« 大垣市の悲惨な末路、25年後「兵どもが 夢の跡」 | メイン | 祈りと宿命  小川敏市長への祟り »

2019年10月 6日 (日)

自分への弔辞 臨死体験で死を學ぶ

 身辺整理で家中の資料を整理していたら、2000年に私が作成した私宛の弔辞が出てきた。その没年が2055年12月25日とある。享年105歳である。河村義子先生の命日と同じで、その偶然さに少し驚いた。弔辞を読んだ想定人物は、知遇の僧侶であった。

 当時、人生と会社内の人間関係で悩み、人間関係の研修をハシゴしていた。ある研修の中で、臨死体験の実習を受けさせられた。その研修に臨死体験があることは、内部暴露本で知っていたので驚きはしなかった。しかし、その準備をしていても、想定とは違った展開となり、結果として目一杯落ち込むことになった。死を前に、己は何と無力なのかを思い知らされた。死の修羅場では、「理」は無力であることを思い知った。死を前にあるのは、感情である。人を動かすのは「感」である。だから「感動」して人は動く。「理」では人は動かない。「理動」はないのだ。

 その「死」の模擬体験で、多くの気付きがあり、研修として自分宛の弔辞を書かされた。今回、整理して出てきたのはその弔辞である。それから20年が経って、その弔辞を読み返すと、その弔辞のように生きてきた自分を発見した。

 

死を學ぶ

 人生で学ばなければならないのは、自分の死である。それを学んでいないので、惨めな死を迎える。見苦しい老後を迎える。権力の座に執着して、醜い姿を晒す。

 人間は必ず死ぬ。それを前提に生きないから、生き方が曖昧になる。長く生きるのが、目的ではない。何のために生きるかを明確にすることが必要だ。いつかは死を迎える身で、死ぬときは立派に死にたいもの。

 私が受けた臨死体験研修では、不合格の死に方であった。本番で死ぬときは、そんなことがないようにと、それから生き方を変え、死に対して心の準備が出来たのは、よい研修であった。たぶん今度はスマートに死ねそうだ。覚悟が出来ると、人生で怖いものはなくなる。それからの生き方で、少々やり過ぎ、言いすぎの気になったのは愛嬌である。

 だから年初に、私が癌を宣告され、手術に際しても動じることはなかった。淡々と死の準備だけは済ませた。しかし当時は、ひどく落ち込み、心にかなりの傷を負った。元に戻るのに1年程を要した。今にして、その痛み目を会って良かったと思う。何事も痛い目に逢わないと成長しない。

524k8a11441s

 馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」(久志能幾研究所刊)より

 

2019-10-06   久志能幾研究所通信No.1359  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

コメント

コメントを投稿