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2018年2月24日 (土)

「仏心大器」の佛に出会う

 2018年2月23日、広島県廿日市市宮島町にある大願寺に納佛されている松本明慶師作の総白檀の不動明王坐像(八丈大仏・約5m)を拝顔した。その大仏を制作する過程を記録した『仏心大器 平成の仏師・大仏に挑む』をビデオで7年ほど前に見て、感銘を受け、いつかは参拝したいと思っていた。今回、馬場恵峰先生宅を訪問した帰路、厳島神社に寄って、不動明王の尊顔を拝み、手を合わせて、なにかほっとした。長年の思いが叶った喜びである。

 不動明王はいかつい顔つきで拝む者を睨んでいるが、その顔は怒りと慈愛に満ちた厳父のような雰囲気である。右手に持って剣で、我々の煩悩を断ち切り、左手に持った羂索で、我々を迷いの世界から救い上げる。不動明王は救いの仏様である。

 大願寺の不動明王像は撮影禁止のため、映像はNHKオンデマンドで『仏心大器 平成の仏師・大仏に挑む』をご参照ください。ビデオの画像も著作権者が多く存在する理由で、NHKは画像のブログ等への掲載を一切禁止しています。

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 大願寺は船着場から厳島神社内の回廊を通って、その出口の前に位置する。

 

仏師の仕事・人生の仕事

 その松本明慶師の大仏製作の記録は、仕事とは何か、人生とは何か、を考えさせられた。明慶先生の手による目の彫りの工程で、図面も下書きもなしに、直接、眼をノミにて彫りにいく様は神業としか思えない。神業でも人間としての迷いを持ちながらの彫りの工程である。またそこにもドラマがあった。「今日の自分は最高の自分ではないかもしれない」と、自分を超える自分に遭うため、日を改め、時を待つ姿がそこにあった。

 彩色師の長谷川智彩師が、不動明王座像の目に瞳を描き入れる時、不動明王座像を見つめる彼女の眼には凄みがあった。

 今まで不動明王像には、なにか近寄りがたいものを感じていた。しかしその眼差しは、怒りで慈悲を表していることをこの記録が教えてくれた。その静かな怒りは上品なのである。その両方を表現するために、全神経を集中させている明慶先生と長谷川智彩師の姿に感動である。大佛の寿命は千年、人の寿命はせいぜい百年である。それゆえ千年の間、人の評価に耐える大佛を作るために、佛師は命をかけて刀を入れる。

 松本明慶先生は、(技のレベルを上げるため、ミケランジェロが第二の師匠になるかもしれないが「それを学べるなら命に代えてもいい。絶対に無駄にはしません」とまで言いきる(NHKBSプレミアム 松本明慶ミケランジェロの街で仏を刻む『旅のチカラ』2013年)。

 人生で、一番多くの時間を費やすのが仕事である。人生において、命を賭けられる仕事に出逢えるのは、人生冥利に尽きる。それも生涯現役で働けられれば最高である。仕事は生活の糧を得る手段だけではない。

 

佛像彫刻の基本

 「佛像彫刻をすると皆さんはすぐお顔を彫りたがる。たとえば佛像彫刻で佛様の鼻を彫ろうと思ったら、まず回りを彫らないといけない。直接鼻を彫って高くしようと思ってもうまくいかない。周りを彫ると自然と鼻が浮かび上がってくる。耳を彫る場合でも周りを彫れば耳ができてくる。彫りたい箇所を直接攻めるのではなく、周りから彫っていく。口元を掘る場合も同じだ。これは根回し、段取りの仕事である」(小久保館長)

 「松本工房の佛像は、概略のデザインを師匠が行い、細部はお弟子さんが彫っていく。基本のお顔は師匠がすべて仕上げる。木の材料には、節や傷が必ずあるのでそれを避けて、材料取りのデザインを師匠が行う。これが難しい」(小久保館長)

 

仕事の要点

 仕事でも避けなければならない難所、ポイントがある。それを見極めて、弟子に細部を任せていく。なるほどと思い、人生も仕事も同じだと納得した。佛様のお計らいで、いい話を聞かせていただけた。求めるモノを直接攻めても相手は逃げていく。周りから、そして自分の内面を充実してじっくり取り組むのが人生の正道である。これからの人生の旅の歩き方のヒントを得た。

 

仕事に必要な総合力――芸術も同じ

 「佛像を彫るには、彫刻の技量だけでは不十分で、仏教の知識、人体の知識等の総合知識力もないと、人に感動を与える本物は彫れない。なぜなら、佛様や布袋様などは架空の存在である。それを形にするには仏教の知識、人体の知識等の総合力が必要であるからだ。時には密教の経典の知識も必要となる。」(松本明慶大仏師)

 「高名な某彫刻家がいて、実在する(モデルのある)動物や人物では優れた作品を残している。しかし、架空の存在である大黒天や七福人の彫刻は形がなっていない。それは彼の彫刻の技術は卓越していても、基盤となる総合知識がないからだ。たとえば、彼の作った布袋さんの顔には品と知性がない。これではこの布袋さんに相談しに行く気が起こらない。また座っているこの像は、もし立ったらこの足の太さでは、体を支えきれない不自然な構成となっている」(松本明慶大佛師)

 2つの写真集で作品を見比べると、その高名な彫刻家の布袋さんのお顔と松本明慶大仏師の彫ったお顔には、表現できない大きな差があった。その昔、人相学をかじったことがありその知識からみれば、その違いはすぐ理解できる。

 その昔、私はCNC研削盤の開発でNCソフト開発に携わり、その経験から言うと、会計学のソフト開発でも、単にプログラミングの技量だけでは、使い物になるソフトはできない。会計学のソフト開発には会計学の知識と実務での総合知識が求められる。それと同じことが、佛像彫刻の世界や全ての仕事で、この基本は、当てはまる。

 

仏像彫刻の世界

 最近は安い労働力を武器に中国、東南アジア製の佛像が出回ってきていて、日本佛像彫刻界の脅威となっている。しかし、その大半は部品を別体で作っている。それに対して日本の本物は本尊一本彫りである。各部の継ぎ足し修正は、佛師の恥である。これは西洋の大理石の彫刻でも同じで、全て一体の大理石から彫られている。西洋でも修正のため部分の継ぎ足しは、軽蔑される。

 観音様の見えない後ろ側の御頭の髪も手抜きもなく、一本ずつ髪があるがごとく克明に彫刻する。松本明慶大佛師のお話では師の工房の技術は世界一の技術だと自負されていたが、実物をみると、技量と仏教の知識に裏づけられた彫像のありかたに納得させられる。心が洗われ、眼の保養になった。800年前の運慶・快慶の技術が、口伝により脈々と伝承されている日本の佛像彫刻伝統に誇りを感じた。ヨーロッパの彫刻文化とは一味もふた味も違う。

 私の前職の業務は工作機械事の開発業務で、5次元研削加工機を設計したこともある。それですぐに悟ったことは、5次元加工機でこの佛像をNC加工で製作することは不可能であることだ。仏像彫刻展に展示してある佛像には、手の細かい細工をしても加工が困難な部位が無数にあり、物理的に5次元加工機の刃具を干渉させずに加工はできない。しかし、人の神業にして初めて可能なのだ。

 

AIの限界

 英語と日本語を少しかじった経験から、自動翻訳がコンピュータでは無理(大雑把な訳はできる)なのと合い通じるものを感じた。人間には感情がある。仏様を彫るのにも、その人の心が現れる。翻訳するにも、原作者の心を読まないと翻訳はできない。ある意味、原作者以上の人間力がないと翻訳は無理なのだ。人間の技と頭脳は、いくらコンピュータや機械が進化しても、次元の違う神秘的な素晴らしさがある。

 

2018-02-24

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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