2017年8月19日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (12/25)明治の墓標

石黒太郎の墓標

 井伊直弼大老が開国の決断・実行をして、勝海舟や福沢諭吉らを米国に派遣して種まいたことが、のちに石黒太郎という若者を米国で最新技術を学ばせる機会を与えた。才能ある若者を選抜しての派遣である。しかし、才能があるからといって、業績を残せるわけではない。明治に初期に若くして選抜されて、米国に留学したエリートでも、病に冒されれば、黄泉の国に不本意ながら行かねばならぬ。その前の幕末の時代は、国のためと命を懸けて戦って、挙句に賊軍にされた有為の若者が多くいる。その流された血のお陰で今の日本の繁栄がある。そういう日本のご先祖のためにこそ、我々は精進せねばなるまい。

 石黒太郎は井伊直憲公(井伊直弼公の跡継ぎ)の学友として、井伊藩の名誉と日本の名誉を背負って選ばれて、米国の大学に派遣され学んで、鉄道技師として働いた。当時の侍の気質として、主君のためとして命がけで、業務に取り組んだのだろう。素晴らしい業績を若くして出したが、無理をした咎が、彼の体を蝕ばみ、24歳で彼岸に旅発った。明治の国造りのために戦った若人の戦死である。哀しい当時の若者の姿である。石黒太郎を筆頭にして、米国で学んだ鉄道技師達や他の分野での若者の頑張りがあったから、後年、英国から鉄道技術を導入できて、日本の鉄道技術が発達した。今の新幹線技術はそのお陰である。他の分野でも、同じような頑張りがあり、急速に欧米列強に追いつくことができた。当時の若者には列強から侵略されるとの危機感と、建国への情熱があり、国造りに邁進した。それが出来なかった近隣アジア諸国は植民地にされた。

 

勝海舟の弔文

 石黒太郎のための勝海舟の弔文には、明治初期の若者の姿が浮き彫りにされている。このお墓は天寧寺境内に建てられたが、その後、天寧寺の山上の無縁墓地に移築されて、今は訪ねる人もいない。後面の弔辞文も、置かれた場所が坂壁の際のため、良く見えない状況にある。彼が生きた証が、勝海舟の弔辞の文とそれを碑文に書した鳴鶴の碑文に残る。そのお墓の大きさから推定して、当時の井伊家の代表としての期待の大きさが偲ばれる。

 

馬場恵峰先生を石黒太郎の墓へ案内

 ご縁があり、松居石材商店の松居保行店主に、この石黒太郎のお墓の存在を教えてもらった。私も私のお墓の開眼法要で、馬場恵峰先生を彦根にお招きした時(2015年11月28日)、石黒太郎氏のお墓に案内をした。ご縁の巡りあわせに感謝です。石黒太郎の墓石の彫られた日下部鳴鶴の書体の彫り方を見て、恵峰師はその彫り方の解説をされた。石の彫り方にも高度な技法がある。石黒太郎の墓は無縁の墓として、墓地の山奥のほうに置かれており、訪ねるものもない。石黒太郎の墓の裏面には、勝海舟の弔辞を日下部鳴鶴が揮毫して彫ってある。この墓石は文化財としても貴重であるが、今は捨てられたように置かれている。

 馬場恵峰先生ご夫妻が、石黒太郎の墓石に彫られた鳴鶴の端正で美しい字体をなでるように慈しまれたのには驚きであった。先生の師である原田観峰師は、日下部鳴鶴の字をお手本に日本習字を創業した。日下部鳴鶴は馬場恵峰先生の宗家にあたる。

 

文化財保存の責務

 この石黒太郎氏のお墓は、松居石材商店の三代目、松居六三郎氏が制作された。墓石は和泉石である。このお墓は傘が付けられているので、材質は砂岩ではあるが、森の中に設置されたこともあり保存状態は良い。この墓は当初、松居石材商店の家のお墓の近くに位置していた。この記事は、その裏面の文面を松居保行店主が見て、その拓本を取り、彦根市市史編纂室で解読してもらったことに起因する。石黒家は現在、絶家となっているので、お参りする人もいないので、現在に無縁墓の集積場に集められて、無造作に置かれている。日本の夜明けの時代に、建国に貢献された方のお墓が打ち捨てられているのは嘆かわしい。いわば建国に汗を流したご先祖にあたる方を祭らずして、日本の未来はない。このお墓は歴史の証としても、文化財としても、彦根市の責任で、きちんとした形で保存をしていただきたい。文化財をないがしろにしては、文化国家の看板が泣く。 

 

図1 日下部鳴鶴からの手紙  松居石材商店の松居保行氏蔵

 日下部鳴鶴は、「「知己中の知己」である親友の石黒氏の墓標の仕事で、「謝礼を受け取る気持ちは全くなく、石黒氏の遺族に対してもそのような心配はやめて欲しい」と訴えた手紙である。

図2 石黒太郎の墓石(天寧寺)

図3 石黒太郎の墓石。無縁のお墓が集められた場所にある。

図5 石黒太郎の墓石の撮影準備

  墓石の裏面を撮影するために、松居店主さんに携帯発電機を用意していただき、ライトで照らして撮影した。2015年9月30日

図6 石黒太郎の裏面の弔文

  この弔文を書いた勝安芳とは勝海舟である。学友として名前がある原田要・松永正芳・平岡煕はいずれも鉄道技師である。石黒太郎の鉄道局時代の同僚と思われる。

図6 石黒太郎の裏面の弔文 部分

   日下部鳴鶴の端正で美しい字が彫られている。恵峰先生の字体とそっくりである。

図7 石黒太郎の墓を見る馬場恵峰先生ご夫妻  2015年11月28日

図7 石黒太郎の墓の弔文 原文

図8、9 石黒太郎の墓の弔文 現代語訳   彦根市市史編纂室作成

 

2017-08-19

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インプラント 33(経営スタイル)

3.33 経営スタイルから判断

PS経営(president satisfaction)と CS経営・ES経営

  この医院の経営はPS経営(=ワンマン経営)ではないかと思う。従業員(歯科医師)は院長の方ばかりを見ていて、患者(顧客)を見ていない。それは、院長の言動、今回の歯垢取り処置での苦情、院長写真、 デンタルガイドブックからの分析である。トップの言動、思考が組織の行動を決める。その背景には、利益率の高いインプラント手術を手がけるので、実際に儲かり、経営が甘くなり、天狗になっていると思われる(市内の某社長も天狗との表現で批判をした)。

 

顧客不満足度100%

 顧客の商品に対する不満足は商品そのもの質の問題ではなく、客として人間性無視の扱いをされた場合の影響が極めて高い。それがその組織のトップがする行為は、その組織の全体を象徴している。

 歯垢を取る処置で4本目の歯にかかった時、向こう側の席にいた院長が「○○くーん、ちょっと来てくれ~」との声が聞こえ、その男性歯科医は今の処置をおっぽり出し、その院長のところへ飛んでいった。処置中の患者には一言の断りもなく、である。院長は直前に私を診察して、部下の医師に歯垢を取る処置を任せたのだから状況を知っているはずなのに、である。私の人間性無視の行動である。院長は、処置中の患者のことは全く考えていない。

その後、女性の歯科医が引き継いで歯垢を取る処置にかかったが、彼女からも一言の挨拶も説明もなかったし、医師同士での何処まで終わったかの引継ぎの基本的な会話も聞こえなかった。不安になったが、弱い立場の患者の身ではいかんともしようがない。患者はまな板の上の鯉の立場である。慌てて引き継いだためか、女性の歯科医は男性の歯科医よりも技量が低いのか、いつもより数多くの痛い思いをさせられて歯垢取りの処置が終わった。まるで工場のコンベア作業のようで、この医院にとって患者とは養鶏所のお金の卵を産む鶏と同じであると悟った。その時は不快感を抱きながらもそのまま黙って帰宅したが、今は思い出すたびに怒りがこみ上げてくる。

 

 後述の「経営理念」の項目でも内容を検証したが、理念が不完全であるので、こんなことが起こるのだろう。企業経営の貴重な研究事例となった。理念では歯の恒久的維持は謳っているが、そのために患者の人間性は無視されている。歯の恒久的維持とはインプラントを念頭に置いた概念のようだ。それが経営理念に反映しているようだ。

 

従業員満足(ES)

 医療部門での経営だから、一般の経営とは違うが、最近従来の顧客満足(CS)に対して従業員満足(ES)の側面の価値を問う経営が注目されている。例としてネッツトヨタ南国の経営目的は、顧客の満足度を高めての車販売数増大ではなく、従業員の幸福度の向上である。その過程で、従業員が自主的に会社をよくする改善・活動を展開し、結果として顧客満足度が上がり、車の販売が最高になるという新しい経営価値を創造した。その成果を評価して「日本経営品質賞」を受賞している。ネッツトヨタ南国の経営は、モノ余りの時代に対応した車販売での新しい経営方式である。歯科医院が乱立している時代には、それに対応した新しい経営方式が求められる。PS経営では破綻を迎える恐れがある。

 

参考 ネッツトヨタ南国の経営目的

 ネッツトヨタ南国の経営目的は、顧客の満足度を高めての車販売数増大ではない。経営目的は、従業員の幸福度の向上である。その過程で従業員が自主的に会社をよくする改善・活動を展開し、結果として顧客満足度が上がり、車の販売が最高になるという新しい経営価値を創造した。車が最高に販売できたのは、目的ではなく、結果である。お客様は満足(CS)しただけでは商品を買ってくれない。モノ余りの現代では、お客様に感動を与えないと、購買意欲は起こらない。自動車業界また地方企業としては初めて、顧客本位の経営に贈られる「日本経営品質賞」も受賞している(2002年)。あくまで社員満足度が最優先で、その根本が価値観の追求である。その結果が顧客満足度の向上で、その結果として業績が上がる。

 

日本経営品質賞:

日本企業の競争力向上を目的として、お客さま視点に立った企業改革を実現し、卓越した業績を生み出す「経営の仕組み」を持つ企業を表彰する制度・同賞は、米国の競争力回復の因となった「マルコム・ボルドリッジ国家品質賞」を範として、(財)社会経済生産性本部が主体となり1995年に創設された。

 

2017-08-19

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2017年8月18日 (金)

写経書展写真集の出版

 馬場恵峰先生書を出版するため、今までの撮影分の中から、先生にその選定をお願いしていた。しかし先生も忙しく(写経書展の準備や講演会)で忙しく、その決定が延び延びになっていた。私はそれと並行して出版の事前検討で、地元の印刷会社と2年越しの打ち合わせを何回も重ねてきた。しかし選定が決まらないのでこの半年ほど、担当営業マンとご無沙汰になっていた。ところが写経書展の写真集(オンデマンド印刷)をまとめたら、それを恵峰先生が見て、「これだけは先に出版したい」と急に言いだして私も慌てた。

 

信用金庫崩壊

 急遽、今まで打ち合わせをしてきた若い営業マンに携帯に連絡を取ったら、数カ月前に別の営業所に転勤になっていて担当できないと言う。引継ぎの担当者から後日連絡をさせるとのこと、私はむくれてしまった(2017年1月25日)。やりかけの営業懸案があって、転勤になるならその旨の連絡を顧客にするのが常識である。それがなかった。翌日、その営業マンの上司から電話があったが、「貴社は信用できないので、仕事を出すのをお断りする」と電話を切った。営業マンの仕事は会社の信用を創ること。彼の上司の指導に疑問を感じた。信用を大事にしない会社とは、付き合いたくない。

 なぜ、たった一言、「転勤になりました、後は〇〇に連絡ください」が言えないのか。2年も待たされて、仕事はもらえないと見切ったのか。恵峰先生は、写真集用の書の選別の納期を延ばすことで、面白い縁を発生させてくれた。これが縁起である。今までの付き合いで若い彼の言動を見て、違和感ある匂いを感じて納得できる結末ではあった。そんな縁しか結べなかったことが哀しい。人生は全てご縁の繋がりなのに。私はその会社の未来を見極め、悪縁を切った。

 私なら、まず客先に謝りに行く。まずその行動がないと後が続かない。その年配の上司と当人に、その後始末の行動がないのが情けない。その上司は最初に会った時、名刺を切らしたとかで名刺をくれなかった。ビジネスマナーでは、後日、送付するのが常識だと思う。もともとそういうレベルの上司、会社であったようだ。佛様は時間という加減乗除で、悪縁を排除してくれる。浄土に行くときは、自分信用金庫に不良債権を残さないようにしたいもの。

 

「ビジネスは壊れやすい花瓶に似ている。無傷であればこそ美しいが、一度割れると二度と元の形には戻らない。」

 Business is like a fragile vase - beautiful in one piece, but once broken, damn hard to put back together again to its original form.

    “Letters of a businessman to his son" by G.KINGSLEY WARD

印刷方式の変更

 急遽、別の印刷会社数社に相見積もりを取ったが、印刷部数が少ないので、オフセット印刷をしても単価が1万円を遥かに超えて、困ったものと頭を抱えた。先生とも相談をして、現行のオンデマンド印刷でいくことで妥協することにした。オンデマンド印刷も最近は質が上がり、書の写真ならオフセット印刷とそうは見劣りしなくなった。オンデマンド印刷なら、版を作らなくても済み、オフセット印刷の半分以下の費用ですむ。オフセット印刷は部数が増えると急激に単価が下がるが、オンデマンド印刷は何部印刷しても単価は同じである。今まで付き合いのあるコピー会社から、営業努力で格安の見積もりの提示を受けた。フルカラーの完全な美術書ではなく、書の美術書であるので、それが落としどころだと納得した。先生の名がもっと広まり、印刷部数が稼げるようになってからオフセット印刷に切り替えればよい。まず少部数でも出版をして、第一歩を踏み出して世に問うてから次のことを考えればよいとした。

 

公式書籍として発刊

 恵峰先生は、今まで4冊の自費出版をされているが、多くは売れず大赤字である。特殊な世界で部数が少ない書の出版では、儲からない。今回は儲けるために出版をするのではない。皆さんへのご恩返しとして、また後世に残すためにとの意味で出版をするのだ。

 前4冊は自費出版でもISBN 番号を取ってないので、国会図書館にも入らず、公にもなっていない。今回は、公式な書籍として世に問いたいと思い、ISBN 番号を取る算段をすることにした。国会図書館にも入れば、後世には記録として残る。後日、雑誌社に出向いて書評等で、紹介してもらう計画をしている。

 

2017-08-18

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笑顔は出世のパスポート

佛頂面

 佛頂面とは(佛の頭頂に宿る広大無辺の功徳を佛格化した尊の恐ろしい相に例えた語)無愛想な顔を言う。佛とは、純真無垢な赤子のような存在である。佛頂面とは、心の様をそのまま外に出てしまう赤子のような心の表れである。成長した大人なら、品ある笑顔で己の心の醜さをお化粧として隠すもの。それが出来ないのは小人の証。そうしないと、未成熟の人たちで構成される人間関係がギスギスする。未成長の己を人様の前に出す行為である。佛頂面は裸で人様に会うのと同じである。そんな人に幸せのご縁が訪れるはずがない。

 

他部へ応援に出てのご縁

 1982年ごろ、新研削盤の開発途中で、別部署の組立て機開発プロジェクトへ数ヶ月間、応援で出されることになった。新研削盤の開発後、多くの引き合いでテスト研削をするのだが、なかなかお客さんが買ってくれず、課内で一番余裕があると思われた結果もようである。

 プロジェクトは当社製品の全自動組立てラインの開発である。私はポンプの弁のフィルター自動組みつけ機の設計を任された。網状のフィルターを打ち抜き部品に圧着する組立て機である。研削盤設計とは勝手が違い、過剰な強度の機械を設計して、課長に笑われて苦労をした。今では良い思い出である。

 当時、その部に新入社員が二人配属されていて、その面倒を見るかたちとなり、気持ちよい環境であった。二人の新入社員は、非常に対照的な姿、性格であり絶妙のコンビでもあった。二人とも仲がよく、仕事は良くやってくれた。性格的に几帳面な子と豪快な子であり、小柄と大柄の体格で、よくこんな絶妙のコンビができたものと微笑ましかった。当時は、前の部署では一番下っ端であったが、ここでは二人の上であり、人を指導する体験となった。

 

30年後の因果

 その後30年が経ち、設計にはあわなかったような豪快な子が、現在は営業の部長に出世している。明るい性格の子は得をするのを目のあたりにした。この子(50も過ぎた元部下をつい「この子」と言ってしまう関係)は、それ以来、毎年、年賀状を送ってくれる。会社生活で一番長い付き合いの部下でもある。私が、定年を迎えた後、名古屋の料亭でご馳走をしてあげた。明るい子とは話をしていても楽しいものである。私がクソ真面目で、あまり明るくない性格であったため、羨ましくなる。部下は自分の鏡である。

 当時、夏の課の旅行行事があったが、前の職場の研究開発部ではこんな行事はなかった。上司が変わるとこうも職場雰囲気が違うものと感心した。応援期間が終わり、惜しまれながら(?)元の職場に引き戻された。二人の新入社員は残念がってくれた。

 

笑顔の価値

 ガガーリンが宇宙飛行士に採用された理由の一つが「笑顔」であった。宇宙から帰還した飛行士の笑顔が魅了的なほうが、国民は誇らしく思うだろう。アメリカを含めた世界に向け、その映像は送られた。(P135)(岡野宏著『一流の顔』幻冬舎 2005年)

 

 「人の顔色は、いわば家の門口のようなものだ。広く人に交わって自由に客を招き寄せるには、まず門口を開放して、玄関を掃除し、ともかくも人をきやすくさせることが肝要であろう。人と交わるのに、顔色を和らげようとせず、かえって偽善者の風を学んで、わざとむつかしい顔つきを見せるのは、家の入口に骸骨をぶら下げ、門の前に棺桶をすえつけるようなものだ」・・福沢諭吉『学問のすすめ』第17編「人望論」

 

 上記の件は、頭では分かっていても、現実に笑顔もままで過ごすのは難しい。実際に実行できる人が教養人である。母からは、「家を出たら7人の敵がいると思え」と教えられた。弱い人間が壁を作り、自己防御で難しい顔をするのだ。今まで自分は弱かったのだ。還暦を迎えてやっと顔に笑顔が出てきたようだ。自分の成長が遅いことは、2013年に自分史を書いて思い知らされた。

 当時、元の部署のT係長がやって来て、機械関係の雑誌の原稿を書いてくれと言ってきた。人を応援に出しておいて原稿書きはないだろうと、むくれたが、皆が忙しく対応できないのでと懇願された。上司の依頼なので、しぶしぶ書くことになる。結果として、自分のやってきた記録を公式記事に残せてよかったと今にして思う。来た縁は断ってはダメである。

 

図1 夏の課の旅行で(上高地)

 笑顔の中込さん(左端)と腕組して苦み走った顔をしている私(左から4人目)。これではダメですね。

 

2017-08-18

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Photo

「桜田門外ノ変」の検証 (11/25)DNAの伝承

豊田佐吉翁に受け継がれたDNA 

 江戸時代の鎖国から開国への転換は、井伊直弼大老の決断に起因する。時代は幕末の騒動を経て、明治維新を迎える。開国して西洋の文化が入ってきて心をときめかせた若者が、三河の片田舎の豊田佐吉である。佐吉はスマイルズ著『自助論』(中村正直訳『西国立志編』)に啓発された。同書には、紡績機械や動力織機などの繊維機械を考案した発明家についての記述があり、彼の向学心を高めた。自助論は、当時のベストセラー福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並び、明治時代の人気書籍であった。1885年4月には「専売特許条例」が公布され、発明の奨励とその保護が打ち出された。佐吉は、これに強い関心を持ち、織機の発明を志すきっかけになった。佐吉の母が内職で夜遅くまで手織りの織機に苦労をしている姿に発奮し、母を助けようと、自動で機織機の矢を動かす発明に没頭した。それが豊田式自動織機の始まりである。その特許を英国に売却した資金で、トヨタ自動車が生まれる。

 

『自助論』

 『自助論』 は、300人以上の欧米人の成功談を集めた成功哲学書である。私も、本書を佐吉の歴史も知らずに、訳者竹内均氏の生き方に感銘を受けて、竹内氏の訳本だからと読んだ。本書は「桜田門外の変」の前年1859年に刊行された。そして明治になり開国で、豊田佐吉が手にする縁が生じた。その100年後、私もその本を手にした。

 訳者の中村正直は、江戸で幕府同心の家に生まれ、昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英して、帰国後は静岡学問所の教授となる。教授時代の1870年(明治3年)に、『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版して、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉著『学問のすゝめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。

 

『学問のすゝめ』

 咸臨丸で渡米した福沢諭吉は、見聞した知識で『学問のすゝめ』を著し、1872年(明治5年2月)初編が出版された。当時の若者を鼓舞して、新しい国造りに貢献した。共に井伊直弼大老のDNAを受け継いだと言える。明治維新直後の日本国民は、封建社会と儒教思想しか知らなかった。本書は欧米の近代政治思想、民主主義、市民国家の概念を説明し、儒教思想を否定して、封建支配下の無知蒙昧な民衆から、近代民主主義国家の主権者へと意識改革することを意図した。また日本の独立維持と明治国家の発展は知識人の双肩にかかっていることを説き、福澤自身がその先頭に立つ決意を表明している。本書は、明治維新の動乱を経て、新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を明治の知識人に問い、日本国民に広く受容された。近代の啓発書で最も売れた書籍である。最終的に300万部以上も売れ、当時の日本人口は3000万人程だから、国民の10人に1人が買った計算になる。

 

トヨタ自動車とのご縁

 そのトヨタ自動車が今あるのは、明治時代初期に豊田佐吉翁が自動織機の発明に没頭し、豊田式自動織機の特許の売却資金で、新事業への展開したことにある。豊田佐吉翁は、トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎氏に、「俺は織機で御国に尽くした。お前は自動車で御国に尽くせ」と言い残した。企業・産業を起こすものは、志が必要である。単なる金儲けが目的では、目指す次元に差がでる。御国(公共)に尽くすためには、材料、設計、工作機械、生産技術の全てを自前で国産化しないと、当初の理念が達成できないとの考えから、車作り、人作り、会社のしくみ作りを始めた。そこに今のトヨタ自動車の礎がある。

 国の産業の発展を目的に、全て自分達の手で開発したことから、トヨタ生産方式、カンバン方式、現地現物といった日本のモノづくりの原点、手法が生まれてきた。実際に手を汚し、苦労をしないとモノつくりの技は手に入らない。日産からはそんな開発の苦労話から生まれたノウハウの伝承は聞こえてこない。企業DNAの影響の恐ろしさは、50年後、100年後に影響する。

 

日産との薄縁

 1933年に日産の鮎川義介氏は、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。設備も図面も設計者も無償で譲り受けた。鮎川義介氏は、車で金を儲けるため、一千万円を持って渡米して、図面、中古の工作機械、生産技術の全てを輸入し、アメリカの技術者をも連れて帰り、車の生産を始めた。豊田喜一郎氏の志とは対照的である。そして半世紀が経って、その志の差が表れて、日産がルノーに乗っ取られる因果となった。

 トヨタと日産の二つの初代乗用車を並べてみると、技術は未熟ながら純日本文化の繊細な造りこみをした車と、欧米式のがさつな車つくりの差が一目瞭然である。(図2、図3)

 その結果が、主力車であった「青い鳥(ブルーバード)」を籠から放ち(2001年製造中止)、蓄えてきた信用と財産を切り売りし、短期で利益が出たように見せかけ、自社のみが儲かる体制つくりに専念する。そして二人で育てた「愛のスカイライン」はメタボ化して、昔の熱烈な「愛」は冷めてしまった。30年前の私も、ケンとメリーのスカイラインには憧れていた。そこには開発者である桜井眞一郎リーダーの情熱があった。ルノーの拝金主義経営に染まった日産からは、その情熱は消え、魅力的な車が生まれなくなった。それでいて日産のゴーン社長の年俸は10億円に迫り、平均役員報酬は1億円を超え、トヨタのそれの数倍もある。それに対して一般社員の平均給与は、トヨタよりも低い。ゴーン氏はそれを「恥じることはない」と恥さらしに豪語する。何かおかしい。

 

拝金主義の腐臭

 一部の人だけが富を独占して幸せになり(本当に幸せか?)、99%の人が不幸になる社会を、我々は目指してきたのだろうか。この構図は共産中国の党幹部だけが、富を独占している姿に似ている。グローバル経済主義=拝金主義社会である。豊田佐吉翁、豊田喜一郎の顔と鮎川義介氏、ゴーン氏の顔を比較すると、人相学的に興味深い。ゴーン氏の顔は典型的な狩猟民族の顔である。鮎川氏の人相は前者に比較して人徳に薄いように見える。著作権の関係で顔写真を掲載できないので、画像検索で顔を比較して考えてください。

 

DNAの断絶

 2001年から8年間、自分は技術者教育に携わり、新人・中堅技術者の教育の一環として、トヨタグループの産業技術記念館の見学を引率した。この技術記念館は、豊田佐吉が明治44年に自動織機の研究開発のために創設した試験工場の場所と建物を利用して建設された。この記念館は、展示機械が全て動く状態で展示されている世界最大の動態博物館である。

 図6は新会社の新入社員を引率して、遠路3時間の産業技術記念館にバスで行った時の記念写真である。自分にとって若手技術者の成長を祈念した最後の引率研修となった「余分な事は教えるな。技術だけを教えればよい」という成果主義に染まった上司の役員・部長と教育方針が合わず、ある理不尽な事件を機に、私は閑職に飛ばされた。後任者の怠慢で、この講座は消滅した。教育の成果は10年後であるが、拝金主義者の目は、そこまで見ていない。近年は、日産、三菱自動車、タカタ、VWと、自動車業界は創業者の志に復讐されている企業が続出している。

 この産業技術記念館は、全ての人に開放されており、近隣諸国からも多くの人が団体で見学に訪れている。ここに見学に来て学んでいる若者の企業に、前職の会社が段々取り残されていくようで、寂しく情けない限りである。

 

図1 『西国立志篇』  トヨタ自動車75年史HPより

図2 トヨタ初の純国産乗用車トヨダAA型 1936年 (復元車)トヨタ自動車HPより 

図3 日産初の乗用車ダットサン12型 1933年(日産HPより)

図4 豊田佐吉翁の伝記ビデオを鑑賞 (産業技術記念館)

図5 豊田式自動織機の実演に見入る中堅技術者

   美人説明者に見とれている?(産業技術記念館)

図6 最後の見学会

 

2017-08-18

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年8月17日 (木)

賽の河原に立つ地蔵菩薩

 三途川の河原は「賽の河原」と呼ばれる。「賽の河原」と呼ばれる場所も、恐山を筆頭に、日本各地に存在する。賽の河原は、親に先立って死亡した子供が、その親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが、賽の河原で親の供養のために積み石の塔を完成させるが、完成する前に鬼が来て、塔を壊わしてしまう。何度、塔を築いてもその繰り返しになるという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済される。これらは民間信仰による俗信であり、仏教とは関係がない。

 賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もある。それは仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したというのが通説である。中世後期から民間に信じられるようになった。

この項wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9Dより編集

 

 賽の河原の石積とは、親の供養のための童子の願行ではない。それは己が成仏させられなかった己の願行である。「禁煙、禁酒をしよう、毎日散歩をしよう、勉強をしよう」と願をかけ、最初の数日間だけは実行するが、己の内なる鬼が、「そんなしんどいことは止めて、もっと気楽にしなはれ」と天使の声の如く耳元に囁きかける。今まで積み上げてきた禁煙、禁酒、散歩、勉強の継続という名の「石積の供養塔」を壊すのは鬼ではなく、怠惰な己である。成就させられず、途中で投げ出した供養塔の数を顧みると、我ながら情けない。幼くして死んだ子は、己が投げ出した三日坊主の象徴である。賽の河原の石積はあの世ではなく、己の「人生という大河」の両岸にある。挑戦しては、途中で投げ出した死屍累々たる山に手を合わせたい。

 石積を壊す鬼を止めるのが己の内なる地蔵菩薩である。佛像は己の心を現す鏡である。己の心には鬼も住めば佛も宿る。心の鏡の中に、鬼と佛が交互に現れる。堕落に誘う鬼の時もあれば、救いの佛様の時もある。全て、己の心が決める。

 自分の心に住むのは「魂(オニ)」である。己の心の「鬼」が、「云う」と書いて「魂」である。賽の石積みをしながら、それを壊すのは己の「魂」である。そんな魂を誰が育てたのか、自省したい。賽の河原の積み石の「地蔵和讃」は、子供に対する寓話ではなく、怠惰な大人への説法である。「三途川の河原の石積」はあの世ではなく、己の怠惰な心が作る現世の己の姿である。地獄に堕ちる前に、自分を救ってくれるのは、地蔵菩薩という名の自分である。菩薩とはひたすら修行道を歩く佛様である。残りの人生を精進して歩みたい。

 

図1 「鬼(オニ)」 松本明慶大仏師作

 

2017-08-17

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仏像の著作権は松本明慶大仏師にあります。

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インプラント 32(分際)

3.32 分際をわきまえているか

  「自分」という言葉は、禅の言葉である。全体の中の「自ら」の「分」が自分である。社会の一員としての存在を表している。その分け前を越えているのが「分際をわきまえない」である。つまり社会の常識を超えている利己主義行動であるとの意味である。それに対して「私」は個人主義の人間の存在を表している。

 対象の歯科医院を観察すると、経験年数、技量、人格、異様な設備の所有等視点から見て分際をわきまえない経営をしている。常識的に見て、この医院に親から頂いた大事な体の手術を任せるわけにはいかない。

 

分際という観点で真偽の見分ける

 そんな目で社会を見ると、ヒトの真偽の判別が容易である。たかが芸人の分際で社会批評や、事件のコメンテイターとしてワイドナショーで、出しゃばっているのを見ると、かたが芸人の分際で何をほざくの?である。芸の分野では達人であっても、政治問題や社会問題の専門家ではあるまい。顔を見ても、知性も品もない人の言動が信用できるわけがない。単に喋りが面白いだけの存在である。日頃、愚劣な番組を垂れ流すテレビ局に、そんな「高尚な」番組を見せられたいは思わない。それこそ、テレビ局が社会の分際をわきまえていない。問題は、そんな番組を痴呆のように、見続ける国民側に責任がある。それを見なければ、そのスポンサー企業の製品を買わなければ、社会はもっと良くなるのだが。最近、高齢者がテレビにかじりついているそうだ。それしかやることがないとか。

 たかが二重国籍者の分際で、なおかつその言い訳が二転三転する党首とその党を信用できるワケがない。民進党は、その日本という政党という全体の中で、己の分際という位置付けを間違えている。

 

2017-08-17

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人生の「いろは歌」

 鴨長明も『方丈記』(1212年 建暦2年作)で、河の流れを人生に見立てて、世を詠っている。水門川を毎日横目で見ながら歩いていると、自分の人生と重なる。儚く移ろいゆく人生は、危機感をもって生きるべし、である。

 「行く河の流れは絶えずしてしかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは且消え且むすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと又格の如し。」『方丈記』

 

人生の秋

 散歩道「ミニ奥の細道」を最初の5年ほどは、チンタラと歩いていたため、人生での思い出が色々と浮かんでは消えていった。しかし最近は、高血圧の治療を目的に、汗ばむほどの速度で大垣の「ミニ奥の細道」を駆け巡るので、頭に浮かんでくる事項が建設的になった。やはり人生は目的を持って精力的に歩かねばならない。

 人生の旅は時間制限があり、いつかは終わりが来る。「いろは歌」は人生の旅を象徴している。いくら栄華を誇っても何時かは散る運命である。『平家物語』からも人生の哀愁が伝わってくる。どちらも同じことを詠っている。その中でどうやって生きていくか、歩き続けても答えは出てこない。「いろは歌」は仏教の経典の中の言葉を元にしたといわれている。

いろは歌

 色は匂へど 散りぬるを・・・諸行無常

 我が世誰ぞ 常ならむ・・・・是生滅法

 有為の奥山 今日越えて・・・生滅滅已

 浅き夢見じ 酔ひもせず・・・寂滅為楽

 

 花はどんなに美しく咲き誇っていても、やがて必ず散ってしまう。この世で永遠に生き続けることができる人がいるのだろうか。全ての人は、現世と別れて一人で死んでいかねばならない。種々の因縁の和合により作られた無常の現世から、今日、目が覚めて抜け出して、この世を夢とは見ず、覚めた目で見つめていく。

 

 「いろは歌」には、色即是空、空即是色の般若心経で言う人生観「この世の栄華栄達も無常である」が込められているようだ。「いろは歌」の解釈はさまざま存在して、確定した解釈はない。だから自分が納得できるように解釈をすればよい。そこに自分の人生が映し出される。

 

There is no facts, only interpretation.

 ニーチェは「目の前に存在するのは事実ではない、どう解釈するかだけだ」と言った。仏教の世界では、その事実があるかどうかも夢うつつの物語だという。その中でどう生きていくか、それが人生の「いろは」として問われる。

 

図1 水門川沿いの「四季の路」

図2 自然に四季があるように、灯台にも四季の風景がある。人生の四季を終え、次の旅立ちの場所は、灯台である。俳聖松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅を大垣で結び、式年遷宮の伊勢神宮に参拝をするため、ここ大垣船町の港から舟で桑名に向けて旅立った。旅の終わりは、次の旅への出発(departure)である。

図3 大垣市船町港跡の川辺に立つ芭蕉像。

 

2017-08-17

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2017年8月16日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (10/25)種まき

後世への種蒔き

 1860年1月1日、開国後の長期的視野に基づき、井伊直弼大老はオランダで建造した日本初の洋式軍艦「咸臨丸」を使って、日米修好通商条約の批准使節団を米国へ派遣をした。その使節団には勝海舟や福沢諭吉を随行させた。これは初の日本人だけでの太平洋単独横断でもあった。井伊直弼大老は、日本に開国のDNAを植えつけて天命を全うした。その後、批准使節団の帰国を見ずして、その2ケ月後の3月3日、桜田門外で散る。まるで交尾を終えたカマキリが自らメスに頭から食われて子孫の栄養になるのを助けるがごとくに。後世に託した種は、渡米した福沢諭吉らが、明治時代になって花開かせることになる。米国を視察した勝海舟が、江戸幕府の幕引きに貢献する。井伊直弼大老が残した痕跡が彦根市の天寧寺にある石黒太郎の墓に残されていた。詳細は次回(11/25)で掲載予定。

 全ての生命は子孫にDNAを植えつけて死んでいく。例えば受精した生命体の成長で、手の創成は指と指の間の組織が死ぬことで、新しい手の指が創成される。死は新しい命の芽生えのための一つのプロセスである。死がないと新しい命は生まれない。

 

私の種まき

 定年退職して会社の後進に託したその種まきが、無残な姿を見せつけられるのは悲しいことだ。その姿に、合併後の新会社に受け継がれたDNAが明らかになった。後進の担当者に技術者教育を託したが、もともと教育には熱意がなく頼りない人であった。講師を依頼しても、やる気のない手抜き講義しかしなかった。それは吸収側の会社の教育を重視しないDNAに起因していた。なにせ金にならない事項は、大事なことでも教えないという文化がある前会社である。結果として本来、その部署で担当すべき技術者教育を他部署に押し付けて教育の仕事を放棄してしまい、技術者教育の空白期間が2年程続いた。さすがに新社長の教育重視の指示で復活して、技術者教育が復活した。

 巨大になった組織では、官僚的な縦割り組織となり、その教育が本来もつ意味を考えず、形式的な教育に転落した。教育内容も細部に分割され、この部分は全社組織で、専門分野のこの教育は担当事業部でと、たらい回しとなり、会社として伝えるべきグループ企業としてのDNA教育が消えてしまった。

 

技術者教育の経緯

 私は技術管理部署で2000年から技術者教育を担当して、教育講座を構築して本格的に展開した。2003年から仕入れ先の工場見学会を取り入れ、実際に当社の製品の前工程での生産工程を見学させた。事前準備、事前の会社訪問、事前調査、見学依頼、バスの手配、引率と大変手間のかかる業務であるが、その評価はあまりされない。成果主義第一主義の企業では、やりたくない業務である。2004年からトヨタ産業技術記念館への見学を技術者教育に取り入れた。バスを仕立て、引率者として見学ツアーを継続した。豊田佐吉の生い立ちのビデオ、実物、前職の会社の本社事務所の姿や会社理念の実物の見学である。これらの技術者教育を6年間継続して、新会社になっても続けた。その教育体制が、私が退職したら、崩れてしまっていた。「会社診断◇会社社是」で述べたように、DNA教育の継承を怠った企業の末裔は悲惨である。大企業として全社に展開するため、教育講義がテレビ会議システムの講義形式になった。講義の内容は伝わるが、講師のパッションは伝わらない。私は技術教育講座の運営責任者として、講師の講義を教室の後ろで必ず監視した。熱意のない不真面目な講師は、翌年の講義講師から外した。そこまで私はこだわった。私自身も講座講師として6コマを持って、受講者のレポートは全て添削した。2週間の期間中に、受講生とのメールのやり取りが優に1,000通を超えた。今にして思うと情熱をかけて良くやったと自負したい。

 

伝わったDNA

 幸いなことに、私が残したDNAは、科学工業英語教育(テクニカルライティング)と三次元CADとして残った。私の意図が当時の部下に伝承されて三次元CADが展開されている。それが救いである。担当者として一番手間がかかり、成果主義では評価されない関連仕入先の工場見学講座が消えた。大事な豊田佐吉のDNAを伝えるトヨタ産業技術記念館への見学講座が消えた。技術者に重要な講座であるのに。前職の会社が吸収合併されるのは悲しい。それで大事なDNAの伝承が途絶える。教育を怠った咎が表れるのは、20年後であろう。日産や三菱自動車のようにDNAに復讐される。

 経営者は決断したことだけではなく、決断をしなかったことにも責任を取らねばならない。経営者がするべき決断をしなかったので、前職の会社は時代に乗り遅れ、会社は消滅した。

 命を捧げて開国の決断をした井伊直弼大老は、日本の大事なDNAを後進に託して桜田門外に散った。それが欧米に植民地にされるのを防いだ。それで今の日本の繁栄がある。アジアではタイ以外の諸国が列強の植民地にされた。タイが植民地にされなかったのは、地理的な要因で列強がお互い手を出さなったからで、タイが頑張ったためではない。

 

図1 トヨタ産業技術記念館で豊田佐吉が作った機織り機での実演を見つめる受講生。トヨタ産業技術記念館は、世界最大の動態博物館である。全ての機械が動く状態で展示されている。初回の見学講座である。

図2 トヨタ産業技術記念館に展示されている豊田綱領

図3 当時の織機のライン(実際に稼働している状態を実演)

図4 鍛造工程の実演風景

図5 トヨタ最初のAA型乗用車の開発風景

図6 パートナーロボットのトランペット演奏を見つめる受講生 

 

2017-08-16

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72年目の佛の目

 広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、2003年から米首都近郊のダレス国際空港脇にあるスミソニアン航空宇宙博物館の関連施設に、ピカピカの状態で展示されている。反核運動で知られるアメリカン大のカズニック教授は、共同通信に「20万人の命を奪った飛行機を展示する厚かましい国が他にあるか。抗議のため開館時に一緒に訪れた被爆者の落胆が忘れられない」と語った。長崎に原爆を投下したB29「ボックスカー」は、中西部オハイオ州の博物館で展示されている。(産経ニュース2016-05-22より)

 

戦後の歴史

 戦後72年が経って当事者が殆ど没したにも関わらず、米国ではいまだ白人優位、植民地拡大主義を封じ込めていない。太平洋戦争という歴史の結果に反省がない。トルーマン大統領が、言い訳の為に作った「原爆が戦争終結を早め、米国人を救った」のプロパガンダに米国民は洗脳されたままになっている。多くの女性子供を含め21万人以上を殺した罪の大きさを考えると、戦争責任など考えたくもないのだ。日本の戦争責任がいまだ言われるが、誰が戦争をせざるを得ない状況に追い込んだのか。「こんな私に誰がした?」。戦争になった結果があれば、その原因がある。結果の責任ばかりに話が行き、その真因の責任には誰も言及しない。トヨタ生産方式の「なぜ戦争になった? 何故、何故を5回繰り返す」べきなのだ。それがないから、戦後も世界で紛争が絶えない。真因を突き止め再発防止をしないから、今も巨悪が生き延びて生き血を吸い跋扈している。

 江戸末期、明治時代には、アジアで日本とタイ以外の国が、欧米の植民地にされ、それが戦後解放された事には、マスコミは口を閉ざす。当時の欧米列強も、植民地の犯罪に口を閉ざし、責任を認めない。アジア諸国が平和に暮らしていたのに、列強諸国が強盗のように乗り込んで、植民地にして民衆から搾取をした。英国がインドの植民地統治で、現地人を2,000万人も餓死させた。米国は、植民地のフィリピンで61万人を虐殺した。だれが責任を取ったのか。戦勝国だから、自国民もマスコミも追及しない。

 ドイツ国民が、ユダヤ人にしたホロコースト犯罪をすべてナチスに押し付けて、反省をしないのに似ている。だれがナチス党に選挙で票を入れたのか、ドイツの誰もが口をつぐんでいる。それを、日本を責めることで、自国に火の粉が舞わないようにしている。攻撃は最大の防御である。ドイツは日本の経済での競争相手としての躍進に面白くなく、反目しているのが見え見えである。

 現在の中共の民族虐殺のことに目をつぶり、過去の植民地政策の責任にも背を向け、金儲けのためAIBBに駆け参じる欧州列強の姿が現実である。

 米国、ドイツ等の欧米社会を見ていると、この72年間で全く、人として進化をしていない。あくまで金もうけが先行して政治が動いている。白人以外は人ではないとの考えが、戦前と変わっていない。中国では共産党員以外は人ではない。結果が、貧富の差の拡大である。

 世界最大の覇権国となった米国は、産軍複合体の維持のため、10年に1度は戦争をしなければならない体質となっている。兵器の在庫処分のためである。戦後、米国は、自作自演のトンキン湾事件を機に宣戦布告もせずベトナム戦争に突入する。ありもしない大量殺戮兵器所有を理由として、フセイン政府に宣戦布告もなしに湾岸戦争を始め、フセインを絞首刑にした。その目的は中東の石油の利権確保であった。いくら探しても大量殺戮兵器は見つからなかった。フセインの独裁政治のため何とかバランスの取れていた中東情勢が、この破壊を機に混乱し、現在の中東のテロの横行をもたした状況となっている。

 そんな傍若無人の米国の繁栄も100年を迎え、衰退の時期になったようだ。トランプ、クリントンの下劣な大統領選挙戦を見ると、米国の衰退を肌で感じる。国の繁栄も100年は続かない。それは墓石の寿命と同じである。スペイン・ポルトガル・オランダの世界征服を目指して船出した時代、日の沈まない大英国帝国の植民地拡大時代を経て、各国の繁栄はせいぜい100年であった。

 近隣諸国がぐちゃぐちゃと難癖の言いがかりを吠えてくるが、なにが真実か、なにが正しいのか自分の頭で考えたい。世の中では、まともでない人ほど、声が大きく非常識である。世の中の事象の真偽判別は、単純明快である。泥棒行為をして、声が大きければ、その非常識がまかり通る世界に住んでいる鬼たちとは付き合い方を考えよう。竹島問題、尖閣諸島、シベリア強制抑留、北朝鮮の日本人拉致問題、知的財産横領、靖国参拝問題、…… 冷静に歴史を振り返りたい。

 

強欲主義の跋扈

 仏教の思想では、自分の民族以外を民族抹殺、大量殺戮してでも目的達成という恐ろしい考えはない。ライオンでも満腹になれば、目の前のウサギも無視である。それに対して、白人の仮面を被った死鬼衆には、目的達成のための手段に限度がない。人の財産を総取りして、打ち負かした地の人間を皆殺しにするか、奴隷にする習性は、日本とは異質である。今のパナマ文書問題が象徴しているように、グローバル経済主義教は、欲望が人間の時間的、許容的な限度を天文学的に超えるまでに及ぶ。一人で何兆円もの金を隠してどうするのか。我々は、人類全体を何十回、何百回も皆殺しにできる核兵器を備えるまで行きついた。世界終焉の世界がまじかである。その元となる考えは、物欲からくる総取り思想である。

 現代は、世界の強欲に迎合するマスコミが跋扈する。そのマスコミは、大資本に迎合しないと売り上げが伸びないので、偏向した報道に徹している。そんな思想に染まらないように、自分の頭で考えて、日本の精神文化を広めて、日本は世界に範を示すべきだ。

 

日本精神文化の責任

 お釈迦様は2500年前、自分が生まれ育った国を他国に滅ぼされる憂き目を受けている。その際、お釈迦様は他国の軍を前にして3回、座って止めようとした。しかし、4回目は止めることをせず、他国に攻め滅ぼされた。お釈迦様は、武力に対して、武力ではなく対話と行動で止めようとした。今はその敵国は消滅したが、お釈迦様の思想は生き延びて輝いている。悟りを拓いた人は強い。無力な我々であるが、先祖から受け継いだ日本の非戦という精神文化を、後世に伝えるのが、我々の勤めである。

 

2017-08-16

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