インプラント 32(分際)
3.32 分際をわきまえているか
「自分」という言葉は、禅の言葉である。全体の中の「自ら」の「分」が自分である。社会の一員としての存在を表している。その分け前を越えているのが「分際をわきまえない」である。つまり社会の常識を超えている利己主義行動であるとの意味である。それに対して「私」は個人主義の人間の存在を表している。
対象の歯科医院を観察すると、経験年数、技量、人格、異様な設備の所有等視点から見て分際をわきまえない経営をしている。常識的に見て、この医院に親から頂いた大事な体の手術を任せるわけにはいかない。
分際という観点で真偽の見分ける
そんな目で社会を見ると、ヒトの真偽の判別が容易である。たかが芸人の分際で社会批評や、事件のコメンテイターとしてワイドナショーで、出しゃばっているのを見ると、かたが芸人の分際で何をほざくの?である。芸の分野では達人であっても、政治問題や社会問題の専門家ではあるまい。顔を見ても、知性も品もない人の言動が信用できるわけがない。単に喋りが面白いだけの存在である。日頃、愚劣な番組を垂れ流すテレビ局に、そんな「高尚な」番組を見せられたいは思わない。それこそ、テレビ局が社会の分際をわきまえていない。問題は、そんな番組を痴呆のように、見続ける国民側に責任がある。それを見なければ、そのスポンサー企業の製品を買わなければ、社会はもっと良くなるのだが。最近、高齢者がテレビにかじりついているそうだ。それしかやることがないとか。
たかが二重国籍者の分際で、なおかつその言い訳が二転三転する党首とその党を信用できるワケがない。民進党は、その日本という政党という全体の中で、己の分際という位置付けを間違えている。
2017-08-17
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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