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2017年10月

2017年10月24日 (火)

アクセスランキングの教え

 アクセスランキングのトップ9に、「大垣を良くする階」関係が4つも入り、驚いています。関心の高さの表れかと思われます。真剣に行政を見ると、色んな問題点が見えてきます。問題意識を持たないと、何事も良くなりません。

 スマホではアクセスランキングが表示されないようなので、下記に報告します。現在の累積閲覧回数は、11,304回(2017年10月24日6時)、一日平均アクセス75回です。

 

アクセスランキング

1.なぜ大垣駅前商店街が衰退したか?(改定)

2.運命のページをめくる佛

3.馬場恵峰師の生前葬に参列 

4.カテゴリー「大垣を良くする階」を新設

5.人生の課題とは何か(2/2)

6.身の危険を感じた

7.大垣の生き血を吸う「元気ハツラツ市」

8.「100mの巻物」という人生(2/2)

9.平成の四天王像を彫る(1/2)

 

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2017年10月23日 (月)

大垣市道路行政の失政と対策

 大垣市には南北を流す基幹道路が3本しかない。そのうちの2本は片側1車線のアンダーパスのある道である。そのため、いつも朝夕の渋滞を引き起こしていて、大垣市の経済活動の損失となっている。大垣都市計画として、南北を通す新しい道路の建設が必要である。

 大垣市の南北を通す道路は、大垣駅東側の片側2車線の国道258号線の道路とその西側に室村町アンダーパスの片道1車線の道路があるだけである。大垣駅の直ぐ東側には林町アンダーパスがあるが片側1車線で道が曲がりくねっていて基幹の道路とはなっていない。

 

室村町アンダーパス水没

 2017年10月22日の台風21号の影響で、その基幹道路の3本の内の2本が水没して通行止めとなった。建設が古いので排水の設計が不適切である。この道の水没は頻繁である。水が出ると冠水しやすい地域が多い大垣市は、アンダーパスではなくJRとの立体交差の道路建設が必要である。また現状の改善として排水能力の向上が必要である。

林町アンダーパス水没

 大垣駅の直ぐ東側の林町アンダーパスも冠水で通行止めである。これも建設が古いので排水の設計が不適切である。このエリアには大規模小売店のアピタがあるが、道路が全く整備されていない状況で、この大型施設が誘致された。アピタの周りの道路は片側1車線で道が曲がりくねっていていつも渋滞で、基幹の道路の役目を果たしていない。

 大垣市の西側の木戸町にもアンダーパスがあるが、建設が新しいので排水の設計がしっかりされているので冠水はない。

 

道路行政の失政

 大垣市は、新市庁舎の建設よりも、南北の基幹道路の建設の方が、優先順位は高い。大垣市の経済の生命線は、道路である。新市庁舎ではない。水を治める者は国を治める。市長として、水の統治、経済の血路の道路の治世ができなければ、市長失格である。このアンダーパス冠水の事態は、今回が初めてではない。大雨の度に起こる人災である。何年も前から分かっていて毎度起こる事態である。水害の災害に対して、市は全く学習能力がない。市長の役目は、市民の安全な生活の確保である。それを放置して起きた道路の水没は、大垣行政の失政である。今回も含めて今までの冠水は、それを放置した大垣行政マンの怠慢が原因である。すべては人の問題である。なにせ新市庁舎の建設で頭がいっぱいで、市民の生活は眼中にない。「平成29年度 大垣市予算主要事業一覧表」に問題解決の道路の計画さえもない。

 

図1~4 冠水した大垣市室村町アンダーパス 2017年10月23日09:50

 

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2017年10月22日 (日)

習字人生と書道人生の差

習字とは

 公益財団法人「日本習字教育財団」は、馬場恵峰師の師匠の原田観峰師が創業した。習字の「習」とは、白鳥の子(「白」が鳥の胴体を表す)が羽を広げて、親のお手本通りに飛ぶ練習をしている様を表す表形文字である。習字は、ひたすら師匠が提示した課題を書くことに尽きる。いかに師匠の字体に合うように修行を積むかである。何も考えず、ひたすら師匠の真似をする。しかしお手本通りの「習字」をするしかないから、字が上手くならない。自分では、その課題を作れないし、その課題のレベルから逸脱もできない。

 

書芸とは

 「芸」とは匂い草の「云」に草冠を付けた表意文字である。特定の人には良い匂いかもしれないが、万人に受けるわけではない。時代が変わり、人が変わり、場所が変わると評価されない。現代は流行を追い崩して読めない字を、「芸術は爆発だ」とか言って、テレビや雑誌で氾濫している。それを理解できない庶民を煙に巻いている。字とは、意思を伝える道具である。何時でも何処でも誰にでも読める字が、正道である。書芸は遊びであり、書道ではない。

 

書道とは

 習字にて取得した基本を使い、何時でも何処でも誰にでも読める字を、相手と状況に合わせても文字を創作するのが書道である。守破離である。書く紙、使う筆、使う墨、依頼してきた相手の人格・要求レベルに合わせて、誰にも真似できない字を揮毫する。そこに新しい発見がある。習字は舗装道路を歩むようなもの。書道は、道なき獣道を歩むようなもの。血の滲む苦労をして獣道を歩いた後に道ができる。

 

料理術と料理道の差

 料理学校で習ったことをそのまま実際の料亭では使い物にならない。教科書通りには、料理を作れるが、実際の現場では場末の料理旅館の料理でしかない。それは単なる料理術である。

 自分が料亭の料理人で、カウンターに座った一見さんからの注文に、相手が望む料理を出せるかどうかが、料理道として問われる。相手の服装、身に付けた小物、言葉遣い、相手の顔色から、相手の懐、意図、健康状態を見極め、出す料理のレベル、価格、味付け、塩加減を判断しなければ、一流の料理人ではない。それまで見極めて料理するのが、料理道である。料理でも安ければいいのではない。常連さんが接待のお客を連れてきたら、安くするのではなく、相手に恥をかかせないような高価な料理を出さないと、料理人として失格である。これは全ての仕事に通じる話である。

 

模範囚と人生道

 成績優秀でよい学校を出て、大企業・お役所に勤めて、順調に出世をして部長や校長先生、警察署長になり、功成り名を遂げて定年退職をした人が、一番認知症になり易いと言う。それは社会の通念で、良き人生との観念にとらわれた人生の「模範囚」である。40年間の会社生活・お役所生活で、前例に習い、新しいことはせず、自分の頭は使わず、気だけを使い、ハンコだけを押す作業ばかりの事なかれ主義で生きてきた咎が、認知症として現われる。それはまるで「習字の人生」である。お手本の課題から逸脱できないのは、人生の囚人としての模範囚である。だからボケる。

 馬場恵峰師は、書道を究める為に歩いているのでボケず、91歳の現在も現役で夜遅くまで字を書きまくっている。国立病院の医師からは20歳代の頭の回転と呆れられている。現在も30mの巻物に挑戦をして、揮毫を進めている。その進行状況を私に自慢げに話してくれた。その目は、新しいことへの挑戦で輝いている。

 上記の話は2017年10月19日、恵峰先生宅で30m巻物「日本古典和歌集」を撮影した時、休憩のお茶の時間に、師が話してくれた内容をヒントに作成しました。

 

図1、2 30mの巻物に揮毫する恵峰先生 2017年10月19日

図3、4 30mの巻物「日本古典和歌集」2007年書

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縁の努力よりも、縁の選択が重要

 敬縁は人生の心がけである。縁を敬う努力は大事であるが、それが良縁か悪縁かを見分ける眼力をつけて、縁の選択がもっと重要である。時にはそれが生死を分ける。悪縁は自分の人生を地獄に引き落とす。2013年2月、ほぼ同時期に、師の奥様と昔の上司の妻からの便りを受け取った。この文面ほど、「文は人なり」を実感した手紙はない。その文面から伝わる人間味の温度差に、人格の格差を感じた。私の母は、苦労して養った彗眼で、当時の上司の妻の言動を見て酷評していた。その正しさが20年経って証明された。

 

師の奥様の温かさ

 80歳の現役(2013年当時)で師の片腕として活躍されている奥様の文面の温かさには感謝です。若い頃、師は原田観峰師(1911~1995)の京都で、月給6万円の薄給で師事し、奥様は長崎で書を教えながら5人の子供を育てる苦労をされた。師が京都から長崎に帰るだけで旅費4万円が飛ぶ。そんな奥様が、私みたいな若造を「小田先生」と呼んでくださる。

 片や、夫が役員であったのを鼻にかけて、昔の夫の部下を上から視線で見下し、冷たい手紙をよこした。知人に見せたら、「上から視線の手紙だね」と知人は感想を言った。還暦を過ぎた大人を捉まえて、文面中で「幸夫さん」とよぶ無神経さである。手紙の書式も、気候の挨拶で、「冷たい天候」との子供まがいの表現である。その手紙で、私が思い出したくもない写真を20年経ってから無神経に送り返してきた。昔の写真などは、自分がネガを持っているので不要である。この妻の人間性と知性が垣間見える。夫が役員であったという色眼鏡を鼻にかけたまま(下を向くと色眼鏡がずり落ちるから)、ふんぞり返ってこの20年間を生きてきた。不幸なのは夫である。

 

会社人事とは上司の好き嫌い

 こんな妻も制御できない人が組織の上に立つと、部下が不幸になる。1974年から1年間、机を並べて、同じ仕事をした仲間が、この上司による好き嫌いの人事異動で、性格的に全く合わない海外の営業部に飛ばされて、それの心労が原因で病気になり、54歳で浄土に旅たった。会社の人事・出世とは、個人の能力差ではなく、上司の好き嫌いに起因する。私は、上司の妻の人格を見抜いていた母のお陰で、命拾いをした。母はそんな上司にも、私のために盆暮れのお中元お歳暮は欠かさなかった。合掌。

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2017年10月21日 (土)

教育重視の大垣の家風

大垣藩校・敬教堂跡と孔子像

 大垣藩では、戸田家初代藩主氏鉄の時代から、教育を重視する家風があり、以来、戸田家代々に教育尊重の姿勢が受け継がれてきた。その伝統が幕末期から明治維新にかけて、優れた学者や文化人を多く生んだ。

 第8代藩主氏庸の時代、天保9年(1838)、大垣藩士 岡田主鈴が運営していた私塾が、龍の口門外で公立化された。天保11年8月21日(1840年)には、その塾が大垣藩の学問所として開設された。その後、学問所は致道館と改められ、さらに敬教堂と改められた。また講堂や寄宿舎を建て、英語や西洋医学等の洋学、武学、国語・蘭学などの皇漢学を教え、全国的にその名を知らしめた。

 

明治以降の学校体制

 明治時代になって、武学校と文学校に分けられ、武学校は南校、文学校は北校と呼ばれるようになった。その後、南校は高等小学校になり、今の興文小学校になり、北校は実科女学校になり、大垣城北にあった高等女学校と共に大垣高等女学校になった。その後、男女共学の今の大垣北高等学枚になった。その敷地に大垣市立図書館が建設された。その図書館は、現在のスイトピアセンターに新築、移転された。現在、この場所は保健センターになっている。

 

孔子像とネリコ

 第10代戸田氏彬のとき、孔子像を祀った大成殿を設け、その雷避けよして植えられたのが「剣の木」と俗称される「トネリコ」である。現在、その木は大垣市指定天然記念物に指定され、大垣藩校敬教堂跡地に現存している。その木は立っている状態を維持するため、木の「ギブス」をつけられ、少々痛々しいが、その雄姿を保っている。

 母がわが子を高く掲げて、その「トネリコ」と孔子像に、見せているかのような像「ふれあい」が、健立されている。教育の大垣を象徴する像としてほほえましい。

 大垣藩校・敬教堂跡は、「四季の路」の道沿いで八幡神宮の東に200メートルの場所にある。全国でも孔子像がある史跡は珍しいと思う。私の乏しい旅行経験でも全国では見たことがない。敬教堂が大垣北高等学校の前身であり、「教」を敬うの「敬教」、「文」を興すの「興文」という名前も重みのある名前である。

 

博士の町・大垣

 明治20年(1887)に学位令が制定されて以降、大垣出身の博士が次々と誕生していた。明治20年に50名の博士が誕生したが、そのうち3名が大垣出身である。その倍率を推定すると、平均的な市が生み出す博士数の130倍近い博士を、大垣は生み出していた。明治20年の全国人口は38,703,000人(国勢調査による推計値)だが、明治20年の大垣町(大垣市)の人口は、約18,000人(『大垣のあゆみ 市制70 年史』36 頁)である。それから計算すると

  (3870万人÷1.8万人)÷(50人÷3人)=129(倍)

 

 松本荘一郎(日本最初の工学博士)、関谷清風(日本最初の地震博士)、南条文雄(日本最初の文学博士)、和田万吉博士(日本の図書館学を確立)などの大垣出身者の博士が次々と出て、大垣は生み出した博士の人数の多さから「博士の町」とも言われ、戸田藩主が施した教育重視の施政が、江戸時代末期から明治時代にかけて開花した。教育重視の風土つくりは、その成果が出るには長い時間がかるが、蒔いた種は必ず花が咲く。以下に大垣出身者の代表を列記する。大垣市文化会館には、この他に17博士の偉業が掲示されている。

 

松本荘一郎(1848~1903)

 日本で最初の工学博士。松本烝治の父。東海道線や信越線を作るなど各地の鉄道工事の中心的な役割を果たし、日本の鉄道の発展に尽くした。1870年(明治3年)、アメリカ留学を命じられ、7年滞在して工学を学んだ。帰国後は東京府御用掛として土木事務を担当し、東京大学工学科教授も務めた。1879年(明治12年)、開拓使御用掛となり、炭鉱開掘、鉄道敷設、道路改正、市街整頓、石狩川河口改良などの事業を手掛け、開拓使廃止後も工部権大技長、農務権大技長として引き続き北海道の開拓を進めた。1884年(明治17年)に東京に戻って全国の鉄道敷設計画を担当し、工部大技長・鉄道一等技師、鉄道庁部長、同長官、逓信省鉄道技監・鉄道局長、鉄道作業局長官・逓信省鉄道局長を歴任した。

 

佐藤三吉(1857~1943)

 日本外科医界の草分け・日本外科学会会頭・医学博士。ドイツの留学し医学の研究を進め、後に帝国大学医学科大学長となった。宮内省御用掛として明治・大正天皇の侍医でもあった。名医として外科学会の発展に努めた。

 

和田万吉(1865~1934)

 図書館学に生涯をかけた東大図書館長・文学博士。日本の図書館事業に貢献し、日本の図書館学を確立した。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業、明治30年(1897年)に図書館長に昇進して、以後27年間にわたって館長を務めた。明治43年(1910年)に欧米に留学して図書館事情などを研究して帰国、帰国後日本で最初の図書館学の講義を担当し、日本文庫協会(後の日本図書館協会)や文部省図書館員教習所の創設などにも携わり日本の図書館学の先駆者として高く評価されている。大正7年(1918年)には教授に昇進し、大正9年(1920年)に文学博士を授与された。国文学の分野においても古版本など出版史関係の研究や近世文学書籍の本文校訂などに実績を残し、特に謡曲や曲亭馬琴関係の研究で知られた。大正12年(1923年)の関東大震災で東京帝国大学附属図書館は焼失して、貴重な蔵書を多数失った責任を問われて辞任を余儀なくされた。退官後は法政大学や東洋大学などの講師を務めた。

 

野村龍太郎(1859~1943)

 鉄道界の功労者で南満州鉄道社長になる。工学博士。箱根のトンネル工事や数多くの鉄道工事を手掛け、南満州鉄道の社長となり、日本の鉄道発達に尽くした。

 

松本烝治(1877~1954)

 大垣出身の初の大臣・商法の権威者・法学博士。学会・政界・法曹界で活躍した。特に商法学の発展に尽くした。父が尊敬していたジョージ・ワシントンの名をとって烝治と名命した。1906年から09年(明治39–42年)にかけてヨーロッパへ留学し、帰国後の1910年(明治43年)に東京帝大教授となる。1919年(大正8年)に満鉄理事に就任、副総裁を務めた後、1923年(大正12年)に第2次山本内閣の法制局長官を務めた。1924年(大正13年)に貴族院勅選議員に勅任される。この年関西大学学長に就任、1928年(昭和3年)までその職にあった。1934年(昭和9年)に斎藤内閣で商工大臣を務めた。1945年(昭和20年)に幣原内閣が成立すると、憲法改正担当の国務大臣として入閣、自ら中心となって憲法草案(松本試案)を作成した。しかしこの草案は内容が保守的過ぎるとしてGHQに拒絶された。1946年(昭和21年)、満鉄監事を理由に公職追放となった。

 

図1 トネリコ、孔子像、大垣藩校敬教堂跡碑、「ふれあい」像(左より)

図2 「ふれあい」像は財団法人「田口福寿会」寄贈

    田口氏は西濃運輸創業者

図3 大垣高等女学校発祥の地の碑

図4、5 「四季の路」を通って興文小学校へ通学

 遠い将来、この「四季の路」を通って通学したことが良き思い出に。

図6 大垣公園を通って興文小学校へ通学

   後ろの広場に建つ戸田氏鉄公の騎馬像が子供たちを見守っている。

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和敬静寂

 和敬清寂とは、茶道の心得を示す標語であるが、もともとは禅の言葉でもある。茶道の祖といわれる村田珠光が、足利義政から茶の精神を尋ねられたとき、「和敬静寂」と、答えたという。この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分とされる。茶道と禅を極めた井伊直弼公が好んだ言葉でもある。

 その意味は、人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味である。特に千家ではこの標語を千利休の定めた「和」、「敬」、「清」、「寂」を表す「四規」として重要視している。四規「和敬清寂」の4つの文字の中に、お茶の心がこめられている。

 

「和」とは、口+禾(音)で、音符の禾は、会に通じて、遇うの意味である。人の声と声とが調和をして、なごむの意味を表す。和とは二つ以上の数を加えた値という意味もある。人が出会うご縁は、その時には良い縁もあれば悪い縁もある。両方のご縁に出会って人生である。良い縁ばかりの人生はありえない。悪縁が逆縁の菩薩となって人を鍛えることになる。

「敬」とは、攵+苟(音)で、苟は髪を特別な形にして、身体を曲げ神に祈る様をかたどる。攵は、ある動作をするで、お互いに敬いあうという意味である。敬を持って来たご縁をありがたく受け止める。「敬縁」こそが人生修行である。

「清」とは、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるという意味である。すべて修行と思えば、何事も受け止められる。

「寂」とは、宀+叔(音)で、屋内がいたましく、寂しいの意味を表す。死の意味もある。安らかとか、どんな時にも動じない心を表す。お茶を飲むとき、お点前のとき、また、お客になったとき、お招きをしたときなどに、この「和敬清寂」を念頭に行するのが茶道である。

 

和敬清寂:宋に留学した大応国師が帰朝した際、将来した(持ち帰ること)劉元甫(りゅうげんぽ)の「茶道清規」を抄録して「茶道経」と名付けて刊行した。それによると茶禅儀の創始者は守端禅師で、その門下元甫長老が和敬清寂を茶道締門と定めて茶道会を組織した。これが和敬清寂の起源であるという。(「茶道辞典」より)

 

一期一会

 和敬清寂と併行して使われる言葉が「一期一会」である。全ての事象の出逢い、お客様との出合い、接遇は、無私に心で、分け隔てなく、平常心で接するのが、禅の心である。そうすれば正しい判断と正しい行動ができる。それ故、井伊直弼公はこの言葉を好んだのだろう。それは長い間、直弼公が部屋住みとして冷遇された境遇に置かれた自身への戒めの言葉でもあったようだ。冷遇された境遇へも、分け隔てなく、自身への修行として捉えた直弼公の心であろう。

 ご縁があり、恵峰先生にこの書を楠の板材に書いていただき、お世話になっている長松院に2015年9月18日、奉納した。

 

図1 「和敬清寂」 馬場恵峰書 2015年晩秋

図2 長松院 お茶室 2015年9月18日

図3 板取をする馬場恵峰先生

図4 下書き     2015年9月11日

    これは当初の材木。もっと良い木があったので変更された。

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2017年10月20日 (金)

人生は敬縁から始まる、敬遠ではダメ

 野球の試合での敬遠は、勝負からの逃げである。人生球場では、敬縁をしないと人生が回らない。人生経営では、来る「縁」に対して、「敬って」接せしないと、仏様に嫌われる。それは「嫌縁」。人から打たれるのも人生、叩かれるのも人生。人から笑われ、嘲られて、人は強くなる。そんな縁に出会ったことを感謝しよう。来る縁は、全て己の波動が招いたもの。縁起である。

 

病気

 病気に罹ったのではない。病気という縁を頂いたのだ。大病になって手遅れになる前に、仏様が小さな病気という使者を遣わしてくれたのだ。自分の生活を正すきっかけを授けてくれたのだ。その縁を敬わず、無視するから不幸になる。病死をする。病気になり、自分の体を見直し、日本一の医師の門を叩くご縁を頂いた。自分の体を知る機会を得た。素晴らしいご縁からの贈り物である。

 

不運

 不運に落ち込み、人生を悩み、人生の師を探して日本中の師の門を叩いた。その過程で多くの学びがあった。そして良き師に出会って、その後の人生が好転した。素晴らしき不運とのご縁である。不運のご縁を敬って、なおざりにしなかったためである。もう一人の自分を探し求めたからである。

 

事故

 この世で起こることは全て必然である。悪いことに出会ったら、自分の生き方や仕事の仕方を見直せとの神仏からの啓示である。その縁に感謝をして、生き方を変えよ。あなたを訪れる「縁」様は、貴方に変わって欲しい、過ちに気づいて欲しいとやって来る。そのメッセージに気が付かねば、縁様の期待を裏切る「裏切り者」である。どんな事象にも意味がある。その意味を悟るのが智者、賢者である。どんな事象にも表裏がある。表面的な事象ではなく、その裏に潜む神仏の啓示を観よう。

 本稿は20171019日、馬場恵峰師のお話しからヒントを得て作成しました。

図1 恵峰先生書「いずくかより 来たりし去りゆく人の道 縁の恵みは人生の宝なり」

 伊勢神宮遷宮で使用の桧の鉋削り屑で新立広美氏作成 2015年入手

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大垣藩出身者が「珈琲」文字の発明

 「珈琲」の文字の発明は、大垣藩出身の蘭学者 宇田川榕菴(寛政十年~弘化3年:1798~1846)が当て字をしたと伝えられている。オランダ語のkoffieの音をもとに、コーヒの花をかんざしに見立て、玉飾りを現す「珈」と、玉をつなぐ紐を表す「琲」を組み合わせた。宇田川榕菴は、その外にも、当時、日本語に存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語も創作した。

 彼は1835年(天保6年)、『理学入門 植学啓原』を出版して西洋の植物学を日本にはじめて紹介した。彼は単なる翻訳者ではなく、他の多くのオランダ語の化学書から新しい知見の増補や、彼自身が実際に実験した結果からの考察などが追記している。

 大垣の先人がコ-ヒの漢字を発明し、それによってコーヒ文化が日本に根付いたことは、大垣市民としての誇りである。

 私は2017年4月にウィーンに旅行した。ウィーンの市内では、コーヒを媒介とした会話の文化が栄え、市民の多くがカフェでくつろぎ会話を楽しんでいた。そこに文化が生まれた。私も市内散策中、日に2,3度、カフェに寄って疲れを癒した。その時、目に付いたのが1873年創業のカフェである。宇田川榕菴が「珈琲」の漢字を発明した後に出来たカフェで、また桜田門外の変の13年後に出来たカフェでもある。榕菴とコーヒとのご縁に思いを馳せた。

図1 1873年創業のカフェのコーヒカップ

図2、図3 ウィーンのカフェ

 

【宇田川榕菴】

 大垣藩医江沢養樹の長男として生まれ、1811年に津山藩医宇田川玄真の養子となった。1817年に津山藩医となった後、1826年には幕府の天文方蕃書和解御用の翻訳員となってショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』の作成に従事するため江戸に移った。養父である宇田川玄真、またその養父である宇田川玄随、養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られている。

シーボルトとも親交があり、高橋輝和『シーボルトと宇田川榕菴 江戸蘭学交遊記』(平凡社新書、2002年)に詳しい。

出版での業績

『遠西医方名物考』養父との共著、1822年~1825年

『新訂増補和蘭薬鏡』、1828年~1830年

『遠西医方名物考補遺』1834年頃、薬学書を出版

『菩多尼訶経』、1822年(文政5年)

『理学入門 植学啓原』1835年(天保6年)に出版

  西洋の植物学を日本にはじめて紹介した。菩多尼訶は植物学を意味するラテン語 Botanica の字訳であり、経はその本文を経文になぞらえて執筆したことによる。

『舎密開宗』1837年(天保8年)~1847年(弘化4年)、出版した。

『依氏広義』1803、『蘇氏舎密』

  上記は、英語、オランダ語、ドイツ語の科学書の翻訳であるが、他の多くのオランダ語の化学書から新しい知見の増補や、宇田川榕菴自身が実際に実験した結果からの考察などが追記されている。日本ではじめての近代化学を紹介する書となる舎密は化学を意味するオランダ語 Chemie の字訳である。

造語の業績

 宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語は宇田川榕菴の造語である。

 また、自然科学分野に留まらずオランダ語の度量衡に使用する単位についての解説『西洋度量考』やオランダの歴史、地理を解説した『和蘭志略稿』、コーヒについての紹介『哥非乙説』(こひいせつ)なども記している。なお、coffeeの日本語表記である「珈琲」は、この榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われている。

  この項 ウィキペディアより(2011/2/28)加筆、編集

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%A6%95%E8%8F%B4

 

2017-10-20

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年10月19日 (木)

お知らせ 「100m巻物写真集」発刊

10月11日に標記書籍を発刊しました。販売は10月22日から開始します。

詳細はホームページの「2ー出版」のページを参照ください。

2017ー10ー19

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2017年10月18日 (水)

己が死鬼衆になるとき

 2014年末に人間ドックで各所の不都合が見つかり、暫く大垣市民病院に通院した。大病院に行くと老人の人生の縮図を見せられる。そこで目にした風景は、自分がまだまだ恵まれていることへの感謝の念と、未来の自分の姿への戒めでもあった。

 最近は私の近所でも介護施設の車椅子の人を運ぶワゴン車が数多く見るようになった。車椅子の人を見ると辛くなる。車椅子の人の多くが、顔が弛緩した状態である。生きているのではなく、生き永らえている趣である。車椅子を押す人が気の毒で見ていられない。介護は美しい姿ではあるが、現実は地獄である。未来の自分はそんな状態で生きながらえたくはないと思う。 

子供の未来を喰う鬼畜

 車椅子の生活は、車椅子になるべくして生活をしてきた咎といえば酷かもしれない。働き盛りの男性の介護退職者が年間14万8000人(2013年)で、この4年間で4割も増えた。年間退職者の15%である。50歳前後で親の介護で辞めた人や役員手前で辞めざるを得ない部長を見ると悲劇である。親は自分の息子の油の乗り切った大事な時期を意図せず食い物にする結果となる。日本の貴重な人財という財産が失われる。数年間の親の介護が終った後は、再就職する道も遠く貧困生活への道に滑り落ちる。親の健康管理の怠慢が原因である。自分の健康管理を若いときからしなければ、将来、己が子供の未来を食う鬼畜となる。己の堕落の咎を可愛い子供が背負う。 

母の病状

 私の母は太っていて69歳のとき、脳梗塞で亡くなった。68歳のとき、高血圧が遠因の脳溢血で倒れた。私は、もっと痩せろと何回も苦言を言ってたのだが、言い方が甘かったと今にして悔いが尽きない。子は親と同じ病気にかかりやすい。同じ食生活を長年続けていたからだ。親の罹る病気を学ぶことは親孝行であり、自分のためにもなる。

 母は手術後奇跡的に回復し一時帰宅もできたが、その後、脳梗塞となり意識がない状態が5ヶ月ほど続き大垣市民病院で亡くなった。入院中の間、80キロほど離れた勤務地から、夜、車を飛ばして病院に見舞いに行くのだが、意識の無い母を見舞うほど辛いものはない。制限速度以上で飛ばす堤防沿いの深夜の道中、少しハンドルを切って橋げたに激突すれば楽になれるとの誘惑に駆られたことも一度や二度ではない。地獄はあの世でなく、この世に存在する。子供に地獄を見させるのは、死鬼衆である。親ならば子供のために己を律するのが、子孝行である。親の健康管理は子にも責任がある。介護は負の仕事で、付加価値を生まない仕事である。人は死ぬ直前まで、現役であるのが幸せなのだ。ピンコロは、良く働いたことへの佛様からのご褒美である。生殺しは地獄である。

 

2017-10-18

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