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2018年10月

2018年10月17日 (水)

3つの干支猪を比較対照

 2018年10月12日、馬場恵峰先生宅からの帰路、大原野の松本工房を訪問した。そこで松本明慶先生から、特注の3つの干支の猪を見せてもらった。ある人からの依頼品という。なんでも現行の干支の猪の一刀彫の木彫りではなく、もっと手の込んだ木彫り猪を希望されたとか。

 新しいモノを創造するには、3つの試作品が必要だと、明慶先生はいう。2つ作ると、どちらかで優劣が決まる。もう1つ作ると、その2つの猪と新しい作品との比較ができて、さらに良い作り方の技法が創造できるという。それの良い方を取り入れて一つ目の作品を修正して作品を作ると、3つの作品を凌駕する今までにない作品を生み出せる、という。

 

母の供養

 以前から、今度、松本工房から猪の干支の作品が出たら購入しようと思っていた。それは母の生まれ歳の干支だから、母の供養として飾りたいと思っていた。父の干支である辰の一刀彫は入手済みである。

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 特製の干支の一刀彫(一刀彫ではないが)は、通常のものより数倍のお金を出せば、よい作品が手に入ることを教えてもらった。数倍の値段だが、手間はそれ以上にかかっている。一般には、採算が合わないので、売らないという。

 新しいものを創るのに三つの作品を作る。二つでは少ない。この手法は、より良き作品を作る手法として、いろんな開発にも応用できそうである。参考にさせていただくことにした。テクニカルライティングでの事例紹介では、3つは多い。一つでは少ない。2つの事例を出すのが定石である。創造の場合には別の価値観がある。

 

京都のもてなし

 その後、明慶先生自ら運転して、駅まで送っていただいた。松本明慶先生曰く、京都では出迎え3割、見送り7割で客人を歓迎するという。板長でも、お客が帰るときは、出向いて挨拶をするという。大原野の松本工房でも、客人が帰るときは、誰かが必ず、駅まで送るという。京都の風習のいい勉強になった。

 ただし、馬場恵峰先生や松本明慶先生の天才肌の芸術家は、運転が常人とは違い、少し粗いのが玉に傷である。私がトヨタの試験車運転資格を持っているから、余計に運転の粗が見えた。馬場恵峰先生は、今回92歳でスパッと車の運転をやめられた。安堵しました。

 

2018-10-17 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年10月16日 (火)

大きな木は、中央部から腐る

 2018年10月12日、大原野の松本工房を訪ねたとき、松本明慶先生が仕事場の奥の応接室の机の年輪を示されながら、教えてもらったこと。

 大きな木は、年輪が緻密に刻まれている。そのため、大木の中央部の年輪部は、木に含まれる水分が外に出ずに留まるので、腐りやすい。明慶先生が長年、作品を作るために貯めていた大木の材料が、最近腐ってきて、大量に処分をせざるをえなかったという。だから大仏や、大きな仏像を作る場合は、本体の中央部はくりぬくのが定石である。大木のままでは、像彫刻はしないという。

 

組織の腐敗

 それは組織でも同じである。中央部の奥の院に、トップとして長年居座ると、外の声が奥の院まで届かない。組織は中央部から腐る。東芝、東電、タカタ、三菱自動車、電通、の不祥事を見ればよくわかる。大垣行政は大丈夫なのか。

 

心の腐敗

 自分の心の内部の秘め事を大事にしすぎて、保身でそのガードを何重にもするとると、それが意固地やこだわりとなって、悪い固定観念となる。それでは、素直になれず、人生を誤らせ、人生を腐らせる。己の心の内部を人に晒して、風通しを良くして人生を歩むのがよい。たかが己の小さな人生で、何を隠すのか。心を開けば、人は己の間違いを教えてくれる。人が援助してくれる。自分の世界に閉じこもっては、道は開けない。

 松下幸之助翁の信念は「素直」である。それで、松下幸之助翁は町工場を世界の松下電器にした。

 

2018-10-16 久志能幾研究所 小田泰仙

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人の料理の仕方、食い方

 久志能幾研究所で、人の食い方、人の料理の方法を研究している。それは自分が善く生きる術を研究すること。人を観れば、自分の生き方の反面教師となる。久志能幾研究所の仕事は、人間ウォッチングである。

 

食えん人

 しかし最近は食えん人が多すぎて、料理しようがなく閉口している。それも煮ても焼いても食えん人が多い。食えん人は、死んでも食えない。食えん人は、認知症に罹っており、成仏しても極楽に行って、認知症のため、話が通じない。せめて来世では迷惑をかけないようにしたいもの。

 体の滋養物に相当する、人生の慈養縁を沢山摂取することが、人生を豊かに満心させる。

 人生で甘いものばかり摂取する人では、糖尿病になる。人生での甘いものとは賄賂である。子供の甘えかしである。悪徳お役人は心臓が賄賂で、太い儲毛が生えている。その弊害で羞恥心を無くす。ワサビだらけの人では、付き合えない。ワサビはほんの少しあればよい。アル中では、正気を失う。脂ぎった人では、生きざまが油脂で汚れている。ピリッとする調味料なら、人生の味付けで美味し人生を送れる。

 

聖人の生き様

 聖人のような方では、うまみ成分がなく、完全無欠な神様食を食べているようだ。それでは、無味乾燥の食生活にかる。なにか少し不純物が混じったほうが、人生の旨味が出てくる。その旨味を付けることが、人間の欠点で、人間味のあることだ。自分の長所を伸ばせば、その欠点が人間味となる。神様のように完全無欠の味では、飽きが来る。やはり人間として生きたい。

 

明徳を明らかに

 人に喜んで食べてもらう人間になるには、徳を積むことだ。陰徳を積むことだ。素直な人間になることだ。明徳を明らかにすることだ。自分は誰に食べてもらうために、生まれてきたか。自分がこの世で、世に尽くして、食べ尽くされることが、最大の喜びである。それを天命という。

 

2018-10-16 久志能幾研究所 小田泰仙

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法話 「苦」とは

 2018年9月6日、広島の福屋で開催された「松本明慶仏像彫刻展」で、同時に開催された「広島新四国八十カ所の霊場お砂踏み巡り」の催しで、曹洞宗の住職様の法話を聞いて感銘した。今まで「苦」について、勘違いをしていたことが判明して、刮目した。我68にして67の非を知るである。世の中は知らないことばかり。

 

苦とは

 仏教での「苦」とは、一般的な苦しみの意味ではない。苦とは、生老病死のように、いくら努力をしても自分では何ともならないこの世の定めをいう。

 「苦」のある人生をどう生きるかが仏教の教えである。いくら努力をしても老いは避けられない。死なない人もない。その状況で、己はどう生きるのか。それが仏教の教え。

 死という苦は、何をしても避けられない。その頂いた命をどう使うか。生あるものは、必ず老を迎える。昔できたことができなくなる。その老いをどう見つめるか。それが仏教の教えである。答えはないが、それを見つめて生きるのが、修行である。

 

2018-10-16 久志能幾研究所 小田泰仙

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磨墨知3  自分の残り時間を意識しよう

社員の平均年齢35歳、平均寿命80歳として残りは16,425日しかない。

    平均寿命80歳として30歳なら18,250日しかない。

    平均寿命80歳として40歳なら14,600日しかない。

    平均寿命80歳として50歳なら10,950日しかない。

    平均寿命80歳として60歳でも 7,300日もある。

  一秒一秒、人は死に向かって歩いている。

 

人生80年を1日として、24時間の人生時計で計算すると

 20歳は朝6時 (目覚めて活動を開始) 

 35歳は10時30分  活動の真っ盛り

 50歳は15時

 55歳は16時30分  一日の就業時間が終わり、残業時間に

 60歳は18時         今から夜の時間へ

 70歳は21時

 就寝の24時まで、残りわずか。

   日暮れて道遠し。人生の大事を急げ。 

 

職位の寿命

 どんな職位にも任期・寿命がある。会社組織なら3年間か4年間である。行政の長なら、4年2期が基準である。

 任期の1年目で、その職場の全体の概要と課題をつかみ、4年後の退任の「死」を想定してやるべき計画を立てる。2年目に種をまく。3年目に、それを育成して、4年目で収穫をする行動を起こす。3,4年目で、後継者を決め、残った課題を後継者に託す。職位の在位の残り時間は、1200日しかない。週休2日とすると、1000日である。業務での雑事時間を考えると、300日くらいしか、本業に取り組めない。それを意識して仕事をしよう。人生でも、会社の職位の在位期間は、そんなに多くの時間があるわけではない。新職位に就任しても、日没まで実質300日しかないのだ。

 

死の意識と長期展望を持て

 小川敏大垣市長のように、だらだらとなすべきことを放置して座にしがみつけば、20年の退平の期間を無為に過ごせる。それは市民には死の時間が過ぎていく。市民はたまったものではない。

 

2018-10-16 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年10月15日 (月)

「サラ・ディビス コンサート in 大垣」エピソード

サイン会のハプニング

 2018年9月17日のサラさんのピアノコンサートで、サイン会は当初想定していなくて、サイン会場も用意していなかった。サラさんが、演奏ステージの合間に、たどたどしい日本語で「3歳のころ、母に連れられてピアノ演奏に行き、感激した」という話を聞き、事務長の田中重勝さんが、「あしながチケット」の話をサラさん伝えたら、サイン会を急遽、することになった。サイン会の予定はなく、大急ぎで準備をしたので、サイン用の色紙も間に合わず、配ったハンカチやパンフレットで対応したという。それでも子供たちが大勢列を作って大喜びであった。

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子供の感想

 事務局長の田中さんは、会場の外で種々の段取りをして、サラさんの演奏を聴けなくて残念がっていた。

 遅れてくる人がいると連絡があり、田中さんは演奏会会場の外で待っていたが、結局、来ないですっぽかされたという。また、小さい子供を連れた母親が、第一部の演奏途中で子供がむずかり、曲の合間に退席して、その案内をした。母親が残念がって、次の休息時間の次に再度、曲を聴くことを試みたが、やはり途中で子供がむずかり、1曲聞いて諦めて会場を後にした。

 母親が後で、子供に感想を聞いたら、一曲しか聞かなかったが、「よかった」という感想を述べたという。子供は聞いていないようで、しっかり聞いているようだ。ただ長時間、じっと聞くことができないだけなのだ。そのことをその母親は、田中さんに手紙でお礼状を書いてきて、田中さんは嬉しかったという。子供たちを招待した「あしながチケット」を手配してよかったという。

 

親子ルームの準備

 今回は、大垣文化ホールで演奏会を開催したので、親子ルームが準備できなかった。本来なら、大垣音楽堂で演奏会を開催すれば、親子ルームも設置されているので、この問題が起きなかったのに、残念である。まだまだ、大垣市の音楽関係の環境は良くない。大垣市に改善を要求する。

 

協賛のお願い

 また皆さんも、次回の「世界で一流の音楽を聴く会」の演奏会開催時は、あしながチケットの協賛金の援助をお願いします。現在、演奏会があるたびに、スタッフが、大垣市内の企業を回って、協賛金を集めています。個人の援助も歓迎します。そのお金で、高校生以下の生徒120名を、音楽会に招待します。

 

2018-10-15 久志能幾研究所 小田泰仙

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大垣倫理法人会の不倫

 大垣倫理法人会は、毎土曜日の朝、経営者モーニングセミナーを某ホテルで開催している。伊藤ひでみつ県会議員は、氏の議員会報で、「この場で学んでいます」と大威張りである。しかし、その場所は公共の場のホテルレストランである。その場で、大垣倫理法人会の会員は、傍若無人のふるまいである。小川敏大垣市長は、この会の顧問を務める。

 

大歓声

 ある朝、2018年9月22日、そのレストランで朝食を取ったら、担当者がピリピリして不機嫌であった。訳を聴いてみたら、レストランの奥の部屋に陣取った大垣倫理法人会が、場違いな歓声と拍手の騒音を立て続けに出しており、宿泊の客から苦情を言われたという。それは新入会員の紹介と自己紹介で歓声と拍手の連弾であった。まさに傍若無人の振る舞い。

 それが終わった後も、数人の幹部が残り、1時間ほど、隣の部屋まで聞こえる大きな声や笑い声で議論をしていた。周りの迷惑は知ったことではないのだ。

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ホテルの対応の変化

 以前は、倫理法人会のメンバーは早朝セミナーの後、朝食をホテルのレストランで、一般客と同席して取っていた。しかし、あまりに非常識な振る舞いが多く、他の客への迷惑行為が多かったので、ホテルが客の苦情で別の会場にした。しかし、その変化を倫理法人会の幹部は分からなかったようだ。

 経営者は、世の中のわずかな変化を捉えないと、経営者として失格である。また倫理法人会は会員の入れ替わりが多いようだ。会員は単に仕事のツテを求めて会員になっているようだ。入会の動機が不純なのだ。

 

講師の傍若無人

 ある朝、朝の経営者セミナーの講師が、外車をホテルの玄関のど真ん中に後ろ向きに止めて、平然としていた。伊藤ひでみつ県会議員が最敬礼で、講師をお見送りしていた。異常だ。ホテルの正面のど真ん中に止めれば、客が呼んだタクシーが駐車できない。排気ガスが、ホテルに出入りする人に、まともにぶつかる。そんな感性で、何が経営者を指導する講師なのだ。非常識極まりない。

 

会員の下世話話

 朝のセミナーが終わった後、参加した会員が話し合っている話しが下品なのだ。節税とか、後継者問題で、占いとか、金儲けとか、所詮、中小零細企業の社長のおばん達の下世話な話題ばかりが聞こえてきた。モーニングセミナーの講演とは隔絶したレベルである。

 

人の上に立つ人の道

 丸山敏雄師は、「人の上に立つということは、真っ白い衣を着て、ぬかるみを歩くようなものだ。泥を撥ねまいとして、一歩一歩細心の注意をして歩く。その繊細さがなければ、その団体は知らず知らず堕落していくのだ。」(p363 神渡良平著『一粒の麦 丸山敏雄の世界』致知出版社)

 

 丸山敏雄師の言葉は、万人の管理者が肝に銘じるべき言葉である。丸山敏雄師が草葉の陰で泣いている。

 

2018-10-12 久志能幾研究所 小田泰仙

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極楽・地獄共通仮想通貨をゲット

 先日、私の師に、遺書のつもりで書いた『詞天王が詠う老計・死計』(全230頁)を進呈したら、お礼として、その住職様発行の「極楽・地獄共通仮想通貨」を頂いた。

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極楽通貨

 それを手に入れれば、使っても、使っても減らず、使い出があるという。そういう通貨が人生の仮想通貨であることに思い立った。それをこの世で貯めることを人生目標としたいと、思いを新たにした。

 その通貨の単位は「縁」である。日本国政府発行の「円」よりも信用がある。それを集めることが、人生の蓄財である。

 普通に縁を集めようとすると、足を使い、手間をつかい、頭を使い、心を気配りして、時間を使わないとご縁は貯まらない。その気がないと、貯まらない。「そげんこと、ワシに関係ないバッテン」との姿勢では、ご縁は貯まらない。

 

用を作りに行く

 しがない人が陰口で、馬場恵峰先生が240回も中国に自費で渡航したのを「どげん用ばぁ、あるばってん。でげん中国に行くかえ? 馬鹿かいな」。

 「用があるから行くのではない。用を作りに行くのだ。だからご縁が貯まるのだ。ばかでなければできない」と。

 一日中、やることもなく、訪ねてくる人もいない生活では、ご縁は集まらない。ばかだから還暦で1億円の借金をして、社会奉仕として350坪の土地に「日中文化資料館」を建て、24年かけて借金を完済した。世のために生きているから、92歳でも現役で矍鑠としておられる。

 時代が変わっても、円の切り替えがあっても、貨幣価値が激変しても、びくともしない永遠の「財産」である。その財産は子孫も使える。その財産が、悪縁や腐れ縁では、負の財産だ。よきご縁を手に入れねば、人生に花は咲かない。

 

縁あって花開く、恩あって実を結ぶ

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 私は、月に一回の頻度で馬場恵峰師の書の写真撮影のため、九州の馬場恵峰先生宅に往復1800キロの旅をしている。それで作成した写真集は、大赤字である。

 これは先生の書とその生き方に価値を認め、その気にならないと、足が動かない。いくら金があっても気がなければ行くまい。いくら条件がそろっても、健康でなければ行けない。価値を見出しても、先立つものがなければ、行けない。九州に足を運べる自分の幸せをつくづくと思う。それがご縁の力。

 

2018-10-15 久志能幾研究所 小田泰仙

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国辱者 「朝鮮通信使」3

 「朝鮮通信使」行列再現行事で、前記の痴態が目を覆うばかりである。さらにお粗末なことに、大垣少年少女合唱団に、韓国民族衣装を着させて、この「朝鮮通信使」行列に参加させ、大垣の税金を投入した大垣の歌「これまでとこれから」と日本の童謡を韓国の市長と大垣市長の前で歌わせた。

 本来の礼儀なら、外国からの客人には、和服姿で大垣の歌と日本の童話を歌う。それを大垣市民の誰が、韓国民族衣装で「大垣の歌」を合唱するなど、そんな卑屈な行事を望むのか。真の歓迎なら、韓国民族衣装で、韓国の歌を歌うなら、話が分かる。

 大垣少年少女合唱団の若人も指導者が、指示すれば従わざるを得ない。若い少年少女だから、指導者に反論はできないだろう。大垣市は、小川敏市長の愚断で、韓国の一地方都市の軍門に下ったのだ。

 小川大垣市長は、大垣の歌「これからとこれまで」を聞いている間中、ずっと不機嫌そうな顔であった。この歌う1分50秒間、撮影した70ショット連続でこの不機嫌さの顔つきを維持した。その記録はカメラに撮影された。

 大垣少年少女合唱団の衣服の費用も市民税のはずである。それも、衣装の写真を拡大して検証するとペラペラの貧相なつくりである。

 

新興宗教ごとき

 今、日本人の78%が韓国に反感を抱いている。大垣建設の100年で、どういう貢献を「朝鮮通信使」はしたのか。それに、何も知らない大垣少年少女合唱団を駆り出すのは、洗脳教育である。大垣少女合唱団に、外国の客人の歓迎に和服でなく、韓国民族衣装を着せる指導者の神経が分からない。まるでオウムの宗教服ごときである。小川敏市長の命令は絶対なのだ。

 この行事は、税金の無駄遣いの最たるものだ。その使用用途は条例でマル秘である。そんな判断しかできない小川敏市長に市政を任せて、大垣の未来はあるのか。

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 大垣少年少女合唱団 韓国民族衣装で大垣の歌を合唱  2018年10月7日

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 大垣市長は、大垣の歌「これからとこれまで」の間中、ずっと不機嫌そうな顔(歌う1分50秒間、撮影した70ショット連続でこの不機嫌さを維持した)

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 指揮者のペラペラの安っぽい韓国民族衣装

 

2018-10-15 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年10月14日 (日)

行列再現の何故? 「朝鮮通信使」2

 彦根藩では、朝鮮通信使の一行は宗安寺に泊まり、大垣藩では、全昌寺に宿泊した。彦根市は、通信使400年記念で2007年10月8日、「彦根市国宝・彦根城400年祭/日韓交流フェスタin彦根」で200人が参加して、正使:呉榮煥(駐大阪大韓民国総領事)と井伊家第18代当主の井伊岳夫氏と国書交換をした。

 今回、大垣市は朝鮮通信使の400年記念が終わって11年余も経つのに、市政100周年記念で、朝鮮通信使の行列を再現した。その行列の時代検証は、デタラメの再現であった。それは後述する。

 

何故?

 何故、朝鮮通信使が終わって300年余も経ち、通信使400年記念でも11年も経つのに、今頃になって「朝鮮通信使行列」を大垣10万石まつりで再現したのか。彦根市の宗安寺には、朝鮮通信使の資料や絵、像、宿泊部屋などが保存され、常時見学ができる。しかし、大垣市はその痕跡や資料が、彦根市に比べれば皆無に等しい。

 

推測

 下衆の勘繰りで言うと、韓国の大垣の友好都市との関係である。韓国の友好都市の関係者を厚遇すれば、大垣市の税金で、議員や市の関係者は、韓国の友好都市に公費で出張を名目に遊びに行ける。今の韓国との関係で、友好都市契約を結ぶのは異常である。現在の日韓の政治状況では、だれも韓国の都市と友好関係を結びたいとは思わないだろう。日本人で反韓感情を持つ人は78%に上る。そうなったのには訳がある。大阪市は、韓国移民者が多いロサンゼルス市との友好都市の関係を、慰安婦像の問題で、取り消した。

 だから何らかの政治影響力が韓国からかかったか、大垣市政と韓国との下のつながりがあるのだろう、と下衆の勘繰りをしてしまう。

 

「朝鮮通信使」とは

 朝鮮通信使とは、江戸時代、将軍の代替わりや慶事などに、朝鮮王朝の外交使節団が、朝鮮国王からの国書を持って来日した使節団をいう。起源は室町時代にはじまり、慶長12年(1607年)以降1811年までの約200年間に12回、朝鮮から、学者、文人、医師などを含む300~500人規模の使節団が日本を訪れた。その使節団が日本文化に影響を与えた痕跡は、現在、祭り等の限定したことでしか残っていない。

 

朝鮮通信使の位置付け

 しかし、この朝鮮通信使をめぐっては、多くの解釈がある。両国の関係は対等と朝貢という相反した考え方である。通常、両国の関係が対等であれば、国書への回答となる「返書」が送られる。幕府からの返書は残っていない。通常、返礼は、対馬藩が代行したという。

 現在残っている国書「朝鮮国王李昑国書」に対する徳川家重の国書が日本から発給されて、通信使によって朝鮮に持ち帰られたが、それは残っていないようだ。また朝鮮への「日本通信使」があったわけではない。

 11回ある朝鮮通信使の内、8回までが、徳川幕府の代替わりに対する襲封祝賀伝達である。

 江戸幕府は朝鮮通信使の来日については、琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を常用しており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそう呼ばれていた。だから、対等ではなかったとみるのが妥当と思う。

 今回のユネスコ世界遺産登録は、両国が対等であったという前提で、日韓の妥協の産物として共同で登録申請がされた。そうでないと韓国が納得しなかった。

 

旅路

 この使節団の旅は、朝鮮の漢陽(現在のソウル)から、江戸までの2,000km弱に及ぶ。その旅の期間は10ヶ月近くに及ぶ。海上では、日本側から歓迎船などで大船団となり、陸上では日本側の警護人1,500人を合わせると2,000人にもなる大行列となった。その行列が、ハンソン、釜山、対馬、壱岐、下関、広島、神戸、大阪、京都、彦根、大垣、名古屋、静岡、小田原を経て江戸に行った。当時、日本で朝鮮通信使行列は、約20年に一度なので、一生に1度か2度しか見れず、街道には多くの人が押し寄せた。

 

彦根の宿泊地

 「朝鮮通信使」行列が通り、宿泊した彦根市には、宿泊宿・宗安寺に「朝鮮通信使」の関係資料や絵、像が多く展示されている。

 宗安寺は、江戸時代に朝鮮通信使が来日する際、高官の宿泊所に指定されていた。この寺には朝鮮の高官像とされる「絹本著色朝鮮高官像」(江戸時代)が保存されている。この絵は、朝鮮通信使によってもたらされたと伝えられている。紗帽(うすぎぬで作られた帽子)を被り、朱色の袍(礼服)を身におおい、二羽の白鷺の文様とみられる胸背(刺繍の装飾)と鼈甲の帯をつけており、その種の肖像画として貴重である。

 

大垣の宿泊地

 朝鮮通信使は、彦根の次の宿泊地・大垣で全昌寺に宿泊した。宝暦14年(1764)の11回目の朝鮮通信使が宿舎とした記録が「朝鮮人来朝大垣宿舎之図」として残っている。それによると、水門側に3艘の艫立船を浮かべて船橋を架け、船橋の両袂から中央、表門から玄関までの間に提灯が2列に配置された。朝鮮通信使の前宿泊地が彦根であり、一行の到着が夜にあたる為、夜間の誘導灯とした。宿泊先の全昌寺には、見物人や医学問答、詩文の贈答などといった交流のため、日本の学者や医者、知識人が訪れ、文化交流が行われた。

 正徳元年(1711)の8回目の朝鮮通信使来日時には、全昌寺で医師の北尾春圃が、朝鮮医師奇斗文と朝鮮人参や治療法について筆談をした。その筆談は、「鶏鳴」(明け方)まで及んだ。春圃は、その時の筆談をもとに『桑韓医談』を、正徳3年(1713)に上下2巻で著した。

 享保4年(1719)の9回目の朝鮮通信使来日時にも、春圃は、通信使に会見し、息子の春竹らを従えて、通信使と詩文の贈答を行っている。朝鮮通信使の大垣通行時には、大垣藩の領民が、大垣城下の警備に駆り出された。

 宝暦14年(1764)の11回目の朝鮮通信使が全昌寺に宿泊したおり、書記として随行した金退石が、医師江馬春齢(江馬蘭齋の養父)に七言絶句を贈った。

 朝鮮通信使は、慶安元年(1648)から続く大垣まつりにも、影響を与え、竹島町には朝鮮山が存在していた。現在は存在しない。その御頭だけが、大垣民俗資料館に展示されている。

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ユネスコ登録の中韓の陰

 2017年に韓国通信使がユネスコ世界遺産に登録された。中国・韓国の偏向思想の委員が多いユネスコ委員会である。韓国関係でメリットがあればすぐ採用されるようだ。

 それで偏向した歴史観の南京事件も2016年に登録された。「中国が登録申請の際にユネスコに提出したのは、資料の一覧と、資料を保管する7カ所の公文書館名を記しただけの目録だった。申請資料として目録が提出されるのは通例だが、多くは詳細な内容を記載しており、日本の場合は「何の資料が棚の何段目にあるかなども含めて詳細に記している」(外交筋)という。中国側の資料のずさんさが改めて浮き彫りになったといえる。(産経ニュース  2016.1.10 05:00より)」

 2017年のユネスコ世界遺産登録では、第二次世界大戦中に「命のビザ」で多くのユダヤ人難民を救った岐阜県出身の外交官、杉原千畝に関する資料「杉原リスト」は見送られた。このためユネスコでの登録には、政治的偏向が垣間見えて、ユネスコからの脱退を提言する声もある。アメリカは脱退している。

2018-10-14 久志能幾研究所 小田泰仙

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