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2017年8月21日 (月)

蜘蛛の糸が切れた

 お釈迦様はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。犍陀多は殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。彼は、林の中で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けた。それを思い出したお釈迦様は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸を犍陀多めがけて下ろした。

 暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見た犍陀多は「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れるだろう。犍陀多は「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はオレのものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚いた。その途端に、蜘蛛の糸が犍陀多の真上の所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちていった。

 無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまった犍陀多を浅ましく思ったのか、それを見ていたお釈迦様は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

 

 以上は芥川龍之介作『蜘蛛の糸』のあらすじである。この小説は勧善懲悪のお話ではない。犍陀多が振り落とそうとした罪人達は、自分の分身である。自分の魂には仏の心も宿れば、鬼の心も宿る。すべて包含して自分である。美しい自分だけが、抜け駆けをして極楽に行こうとするのは許されまい。悪の部分を切り捨てては、自分が自分でなくなってしまう。自分自身が罪の償いをしないと、地獄からは抜け出せないという寓話である。

 

癌とは自身の分身

 人は地獄を見ると、天から降りてくる助け(蜘蛛の糸)が全てだと思いこみ、他は振り捨ててそれにすがろうとする。その捨てるものの中に因果の原因ある。その部分を改善しないと助からない。父の癌宣告に対して、今なら治るとの医師の言葉を仏の言葉と信じて、勧められるまま胃の全摘手術を受け入れた。しかし、蜘蛛の糸は切れた。癌は自身の分身である。悪い個所を防御しようと自身の細胞が細胞分裂を始めて、それが止まらなくなったのが癌である。癌とは悪いものを一部に集め、他に広がらないようにする自己防衛機能である。癌は結果であり、そうなった原因が別にある。結果の癌だけを取り除いても、他臓器に転移をしてしまうことが多い。父が他界してから10年が経って、物事の真理が見えてきた。今は高齢の父の手術を受け入れたことに後悔している。でも、もう遅いのだ。せめてこれを父の最期の教えとして自分の人生に反映したいと思う。

 私は今までの人生でも多くの地獄を見てきたが、その場しのぎで済ませて、暫くたつとまた新しい地獄に直面することが多々あった。地獄に遭遇するのは、地獄に会う因果を自分が作ってきたからだ。その原因をなくさない限り、極楽には行けない。極楽には行けなくてもよいから、せめて地獄に行かないようにしたい。

 

自分の敵は自分

 減量に取り組み、極楽ポイントの体重〇〇㎏の数値を達成して、メタボから脱却直前になると、内なる悪魔が「お饅頭の一つくらいなら?」、「最後のご褒美で食べ放題は?」と囁いて、極楽寸前で地獄に引き戻される。その悪魔は、あくまで自分の分身なのだ。誰の責任でもない。自分が自分の弱さに負けたのだ。同じことが人生一般、ご縁のつながりにみられる。

 一匹のゴキブリを見つけたら、家には百匹のゴキブリが住むといわれる。一つの病気がでれば、陰には百の病気が隠れている。ハインリッヒの法則「1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する」は、自分の体の病状にも当てはまる。

 体の細胞は、肥満になると免疫力が低下して、外敵からの防衛戦争で悲惨な戦いを強いられる。それでも我慢強い体の臓器は、最後まで音を上げない。音を上げた時は、手遅れの病状である。体の悲鳴を無視して食べまくれば、地獄に引き戻されても、因果応報である。お釈迦様も悲しそうな顔をするしかない。お釈迦様を悲しませては罪が重い。少しぐらいの賄賂ならと、ずるずると地獄の淵に引きずられていく強欲のお役人どもも多い。世間を騒がす汚職事件は一向に減らない。因果応報とは仏語で、どの世界にも通用する原則である。地獄はあの世にはない。自身の強欲心と自制心の闘いで、自制心が負けた時が、地獄へ足を踏み入れる時なのだ。

 

2017-08-21

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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