「死にたい」悟段活用
死にたい、死に体、死に戴、死に諦、師にタイ
死にたい
悲しい時は悲しむがよい。思いっ切り悲しむのがよい。悲しみという苦痛が自分を育ててくれる。ルンルン気分だけで過ごした人間より、はるかに深みのある人間に育ててくれる。
挑戦をしない人間は、死にたいという境遇にはならない。大きな挑戦をするから、失敗、挫折をして死にたい気持ちになるのだ。しかしその挫折は、飛躍のために、思考を深め、下に根を伸ばしてエネルギーを蓄積の時なのだ。
馬場恵峰書
死に体
人生に悩みもなく、ボケーと暮らせば、生きていても「死に体」である。息はしていても、生き永らえているだけだ。定年後、やることもなく、無為に過ごせば、死に体である。
「起きたけど 寝るまで とくに用もなし」
「あれソレで 一日過ごし 吾忘れ」
それではそのまま認知症への道をまっしぐら。65歳以上の日本人は、15%が認知症。75歳以上だと25%が認知症。
死に戴
人生では、最期に神仏から死を戴くのだ。その死にざまで、生きざまが分かる。立派な死を戴くように、日々精進すべきなのだ。よく働いた一日が安らかな眠りを誘うように、よく働いた人生は、安らかな死を戴く。世の中に貢献もせず、中途半端な生き方をするから、野垂れ死にするのだ。
死に諦
生あるものは、必ず生老病死苦である。死を諦め、死を明らかにしたとき、新しい人生が生まれる。
「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なく、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃としてねごうべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり」修証義
死を意識するから、人間なのだ。涅槃を意識するのだ。犬猫では死など考えない。死を意識するから、人生は限りある時間と悟り、命を燃やして生きるのだ。
師にタイ
人間なら、志を立てたら、人生では師を持ち、その師を超えることを目標にすべきだ。師を超えられなくても、せめてタイの成績に持ち込みたい。
「師にタイ」は「しにたい」活用の最高段である。師を超えるのが、師への最大の恩返しである。
師を持たない人生とは、さ迷える孤舟の航海である。エンジンのなく、北極星も知らず、海を漂うだけの人生である。船が港を出て、湾内の周りを長い間漂っても、それで長い航海をしたと自慢はできない。単に歳を取って白髪が増えただけである。それは、長年会社と自宅を往復して、大過無くサラリーマン生活を送っただけの人生だ。
だからこそ、
「三年かけて師をさがせ。良き師に恵まれてこそ自己の人生に花は咲く」
馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集 「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より
2020-11-10 久志能幾研究所通信 1820 小田泰仙
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