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2017年10月14日 (土)

朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり

 2015年10月22日、全5回の伊與田塾「百歳の論語」(致知出版社主催)の最終講義が品川プリンスホテルで行われた。その講義で一番心に残った言葉が上記である。

 「朝に道を聞けば」とは「天命を悟ること」である。「夕べに死すとも可なり」の境地は、死線を越える苦労をした人しか分からない。いくら万巻の書を読んでも、悟りに境地には至らない。理屈で考える学者には分からない。理屈で考える人は、道を聞いても死んでは意味がないと考える。だからいくら学問を積み重ねても、この境地には達しない。芸術でも職人の世界でも、同じである。単にルーチンワークで年月を重ねるだけでは、この境地に達しない。

 1400年前に造った五重塔は台風が来てもびくともしない。それは天命を知った職人が造った塔であるからだ。ところが、最新技術を駆使したはずの高層マンションが、傾く不祥事が頻発している。何で後から直ぐ露見するごまかしをするのか。これは技術の問題ではない。効率、売上至上主義に走り、道から外れた仕事をした結果である。

 

道と術

 論語に曰く「吾十有五而志干学三十而立四十而不惑五十而天命」。この言葉は単に年齢を重ねれば悟れることを言ってはいない。死線を越えるような無限の苦労の後に閃きがあり、天命を知ることになる、である。

 単に経験の積み重ねるやり方だけだと「術」に終始する。あくまで「道」に達しないと、本物にはなりえない。柔道、書道、茶道、華道等の全てに当てはまる。

 最近、芸術の字とかで、読めない毛筆の字が、テレビ番組の題名や展覧会での書展で、氾濫している。字は読めてこそ存在がある。それを感性で書いたから、読めなくても良いでは、「道」から外れる。それは「書芸」、「書術」であり、「書道」ではない。「芸」とは草冠に「云」である。意味は匂い草のことで、特定に人には良い匂いの意味である。時代が変わり、人が変わるとそれが良い匂いだとは限らない。

 「術」とは小手先のノウハウである。それではその道の本質には達しない。書道について言えば、あくまでも「何時でもどこでも誰にでも分かる字」を書くのが書の「道」である。これは全ての諸芸や、仕事道、生きる道に通じることだ。「道仙」という名に思い馳せると、今回の伊與田先生に言葉が重みを感じる。

 

伊與田覺先生の生き様

 伊與田覺先生は現在100歳(2015年10月)で、体調は決して良好ではない。腎臓は1つを摘出、残った腎臓も20%しか働いていないという。右目は加齢黄斑変性症でほとんど見えない。幸いに左目は小さい字でも読める視力である。心臓がかなり悪い。先生自身でも生きているのが不思議だと言う。移動は車椅子である。そんな体で、月に1回、3時間の論語の講義を半年に亘り、5回続けられて、この10月22日に最終講義となった。

 

天命

 そんな先生の天命が、論語を世に伝える仕事である。10歳から論語を読みだし、この92年間、毎日論語を読んでいるという。先生に言わせると生かされている人生であるという。「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」を実感するという。

 天命に生きる道は、なによりも健康が最優先である。自分の健康を支える周りの人への感謝の念が、自分の体を生かさせてくれる。ご先祖と両親、回りの人への感謝を忘れたとき、その人のお役目が終ったとき、天は命を取り上げるようだ。例えタイムラグがあっても、である。自分の天命は何か、それを考えたい。それが第二の人生の課題である。

 その伊與田覺先生も、2016年11月25日に逝去された。ご冥福をお祈りいたします。

 

図1 恵峰書「迷って百年、悟って一日」の言葉に惚れて入手

図2 恵峰書「あせって」の「せ」の字に魅了されて入手

図3 記念撮影の伊與田覺先生 2015年10月22日

図3 手を振って元気に退場される伊與田覺先生

    後ろで介助者が手を握って支えている

    品川プリンスホテル 2015年10月22日

図4 恵峰先生よりの贈り物

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2017年10月13日 (金)

お墓の文字彫り完成

 自家のお墓の再建で、恵峰先生に揮毫していただいた書体で、墓石の文字彫りが大阪で進められた。その墓石に字を彫る工程が終り、2015年11月14日(土)、松居石材店に完成した墓石が到着した。私は名古屋での授業が終ったあと、雨の中、新幹線を飛ばして(?)、彦根に確認に行った。現地に16:40到着した。

 入庫した墓石は見事の出来栄えで、恵峰先生の字が光っていた。この一体構成の墓石作りに携った方々への感謝の念で一杯である。機械設計者としての見地で、墓石の角の加工や2面の交差線の加工状況に驚嘆である。隅の加工では刃具の固定フランジが干渉するので、最終加工は手仕上げと推定した。石職人の大変な技能と労苦がかかっており半端な仕事ではない。チャイナの石材加工技術の高さに脱帽である。

 当日は大雨であったが、据付工事予定の週明け月曜日・火曜日は天気予報で晴れとのことで、神仏の配慮に感謝である。

 墓石の表には、「黄鶴北尾道仙」、裏面に「享保19年甲寅4月27日に近江で死去」との刻印を再現した。享保19年は1734年で、元禄文化が栄えた時代から少し時が経った時代である。生誕年は元の墓石が風化で判別不能のため、判別ができた「12月17日濃州大垣で生まれる」とだけ刻印をした。2017年9月の今になって、チェリストのティム愛用のチェロが、ほぼ同じ時代に製作されたことを知り、何か因縁を感じた。

 

図1 字彫りが完成した墓石

 

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2017年10月11日 (水)

墓面の揮毫 4/4(型紙とTIMMチェロ)

 馬場恵峰先生に書体の大まかな了承をもらったので、2015年9月30日(水)、松居石材店で、松居店主と二人で、型紙の確認をしながら、鉛筆と消しゴムで少しの修正をすることになった。それでも小1時間ほどの手間がかかった工数となった。書家が揮毫した書をそのまま墓石に彫ると、字の線が細く見えて、貧弱な字体に見えるという。そのため、上下の配置の隙間や線の太さを誇張して太くする必要があるとのことで、二人がかりで修正をした。型紙を作るのがこんなにも大変だとは思わなかった。松居店主も、今はほとんどがパソコンのフォントで作成するので、手書きの字の型紙作りの作業は10年ぶりとのこと。型紙の完成まで、結果として長崎の先生宅に3回、松居石材店に何回も通うこととなった。それでも納得できる仕事ができて良きご縁の巡り合いであった。

 

再修正

2015年10月10日(土)、松居石材店店主より、「黄鶴」の字が傾いているのと、「仙」の字の大きさを修正したとの連絡があり、彦根に出向き確認をした。一つの墓面の型紙を作るのは大変な労力である。難しいお願いを嫌な顔をせず対応していただいた松居さんに感謝です。

 

TIMMのチェロとのご縁

 北尾道仙は、1734年没のご先祖である。能関係の謡いの名手と推定される。2017年9月29日、大垣市の音楽堂で河村先生と共演したドイツのティムさんの愛用のチェロが、300年前の1717年頃に制作されたという。同じ音楽関係でもあり、ちょうどご先祖が活躍した頃に生まれたチェロで、本件の歴史を知り今秋にして、何かご縁を感じた。

 

図1 型紙 松居石材商店にて

図2 型紙 2015年9月18日版

図3 型紙 最終版

図4 生誕300年のチェロを演奏するTIMM(リハーサル)

   チェロの表面の傷跡に300年の歴史を感じる

   大垣市音楽堂にて  2017年9月29日  

 

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2017年10月10日 (火)

墓面の揮毫 3/4 訃報

型紙の最終確認

 2015年9月28日(月)、恵峰先生が扇面に書かれた書の撮影のため、長崎大村市の先生宅を訪問した。その日は8面の扇の書を撮影することになった。この日、墓面の字体の最終確認をしてもらうため、墓面の型紙を持参した。必要なら、最終的に修正していただこうと思っていた。ところが時間は待ってはくれなかった。

 

松本市長の訃報

 恵峰先生は、前日9月27日の深夜10時に、中国3日間の旅から帰宅したばかり。恵峰先生が中国に到着した日の9月25日に、大村市の松本崇市長が急性肝不全で亡くなられた報せがあったという。私が訪問した朝に、今から市長宅に弔問に出かけるとのこと。またかなりお疲れの様子で、型紙の相談するのには気が引けて、出来なかったのが顛末であった。

 

松本市長とのご縁

 松本市長とは2012年の大村市制70周年記念の馬場恵峰書展での祝賀パーティと2013年の馬場恵峰先生県民栄誉賞受賞の祝賀会で二度だけお会いしたことがあるご縁である。享年74歳、まだまだ早すぎる逝去である。その時、恵峰先生ご夫妻から「留守番をお願いします」と言われて、一瞬の判断ミスで、行きそびれてしまった。一緒に弔問に行けばよかったと思ったが後の祭りであった。これもご縁である。松本市長様のご冥福をお祈り申し上げます。

 

図1 大村市制70周年記念の馬場恵峰書展での祝賀パーティで

    2012年12月14日

図2 馬場恵峰先生県民栄誉賞受賞祝賀会で祝辞を述べる松本市長

     2013年12月23日

図3 扇面の書 馬場恵峰書

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2017年10月 9日 (月)

墓面の揮毫 2/4

 2015年8月24日に恵峰先生に書いて頂いた書体を松居石材さんに検討してもらったところ、石材に字を彫った後に、島になる石の部分に薄い所があり、掃除等で力がかかると石が欠ける恐れがあるという。そのため再度、先生に揮毫してもらうため2015年9月11日、長崎に出かけた。途中、広島に寄ったためもあり、新幹線で8時間の旅となった。

 字体の修正以外に、小田の「小」の字がお互い納得できる字体のたどり着くまで5枚ほどの試行をすることになり、大変な仕事となってしまった。上の字数が少なく、段々と多くなっていく書体の字は、字のバランスが難しいという。まだ「小田」は良いが、「一瀬」などは最高の難しさとか。

 最後の最後に先生も私も満足できる字体となった。字体には好みがあり、書く人と見る人で好みも別れ、碑文の字体は一番難しいという。結局、先生も2日かかり、私も4日をかけての墓面の字体作成の仕事となった。だから普通の書家は、碑文の字は嫌がって書かないという。一般的なパソコン文字の書体にすれば、こんな問題は起きなかった。石屋の松居さんも、手書きの書体の墓面作成は10年ぶり以上のことだと言う。恵峰先生の書の墓面となって、ご先祖さまも喜んでおられると思う。そんな手間のかかる慕面の字の作製に、快く多くの時間を割いて頂いた恵峰先生に感謝です。

 

図1 下書き

図2~3 揮毫をされる馬場恵峰先生 2015年9月11日

図4  2015年8月24日(右)に対して、9月11日(左)を書いて頂き、左の書体に決定した。左に決定

図5  試行錯誤での揮毫

図6  最終的に決定した書体

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2017年10月 7日 (土)

墓面の揮毫 1/4

 昭和38年(1963年)建立の自家のお墓が風雪で痛んできたのと、祖母の出の家のお墓を守っていた叔母がなくなりその家が絶えたこと、またお寺の過去帳から1734年没のご先祖のことが発見されたご縁もあって、お墓を改建する決断をした。当時の自家のお墓の墓面の字は、石屋さんお抱えの書家が揮毫していた。しかし今は殆どがパソコン文字での書体で墓石に彫るという。馬場恵峰先生が、碑文の揮毫をされていることを思い出し、恵峰先生に改建する墓面の揮毫をしていただくことを思いついた。恵峰先生に問い合わせて、快諾頂いた。恵峰先生に墓石の字を揮毫して頂くため、2015年8月24日、自宅を朝4時45分に出て、中部国際空港7時35分発のANA371で長崎に飛んだ。

 

碑文の揮毫

 碑文の字は、普通の書家は嫌がってなかなかというか、絶対に書かないという。碑文の字体は芸術の崩した字ではないので、流行の書家では書けない。なにせ碑文は100年も200年も後世に残るので、並みの書家の手に負えるものではない。そんな状況で、恵峰先生の揮毫をしていただけることになったのは、ありがたいことである。

 恵峰先生は、全て表装済みの軸に直接ささっと揮毫をされるので、小1時間くらいでササッと書かれるものと思っていたら、想像を絶する手間と時間をかけて、揮毫をされた。実際の揮毫では、非常に慎重に筆を運ばれたのには新鮮な驚きであった。まず下書きで感触をつかみ、全体のバランスをみて清書である。結局、1日がかりの仕事となってしまった。

 碑文の字は、上の方の字は大きく書く。碑を仰ぎ見たとき、遠近法の関係で、上の字が小さく見えるので、上の字は大きく書かないとバランスが悪いのである。65歳にして初めて知ったことであった。考えてみれば、当たり前のこと。当たり前も実際に体験しないと、理解できない。それが格物致知である。

 

再揮毫

 「黄鶴北尾道仙」と「小田家菩提」の2枚の書を完成させてから、先生と大村市街の食事に出かけ四方山話をした。教室に戻ってから先生は仕事を始められたが、何故か急に、「『小田家菩提』の字体を変えてもう一枚書きましょう」という話になった。ありがたいことで、追加で書いて頂いた行書体でお墓の字を彫ることになった。

 「小」という字は難しい字体である。画数が少ない字はバランスが難しい。小さいという「小」を小さく書くと、バランスの悪い書となる。自分の姓名なのだが、未だに「小田」というサインが満足して書けない。「小田」という字は難しいと先生も言われるので、納得していた。今回、行書で書いていただいて品のあるバランスの取れた書となって、先生に書いて頂だけた幸せを感じた。これも恵峰先生とのご縁があればこそ。

 

神仏のご加護

 8月24日の揮毫の計画は1ヶ月前に決めて、飛行機の予約をしたのだが、当日になって、台風15号が九州に接近することが分かって少し慌てた。危惧どおり、翌日の25日は飛行機が欠航である。当日の8月24日の沖縄行きの便は欠航であった。8月24日の夜は台風の影響で、帰路の飛行機は1時間半も遅れて出発して、結局、自宅に到着したのは、午前0時15分ごろであった。それでも当日に無事帰宅を出来たのは、神仏ご先祖様のご加護をじんわりと感じて感謝をした。1日、行く日がずれておれば、当日の帰宅が出来なかったし、当日、長崎にも行けなかったかも知れない。そうなると、翌日の8月25日にご縁のある丸順の今川順夫最高顧問との面会が叶わなかった。

 

図1~3 慎重に筆を進める馬場恵峰先生 

図4 帰路のANA便

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2017年9月30日 (土)

墓改建開眼法要の色紙

 2015年11月29日、自家の墓改建での開眼法要で、馬場恵峰先生をお招きした。その後の宴席のため恵峰先生が色紙を準備され、開眼法要の宴席で参列者に好きな色紙を選んでいただき進呈した。皆さんに喜んで頂けてよかった。

 

選ぶ言葉には人生への思いがある

 色紙を選ぶのに、その人の人生観や考え方、想いが伝わってくる。「一時一心」の色紙をKさんが選ばれた。Kさんはその書が欲しいなと思っておられたが、私の親戚に遠慮して手を控えていたら、この色紙が残ってKさんの手に渡った。この言葉は仕事に思いをかけた念がある。選ぶべくして、行くべく人に選ばれた色紙である。

選んだ色紙を見るとその人の考え方が透けて見える。若い人は時間を大事にすべきで、「寸陰応惜」の色紙を選んだ。「笑門福来」は、本当に笑っているような「笑」の字が素晴らしい。「光明」の色紙は、姉妹の夫がシベリア抑留で戦死してその姉妹と残された子供を見守った親戚が入手した。

 「迷わずあせらず胸張って」は、以前に、先生の講話に感銘を受けて、私が恵峰先生に揮毫していただいていたもの。今回の色紙とは別だが、気に入っているので掲載する。

 これらの色紙の中には30年前の材料で、現在は入手不能の色紙もある。当日の色紙の一部を掲載します。

 

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2017年9月29日 (金)

書聖 日下部鳴鶴の生き方

 日下部鳴鶴(1838~1922)は数奇な運命に弄ばれた。しかし逆境に負けなかった偉人である。普の人間なら、その境遇に絶望して道を誤ったかもしれない。彼は安政6年(1859)、22歳のとき彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子になり、その長女・琴子と結婚して日下部家を継いだ。万延元年(1860)桜田門外の変で義父・日下部三郎右衛門は闘死する。日下部家の当主が非業に死を遂げたので俸禄が激減して、生活に困窮することになる。明治になり政府に仕える身となり、才能を認められて大久保利通の側近として太政官書記官にまで出世して日本の国づくりに尽力した。大久保利通を父のように慕うが、明治11年(1877)に大久保利通が暗殺された。その暗殺を誰よりも早く目撃したのが鳴鶴自身であった。大久保利通の非業の死の翌年、彼は突如官を辞し一介の浪人として書を志すことになる。

 

馬場恵峰師のご縁

 それは鳴鶴が42歳の決断であった。馬場恵峰師(11代)が窯元を廃業し、書の道に転じたのは43歳の時で、鳴鶴とほぼ同じなのは偶然ではない。論語に曰く「四十而不惑(40歳にして惑わず)」。恵峰先生に窯元廃業の引導を渡したのが鳴鶴の書を手本とした原田観峰師(1911~1995)である。原田観峰師は日本習字の創立者である。

 

政治から芸術の世界へ

 実の父のように慕う二人の非業の死に巡りあう数奇が運命に、鳴鶴はどんなにか嘆いたことか。ドロドロした政治の世界から身を引き、芸術の道に入り、その哀しみを書に昇華した。その結果、日本の三大書家の一人として名を残すことになる。恵峰先生も日本書道界のどろどろした人間模様に嫌気がさし活路を中国に求め、今の業績がある。佛様の人智を超えた差配で、二人の非業の死がなければ、鳴鶴も偉大な書家にはなれなかったのかもしれない。偉大なる仕事をする人間には、それに相応した苦難が、彼を試すために襲いかかる。それなくして、人間の内なるダイヤモンドは磨かれない。

 陰があるから陽がある。陽ばかりの人生はありえない。全てバランスの問題である。そう思うとき、不運に出会ったのは、今までの悪縁の業が消え、新しい運命が開くときと感謝するべきである。そう思い、運命に従えば、佛様が一番良いようにしていただける。

 

お金の舞う世界

 現在の書の世界は、変に崩して読めない字を、これが芸術だとして持て囃されている。日展や他の展覧会も賞を取るのが目的のような「競争」の場と化して、裏でお金が動く世界となっているようだ。芸術に競争という言葉は不似合いである。しかし審査員の気に入られなければ、入選は難しいので、相応のことが裏でドロドロした人間模様が起こりがちである。最近、その裏話の事件が新聞を賑わしたのは記憶に新しい。以前、デパートの画商から叙勲書家の先生の作品だといって、1本の軸を見せられたが、すこしも感動もなく何処がいいのかも分からないが、叙勲の先生の作品だからと百万円だという。これは書道界が作る上げた換金できる手形である。芸術作品ではないと思う。

 恵峰師は、そんな世界を離れ、何時でも何処でも誰にでも分かる美しい字を書くことを心がけてみえる。師は崩して読めない字を芸術だとしては認めない。また金で動く競争社会の日展などには応募されない。賞を取るのが目的で、書を書いて見えるのではない。後世にお手本として残す作品を書いてみれる。その書体は、日下部鳴鶴の書とそっくりである。

 

日下部鳴鶴と原田観峰の写真、経歴等は下記をご覧ください。

日下部鳴鶴(1) http://www.shodo.co.jp/blog/souseki2/2017/05/25/post-125/

原田観峰  https://www.nihon-shuji.or.jp/about/profile.html

 

図1 本来面目 馬場恵峰先生書 2015年 本書のために書いて頂いた

 

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2017年9月28日 (木)

ご縁の破れ窓理論

 惚けの始まりか、認知症の始まりか、単なる運動神経の老化のせいか、2015年11月初旬にバック時に壁にぶつけて自車のバンパーを傷つけてしまった。半年前に悪戯でボディに傷をつけられたため、全面塗装をしたばかりである(警察に被害届を提出)。車歴15年でも全面塗装後は、気持ちよく乗ることができていた矢先のことである。このまま放置しておいても、大した問題ではないが、何か引っかかるものがあり、修理することにした。修理費用で4万円余がかかったが、そのまま放置するより、懐に痛い思いをすることで、今後、細心の注意をすることができると考えての修理であった。

 

運命の家

 その修理が、2015年11月14日に終り、11月15日(日)に納車された。恵峰先生の墓石の字を確認した翌日のことである。たった一つの傷を放置すると、全体が崩壊するという「蟻の一穴」の格言と「破れ窓理論」を思い出して、修理をして正解であったと思う。

 これから思い起こしたのが、ご先祖や周りのご縁の展開での歴史の流れに俯瞰すると、ご縁の風が入ってくる運命の窓が破れていると、家が傾く事象に思い至った。小さな縁を大事にしない人たち、ご先祖のご縁を大事にしない人たちは、破れ窓の「運命の家」に住んでいると思う。破れ窓の在る家には「破れご縁」が入ってくる。悪縁が悪縁を呼ぶ悪魔のサイクルに陥るようだ。逆も真なりで、よきご縁と付き合うと、良きご縁が循環するようで、それを今回のお墓つくりで体感した。

 

ご縁の割れ窓理論

 私の親戚にも両親の23回忌の法事をやらない家があった。七回忌以降の法事はやっていないようだ。そんな考え方だから、その家とやり取りをしても不愉快になったので、付き合いをやめてしまった。それが当方にとってはよき展開であった。「君子悪縁に近寄らず」である。今回のお墓作りで体得した人生の智慧を理論で説明したのが「割れ窓理論」ある。それを私なりに解釈したのが「ご縁の割れ窓理論」である。

 

割れ窓理論

割れ窓理論(英: Broken Windows Theory)とは、軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング(英語版)が考案した。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」との考え方からこの名がある。

 

割れ窓理論では、治安が悪化するまでに次の経過をたどる。

1.建物の窓の破れを放置すると、それが「誰もここを関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。

2.ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。

3.住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなり、環境を悪化させる。

4.凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。

したがって、治安を回復させるには、一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる。警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する、などを行う。

        Wikipediaより 2015年11月18日(再編集)

 

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日下部鳴鶴とのご縁

 2015年7月、松居石材商店の松居さんと話をしていたら、彦根出身の有名な書家がみえて、その特集の小冊子(図2)を見せて頂いた。見れば日本の三大書家の一人とある。彼の義父は、桜田門外の変で闘死をした日下部三郎右衛門である。日下部は井伊直弼公の籠のすぐ側で護衛をしていて、襲撃された時、闘って力尽きて斃れた。日下部は護衛武士の組頭である。桜田門外の変の後、他の彦根藩士と同じく日下部鳴鶴は俸禄が激減し、生活に困窮したという。それでも義父は闘死であるので、日下部鳴鶴は家名を継ぐことができた。(図1)

 今までご先祖の「黄鶴」を探していたご縁で、松居さんが「鳴鶴」という名の書家を教えてくれた。これも縁でしょう。

 

日下部鳴鶴と恵峰師とのご縁

 2015年8月24日、自家の墓石の揮毫をして頂くため先生宅を訪問した時、恵峰先生に鳴鶴の小冊子を進呈した。そうしたら日下部鳴鶴は恵峰先生の師である原田観峰師がお手本とされた方だと恵峰先生はいう。その冊子をお贈りできたご縁のめぐり合わせに驚いた。父の長兄の小田礼一は原田観峰師から書道教授の免許を授かっている。それは恵峰先生が観峰師に師事した時より少し前の時であるので、恵峰先生と小田礼一とは面識がない。礼一の甥の私は恵峰先生に師事している。不思議なご縁である。

 

お盆の萬燈供養

 2015年8月15日、長松院でお盆の萬燈供養の法要があり、初めて参加をした。お盆には、8月13日にお墓にお参りをして、ご先祖の霊を自宅にお連れする。お盆の間、自宅で過ごしていただき15日にお墓に帰る。その時の道案内として古い瓦を使った燈篭でお送りする。それが萬燈供養会である。この歳になって初めて知った作法である。

 萬燈供養会の後の小宴で、隣に座った真下良祐氏(千葉県)が書家で、日下部鳴鶴の話題で話が盛り上がった。そこで長松院の床の間に掛けてある井伊直政公の軸に書かれた書が日下部鳴鶴書であることを教えてもらい驚きである。この20数年、何回も見ているが、そんな意識が無いので全く気がつかなかった。もっとも新任の住職様も知らなかった事実ではある。書のサインである「日下東作」は日下部鳴鶴の若いときの雅号である。

 

図1 「桜田門外の変」時の供揃図 『彦根市市史』より

図2 『日下部鳴鶴コレクション』国宝・彦根城築城400年祭実行委員会発行

2007年3月21日発行 全61頁

図3 長松院 正門

図4 長松院 境内

図5 長松院 萬燈供養 

図6 長松院 萬燈供養 古い瓦を使った燈籠

図7 長松院 座敷 井伊直政公の騎乗姿の書画

図8 井伊直政公の軸の日下部鳴鶴(日下東作)署名

 

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