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2017年8月

2017年8月13日 (日)

己を支え、人を支えてこそ人の道

 重き荷を背負おわされるのは、佛様からの慈しみである。重いからこそ人生を歩く力が付く。受験勉強もスポーツも、頭の筋肉、足腰の筋肉をつけるには負荷をかけないと、筋肉は強くならない。自分を甘やかした生き方では、弛んだ人生しか歩めない。人生力とは、重き荷を背負ってこそ向上する。その重き荷を遠くに長く運んでこそ人の道である。

 

己を支えるのは自分

 背負う荷が重いのではない。背負う力が弱いのだ。軽くする智慧がないのだ。遠くに運ぶ知識が欠けているのだ。己の人徳がないから回りから助けてもらえないのだ。頭の汗をかいて、智慧を出す能力を鍛えてこそ、人生を力強く歩める。負荷をかけないと、極楽トンボの生活に陥り、認知症への道をまっしぐらである。持国天は国を支えている。総理大臣は国を動かしている。己は自分を支えている。天はあなたに総理大臣の仕事をしろとは言っていない。それに比べれば、凡人の持つ荷など軽いもの。己を支えるのは自分である。天は自ら助けるものを助ける。東西の教えは同じ事を言っている。

 

智慧ある仕事

 μとは仕事と大地(世間)との滑り摩擦係数。仕事量ロスを減らすには、摩擦係数を小さくすれば良い。摩擦係数を小さくする技が、知識であり、智慧である。人と人との間の摩擦を減らす潤滑剤は笑顔である。苦渋に満ちた顔つきで力任せに運んでも、笑顔の智慧を使った仕事には及ばない。己が非力ならば、みんなの力を借りて智慧を出せば、大きな仕事ができる。

 一人で運ぶから大変なのだ。一人で荷を持つから、遠くには運べない。重い荷はみんなで運べば、遠くに少しは楽に運べる。笑顔があれば皆が協力してくれる。みんなで協力して運べば、重い荷も軽くなる。

 

組織の力

 松本明慶先生が、一人で悩んでいた岩田明彩師に言った言葉、「何を一人でもがいているんや、みんなそばにいるぞ。みんなを信じてもっと頼りなさい」。仲間は人生の宝である。身の回りには宝が一杯ある。宝が目の前にあるのに助けてもらわないのは、米蔵の前で餓死するようなもの。己の心を開き、人生の門を開けば、みんなの笑顔が出迎えてくれる。赤信号、みんなで渡れば怖くない。重い荷物、みんなで持てば軽いもの。それが組織の力である。

 人は及ばないから、少しでも良くなろうと努力をする。金も力も有り余ってあれば、努力などしまい。そうなれば堕落の道しか無い。及ばないから、みんなで足りないところを補い合ってこそ、人間社会である。人に頼むのに躊躇するのは、己の我があるからであるだ。我を無くせばうまく行く。

 

仕事量Jは下記の式で表される。

  J=μ×W×L

     μは摩擦係数

   Wは仕事の重さ

     Lは運ぶ距離

 

楷の木とは

 「皆」とは「比」+「白」からなり、「比」とは人が並んでいる様を表し、「白」は、モノを言う意味と、人が声をそろえて言うの意味から、みな、ならぶ、とも、の意味を表す。「偕」とは、「人」+「「皆」で共にするから、「つよい」である。一人の人間は弱いが、皆が集まれば強い組織となる。力ある人は我を張らない。我があると揃わない。「喈」は「口」+「皆」で、人が声を揃えて言うで、気心が揃って和らぐの意味を表す。「楷」とは「木」+「皆」で、枝や幹が正しく並ぶ木の名を表す。転じて整った手本の意味を表す。曲阜(山東省)の孔子廟に子貢がみずから植えたといわれる木の名である。

 「楷の木」が大垣市スイトピアセンター内の図書館横に植えられている。学名「トネリコバハゼ」、和名「久志能幾」と言う。中国山東省曲阜の聖廟に、孔子の高弟子貢の手植えの「楷の木」二世が、今も鬱然と繁り紅葉するところから黄連樹とも呼ばれる。この公園に植えられた樹は、曲阜聖林から採取発芽させた東京湯島聖堂内苑の樹から取り木された唯一の木で、学問文化に深い由緒をつなぐ名木である。

 

楷の木とのご縁

 この樹は戸田公入城350年(昭和60年・1985年)を記念して、大垣文化連盟が、スイトピアセンター内の公園に植樹した。封建時代の藩主を称えて植樹されるのは、戸田公が大垣の学問文化の発展に多大の貢献をされ、その威徳が未だに輝いている証である。1985年は、私が初めての海外体験としてスウェーデンに4ヶ月間の出張をした年である。

 この樹は春には緑豊かな葉を飾り、夏は蝉の抜け殻を抱き、秋には紅葉が鬱然と繁る。冬は全ての葉が落ち、まる裸となる。それは次の春に向けて内部蓄積をする姿でもある。人生の春夏秋冬を表している姿は、一つの教えである。

 

図1 摩擦係数と力

図2~5 楷の木の春夏秋冬

 

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2017年8月12日 (土)

インプラント 29(人食い種族)

3.29 人食い種族の儀式 

 インプラント手術の正式キャンセルを電話で院長に通告したら、「そんな大事な話しは電話ではできないので、来院されたとき話し合いましょう」と言われて、イヤイヤ歯科医院に「出頭」した。しかし、その場でキャンセルの件の詳細な話し合いはなく、ただキャンセル料金の話しだけであった。「ではブリッジにしますか」との問いかけに、「しばらく考えさせて欲しい」とその場は取り繕った。院長が、「これが完成したサージガイド(手術ドリル用のガイド)ですよ」とその封を切って取り出し、「こうやって歯にかぶせるのですよ」と残念そうに(?)(金を生むカモに逃げられたから?)、私の口の中に押し込んだ。私はインプラントを止める決断をして、来院しているのだから、そんなものは見たくもなかった。それを無理やり口の中に押し込まれて、鳥肌が立ち極度の不快感を味わった。治療椅子に座らされているので、拒否もできない。

 

少年雑誌の記憶

 その時、自分が小学生の頃(55年程前)、当時の少年雑誌『週刊少年サンデー』か『週刊少年マガジン』の記事で読んだ記憶が急に蘇ってきた。その記憶は、人食い種族が獲物の人間を杭に縛り付け、そのご馳走の周りで踊り狂っている情景である。そして人食い種族たちが、食べたい部分に印をつけて舌なずりをしている。歯科医の行動は正にその儀式のようだと思った。そういう情景を思い出させる行為であった。人の気持ちを慮ることのできない歯科医である。

 

鳥肌が立った不要な行為

 その前回の検診時には、部下の歯科医が「サージガイドができました」と、私の口にサージガイドを挿入して、「こうやってドリルで穴を開けるのですよ」と嬉しそうに穴を開ける仕草をした。単に型が合うことを確認さえすればよいのに、不要な言動である。嫌な思いを味わったが、その同じ行為を院長は再現したので鳥肌が立った。部下が確認していることを、かつ手術を取止めたのであるから、全く不要の行為である。手術取止めの患者にこうした行為を行うのは、異常である。歯科医としてインプラント手術をやりたくて、やりたくて仕方がない、キャンセルはとても残念だとの感触が伝わってきた。患者にそんなことを行えば、患者はどう思うかなどには考えが及ばない。普通の患者は手術に恐怖心を持っている。患者はできれば全身麻酔で、意識のない状態でやって欲しいと願っている。開腹手術を受ける前、「こんな風にお腹にメスを入れるのですよ」と手術前デモを患者に行うようなものだ。その異常さが明らかだ。そのサージガイドを「記念に」どうぞ、と渡された。「記念に」か、と複雑な心境で受け取って帰宅した。その歯科医院へは二度と行かない。

 

正財と偏財

 職業は四柱推命学的に、正財と偏財に分類される。正財とはものを作り出す農民や職人の職業である。偏財は、学問、医学、政治、兵士たちの職業である。正財の仕事は、世の中に対する生産である。偏財の職業は、正財をサポートして、その対象がマイナスにならないように、マイナスになった対象をもとの戻す仕事である。あえてマイナス分を、力を込めて掻き回すのはやり過ぎである。そこにインプラントの異様さを感じた。偏財は、本来、自らから管理して、律するするもので、それが出来なくなると限度無く暴走する。今回のインプラント騒動のように。

 

図1 私のインプラント手術用のサージガイド

 

2017-08-12

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人生深山の峠を降る

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、最上川の急流を舟で下り、霊山巡礼登山で旅の峠を迎えた。芭蕉は、山岳信仰の霊山で知られる出羽三山の一つである月山に登った。元禄2年(1689年)6月6日、頭を白木綿の宝冠で包み、浄衣に着替えて、会覚阿闍梨と共に、宿泊地の羽黒山南谷の別院から山頂までの8里(約32km)の山道を登り、弥陀ヶ原を経て頂上に達した。時は既に日は暮れ、月が出ていた。山頂の山小屋で一夜を明かし、湯殿山に詣でた。他言を禁ずとの掟に従い、湯殿山については記述がない。唯一、阿闍梨の求めに応じた句として、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」で秘境の感銘を詠んでいる。現代でも、湯殿山での撮影は禁止されている。

 

行尊僧正の歌の哀れも爰に思い出て猶まさりて党ゆ惣て此山中の微細行者の法式として他言する事を禁ず。よって筆をとどめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて三山巡礼の句々短冊に書く。(松尾芭蕉『奥の細道』)

 

 『奥の細道』の作風は、この峠を境に雰囲気が大きく変わる。芭蕉三百年恩忌(1994年)で『奥の細道全集』(上下巻)を揮毫された馬場恵峰師も、この峠の記述を境に巻を分けて構成された。

 

吾が人生の深山

 小さな人生にもドラマがあり人生の峠がある。しかし、その峠にもたどりつけず鬼門に入った仲間が身近で10名余にも及ぶ。私も還暦を迎えて、無事に人生の峠に辿り着けた有難さを強く感じる。還暦を迎えてからも仕事仲間の5名の訃報に接した。還暦は人生の峠である。

 人には、語れぬ人生の深山がある。人生で、いつかは足を踏み入れねばならぬ深山である。芭蕉は死者としての白木綿の宝冠で包み浄衣に着替えて、山に入った。人は経帷子に身を包み、人には見せられぬ醜い自分を見るために、山を登る。人生で一度は越えねばならぬ峠である。その峠で、過去の自分の臨終を見送る。

 死者として深山を上り、新しく生まれた赤子になって、上ってきた山道を下る。「他言を禁ず」の戒律は、人には語れぬ醜い己の臨終への佛の経なのだ。峠を下れるだけ幸せである。峠を下れずに、山腹で骨を埋める仲間も数多い。自然が唱える不易流行の経の声を聴き、己が神仏に生かされていることに感謝を捧げる。

 

 

図1 馬場恵峰師と『奥の細道全集』 2011年4月2日撮影

  『奥の細道全集』の撮影のため、初めて先生宅を訪問した。

 

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地蔵菩薩尊に込められた願い

 室村町四丁目地蔵菩薩像の移動後、石屋の石寅さんが、台上の撤去作業に取りかかった。床のコンクリートの除去までに丸1日を要して、夕方に撤去工事が完了した。撤去作業をすると、今まで地蔵尊像の水台と蝋燭台とに隠れていて、見えなかった土台前面に彫られた文字が出てきた。そこに寄進者の名や願文の文字が現れた。その文字が万葉仮名で読めそうで読めないので、2016年4月11日、元大垣市史編纂室室長の清水進先生に解読をお願いしたら、下記のように解読された。お地蔵さん建立当時の暗い社会情勢から、建立した人達の願いが推察できる。

 

日ハく連天           日は暮れて

月いてぬやミちを者       月出でぬ闇路をは

てらしたまへ流         照らしたまえる

御佛□那            御佛かな

        遊行             遊行

 

 この和歌を詠った遊行(ゆぎょう)とは、布教や修行のために各地を巡り歩いた仏教の僧侶を意味する。空海、行基、空也、一遍などの僧がその典型的な例である。遊行は「少欲知足」を主旨とし「解脱」を求めた。過去の有名な僧侶の遊行先には数多くの伝説などが存在する。また当時の僧侶自身が知識人としての位置付けであるため、寺の建立、食文化の普及、農作物の普及、仏教の伝教など地域文化に数多くの影響を与えた。

 

和歌に込められた祈り

 日光菩薩は、仏教における薬師如来の脇侍としての一尊であり、月光菩薩と共に薬師三尊を構成している菩薩である。日光遍照菩薩あるいは日光普照菩薩とも呼ばれ、薬師仏の左脇に侍する。『薬師経』に依れば、日光菩薩は、一千もの光明を発することによって広く天下を照らし、そのことで諸苦の根源たる無明の闇を滅尽するとされる。

 月光菩薩は、仏教における菩薩の一尊。日光菩薩と共に薬師如来の脇侍を務める。月光菩薩は、月の光を象徴する菩薩であり、日光菩薩と一緒に、薬師如来の教説を守る役割を果たしているとされる。

 地蔵菩薩は、その一千もの光明も月の光も照らさない無明の闇路(夜道とかけている)を照らしてくださるという信仰があった。この和歌は当時の暗い社会情勢を詠んで、お地蔵様に希望と祈りを託した和歌である。地蔵菩薩は観音菩薩が33の姿に変身する一つの姿でもある。その内容をこの和歌に読み込んでおり意味深い和歌である。室村町四丁目地蔵菩薩尊は、105年間も祈りを託されてこの地域を見守っていた。105年前の和歌であるが、誰しも経験する人生の闇地を象徴している。希望と祈りを授けてくれる象徴としての御仏の姿は、今でも通用する。人は絶望の中でも、信ずるものがあれば生きていける。

 

寄進者の意向を配慮

 花代を取り除くと、花台に隠れていた水台の寄進者の名前「伊東ひさ子」が現れた。この105年間、ずっと名を隠していた奇徳なお方である。本体の建立が明治43年8月で、水台の寄進が明治43年9月である。現在の室村町の住人で遺族を探したが、見当たらない。

 当初、この和歌を新地蔵菩薩像の台にも彫ることを計画した。しかし故意に蝋燭台で隠すように彫ってあるとしか思えないので、何かワケありであると考えた。このため知人の仏門関係者にも意見を聞いて、当面、和歌を彫る計画は中断した。

 

図1 土台に彫られた和歌

図2 土台の撤去作業を開始

図3 土台を見つめる石寅の藤井重雄社長

図4 撤去作業

図5 撤去作業

図6 土台を削岩機で取り外し

図7 2016年4月5日16:00 工事完了

 

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磨墨智 574. 自分の時間価値を認識する(改定)

1分100円、1時間6,000円と認識しよう。

一般的に会社では1秒1円と言われているが、そんなに安くはない。

自営業なら、一時間0,000円と考えよう。

余命1年と宣告されたら、一時間00,000円と考えよう。

 

 自分の時間価値を知るのは、時間を生み出すのに必要である。この金額を基準として、自分の行動(タクシー移動、待ち時間価値、距離の時間価値)を評価できる。例えば、ある場所に行くのにタクシーで1,000円かかるが、それは価値があるのかないのかが、判断できる。ある場所に行くのに10分間を短縮できれば、タクシーを使う価値がある。

 

自分の時間価値=〔年収〕/〔自分の自由時間〕

 決して、時間価値 =〔年収〕/〔労働時間〕ではない。

 

〔自分の自由時間〕=〔365日×24H×60分〕

           -〔睡眠時間〕

           -〔食事・洗面・入浴等時間〕

           -〔会社・家庭での拘束時間〕

           -〔通勤時間〕

 

奴隷の時間

 自由時間の少ない人ほど、その時間価値が高い。自由時間ゼロなら、無限大の時間価値である。言い換えれば、時間の奴隷になっていて、人間ではないこと。なんの為に働いているかが分からない人である。過労死など、奴隷の生活である。

 スクール(school)とはラテン語で暇(スカラー)から発した言葉である。学校で学ぶには、暇でないと学べない。学者(scdolar)も暇でないと研究できない。ギリシャ時代は、奴隷が労働をして、学者、哲学者は暇を使って学問をした。奴隷と学者の一人二役の我々は、奴隷時間の割合をいかに少なくするかである。自由時間を作るために、奴隷の如く、知恵を使って働け、である。現代は、奴隷として働いている時間が長すぎるようだ。自分の奴隷時間を少なくするために、知恵を使うことが時間創造である。これが本書の目的である。

 

余命宣告

 余命半年と言われたら、その価値は、

 自分の時間価値=〔持てる財産〕/〔残り人生で使える自由時間〕

 その時は、体の自由がきかず、自由時間がゼロに近い。その時の時間価値が無限大となる。老いれば、お金も時間も使えなくなる時がくる。それを踏まえて、使える時にお金を使え、である。使えなくなるのは明日かもしれない。お金を使えば知恵がつく。その知恵で時間創出をせよ。使わない器官は退化する。お金を使わかくなったら、時間も使えない。智慧も出せない。そうなったら認知症にまっしぐらである。

 

『時間創出1001の磨墨智』より

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2017年8月11日 (金)

お地蔵様の佛事異動

 2016年3月24日、室村町四丁目地蔵尊の閉眼法要が終わり、日柄のよい4月5日9時より、お地蔵様の引越し工事が行われた。当初、お地蔵さんを台から降ろすとき崩れてしまうかもしれないと危惧していたが、手際よく無事に仕事が終った。台から降ろす前に、お地蔵さんの体にビニールテープを何重にも巻きつけてから、太いロープを巻いて、クレーンで釣り下げる段取りで、工事が進められた。体に幅広のビニールテープを巻きつけられているので、風化した石像が崩れることは無かった。業者はお地蔵さんの「おくり人」である。トラックに載せられた後、お地蔵さんはお墓や地蔵菩薩像の永代供養で保管されるお寺に運ばれていった。お体が壊されず、永代供養されるので安心した。

 

105年間の永年勤続

 この105年間、お地蔵さんは氷点下にも及ぶ気候、風雪、洪水に耐え、昭和20年の大垣空襲でのナパーム弾で真っ赤になりながらも耐え、お賽銭泥棒にも何回も遇いながら、室村町を通る通学児童と住民を見守っていた。人が出会うご縁を象徴する105年間であった。お地蔵様を載せたトラックが視界から去るとき手を合わせた。ご苦労様でした。合掌。

 

地蔵尊が見つめた歴史

 木と紙で出来た当時の日本の都市に、ナパーム弾を投下するのは死鬼衆の業である。非戦闘員への残酷な殺戮で、国際法違反である。当時、植民地の奪い合いで、遅れをとった米国が日本に仕掛けた戦争である。資源の無い日本に対して、石油等の資源封鎖することは、米国からの明白な戦争行為である。日本の戦いは防衛戦争であった。これはマッカーサーが戦後、議会で証言している。なぜかマスコミはこれを報道しない。植民地という金のなる木に欲の目が眩んだ米国の仕業であった。その子孫がグルーバル経済主義を受け継ぎ、1%の特権階級が99%の人民から99%の富を知能犯的に奪う遺伝子を受け継いだ。昔は列強諸国が、アジアの植民地から生血を吸い上げていたが、今は自国民から生血を吸っている。結果として欧米は、格差社会の病に犯され、昔の怨霊が難民、テロとして乗り移り欧米社会を襲っている。因果応報である。

 白人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。最終的に推定1,000万人いたインディアンは直接・間接虐殺により実に95%が抹殺された。米国は先住民の950万人のインディアンを虐殺した。米国はフィリピンの植民地政策で現地人を61万人虐殺した。英国はインド植民地政策でインド人の2,000万人を餓死させた。その掠め取った富で、英国は大英帝国となった。英国はアヘンを中国人に売りつけ、因縁をつけてアヘン戦争を起こし、中国の領土を割愛した。そのニュースが幕末の日本の知識層に衝撃として伝わり、桜田門外の変、幕末争乱、明治維新、富国強兵策へとつながっていく。

 すべては白人の強欲さに起因する。白人の有色人蔑視は、白人だけが神から祝福された人間で、有色人種は人間ではないとの妄信からの行動である。当時のローマ法王でも「キリスト教に帰依しない原住民は人ではない」と言っている。その免罪符があるから残虐な殺略行為を平然と行えた。人は宗教で死鬼衆となる。

 

戦いを嫌う教え

 世界の三大宗教で、戦争を嫌う教えは仏教が突出している。また唯一排他的な考えが薄い教えである。「足るを知る」、「利他の心」、「全て受け容れる」は仏教の教えの象徴の言葉である。お地蔵様は、閻魔大王の前で当人が生前の善行を弁護する。またお地蔵様が地獄界に転勤になれば、閻魔大王に変身する。それゆえ、弁護人と裁判官が同じであるので、救済されるという地蔵菩薩信仰が生まれた。お地蔵様に手を合わせることでお地蔵様とご縁ができるとの信仰が広まった。お地蔵様は人を差別しない。

 

図1 雪が積もった冬の日 2014年12月18日

図2 お地蔵さんのお体に保護用のビニールテープを巻きつける

   2016年4月5日09:02

図3 お地蔵さんの搬出作業を見守る町内関係者

図4 慎重にクレーンで持ち上げる

図5 去っていくお地蔵様 2016年4月5日09:21 

 

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磨墨智 435c.「みんなが 寄ってたかって 私を幸せにしてくれる」と思へ

耳中常聞逆耳之言 

耳には常に痛いことばかり。それが自分を鍛えることになる。甘い言葉で褒められるのは、遅延性の毒を盛られるようなもの。(洪自誠著『菜根譚』)

 

 自分に厳しいことを言ってくれるのは、私を育てようとしてくれている。辛口の批評は、自分の行動の何所がいけないのかを教えてくれる。試験の成績が悪いのは、今のやり方が間違っていると親切に教えてくれている。私を幸せにしようと思わない相手は、無視をする。愛の反対は憎悪でなく、無視なのだ。

                                                                                          

愛の言葉、地獄への言葉

 人が甘い言葉をいい、お世辞やおべんちゃらを言うのは、自分をKY(空気の読めない人)に育てるための罠である。厳しいことを経験しないと、実社会ではやっていけない。KYになっては、出世など夢の話。せいぜい主任停まり。正規社員にもなれない。厳しい叱責で研鑽を積み自分の能力、精神力、人を見る目が養われる。皆さんが私のために、能力向上のため、幸せになって欲しいと鍛えてくれている。どうしようもない人には、誰も何も言わない。私も何も言いたくない。自分に向けられる厳しい言葉を、自分を鍛える愛の言葉と解釈をしよう。そう思うとき、神仏もよってたかって幸せにしてくれるご縁を恵んでくれる。それを恨むから、幸せになれない、強くなれない。それに感謝をすべきなのだ。

 松下幸之助さんのためならと、皆が頑張ってくれた。それが松下電器を大きくした。松下幸之助さんは病弱で学歴もなく、人の任せるしかなかった。それでも皆が「寄ってたかって」幸之助さんを幸せにしようとしてくれた。そういう人徳を身につけよう。そうすれば、多くの人の時間を頂ける。助けてもらえる。一人では何もできない。仲間が己の至らぬ所を教えてくれる、補ってくれる。人を金で釣っても、金がなくなれば人は去っていく。

 あなたを地獄に落とす贈賄側の人間は、甘言で誘いノーパンしゃぶしゃぶ接待に連れて行くのです。それは苦労をしていない高級官僚が、簡単に堕ちる罠なのです。あ~、私も誘われたい……

 

車の更新を計画

 耳に逆らう言葉とは、人生道の運転ナビゲーションシステムなのだ。衝突しそうになったり、道を外れたりすると警告音で教えてくれる。良き師は、迷ったとき諫言で叱ってくれる。誤った道に進むのを防いでくれる。有難い存在である。どんな人間でも老いは免れぬ。最近、車の運転をしていて小さなミスが多くなった。それがきっかけで、最新のナビゲーションシステムを購入しよう計画している。これを買うと、おまけ?で新車が付いてくるとか。17年間乗ってまだ現役のバリバリの車であるが(走行距離11万キロ)、買い替えの時の様だ。体が丈夫でも、頭と運動神経の衰えは如何ともしがたい。最新の技術でそれが補えるなら安いものだ。人生も車の運転も、安全走行が最優先である。

 

『時間創出1001の磨墨智』より

2017-08-11

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インプラント 28(成功報酬)

3.28 成功報酬? 

 インプラント手術を当日朝にキャンセルして、キャンセル料金を歯科医に聞いたら、その答えが下記であった。

 「ドリルのガイドの型(本人専用)を発注して納入スミなので、その型代として34,000円を支払いください。原価で、当院の儲けはありません。インプラント手術は“成功報酬”で、インプラントの人工歯根はメーカに送り返したので、人工歯根代の支払いは不要です」

 

 歯科医は、「成功報酬」という言葉をさりげなく吐いたが、当方は仰天した。医療の世界で「成功報酬」との言葉はいかにも違和感があった。必殺仕置き人でもあるまいし、私の会社生活38年で、この言葉には初対面であった。「医は仁術」とは隔絶の概念である。たかがチタンのねじの人工歯根が、20万円弱もかかるはずもなく、機械技術者の私は暴利であると思っていた。「成功報酬」との言葉で、インプラントメーカから歯科医にキャシュバックがあると悟った。これから、インプラントは医療行為ではないと断定した。あくまで美観贅沢手術で、国が認めていないわけである。手術のキャンセルは、自分の体の経営判断として正解であった。

 

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2017年8月10日 (木)

磨墨智 503.定年まで大過なく過ごさない(改定)

 定年の挨拶文の決まり文句「大過なく過ごす」とは、「作業」をして「仕事」をしてこなかったこと。作業とは、決まったことを、決まった通りにロボットのごとくに、業務をこなすこと。今、貴方が辞めて、会社が困りますか? 貴方がいなくては困るという存在ですか?

 

忍耐とは

 仕事とは、付加価値を創造すること。「仕事」をすれば波風が立つのです。仕事とは、課題を乗り越えて、問題を解決すること。仕事をするとは、対象を殺すこと。その無駄を殺せ。会社に殺されると「波風立てずに大過なく過ごせる」。「仕事」とは「作業」の効率化をすること。波風も立てず、上役にヒラメの如く媚びを乞い、息も殺してサラリーマン生活を送ってどうするの? それでは人生で価値ある時間は創れない。

 時間とは命の刻み。その命を何に使うか(使命)が、己の心に向けられた刃である。それに向かって血まみれになって働くのが「忍耐」である。首に縄を付けられて、羊の如く定年まで過ごすまい。命をかけて狼の仕事をしたい。殺されても、新しい新天地で生き返ればよい。仏さまが骨を拾ってくれる。その血まみれの経験という財産は、だれも盗めない。己が血まみれの仕事レベルまでには、到達できなかったのが悔やまれる。自己採点で60点である。

 

組織の定年

 どんな組織の長にも暗黙の定年がある。普通の組織の長の任期は3年である。就任1年目は、その組織の現状把握と改善点の開発である。2年目は、改善案の実行である。3年目はその成果の確認と後進の育成である。長はその期間の間に、「仕事」を行う。長が「作業」をして時間を過ごすのでは、その組織の長の地位に就く価値がない。その組織の長の定年まで、大過なく過ごしてはなるまい。上司は、貴方にどんな期待をして長として選んだのか。己は組織の長として、どんな付加価値を生むのか。それを自問したいもの。その長に出世するために、上役にゴマすりをするのでは、人生の目的が本末転倒である。人生の定年を迎える前に、佛は己に何を期待しているのか、何のために生まれたのかを考えたい。

 

第一の人生の反省

 私の定年の挨拶状に、ついこの項を忘れて、「大過なく」の文言を入れてしまったのを、今になって反省している。会社の定年が過ぎても、第二の人生の定年、第三の人生の定年が待ち受ける。今度こそ、前の失敗をしないようにしたい。若い人には、この意識を持って仕事をして欲しいと願っている。

 

 あるOBの銀行マンは、支店長時代に上司から「お前の代わりはいくらでもいる。預金目標額を達成するまで、死ぬまで働け!」と罵声を浴びせられたと言う。今にして、私は幸せな職場で働けたと思う。仕事はお金のためではない。私の経験した職場は付加価値を生める仕事があった。

 

『時間創出1001の磨墨智』より

 

2017-08-10

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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インプラント 27(耳)

3.27 観音菩薩様の耳での判断

  二つの事象が接してこすれると、ミクロ的な現象として破断が起こり、必ず音が出る。これはトライボロジーの世界である。その音を耳からの目で聞くことができるか、心の耳で聞くことができるかどうかである。問題があれば必ず雑音が発生する。その「萌しとしての音」を心の目で「観る」能力が、経営者に求められる。心して観れば心眼が開く。それができなければ経営者として失格である。

 「耳」という字の真ん中に、「目」がある。「目」の上下の線が両端に伸びている。それが上の人たちの声、目下の人たちの声を見なさいであり、「目」の下に伸びた線が、自分の心底から聞こえてくるご先祖様の「助言」の声を観なさい、という意味である。「助」とは「目」の「力」と書く。

 問題がなければ、スムースな接触で音は観えない。インプラント手術からは多くの不協和音が聴こえる。観音菩薩様は全てを観ておられる。「心の耳を澄まし、天のメッセージに聞き入ろう」(安岡正篤師)。心の耳を澄ますと、眉間にある心の第三の目が開き、この世の真実が見える。

 

図1 聖観音菩薩像 松本明慶大仏師作 楠 1尺

 

2017-08-10

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佛像の著作権は松本明慶大仏師作にあります。

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