柔らかであればよいのだ。

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図1 人の成長

曼陀羅

 「成佛」の姿である大日如来は、曼荼羅の中心に位置して、回りの菩薩がそれを取り囲んでいる。曼荼羅とは、サンスクリット語のnandalaの音写した言葉で、本来の意味は「本質、中心、真髄などを持つもの」を表し、佛教では佛の悟りとその世界を意味する。特に密教においては、聖域、佛の悟りの境地、世界観などを佛像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表した図をいう。

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 図2 東寺講堂 立体曼陀羅配置図

 東寺弘法市HPより  http://www.touji-ennichi.com/info/koudo_j1.htm

菩薩

 菩薩とは成佛を目指す修行中の佛である。曼陀羅の世界には、天や邪鬼、阿修羅、菩薩が存在し、多くの佛が大日如来を支えている世界が現実の世界の象徴として存在する。すべて佛の姿の現れである。人の内なる心には、慈佛の心もあれば鬼の心もある。両方を兼ね備えて人である。片方だけの人はありえない。曼荼羅には、微笑みの金剛波羅密多菩薩と憤怒の不動明王が左右に配置されている。口を開いて一喝している増長天があれば、口を閉ざして睨んでいる広目天が陰陽の対で存在する。この世は全てプラスがあればマイナスがある。良いことばかりの世界など存在しない。地獄があってこそ極楽がある。地獄から極楽に向かう修行が菩薩行である。

 

立体曼荼羅

 人の心を表した姿として佛像がある。弘法大師が京都の東寺講堂に、立体曼荼羅として人の心の世界が佛像を介して再現された。高野山の根本大塔の内部にも同じ立体曼荼羅が極彩色で再現されている。己は曼荼羅の世界で、何処に位置するのか、それが問われている。内部は撮影禁止なので、ご自身の目でご覧になることをお勧めします。または図録か画像検索で参照してください。

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図3 京都 東寺 講堂4dsc01155 図4 高野山 根本大塔 

2017-11-22

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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