c-馬場恵峰師の書・言葉 Feed

2020年11月26日 (木)

私の貧乏神信仰  私はこれで貧乏になった

 

 私の貧乏神とは、馬場恵峰先生の書の出版物(出版佛)である。今まで恵峰先生の書の写真集を5冊ほど出版しているが、全て大赤字である。

 製本して出版しても発行部数は精々200冊である。通常は50冊から100冊である。200冊売れても、仮に利益一冊500円としても10万円にしかならない。それも大半が贈呈品で、あとは売れ残りである。そのために、大垣から長崎までの交通費、宿泊費、撮影人工、助手へのお礼、編集工数、撮影機材の購入費、機材の減価償却費を正規に入れると大赤字である。

 オフセット印刷にすれば、大幅に売価が安くなるが、印刷の製版を作るのに、数百万円もかかる。10万部でも作ればよいが、部数200冊では採算が合うはずがない。だからオンデマンド印刷で製本するが、そのかわり単価が高い。

 それでも馬場恵峰師の書の出版を止めないのは、金儲けが目的ではないからだ。私は馬場恵峰師の書の偉業を後世に残すために出版している。書を出版物にすれば、国会図書館に保管され、記録として後世に残る。これは文化活動である。文化活動には金がかかるのだ。

 私は書の本を出版することで貧乏になったが、心は豊かになった。

 

日本の文化活動の悲惨さ

 日本政府の文化活動への資金投入は先進国中で最低である。大垣市はさらに酷い状況だ。小川敏はバカ騒ぎの行事には金を出すが、文化芸術活動にはビタ一文も出す気はない。小川敏はバカ騒ぎの市制100周年記念行事に3億5千万円も散財したが、経済的にも文化的にも金をドブに捨てることになった。結果、翌年の大垣市の公示地価は更に下落である。小川敏が市長に就任して19年間、連続の下落である。

 それに対して、大垣の未来を背負う子供たちを120人も招待した「世界で一流の音楽を楽しむ会」の催しに、小川敏はビタ一文も支援しない。本来、この音楽会は市制100周年記念行事の一つにすべきだったが、それも小川敏に無視された。私も寄付集めの協力をしようと大垣財界に寄付のお願いに回ったが、門前払いである。なんでサルの共食いのような「ギネス水饅頭共食い」行事が市制100周年記念行事なのだ。それが文化都市のやることか! 「ギネス水饅頭共食い」行事は、全国の笑いものになったのだ。

 それに対して子供たちを120人も招待した「世界で一流の音楽を楽しむ会」が100周年記念行事でないのだ。大垣市は狂っている。だから大垣は文化芸術の面でも没落した。大垣を没落させた犯人は小川敏である。

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「ギネス水饅頭共食い」の狂宴  2018年6月3日

 たった一つの水饅頭を食べさせあって、ギネス記録にするために、炎天下で約3時間も拘束された約3000人の市民たち。この記録は、サルにもとれる記録である。それが文化都市のやることか!

 

ルネッサンスの花

 昔から芸術家は極貧の中で暮らしていた。シューベルトもモーツアルトも極貧の内に死んだ。モーツアルトの遺体は、棺さえ用意されず、遺体は使い回しの遺体袋に入れられ、直接墓穴に放り込まれた。

 ルネッサンスで芸術の花が開いたのは、メジチ家というパトロンが芸術家を支援したために、芸術家が思う存分に活動できた。アメリカで芸術が盛んなのは、富豪が芸術に寄付をしているためだ。経済大国と言われながら、日本の金持ちや高学歴の政治家は、金儲けには如才ないが、文化芸術には目も向けない。それが日本の芸術の発展を阻害している。だから日本はエコノミックアニマルと軽蔑されたのだ。

 

貧乏神信仰

 貧しい染物屋の夫婦が、いくら努力をしても貧乏から抜け出せないので、ふと思いついて、ほかの人たちが嫌がっている貧乏神を大切に祭ったところ、貧乏神がひどく感激して、「おまえたちの貧乏の原因になっているものを、贅沢にふけっている金持ちの二代目に渡してきてやる」と夢で約束して、そのあと貧乏な染物屋夫婦は大金持ちになった。

 以上、井原西鶴の代表作『日本永代蔵』のストーリ

 このストーリのすばらしいところは、貧乏に苦しむ夫婦が貧乏神を大切に祭ったことである。新しいビジネスを立ち上げたのはよいが、不運の連続に見舞われたとき、不運を嫌ったり、呪うのではなく、自分を鍛えてくれる不運に感謝する心構えを持つことが大切であると、西鶴は私たちに語りかけているのではないだろうか。

 松下信武著 PRESIDETN 2002.5.13号より

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  馬場恵峰書

 

2020-11-26 久志能幾研究所通信 1838  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

最重要フォロー項目を「見える化」する  磨墨知46

 

 現在抱えている課題項目を、寝ても覚めても「見るように」せよ。問題になっていれば、それが解決するまで、その異常表示を見える所に置く。

自分の課題を忘れると、後で「火事」が起き、それの「火消」で苦労する。時間節約の為、「見える化」でそれを防げ。

 

私の見える化

 その防止手段として、手帳の日程欄に黄付箋を貼る、カレンダーに朱記する、月度日程表や年度計画表の課題欄に記載する、の方法がある。

 自分が高血圧なら、毎日、血圧を測りグラフ化せよ。高血圧の遠因が肥満なら、朝晩に体重計に乗り記録に付けろ。寝ても覚めてもその原因を探せ。高血圧は万病の元で、命を失う前兆なのだ。私はそれで高血圧を治した。

 自分が癌になったら、寝ても覚めてもガンになった原因を探し、その根本治療対策を考えよ。対処療法ではダメである。私はそうやって、再発防止をしている。

 

トヨタのアンドン

 トヨタの生産ラインでは、そのベルトコンベヤーの上に2mほどの大きな電灯看板が設置されている。ラインで問題が起きると、作業員がラインを止める。不良品を後工程に流さないためだ。それでそのラインの工程部は赤くランプが点灯して表示される。工場内の遠くからでもよく見える。問題が解決され、ラインが正常の動き始めるまで、その赤の表示が点灯しっぱなしになる。それをアンドンと言う。

 アンドンは流れ作業のような異常を他者に知らせにくい生産ラインにおいて、異常を他者に伝えることを目的としている。不具合の後工程流出を防ぎ、生産ラインが抱える問題の顕在化(見える化)のためにある。

 

 欧米では、製造ラインで不良を見付けてもそのまま流し、検査工程で不良品を見つけ、後からまとめてそれを直すシステムである。

 

自工程完結主義

 検査工程とは、付加価値を生まない無駄な工程である。トヨタでは製造途中で不良が見つかったら、作業員がラインを止めて、その原因を取り除いてから、ラインを稼働させる。検査工程とは、何ら付加価値を生まない工程である。トヨタは後工程に不良品を流さない。自工程完結主義である。トヨタの工程は合理的である。

 

人生工場の生産

 自分の付加価値を生産する人生工場では、後からのやり直しができない。しかし出直しはできる。自分の生き様のミスは自分では気が付かない。自分の生きざまでミスを見付けたら、早い時期に軌道修正をして、出直すべきである。それを指摘してくれる人こそ師である。師には男女の差も幼老も関係ない。道元禅師は、それを教えてくれるなら「7歳の女流なりといえどもでも四衆の導師なり」と『修証義』で述べている。我以外皆師である。

 人生工場の最終工程は「死」である。人間として立派に死ねるように、日頃の行動を考えよう。それが人間と犬猫とを分けものだ。認知症になってしまっては、犬猫になってしまう。そうならないような精進こそ、生きる証である。

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  馬場恵峰書

 

2020-11-26 久志能幾研究所通信 1837  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月25日 (水)

心の換気、大垣の換気をしよう

 

仏様からのメッセージ

 昨日、祖母の47回忌の法要を執り行った。その帰路、電車内の吊り広告で「心の換気をしよう」というキャッチコピーに、目を取られた。この言葉を仏様からの励ましのメッセージとして受け取った。何事も「気」が大事なのだ。自分を良くするため、「心の換気をしよう」。大垣を良くするため、大垣の空気を換気しよう。

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 JRの吊り広告  2020年11月24日

 

市型コロリ菌

 吝嗇な市長が19年間も居座ると、行政の空気は澱み、市は寂れ、市型コロリ菌に侵され、没落する。心を入れ替え、市長を入れ替えないと、市は再起不能となる。長期政権で、いまだかって腐敗しなかった例はない。まず市の職員と出入りの業者が忖度ばかりとなる。

 

気の問題

 日本の景気が悪いというが、政府の役人に本気で景気を良くする気がないのだ。役人は、景気の動向に関係なく、給与がもらえるので、本気にならないのだ。だから財務省は自分達の天下り先への忖度で、やってはならない増税をした。まともな神経なら、この不景気の折、増税などしない。これで完全に景気回復の腰が折られた。新型コロナ禍でとどめを刺された。

 米国のトランプ大統領は減税をして、米国の景気を良くした。日本と大違いである。

 

元気の元

 病気になるのも、本気で元気になる覚悟がないからだ。元気な人は、自分からダイナモを回して、自分でエネルギーを作り、元気を作りだしている。

 私もガンになり、そのままでは落ち込む一方なので、自分で用を作り、走り回って元気になるようにしている。今年中に5冊の本を作る予定である。それが実際には実現でき出来なくてもよい。それに向かって挑戦することが大事なのだ。

 

不元気な姿勢

 現在、大垣市は病気である。市長の小川敏に大垣を本気で良くする気がないのだ。だから新型コロナ禍への市民への援助も、小川敏は、海津市の10分の1しか出さず、非常識に吝嗇なのだ。それでいて自分達だけは給与を日本の市町村の中でも高レベルにしている。しかし、大垣の景気を良くし、大垣市民の所得を上げる政策は取らないのだ。小川敏は、子供達の教育費も、児童生徒一人当たりの教育費を県下最低としてしまった。その資金を自分達の給与に振り向けてしまった。役人達の職場の新市庁舎は県下一豪華だが、商店街で働く市民の職場である大垣駅前商店街は寂れる一方である。それで大垣市民に元気になれと言っても、無理である。

 

不機嫌な顔

 市の顔は市長である。その市長の小川敏が不機嫌な顔で居座っているから、大垣市は不機嫌になり没落した。小川敏が本気で大垣市をよくする気がないのだ。大垣市の公示地価が、小川敏が市長に就任して19年間、連続の下落である。こんな情けない都市はない。市場の評価は、神の如くである(松下幸之助翁の言葉)。公示地価は、市長の通信簿である。小川敏は市長落第である。

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    馬場恵峰書

 

2020-11-25 久志能幾研究所通信 1836  小田泰仙

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2020年11月24日 (火)

計画に10%の時間をあてる  磨墨知45

 

 理系の自分は、「現場(製造ライン)の改善には、実験・試験を行って実証する。その場合の計画は、実験の命を左右する」と考えている。無駄な実験をやらず、2度手間、追加のテストを避けよう。それが時間節約で、良き成果が生まれる。そのために計画に時間をかけよう。それは人生と同じだ。自分の人生をぶっつけ本番でやってはいけない。行事の計画を立て、その事前シミュレーションをしよう。

 そのテスト・行動で、何を得ようとするのか?

 どうすれば本番で一番効率よく実行可能なのか?

 

人生の出来事は全て実験

 日々の行動は、人生目的達成の為の事前実験である。その行動をする前に、計画を見直して行動しよう。事前に小さな選択間違いを発見して、その実験(生き方)を見直そう。そのやるべきことの優先順位を決め、効率を求めよう。日々の小さな行動の積み重ねが、人生だ。その小さな結果の差の積み重ねが、出鱈目の人生を送る輩と大きな差を生む。

 

人に会うのも実験

 人と会うとは、相手と己の時間(命)を使って行う大実験である。自分の生き方を実験しているのだ。その「実験」で、何の知見を得るのか、考えて訪問を受け入れよう。

 老いた師と話すにしても、何を師から教えられたいのか、計画を立てて教えてもらおう。老いた師とも、何時かは別れがくる。後から後悔しないように、面談内容を計画しよう。

 部下に話すにしても、部下がどういう風に成長すべきかを計画を立て、話す順序を考えるべきだ。

 友と話すにしても、何を伝えたいか、何を分かってもらいたいかを考えて、話す順序を計画しよう。

 子供と話すにしても、相手の成長レベルを考えて、話をしていく順序を考えよう。

 

面談時間は命の燃焼。二度と来ない時間。

 その時間をその人と会うことに使ってしまうと、此の世ではもう会えないもう一人が生まれる。その時間に存在する自分も、二度と会えない時間を過ごす自分なのだ。次に会う時は、何方かがもっと成長していて、もう会ってもらえないかもしれない。また新型コロナに罹り死ぬかもしれない。だから時間は命なのだ。祈りを込めて命を使うべきだ。そういう覚悟をして人と会うべきだ。

 人と会うとは、自分と相手の命を使っての闘いである。人生で使える時間は有限である。ましてや還暦を過ぎた人、古希を超えた人との会話なら、貴重な時間である。今日が最後の面談かもしれない。だから、人と会う時に、全力で相手と向き合わないと、相手に失礼である。だからこそ、どういう計画で、今回はどういう話をするか、会う前にその計画を立てないと、命の会話が死んでしまう。

 

命の燃え尽き

 還暦を過ぎれば、残された時間は少ない。何時お迎えが来ても不思議ではない。サムソンの総帥李健煕も実質72歳で逝った。突然の急性心筋梗塞である。何も準備できなかったようだ。大垣共立銀行の土屋嶢会長も新型コロナに罹り、突然に74歳で逝った。アップルのジョブズは56歳で逝った。

 おカネがあっても長生きできるわけではない。彼らは世界最高の医療を受けても、簡単に死んでいる。その事例を立て続けに見せつけられた。自分の歳を考えると人ごとではない。人生の大原則は、人はいつか、必ず死ぬのだ。

 私が前職で一緒に仕事をした仲間の多くが定年前に死んだ。還暦後2,3年で死んだ仲間も多い。その数は24人にも上る。ビジネス戦争の犠牲者である。今なら新型コロナ禍で、仕事を失い、路頭に迷い、自殺するかもしれない。人の命は、明日が分からない。

 だから、その貴重な時間を使った面談中に、「勝手に(かけてきた相手は状況が分からない)」かかってきた携帯電話に、無頓着で出るのは面談相手に無礼である。命に対して無礼である。面談中にスマホで株式欄を見るなど、言語道断である。相手は何も言わないが、相手に閻魔帳には、怖しいコメントが記載されている。今後の付き合いにも影響が出るだろう。私はそれで相手を評価している。

 命の大事さを考え、面談の計画さえあれば、そんなことにはなるまい。

 

人生工場

 人生とは、人間学の壮大な実験工場なのだ。人生の愚行を頻度分析、回帰分析、分散分析、実験計画法で、最適解を求めよう。心理分析で、自分と他人の行動を予見しよう。そうすれば自分は、人よりも優れた人生占い師にもなれる。私はそうしている。私は人生工場の保守管理室長である。

 

天気予報

 行き当たりばったりの人生よりも、事前に、実行する時間の10%を計画に充てれば、正否の予想が出来て、失敗の率も減る。未来は自分で予想して、自分で創ればよいのだ。事前に予想される失敗の元を絶てば、愚かに時間を浪費しなくて済む。相手の心理を読んで行動すれば、良い結果が得られるはずだ。危機管理にもなる。

 偉人の自伝や伝記を読めば、その軌跡が分かる。偉人の失敗を他山の石としよう。

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  馬場恵峰書

 

2020-11-24 久志能幾研究所通信 1835  小田泰仙

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2020年11月21日 (土)

「鬼」の貴方が「神」になるとき

 男でも貴方は「鬼子母」?

 己は煩悩にまみれた108人の子供の親である。欲望、煩悩という我儘な子供達である。己はそれを溺愛している。

 その中に、酒の好きな子がいる。自分の分身である酒好子である。タバコが好きな子がいる。喫煙菌子である。妻以外の女に夢中になる自分と瓜二つである。妾好子である。徘徊放浪が好きな徘徊孤子が、自分を誘惑している。だから家でゆっくりと思索・瞑想などしていられない。

 最悪の鬼とは、子供を溺愛する鬼親である。子供を厳しく育てないと、大人に成長しない。その典型事件が三田佳子や「みのもんた」の子供が犯罪を犯し、更生せず再犯を繰り返したことで証明される。

 己は、その煩悩の子達の一人でもいなくなると気が狂う。禁断症状で半狂乱になる。たかがタバコではないか、酒ではないか。それが我慢できないなのだ。その己を人は「鬼子母」という。

 

「鬼子母神」伝説

 鬼子母は、500人の子を持つ鬼母である。鬼子母は、500人の子を養うため、栄養を付けねばならぬ。鬼子母は、人の子をさらい、その肉を食うのが哀しい性となっていた。人々は鬼子母を鬼女として恐れていた。街角や村から子の遊ぶ姿が消えた。まるで新型コロナ禍と同じである。

 お釈迦様は、鬼子母を救いたいと考え、鬼子母が一番可愛がっている末っ子を密かに連れ去った。鬼子母は、半狂乱になり世界中を7日間駆け抜け回って探したが発見できず、悲しみのあまりやつれはてた。思い余って、釈尊の前に身を投じて救いを求めた。

 釈尊は、冷たく言い放った。「あなたには、500人もの子がいるではないか。一人ぐらいどうでもいいではないか」と。

 鬼子母は、「何人いようと、最愛の子を失った悲しみは何物にも代えがたい」と泣き叫んだ。

 釈尊は静かに諭された。「沢山の子供の中の一人を失っても、それほど悲しいのに、人の親からたった一人しかいない子供を、あんたは奪い、その肉を食ったのだ。あんたのせいで、多くの人が悲しみのどん底に突き落とされた。子供を失った親の悲しみが分かるか?」

 我が悲しみを通して、人の悲しみが分かり、その悲しみの原因を作った自分の罪の深さを思い知った鬼子母は、泣き伏した。

 懺悔の涙に洗われた鬼子母に、釈尊は愛児を返し、人肉と同じ香りや味がするという石榴の実を与えて、子を守る母なる神として生きる道を諭された。

 もし鬼子母に、人の子を喰うという悲しい性がなければ、仏に出会えなかったであろう。もし鬼子母に、我が子を失うという苦しみに導かれなければ、佛に出会うこともなかったであろう。仏に出会えなければ、子供喰いの鬼母で終わるところを、釈尊の慈悲の方便で、鬼子母は悲しみと苦しさを通して佛性に目覚めて、子供の守り神へと変身した。

 法華経において鬼子母神は、法華信仰者の擁護と法華経の弘通を妨げる者を処罰することを誓っていることから、法華信仰者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。

 この項、青山俊董著「もう一人の自分への旅」、wikipedia「鬼子母神」より編集、加筆。

 

鬼の悟り

 私も飽食、甘党、ワークホリックという悪癖がなければ、癌になることもなく、健康に目覚めることもなかった。私もオダ仏教経典「健康読本」?を書くこともなかった。病気になったのは、仏様のお導きである。

 世の中には、酒やタバコを断つのが死ぬほど辛く思う人もいる。「禁煙など簡単だ」と、何度も何度も禁煙、禁酒を誓うだけする人が多くいる。釈尊から見れば、他に多くの楽しみがあるので、一つくらい断っても、問題ないではないかと。それは、自分が病気になり、余命宣告されないと、分からないのだ。その時になって「金はいくらでも出すから助けてくれ」と言っても遅いのだ。

 酒やタバコは、己の肝臓や肺の細胞を食い漁っている鬼子母である。それが己である。己は理性ある人間なのに、その行動は鬼子母となんら変わらない。

 アルコールは食物と違い、肝臓で薬物と同じ工程を踏まないと、分解されない。その分解の時、肝臓の細胞が傷つくが、細胞分裂で再生されて元に戻る。しかし酒量の限度を超えると、肝臓の細胞が細胞分裂の許容回数を超え、再生不能となり死ぬ。それが肝硬変である。

 肺の細胞は、他の組織と違い、再生不能である。煙草で死んだ肺細胞は、二度と再生しない。煙草は己の肺細胞を喰う鬼子母である。

 己は理性ある霊長類として、煩悩を適宜に抑えて生きたいもの。神にならなくてもいいから、人間として精神の成長を遂げたい。神になってしまっては、人ではないので、「人でなし」になってしまう。

 末期ガン宣告された土壇場になって「金はいくらでも出すから助けてくれ」では、鬼が笑う。一刻でも早く「鬼子母」の煩悩から目覚めれば、一刻早く、体の細胞への負荷が減り、一刻の延命となる。

 

「飽食鬼」から神に変身

 私は癌になり、仏様から余命宣告をされた。私は心を入れ替えて「飽食鬼」から「知足富神」(足るを知り、富める神となる)に変身した。鬼が云うと書いて「魂」である。魂が昇華して神になる。それがお陀仏教のご神体?である。人間様から出世した神様だから、酸いも甘いも知る人間味あふれる神様だ。

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 松本明慶大仏師作「鬼子母神」 一木造り  『慈』小学館より

 手に持つのは石榴(ざくろ)の実

 本図は、松本明慶仏像彫刻美術館より転載許可を得ています。

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         馬場恵峰書

2020-11-21 久志能幾研究所通信 1832  小田泰仙

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2020年11月18日 (水)

一生涯を貫く仕事は無限の時間を与えてくれる  磨墨知41

 

 仕事のないほど辛いものはない。仕事は社会とのつながりであり、社会への貢献である。奪うよりも、与えるほうが喜びは大きい。仕事とは人生そのものである。

 馬場恵峰師は12代続く窯元を43歳で廃業し、それから書家として50年間、仕事を続けておられる。94歳の現在も現役である。

 

長生き

 長命の師を持つことは、時間の大事さを実感する。長生きこそ,天才でない凡人がやれる最大の時間創造である。そのために健康管理である。健康管理こそ、時間創造である。私はオダ仏教教経典「健康読本」の作成の為、データ集めに余念がない。

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  馬場恵峰書

 

2020-11-18 久志能幾研究所通信 1828  小田泰仙

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2020年11月17日 (火)

老いの器

 

 老いとは、仏様ご先祖様から歳を頂くこと。還暦という歳を頂けずに、鬼門に入る人も数多い。老いとは、経験を積むことを意味する。その経験という智慧を己の器に入れるのである。痛い思いをして得た経験を智慧のレベルに昇華しないと、同じ過ちを死ぬまで繰り返す。それは歳の取りがいのない醜態である。

 

 老いとは、練れる道を歩くこと。流行に惑わされない思想を深めること。中国・ローマの歴史を紐解くと、2000年前の先人と現代人の行動に差などはない。人は人間的に少しも進歩していない現実に愕然とする。人は生まれれば、オールリセットされる。それ故、ゼロから学んで自己鍛錬をして成長するしかない。その学びを放棄して、年よりがいのない人が多い。TVや流行に流され、練れない日々を送り、認知症への道に迷い込む人が多い。

 

 老いの智慧とは、敏鈍の使い分けができること。我儘も言え、都合が悪くなったら惚けの振りをすること。息子が「グレてやる」とほざいたら、「それなら俺は惚けてやる」と逆に脅す智慧を身につけること。これは青二才では言えない台詞。

 

 正しい老いとは、考え方が充実していく過程である。自己の人生を振り返り、これでいいのかと自他に刃を向けて問う生き方である。それが「心」「刃」を向ける「忍」という文字である。そこから「認」という文字ができた。己の愚かさをしみじみと認められる歳になるのが老いである。

 現代社会は、人にばかり刃を向けて、己には刃を向けない人があまりに多すぎる。年よりがいがない。それを「年寄り害」という。今の野党がそれに値する。

 

 醜態な老いとは、自分に刃を向けず、非難ばかりの言動をすること。理想論で実際に政治を動かしたら、選挙公約が青二才の言動であったことが露呈したのは民主党政権であった。自民党を非難すると、すぐブラーメンで自分の身に降りかかるばかりである。

 反対ばかりで、日本を貶めることしかしなかった社会党は、行き詰まって、名前を社民党に変えたが、結局先の総会で、議員一人となって消滅した。おたかさんは北朝鮮の拉致問題を知っていても、知らんふりをした。その罰があったたのだ。

自衛隊反対と言っていた富市氏は、首相になったら、方針を豹変させた。

 

 けじめの老いとは、引き際を知ることである。人望もなく、行政手腕もなく、ただ市長の座に居座るだけの大垣市長では、大垣が没落して当然である。今だかって老いなかった人はいない。生老病死を悟り、後進に託して身を引いてこそ、美学である。大垣を没落させた小川敏は醜態である。

 

 老いとは、若き人を叱る人徳の力の獲得である。己が若造で同じ言葉で、若い人を叱っても反感を持たれるだけ。しかしそれ相応の歳を頂くと、若い人を叱っても反感を買われることが少なくなったことを実感する。若き人を叱るのは年長者の務めである。それは己の経験を若い人に伝えること。

 

 人は必ず老いる。老いて人生を振り返ったとき、素晴らしい人生ではなかったが、素晴らしく楽しむ活き方であったと思えるようにしたい。

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2020-11-17 久志能幾研究所通信 1827  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月12日 (木)

河村義子先生の本気と覚悟

 

 私は2019年2月に、癌の手術をして余命宣告を受けた。それから生きる姿勢が少し変わった。

 2018年12月に亡くなられた河村義子先生は、死の5年前にその余命を悟られたようだ。義子先生は、死を明らかにして、諦めて本気で人生最後の5年間を生きた。私はその最後の5年間にご縁があったことに、感謝である。義子先生から、人生のフィナーレの生き方を学んだ。

 

死の示唆

 私が先生にピアノレッスンで師事して暫らくして、先生はドイツへ1か月間の演奏旅行に出かけられた。ドイツから帰国されて言われた言葉が、「人生でやりたいことはやり切ったので、いつ死んでもいい」である。私は何と大げさな、と思ったものだ。

 義子先生は、1か月間も音信不通で(先生は、LINEかFacebookをやって連絡をしていたようだが、私はやらないので情報がなかった)、私はやきもきしていた。帰国日時も分からない状態であった。後日、シュッツガトゾリスデンとの演奏風景や、皆と城の見学時の楽しそうな写真を見て、それを納得した。

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13131104_828857910553235_3649426451  シュッツガトゾリスデンのHPより

 いつものレッスン中の会話で、河村義子先生は演奏会パンフレットに載せる写真にもさりげなく言及して、「この写真は気に入っているので、お葬式にも使うの」というので呆れた思い出がある。その写真は名古屋の写真館で撮ったようだ。当時から覚悟をして、葬儀用の写真を準備されていたようだ。実際にその写真が遺影となった。当時の私は、そこまで気が回らない。

 先生の葬儀後、私は胸騒ぎがして検診を受けたら、癌が見つかり、ステージがかなり進んでいたこともあり、終活の準備を始めた。手術前に、葬儀用の写真を写真館で撮って準備をして、それを仏壇の前の置いておいて、愛知県がんセンターに入院した。それも私の病室は、河村義子先生が入院した病室と、東棟と西棟と病棟は違うが同じフロアーがつながる9階である。これも河村先生の見えざる教えであろう。

 

つなげたい

 音楽活動で奔走する先生に「なぜそんなに頑張るの?」と聞くと、「つなげたいから」がその答えであった。河村先生は頑張られたが、その逝去後、それを受け継ぐ弟子達に、河村義子先生の本気を受け継ぐ人は、見当たらないようだ。河村先生が生み育てた「カスミの会」が衰退していくのを目の当たりにするのは悲しい。

 

今、すなわち臨終

 人の明日は分からない。今日元気であっても、明日地震で死ぬかもしれない。東日本大震災、阪神淡路大震災のように。明日、テロに遭遇するかも知れない。ニューヨーク貿易センタービルの同時多発テロのように。いつ何時、レバノン大爆発の巻き添えにあうかもしれない。いつ何時、ガンで余命宣告をされるかもしれぬ。癌ならまだ時間余裕があり幸せである。心筋梗塞、脳梗塞、交通事故に遭えば、即死状態である。その数は年間20万人余である。

 

 「今、すなわち臨終」との一遍上人の言葉が、心に重くのしかかる。今を必死に生きない人に明日は無い。それは生きているのではなく、生き長らえていることで、ただ息をしているだけの人生ではないのか。

 

本気

 私の好きな詩に「本気」がある。本気で物事に取り組んでいれば、道半ばで斃れても、本望である。それは名誉の戦死である。本気でないから、死に臨んで悔いが出る。

 

 本気ですれば大抵のことはできる。

 本気でしていると何事も面白い。

 本気でやっていると誰かが助けてくれる。

 人を幸福にするために、本気で働いている者は、みな幸せである。

                       作者不明

 

 

死に方の選択

 死とは、人生の中で最初で最後の最大のプロジェクトである。自分の死を悔いのないプロジェクトとして完成させたい。

 私は、自分の臨終を考えて、理想の死にかたを追求している。それが美味しいモノに誘惑されて飽食し、病気になり、心筋梗塞やガンで死ぬことは避けたい。美味しいモノには毒がある。その毒物がこれほど溢れている時代は人類史上、初めてである。毒と分かっていても、つい手を出してしまう。その誘惑を排除して、心と体の健やかさ(健康)を保って、天寿を全うしたい。

 病気や不慮の事故等で死ぬのは、危機管理がされてないのだ。天命・天寿を全うするため、死というプロジェクトに本気で取り組みたい。それこそ本当の終活である。財産や品物の整理や身辺整理は、些細なこと。そんなことは、後の人がやってくれる。後は野となれ山となれでよい。

 それより何のために生きて、何のためなら死ねるのかを、明らかにすれば死は諦められる。諦めるとは、死を明らかにすること。

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 馬場恵峰書

 

2020-11-12 久志能幾研究所通信 1822  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月10日 (火)

「死にたい」悟段活用

死にたい、死に体、死に戴、死に諦、師にタイ

 

死にたい

 悲しい時は悲しむがよい。思いっ切り悲しむのがよい。悲しみという苦痛が自分を育ててくれる。ルンルン気分だけで過ごした人間より、はるかに深みのある人間に育ててくれる。

 挑戦をしない人間は、死にたいという境遇にはならない。大きな挑戦をするから、失敗、挫折をして死にたい気持ちになるのだ。しかしその挫折は、飛躍のために、思考を深め、下に根を伸ばしてエネルギーを蓄積の時なのだ。

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    馬場恵峰書

死に体

 人生に悩みもなく、ボケーと暮らせば、生きていても「死に体」である。息はしていても、生き永らえているだけだ。定年後、やることもなく、無為に過ごせば、死に体である。

 「起きたけど 寝るまで とくに用もなし」

 「あれソレで 一日過ごし 吾忘れ」

 それではそのまま認知症への道をまっしぐら。65歳以上の日本人は、15%が認知症。75歳以上だと25%が認知症。

039a33931s   馬場恵峰書

 

死に戴

 人生では、最期に神仏から死を戴くのだ。その死にざまで、生きざまが分かる。立派な死を戴くように、日々精進すべきなのだ。よく働いた一日が安らかな眠りを誘うように、よく働いた人生は、安らかな死を戴く。世の中に貢献もせず、中途半端な生き方をするから、野垂れ死にするのだ。

 

死に諦

 生あるものは、必ず生老病死苦である。死を諦め、死を明らかにしたとき、新しい人生が生まれる。

 「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なく、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃としてねごうべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり」修証義

 死を意識するから、人間なのだ。涅槃を意識するのだ。犬猫では死など考えない。死を意識するから、人生は限りある時間と悟り、命を燃やして生きるのだ。

 

師にタイ

 人間なら、志を立てたら、人生では師を持ち、その師を超えることを目標にすべきだ。師を超えられなくても、せめてタイの成績に持ち込みたい。

 「師にタイ」は「しにたい」活用の最高段である。師を超えるのが、師への最大の恩返しである。

 師を持たない人生とは、さ迷える孤舟の航海である。エンジンのなく、北極星も知らず、海を漂うだけの人生である。船が港を出て、湾内の周りを長い間漂っても、それで長い航海をしたと自慢はできない。単に歳を取って白髪が増えただけである。それは、長年会社と自宅を往復して、大過無くサラリーマン生活を送っただけの人生だ。

 だからこそ

「三年かけて師をさがせ。良き師に恵まれてこそ自己の人生に花は咲く」

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P18_039a01822s馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集 「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より

2020-11-10 久志能幾研究所通信 1820  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月 9日 (月)

「トヨタの片づけ」で人生を片づけ隊

 

 トヨタは5Sで世界一になった。5Sとは整理・整頓・清潔・清掃・躾である。

トヨタの片づけ格言

◆きれいにするのがゴールではない

 最終目的は、仕事の効率化、利益確保、人の育成、理念の達成である。

 見た目がきれいに整頓されていても、整理されていないと使えない。

 整理とは、何時でも使える状態に管理すること。

◆人を責めるな、仕組みを責めろ

 片付かなくなってしまった仕組みを改めよ。

 片付かないと、自身が損の痛みを直接感じる仕組みを作れ。

◆ムダという宝を探せ

 無駄の中に、改善のネタが埋まっている。

 それを一つ一つ改善すれば、業界でトップになれる。

 小さな改善の積み重ねでトヨタは世界一になった。

◆捨てるのが「もったいない」「いつか使う」は諸悪の根源

 「いつか」という時間には、高いコストがかかっている。

 期限の無い、「いつか使う」は、無駄の最たるもの。

◆ものを持つことはコストになる

 モノを持てば、減価償却が発生する。

 モノには場所も税金も人工もかかる。

◆指導者は桃太郎たれ

 部下をキビ団子という報酬を掲げ、結束して力を合わせよう

 

人生の片づけ

 これを自分の「人生の片づけ」に当てはめて、人生をオダブツ教の6Sで人生を乗り切るべし。

 6Sとは、整理・整頓・清潔・清掃・躾・創造である。創造(智慧)こそ時間創造の基本である。整理・整頓・清潔・清掃・躾・創造があれば、人生を歩むスピードが上がる。

 知識ばかりあっても、整理されてないと情報のゴミとなり、使えない。情報を智慧のレベルに上げよ。

 

目的地

 綺麗ごとの人生では、人生の最終目的に到達できない。泥だらけ、傷だらけの人生であっても、人生の目的を全うすればよい。遅くてもよい、着実に早く決断をすること。即決でなくてよい、早い時期に決める。歩む速度が遅くても、早く決めれば、敵よりも早く目的地に着く。敵とは優柔不断なもう一人の己である。何処へ行くかを早く決めるべし。

 いくら頑張っても、あと50年は生きられない。自分の人生をどう片づけるのか。癌になってもその片づけはできるが、認知症になってしまえば、片づけが出来ない。

 

システム構成

 こんな私に誰がしたと嘆かないで、自分の人生は自分で片づけるべし。

 人生のお荷物はAI付きブルドーザーを使って片づけよう。

 

無駄こそお宝

 人生で無駄なことは一つもない。病気も不遇も事故も全て自分の成長にために必要な事象である。人生が総て思い通りに行けば、鼻持ちならぬ人間になってしまう。

 病気をするから体の限度が分かり、体を大事にする。人の痛みが分かる。

 会社での冷遇も、自分の至らなさを教えてくれる仕組みである。仏様が頑張れと言っている。

 小さな事故が自分の危機管理の至らなさを思い知らせてくれる。それは仏様からの啓示である。そのまま突っ走れば、大事故に遭い死亡である。

 先日も、事故寸前となる事象に遭遇したので、仏様からの啓示と思い、ドライブレコーダーを前後2カメラ方式にすることにした。危機管理である。

 体で体験しないと智慧にならない。それが格物致知である。

 

「いつか」などは永遠に来ない

 今しかない。今使わないものは、永遠に使わない。捨てるべし。

 必要な時に、必要なものを買えばよい。

 モノを溜めるのが習性であった母は、日用品を大量に保存していた。昔の人は皆同じである。私は母の死後、その処分のため時間とお金を使った。今はモノを処分するのにお金がかかる。保管場所も土地代という金がかかる。

 

所有コスト

 モノを持てば、減価償却費がかかる。友人、知人を多く持っても同じだ。何時かはそれらが陳腐化する。知人友人が自分と同じように成長してくれればよいが、波長が合わなくなると別れがくる。

 教育も知恵も経験も維持しないと減価する。現代は知識も陳腐化の速度が速い。そのための訓練、練習の保持活動が必要だ。それにはお金がかかる。自分はどんな能力を持つのか。費用を考えてその能力を持とう。

 変な宗教思想を持てば、お布施という金ばかりを教団に貢ぐことになる。正しい思想を持とう。思想には所有コストがかかる。正しい思想は一つあれば十分だ。正しい宗教には、お金はあまりかからない。

 人生のお荷物は早く下ろせ。

 

モノを持つとは

 そのモノを持って、自分の人生を助けてくける存在のモノを持つべきだ。そのものと心中する気で、棺桶まで持って行く覚悟がなければ手に入れないことだ。

 モノを買うとは自分を買うことだ。安いものを買えば、自分の人生を安物扱いすることになる。大事な人生が、ぞんざいに扱われてしまう。すぐゴミ箱行きとなる。モノを多く持てば、自分の持つ資源がぼやけてしまう。自分の資源を整理整頓清潔清掃にして、世の中で活用しよう。

 

自分というお荷物

 自分が、認知症になり、粗大ゴミ同然になればその片づけコストが大変だ。人様に迷惑をかける。今後、日本は老人大国となり、その社会的負担が増加する。

 自分が、そんな存在になるなら、沖縄のきれいな海にドボンした方が、世の為かもしれない。だからこそ人間として、存在付加価値のある人物になるべきだ。人として世の中に貢献してこそ、生きている価値がある。そうすれば仏様と社会が生かしておいてくれる。自分は生きているのではない、生かされているのだ。仏様が世の中で不要と判断すれば、死が訪れる。世の中で不用品にないように学び続けなければならぬ。

 

人は学ばないと、人間ではなくなる。

学ばないと宿命的存在、つまり動物的、機械的存在に成り下がる。

学ぶことで運命的存在、つまり人間的存在になる。

よく学問修行をすると、自分で自分の運命を創っていくことができる。

              安岡正篤

 

鬼退治

 人生の片づけとは、自分の内に存在する「鬼」を退治すること。後ろ向き、劣等感、僻み、等の自分をディスカウントする負の潜在意識が「鬼」である。外の敵は容易に退治できる。しかし内なる鬼は強敵である。それを退治しないと、人生は片づかない。鬼を退治して、人生目標を目指して、菩薩になろう。菩薩とは佛になるために修行をしている。それが生きる意味だ。私は毎日、馬場恵峰師の書を見て自分の人生を確認している。

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    「魂(オニ)」は松本明慶大仏師作、「不動心」は馬場恵峰書

P10400341s  馬場恵峰書

2020-11-09 久志能幾研究所通信 1818  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。