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2017年7月22日 (土)

盗んでいますか?

 人の物を盗めば犯罪だが、親・師のもの(生きざま、考え方)を盗むのは親孝行・師孝行である。何時までもあると思うな、親とカネ。死人に口なし。あの時、親に聞いておけばよかったと思ってもその時は遅い。今のうち、日の暮れぬうち、生きているうちである。いいか悪いかではなく、自分の都合で考えるから、親・師の真意が学べない。親の悪いところは、やっていけない欠点を親が見せてくれたと解釈せよ。それで己はどうするかが問われているのだ。聴く人、観る人の教養が、その解釈を決めるのだ。親が悪いのではない、己の頭が悪いのだと思うべし。

孝行とは

親から子への伝承が「孝」である。「孝」の漢字は、「老(大人)」と「子」から構成される。子が親を背負っている姿を現す象形文字である。親が苦労したことを子が受け継いでこそ、その家系が繁栄する。師の教えを部下に伝承してこそ、その組織が栄える。親の言うことを自分のものにする人が最高の親孝行である。親のものを泥棒せよ。師の技を盗め。親を超えること、師を負かすこと、それが最高の親孝行、恩返し、社会への恩返しである。

 日本の敗戦で、占領軍が日本の家制度を破壊した。核家族化が、炉裏場での親から子への教えの伝統を無くした。これが現代日本の精神の荒廃のつながっているようだ。今の子の問題は、気ままに育った若い親が悪い。

教えとは

「教」とは、親(老)が子供(子)に鞭(攵)打っている様を現す象形文字である。親は子に見えない鞭で、これでも分からないかと、子の心に鞭を打っている。親の心、子知らず、である。自分が部下を持って、どれだけこんな思いを持ったか数知れず。同じように、親も師も、己の情けない振舞い対して言い知れぬ思いを抱いたのだろうと慙愧の思いに駆られる。

下手様に感謝

 私(恵峰)は、自分のためだけの書道をやっていたら、ここまで長生きはできなかっただろう。皆さんに己のものを伝えたい、残したいという思いが、長生きをさせてくれた。皆さんが(書道で)下手だからこそ、私が頑張れた。下手様に手を合わせる日々である。すぐに上手くなられては、商売あがったりである(笑)。皆さんが今から書道をやっても上手くなるわけがない。書道は、字を上手く書くのが目的ではなく、教養を高め、自分を見つめて自分が自分になる為に行うのである。初心忘るべからずである。上手くなくても丁寧に書けば、心が相手に伝わる。それを続ければ自ずと上手くなる。それが書道の神髄である。書道をやれば、そうでない人と必ず、何かが違ってくる。目に見えないものが、最後に人生の勝敗を分ける。

なしてそげん元気ばってん?

 今の惠峰師の元気さと、書の大量生産ぶりを見ていると、私の方が先のくたばりそうと思えてくる。なしてそげん元気ばってん? 惠峰師と身近に接せて分かった健康の秘密は、小食、ゆっくりと咀嚼をして感謝しながら食べる、間食なし、お酒は紹興酒を盃で1杯だけを3倍のお湯で薄めて飲む。350坪の庭を毎日朝晩30分の掃除・草取りで体を動かす、毎日深夜までの書の仕事、社会への奉仕活動に尽きる。

 2017年7月20日、恵峰書「源氏物語」の写真撮影のおり、お茶の時の惠峰師のお話を聞いて、私の解釈を入れてまとめました。師の一言ひとことが心に沁みいる。感謝。

 

図1,2 馬場恵峰師 2017年7月20日 日中文化資料館

 

2017-07-22

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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