b-佛像彫刻・大佛師松本明慶 Feed

2018年4月26日 (木)

眼の命を慈しむ(1/9) 三好先生とのご縁

 2018年4月23日、福山市の三好眼科を検診と見学のため訪問した。4年前に三好眼科の三好輝行先生から名古屋市立大学病院の小椋祐一郎先生を紹介してもらい、4年程、名古屋市立大学病院に通っていた。小椋祐一郎先生は、網膜硝子体疾患の治療では第一人者である。この4月9日に小椋先生から、「良くなったので、後は地元の先生に診てもらいなさい」との診断を受けた。その報告と定期検診のための訪問である。また最近、三好眼科が増築をして、その新しい待合室に松本明慶師作の千手千眼観音菩薩像が展示されたので、その撮影が目的である。あいにく三好輝行先生は学会出席のため不在であったが、副院長の吉田博則先生に診察をして頂いた。また事務長の寺本様に全館の見学を案内していただいた。

 

ご縁の経緯

 加齢により白内障を患い、生活に支障が出てきたので、2012年に手術を決断した。ところが1年間ほど通院していた眼科医から、手術する段になったら、「手術は当医院では(難しくて)できません。大垣市民病院を紹介します」と断られてしまった。それならもっと早く言え、と怒りが出た。ともかく眼鏡屋さんに別の病院の眼科を紹介してもらい、そこの先生から「手術をします」と言っていただいた。ただし「普通の人より難しい手術になる」との診断があって心配していた。眼鏡屋は全市の眼科医に出入りをしているので、どこの病院が一番進んだ医療機器を導入しているかを把握している。

 その後、ご縁で松本明慶佛像彫刻美術館(京都)の小久保館長さんと世間話をしていて、眼の手術の話になった。それなら知り合いにいい先生がいるとかで、三好輝行先生(福山市)にその場で電話をかけ、「明日来院しなさい」との話となった。アレアレという間に決まったが、自分は三好先生の詳細は全く知らず、ご縁のある館長さんの勧めなので、ともかく翌々日に遠路、広島県福山市に泊りがけで診察を受けにでかけた(2012年3月)。下記は、その病院のロビーに掲示されていた「院長の目指すもの」のコピーです。

 

三好院長の目指すもの

 「心に残る医療を」を提供するために

 現在、1日に約300人超の患者さんが受診している当院は、優秀なスタッフや最新設備など、最高の医療環境に恵まれています。しかし、常に謙虚さと感謝の心を忘れないように自分に言い聞かせ、祈りながら毎日の診療にあたっています。海外から認められたレベルを“かかりつけ医”として地域の患者さんに還元するとともに、若い眼科医たちに伝承していくことが、私に課せられた使命だと思っています。

 患者さんやご家族からいただく「ありがとう」の言葉は、私たちにとって一番の原動力です。眼科医になって以来、この言葉を聞くだけのために、寝食を惜しんで診療と研究に打ち込んできました。

 大都会と違い、福山市は小さな町ですから、道端や飲食店でばったり患者さんやご家族と出くわすことは日常茶飯事です。皆さんといつどこで出会っても気持ちよくあいさつを交わし、この先も末永くお付き合いしていくためにも、「心に残る医療」を提供していきたいと考えています。

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  三好輝行先生(2012年撮影)

  今回の訪問で、待合室に鎮座した松本明慶大仏師作の千手千眼観音菩薩像を真近かで拝めて、またその隣に掲げられた三好眼科の経営理念を見ることができて、大変よかった。千手観音菩薩像は、松本明慶大仏師が800年の伝統の技を現代に通用する芸術の美しい仏像として昇華して創造されている。それに応じて三好輝行先生の病院経営の理念が「最新にして最高の医療体制のもとに眼病になやむ人々と光ある喜びをわかちあうことを使命とする!!」と宣言して、それが千手千眼観音菩薩像と見事にマッチしている。

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 三好眼科の新待合室で(2018年4月21日撮影)

 

2018-04-26

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年4月22日 (日)

無物語の「平家物語歴史館」4/4

 博物館も書物と同じで物語がある。どういう導入で観客の心を捉え、ストーリーを考え、最後の結論で何を観客、読者に伝えるかが問われる。この歴史館の伝えたいことは、お涙頂戴なのか、歴史の流れなのか、何を伝えたいのかが曖昧である。

 

全体構成

 「平家物語歴史館」は1階と2階で構成されているが、全体の位置づけが曖昧である。「平家物語歴史館」と名を売っているのだから、平家物語を主体にすべきだと思う。1階に四国に関係する偉人のロウ人形の展示があるが、だからなんなの? 印象に残るのが、ごちゃごちゃで盛沢山すぎるのだ。また館全体が暗い雰囲気なのだ。歴史の一コマをロウ人形で表現するにも、歴史の観察者の第三者の目で見るためには、美しく表現して欲しい。暗く、お涙頂戴で、見世物みたいな展示では、再度、訪問したいと思わない。

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 壇ノ浦の戦いの後

 この場面をロウ人形で表現するのは異様である。見世物小屋の雰囲気である。

42p1040576  政治家 

43p1040578  文人

44p1040579  文人

45p1040581 岩崎弥太郎 

 

人の顔に人物の歴史が刻まれる

 ロウ人形は、モノの展示ではなく、人物をロウ人形の形を介して、その人物の歴史を伝えている。ロウ人形の作者は、その作品を通して、その人物像を伝える使命がある。この歴史館では、それが観客に伝わってこない。

 人には、顔に刻まれたその人の歴史がある。その顔にどういう人格を表現するかが、彫刻家、ロウ人形師に問われている。その人物の人格や性格が現れる表現力が問われる。リンカーンが言うように「人は40を過ぎたら、自分の顔に責任を持たねばならぬ」。自分の顔には、自分の生き様の歴史が刻まれている。

 私の趣味は、人間観察である。そのため、人相、手相、体相、しぐさでの性格等を研究している。顔を見れば、その人の歴史が透けて見える。だから危ない人と縁が出来るのを避けることが出来る。それも人生の危機管理である。

 

2018-04-22

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2018年4月18日 (水)

無知・不敬の「平家物語歴史館」3/4

第六景 物怪

 桓武天皇が平安京(現在の京都)を建てて以来、遷都はなかった。それを人臣の清盛が1180年、福原(現在の神戸市)に遷都した。人々は動揺して、新都では、いろんな物怪が出現した。この遷都には帝も臣下も嘆き、全ての神社も異を唱えたので、清盛はついに旧都に戻ったとされた。(『平家物語』)第五「物怪之沙汰」の要約)

 

 上記の情景を下図のロウ人形のお化けで表現するのでは、歴史館には違和感があり、単なる見世物のお化け屋敷の表現に成り下がっている。

 「歴史館」と謳っている以上は、「いろんな物怪が出現した」という文学表現を、歴史と史実に基づいた表現にすべきだと思う。

 このお化けのロウ人形で表現された情景から、人は何を学ぶのか、それが歴史館として問われている。これでは、見学者の時間泥棒である。見学する方にも、時間という命がかかっている。学ぶべきことがなければ、付加価値がゼロである。当時の状況を伝えたのなら、説明パネル1枚だけで充分である。

31p1040607  物怪に怯える平清盛

第9景 清盛、高熱を発して死去

 清盛の最期の言葉は「現世の望みは全て達せられた。ただ一つ思い残すことは、源頼朝の首を見なかったことだ。その首を私の墓の前にかけよ」。享年64歳。

『平家物語』第六 「入道死去」より

 

 清盛の最期の言葉が虚しい。清盛は後年、僧侶になっている。その立場で、人生最期の言葉が上記では哀しい。人臣の位を極めても、人としての魂の位は、下賤の民と同じである。

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死者を晒し物に。死者への敬意なし

 平家物語で、戦いの場面が多いのは致し方ないが、熊谷直実が平敦盛を倒した時の情景をロウ人形として表現して、どういう付加価値があるのか。それよりも戦う場面の姿を表現した方が、見る方も安堵する。死者を晒しものにする表現では、死者への冒涜である。現代のゲーム感覚で、簡単に死ぬ場面が氾濫するテレビと同じである。それよりも戦う姿を表現して、結果として一方が斃れたと文章で表現すればよい。

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那須与一が扇を射る

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 上図は那須与一が沖合の舟上の扇を射る名場面である。その扇を手に持つ美女の場面で、美女であるはずの女性のお顔がなっていない。横にいる船頭も、姿勢が異様である。

 

第13景 安徳天皇、入水

 最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した(『平家物語』「先帝身投」より)。

 

天皇に対して不敬

 手を合わせて入水する前の幼い安徳天皇のお姿は、作り物の匂いがプンプンである。まるで見世物の様で不敬ではないかと思う。幼い天皇を抱いて二位尼(平時子)が入水するなは納得できるが、入水前に安徳天皇が手を合わせるお姿は、お涙頂戴の雰囲気で幻滅である。当時、安徳天皇は満6歳4か月である。そんな歳で、覚悟を決めて手を合わせるとは思えない。そのお顔の造りも、高貴な趣きが感じられない。こんな情景は天皇に対して不敬と思う。『平家物語』の記述ではなく、別の解釈をして荘厳な情景を再現して欲しかった。『平家物語』は史実に基づいた創作であり、脚色があり、史実ではない。

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第16景 祇園精舎の鐘の声

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 上は建礼門院が安徳天皇と一門の菩提を弔う情景である。しかし、そのお顔は、天皇を生んだ高貴なお方としての品がない。黒目もバランス的に大きすぎて異様なお顔となっている。ロウ人形で表現するなら、もっと美くしい人であって欲しい。美人でなくてもよいから、気品のあるお顔にして欲しい。これでは漫画である。

 上の情景で、右端の尼僧(佐の局)は安徳天皇の乳母である。高貴な生まれの方なのに、どこにでもいる農家の老婆のようなお顔の造形である。これは高貴な方の面立ちではない。これでは笑ってしまう。

 

六道の道

 建礼門院は後白河院に「生きながらにして、天上・人間・畜生・餓鬼・修羅・地獄の六道をめぐりました」としみじみと語った。(『平家物語』灌頂巻)

 その情景で、上図の雰囲気が全くない。六道という重い言葉を噛みしめて、それをロウ人形で表現するのが、芸術家なのだ。それが表現できなければ芸術家では無い。芸術家は、地獄界から始まって、天上界までの長い道のりを歩む。その途中で地獄にまた落ちていく人がなんと多いことか。

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 上図は山下泰文陸軍大将のロウ人形である。山下大将はマレーの虎の異名をとるが、実際は紳士的であり、人格者であった。それが上の図のロウ人形の表情からは、そうは見えない。作り物の表情である。山下泰文陸軍大将に対して失礼である。

 

 ロウ人形とは、作者に心が現れた鑑なのだ。作者の人格以上の作品は創れない。この歴史館で、その鑑の羅列を見て落胆した。自分が作る仕事も、自分の心が現れる作品なのだ。その出来栄えを観れば、その人の人格が透けて見える。私はそういう目で、回りの人の仕事ぶりを観察している。

 

2018-04-18

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2018年4月17日 (火)

無知・不敬の「平家物語歴史館」2/4

2018年3月17日、高松市の平家物語歴史館を訪問した。

驕り

 この歴史館は展示パネルの見せ方に違和感を覚える。何か展示者の見せてやるとの驕りを感じる。「平家物語絵巻」の写真の下に掲示された説明のA4の用紙が、異様なのだ。薄暗い場所で、A4サイズの紙に小さな字で書いてあり、読む気になれない。まるで「読みたければ、勝手に読め」と言っているかのようだ。何を来訪者に伝えたいのか、それが分からない。その紙も画びょう止めである。入館料を取る歴史館でそれはないだろう。

 展示パネルの表題の字体にしても、機械的に明朝体を選んで記されているが、見やすさ読みやすさから言えば、ゴシック体で記載すべきである。

 各場面の情景説明パネルも、黒地で白の文字であるが、全体が暗いので、読みにくい。なぜ白地の黒文字にして、照明で照らさないのだ。

 平家物語歴史館の建屋全体が暗い雰囲気で、平家物語の悲哀を表現したつもりかもしれないが、歴史を白日の下に晒して、現代の我々が学ぶべきことは何か、までに掘り下げて展示を考えて欲しい。お涙頂戴の展示では、情けない。日本最大のロウ人形館と宣伝するなら、相応の品格と内容にして欲しい。国際コンテストが開催される都市の歴史館として、英文の表記や、外人にも恥ずかしくない展示形態として欲しい。

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 平家物語絵巻の説明パネル

22p1040614  平家物語絵巻のA4説明紙

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 第六景 物怪の説明パネル

 

第六景 物怪

 桓武天皇が平安京(現在の京都)を建てて以来、遷都はなかった。それを人臣の清盛が1180年、福原(現在の神戸市)に遷都した。人々は動揺して、新都では、いろんな物怪が出現した。この遷都には帝も臣下も嘆き、全ての神社も異を唱えたので、清盛はついに旧都に戻ったとされた。(『平家物語』)第五「物怪之沙汰」の要約)

 

 上記の情景を下図のロウ人形のお化けで表現するのでは、歴史館には違和感があり、単なる見世物のお化け屋敷の表現に成り下がっている。

 「歴史館」と謳っている以上は、「いろんな物怪が出現した」という文学表現を、歴史と史実に基づいた表現にすべきだと思う。

 このお化けのロウ人形で表現された情景から、人は何を学ぶのか、それが歴史館として問われている。これでは、見学者の時間泥棒である。見学する方にも、時間という命がかかっている。学ぶべきことがなければ、付加価値がゼロである。当時の状況を伝えたのなら、説明パネル1枚だけで充分である。

Photo

 物怪に怯える平清盛

 

2018-04-17

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2018年4月16日 (月)

佛像造りの創造性

京都の都メッセで仏像彫刻展

 2018年4月8日、京都の都メッセで仏像彫刻展が開催されたので出かけた。京都の仏師の作品20体が展示されていた。その中で、会場に入ると4尺(高さ3m)の紅松製の大仏である不動明王座像が睨んで出迎えてくれた。その姿は圧巻であった。その大仏は松本明観師の作である。

 その不動明王の目つきは厳しく、己の心の中の煩悩を見透かすようであった。己のために、叱って下さるお不動さんであった。ところが、お不動さんの懐の飛び込むように至近距離1mまで近づいて見上げると、「よう来た、よう来た」とその目は笑っていた。口元も微笑んでいるかのようであった。

 今回、松本明観師は、そういう目の錯覚で、目つきが変貌する仕掛けを創られた。目の形状を工夫して、見る角度で、仏様の目が笑ったり、睨みつけられたりたりする技法を創造した。その目の形状が今までと違うのでガラスの目を入れるのに苦労をされたという。

 今回のお不動さんは、己の心の中の煩悩を見透かして、叱って下さる。懐に飛び込めば、佛様の目が厳しい目つきから、優しい笑っている目に変化する。

 

水戸の松本明慶仏像彫刻展

 2018年4月16日、水戸の京成百貨店で松本明慶仏像彫刻展(会期4月12日~17日)があり、遠路5時間をかけて出かけた。そこにその不動明王座像が展示されていた。残念なのは、会場の天井高さが3mに制限があり、京都の会場よりも台座が低く設置されており、その迫力が半減していた。それでも、真下に座って見上げると、目に微笑を浮かべて迎えて頂いた。

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 不動明王座像 京成百貨店で 2018416

 松本明慶師より撮影の許可を頂いています。

松本明慶大佛師の目指すもの

 佛像という佛様は、拝み手を合わせれば、なにか心が安らかになるお顔でないと、手を合わす意味がない。松本明慶大佛師も、拝めば知恵や安らぎを授けてくれるようなお顔を目指して仏像づくりに精進されている。また参拝すれば己の煩悩を見据えて叱ってくださる佛様、佛に近づきその懐に飛び込めば優しく抱いてくれるような佛様を目指して佛像づくりをされている。古い伝統に縛られた仏像つくりではあるが、その中にも新しい挑戦と創造がある。

 実際の不動明王の目がどのように見え方が変貌するかは、京都の松本明慶仏像彫刻美術館で、皆さんご自身でご確認してください。

 この不動明王坐像の制作過程が、下記で放映されます。

 2018年4月29日 BS-1 クールジャパン 18:00~18:44

 2018年5月13日 BS-1 クールジャパン 12:00~12:44(再放送)

 

2018-04-16

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2018年4月 9日 (月)

円空佛に格物致知を見る

「飛騨の里」の現場を確認

 2018年3月17日、私は「飛騨の里」を確認するために出かけた。幹事が強力に推薦する見学地である。交通費約1万5千円と丸一日を費やした。その結論は、「飛騨の里」は飛騨の昔の農村の家屋敷を再現しただけで、学びとして見る価値が少ない、である。土曜日の休日でも観光客はまばらであった。こんな場所に見識豊かな経営者達を案内したら、幹事の恥である。先生は絶対に喜ばない。

 

後日談

  2018年3月20日、幹事から携帯にショートメールが来た。「今日、飛騨に行かれたのでしょうか」である。私は「17日に行きました。がっかりしました。場所の推薦は、責任をもってしてください。人の意見ではなく、自分の目で確認することが経営者の基本です。飛騨の里に皆さんを連れて行ったら幹事が笑いものになりますよ。岐阜の恥になります」と返信した。それに対して返信はない。

 幹事に返信ショートメールを打っても返信はいつも、絶対に無い。幹事は電子メールを使っていないので、メールを打っても当然、返信がない。以前に聞いた話では「メールは数が多いので見ないの」が戯言であった。ラインかフェイスブックは使っているようだ。だから幹事には携帯電話しか連絡ができない。今回の案内も全て手紙である。結果として、後日、幹事が開催場所を勝手に変えたので、本人が強く推薦した「飛騨の里」には、調査に行かなかった。その謝罪もない。信じて振り回された私がバカを見た。

 

格物致知

 人は人を観て、法を説かねばならぬ。人を観て対応しなければ、人生で地獄をみる。大事な命という時間が死んでしまう。法を説いても、逆恨みで、禍が飛んでくるときもある。悪縁に接し、それを切るのも仏道を習うである。悪縁に接して痛い目に合わないと、真のご縁は見えてこない。悪縁の炎に照らされて、真縁が浮かび上がる。それは五千万光年先から佛が照らす佛光により、闇夜に浮かび上がる真実である。

 現地に行って、自分の目で見て、対象物に触って、自分で考えて、その本質に達する。それが格物致知であり、「現地現物」というトヨタ生産方式である。人のご縁も、まさに格物致知である。真剣勝負をしないと、その人物の真価は見えない。表面的な付き合いでは、真価は露見しない。

 

飛騨の里

 「飛騨の里」は、合掌造りなど、飛騨の代表的な民家30数棟を並べた、昔の農山村風景を再現した集落の博物館である。各民家では、農山村の生活・生活用具を数多く展示している。要は、昔の農山村の風景を再現した集落形式の博物館である。一刀彫の実演や、漆の展示もある。昔の水車を利用した脱穀機などが展示されている。お雛様も古布で作った素朴なお雛様が飾られており、当時の生活ぶりが偲ばれる。生活や遊びに使った橇の展示もあり、当時の生活の大変さが伝わってくる。その農山村の人里離れた奥深い場所で閉鎖された中で育った文化は、交通の要所で育った文化とは、一味違う。私には合わない。

 「飛騨の里」内で実演をしていた飛騨の一刀彫の技も、松本明慶大仏師の40人の弟子達が切磋琢磨してお互いが技を磨いている様と比較すると、なにか見劣りがする。

 母の実家は農家であって、私が幼いころに見た、民具や農機具が展示してあり、懐かしさは感じた。それだけで、わざわざ見に来る価値は少ないと感じた。「飛騨の里」内には、飲食店は一切ない。

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六地蔵 

 六地蔵は現世と冥土の境に経ち、人々を守ってくださる地蔵菩薩である。釈迦の後、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの無佛の世界に住み、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)で迷い苦しむ人々を救うとされる。この六地蔵は、昔、高山市の宗猷寺火葬場道に祀られていた。建立は1740年頃である。一途に死者の冥福を祈った人々の心情が込められている。(説明看板を編集)

 建立は、私の祖先、北尾道仙が亡くなった頃である。1740年頃の数字を見て何か歴史を身近に感じた。時に元禄文化が花開いた時代で、地蔵信仰は1620年ころからだと言われている。弱い人間は、神仏等の何かに頼りたくなるもの。それは現代人も変わらない。自分が弱い存在と思うなら、自分を飾らず神仏に頼ればよい。それが自然に湧き起こる信仰である。

 

円空佛

 ここでの最大の収穫は、祠に安置された円空の仏像を拝めたこと。素朴な趣の仏様のお顔を拝めて何故なほっとした。円空(1632~1695年)は、江戸時代前期の修験僧で仏師・歌人である。各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残している。円空は生涯に12万体の仏像を彫る宿願を立て、全国に円空佛という木造の仏像を立てるため、諸国を行脚した。現在までに約5,300体以上の像が発見されている。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。岐阜県内で1,000体以上を数える。北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作の中にも、作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。その口元は、「円空の微笑み」という独特の柔和な造形が魅力的である。後期になるなるほど、円空の悟りの境地というか、柔和なお顔のつくりが人を引き付ける魅力がある。その柔和さは、全国各地を行脚して地獄の苦労を体験しないと生み出せまい。

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佛様の存在価値

 佛像という佛様は、拝み手を合わせれば、なにか心が安らかになるお顔でないと、手を合わす意味がない。松本明慶大仏師も、拝めば知恵や安らぎを授けてくれるようなお顔を目指して仏像づくりに精進されているという。また参拝すれば己の煩悩を見据えて叱ってくださる佛様、佛に近づきその懐に飛び込めば優しく抱いてくれる佛様を目指して佛像づくりをされておられる。古い伝統に縛られた仏像つくりではあるが、その中にも創造性が育まれる。

 円空も同じ心境で、皆さんを救うために12万体の仏像を彫る過程で、佛作りに創造性を生み出したのだろう。その成果で円空佛は初期と後期ではそのお顔が違う。それは円空が生み出した付加価値である。合掌。

 

2018-04-09

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2018年3月25日 (日)

無知・不敬の「平家物語歴史館」1/4

 2018年3月14日~17日、高松国際ピアノコンクールを聴くために高松に滞在したが、朝10時から夜7時まで会場に拘束されたので、高松の観光地には行けなかった。最終日前日になって、平家物語歴史館が会場の近くに(2キロ)にあることを発見した。開館時間は朝9時からなので、十分に間に合うので見学に出かけた。パンフレットでは、日本最大のロウ人形館とある。朝9時に会場に着いても、時間と平日のせいもあるが、滞在時間中は他の観客は誰もいなかった。料金1200円、見学時間40分。人気はないようだ。全館を見学してその理由を納得した。

 1階が四国にご縁のある偉人のロウ人形の陳列、2階が平家物語絵巻の各場面をロウ人形で再現している。全部で150体ほどのロウ人形が展示されており、一見壮観ではある。

 詳細に観察して、この平家物語歴史館は無知・驕り・不敬・物語性なしの博物館であると結論付けた。

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    高松市の平家物語歴史館

 

全体印象の総括

 よくよく見ると、人間の骨格、表情、人相の専門分野で、ロウ人形師の人物の造詣の無知をさらけ出してているの多々発見した。

 またロウ人形をただ並べただけ、小さい字で説明書きを展示しただけという、後は観光客が勝手に見るだろう、見させてやる、との博物館の企画設計運営屋に驕りが見えた。

 2階が平家物語絵巻の各場面では、わざと暗くしておどろおどろしく展示がされ、まるでお化け屋敷のような雰囲気がある。全体に詰め込み過ぎで、見ていて見苦しい。見世物としての展示の形態で、事務局のやっつけ仕事の驕りを感じた。

 安徳天皇や建礼門院、乳母、義経らは、高貴なお方だからそれ相応のお顔の雰囲気がないと困るのに、まるでその雰囲気がなくド田舎の民衆の顔である。それが気の毒である。人形のモデルに対して不敬でかわいそうである。またそのガサツな造りでは、安徳天皇やその母の建礼門院、乳母に不敬である。

 博物館の展示は、本を読むと同じようにストーリーが無ければならない。その背景は何か、結論は何か、何が言いたいのか、それが不明で、ただおどろおどろしくお化け屋敷のように並べただけという印象である。

 

無知

 1階から入場して、正面に空海が鎮座して、自分を睨んでいるのを発見して、思わずぎょっとした。勿論ロウ人形であるが、出来はなかなかにリアルである。

 

やり手のIT社長の趣

 しばらく見つめていて違和感を覚えた。空海さんであるから偉い人なのだ。それがまるで感じられないのだ。まるで青年実業家のやり手のIT社長といった雰囲気である。その横顔はふてぶてしい「おい、〇〇君、ちゃんと修行の成果は上がったのか? 成果が出ないと地獄行きだぞ」と言われているようだ。リアルであるので、余計にぶきみである。それは全体の雰囲気が薄情な人の印象を与えるからだ。その顔は細面で上唇が薄く作られていた。人相学には、薄い唇の人は、強情で人情が薄いと言われる。この唇の相は、私の昔の上司の唇の形態と同じである。その上司は強情さから最後は会社を潰すことになった。

 このロウ人形は若いころの空海を再現したようだが、全体的な雰囲気として人徳が全く感じられない。人を表現した造形なら、その人の風格がにじみ出る作品でないと、価値がない。ロウ人形は学芸会の余興ではないのだ。

 後日、京都の松本明慶佛像彫刻美術館で、同じ弘法大師座像を拝顔して、ロウ人形との差が明確になった。こちらの方は福々しく人徳溢れた形相で、それでいて威厳あるお姿である。思わず手を合わせてお祈りしたくなった。流石に松本明慶先生作の佛像である。それほどの人相に差があるのだ。

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3p1040657 平家物語歴史館の空海(ロウ人形)

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5p1040724 大仏師松本明慶作「弘法大師座像」松本明慶仏像彫刻美術館にて 

 松本明慶仏像彫刻美術館の許可を得て掲載しています。2018年3月21日撮影

 

百科事典の説明書きの驕り

 パネルの説明も「空海」としての事務的な説明で、敬称もなく単に一僧侶の説明を記述しているだけである。本来なら「空海」でなく「弘法大師」として、日本に仏教を広めた開祖として、敬意ある説明文でなければおかしい。そこに、単なる僧としての説明展示である。日本の偉大な宗教家に不敬だと思う。空海さんは客寄せパンダではないのだ。真言宗の宗徒の方に不敬である。これはやっつけ仕事で、まさにお役所的仕事である。

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法具の持ち方

 また、両方を観察して分かったことが、ロウ人形の右手に持つ五鈷杵という法具の持ち方がデタラメなのだ。その辺の仏教の基礎知識が全くないロウ人形師が、何も考えずに造形している。

7p1040580   ロウ人形 

8p1040725_2     松本明慶師作

耳の造型

 ロウ人形の空海の耳の大きさも大きすぎるし、形も不自然である。その位置もロウ人形は下過ぎて、人の耳として違和感がある。これでは人の耳ではない。耳も耳たぶが普通の造形で、福耳ではないのだ。

8p1040656 ロウ人形

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  松本明慶師作

 

 

顔の品格

 一階の入り口部に壮年の平清盛像が立っている。緻密な作りでリアル感がある。2階の「第二景」に太政大臣に上り詰めた平清盛像がある。それを比較すると同じ人とは思えない。どうも作者が違うようだ。太政大臣に上り詰めた平清盛像は、空海と顔の骨格がよく似ている。その骨格を応用して製作したのだろう。問題は、壮年の平清盛像のお顔である。どう見ても下品な成り上がりものの顔としか思えない。大将なのだから、なにか気品がある顔立ちであるはずだ。それがないので、ロウ人形作者の人格を疑ってしまう。

10p1040658 壮年の平清盛像

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 太政大臣に上り詰めた平清盛像

人形作りの基本

 ロウ人形を作るにも人体の骨格、肉付き、人相を熟知しないと、本物の命あるロウ人形はでできない。特に写真が残っている実在の人のロウ人形の製作では三次元データ等を使うので、そこそこの形には出来る。しかし、写真もなく、1300年前の人物のロウ人形の製作は、ロウ人形師本人の人格と技量が問われる。そのロウ人形師の人格以上のロウ人形はできない。会計ソフトを作るにも、ソフトの技術だけなく会計学の知識が必要である。それと同じように、人間の骨格、表情、人相の専門分野で、プロでなければ本物のロウ人形はできない。人物の内面にまで踏み込まないと、命ある像はできない。形はできても、人を感動させる作品はできない。平家物語絵巻の第五景『俊寛のみ赦されず』の中の船頭の体の姿勢がデタラメなのだ。こんな格好では櫂を扱えない。一時が万事で、他も同じである。

13p1040598 第五景『俊寛のみ赦されず』

 

見世物として

 ロウ人形とは何か、その位置付けを考えて悩んでいたが、結論としてロウ人形は見世物、客引き、アトラクションが結論である。芸術作品ではないようだ。この空海は、仏像とは全く別の作品で、見世物である。だから展示が美術館ではなく博物館なのだ。本来、芸術作品として展示も可能のはず。そうでないのは、ロウ人形師とその企画・製造・展示させた主催者の姿勢に問題がある。

 

2018-03-25

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年2月24日 (土)

「仏心大器」の佛に出会う

 2018年2月23日、広島県廿日市市宮島町にある大願寺に納佛されている松本明慶師作の総白檀の不動明王坐像(八丈大仏・約5m)を拝顔した。その大仏を制作する過程を記録した『仏心大器 平成の仏師・大仏に挑む』をビデオで7年ほど前に見て、感銘を受け、いつかは参拝したいと思っていた。今回、馬場恵峰先生宅を訪問した帰路、厳島神社に寄って、不動明王の尊顔を拝み、手を合わせて、なにかほっとした。長年の思いが叶った喜びである。

 不動明王はいかつい顔つきで拝む者を睨んでいるが、その顔は怒りと慈愛に満ちた厳父のような雰囲気である。右手に持って剣で、我々の煩悩を断ち切り、左手に持った羂索で、我々を迷いの世界から救い上げる。不動明王は救いの仏様である。

 大願寺の不動明王像は撮影禁止のため、映像はNHKオンデマンドで『仏心大器 平成の仏師・大仏に挑む』をご参照ください。ビデオの画像も著作権者が多く存在する理由で、NHKは画像のブログ等への掲載を一切禁止しています。

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 大願寺は船着場から厳島神社内の回廊を通って、その出口の前に位置する。

 

仏師の仕事・人生の仕事

 その松本明慶師の大仏製作の記録は、仕事とは何か、人生とは何か、を考えさせられた。明慶先生の手による目の彫りの工程で、図面も下書きもなしに、直接、眼をノミにて彫りにいく様は神業としか思えない。神業でも人間としての迷いを持ちながらの彫りの工程である。またそこにもドラマがあった。「今日の自分は最高の自分ではないかもしれない」と、自分を超える自分に遭うため、日を改め、時を待つ姿がそこにあった。

 彩色師の長谷川智彩師が、不動明王座像の目に瞳を描き入れる時、不動明王座像を見つめる彼女の眼には凄みがあった。

 今まで不動明王像には、なにか近寄りがたいものを感じていた。しかしその眼差しは、怒りで慈悲を表していることをこの記録が教えてくれた。その静かな怒りは上品なのである。その両方を表現するために、全神経を集中させている明慶先生と長谷川智彩師の姿に感動である。大佛の寿命は千年、人の寿命はせいぜい百年である。それゆえ千年の間、人の評価に耐える大佛を作るために、佛師は命をかけて刀を入れる。

 松本明慶先生は、(技のレベルを上げるため、ミケランジェロが第二の師匠になるかもしれないが「それを学べるなら命に代えてもいい。絶対に無駄にはしません」とまで言いきる(NHKBSプレミアム 松本明慶ミケランジェロの街で仏を刻む『旅のチカラ』2013年)。

 人生で、一番多くの時間を費やすのが仕事である。人生において、命を賭けられる仕事に出逢えるのは、人生冥利に尽きる。それも生涯現役で働けられれば最高である。仕事は生活の糧を得る手段だけではない。

 

佛像彫刻の基本

 「佛像彫刻をすると皆さんはすぐお顔を彫りたがる。たとえば佛像彫刻で佛様の鼻を彫ろうと思ったら、まず回りを彫らないといけない。直接鼻を彫って高くしようと思ってもうまくいかない。周りを彫ると自然と鼻が浮かび上がってくる。耳を彫る場合でも周りを彫れば耳ができてくる。彫りたい箇所を直接攻めるのではなく、周りから彫っていく。口元を掘る場合も同じだ。これは根回し、段取りの仕事である」(小久保館長)

 「松本工房の佛像は、概略のデザインを師匠が行い、細部はお弟子さんが彫っていく。基本のお顔は師匠がすべて仕上げる。木の材料には、節や傷が必ずあるのでそれを避けて、材料取りのデザインを師匠が行う。これが難しい」(小久保館長)

 

仕事の要点

 仕事でも避けなければならない難所、ポイントがある。それを見極めて、弟子に細部を任せていく。なるほどと思い、人生も仕事も同じだと納得した。佛様のお計らいで、いい話を聞かせていただけた。求めるモノを直接攻めても相手は逃げていく。周りから、そして自分の内面を充実してじっくり取り組むのが人生の正道である。これからの人生の旅の歩き方のヒントを得た。

 

仕事に必要な総合力――芸術も同じ

 「佛像を彫るには、彫刻の技量だけでは不十分で、仏教の知識、人体の知識等の総合知識力もないと、人に感動を与える本物は彫れない。なぜなら、佛様や布袋様などは架空の存在である。それを形にするには仏教の知識、人体の知識等の総合力が必要であるからだ。時には密教の経典の知識も必要となる。」(松本明慶大仏師)

 「高名な某彫刻家がいて、実在する(モデルのある)動物や人物では優れた作品を残している。しかし、架空の存在である大黒天や七福人の彫刻は形がなっていない。それは彼の彫刻の技術は卓越していても、基盤となる総合知識がないからだ。たとえば、彼の作った布袋さんの顔には品と知性がない。これではこの布袋さんに相談しに行く気が起こらない。また座っているこの像は、もし立ったらこの足の太さでは、体を支えきれない不自然な構成となっている」(松本明慶大佛師)

 2つの写真集で作品を見比べると、その高名な彫刻家の布袋さんのお顔と松本明慶大仏師の彫ったお顔には、表現できない大きな差があった。その昔、人相学をかじったことがありその知識からみれば、その違いはすぐ理解できる。

 その昔、私はCNC研削盤の開発でNCソフト開発に携わり、その経験から言うと、会計学のソフト開発でも、単にプログラミングの技量だけでは、使い物になるソフトはできない。会計学のソフト開発には会計学の知識と実務での総合知識が求められる。それと同じことが、佛像彫刻の世界や全ての仕事で、この基本は、当てはまる。

 

仏像彫刻の世界

 最近は安い労働力を武器に中国、東南アジア製の佛像が出回ってきていて、日本佛像彫刻界の脅威となっている。しかし、その大半は部品を別体で作っている。それに対して日本の本物は本尊一本彫りである。各部の継ぎ足し修正は、佛師の恥である。これは西洋の大理石の彫刻でも同じで、全て一体の大理石から彫られている。西洋でも修正のため部分の継ぎ足しは、軽蔑される。

 観音様の見えない後ろ側の御頭の髪も手抜きもなく、一本ずつ髪があるがごとく克明に彫刻する。松本明慶大佛師のお話では師の工房の技術は世界一の技術だと自負されていたが、実物をみると、技量と仏教の知識に裏づけられた彫像のありかたに納得させられる。心が洗われ、眼の保養になった。800年前の運慶・快慶の技術が、口伝により脈々と伝承されている日本の佛像彫刻伝統に誇りを感じた。ヨーロッパの彫刻文化とは一味もふた味も違う。

 私の前職の業務は工作機械事の開発業務で、5次元研削加工機を設計したこともある。それですぐに悟ったことは、5次元加工機でこの佛像をNC加工で製作することは不可能であることだ。仏像彫刻展に展示してある佛像には、手の細かい細工をしても加工が困難な部位が無数にあり、物理的に5次元加工機の刃具を干渉させずに加工はできない。しかし、人の神業にして初めて可能なのだ。

 

AIの限界

 英語と日本語を少しかじった経験から、自動翻訳がコンピュータでは無理(大雑把な訳はできる)なのと合い通じるものを感じた。人間には感情がある。仏様を彫るのにも、その人の心が現れる。翻訳するにも、原作者の心を読まないと翻訳はできない。ある意味、原作者以上の人間力がないと翻訳は無理なのだ。人間の技と頭脳は、いくらコンピュータや機械が進化しても、次元の違う神秘的な素晴らしさがある。

 

2018-02-24

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2017年12月20日 (水)

F1フォーミュラとして殿様飛蝗を彫る

 2017年11月14日、上野の国立博物館で開催中の「運慶展」と東武百貨店池袋店で開催中の「大仏師松本明慶仏像彫刻展」に出かけた。その展示会で、明慶師が身を乗り出して説明を始められた小さな作品があった。それが「古木に殿様飛蝗」の作品であった。先に会場を一巡して、目には留まっていたが、別に気に留めるまでもなく、他の仏像に気を取られて、通り過ぎていた作品であった。明慶師の説明を聞いて興味を持った。それは彫刻のF1フォーミュラ級の作品であった。その作品に持てる技術の全てを投入して、技術の修得と技の誇示として作られた作品であった。それは自動車メーカが全技術を投入して、F1フォーミュラカーを製作してレースに参加するのに似ている。それで開発された技術を大衆車に展開される。明慶師もその技術を仏像づくりに投入される。

 

松本明慶師の解説

 天才肌の松本明慶師は、まず言葉から説明をされた。バッタとは「飛ぶ」と「虫」扁に「皇帝」と書く。バッタは持てる複眼で、飛ぶ先をしっかりと見据えて、それを目掛けて一気に飛ぶ。人生は、跳ぶ前の良く見よ、である。それが殿様バッタである。別名、大名バッタともいう。縁起物で、将来の飛躍を叶えるお守りだという。単純な私は、松本明慶師の名説明にコロッと丸め込まれて、入手する決断をした。芸術品の入手の決断は一瞬である。展示会の最終日、二度目の明慶展に出向いたら、同じもう一体の作品に売却スミの印が付いていた。目を付ける人はいるものだと感心した。

 

殿様飛蝗の詳細

 その「古木に殿様飛蝗」が、2017年12月20日(先勝)の今日、自宅に納佛された。自宅に届けられた作品を見て、驚きの再確認である。古木の長さ150mm、飛蝗は40mm。枯木とその上に居座る飛蝗は、一体で彫られた楠の一本彫りである。頭の角だけが、別部品の特殊素材で作られている。それをカメラの接写機能で撮って、その写真を拡大してみて、また驚きである。バッタの前足は、太さ1.9mm程度。どうやってこんな細い足を、なおかつ宙に浮いているように彫ったの?と言いたくなる。少し刃物に力をかけすぎれば足が折れて無くなってしまう。その太さ1.9mm程度の足の表面が、その足を擦れば鳴き音を出せるような質感で飛蝗の足が彫られている。足の皮の状態がリアルである。枯木の年輪も、本物の年輪のように彫られている。元は楠の角材である。古木の表面の状態が、忠実に彫られている。明慶師の仏像づくりで培った技のこだわりに脱帽である。明慶師が、その出来栄えに自慢したくなるのも納得できる。この殿様飛蝗のお値段は軽自動車一台分である。この殿様飛蝗に負けないように、自分も将来をしっかりと見据えて、飛躍をしたい。仏様が殿様飛蝗に姿を変えた。私の守り佛である。

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2017-12-20

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2017年11月24日 (金)

運慶展でリュックサックに学ぶ


   運慶展のような混雑した会場では、リュックサックは禁止すべきと思う。リュックサックを背負っていると、往々にして後ろの人への気遣いが疎かになる。今回もリュックサックを背負った人が、無神経に振り向いて私にリュックサックをぶつけた。その御仁は、それも気づかず向こうに行ってしまった。そんな人は仏を鑑賞する資格がないと思うのだが。
 京都国立博物館での国宝展では、館内アナウンスでリュックサックを前で抱えるようにと注意があったが、それを守っている人は少なかった。

友との別れ
   5年ほど前に、このリュックサックの件で40年来の友と別れる事件があった。私はリュックサックの意見を友に伝えたのだが、友はリュックサックの利点を持論として滔々と展開した。問題は、その持論が正しいかどうかではなく、相手がどう思うかである。自己の意地ではなく、社会の意思がどうなのかである。その持論の正否は時代、環境、個人の思想で頻繁に変わる。その気配りのない人柄を見せつけられて、嫌気がさして別れる決断をした。今でも正しい決断であったと思う。最近のなんでも反対の野党や不倫政治家は、正論もどきの言い訳を滔々と展開するが、国民がどう思っているかには、考えが及ばない。その結果が先の総選挙の結果だと思う。

己が背負う業
   己は永年生きてきて、多くの業を抱え背負っている。前に抱えた業はわかるが、背負った業は自分では見えない。それを教えてくれるのが、師であり友なのだ。その声を真摯に聴かないと人生は開かれない。芥川龍之介作の「蜘蛛の糸」で己の下にぶら下がってきたのは罪人ではなく、己が背負う業なのだ。それを軽くしない限り、天が授ける幸運の糸はすぐ切れてしまう。それを再確認させて頂いた運慶展であった。

2017-11-24

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