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2017年7月

2017年7月23日 (日)

カテゴリー「吾が人生の師天王」を追加

 松本明慶先生に虚空蔵菩薩像の制作をお願いしたら、その納佛直後に高野山の中門に納める四天王の修復・新造佛を納佛直前に拝観できるご縁に出会った。それに関する記録と所感をまとめていたら、今までに人生の師との出逢いから様々なご縁の生成になっていることに気がついた。そのご縁のエピソードとその学びを、この冊子でまとめた。本書は私の今までの学びの集大成となった。

師天王の目からの考察

 この書で現代社会の病巣も描写した。我々は豊かさを求めて働いてきたが、それで本当に豊かになったのだろうか。身近で起きる事象を「師天王の目」からの観察すると、我々の社会がどんな風に見えるかである。

 これは私の半生記でもあり、私の人生経営書でもある。経営とは昔から連綿と続く経糸の歴史の営みの中で、己が創る今の時代の横糸を織りこんで創る曼荼羅模様の織物である。これは還暦までの第一の人生を昭和と平成の中で生きた遺書として、また第二の人生を歩く時の躓き防止のための体得知書としたい。この書が皆様の人生を考える上で、何らかのヒントになれば幸いです。

 

表紙説明

大佛師松本明慶謹彫 広目天、増長天   

新造佛が完成し、高野山に納佛直前の姿。(松本工房にて 2014年10月8日)

 

「師」とは: 「つみする」の意味である。「師」の左側は大きな肉の象徴である。つくりは「辛」(音)でその省略形が「帀」で刃物の象形である。敵を処罰するという目的で、祭肉を奉じて出発する軍隊の意味を表す。転じて指導者の意味を表す。己の間違った考えを刃物で切り取り、処罰してくれるのが師である。

「曼荼羅」とは: サンスクリット語のnandalaの音写した言葉で、本来の意味は“本質、中心、真髄などのもつもの“を表し、仏教では仏の悟りとその世界を意味する。

 

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久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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時間創出1001の磨墨智 411(磨墨修行)

墨を磨ること病婦の如く、字を書くこと壮士の如し

 

◆恵峰師の体験

 馬場恵峰師の小学生の頃のお話。馬場先生は先生の師匠から、実習で連続8時間、墨を磨らされた。一日墨を硯で磨っても磨っても、結局、墨がすれなかった。先生に、「全然磨れません」と言うと、「そうか」と言うだけでその日は終わった。その硯は、表面がツルツルで、墨が下りない硯であった。恵峰師は今にして、当時、8時間も墨を磨らされた意味が理解できたという。

◆硯の構造

 硯の表面を細かく見ると、ボンドといわれる結合材の粘土ベースの中に、ヤスリの役目をする石英が点在している。通常はその石英の尖った面が埋まっているので、柔らかい砥石でその結合部を削り取って、石英の尖った面を掘り起こしてから硯として使う。その処理がしてないと、いくら墨を磨っても、表面を滑るだけで墨が下りない。

◆墨と硯は人生の象徴

 墨を磨る行為は人生修行に象徴される。硯は世間を象徴し、尖った石英は自分への批判者、指導員である。墨は自分自身を象徴し、水は仕事を象徴する。世間という硯の面で、仕事を通して自分の至らぬ点を磨り減らして、自分の付加価値を出していく。その自分から磨り減らして出した墨で、世間様に対して、形ある貢献をする(字を書く)。人が持つ付加価値は、様々である。しかし、その付加価値を世間に問わないまま、墨の形のままで人生を終える人もいる。自分の至らぬ点を世間という尖った面が、批判、指導、援助をして、修正してくれる。人というダイヤモンドは、人を介してしか磨かれない。

 いくら力任せに墨を磨っても、世間が自分を磨く手段と考えないと、硯はツルツルしていて、墨は下りない。力任せに磨れば、机が揺れ(世間を揺さぶり、騒がせ)て、軋轢を生じなから墨が下りる。それは良い墨汁ではない。片側だけに偏向して墨を磨っても、自分の姿が片減りするだけ。形が美しくない。両側で均等に減るようにバランス良く磨る。人生修行そのものである。真っ直ぐに立てて磨れば力がいる。それは直球の人生で、効率が悪く、スマートではない。墨を45度、寝かせて、病婦の如く磨れば、力もいらない。軋轢も生じない。自分の修行として、黙々と静かに、自分を見つめ、時間をかけて墨(自分)を下ろす。それが磨墨修行である。修行と思えば、全ての事象を自分の成長の糧にできる。それが最大の時間活用です。ツルツルしているとは、世間との摩擦を回避し、自分の行為が上滑りしていること。修行として磨れば、当然、摩擦が生じるし、そこから多くの学びがある。摩擦なしに世間は渡れないし、自分の成長もない。

◆墨のキャパシティ

 書道も墨汁ですませば、一見、有効な時間は得られるように思える。しかし、墨と硯を自身の人生に置き換えると、それは借り物の人生である。墨でも数百円の墨から、昭和天皇が使われた墨(現在価格80万円)のように、その天性としてもてる能力、キャパシティは大きな差がある。そのもてる分を100%発揮して、その人の使命であり人生である。自分のもって生まれた才能を世間に問う、それが修行である。

 墨にも人にもキャパシティがある。その分を使い終わった時、人生が終わる。その墨で後世に何を残せるかが問われる。無駄にエネルギーを放射して、その墨を使うのも人生。しかし、それでは磨った墨が無駄になる。必要な時に必要なだけの墨を下ろして、そのとき求められている仕事をする。それが人生の使命である。

◆墨を磨る時間価値

 書道で、墨を磨るという無駄と思われる時間が、結局は自分を磨き、修行としての重要な時間になる。人は動物として生まれ、躾けと教育によって人間になり、世間の波に磨かれて、大人(おとな)になる。人間になっても、その世間での修行がないと、小人(ことな)のままなのだ。磨墨修行とは、自分の至らなさを実感する時間と言える。

 

図1 昭和天皇が使われたと同じ墨(馬場恵峰師蔵)

図2 墨の下りかた(45度が理想)

 

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2017年7月22日 (土)

裸の権現様が、小さな蟻塚に躓く(改題・改定)

「吾」とは

神のお告げの意味と神具で使う器具の象形からなる文字で、「われ」を意味する。吾の「口」とは神のおつげの意味。音符の「五」は、棒を交差させて組み立てる器具の象形である。神のおつげを汚れから守るための器具のさまから、「ふせぐ」の意を表す。そのさまを借りて、「われ」の意味を表す。漢字を創った古代人は、人間には佛性があることを知っていた。

 修証義に曰く「佛祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は佛祖ならん(釈尊および歴代の祖師のその昔は我々であった。我々の将来は祖師である)」。佛はどこにもいない。己の内に存在すると道元禅師は言う。己の内なる佛の声は聞こえるが、それに耳を塞ぎ、欲に負けて、やってはいけないことを犯し、食べすぎ、飲みすぎ、集めすぎ、貯めすぎの強欲に走る人間の弱さから来る業を、罪という。「足る知る」を理解しながら、それが自制出来ない弱さの鬼性と、神の御告げに耳を傾ける佛性の両方を持つのが人間である。

「権現」とは、

佛菩薩が衆生を救うために仮の姿をとって現れるさまを言う佛語である。己が社長なら、その身は会社の「権現」でもある。社長が佛の代理の権現様として、社員のために口でいくら立派な訓語を社員に垂れても、その後姿に綻びがあると、化けの皮が剝がれる。社員は社長の後姿にきつねの尻尾を見る。知らぬは社長ばかりなり。社長が、佛様より預かった大事な体を社長権限で酷使して、結果として顧客軽視、肥満、高血圧、アル中、虫歯に堕ちる。全ては己の強欲のためである。怠惰な心がしてはならないことをする。社員は騙せても、60億人の人間と、60歳になった60兆個の細胞はその履歴を知っていて、限度を超えると反乱を起こす。それが病気の発症である。その反乱に遭遇して、命を永らえても佛の働きに感謝しない社長が世に氾濫している。同じ過ちを何度繰り返しても眼が覚めない。

危機管理から逃げた社長

 己の佛性に目覚めない限り、いくら高いカネを払って論語や経営学を学んでも馬に念仏である。それを会社の経費で落とすから真剣に学ぶ気が起きない。かの社長も年に100万円の塾費を払い、高名な論語の先生の某社長塾に通っている。それを数年続けているのに、その不祥事(車検時に私の車を私用で乗り回し、ガソリンを空にして返車。ドライブレコーダが全てを記録した)が情けない。何も高い金をかけなくても、論語読みの論語知らずの行動を観察すれば、論語が示す実例を学べる。同じ経営塾で机を並べて学んだ仲間を信じて裏切られるのは、己の人を目の見る眼の未熟さである。この社長は今までは頻繁にダイレクトメールを寄こしていたが、その不祥事後は、音信不通である。不祥事の露見の場合は、真っ先に飛んで行き謝り、火消しをするという基本行動さえできない。人は危機状態の時に、佛様がその本性を露見させる。己の持つ明徳を明かにしないと、人生は開花しない。明徳の「明」とは日が月を照らして、その暗部を明かにして、己の徳のレベルを明らかにすること。

己の体を放漫経営して破綻

 2012年、一緒に某経営塾の研修を受けた社長が、脳出血で倒れた。大層威勢が良い会社で急成長を遂げていた。彼を身近に見た感触では、単に健康管理に対する放漫経営から来た病気である。高血圧、歯と眼の不摂生、タバコ、肥満が原因の因果である。社長がいくら高尚な経営理念を唱えても、己の体の経営が出来なくて、会社の経営が出来るはずがない。社員は社長の後姿を見て、「己の体の放漫経営のため病気で倒れたあんたに、そんなことは言われたくない」が本音である。誰のお陰で60兆個の細胞が己を還暦まで生かしくれて、誰が会社を支えてくれて、今日があると思うのか。その感謝の意識の希薄さが、社長自身が冒頭で発言するイケイケドンドンの社報から透けて見える。回復して威勢は元のように元気になって喜ばしいが、己を支える基盤(体、社員、社会)への感謝の念が薄く、生かされていることへの認識が薄い。前のめりで高尚な言葉を列挙するが、足元が軟弱なので、土台から崩れるのではと危惧している。事件が起こると基礎工事の手抜きや白蟻の侵食が露見する。

人生の貸借対照表

 この社長とは経営塾で席が隣りとのご縁もあり、遠方の土地へ駅からも遠い病院へタクシーを飛ばして見舞いに行った。しかし元気になっても礼状一つ来ない。あとは押して知るべしだ。ご縁の貸借対照表に人生の歩みが表われる。縁の残高が少ない経営者が人生で躓く。人は山には躓かないが、小さな蟻塚に躓く。佛様は全てを閻魔帳に記載して、己の体の病気を通して閻魔帳の中間報告をされる。その時が人生の岐路である。多くの人が佛の御心も知らず、地獄への近道へ足を向ける。人生経営道での学びである。

 

図1 「吾」の象形文字

図2、3 白蟻に食われた柱(自宅リフォーム工事で発覚)

図4 ドライブレコーダーの記録

 

2017-07-22

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人生飛行の着陸

 飛行機の着陸の姿は、優美で美しい。速度を落とし、フラップを開き、ギアを降ろし、しずしずと空から降りてくる姿には、いつも引かれる。飛行機の着陸の写真撮影は、50年前の高校生の頃からの私の趣味である。その着陸は、離陸に比較してはるかに難しい。飛行機事故の大半が着陸時に起きている。飛び立つときは、しゃにむにエンジンを全開して空に向って上昇すればよい。着陸は広大な大地の中の決められた一点に着陸しなければならぬ。己は何処を目指して飛行をしてきたのか。計画なき飛行では、着陸もままならぬ。燃料が乏しくなってから着陸態勢を取っては遅い。人生飛行では、全て初めての着陸である。着陸はソフトランディングでありたい。ハードランディングでは辛い。最期には如来ポイントに着地できるようにしたい。如来とは、「かくの如くに来れしもの」という意味で、人のあるべき姿の理想像として創造された。宇宙の真理を象徴しての存在が大日如来である。如来になる理想を求めて歩き続けてこそ人間の一生である。

宇宙の真理

 宇宙の真理は、単純明快である。何のためもなく、天地自然界はただひたすら与えられた命を全うする。太陽は照らし、風は吹き、雨は大地を潤し、植物は上にただひたすらに伸びていく。その中で人は自然界の一つの存在でしかない。しかし動植物とは違い、人間は魂を持った存在であるから、世と調和を図り世に付加価値を与えて生きるべきだ。金品を過剰に集め強欲を出すようでは、全体の調和を乱し周りを不幸にする。

人生の失速・着陸失敗

 現代、定年後にやることが無く、一日中、テレビを見て無為に過ごしたり、パチンコに興じたり、ショッピングモールを一日ぶらついて、時間を潰す人達が多い日本社会の現実である。過去の大垣藩の状況を比較すると歯がゆくなる。ここに日本の閉塞状況の一因がある。子供はやかましく言った通りには育たない。親がしているように育つ。親の後姿を見て育つ。高度成長期、経済価値だけを重視して、家庭教育を放棄して、教育を学校任せに経済成長を盲進した咎が今現れている。現代日本を覆っている鬱積した気は、大人が正気にならないと良くはならない。

 日本がこんな情けない状況になった本当の原因は、日本占領時代に米国が日本の古来の価値観を破壊する教育システムを構築して、日本弱体化の施策を仕掛けたことにある。残念なことにその害毒は現代になって効き始めている。我々は、日本の後世のために、この欠陥ある教育システムを改革すべきである。

人生飛行の着陸

 人生での着陸時とは、前の界を去り新しい界に突入する時期である。人生の総決算期で、収支決算が求められる。人生の真価が定まるときである。年老いて会社を去り、新しい世界で余命を過ごすとき、容色は衰え、嬌飾は廃れ、頭は惚け、その人間の真実が覆うところなく現れてくる。『菜根譚』にも「人を看るには只後半截を看よ」という。年老いて醜態を晒す人もいれば、益々意気盛んな人もいる。年老いて、人が寄ってくるのか、避けていくのか。仕事があるのか、ないのか。自ずと人生の収支決算書が出来上がる。人生貸借対照表で、恩を借りっ放しの赤字決算では人間恥ずかしい。「起きたけど寝るまで特に用もなし(詠み人恵峰)」という晩年では哀しい。自分という人生プロジェクトの幕引きこそ、最後の大仕事である。心して死にたい。そのためには良く生きねばなるまい。

 

図1 平日の早朝、大垣駅前のパチンコ店前で開店を待つ人達。子供には見せられない。  2011年4月7日(木) 08:58

図2~6 着陸

 

2017-07-22

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インプラント 10(クライテリア) 

3.7 歯科医院のクライテリアは何か?

  金儲け? モルモットでの実験? 患者のための治療?

社会奉仕? 医学の向上?

 

 インプラントを勧める歯科医のクライテリアは何かを考えると、状況証拠からみて、現在は極めてグレーに近い無罪ではある。しかし近い将来に、黒になる可能性が高いと思う。これを「金儲け」と考えると、下記の全ての事象が素直に納得できる。それ故、インプラント手術は、現状では避けるべきと結論した。

インプラント手術の観察事項

・立派な手術室を前面に出しての宣伝(高い設備費)

・ホテル並みのリラックスできる待合室(高い設備費)

・法外な手術費。保険がきかず(国が認定していない)

・傲慢な治療の横行(儲かるから経営が安易になる)

・良心的な歯科医はインプラントに反対

・「成功報酬」としてインプラントメーカーからのキャシュバックがある(推定)

・インプラントの手術数の誇示(リスクが多いことを暗黙に示す)

・インプラント専門医は海外の大学でのインプラント講習受講を誇示

・インプラント専門医は選択枝として、インプラントを先に推薦

・インプラントの都合の悪い情報は開示しない。

クライテリア  CRITERlA

 クライテリアとは、私が1994年にミシガン大学テクニカル・ライティング夏季セミナーに参加して、学んだ概念である。クライテリアは医院の方針と理解すればよい。またオーディエンスは、患者に置きなおしてインプラントを考えると、歯科医師の患者に対する情報伝達の拙さは、訴訟に発展する恐れを秘めている。

 このセミナーで、何回も出で来るキーワードが「クライテリア」である。また一番感銘を受けた言葉でもある。先ず方針ありきで、その基本方針・考えがないと書類作成も仕事でも何事も進まない。この事を繰り返し指導された。米国ビジネス社会では「読みにくく、内容不明瞭な文書を、受取手(上司、同僚)が読まなくてもなんら責任がない」とのスチーブンソン教授の見解は、論理構成の重要性を再認識させられた。なにせ米国ビジネス社会では管理職が、受け取った書類を扱う平均時間は、30秒であるそうだ。日本ビジネス社会では、書類を出したら受け取ったことで、読まなかったら、その読まなかったことが責任とされる社会との峻別が面白い。そういう点で、日本のビジネス文書は緊張感がない。この理由で米国ビジネス社会では読んでもらうために、真剣に書類の「クライテリア」を明確にして「デザイン」しなくてはならない。

手術のデザイン

 「技術文書のデザイン」という概念は新鮮な響きがある。論理構成のない、なぐり書きされた書類には、不似合いの言葉であるが、ビジネス社会で情報を伝えるのツールとしての書類にはその概念の重要さを認識させられる言葉ある。如何に書類を「設計」するかは、その基本概念の明確化(クライテリア)、書類の概略構想、スケッチ、詳細記述と製品を作るための図面デザインと同じプロセスが要求される。

 インプラント手術では「人体の設計」が必要とされる以上、検討項目を上げて設計審査が必要となる。それも命に係わる手術である。正しい情報開示がないと、設計審査が片手落ちとなる。なぜインプラントが推奨されるのか、その問題点がオーディエンス(この場合、患者)に明示されていることが必須である。しかし、今回はそうではなかった。他に医院でも同じであると推定される。その手術の必然性の根拠も曖昧である。インプラント手術の説明資料が、読みにくく曖昧な文書なら、PL法(インプラントは製造物ではないので、別の法律が適用される)に準じた法律での対応が求められる。

米国スリーマイルス島の原発事故

 米国スリーマイルス島の原発事故(1979年3月28日)、のドキュメントの事例では、米国における文書・報告書・提案書の記述方法が、人類の危機に発展するシリアスな事例として紹介された。米スリーマイルス島の原発事故では、事故の数力月前にその前兆の報告書を技術者が上司に提出している。しかしその報告書が読みにくく、かつ論文調に書いてあったため、責任者はその報告書を無視した。その結果がスリーマイルス島の原発事故につながったのだが、それが裁判になって、然るべきスタイルで提案書を書かなかった技術者の過失が問われ、その上司の管理責任者は無罪になっている。ある意味で米国の自分の管理分野の責任に対する無責任さをスリーマイルス島事件は示していると思う。プロならもっと自分の仕事に責任を持てと言いたいものだと感じた。しかしここには米国社会の個人主義、その結果としての個室を中心とした会社運営形態がある。そこには書類だけで情報交換をされる仕事ぶりがあり、その書類の記述方法が大きな意味付けを持つことになる。だからこそ論理的に記述する重要性が出てくるのである。

PL問題

 PL法は米国の製造業を衰退させた悪法であるとさえ言われる。訴訟社会の米国にあってPL問題は製造業の携わる者にとって大きな問題である。しかし悪法でも、米国を相手に商売をする以上は避けては通れない問題である。米国社会では自分の書いた書類(マニュアル・注意書き等)が、自分を傷つける凶器に変身するから恐ろしい。しかし、我が身を傷つけるのも書類だが、自分を守ってくれるのも書類である。そのためにこそ、テクニカル・ライティングの必要性が重要視され、米国で推進されている大きな要因である。いくら歯の治療で短期的によい効果を上げても、長期的に問題がある手術は、PL法に相当する法律で訴えられてしまう恐れがある。

 

2017-07-22

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桃太郎・浦島太郎の仏教説法

桃太郎物語

 川に流れてきた桃から生まれた桃太郎は、成長して犬と猿と雉をお供に鬼が島に鬼退治に行き、鬼を退治してお宝を両親のもとに持ち帰った。

浦島太郎物語

 昔むかし、浦島太郎は助けた亀に連れられて、竜宮城に来てみれば、鯛やヒラメの舞い踊りに見とれてしまい(痴呆状態)、乙姫様と楽しい3年の時を過ごした。しかし両親のことが心配になり、乙姫様に別れを告げて家に帰ってみれば、親も死に、家も絶え、誰も自分を知っている人がいない現実に直面する。すでに300年が経っていた。開けてはならぬと言われて乙姫様からもらった玉手箱を開けたら、たちまちに白髪の老人になってしまった。

地獄の研修所

 桃太郎の物語は、人生の表の世界の物語で、浦島太郎の物語は裏の世界を寓意する仏教説法である。プラスがあればマイナスもあるのが人生である。世の中は全て陰陽の世界である。

 桃太郎は、忠実で恩を忘れない犬(社是・信用)を連れ、猿(知恵)と高所から遠くを見渡す能力ある雉(ハイテクの目、ドローン)の経営の三種の神器を手にして、鬼(自分の劣等感、邪心、慢心)を退治するために地獄の研修所に行き、懺悔の涙を流して自分の内なる鬼を退治する物語である。鬼退治で、「裏鬼門」の方角も意味する十二支の申(猿)、酉(トリ=雉)、戌(犬)を率いた。そして、自分株式会社の社長としてお宝を発見して、人生経営を軌道に乗せるお話である。ハッピーエンドで人生経営のお話しは終わる。太郎とは家の長男に付ける名前である。桃には、邪気を祓い不老長寿を与える意味がある。

請求書の山

 桃太郎は昼のお話しであり、浦島太郎は夜のお話である。浦島太郎は功徳と業績のご褒美に会社の経費で夜の接待に招かれて、酒池肉林の極楽の日々を過ごし、ひと時のうたた寝をする。目が覚めれば、酒池肉林のネオンは消え、創業者は既に亡くなり、会社が倒産していた。美女からもらったお土産の玉手箱を開けたら、膨大な請求書の山が出てきて、腰を抜かし一晩で白髪になった。浦島太郎の昼の顔は履歴書で、乙姫様の夜の顔は請求書であった。これは人生の経営物語である。

夜の竜宮城での酒池肉林

 昼の鬼が島(表の世界の企業戦争)の戦いに勝った後、夜の竜宮城での酒池肉林の極楽の癒しの時間は、疲れを忘れさせるが、それが長くは続かない。いくら美女や珍味美味に囲まれてうつつを抜かしても1時間もすれば、正常な神経の人なら飽きる。そんな極楽の生活を竜宮城(裏の世界)で3年続ければ確実にボケる。竜宮城での3年の生活は、まともな生活の300年に相当するとの寓意である。子供の教育上で、接待の酒池肉林の極楽とは言えないので、童話では鯛やヒラメの舞いと山海の珍味と表現した。

人としてのやるべきこと

 どんなご褒美も娯楽も賞味すればするほど、快楽が麻痺し、それが苦痛になるのが正常な人間である。人間の神経は、快楽を長く維持できる構造とはなっていない。遊びと仕事の違いと同じで、やればやるほど虚しさが沸いてくるのが遊びで、やればやるほど面白くなり、のめり込むのが仕事である。遊びには達成感もなければ、分福の喜びもない。そんな虚しい時間を過ごしていると、親の死に目に会えないよ、と浦島太郎の童話は警告する。「人としてこの世に生を受けたのなら、もっと他にやるべきことがあるだろう」が、寓意である。

地獄への直行便

 娯楽遊行だけにうつつを抜かした罰として、認知症の老人に落ちぶれた。現代はそんな老人が周りによく見かける。白髪の老人への激変は、時間の喪失という寓意ではないか。やるべきことをやらないと、時間は超スピードで過ぎてゆく。加速度のついた娯楽人生は、地獄への直行便である。「起きたけど寝るまで特に用もなし」の引退生活では、時間の経つのは速い。人生時計を早送りモードにしてはならない。人生の残された日々で、やるべきことは何か? 明日では遅い、敵は既に出発している。

 子供には、陰陽の理論を踏まえ、この二つのお話を仏教説法を対比させてお話をされたし。夜のネオン街を徘徊する社長さんたちに聴かせるべきかも。

 

2017-07-22

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盗んでいますか?

 人の物を盗めば犯罪だが、親・師のもの(生きざま、考え方)を盗むのは親孝行・師孝行である。何時までもあると思うな、親とカネ。死人に口なし。あの時、親に聞いておけばよかったと思ってもその時は遅い。今のうち、日の暮れぬうち、生きているうちである。いいか悪いかではなく、自分の都合で考えるから、親・師の真意が学べない。親の悪いところは、やっていけない欠点を親が見せてくれたと解釈せよ。それで己はどうするかが問われているのだ。聴く人、観る人の教養が、その解釈を決めるのだ。親が悪いのではない、己の頭が悪いのだと思うべし。

孝行とは

親から子への伝承が「孝」である。「孝」の漢字は、「老(大人)」と「子」から構成される。子が親を背負っている姿を現す象形文字である。親が苦労したことを子が受け継いでこそ、その家系が繁栄する。師の教えを部下に伝承してこそ、その組織が栄える。親の言うことを自分のものにする人が最高の親孝行である。親のものを泥棒せよ。師の技を盗め。親を超えること、師を負かすこと、それが最高の親孝行、恩返し、社会への恩返しである。

 日本の敗戦で、占領軍が日本の家制度を破壊した。核家族化が、炉裏場での親から子への教えの伝統を無くした。これが現代日本の精神の荒廃のつながっているようだ。今の子の問題は、気ままに育った若い親が悪い。

教えとは

「教」とは、親(老)が子供(子)に鞭(攵)打っている様を現す象形文字である。親は子に見えない鞭で、これでも分からないかと、子の心に鞭を打っている。親の心、子知らず、である。自分が部下を持って、どれだけこんな思いを持ったか数知れず。同じように、親も師も、己の情けない振舞い対して言い知れぬ思いを抱いたのだろうと慙愧の思いに駆られる。

下手様に感謝

 私(恵峰)は、自分のためだけの書道をやっていたら、ここまで長生きはできなかっただろう。皆さんに己のものを伝えたい、残したいという思いが、長生きをさせてくれた。皆さんが(書道で)下手だからこそ、私が頑張れた。下手様に手を合わせる日々である。すぐに上手くなられては、商売あがったりである(笑)。皆さんが今から書道をやっても上手くなるわけがない。書道は、字を上手く書くのが目的ではなく、教養を高め、自分を見つめて自分が自分になる為に行うのである。初心忘るべからずである。上手くなくても丁寧に書けば、心が相手に伝わる。それを続ければ自ずと上手くなる。それが書道の神髄である。書道をやれば、そうでない人と必ず、何かが違ってくる。目に見えないものが、最後に人生の勝敗を分ける。

なしてそげん元気ばってん?

 今の惠峰師の元気さと、書の大量生産ぶりを見ていると、私の方が先のくたばりそうと思えてくる。なしてそげん元気ばってん? 惠峰師と身近に接せて分かった健康の秘密は、小食、ゆっくりと咀嚼をして感謝しながら食べる、間食なし、お酒は紹興酒を盃で1杯だけを3倍のお湯で薄めて飲む。350坪の庭を毎日朝晩30分の掃除・草取りで体を動かす、毎日深夜までの書の仕事、社会への奉仕活動に尽きる。

 2017年7月20日、恵峰書「源氏物語」の写真撮影のおり、お茶の時の惠峰師のお話を聞いて、私の解釈を入れてまとめました。師の一言ひとことが心に沁みいる。感謝。

 

図1,2 馬場恵峰師 2017年7月20日 日中文化資料館

 

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2017年7月21日 (金)

「自分史」で老計・死計を視える化

 図1は還暦の時にまとめた「自分史」である。「自分史」の中で、60歳から95歳までの計画表は「老計・死計の設計図」である。この表を仏壇のある座敷に掲示して、この5年ほど、毎日眺めていた。今は別の部屋(増築した書庫)に移して、毎日眺めている。眺めるほどに、人生を考えさせられる。

「自分史」の内容

 「自分史」では、高校卒業から還暦までの実績を、そして95歳までの計画をA1サイズにまとめた。横の目盛りに年号、年齢をとり、縦の項目に社会の事件、会社での部署歴、職位歴、取得資格歴、業務内容、著作、師との出会い、IT機器歴、受けた研修歴、旅行歴、体調状況、車歴、住まい歴を並べた。入手した美術品や思い出の写真を貼り付けて表現した。人生を1枚の表にすると、自分の足跡が「視える化」され、今後の自分のやるべきことが見えてくる。私の昔の部下や友人にも本図を見せて、自分の将来のために、今からこのような図表を作成することを勧めている。

人生を俯瞰

 人生95年を1日24時間に換算して人生を俯瞰すると、

60歳はまだ15時で、終業時刻の17時までまだ時間がある。

65歳は、これから残業時間で、まだ一仕事ができる時間である。

75歳は、19時でこれから自分だけの時間が持てる黄金の時間である。

85歳で深夜に近く、仕事をしながら就寝の準備をする時間である。

人生を95年で計算すると、やれること多々あり目移りするほどである。

人生の視える化

 現在、国家試験に挑戦中で、その受験勉強の方法として過去問を何度も解いている。その対策として、覚えるべき項目をマトリックスにして「視える化」をして、その記憶の穴埋め作業をしている。同じ問題を何度も間違えては悔しい思いをして、記憶の再確認をすることで課題を覚えている。そのマトリックスと自分史の表が重なり合う。人生でも同じような間違いを何度も繰り返し、痛い目を遭いながら少しずつ人間としての成長をしてきたことが自分史に刻まれている。人生とは、佛様からの合格通知をもらうための受験戦争なのだ。その結果を、自分で自分史に書き込んでいる。足跡を「視える化」することは、人生の反省となり、次の人生の一歩を踏み出すための学びとなる。自分の成長が完成したら、それで人生が終わりである。それでは面白くない。未完成で終わることを前提に、少しでも成長をして、その継続中で倒れたい。

 受験科目の項目別過去問の取り組み履歴を自分史と重ねると、自分が間違った過去の足跡が、自分の成長の過程として見えてくる。人は間違わなければ成長しない。自転車の習得でも、できるだけ軽微な転び方を多くして、自転車に乗れるようになる。痛い目に遭ってどれだけ学べるかが、人生である。

人格のレベル

 人生で人間として習得すべき項目をマトリックスにしたとき、どれだけの穴を埋めることができるか、それが人格のレベルである。フランクリンは13項目の守るべき徳目を毎日1項目ずつチェックして、それを守るように繰り返し反省・自律していたという。受験勉強でも、自分の穴の開いた記憶箇所を一つ一つ根気よく埋めていく、しばらく経つと前に埋めたはずの場所に穴が開いていることに気が付き、慌ててその穴を再度埋めていく。その繰り返しが受験勉強であり、自分の持つ器の穴を辛抱強く埋めていく作業が人生修行である。自分はその穴の開いた人生の器で、巡り合ったご縁をすくうのが、人生の旅である。いくら良きご縁があっても穴が開いていればこぼれてしまう。できるだけ穴の少ないのが理想ではあるが、到底かなわない夢ではある。その穴の開いた器でどれだけすくえるかが、問われる

自分の老いの発見

 この還暦後の受験勉強で得た最大の学びは、自分の老いの発見である。昔はすぐに覚えられたことがなかなか覚えられない。脳の劣化、目の劣化、連続で長時間机に向かう体力が喪失しているという冷酷な現実である。いつまでも若い時のようには行かないことを痛感させられた佛様からの通告でもあった。

師の遍歴

 自分史を振り返ると、師と仰いだ先生方の履歴が一目瞭然である。誰を師として目指したかを振り返ると、自分の成長が分かる。自分の成長は、師の後ろ姿を追っての人生である。人生は師を探す旅の歩みと言える。当初、師と信じていた人が、単なる水先案内人であったこともある。人生の悩み事で相談に行っても、「今忙しい」とかで逃げられると、その師としての信頼が一挙に消失する。戦争のとき助けてくれない国が味方ではないように、自分の人生の修羅場の時、相談に乗ってくれない人は、師ではない。師とは、月も照らさぬ夜道で、行先を照らしてくれる灯台のような存在である。その灯台が、近寄ってみたらカゲロウであったときの怒りは大きい。そんな痛い学びもした60年の歩みが「自分史」に刻まれている。人生は師を求めての旅である。本物の師は3年をかけてでも探すべきだ。求めない人に、師との巡り会いはない。

 

図1 自分史

 

2017-07-21

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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時間創出1001の磨墨智 3(残り時間)

3.自分の残り時間を意識しよう

平均寿命80歳として30歳なら18,250日しかない。

平均寿命80歳として40歳なら14,600日しかない。

平均寿命80歳として50歳なら10,950日しかない。

平均寿命80歳として60歳でも 7,300日もある。

 

一秒一秒、人は死に向かって歩いている。

あと何回、除夜の鐘を聴けるのか?

定年で辞めたけど、死ぬまで特に用もなし、でいいのか?

何をやり残したのか?

死ぬとき、やり残して後悔することは何か?

 

人生80年を1日として、24時間の人生時計で計算すると

20歳は朝6時 (目覚めて活動を開始) 

35歳は10時30分  活動の真っ盛り

50歳は15時

55歳は16時30分  一日の就業時間が終わり、残業時間に

60歳は18時         今から夜の時間へ

70歳は21時

就寝の24時まで、残りわずか。日暮れて道遠し。人生の大事を急ごう。 

 

2017-07-21

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インプラント 9(火葬場)

3.6 火葬場での美学

 人は裸で生まれて、裸で死んでいく。生まれるときは無垢の姿で、皆さんに祝福されて生まれてくる。死ぬときは、同じ裸でも、ある人は惜しまれて、ある人は無視されて死んでいく。葬式とは、人生の最終劇場である。人間は垢と汚れをいっぱい身につけて死んでいくが、その汚れの量の過多が人の人生を象徴している。火葬場で焼いても、その汚れが白い灰にならずに、灰葬で骨を拾う親族の目に止まる。死んだ己には手が出せない、隠しようのない裸の姿である。   

 遺骨の灰の中に、歯の金属の詰め物が残る。金ならまだしも、安い金属が残っていると恥さらしである。ましてインプラントのボルトが残っていると、整形手術と同じ扱いの審美手術であるインプラントの跡が、その人の体に対する考え方を曝け出す。死後の恥さらしでもある。

 人間が死ぬとき、あとに残るのは得たものや集めたものではない。人に与えたものや、人を育成に貢献した価値である。高い金を使って身に埋め込んだチタンのねじは、火葬場での灰葬のあとは、ゴミとして処理される。インプラントとは、日本人の死の美学に反した手術ではないだろうか。

 

2017-07-21

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