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2018年4月18日 (水)

無知・不敬の「平家物語歴史館」3/4

第六景 物怪

 桓武天皇が平安京(現在の京都)を建てて以来、遷都はなかった。それを人臣の清盛が1180年、福原(現在の神戸市)に遷都した。人々は動揺して、新都では、いろんな物怪が出現した。この遷都には帝も臣下も嘆き、全ての神社も異を唱えたので、清盛はついに旧都に戻ったとされた。(『平家物語』)第五「物怪之沙汰」の要約)

 

 上記の情景を下図のロウ人形のお化けで表現するのでは、歴史館には違和感があり、単なる見世物のお化け屋敷の表現に成り下がっている。

 「歴史館」と謳っている以上は、「いろんな物怪が出現した」という文学表現を、歴史と史実に基づいた表現にすべきだと思う。

 このお化けのロウ人形で表現された情景から、人は何を学ぶのか、それが歴史館として問われている。これでは、見学者の時間泥棒である。見学する方にも、時間という命がかかっている。学ぶべきことがなければ、付加価値がゼロである。当時の状況を伝えたのなら、説明パネル1枚だけで充分である。

31p1040607  物怪に怯える平清盛

第9景 清盛、高熱を発して死去

 清盛の最期の言葉は「現世の望みは全て達せられた。ただ一つ思い残すことは、源頼朝の首を見なかったことだ。その首を私の墓の前にかけよ」。享年64歳。

『平家物語』第六 「入道死去」より

 

 清盛の最期の言葉が虚しい。清盛は後年、僧侶になっている。その立場で、人生最期の言葉が上記では哀しい。人臣の位を極めても、人としての魂の位は、下賤の民と同じである。

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死者を晒し物に。死者への敬意なし

 平家物語で、戦いの場面が多いのは致し方ないが、熊谷直実が平敦盛を倒した時の情景をロウ人形として表現して、どういう付加価値があるのか。それよりも戦う場面の姿を表現した方が、見る方も安堵する。死者を晒しものにする表現では、死者への冒涜である。現代のゲーム感覚で、簡単に死ぬ場面が氾濫するテレビと同じである。それよりも戦う姿を表現して、結果として一方が斃れたと文章で表現すればよい。

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那須与一が扇を射る

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 上図は那須与一が沖合の舟上の扇を射る名場面である。その扇を手に持つ美女の場面で、美女であるはずの女性のお顔がなっていない。横にいる船頭も、姿勢が異様である。

 

第13景 安徳天皇、入水

 最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した(『平家物語』「先帝身投」より)。

 

天皇に対して不敬

 手を合わせて入水する前の幼い安徳天皇のお姿は、作り物の匂いがプンプンである。まるで見世物の様で不敬ではないかと思う。幼い天皇を抱いて二位尼(平時子)が入水するなは納得できるが、入水前に安徳天皇が手を合わせるお姿は、お涙頂戴の雰囲気で幻滅である。当時、安徳天皇は満6歳4か月である。そんな歳で、覚悟を決めて手を合わせるとは思えない。そのお顔の造りも、高貴な趣きが感じられない。こんな情景は天皇に対して不敬と思う。『平家物語』の記述ではなく、別の解釈をして荘厳な情景を再現して欲しかった。『平家物語』は史実に基づいた創作であり、脚色があり、史実ではない。

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第16景 祇園精舎の鐘の声

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 上は建礼門院が安徳天皇と一門の菩提を弔う情景である。しかし、そのお顔は、天皇を生んだ高貴なお方としての品がない。黒目もバランス的に大きすぎて異様なお顔となっている。ロウ人形で表現するなら、もっと美くしい人であって欲しい。美人でなくてもよいから、気品のあるお顔にして欲しい。これでは漫画である。

 上の情景で、右端の尼僧(佐の局)は安徳天皇の乳母である。高貴な生まれの方なのに、どこにでもいる農家の老婆のようなお顔の造形である。これは高貴な方の面立ちではない。これでは笑ってしまう。

 

六道の道

 建礼門院は後白河院に「生きながらにして、天上・人間・畜生・餓鬼・修羅・地獄の六道をめぐりました」としみじみと語った。(『平家物語』灌頂巻)

 その情景で、上図の雰囲気が全くない。六道という重い言葉を噛みしめて、それをロウ人形で表現するのが、芸術家なのだ。それが表現できなければ芸術家では無い。芸術家は、地獄界から始まって、天上界までの長い道のりを歩む。その途中で地獄にまた落ちていく人がなんと多いことか。

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 上図は山下泰文陸軍大将のロウ人形である。山下大将はマレーの虎の異名をとるが、実際は紳士的であり、人格者であった。それが上の図のロウ人形の表情からは、そうは見えない。作り物の表情である。山下泰文陸軍大将に対して失礼である。

 

 ロウ人形とは、作者に心が現れた鑑なのだ。作者の人格以上の作品は創れない。この歴史館で、その鑑の羅列を見て落胆した。自分が作る仕事も、自分の心が現れる作品なのだ。その出来栄えを観れば、その人の人格が透けて見える。私はそういう目で、回りの人の仕事ぶりを観察している。

 

2018-04-18

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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