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2017年11月 5日 (日)

増長天が見下ろす我が臨死体験

 1999年(49歳)の時、ある研修で臨死体験の実習をさせられた。その時の己の情況を、18年の時間を経て眺めると、己が増長天になって天上から見る思いである。死の床にある己を上から見下ろす。視点を変えて見なければ観えない世界がある。一つ上の界から己を見ると、なんと己が愚かであるかが見えてくる。

  

感動と理動

 臨死体験の実習は理不尽に設定された。本来、不慮の事故とはいつも理不尽である。緊急事態が起きたとの想定で、それから逃れるため己だけを助けるアピールスピーチを強要された。結果として、私のスピーチは無視され、信頼していた唯一のパートナーからも裏切られ、講師から罵倒、酷評され、散々の目にあった臨死体験実習であった。理不尽な状況で、理性で戦おうとした己の愚かさが、今になって増長天の立場で見ると良く分かる。

 理性的に考える能力とは、なんと空しい力であるかを悟った体験でもあった。理性的に考える能力とは、理性的にしか考えられない偏った能力である。死の直前の場では、理性的な言い訳など何の意味も無い。なにせ理不尽な設定での臨死体験である。己を助けるために許された1分間のスピーチの訴え(ある意味の命乞い)は、理性的であるほど空虚であった。人は死に臨んでは、理性など無意味である。人は理性では動かない。「感動」はあっても、「理動」はない。人を動かすのは感情である。不合理でも相手の好悪で心は動いてしまう。そう思うとき、理性で見ていた世の雑事が空しく感じられる。

 命乞いをして認められれば、自分の命の代わりに仲間の一人の命が消える。人を死に追いやってまでして生き延びたいのか。たかが模擬の臨死体験実習で、何を一人でもがいているのか。人の生死は佛様の管轄範囲であり、人の管轄範囲は健康管理、人事管理までである。おこがましい越権行為の臨死体験に、何でそんなに落ち込んだかと、今にして己の愚かさを感じる。

 

佛動

 人は理では動かない。また感動をしても、多少は心を動かされても、それで生死を分ける決断の行動になるとは限らない。その時、己を動かすのは己れの奥から聞こえる佛の聲ではないか。感動ではない、理屈でもない、しかし動かざるを得ない何者かの聲が己を動かして、前に進ませる。その聲に素直に従うのが天命ではないか。

 

天命を知る

 50歳は天命を知るべき歳である。人は必ず死ぬことを知るなら、じたばたするのは見苦しい。死に接して、じたばたしたのは、人生に覚悟ができていなかったのだ。当時から18年間も経ち、多少は成長した今の時点で、増長天として当時を振り返っている。佛様は何のために己に命を授けてくれたのか。その命を永らえるために、何をすべきか。理性を前提に生きてきた己の生き様を見つめ直す機会となった。

 臨死体験をしてから人生観と死生観が少し変わったが、その後の修羅場の宮仕え期間を経て、人生観が少し風化しかかっていた。それが定年後に出あったご縁の数々で、人生観・死生観が進歩したのを感じる。

 いつ死んでも、後悔のない人生を歩みたい。一日一生、一日は一生の凝縮なのだ。そう思ってから、物事の決断に先送りはしないようになった。即決することが多くなった。間違った決断でも、気づいたら後で修正すればよいと居直ることにした。右か左か、どうせ多少の道草があるかもしれないが、行き着く先は同じである。そう思うと、気が楽になる。与えられたご縁を活かす方が、より大事であると思うようになった。

 

真の己の姿

 「真」とは人が逆さまになっている象形である。一説には、戦いで首を切り取った胴体の象形で、首のない敵の胴体を並べて数えることから、「真」の文字が使われたという。事件・病気・トラブル・研修・試験という佛光に照らされて、己の真の姿が闇夜に浮き上がる。目を覆って見たくない、己の影に真の姿が露見する。それを天界から増長天が見つめている。己を第三者の目で見よ、見たくないものを見よ、触れたくないものにも触れよと増長天の目は云っている。そうなった原因は、全て己であると。たとえ天は知らなくとも、己の内なる鬼は知っている。魂の叫びに耳を塞いできた咎が事件である。

 

 図1 増長天が見下ろす我が臨死体験

    松本明慶大佛師作 高野山納佛 

    馬場恵峰書

 図2 論語 馬場恵峰書

Photo

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2017-11-05

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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