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2019年10月22日 (火)

小川敏市政、終焉のカウントダウン

吝嗇な市長が節約と放漫の区別がつかなくなったら、おしまいだ

地方紙が痴呆紙症になったら、おしまいだ

 2019年9月27日、小川敏市長は大垣市役所の玄関に、新市庁舎完成までのカウントダウンボードを設置して、新聞社を呼んで除幕式を見せびらかし、記事にさせた。大垣の恥さらしである。

 それが大垣市民にどういう付加価値を生むのか?

 市民の誰が喜ぶのか?

 何故、全経費8%カットと強制しながら、節約対象としないのか?

0927  岐阜新聞

0927_2  中日新聞

 両新聞の紙面の縮小倍率は同じ。いかに岐阜新聞が痴呆的な報道を大々的にしているかが分かる。

 岐阜新聞の「大垣市新庁舎 期待高まる」との表現は小学生の表現である。だれが期待しているのか、無責任な表現である。市民の誰も期待していない。期待しているのは利権がらみの業者だけ。こういうパターンがマスコミの洗脳教育である。こういう手法で、日本は太平洋戦争に追いやられていった。

 

カウントダウン表示設備の愚

 なぜ、何の付加価値も生まないカウントダウンボードの設備に金をかけるのか。小川敏市長は節約と放漫の区別がつかなくなったのだ。認知症ではないのか。市長選6選に出るための売名行為亡者となったのか。

 新聞記事では、カウントダウンボード除幕式に50名も参加とある。人件費の高い「経費」の塊が50人、それが1時間もボードの前に集まると、1万円×50人=50万円である。その50人は何の付加価値も生まない。大垣市職員の対応、エライさんの対応でその数倍の費用(税金)が消えている。それでどれだけ市民が幸せになったのだ。その分の時間を正規の仕事に投入すれば、大きな節約となる。それに小川敏市長は気が付かない。

 地位の高い人物が50人もいて、誰もそれの問題点を言えない。全員が認知症ではないのか。それとも利権に胡坐をかいているのか。問題点を指摘できなければ、その地位の存在価値がない。税金だから、人の金だからと思っているとしか思えない。

 

電気代の無駄

 いくらLED照明とはいえ、電気代がかかる。開庁時間以外も点灯する。誰も見ていない時間も点灯である。市民はそれを見ても、何の付加価値を生まない。何故、それが経費削減の対象とならないのか。小川敏市長はこれを市民が見て「希望を膨らませて欲しい」(岐阜新聞)と挨拶したが、正気の沙汰ではない。これを見て感じるのは、呆れと絶望感だけである。

 大垣駅前通りの電灯の多くが長年、消えたままになっている。夜に大垣市中心街を歩くと恐いという市民の声である。実際に、年に5,6件の通り魔事件が大垣駅前通りで、起きている。夜、大垣駅前通りを歩いている老人を狙って、若者数人で後ろから襲い金品を奪う事件である。犯人は捕まらない。それだけ通りが暗くて危険なのだ。小川敏市長はそれを放置している。小川敏は、市民の安全など知ったことではないのだ。

 文化都市大垣市を謳うのに、情けない話である。文化都市として絶望の極みである。その問題点は放置して、カウントダウンボードに電気代を使って「希望を膨らませて欲しい」と自慢するようでは、小川敏市長は認知症であるとしか言いようがない。もしくは、その疑いがある。または小川敏市長の6選に向けた事前選挙活動のようである。

Dsc07673s  大垣市役所 玄関のカウントダウンボード

   フェンスが錆びだらけで恥さらし

 

地方紙の忖度

 中日新聞も岐阜新聞も御用新聞として、小川敏市長の意向を垂れ流すだけである。マスコミの使命を果していない。それは小川敏市長の6選にむけた事前選挙活動の片棒を担いでいる。価値のない報道紙面分だけ、大事な情報が市民に伝えられていない。知らせるべきことを知らさないのもフェイクニュースである。

 

予算一律8%カット

 なぜ大垣市行政の全予算の8%カットと市長の大号令をかけながら、小川敏市長自身の贅沢な欧州出張、元気ハツラツ市予算、電光掲示板カウントダウン装置、その除幕式は対象外なのか。己の欲望だけで生きるのは、畜生界の存在である。元気ハツラツ市、カウントダウン掲示盤除幕式は市長6選へ向けた事前選挙活動なのか。

 

シルバー人材の首切り

 行政の予算一律8%カットで、スイトピアセンタの駐車場係のシルバー人材の首を切って、その仕事を市の職員に休日手当を払ってまでして、代行させている。市役所職員の年間給与はシルバー人材の2倍、3倍である。節約どころか、かえって経費が高くなっていることが計算出来ないまでに、小川敏市長は認知症になったのか。シルバー人材の首を切ってまで、経費を節約して、嬉しいのか。人の悲しみが分からないまで病状が悪化したのか。組織の長の最大の責務は雇用の確保、生活の保護である。

 大垣市の経済政策の無為無策で、無能な市長の18年間で、大垣市商業の従業員の8000人の仕事を奪った。首切りも同然である。

 市長の役目は、市民の幸せの実現である。小川敏市長はその逆をやっている。市長失格である。

P1130185s 若い市役所職員が、休日出勤で駐車場の対応 

 スイトピアセンタ駐車場  2019‎年‎10‎月‎20‎日、‏‎10:55

 

やましい欧州出張?

 なぜ、緊急的な行事でもないフレンドリー都市訪問の欧州出張に、わざわざ十万石まつりをすっぽかす(結果としてそうなった)ようなご先祖や市民を侮辱する行動をとるのか。見えないものに敬意を払うのが高度な魂を持った人間界の生物だ。それが分からなくなったら畜生界の存在である。

 

認知症の対処は家族の責任

 家族が言わなければ、誰も本人に言えない。なにせ相手は権力を持っている。小川敏市長は、いわば人事権という凶器を持った狂人のようなものなのだ。組織の部下は何も言えない。家族があり、生活がかかっているからだ。大垣市職員は、18年間のヒラメの宮仕え習性で、息を殺して生息している。だからまともな仕事が出来ず、大垣市は没落した。

 家族も、大垣市長の痴態行事の様を女子大の学友から笑われていること知らないのだろうか。学友も知的レベルが高く教養も高いので、直接は言わないが、陰で笑っている。小川敏市長のギネス水饅頭共食いで痴呆的な笑い顔は、全国に流れ、恥さらしである。家族も有名大学出なのにそれが分からなければ、同じ認知症である。

 人たらしの天才と言われた豊臣秀吉も、晩年は老害が酷く回りは悲惨な目にあった。多くの親族の生首が秀頼の為に切られた。若いころは、人の血を見るのが嫌いな秀吉も、歳とると残酷になった。彼も認知症の気があったようだ。信長の比叡山の焼き討ちでも、秀吉の率いる部隊は、極秘に多くの僧侶を見逃した。しかし人は老いる。自然界の理である。

 

認知症

 私の知人の奥さんも認知症になってしまい、悲しい思いをしている。親身の付き合いがあるから人一倍に悲しい。表面的には、認知症とは分からないが、身近で細かい話をすると、話の内容が破綻して、認知症の病状が露見する。直接本人には、それを言えない。悲しいことである。

 日本では65歳を超えると15%は認知症である。70歳にもなると20%が認知である。小川敏市長も来年は70歳である。市長職は、ルーチンワークが多くて、知的な作業はほとんどない。現在の小川敏市長の仕事ぶりは、認知になりやすい環境である。多くは決まった行事に出て手を振るだけで、後は座っているだけ、決まった挨拶をするだけ、頭は使わなくても済む仕事ばかりである。予算も節約第一でカットするだけで、未来の投資はしないので頭は使わない。楽なものだ。市議会も担当者が答弁してくれる。市会議員から突っ込まれても、「条令で決まっています、今後検討します」と言えば済んでしまう。常葉神社の祭事でも居眠りしていれば、行事はすんでしまう。居眠りでも、だれからのお咎めもない。

 だから本人は認知症になっても気が付かない。それを知らしめるのは家族の責任である。それが大垣市民の為である。

 

生老病死

 電光掲示板のカウントダウンを見て、つくづくと大垣市の衰退を感じた。大垣市の体は、経営層・市長(頭)と市役所現場(内臓)が遊離しているようだ。経営層は現場の正常な声を無視して、痴呆な命令を出す。現場はそれを拒否できない。それでは経営破綻である。

 だから大垣市は平均地価が半値に暴落した。大垣駅前商店街の81%が閉店した。児童生徒一人当たりの教育費が県下最低レベルになった。それなのに大垣市職員の給与を県下一のレベルに上げた。しかし市民の不動産財産額は半分に目減りした。すべて小川敏市長の責任である。

 人生は春夏秋冬である。若いころ秀才と呼ばれた青年も老いれば、騾馬に劣るのが自然界の法則である。老兵は死なず、ただ消え去るのみ、それが出来ない小川敏市長は、市長の座にしがみ付いて醜態を晒す。認知症の症状であるようだ。大垣の恥である。

 

ぼやき

 私もこんな記事は書きたくない。文化、芸術関係のブログを書きたい。しかし現実を市民に知らしめないと、大垣市が益々衰退する。まず知ることから、行動は始まる。今までは市民が、小川敏市長と新聞社の偏向した報道に晒されて、知らされないできた。

 

2019-10-21 久志能幾研究所通信No.1374  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月20日 (日)

今のうち、生きているうち

 2019年10月19日、手術後8か月が経過して、体調も良くなってきたので、友人と名古屋のホテルでバイキング形式の昼食を共にした。食べる量を抑えたつもりであったが、食欲があり美味しかったので、油断してつい食べ過ぎたようだ。食の2時間後、全てを吐いてしまった。

 つくづくと体力のなさと病後の回復の遅さを感じた。自分の体を会社に例えると、経営層(頭)と現場(内臓)が遊離していることを痛感した。経営層は現場の声を無視して、命令を出す。まるで以前に務めた会社の経営状態のようである。それでは経営破綻である。

 人生は春夏秋冬である。人間の体にも春夏秋冬がある。その人生の春夏秋冬で、厳冬前の晩秋を感じた。いつまでも元気であるわけではない。いくらでも食べられた日が懐かしい。今は、食べたくても食べられない。お金があっても体力的に食べられない。

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 馬場恵峰書

 

出羽三山

 人生では、今のうち、生きているうちなのだ。それを実感して、やるべきこと、やりたいことを急ごうという気になった。急に今日、出羽三山に行きたくなり、書店でガイドブックを探して見付け、計画を立て、日程を決め、ホテルの予約をした。出羽三山は修行の山なので、一般的なガイドブックには、それが載っていなくて探すのに苦労した。

 いままで出羽三山行きは、気になっていた。しかし行きたくても、自然の春夏秋冬で、もうじき冬である。すでに現地は雪も降っている。現地のバスは10月末までの運行である。お金と時間と意思があっても、自然が行くことを許してくれなくなる。体が言うことが効かない。私もいつまでも生きていられるわけでもない。何事も、今のうち、生きているうちなのだ。

 

奥の細道

 松尾芭蕉は出羽三山の月山に白衣(死に装束)で、登頂している。芭蕉の「奥の細道紀行」の転換点が月山への登頂であった。芭蕉は死を意識して月山に登った。芭蕉は、生まれ変わった人間として、下山をした。「奥の細道」の記述も、この地を境に、がらっと文面が変わる。

現在、馬場恵峰書『奥の細道』を編集・出版の準備を始めた。

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  馬場恵峰書『奥の細道』

 

2019-10-20 久志能幾研究所通信No.1373  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月17日 (木)

終活 位牌の手配が栗キントンの誘惑で迷走

 私の戒名が決まったので位牌の手配をしようと、2019107仏壇屋に相談に行った。そこで大体の方向性を決めて帰宅した。

 翌日、一度自宅に来て欲しいと思い仏壇屋に電話をしたら、店主が不在であったので、留守番に店主が帰ったら電話を欲しいと言付けを頼んだ。

 

ご縁の信用金庫

 その後、このお店から電話はなかった。このお店の店員の教育・躾がなっていないようだ。その小さなことで、お店の全てが評価される。私は、こういう小さな事象で付き合うお店や人物を評価している。店員が店主に、客の言付けを伝えなかった。もしくは店主が電話をするのを忘れた。それだけで10万円の商談が無くなったのだ。

 

神仏の啓示

 位牌の件で折り返し電話がなかったことは、位牌はまだ早いとの神仏からの啓示と解釈した。だから、私は位牌の手配を中断した。

 またこの仏壇屋に行く途中で、認知症みたいな老人に強引な右折をされ、クラクションを鳴らしたら、相手が交差点の中央で止まってしまい、私が前に進めなかった事件も、その啓示だと解釈した。

 ご縁とは、小さな事象で大きく左右される運命である。だから私は神仏のメッセージは大事にしている。

 

位牌の生前手配中止

 見栄で作る位牌の手配を止めて、その金額を音楽活動や社会福祉関係に寄付することにした。その余りのお金で、美味しい栗きんとんを食べることにした。そのほうが、世のため人の為になる。自分もよき思いが出来る。位牌は、白木で作った応急的なものでよいと判断した。

 大切なことは、死後、何を世に残すかである。世の中に価値観のあるモノを残して逝きたい。個人的な高価な位牌では、それが叶わない。墓誌への戒名の追加は、親戚との関係があるので、計画通りに実行する。

 

経済とは

 それよりも生前、お金を沢山稼いで、沢山使って世の中にお金を回すことが重要だ。お金を抱え込んで、預金通帳を眺めながら過ごすのは、反社会的行動だ。それでは日本経済の活性化にならない。お金は使ってなんぼの世界である。お金は、人生経験を得るために使う。お金は貯めるものではない。お金は社会を生き抜く通行手形である。お金はあの世に持って行けない。生前中という有効期限付きである。

 「経済」とは、仏教用語で、「経世済民」の略である。「経」とは全ての人が助かる真理を束ねた紐のことである。「済」とは「救う」ことである。つまり「経済」とは世の中の人を救うために沸が行う活動である。経済観念の無き、企業経営は戯れである。理念なき金儲け活動は畜生の餌漁りである。つまりみんなで仲良くご飯が食べられる社会の体制を言う。グローバル経済主義では、特権階級や一部の富裕層だけが、美味しいものを独り占めする体制である。だから、それを「経済」とは言うのは間違いである。いうなれば「グローバル畜生主義」である。

 

小川敏市長の経済音痴

 経済の何たるかを知らない小川敏市長は、この18年間で、節約ばかり強要して、大垣経済の活性化の為の投資をしなかった。それが大垣の商業を衰退させ、それに従事する従業員の8,000人の職を奪う政策を取った。みんなで仲良く食べていかれなくなったのだ。それは「経済」ではない。畜生の仕業である。

 それでも特権階級の市役所職員だけがいい思いをしている。大垣経済は衰退しても、大垣市職員の給与は、岐阜県下一の給与水準である。岐阜市のそれよりも高いのだ。大垣市職員の平均給与は、大垣市民の2倍である。小川敏市政の経済政策が間違っているのが明白である。

 

小川敏市長の経営無能

 小川敏市長は、大垣市民の不動産財産価値を半減させ、市民を貧乏にした。それでも小川敏市長は、大垣市制100周年記念行事で3億5千万円も散財である。それも自分の6選への事前選挙活動の自己PR活動としか思えない振る舞いである。まるで大餓鬼の独裁者である。

 小川敏市長は6選に向けて、元気ハツラツ市を事前選挙活動に利用しているようだ。元気ハツラツ市を開催するほど、己は顔を売れる。しかし大垣駅前商店街は衰退していく。小川敏市長は狡猾だが、大垣市の経営では無能である。

 小川敏市長は豪華な大垣新市庁舎を建設中である。官は栄え、民は貧する。

 

2019-10-17   久志能幾研究所通信No.1370  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月15日 (火)

何故、そうなったか? 真因を探す

 日本政府は少子高齢化で、その対策で移民導入だ、と単純発想の議論で騒々しい。大垣市も25年後に人口が20%減るという予想である。その人口の減少率を5%に抑える前提の「取らぬ狸の皮算用」として「大垣未来ビジョン」の白々しい議論で騒々しい。大垣市は、その人口減少対策は全く考えていない。あるのは机上の空論だけである。

 

対策ばかりの議論

 日本政府も大垣市も、対策ばかりに議論とカネの投資が集中して、なぜそうなったかの原因追及が全くない。それにかこつけて、空き巣泥棒のような対策ばかりが横行する。その対策事業に利権が絡み、汚職がらみの仕事が横行する。それで益々問題が複雑化して、解決が難しくなっている。

 それの象徴的事象が、欧州の移民問題、欧州の混乱、テロの横行、社会の混乱、格差社会の拡大、貧富の拡大、中間層の没落である。

 なぜそうなったの原因を追究しないと、真の対策は打てない。それに目をつぶるから、ますます混乱である。

 

大垣市の問題

 なぜ、大垣市が少子高齢化になった? なぜ大垣市が衰退したのか? なぜ大垣市の地価が半値に暴落した? 大垣市の近隣他市の地価が上がっているのに、なぜ大垣市だけ地価が下がり続けるのか? なぜ、大垣市の児童生徒一人当たりの教育予算が県下最低になった? なぜ経済効果のない元気ハツラツが継続されるのか? なぜ大垣駅前商店街の81%が閉店しても、大垣市は何も手を打たないのか?

 

自分の人生に当てはめて

 なぜ自分はこうなってしまったのか? それを考えず、そうなった対策に追われては、自分を見失うことになる。まず、なぜそうなったかの真因を突き止めないと、自分も変われない。

 なぜ自分は病気になったか? それを追求せず、生活習慣を変えず、薬だけを飲んでいるから、また病気が再発する。 

 なぜ試験、開発、人間関係等に失敗したのだ? その原因を追究しなから、また失敗する。

 

 何故、なぜを繰り返して、真因を探すべきだ。そうなった原因を追究せず、応急的に対策ばかりするのは間違いである。考えて、考えて、死ぬまで考えたい。何ごとも真因を探さないと、解決はできない。

 

2019-10-15   久志能幾研究所通信No.1368  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月14日 (月)

仕事一筋人間の末路は、認知症・短命化

 認知症は脳の進化である。認知症は、生存に必要な機能だけを残し、不要な機能やストレスを感じる機能を捨てて、何時でも幸せと感じる脳になった状態をいう。人は生物として環境に適応する仕組みを供えている。

 癌患者には認知症が少ない。一方、認知症患者には癌の発症が少ない。強いストレスを感じやすい人は、免疫細胞の機能が低下する結果、癌になりやすい。認知症になってストレスに鈍感になり、免疫細胞が活性化した人は癌になりにくいようだ。

 

私の死望原因

 要は、物事に鈍感の人は、癌になりにくい。私は今年初、癌が見つかり手術をした。だから私は、精神的に鈍感ではなく、喜ぶべきことなのだ。それが幸せかどうかは、悩ましいところである。鈍感で癌にならない人も、うらやましい。その排反事象で、認知症の危険がある。

 認知症になっても、本人はそれも自覚できないので幸せである。しかし家族を地獄に突き落とす。認知症は脳死である。私は死ぬなら、老衰死を望みたいが、それが叶わないなら脳死よりもガン死を選択したい。

 

認知症になる人

 真面目に仕事一筋で生きてきた人、周りとのつながりを持たないで生きてきた人、知的な仕事をしてきた人、社会的地位の高い人が、その役割を失ったとき認知症の症状が進むようだ。警察署長や校長先生が認知症になりやすいという。彼らは頭を使わず、気ばかりを使って生きてきた。それから解放されると、認知症発症の条件が整う。自分に価値がないと感じるストレスから自らを解決するため、自己生存本能で、自分の脳を自分が壊していく。それが認知症である。

 

人間の寿命

 人間が生殖後にも生きているのは、生物学的に稀有なこと。多くの生物は、生殖が終わると死んでいく。カマキリの雄は、生殖後に子を育てる栄養の為、雌に頭から食われてしまう。

 人間だけが生殖後も40年間も生きている意味を考えたい。また女性は出産後、子供が成長しても、男性よりも長く生きる。それは孫の世話をするのに生き甲斐を感じるためではないか。

 それに対して男性は、会社定年になると、女性よりももっと早く死ぬ。社会から必要とされなくなったと感じて、頭が反応して死ぬのではないか。定年後も社会の為に働いている人、必要とされる人は、長生きである。

 

馬場恵峰先生の実例

 馬場恵峰先生は現在93歳で、頭もシャープで、現役である。朝から深夜まで、書を書きまくっている。なにせ「無職だから、やることが多すぎて暇がない」とぼやかれる。「有職なら、決められた仕事を期限までにやれば、それで終わりである。私は無職なので、やることが次から次と出てきてそれが山積みである」という。

 その作品の撮影記録係の私は、九州の先生宅に行くたびに、膨大な作品が出来上がっているので、撮影が追いつかず、途方に暮れている。私も先生の作品の撮影をすませないと、死ぬに死ねない。撮影の後の編集作業も大変だ。それが、私が死なない理由であろう。私も社会から生かされている。感謝。

 

もう一本の道

 馬場恵峰師は「在職中に、本業の仕事以外に、もう一本の道を歩いておけ」と説かれる。それは、仕事とは関係のない分野が良い。芸術文学等の教養を高める道が良い。

 そうでないと定年後、何もやることのない人生となる。それでは自分からは何もできない人間が出来上がる。そういう人間が認知症になる。そんな人間になってはならない。50歳になって、本業以外の道を見付けておくと、定年後にそれが花開く。それは金儲けの為ではない。自分の為、社会の為である。それが自分を社会から生かしてもらう糧となる。「だから私(恵峰)は93歳の今でも、社会から現役として生かされている」と言われる。

 馬場恵峰師は、1977年から今まで42年間で、240回余も中国に自費で行った。一回の旅費30万円として7千万円ほどが消えた。その金は残っていないが、その智慧が頭に残っている。

 恵峰師は60歳の時、社会奉仕として、家屋敷を担保にして1億円の借金で、日中文化資料館を建設した。その借金は24年間かけて、84歳の時、完済できた。

 今でも月に8回の書道塾、月1回の講演をされている。

1  日中文化資料館(敷地350坪) 平成元年 建設

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 三昧楼(付属図書館) 平成五年 建設

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何の為に生きるか、学ぶのか

 知識を得るためではない。智慧を身に着けるためである。智慧の中で一番大事なものが教養である。知識では金儲けできない。智慧がないと、商品を買ってもらえない。教養がないと、人間ではなくなり、認知症になる。

 人間の生き方にも多様性が問われる。仕事だけ一本道の偏食の人生では、寂しい人生となる。人を愛し、花や自然を愛で、芸術を愛する人間として生きたい。

P1070221s  馬場恵峰師 「生き活き教養塾」で 2019年10月10日

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 2019年10月11日

 

2019-10-14   久志能幾研究所通信No.1367  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月12日 (土)

三流の営業マンはグリーン車で「作業」をする

 2019年10月11日、馬場恵峰先生宅からの帰路、最終列車の新幹線で小倉から広島、広島から新大阪までグリーン車の私の隣席に座った二人の営業マンが、パソコンを使いまくって「作業」して、うるさかった。静かなグリーン車内で、パソコンのキーボードを打つパシャパシャ音を立てるのは、マナー違反である。それが周りに迷惑をかけているのに気が付かないのは、ビジネスの最前線にいる営業マンとして失格である。そんな気配りができない営業マンでは仕事はできない。

 

作業と仕事

 頭を使わず、ルーチンワークをこなすのは、「作業」で、仕事ではない。そこから付加価値を生み出さないのは作業で仕事ではない。

 なおかつ、二人ともパソコンで見積書を作成、メールの作成、閲覧をしていて、隣の私からその金額やメール文面が丸見えの状態であった。企業秘密もあったものではない。二人とも広島市のIT関係の会社の人間である。そこまで隣席からパソコンの画面で見えてしまった。

 二人目の営業マンはLet’Noteのパソコンを、あまりに長時間、パシャパシャやっているので、さすがに私も我慢の限界にきて、苦情を言ったら、さすがに彼は黙ってパソコンをカバンに収納した。しかし一言もなしである。ちなみに一人目の営業マンは、DELLのノートパソコンであった。両者とも旧式のタイプであった。パソコンを見れば、その営業マンのレベルが分かる。私の所有している最新鋭のノートパソコンとは大違いである。

 

苦情の対応で人間が分かる

 私なら相手が苦情をいったなら一言、相手に詫びるのだが、彼にはそれがなかった。常識も礼儀もなかった。そういう低レベルの営業マンであった。そんなレベルの営業マンがグルーン車に乗っているのが不愉快である。そんな行動のさまで、営業成績が上がるとは思えない。その営業マンは肥満体であった。自分の体の管理が出来ない人間が、営業成績が良いとは思えない。そんな輩が隣に座ったのが運の尽きであったと、自分を慰めた。「彼は三流の営業マンである」と識別できる己を褒めてやりたい。逆の立場では惨めである。

 

私は音なしの構え

 私も電車内や待合室でパソコンを時々使うが、その場合はキーボードを打つ音を立てずに打つ。音なしの構えである。世間様に迷惑をかけてはいけないと思って、音を立てず高速にキーボードを打つ技を会社時代に身に着けた。

 私の会社勤め時代、研究開発部の室内では、管理職がワープロを駆使して資料を作成していた。そのキーボードを打つ隣席の課長は、いかにも仕事をしているのを見せびらかすように、わざと大きな音をキーボードを打っていた。私は長年、その騒音に悩まされていた。そこで自分だけは、他人に迷惑をかけまいと、音を立てずキーボードを打つ技を身に着けた。

 

超高速のAIワープロを活用

 私は、電車内での文章作成やメモは、もっぱら紙ばさみに挟んだA4の裏紙に、サインペンでなぐり書きをしている。その方が、アイデアが良くわく。手書きのメモは、いわば超高速のAIワープロである。自由な発想が生まれやすいと感じていて、パソコンと併用して愛用している。アイデアを形にした文字を打つのは容易である。それよりもアイデアを生むのが大変なのだ。

 

アイデア創出

 そのアイデアを考えている時、隣でパシャパシャの騒音をされたのでは、アイデア創造が邪魔されて、たまらない。だから今回、あえて苦情を言った。私は、日本の静寂の文化を守りたい。拝金主義者がキーボードを打つ騒音は、金儲けの暴走音である。人のことなど構っていられない。仕事のできないやつほど、声が大きいが、パソコンを打つ音も大きい。

 

2019-10-12   久志能幾研究所通信No.1365  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月11日 (金)

戒名を決定

 2019年10月10日、馬場恵峰先生と相談して、私の戒名を決定した。戒名は菩提寺の僧侶につけて頂いた。今から位牌を作り、墓誌に名前を彫る段取りをする。

 位牌は、私が死ぬまで半紙に包んで仏壇に収めて置く。

 墓誌に生前に戒名を彫る場合は、朱を名前に入れる。その朱も墨の朱である。その朱の寿命は10年ほどで、自然と褪せてくるので10年後に再度、朱を塗るのが必用である。ラッカーの赤では、変色はしないが、後からその色を落とすのが大変である。

 

戒名の意味

 戒名は、来世での己の名前である。葬式の時につける戒名は、事前打ち合わせが間に合わなかったので、僧侶が応急処置で付ける場合である。本来、生前につけるのが正規の手続きである。僧侶が事前に本人の生前の行動から見て、本人に最適の来世の修行での名前を付ける。葬式で死後につける場合は、遺族からその人の生前の行動を聞き込み、戒名を付ける。だからその場合は、本人は自分の戒名を知らない。

 戒名とは、その名の通り「戒め」の名前である。「その名前に恥ないように、来世で仏道を修行せよ」と引導を渡す僧侶が、死者に授ける名前である。

 現世の名前も、親が名前のような人物になって欲しいと命名する。しかし往々にその名のような人生を歩めない。こんどこそ、その名に恥じない行動を来世でせよと付けるのが戒名である。

 院号とは、来世で己の為に建てて頂く寺院の名前である。院号を貰うには、生前の功徳が必用で、格式の高いお寺さんでは、お金を払っても授けてもらえない場合がある。これはお金の問題ではない。

 

生前戒名の勧め

 皆さんも生前に戒名を付けてもらうことをお勧めする。そうすれば長生きできる。何事も事前の段取りが重要である。どうせ人間は絶対に死ぬ身で、必ず必要となる。

 私の段取りの良さは、この10月の消費税アップの前に、その段取りをして、お寺さんにお金を払ってあったこと。今回の2月の癌の手術前に私は葬儀と戒名の段取りをしておいた。今回、やっと戒名が決まったわけである。しかし今から手配する位牌代と墓誌に彫る手間賃には消費税のアップ分がかかる。少し残念? 

 来世に逝ってから、俺の名は何だっけ?というのは、みっともない。私は段取魔である。

 

一つ上の立場で

 宮仕えの時代でも、係長、課長、部長でも、現在よりも一段階上の立場に出世したらという意識で、会社や仕事を俯瞰して職務をこなすと人間的成長が早い。戒名を同じである。生前に一段上の意識で、佛の世界の段階の一段上を目指して人間界の修行をすべきだ。そうすれば人格が上がる。生前の戒名受会得はその練習となる。

 これからの人生は、娑婆の利害を超越して生きたいと思う。今から全力で死んだ気?になって、此の世を生きていく。死んだ身には、怖いものはない。

 人として、何をこの世に残すか。何を社会に貢献して生きていくかである。

 

2019-10-11   久志能幾研究所通信No.1364  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月 9日 (水)

組織の主人公の心構え

 「うまく書こうと思わないこと。それではいつまでたっても書けない。今の実力で、良い紙を使い、良い筆で、良い環境で、真剣に、全力で書く。そうすれば残る。安い紙で書くから残らない。」  

  馬場恵峰師談 2012年12月14日

 

 私はこの言葉を聞いて、自分の仕事のやり方に照らして、その後の人生が変わった。まず出来ることを、出来る環境で、出来るだけ良い道具を使い、全力で取り組むようにした。道具には金を惜しまなかった。結果から見ると、安い買い物であった。人は何に金と時間と精力を使ったかで、人生(命)が決まる。そこから使命感が生まれる。己という組織の支配者は、己の心という主人公である。

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 「人間は偉くならなくとも、一個の正直な人間となって、信用できるようになれば、それでけっこうだ。真っ黒になって黙々として一日働き、時期が来れば、“さよなら”で消えていく。このような人を偉い人と自分はいいたい」

 禅の研究と著述に96年の生涯を捧げた鈴木大拙博士の言葉

 

歴代の大垣市長の功績

 大垣市長として名を残さなくてもよい。100周年記念行事で、名誉を求めなくてもよい。ひたすら大垣市の為に働き、真っ黒になって働き、任期がこれば、さよならと言って消えていった。大垣市民が幸せになればよい。大垣市が発展すれば良い。歴代の大垣市長は、そんな気概で市長職を勤め、仕事に没頭した。そして大垣を発展させてくれた。歴代の市長は命を掛けて市長職を務めたから、1期か2期を務めて、現役で亡くなられている。不幸にして全員、現役で殉職された。

 

小川敏市長の執念

 それに対して、小川敏市長は、市長として名誉を残したい。長く市長を勤めたい。立派な市庁舎を作り、名を残したい。市制100周年記念行事を派手にやって、大垣市制100周年の市長として名を残したい。新聞紙上で、やっている姿を誇示したい。お祭りや市や行事で、やっている姿を市民に誇示したい。という執念で市長職を勤めているようだ。小川敏市長は、命を掛けて市長職を勤めていないので、だらだらと5期も18年間も継続している。行事に出て、市民に向かって手を振って時間を過ごしているだけのようだ。歴代市長に較べれば、楽なものだ。ギネスで水饅頭を食べてうつつを抜かしている。とても使命感に燃えて仕事をしているとは思えない。

 小川敏市長が、人の意見も聞かず、貧弱な経済知識で強引に市長職を務めた。東大の法学部を出ても、県の条例も守らなければ、義務としての会計報告の道義上の責任さえ果たさない。その結末は大垣の衰退である。そんな大餓鬼のようなエネルギーを逆噴射のように大垣市に与えた。そんな状況で5期も現職にしがみ付いているから、大垣市を衰退させた。大垣市の地価が半値に暴落した。大垣の未来を支える子供たちの教育を台無しにした。

 Wikipediaで調べても、小川敏市長の正の実績はほとんど記載がない。それは、万人が認める事実である。

 

仏教は人間の心を10段階に分ける。

 地獄(幸福を感ずることのできない世界)

 餓鬼(欲望の世界)

 畜生(倫理のない世界)

 修羅(闘争を好む弱肉強食の世界)

 人間(精神的な追及をするも、まだ物欲の強い世界)

 天上(人間以上に精神的な追及をするが、油断すると地獄に落ちる世界)

 声聞(いい人の教えを聞いて近づこうとする世界)

 縁覚(何かの機縁で自分から悟る世界)

 菩薩(自分が悟り、人をよくしていこうとする世界)

 仏 (10の世界の最高の段階)

 

市長の存在界

 小川敏市長は、その行動を観察すると、餓鬼か畜生か修羅の世界を生きているようだ。この10の世界は別々にあるのではない。一人の人間の中にいろいろな心の動きがある。人間は、時には地獄でも天上界の世界で生きることもある。そして人や組織は、その指導者の心の動きに合わせた人生を生きる。大垣市は、市長の生きざまでその姿を変える。畏るべきことである。大垣市を良くするためには、トップが心を調え、高めなければならない。

 それは市長だけの問題ではない。己の心の状態で、己の仏教での存在エリアが決まり、その世界が決まる。人間として生まれた以上、せめて人間界以上の界の進んで、成仏したいもの。

 

2019-10-09   久志能幾研究所通信No.1362  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月 7日 (月)

祈りと宿命  小川敏市長への祟り

 祈りは己を謙虚にして、己の内面を見つめさせ反省を促す。

 祈りは、願いと宿命をつなぐ言霊のシャトルである。

 運命は宿命の子供である。

 祈りは、宿命に語り掛け、運命に新しい目覚めを促す。

 宿命は変えられないが、運命は変えられる。

 行動なき祈りは、戯言である。

 思考なき行動は、亡国である。

 感謝なき行動は、無礼である。

 感謝・報恩のある営みが、運命を変える。

 私は毎日朝晩、仏壇の前でご先祖に祈っている。

 ご縁に出会うのも運命である。良き運命でないとご縁に出会えない。

 縁ありて花開き 恩ありて実を結ぶ。

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 馬場恵峰書

 

書けることに感謝

 私は毎日、感謝の心でブログを書いている。それで皆さんに恩返しができれば幸せである。それを書く機会を与えられたことを感謝である。ブログを書くにも、健康で、情報があり、書く才能が有り、時間があり、気力とご縁がないと記事一つ書けない。言いたくても言えない人もいる。書きたくても健康を害して書けない人もいる。言いたくても、勤め先のお店が潰れて生活が困窮している人もいる。

 ブログを書けるのも全て仏様のご配慮である。毎回、手を合わせて書いている。どんな事象でも、神仏の気配を感じている。周りの事象に多くの気付きがあり、それを改善する案を考えよとの神仏からの啓示を受けている。

 

大垣市からの恩恵

 大垣市の行事からは多くの気付きがある。毎日が発見の日々である。大垣の行事が愚かであるほど、多くの気付きがある。小川敏市長は愚かさの天災(天才)である。小川敏市長は、愚かさの「意図注総合商社」のトップである。私には、小川敏市長が壊した大垣市を再興したいという願いがある。

 

見えないものに畏敬の念を持つ

 「一歩下がって師の影を踏まず」、「お天道様が見ている」、「天網恢恢疎にして漏らさず」のように、昔から先人は目に見えないものにも敬意を払っていた。運を良くしようと思う人は、目に見える世界だけでなく、目に見えない世界にも目を向ける。世の中は、プラスとマイナス、陰陽である。正の部分が多ければ、見えない陰の世界も同じだけ存在する。それが松下幸之助翁の説く「宇宙根源の理」である。

 

ユダヤ、トヨタ、平澤興先生の教え

 ユダヤ人は、貧乏な時からも、収入の1割を寄付に使っていた。金持ちになってから寄付をするのではない。貧乏な時も神様を信じて寄付を出していた。ユダヤ人は商売の正の部分だけでなく、見えない世界に寄付として投資をしていた。それがユダヤ人を多くの民族の中で一番の成功者に導いた。

 トヨタの社是でも「神仏を敬え」と説いている。それが田舎のトヨタを世界のトヨタにした。それが拝金主義の日産との違いである。

 元京大総長の平澤興先生は、弟子が万物尽きて泣きを入れに来ても、弟子に「神仏に祈ったか?」と諭した。

 

朕(小川敏)の前に神仏無し

 神仏を敬わない小川敏市長の大垣市は、無能の行政の顛末で、市長就任以来大垣市地価が18年間連続で下がり続け、市長就任当時から地価が半分に暴落した。こんな都市は全国にない。大垣駅前商店街が81%閉店して滅亡寸前となった。大垣市は衰退した。それになす術がない無能な小川敏市長である。それこそ神罰である。なにせご先祖を祀る神社の祭祀で、小川敏市長は朝の10時から居眠りである。神様も怒るはずである。

 世界で最初のドローンの墜落人身事故の事件も、大垣市の企画した行事で起こしている。それは小川敏市長の常盤神社での居眠り事件の後に起きている。祟りである。それなのにドローン業者が、大垣市から全責任を押し付けられて、生贄にされた。その責任逃れの顛末が、大垣市民として、恥ずかしい。罰が当たりますぞ。

 丸順の故今川順夫最高顧問から託されたシベリア抑留「恒久平和の碑」のお守りも、現在は放置され、荒れ放題である。小川敏市長は、今川氏に「大垣市としてこの碑を守っていく」と約束したが、それが反故になっている。私は故今川順夫氏から直接その話を聞いた。シベリア抑留で亡くなられた英霊への侮辱である。遺族の一人として怒りが沸き起こる。

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2017年10月8日、10:17 常盤神社 神事

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 恒久平和の碑  大垣公園内  悪戯された碑文

 

大失敗の「大垣市中心市街活性化計画」

 2016年から小川敏市政は「大垣市中心市街活性化計画」を推進して、大垣駅前に立派な複合ビルを建てた。その後の2年間で大垣駅前商店街の2割の40店舗が廃業した。すぐそのあとに創業109年の百貨店ヤナゲンが、廃業である。その複合ビルも、昼間は人通りがなくて、幽霊ビルのようである。結局、大垣駅前商店街の81%が、小川敏市長の無為無策無能政治で閉店に追いやられた(2019年9月)。

 この駅前再開発計画で駅前マンションビルに入居した住民は、ヤナゲンが目の前にあるから買い物に便利とマンションを買ったのと、大垣市に騙されたも同然である。この計画は大失敗である。祟りである。

  

神仏を敬わない顔つきは下品

 見えないものに畏敬を持つ人と、そうでない人の顔つきや行動が同じであるはずがない。食べ物にも神仏が宿ると言って、昔は米粒一つ粗末にしなかった。私はそういう躾を受けた。そういう美しい文化が日本にはある。同じ世代の小川敏氏は、私とは別の価値観で宇宙人のようである。宇宙人の鳩山氏とお友達かもしれない。

 現在の日本のテレビで、グルメ番組、大食い競争番組、食べ物で遊びをする風潮は、子供への教育上で芳しくないと思う。それと同じ下品なレベルが小川敏市政である。

 なにせ子供の教育は蔑ろにする小川敏市政である。小中学校のエアコン設備費を市役所職員の給与予算に振り向ける小川敏市長である。その結果、小中学校のエアコン設備率は2.1%で県下最低である。児童生徒一人当たりの教育費は県下最低レベルである。子供にとっては祟りのように不幸である。

 

痴呆の祟り

 大垣市政100周年記念行事で、浅ましいギネス水饅頭共食い記録のために、市民税を使って興じるのは、倫理違反である。子供の教育上で問題である。

 南方の戦地で飢えて亡くなられた英霊の多くを祀る濃飛護国神社の前を封鎖して、見苦しい食いざまを全国に晒したのは、大垣の恥である。英霊からの天罰が当たると思う。

 だから僅か2週間後にその記録は簡単に破られた。1000万円の市民税が無駄となった。その記録を破った日大三島高校は、市民税の使用ゼロ円である。無価値なギネス記録を誇る小川敏市長の痴呆的な顔が全国に流れて、大垣の恥となった。これも祟りである。

小川敏市長は、日本中で笑われていることを認識できないまで、痴呆が進んでいる。自分の痴呆が分からなくなるほど、怖しいことはない。それも祟りである。本人だけが幸せである。大垣市民は不幸のどん底である。

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 濃飛護国神社

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   2018年6月3日 石川まさと大垣市市議会議長とギネス認定人と小川敏市長

行事予算1000万円の使用用途が非公開。追及する責務が市会議員にある。

検察官の責務がある議会が監査を受ける立場の市長と一緒に痴呆的に喜んでいる。

 

2019-10-07   久志能幾研究所通信No.1360  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年10月 6日 (日)

自分への弔辞 臨死体験で死を學ぶ

 身辺整理で家中の資料を整理していたら、2000年に私が作成した私宛の弔辞が出てきた。その没年が2055年12月25日とある。享年105歳である。河村義子先生の命日と同じで、その偶然さに少し驚いた。弔辞を読んだ想定人物は、知遇の僧侶であった。

 当時、人生と会社内の人間関係で悩み、人間関係の研修をハシゴしていた。ある研修の中で、臨死体験の実習を受けさせられた。その研修に臨死体験があることは、内部暴露本で知っていたので驚きはしなかった。しかし、その準備をしていても、想定とは違った展開となり、結果として目一杯落ち込むことになった。死を前に、己は何と無力なのかを思い知らされた。死の修羅場では、「理」は無力であることを思い知った。死を前にあるのは、感情である。人を動かすのは「感」である。だから「感動」して人は動く。「理」では人は動かない。「理動」はないのだ。

 その「死」の模擬体験で、多くの気付きがあり、研修として自分宛の弔辞を書かされた。今回、整理して出てきたのはその弔辞である。それから20年が経って、その弔辞を読み返すと、その弔辞のように生きてきた自分を発見した。

 

死を學ぶ

 人生で学ばなければならないのは、自分の死である。それを学んでいないので、惨めな死を迎える。見苦しい老後を迎える。権力の座に執着して、醜い姿を晒す。

 人間は必ず死ぬ。それを前提に生きないから、生き方が曖昧になる。長く生きるのが、目的ではない。何のために生きるかを明確にすることが必要だ。いつかは死を迎える身で、死ぬときは立派に死にたいもの。

 私が受けた臨死体験研修では、不合格の死に方であった。本番で死ぬときは、そんなことがないようにと、それから生き方を変え、死に対して心の準備が出来たのは、よい研修であった。たぶん今度はスマートに死ねそうだ。覚悟が出来ると、人生で怖いものはなくなる。それからの生き方で、少々やり過ぎ、言いすぎの気になったのは愛嬌である。

 だから年初に、私が癌を宣告され、手術に際しても動じることはなかった。淡々と死の準備だけは済ませた。しかし当時は、ひどく落ち込み、心にかなりの傷を負った。元に戻るのに1年程を要した。今にして、その痛み目を会って良かったと思う。何事も痛い目に逢わないと成長しない。

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 馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」(久志能幾研究所刊)より

 

2019-10-06   久志能幾研究所通信No.1359  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。