2017年8月22日 (火)

自然との対話を大切に

 太志塾(大島修冶塾長 2014年10月5日)で、演題「自分を知る事の大切さ」との馬場恵峰先生のお話をまとめた。

 初日(10月4日)の太志塾の講義が終ったあと、恵峰先生が身内の仲間に意味深長に、「明日の講義は年功のある話を聞かせてあげる」と言われた。

 「理屈は通る話だが、ガンガン、バリバリと熱い話を一方的に頭に押し込んでも、相手には受け入れてもらえない。体にビタミンCがいいからと大量に摂っても一定以上は排出されるだけ。それが自然の体の摂理である。頭に入れる情報も同じで、まずその器を大きくしないと、頭に入っていかない。単に消化不良を起こすだけである。講演会も同じで、もっと自然体で優しく話さないと頭に入らないし、ためにならない」が恵峰先生の言いたいことである。自然を愛でて余裕ある生き方をしないと、長生きも良き経営も出来ない。

 人から尊敬される人間になるためには、まず自分が自分を育てないといけない。自分が自分を大事にしないと長生きはできない。恵峰先生が88歳の道を歩いているには、歩くことができるようにした心がけのワケがある。がむしゃらに高度成長で驀進しても、どこかで躓いてしまう。そこから先生は講義の冒頭で「すすき」を持って話すことを思いつかれたようだ。

 

「若いね」

 先生に言わせると、初日の講話を担当された百戦錬磨の講師達は「若いね」であった。88歳の年長者から見た年功の差は、如何ともしがたい大きな差がある。88歳にならないと見えない世界がある。先生の講義を聞いて、他の若い(といっても60歳前後)講師の話との大きな差を感じ、年功と言う財産を羨ましく感じた。もっともそういう年功を感じさせる人生の達人(老人)は、日本はおろか中国でも少ないのが現実である。そういう恵峰先生とご縁が出来たのもありがたいこと。日本では、老人の「老」はマイナスのイメージがあるが、「老」とは中国での本来の意味はプラスのイメージの言葉である。

 自分を深く知らない限り、親から頂いた命は全うできない。生きているのではない、活かされているのだ。それに感謝して人生を全うしたいもの。

 前日の深夜の色紙書きを終え、朝を覚ますと窓の外にすすきが揺れていた。

   太志塾またおいでよとすすき揺れ  恵峰

 その時にならないと頭が回らないのでは、いくら理屈をこね回しても儲からない。ゆかしく楽しく生きること。自然と対話する人間にならないと長生きができない。口先だけで利口なことを言っても人は付いてこない。己の足元を見ていく生きかたが大切である。

 

付加価値を生む環境

 今回(2014年10月)、日本人3名のノーベル賞を受賞したことで中国、韓国は知識層を中心に打ちひしがれているはずです。たとえどんなに経済成長を続け、強大な軍事力を誇っても、その国が世界中の尊敬を集めることはありません。重要なのは、どれだけ人類史上に残す知的財産や文化的財産、すなわち普遍的価値を生み出したかに尽きます。また、それによってのみ、国民に真の自信と誇りが備わるのです。

 ノーベル賞の受賞者が輩出する国には2つの条件があります。

 第一に、幼年期から成長していく過程で、身近に美しいものがなければなりません。豊かな自然や優れた芸術、文学に触れて美的感受性を養うことが必要です。数学や物理学などのサイエンにとって、美的感受性は知能指数や偏差値よりも大事です。

 日本には緑の山々や、繊細な四季の移り変わりがあります。それ自体が世界的にも大変珍しい。加えて素晴らしい文学、絵画、彫刻も多数存在し、美に触れる機会にも恵まれています。

 第二に、精神性を尊ぶ風土も不可欠です。要するに、金儲けや実用性だけを追及せず、役に立たないと思えても精神性の高いものには敬意を払う土壌が肝要と言えます。『万葉集』にしても、日本では1400年も前から一般庶民が腹の足しにもならない歌を詠んでいる。そこに価値を生み出すことが何よりも大切です。多くの科学分野では、100年後に芽が出るか、100年後に実用化するかどうか分からないことも研究しています。それを“単なる無駄”と考えてしまったら人類に進歩はないんですね。

 中国や韓国にも有能な人材はたくさんいますが、残念ながら彼らの多くは金融関係や弁護士、医者といった“金になる”仕事に就いたり、海外へと流失していく。利益だけを優先すると“無駄な”科学に人材が向わなくなるわけです。

      数学者・藤原正彦氏(『週刊新潮』2014年10月23日号)

 

 これは経営にも当てはまる。単に金儲けだけのグローバル経済主義は、1%の人だけの幸せを追求するが、99%の人たちを不幸に陥れる邪悪な思想である。なんのために経営をするのか、自然をめでる余裕がない経営者に、良い経営も長生きも出来ないと恵峰先生はすすきを例に、塾生を諭している。

 

わかっているであろうか

 忘れてはならぬものは     恩義

 捨ててはならぬものは     義気人情

 与えなければならないのは   人情

 繰り返してはならないものは  過ち

 通してはならないものは    我意

 笑ってはいけないものは    人の失敗

 

 人から聞いた話も咀嚼をして自分のものにしてから、部下に話をしないと相手は聴いてくれない。自分のものにしてから、自分の我意を通していくこと。

 

「いのち」とは「胃脳血」

 胃  食材

 脳  考え

 血  全身を巡る

 

 先祖、親、師、友のご恩があって今の自分がある。夢夢「自分が」ではないと思うべし。馬鹿になることが大切。利巧ぶるからうまく行かない。馬鹿にならないと100mの巻物は書けない。馬鹿にならないと中国に230回も行けない。近所の暇人が言う「どげんか用があって中国に行くばってん?」 用があるから中国に行くのではない、用を作りに行くのだ。そこから新しいご縁が始まる。馬鹿になって己の道を精進しないと、年老いてから後悔する。人の馬鹿を笑っている者が、最期に笑われる本当の馬鹿になる。

 自分の人生を謳歌するのが仕事ではない。人として後に続く子孫のために仕事をするのだ。「ひと」とは「霊」が「止」まると書く。縁あって人間に生まれたのだ。豚に生まれなかった幸せを考えよう。

 

図1 講演される馬場恵峰先生   2014年10月5日

 

2017-08-22

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自分と言う宗教

 宗教とはお釈迦様やキリスト様を信ずることではない。宗教とは人としての「宗(もと)」の教えである。元とは祖先、本家、おおもとである。「宗」は「宀」+「示」で構成され、「宀」は家屋、「示」は神事の意味である。「宗」は神事の行われる家屋、おたまやの意味を表し、転じて祖先や祖先を祭る一族の長の意味を表す。だから家系が信ずるご先祖の教え(家訓)を守ることも立派な宗教である。その家長が家訓を守って実行していれば、家長は教祖として立派な宗教家である。本多さんなら本陀羅佛教の教祖様である。だから私はお陀佛教の教祖である。

 

 お釈迦様はあの世があるともないとも、何も仰らなかった。戒名もお墓も作らずに旅立たれた。病で亡くなられたので、穏やかな死である。他の宗教の過酷な死とは違い、教祖の穏やかな死は、その宗教の雰囲気にも影響する。

 戒名も経典もお墓も後世の弟子達の創造物である。原始仏教は単純である。それでは庶民に有り難さを感じさせられないので、後世の弟子が装飾を施したのが現代の宗教である。現代の宗教は減価償却費や維持管理費、人件費がかかるので、護持会費や戒名や法事等の名目を立てお金を集めているのだ。それも方便である。それで宗教の世界が回れば佛様、僧侶、檀家の三方よしである。文化が発達したこの世なのだからそれくらいの「お化粧代」があっても良いと思う。やりすぎて金儲けが目立つ宗派が存在するが、その宗派の本質を見極めて、縁なき宗教として避ければよい話である。

 

人間としての教え

 人間としての根本の教えは全宗教とも基本的に同じで、簡潔に表現すれば、「汝殺すなかれ、汝姦淫するなかれ、汝盗むなかれ」である。それは人間社会が人間社会としてあり続けるための当たり前の戒律である。それが人間と動物の世界を分けた掟でもある。それに各民族の風土の要素を加味した教えが各宗教・宗派である。砂漠の厳しい環境で生まれた宗教は厳しい戒律となる。「目には目を、歯には歯を」である。温暖な風土で生まれた宗教は温厚な戒律となる。それを見極めてどの宗派に属して信仰を深めるかは各自の自由である。

 ちなみに仏教ではその宗派への勧誘は禁止されている。勧誘に熱を上げるのは新興宗教の特徴で胡散臭い集団である。それが宗教の真贋を見分ける一つの目印である。わが菩提寺が檀徒集めで勧誘をして歩いているという話を聞いたことがない。

 人間としてあるべき姿は、「人と比べず、ご恩ご縁を忘れず、命を大事に、自分の天命を知り、吾が道を歩く」を信条とすれば、それも立派な経典といえる。人智超えた神仏の存在を信じて畏敬して生きる。それが智慧ある人間としての生き方である。自分教を信じて、人生を全うしたい。

 

2017-08-22

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50m写経巻物の撮影

 馬場恵峰師が卒寿記念で50mの写経の巻物を書き上げたという話を聞いたのは、2016年11月28日の百m巻物の三度目の写真撮影をするため、先生宅を訪問したときである。師はこの巻物で般若心経を十種類の書体で書き上げたという。12月8日、卒寿記念恵峰写経書展を見て、その写真撮影をし、その写真集を編集する段階で、50mの写経の巻物の一部を掲載せねば、画龍点晴だと痛感した。それで急遽、12月22日に、写真撮影のため、長崎へ飛んだ。写真撮影で50m巻物を扱うのに、一人では無理なのでいつもの撮影協力隊の皆さんに応援を依頼した。年末の忙しい中で、自称(?)「熟女・一応主婦」の皆さんが快く手伝って頂けたことに感謝です。いつもは早割、シニア割引で長崎に飛んでいるが、年末のため、いつもの格安のシニア料金が通常のビジネスクラス並みの料金に跳ね上がっていたのは想定外でした。

 今回の撮影分を含め、この1ケ月間で、計3回も長崎に出向くことになり何か導かれた縁を感じた。今回、この50m写経軸を撮影するにあたり、前から懸案であった当家の墓誌を作り直す過程で、その裏面に彫る文章を再作成する決断ができた。計20回弱の推敲を繰り返して完成した当家墓建立の経緯文である。その文面を先生に揮毫して頂くご縁ができたのも今回の写経軸の撮影での佛縁であると思う。ご先祖も喜んでおられると思う。

 

図1 書き上げた50m写経軸を説明する恵峰師 2016年11月28日夜

図2 50m写経軸の撮影風景 2016年11月29日

図3 50m写経軸

 

2017-08-22

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「桜田門外ノ変」の検証 (13/25)戒名

死に装束

 彼は藩主の兄の死によって、彦根藩の領主になり、自分の意志とは関係なしに政治の表舞台に引き出される。それは「桜田門外の変」の5年前である。正に国難来る時である。その時の悩みや不安の心境を、故郷の親しい家臣宛に書状を送っている。その書面と一緒に彼の戒名を自筆で記した紙が同封された。

   戒名 宗観院殿柳暁覚翁大居士

 彼は老中になってから登城の際は、白装束の上に袴、紋付きを羽織っていた。そこに彼の決意が現れていた。死の覚悟はできているという死に装束の決意表明でもあった。彼は死の2ヶ月前の正月に正装した自分の肖像画を狩野永岳に描かせて、自詠の「あふみの海」とともに清涼寺に納めている。

  あふみ(近江)の海 

  磯うつ浪のいくたびか

  御世にこころをくだきぬるか那

 

 その意味は「琵琶湖の磯もいくたびも、激しい浪が襲ってきている。それは正に日本の置かれている姿そのものである。そんな世の中で、私は日本国のため心をくだいている。そして心身ともに砕け散る覚悟がある」である。この歌には井伊直弼公は辞世の歌として詠んだ匂いがする。

 近江の海とは琵琶湖を意味し、井伊直弼公の居城彦根城は琵琶湖のほとりに位置し、近海ににらみをきかす位置にある。その前は豊臣秀吉が長浜を交通の要所として、長浜城にその役目をさせたが、その長浜城を発展的に整理統合して、その建材も流用して使い、彦根城を建城した経緯がある。

 

戒名

 井伊直弼公は大老の就任が決まって江戸の上るときに、覚悟を決めて清凉寺の住職から戒名を授けてもらった。戒名は「宗観院柳暁覚翁」。「宗」は「宀」+「示」で構成され、「宀」は家屋、「示」は神事の意味である。「宗」は神事の行われる家屋、おたまやの意味を表し、転じて祖先や祖先を祭る一族の長の意味を表す。観るとは観音様の眼である。院とは、死後、その方のためにあの世で建てるお寺である。つまりご先祖が見守るお寺の住職との意味である。「柳暁覚」とは、日本の夜明けの暁を夢うつつに悟り、柳のごとく時世に逆らわず身を処する翁との意味である。

 覚悟を決めた人の行動はすさまじい。その2年後の1860年節句の日、桜田門外に白い雪が降る中、自身で人生劇場の幕を下ろしたかのように赤い雪が舞った。日本の開国という大仕事を成し遂げた後での閉幕である。その行列に同行した私のご先祖はどんな思いで、この惨劇を観たのか。

 

人生劇場の演題が戒名

 親は子供にこんな人になって欲しいと名前を付ける。その子供はその名を背負って人生を歩き、死後での修行のため、その人にふさわしい院号と戒名をお寺さんから授かり、来世の仏道での修行に励むことになる。

 テクニカルライティングの修辞上で、文書の大事な要素は結論である。その文書の冒頭の核文(トピックセンテンス)で文書全体の要点を総括する。その文書全体のまとめが表題で、表題はtopic(話題)とpurpose(目的)の入った言葉で表現をする。

 人生も同じである。その人の歩んだ履歴を院号と戒名の1つの名前で表現をされて墓誌に刻まれる。自分はどんな人生を歩むのか、自分の戒名を想定して人生の最終仕上げをするために歩みたい。自分の人生は、自分が創作する作品なのだ。その作品名である戒名(タイトル)にはこだわりを持ちたい。それは人生の生き様のこだわりである。

 

人生の旅

 人生とは師を求め、道を求め、縁を求め、死ぬ場所を探すための旅なのだ。その折々で詩(俳句)を詠い、仕事の足跡を残す。現世では、放浪院の住職として俳句を詠みながら、魂の浄化を求めて佛道を行じて歩く。その現世の仮の戒名が「報労院俳諧虎児」である。それが放浪院徘徊孤爺では寂しい。

 虎児は親から崖下に突き落とされても、自力で崖を這い上る。やっとの思いで崖を這い上がっても、崖の上に生み育ててくれた親の姿はない。虎児は一人で道を探し、一人で歩む。死ぬ時も一人である。後には戒名という痕跡だけが残る。やったことが報われなくとも、名前が残れば生きた証が残る。人生劇場の幕が下りて、その演題が墓誌に刻まれる。

 戒名とは、引導する僧侶の弟子として仏道を歩むために背負う名前である。葬式の時に戒名を付けるのは、緊急的な応急処置である。それではカンバン方式で、必要なときに必要な戒名を手配するせわしい生産方式になってしまう。本来は生前に戒名を授けて頂くのが正しい手順である。何事も飛び込み仕事はせわしない。だから私は余裕のあるうちに、戒名を授けて頂こうと思っている。一生に一度のことだから、準備をしすぎることはない。人生は覚悟を決めて歩みたい。

 

天命の道

 下記の論語は馬場恵峰師が好んで揮毫する書である。人生を覚悟すると、自然に天命に即した人生を歩むことができる。戒名の添え歌の言葉として論語のこの言葉を大事にしたい。

 

 吾十有五にして学に志す。

 三十にして立つ。

 四十にして惑はず。

 五十にして天命を知る。

 六十にして耳順(したが)ふ。

 七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず

[口語訳]

 「私は十五歳のとき学問に志を立てた。

 三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。

 四十歳になると、心に迷うことがなくなった。

 五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。

 六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。

 七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、

 人の道を踏みはずすことがなくなった」と。

 

2017-08-22

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インプラント 34(しぐさ)

3.34 トップのしぐさを見れば組織のレベルがわかる

2)ボディータッチの意味

 この院長は親近感を出すつもりで、馴れ馴れしく患者の肩を叩くことが多い。その行為が、患者の心境を害して不快感を与えている。この行為は、自分が偉く、相手より上位であると誇示するボディランゲージである。常識的に、目上の人にはボディータッチなどはしない。患者と医師の関係は、上下関係かもしれないが、その前に長幼の序という社会の掟がある。はるかに年下の人間から、そんなボディータッチを受けると、侮辱されたような感情がわき、不愉快極まりない。

 社長がどんな偉いことを言っても、部下は正直で、上司の背中を見て真似をする。親が言っても子供は言う事を聞かないが、親の背中を見てやっていることを真似るものだ。そのせいか、この医院の若い歯科医もはるかに年長者の患者の肩をたたいて、親近感をだすジェスチャーをして患者の心象を害している。悪いことに院長も部下も、まったく患者が心象を悪化させていることに気づいていない。私は還暦を過ぎた歳で、今までで、医者はおろか上司からもボディータッチされた記憶はない。院長は一見丁寧な言葉遣いであり、本人も良かれと思っているだろうが、私の耳には慇懃無礼な印象を与えている。本人は意識しなくても、いくら隠しても、深層心理学上では、言動に本心が表れるといわれる。

 

長幼の序

 前職の時代、年下の課長職で、あるPJのリーダーであった彼の指示で、ある場所に視察のため一緒にタクシーに乗った。その彼が話をしながら、なれなれしくボディチをしてきた。昔と違い立場が変わって、オレが偉いのだと人を見下げた感情が伝わるボディランゲージである。私が室長の時は、彼は決してそんな態度はとらなかった。当時、私は専門職として教育関係の担当をしていた。一応そのプロジェクトのリーダーではあるが、今でも格下の人物だとしか見ていなかった男から、そんな仕打ちをされて腹が立った。そんな私の不機嫌さに気が回らない彼である。

 日本には長幼の序というしきたりがある。いくら会社の組織上でリーダーでも、人を暗黙に侮辱するような態度では、部下が従うはずがない。彼の性格を見ると、彼を人間としての躾をしたいと思う上司がいなかったようだ。指導しても仕方がないと思われるのも、全て本人が招いた自分の業である。

 

2017-08-22

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2017年8月21日 (月)

冥途駅手前で悟る師の諫言

 昔、シナのある国で繁盛している居酒屋があった。そこに来た客が食事をしたおり、その台所で火事になる危険個所に気づき、その店の主人に忠告をした。商売繁盛で接客に忙しい主人は、分かった、わかったと迷惑そうにまともに聞いてはいなかった。そんなやり取りが数回あった後に、本当に火事が起きた。店にいた客たちが火事に気づき大騒ぎをして、皆で火を消し止めることができた。主人は感激して、火事を消してくれた客たちに大盤振る舞いの料理でお礼をした。しかしその主人は、何度も火事の危険を忠告した客には、礼一つしなかった。

 

師の諫言

 病気になり、日本の名医と言われる医師を探し歩き、手術、治療をしてもらい、大感激して多大の礼をするのが人の常である。それは自宅が火事になり、消火活動に尽力をしてくれた消防士にお礼を言うようなもの。「そんな食事では病気になる。そんな間食は体に良くない。生活習慣を直せ」と真にその人のことを心配して諫言した師を忘れているのと同じである。昔のシナでも、病気を治す医師は下で、食事を指導して病気を予防する医師のほうが上とされていた。病気になってから、治療をするのは泥縄式の対処療法である。病気になる前に治せ、である。医食同源は真言である。

 

若き日の愚行

 人生で、当たり前の生き方を教えてくれる親や教師が真の師である。それを己の生き方が間違っているに、人生に迷い、街の占い師に道を訊ねる愚か者が多い。その昔(1979年頃)、自分もその愚か者の一人となって、当時流行した天中殺の占い師の二人に、上京してまでして占ってもらいに行った。今になって情けなく、また自分の成長の足跡の一つとして思い出される。当時、半年の予約待ちで30分間2万円の占い料金であった。よほど自分も占い師に転職しようかとも思ったほど儲かる職業であった。

 老いの身になり、人生の修羅場を経験し、甘いも酸いも経験した後になって、真の師の姿が観えてくる。だれが本当の師であったかと。それを冥途駅に到着直前になって気が付く。それでは遅いのだ。

 

冥途駅 全て悟って 乗り遅れ

  「天国行き」は発車しました。「地獄行き」が待ってくれています。

 

図1 大垣市桐ケ崎町の火事

 隣人が何度も可燃物の取扱いを注意したが、無視をして煙草を吸い引火した。近年稀なる大火となった。手前の消化器で、私も初期消火の手助けをしたが、火勢が強く無力であった。火の出る前に、真因を消さないと大火となる教訓である。

撮影筆者 2013年10月27日

 

2017-08-21

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蜘蛛の糸が切れた

 お釈迦様はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。犍陀多は殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。彼は、林の中で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けた。それを思い出したお釈迦様は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸を犍陀多めがけて下ろした。

 暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見た犍陀多は「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れるだろう。犍陀多は「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はオレのものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚いた。その途端に、蜘蛛の糸が犍陀多の真上の所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちていった。

 無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまった犍陀多を浅ましく思ったのか、それを見ていたお釈迦様は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

 

 以上は芥川龍之介作『蜘蛛の糸』のあらすじである。この小説は勧善懲悪のお話ではない。犍陀多が振り落とそうとした罪人達は、自分の分身である。自分の魂には仏の心も宿れば、鬼の心も宿る。すべて包含して自分である。美しい自分だけが、抜け駆けをして極楽に行こうとするのは許されまい。悪の部分を切り捨てては、自分が自分でなくなってしまう。自分自身が罪の償いをしないと、地獄からは抜け出せないという寓話である。

 

癌とは自身の分身

 人は地獄を見ると、天から降りてくる助け(蜘蛛の糸)が全てだと思いこみ、他は振り捨ててそれにすがろうとする。その捨てるものの中に因果の原因ある。その部分を改善しないと助からない。父の癌宣告に対して、今なら治るとの医師の言葉を仏の言葉と信じて、勧められるまま胃の全摘手術を受け入れた。しかし、蜘蛛の糸は切れた。癌は自身の分身である。悪い個所を防御しようと自身の細胞が細胞分裂を始めて、それが止まらなくなったのが癌である。癌とは悪いものを一部に集め、他に広がらないようにする自己防衛機能である。癌は結果であり、そうなった原因が別にある。結果の癌だけを取り除いても、他臓器に転移をしてしまうことが多い。父が他界してから10年が経って、物事の真理が見えてきた。今は高齢の父の手術を受け入れたことに後悔している。でも、もう遅いのだ。せめてこれを父の最期の教えとして自分の人生に反映したいと思う。

 私は今までの人生でも多くの地獄を見てきたが、その場しのぎで済ませて、暫くたつとまた新しい地獄に直面することが多々あった。地獄に遭遇するのは、地獄に会う因果を自分が作ってきたからだ。その原因をなくさない限り、極楽には行けない。極楽には行けなくてもよいから、せめて地獄に行かないようにしたい。

 

自分の敵は自分

 減量に取り組み、極楽ポイントの体重〇〇㎏の数値を達成して、メタボから脱却直前になると、内なる悪魔が「お饅頭の一つくらいなら?」、「最後のご褒美で食べ放題は?」と囁いて、極楽寸前で地獄に引き戻される。その悪魔は、あくまで自分の分身なのだ。誰の責任でもない。自分が自分の弱さに負けたのだ。同じことが人生一般、ご縁のつながりにみられる。

 一匹のゴキブリを見つけたら、家には百匹のゴキブリが住むといわれる。一つの病気がでれば、陰には百の病気が隠れている。ハインリッヒの法則「1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する」は、自分の体の病状にも当てはまる。

 体の細胞は、肥満になると免疫力が低下して、外敵からの防衛戦争で悲惨な戦いを強いられる。それでも我慢強い体の臓器は、最後まで音を上げない。音を上げた時は、手遅れの病状である。体の悲鳴を無視して食べまくれば、地獄に引き戻されても、因果応報である。お釈迦様も悲しそうな顔をするしかない。お釈迦様を悲しませては罪が重い。少しぐらいの賄賂ならと、ずるずると地獄の淵に引きずられていく強欲のお役人どもも多い。世間を騒がす汚職事件は一向に減らない。因果応報とは仏語で、どの世界にも通用する原則である。地獄はあの世にはない。自身の強欲心と自制心の闘いで、自制心が負けた時が、地獄へ足を踏み入れる時なのだ。

 

2017-08-21

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正義は人を鬼にする

 正義を通すと人は鬼にならざるを得ない。お互いが相手の価値観を排除しあうから、戦いとなる。阿修羅ごとき戦う神となると、相手には悪魔のごとき所業を犯すのが常である。お互いに価値観を受け容れて許容する心が仏心である。全て受け容れるから海の如く大きな器ができる。佛教は神仏融合を含めて包容力があるから日本の「和」の精神にあって受け容れられた。一神教は、排他的な思想が濃いため不幸なご縁を作り出す。聖徳太子の憲法17条は和の精神である。

 自佗は時に随うて無窮なり。海の水を辞せざるは同事なり、是の故に能く水聚りて海となるなり。(修證義)

 

お釈迦様、法然上人の非戦

 お釈迦様は2500年前、自分が生まれ育った国を他国に滅ぼされる憂き目を受けている。その際、お釈迦様は他国の軍を前にして3回、座って止めようとした。しかし、4回目は止めることをせず、他国に攻め滅ぼされた。お釈迦様は、武力に対して、武力ではなく対話と行動で止めようとした。

 浄土宗を開いた法然上人は、幼少期に武士であった父親を敵対する者によって殺される経験をしている。父は死の直前に若き法然上人に対し、「敵を恨んではならない。これは前世における行いの報いなのだ。もし、おまえが恨み心をもったならば、その恨みは何世代にもわたって尽きることはないだろう。早く俗世を逃れ、出家して私の菩提を弔ってほしい」と遺した。それにより、法然上人は敵を討つことをやめ、自分や人々が救われる道を求めて、僧侶となった。法然上人は、報復の連鎖を繰り返すことをやめた。

 

幕末の騒乱

 1860年、安政の大獄では、幕府の体制を守り、開国して欧米の植民地侵略から日本を守るため井伊直弼公は鬼となり多くの志士を処罰した。それから幕末の殺伐たる争いが巻き起こった。お互いの思想に凝り固まった者同士の戦いの結末である。

 1868年、西郷隆盛軍は、江戸城明け渡しを求めて、100万人が住む街を焼き討ちすると脅して、勝海舟に降伏を迫った。どんな理由があれ、平和に暮らす民を焼き討ちするという発想が許せない。そこには大儀を掲げ、己の価値観が最高という驕りがある。そんな思想が、西南の役で意に反して、大将として担がれて西郷は非業の死を遂げる。西南の役を断固として鎮圧した大久保利通も、暗殺者により非業の死を遂げる。

 

現代の戦い

 太平洋戦争後のビルマでは、戦勝国の英国兵は現地人をモノ扱いして、人間とは認めていなかった。倉庫の食糧を盗むため侵入した現地人を英国兵が射殺した。英国兵は、動かない死体を足で蹴って「end」と表現したと、会田雄次氏はその著書のアーロン収容所で書いている。「dead」なら人間としてその対応しなければならないが、「end」だから、モノ扱いをすれば良いと考えているようだ。欧米人にとって、有色人種は人間ではない。価値観の隔離した動物扱いの存在である。

 1945年、米国は非戦闘員20万人を原爆で殺した。日本人が白人であれば、決して落とさなかった原爆である。意図せず己の手を女性子供の血に染めたトルーマン大統領は、その罪におののき「原爆が戦争の早期終結を招き、米国人を救った」という誤った言い訳の神話を広げて自分と米国人を洗脳した。

 1940年、ドイツ帝国は、アウシュビッツでユダヤ人を工場生産のように死を大量生産した。ヒットラーがユダヤ人の価値観を認めなかったからである。

 現代でも中共は、チベット弾圧を繰り返し、約120万人の人民を虐殺した。人口の約20%にも及ぶ。日本に換算すると2,000万人の民を殺したことになる。中共が建国以来、自国民の4,000万人を死に追いやったのは歴然たる史実である。共産党にとって、人民は労働力で人という価値を認めていない。

 1946年、ソ連のシベリア抑留では80万人の日本人が強制労働をさせられ、10万人が極寒の異国の土になったといわれる。共産党のソ連にとって、捕虜は人間とは思わず単なる労働力であった。国際法上でも違法であるが、その国際法の価値観を己の価値観に合わせて無視をした。

2 015年、パリISテロでは、ISは己の正義を信じてマシンガンの銃口を無実のキリスト教徒に向けた。宗教の価値観の違いを認めなかった結果である。

ビジネス戦争

 定年を迎えてから、今にして昔を振り返ると、なんと愚かな意地をはり社内での争いをしたことかと、反省のしきりである。全ては、お互いの価値観を認めず、己の自己主張をしたがために起きた争いである。まず相手の全てを受け入れて、それから対応を考えればよかったのに、との心境に至った。その悟りは少し遅かったようだが、気が付かずこの世を去るよりはましである。

 

2017-08-21

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「100mの巻物」という人生(2/2)

百m巻物の再撮影

  2014年4月に百m巻物を2回撮影して、百m巻物の写真集としては形にはなったが、当時は製本まではいかず、クリアファイルに各頁を納めて完成とした。その後2年余が経過して、恵峰先生の書の写真集を30冊余も製本化して作成していく過程で、カメラが世代交代し、撮影スキルも編集技術も向上した。今の目で見ると当時の撮影の拙さが目についてきた。それでカメラを最新鋭に更新して、2016年11月28日に再度撮影する決断をして撮影に臨んだ。

 

撮影の改善

 前回からカメラ、三脚を更新して、照明装置を追加して、カメラに高精度水準器を設置した。撮影技術、編集技術が回数を重ねることで向上して、現時点ではほぼ満足で来る仕上がりとなった。やはり経験を積まないと何事も向上しない。また良い機材は、良い結果をもたらしてくれることを再確認した。高いものにはわけがある。この100m巻物の撮影は、これで3年越しの3回目の撮影である。何事も一回ではうまくいかないもの。良いものを作るには3度くらいの手間が必要だと納得した。

 

出版の目的

 この巻物は、後世に残すお手本として書かれたと恵峰師はいう。この巻物をみようとすると数人係りでないと見えない。またどこに何が書いてあるか、書かれた恵峰師もうろおぼえである。製本化することで、A4版で索引として目次を追加したので、探せるし、書道のお手本としても価値がある。この100m巻物の試し刷りを見たお弟子さんたちにも好評であった。私の目的が達成されそうである。この100m巻物を、馬場恵峰先生の第二の公式出版書籍として、現在準備中です。10月出版を目途にしています。

 

当日の撮影状況

 当日は、我々6名が100m巻物撮影を先生の教室の南側で進める中、恵峰先生は机の上で黙々と墓誌の揮毫に集中された。揮毫されている先生を垣間見て、我々はその集中ぶりに感嘆した。普通の書は下書きもせずそのまま書かれるが、墓誌に刻印するためか、寸法を測りながら慎重に揮毫を進められた。

 撮影の合間に昼食になって、お手伝いに参加された自称「熟女」・「一応主婦」(?)の皆さんが手作りに昼食を持ってみえた。九州の家庭料理の美味しさと温かさに舌鼓を打って、疲れが取れた思いである。事前の皆さんからの手紙では「熟女5人が勢揃いしてお待ちしております。」との連絡があり、どうなることかとビクビクしながら(?)赴いた撮影現場である。

 

図1 撮影風景 照明器具の追加と三脚が更新された。

図2,3 私の家の墓誌の揮毫をされる馬場恵峰先生

 

2017-08-21

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2017年8月20日 (日)

「100mの巻物」という人生(1/2)

一回目の撮影

 馬場恵峰先生が100mの白紙の巻物を中国から買ってきて、今からこれに揮毫するという話を聞いたのが、2012年の知己塾の時である。恵峰先生は今まで10mを20本、30m、50mの巻物を書かれてきたが、今回、日本人も中国人も書いたことの無い100mの巻物に挑戦され、2年がかりで、2014年初春に完成された。この話を先生から聞き、こういう御縁は生涯でも滅多にないと感じ、また弟子としても記録に残さねばと思い、2014年4月10日、写真を撮らせて頂くために長崎に飛んだ。写真撮影で100m巻物を扱うのに、一人では無理なので助っ人として福田琢磨さんに応援を頼んだ。

 なにせ100m巻物なので、まだ誰もこの作品を全部鑑賞した人はいない。たまたま写真撮影の前日に、知己塾の日程を1日間違えて、お弟子さんの一人が先生宅を訪れるという御縁があり、私の写真撮影の話を聞いて、それなら、私もお手伝いをさせてもらうと、仲間を誘って田添さん、兼俵さん、黒川さんが写真撮影の応援に来ていただけた。撮影を開始すると2人ではとても無理なことが分かり、応援に来て頂いた皆さんに感謝をし、日程を間違えてもらい写真撮影の縁があった不思議さを感じた。

 当日200枚ほどの撮影をしたが、大垣に帰宅後、詳細に確認するとピントが甘く、不出来な写真があったので、再度、取り直す決断をして、1週間後に再度、長崎に飛んだ。前回お手伝いをして頂いた4名の方も、再度の撮影の応援に快く応じていただくことになり大感謝でした。当日は4時半起床、6時32分発の電車に乗り7時50分発のANAでセントレアから長崎に飛び、3時間ほどかけて400枚前後の写真撮影(安全をみて各2枚撮影)をして、19時50分発のANAでトンボ帰りをして22時30分に帰宅した。さすがに疲れが2,3日残ってしまったが、心地よい疲労感のある経験であった。1週間に2回も大垣からの先生宅訪問だったので、三根子先生も呆れ顔であった。

 

一字一生

 この100 m巻物に人生を感じてしまう。100 mの巻物に、一字、一字、文字に心を込めて埋めていく作業は、人生に似ている。間違ってはいけない。焦ってもしかたがない。無駄な文字を書いてはならない。書いて来た痕跡が人生だ。意味ある言葉、自分が歩んできて学んだ言葉やその時、感じた所感を文字に移していく。途中で止めては、巻物は完成しない。自分の人生という巻物に、何を書くかは自由であるが、そこの己の人生観と成長の過程の証が表れる。人生に感じている美学も根性も露見する。

 100 mの巻物において、素人目で見て、先生は3文字のミスをされているが、それをきちんと修正をされている。100 mの巻物を書いて、一文字も間違いがないのが理想であるが、それでは、人間の所業ではない。人ではない所業である。人でなしである。神業の筆力を持つ先生にも間違いがあって、むしろ安心をした。そこに人間の温かさがあった。

 人生のやり直しはできない。しかし、間違いを正すことはできる。出直しもできる。間違いに気づいたら修正すればよい。出直しをして、新たな巻物に、第二の人生を書き始めればよい。それをせず、うやむやに第二の人生を中途半端に過ごすから、第一の人生の巻物をくしゃくしゃにする。自分が半生を歩んだ足跡を人生巻物に残し、その事実を直視して、新しい人生巻物に挑戦をしたいもの。

 

鬼美濃

 武田家の武田四天王といわれた馬場信春公は、馬場恵峰先生のご先祖である。武田三代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかった。このため「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。

 長篠の戦いの中、織田・徳川連合軍との決戦で、武田軍は敵の鉄砲隊との攻防で有能な人材を次々と失い大敗を喫した。武田勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた馬場信春公は、反転して追撃の織田軍と壮絶な戦いをして戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。享年61。人生50年といわれた時代の61歳で、現役の将として桁外れの奮闘には驚嘆する。

 大阪夏の陣(慶長20年・1615年)に参戦した子孫が戦いに破れて、九州の山奥に落ち延び、焼き物の窯元として身を隠したという。

 100mの巻物の挑戦を下書きなしの一発勝負で、たった3文字しかミスがなく、揃った字体、どんぴしゃの文末配置、素晴らしい書体を見ると、鬼美濃と呼ばれた馬場信春公の先祖がえりで、剣を筆に持ち替えただけと理解すると、先生の天分の由来が理解できる。表の顔の馬場恵峰先生は仏のような方だが、筆を持たせると書道の鬼となる。鬼にならなければ、後進を指導できないし、後世に残る作品は生まれない。

 

図1 100m巻物を前に馬場恵峰先生

図2 100mの巻物の撮影風景

 100mの巻物の取り扱いは4人かかり。巻き取るにもその重量と巻き癖の修正で大変。その間、思わず手を止め巻物の書体に見とれる黒川さん

図3 欠

図4 100m巻物の思い出深いワンショット

 勢い余ってお手付き? 撮影した600枚中の1枚。良き思い出の記念写真。手の位置も「雅の趣が残る」とは、偶然にしては出来すぎのご縁です。人生という巻物で見えない四隅で巻物を押さえて頂いている手がある。それに気が付くかどうかが、人生の幸せを決める。

図5 中友好書画交流展 大村市 2012年12月14日

 10m、30m、50mの巻物を書き上げてきた実績があって、100m巻物が完成する。ローマは一日にしてならず。

 

2017-08-20

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