l3_書天王が描く世界 Feed

2019年2月10日 (日)

人生という飛行プロジェクト

 生あるものは必ず死ぬ。春夏秋冬、始まりがあれば終わりがある。飛行機も飛び立てば、必ずいつかは着陸せねばならぬ。飛行機の離着陸に人生を感じる。

 

飛行はプロジェクト

 旅客機がある飛行場から飛びたち、目的地の飛行場に着陸する飛行は一つのプロジェクト(以下PJ)である。操縦士だけでなく、機関士、クルー、キャビネットアテンダントを含め、10数名のクルーによって遂行される目的を持ったPJである。地上の整備員、管制官等の多くのサポータ全員の協力があって、このPJは完遂する。一つでも、一人でも欠けても完遂ができない。

 多くの支援を受けて、飛行機が全出力を出して飛び立っていく。引力を振り切っての離陸である。その姿は健気である。巡航飛行に入り、高度10,000mを飛ぶ飛行機は、コンパスを使い、目的地を目指す。コンパスが無ければ、何処に行くか分からない。目的地の上空に差し掛かれば、高度を下げ、速度を下げ、フラップ、ギアを降ろして、優雅に静々と大空から降りてくる。

 

着陸の美

着陸には離陸とは違った美しさがある。離陸から巡航、そして着陸に到る過程はまるで一つの人生のようである。人生の旅立ちでは人間としての育成が必要で、どこに志すかが必要で、壮年期は、北極星に相当する己の戒め、使命、志を見つめて歩かないと、人生行路で墜落・沈没する。いくら盛大な人生を送っても、晩年を見据えて行動しないと、惨めな末路が待っている。

 

お墓という飛行場

お墓とは一つの人生を終えて、次世の大空に旅立つための基地である。戒名という来世飛行コードをもらい、佛弟子として佛道を行じるという修行航路を向かう。墓地はその離陸する飛行場なのだ。

 一人で生きてきたつもりでも、多くに人のご縁・支援があって全うできた人生である。飛行機事故の80%は着陸時に起きている。それは人生の終着点で、道を誤る人が多いのに似ている。その事故例は私の家系図にも見受けられる。人生の着陸が近づいてきたのに、速度を落とさず、地面に激突する人もある。荷物(遺産)や燃料を積みすぎて、離着陸での失敗をする人も多い。多すぎるお金が、人生を不幸にする事例に事欠かない。遺産相続争いで、家族の間で炎上するのは、醜態である。それは感謝を忘れ、利己だけを考えた人生の結末である。人は裸で生まれ、裸で死んでいくことを忘れた咎である。

残すのが金だけの人生は哀しい。何のために生まれたのか。それでは授かった天命を知らずに生きたのと同じで、屍の人生である。人生で残るのは、集めたものではなく、与えたものなのだ。人と生まれた以上、稼ぐ人生よりも、与える人生でありたい。

 

河村義子先生の49

 201929日、河村先生のご主人に明日の所要の件で、連絡を取ったら、たまたま明日の210日は義子先生の49日だという。その日の私の所用と触れ合って、その偶然に驚いた。偶然とはいえ、義子先生の霊が私にさよならを言ったような気がした。義子先生を思い浮かべ、頂いた多くの教えに感謝して、手を合わせた。

 河村義子先生の人生飛行は、昨年の聖なる日の1225日に無事着陸して、その後、整備を終えて、新しい飛行コード(聖観院教音義愛大姉)で浄土に向けて離陸した。それも多くの人に送られてである。

 

天の差配

死んだのではない、ただ、お迎えが来ただけなのだ。飛行場の管制官は、必然の業務として、お迎えの離陸の管制をしているだけだ。此の世の運命は必然である。天の差配は人知を超える。私は地上整備員の一人として、義子先生の人生飛行、着陸、離陸の仕事関係で、多くのお手伝いができたことをありがたいと思う。合掌。

 いつか私も人生飛行を終えて着陸して、西に向かって飛び立たねばならぬ。それまでに、やるべきことは多い。やることが多いとは有り難いこと。

1  雨の中でも手荷物の積み込みはある 長崎空港

2

地上クルーの打ち合わせ

Photo_2 地上クルーのチーム活動 セントレア  

5

赤道上のシンガポールから夜を徹して飛行してセントレアに着陸  20151111

6離陸 20151111日  セントレア

2019-02-10   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

企業占い師を診断する

 企業診断士とは、企業の経営を診断する「先生」である。私はその卵の姿を5年間見てきて、占い師と合い通じるものを発見した。自分の体や姿を観て、自分の生き方を診断・改革・改善できず、何が企業診断士かと思う。企業の診断とは、経営診断である。

経営とは、生き物である会社の営みである。その営みは、歴史と現代の世相の絡み合いから生まれる状況である。それを観ようとするなら、身を正さないと、見るべきものも見えない。

人の短処は良く見えるもの。企業診断士である前に、「自分株式会社」を経営する己でありたい。自分の株主は、両親でありご先祖様なのだ。

 

診断士の様相

 肥満体の診断士、だらしない服相の診断士の卵、重箱の隅をつつくような診断士の指導教官等である。自分の体の診断をしてその対策もできない人に、経営の診断などできるわけがない。だらしない服相の企業診断士を顧客が信用するのか。単に教科書に載っている指標だけで、企業を診断しても、その信ぴょう性は薄い。重箱の隅を突っつくような事象だけを捉えて、本筋を外れた診断をしてどうするのか。

 

未来予想

 未来は誰にも分からないが、その姿からおおよその推定はできる。現実の姿は、未来の予告なのだ。それがそんなにも外れた推定ではないことが、60にもなると分かってくる。その結果は、その顔や外観、日頃の行動に刻まれている。責任ある人間なら、己の顔にも責任を持たねばならぬ。顔とは、名刺であり、服相であり、言葉遣いであり、交友関係の顔である。50代の男の顔を観れば、おおよその未来は見えてくる。その言動を観れば、未来は確定である。

 

音を観る

 人の外見や行動は、一つのメッセージを発している。そのメッセージを観るのが観音様である。自分が佛となって、人を観ないと、自分の未来は拓けない。自分の未来は人様が運んでくれる。その人が良縁を運んでくる福の神か、悪縁を運んでくる貧乏神かの見極めをしたいもの。それを見極める力の育成は、自己研鑽しかない。

Photo

  『馬場恵峰書 佐藤一斎著「言志四録」51選集』(久志能幾研究所刊)より

 

    『書天王が描く世界』p60より

2019-02-09   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月 9日 (土)

占いという名の極道

 占いに凝っても運勢は良くならない。神さまは、自分自身を信じられない人には、幸運を授けてくれない。なぜなら、占いは自分が考えることを放棄させるからだ。

 

日本の占い産業

 現在、日本の占い産業は、占い師50万人、年間売り上げ2,0004,000億円の第6次産業とさえ言われている。現代人の占い好きが、このデータに表れている。昭和54年に流行った「天中殺」の和泉宗章の占い鑑定は、半年待ちの予約が必要で、30分間2万円であった。当初30分で1万円(以前は5千円の噂?)の鑑定料は、氏の著作『天中殺入門』が180 万部のベストセラーになって、2倍に値上がりした。人の足元を見られる商売はぼろ儲け?を実証した。これで単純計算すると、年間2億円ぐらいの収入になる。

 だから、やるなら占ってもらう立場よりも、占う側の立場になることだ。占い業は実に儲かる職業である。特に税務署も捕捉不能なのが魅力的? また必要経費、設備投資が大変少なくてすむのも魅力(街の易者は国有一等地をタダで利用可能?)。円高も関係がない。いや円高で迷える羊が増えて、商売繁盛の恩恵が大でさえある。人生において、いつまでも占われる側の受動形では、永遠に浮かばれまい。占いなどは簡単である。米の有名占い師は次のように言う。

 「人の運命を見る時は、30%の直感力と古来伝わる運命術を応用し、後は相手に媚を売ることです」と。

 

占いは乞食の商売

 街頭の易者をつくづく見るに、貧相で学識があるとは見えない風体であることが多く、なぜこんな輩に、人生の重大な相談を持ちかけているのか、他人事ながら心配になってくる。もともと古代中国では易は乞食の職業で、現在のタレント業の川原乞食と同じ類である。現代の易者が日の当たる華やかな場所に、でしゃばるのは気に食わない。

 そもそも占いは現状・未来を予言してくれる(ように見える)が、何ら解決策は提示してくれない。運命を切り開き、決断をするのは自己である。とは言っても、人間とは弱いものだ。つい占いという安易な手法を頼りがちになる。せめて、占いは自分の反省材料に使うべきだろう。なにか悪い掛が出た時には、今の行動の見直しか慎重さを促す神の声と聞くなら、使い道もあろう。

 

神様からの勤務評定

 自分の心に咎めるところがあれば、いつとなく気がうえてくる。すると、鬼神と共に動くところの至誠が、乏しくなってくるのです。そこで、人間は平生踏むところの筋道が大切ですよ。 (喜仙院 談(勝海舟『氷川清話』より)

 

私の恥ずかしい過去

 当時は私も人生に悩み多き時期で、恥ずかしながら時の人であった和泉宗章氏に鑑定をしてもらった一人である。占いに凝ると、考えることがどうしても消極的になる。これでは運命は好転しない。一時期、占いに凝って数十万を投資した私の反省です。

 

「親愛なるブルータスよ。その過ちは、我々が悪い星の下に生まれたからではない。過ちは我々自身の内にあるのだ。」  シェークスピア『ジュリアス・シーザ』

 

古代中国の職業観

 中国古代の占いに「四柱推命」があり、現代でも幅をきかせている。東洋哲学の陰陽道を基本としたこの占いでは、世の全ての事象を陰陽に分けている。それを「四柱推命」で各職業に当てはめると、「正財」と「偏財」に2分される。陽の「正財」とは、世の中で生産を司る仕事を意味する。陰の「偏財」とは、生産に直接寄与しない職業を意味する。例えば医者、学者、兵士、サービス業等である。その最極値の職業は、占い師と河原乞食(タレント)でしょう。どういうわけか、この2つの職業が現代日本で、もてはやされている。なにか狂っている・・・。本来占いとは、裏道でひっそりと息づくもので、表道には出てこないものだ。

 また現代日本では、泥臭く油臭いと思われる製造業が不当に虐げられていて、学生の人気が離散している。表の「正財」の職業が存在して初めて、裏の職業が存在する。現代では、カッコ良く、賃金の高い非製造業(製造業のテラ銭稼ぎの)の職種ばかりが学生に人気がある。主客が逆転したこんな風潮がある日本の未来に、私は憂いを抱いている。

 

占い活用の極意

 占いは使わないにこしたことはない、とういう考え方もある。伝説によると、昔の支那のある皇帝は一旦緩急ある時に備えて、高給を払って占い師を召し抱えていた。しかし、皇帝は死ぬまで占い師から助言を受けることがなかった。つまり皇帝の治世は平穏に終始したのである。これは占いを活用する極意といったものであろう。(千種堅 談『婦人公論 1980.2月号』)

           

占い師の条件

 ・人並み以上の常識・知識・洞察力

 ・豊富な人生経験

 ・人並み以上の体力・精神力

 ・人を引きつける話術(結婚詐欺、アナウンサー以上の技能必要)

 ・最低3つの占いの知識

 

占い師の業

 占い師は、占なわれる人の悪い「業」を受けることになり、精神的疲労は甚大であるという。なにせ客は深刻な悩みを抱いた人が多い。その話を聞くだけでも疲れる。その悲劇のどん底の藁をもすがる気持ちで占い師を頼って来ている当人から、いかようにも解釈できる「鑑定」で、金を巻き上げるから、まともな神経ではやれない。このために体力と精神力のタフさは欠かせない。

 一般に技術者は100を知っても確実な内容の10ぐらいしか表現しないが、文学者は10を知って100を表現するくらい芳醇な創造力があると言われている。占い師はこの微かな情報を、膨大な話にして相手を、納得させる技術が必要とされる。だから占い師を志す人は「ああ言えば、上祐」と言われた氏ぐらいの話術・心臓が欲しいもの。またその本当の運命を読み取っても、商売上であえて口に出しては言わない点に(ペテン師としての)占い師たる奥ゆかしい教養?が見いだせる。

 

占い師の人気急増

 最近の不況・就職難のためか、占い師になりたい人が急増しているとか。その自由業としての立場と収入の多さ、資格がなくてもなれる点が魅力だという。しかし1000人の占い志願者中、プロになれるのは3人だけとの厳しい現実もある。上記の条件を満足する人格・能力なら、どの道に進んでも社会的な成功は間違いない。なにも占い師に成りさがる必要がどこにあるのか。

 だからもし占ってもらうなら、然るべき占い師を選別するために、占い師の人相を鑑定する知恵を身につけてからにすること。それだけの知識と洞察力があれば、占なってもらう必要はないという論理となる。

 

占いは永遠なり?

 街頭や路地裏のうらさびれた易者を見るに、いつも次のことを思う。

「何で自分の将来が占えなかったの? 街の易者にまで落ちぶれて・・・」

 なにせ古代中国では易者は乞食の商売。だから、こんな人には占ってもらいたくない。人生で迷ったら、せめて恩師や人徳ある人に相談するのが賢明な手段である。宗教や占いに走らないこと。これは恐ろしい。これを1995年にオウム真理教事件が証明してくれたのは大いなる功徳である。24年も経った現在でも、新興宗教の跋扈は続いている。オウム真理教の後継団体が、今だ活動を続けている。怖ろしいことだ。目を覚まして、現実を見よう。少なくとも、お釈迦様は預言者ではなかった。

 

2019-02-09   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年2月15日 (木)

今からでも遅くない

 2015年11月29日、堂島の「大村藩蔵屋敷跡の碑」と「雙松岡塾の碑」を見学した後、馬場恵峰先生ご夫妻を川添様の車で伊丹空港までお送りした。恵峰先生が19時10発の飛行機への出発ゲートと通られたのを見送って、新幹線で20時40分ごろ、自車を駐車してある彦根のお寺に戻り、大垣に22時頃帰宅をした。

 しかし最後の場面でミスをしてしまった。お寺に置いた車を出すとき、境内が暗かったためと疲れのためか、境内にある大きな石に後部バンパーをぶつけてしまった。翌日確認をすると、結構大きな傷であり、気持ちがよくないし何かの啓示だと思い、修理することにした。その費用42,000円。僅か1ヶ月に2度のバンパー修理である。

 

バックカメラを追加装備

 その原因は過労もあるが、運動神経の劣化と注意力に低下が大きな原因である。老化すればその補助として老眼鏡が必要なように、車の後ろにも目が必要であると判断して、バックカメラを追加することにした。約33,000円。

 最近の車ならバックカメラは当たり前であるが、車歴15年の老兵にも「新しい目」を導入して、若返えらせた。今からでも遅くない。気がついたときに、打てる手を打つのが私の信条である。

 

佛様からの啓示

 この物損事故を佛様からの啓示と受け止めた。すべては因果応報である。車の設備更新をして、今後の事故防止に備えることが出来るなら安いものかも知れない。バンパーをぶつけるというご縁から、新しい「目」が手に入ったと解釈した。世の中の出来事は、全て解釈のしかたで人生が変わる。

1p1070830

2p1070831

今からでも遅くない

 2015年9月11日、墓面の字を揮毫してもらった日、恵峰先生宅で「今からでも遅くない」という題名の色紙(下書き)を見つけて写真を撮らせてもらった。2016年9月に先生宅を訪問したら、この文面の書が軸と色紙に正式に揮毫されていて、気に入り直ぐ両方とも入手した。人生で、何事でも遅すぎることはない、気が付いた時が、それを始めるのに一番よい時期なのだ。

3039a34481

人生の最大の過ちとは

 何事もその第一歩を踏み出さないことが、人生最大の過ちである。まず一歩を踏み出さないと、何事も始まらない。やってダメなら引き返せばよい。己の背後に死期がせまる。明日は分からないのが、人間の人生だ。やって失敗する後悔よりも、やらないで死期を迎える方が、後悔は大きい。失敗の後悔は、人生の知恵となるが、やらない後悔は、死の床で己を鞭うつことになる。

 問題が見つかれば、まず一声上げないと、何も改善されない。声を上げるのに遅すぎることはない。行政は、市民のことではなく、自分達に都合で物事を運ぶ。声なき声では、現市政に、現状のやり方を認めていると勘違いをさせることになる。それは現状の大垣行政を見て、悟った。それでも、言えば何かが変わる。

 政治の世界でも、先の太平洋戦争の発生は、市民が疑問の声を上げるに躊躇している間に、新聞社が戦争をあおり、突撃ラッパを鳴らしたのだ。戦争の方が新聞社は儲かるからだ。

 私も64歳でグランドピアノを買い、ピアノを習い始めた。67歳で出版の事業を始めた。後悔は、もう少し早く始めればよかったという思いだけである。わが師の馬場恵峰師は現役の92歳。日々、深夜まで書を書きまくり、お呼びがかかれば、中国、ベトナム、ハワイ、日本中を駆け巡っている。中国には240回余も行かれている。それから見れば、私は、鼻たれ小僧。

 少年よ、大志を抱け。老年よ、大始を抱け。その小さな始まりの一歩が、大きな人生の始まりだ。その一歩は小さいが、我が人生には大きな一歩だ。アームストロング船長の気分で)

4039a34431

2018-02-15

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

Blog: http://yukioodaii.blog.enjoy.jp

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年2月14日 (水)

障子を開けてみよ、石の世界は広いぞ

 「雙松岡塾跡の碑」の石は、庵冶石という銘石で、当時の日本では最高で高価な石である。庵冶石は硬く表面が滑らかで、文字を刻んでも400年は風化しないという(業者の言い分で、実際はこんなには持たない)。昭和18年という太平洋戦争の戦争真っ最中で、物資も欠乏してきた大変な時期に、この碑を庵冶石を使って建立した楠本著卯三郎氏(元大阪大学総長)の意気込みが感じられる。

 その碑の存在を調べ、大阪の倉庫に眠っていたこの碑を発見して、その再建に尽力された大村高校同窓会「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を保存する会」の皆様に敬意を表します。

 

世界という視野

 日本の国土は、全世界の陸地面積のうち0.25%の占有率でしかない。その中で採れる最高の石であると誇っても、残りの99.75%の全世界から産出される良品の石と比較すると、確率的にも見劣りがする。我々は井の中の蛙であってはならない。世界にはもっと良い石が存在する。当時としては輸送手段や、採掘技術が未発達であった事情があるが、国産の石というブランド信仰だけで、石材を選定しては不可である。しかし日本の石材店は、国産というだけで割高の石を売っているお店が多いようだ。

 私は自家の墓の再建に当たり墓石の選定では、インド産で一番硬く、吸水率ゼロの石を選択した。日本の最高級の石材よりも固く(比重、圧縮強度)、比較的安価である。吸水率が高いと冬季では、雪や雨で石が吸った水が凍り、その水分が膨張して石を痛める。降雪が多い土地では吸水率の低い石の選定が必要である。

 豊田佐吉翁の言葉「障子を開けてみよ、世界は広いぞ」とは、石碑の石材の選択にも言える。

Photo 上記のデータは石材業者のカタログ値による。公的機関の測定データではありません。

 下図は某記念碑であるが、雪の多い土地なのに予算上で安いという理由だけで、ある銘柄の御影石を使ったが、築15年で表面にヒビが入ってしまい、予算をケチった恥を多くの市民の前を晒している。後世の残る記念碑の石材の選定にはコストだけで決めてはならない。

3img_57211

   築15年でヒビが入った御影石(某記念碑)

碑の拓本

 馬場恵峰先生が「雙松岡塾の碑」の拓本を取ることを川添会長さんに勧められた。そうすれば記録にも残り、後世の人の勉強の糧になるという。師も昔の名筆といわれた石碑も拓本を取って、拓本から昔の名筆を学んだという。

私も今回の墓の改建で、風化して読めなかった墓石の文字を、恵峰先生より拓本のアドバイスしていただいた。大垣拓本同好会に協力を仰ぎ、墓石から拓本を取った。そのお陰で墓に刻まれたが、風雪で読めなくなっていた「黄鶴」の文字が判定できた。それが今回のお墓の建立のご縁となった。拓本を取るという知恵を教えて頂いた恵峰先生に感謝です。

1dsc02009

2dsc02023

  2015年6月1日

 

2018-02-14

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

Blog: http://yukioodaii.blog.enjoy.jp

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年2月13日 (火)

「雙松岡塾の碑」に歴史を学ぶ

 2015年11月29日、大村高等学校関西同窓会の皆さんの案内で、「大村藩蔵屋敷跡」碑を見学後、100mほど離れた大阪検察局の敷地内にある「雙松岡塾の碑」を見学した。この碑は大村藩蔵屋敷跡の碑と同じく、大村高等学校関西同窓会の皆さんが「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を保存する会」として再建した。雙松岡塾は、文久元(1861)年に創立された漢学塾で、尊王攘夷を鼓舞して、後の明治維新の原動力の一つになった。尊王攘夷を鼓舞した塾であったので、幕府に睨まれ僅か半年で閉鎖の憂き目を見た。

 この碑は、大阪市教育委員会より大阪市顕彰史跡第194号に指定されている。史跡の紹介は大阪市のホームページ www.city.osaka.lg.jpで閲覧できる。

 

雙松岡塾の碑の文字

(正 面)雙松岡

(背 面)下記が現代語訳。原文は漢文読み下しで紙面の都合で省略

「雙松岡は松林飯山、松本奎堂、岡鹿門の塾である。三人は皆 昌平黌の秀才であった。文久元年(1861年)11月、玉江橋と田蓑橋の二橋の間にあって堂島川の川面に面して建っていた一軒家でこの塾を開き、尊王攘夷を鼓吹し名声が大いに上がった。しかし最後は幕府の役人から危険視され、圧迫を受けたため翌年五月解散し大坂の地を去った。その後模写して碑表に刻み、併せてこの文を碑裏に記すこととする。」(大村高等学校関西同窓会で現代語訳)

 

 松林飯山(22歳)は、井伊直弼大老が1860年3月3日、桜田門外で討たれたことを急脚便で知り、3月20日付の岡鹿門宛の手紙で快哉を叫び、「井伊大老の十の大罪」を列挙して糾弾している。和親条約を朝廷、列藩と議することなく結んだこと、徳川将軍家後継で多くは一橋公を望んだのに13歳の紀州公を迎えたこと、水戸老公は忠義の人なのに蟄居、幽閉したこと、などなどを挙げている。飯山は大村藩に帰り藩校の五教館で教授(校長)として正論(勤王思想・藩政改革)を説いていたが、大村上小路の自宅近くで凶刃に倒れた。享年29才。

 

 松林飯山は幕末の大村藩士、儒学者、勤王志士である。天保10年2月(1839)生れ、慶応3年1月(1867)暗殺された。29歳。父は医者で松林杏哲。飯山は筑前早良郡羽根戸村に生れ、幼名は駒次郎、後に漸之進、更に廉之助と改めた。飯山は号。

 幼少のころから神童の誉れ高く、3歳で字を書き、唐詩百首を暗誦し、4歳で『大学』を、5歳で『論語』を、6歳で『孟子』を、7歳で『詩経』を読み終えた。その原本も残されている。4歳のときの書「松梅」もあり、5歳で松、菊、桃の漢詩を詠んでいる。

 弘化4年(1847)9歳の時に父に従い大村藩領の蠣の浦に移った。

 嘉永3年(1850)12歳の時に藩の役人にその才能を見いだされ、藩主大村純煕の前で唐詩選の購読を命じられ、一字も誤りなく進講したので、一座のものは驚いた。これにより藩士に取り立てられ、俸一口を賜り、藩校・五教館で学ぶことを命じられた。

 この五教館では一年年長の渡辺昇も学んでいて、飯山に何としても追いつき、追い越そうと「一十百千」と大きく書いて勉学に励んだが叶わなかったという話が残っている。

 嘉永5年(1852)14歳になると、江戸に出て勉学することを命じられ、安積艮斎の塾に入門した。やがて頭角を現し塾生の首席となった。

 安政3年(1856)18歳で幕府の学問所、昌平坂学問所(昌平黌)に入った。ここでもその才能を認められ、20歳にして異例の若さで助教(詩文掛)に任じられた。

 安政6年(1859)21歳で昌平黌を退黌、7年間の江戸での学問修行を終え、3月に大村に帰った。藩主は飯山を上士 (馬廻)に列し、祿60石を給した。更に藩校五教館の祭酒(教授、校長)に任じようとしたが、これは固辞して次席の学頭(助教授)となった。

 万延元年(1860)8月22歳の時、暇乞いをして、大阪への遊学を許された。このあと文久元年(1861)23歳、文久2年(1862)24歳の6月までは京阪の儒学者、勤王志士たちとの交流を密にした。文久元年11月から2年5月までは堂島に塾を開いた。昌平黌の時の親友、三河の松本奎堂、仙台の岡鹿門と3人の共同塾である。塾名を雙松岡(そうしょうこう)とした。3人の名字を一字ずつとって名付けたもの。この塾には多くの若者が集まり学んでいたが、勤王思想の拠点として危険視され、奉行所から閉鎖を命じられ6ヶ月で閉じて文久2年7月に飯山は大村に帰った。同年8月五教館学頭を任じられた。

 文久3年(1863)25歳、1月大阪への出張を命じられた京都の政情探索のためである。6月大村に帰った。10月には五教館祭酒(教授、校長)に任じられた。この頃から学問だけでなく、藩政へも参画するようになった。藩を勤王側にもっていこうと同志を集め勤王三十七士同盟を結成し、その中心人物となった。

 元治元年(1864)26歳、10月藩政改革のため建白書を藩主に上書。賞罰を厳にすること、賄賂を禁ずること、奢侈を禁ずること、礼節を重んずることを進言。11月 用人に。

 慶応元年(1865)27歳、鹿島藩、佐賀藩、島原藩に特使として赴き勤王を説く

 慶応2年(1866)28歳、五教館では「正気百首」「照顔録」等で勤王思想を鼓舞。

 慶応3年(1867)29歳、1月3日 夜 城での謡初式からの帰路自宅前で佐幕派の一味に襲われ暗殺された。家老も重傷を負った。藩主は激怒し、大掛かりな犯人捜索が行われ、佐幕派数十名が捕らえられ、26人が斬首された。この大事件のあと大村藩は勤王倒幕派として纏まり、戊辰戦争では官軍として大津、江戸、会津、秋田まで転戦し、新体制樹立に貢献した。大村藩は明治2年の論功行賞で薩長土に次ぐ3万石を賜った。(松林飯山の項、吉本信之氏著 2015年12月4日)

 

 松本奎堂は、彼は尊皇攘夷の強烈な信奉者であった。彼は頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていた。彼はそれを生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていった。

 松本の出身地三河国刈谷は、徳川家にゆかりの地で、藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であった。しかし松本は早くから尊王の志に目覚め、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾さを憎み、「志を得た暁には墓を暴き、骨を鞭打ってやる」と罵ったという話が伝わる。彼は譜代藩出身で昌平坂学問所の舎長(塾頭)まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であった。それが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも過激な志士の一人であった。

 松本は文久3(1863)年、天誅組の挙兵をして弾を受け戦死した。享年33。辞世の句は「君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ 峰の松風」。法名は天誅院殿忠誉義烈奎堂居士。明治24年(1891年)、従四位が追贈された。(この項、wikipediaより編集)

 岡鹿門は、仙台に帰り、鹿門だけが天寿を全うした。享年82才。

 

明治維新を成就させた小さな波

 勝てば官軍で、明治になり松本奎堂は名誉を回復した。人柄を彷彿とさせる院殿まで付いた立派な戒名である。多くの志士達の血が、明治維新の後ろ盾になった。一つのエネルギーは小さいが、そのエネルギーが集り徳川幕府に無言の圧力をかけ、徳川慶喜の大政奉還になった。一人の力は小さく、幕府により粉砕されてしまったが、繰り返し繰り返し押し寄せる波の如く、幕府に圧力をかけたのだ。雙松岡塾の存在は決して無駄ではなかった。

 今、大垣市も愚政のため衰退の危機に直面している。手遅れになる前に、市民一人一人が、目覚めて行動を起こすべきなのだ。小さな声が集れば、政治を動かせるのだ。大垣市に平成の維新が必要である。

 

佛様の智慧

 松本奎堂の佛になった墓を暴き骨に鞭打つという思想は中国や韓国の思想である。日本の和と寛容を尊び佛の前では全て平等との思想とは相容れないがゆえ、非業の死になったようだ。中国や韓国の死んでも恨みを忘れないという思想には辟易である。彼の国とは距離を置いたほうが争いごとは避けられる。日本人同士でも、非常識な縁なき人と無理につきあうと、身に害が及ぶのを身近に見てきて、今回でその感を強くした。加齢を重ね多少は智慧がついたようだ。

 もし時代の歯車が同調すれば、松本奎堂も吉田松陰神社で吉田松陰の墓の隣に、頼三樹三郎と並んでお墓が建てられたかもしれない。そして大村藩も長州藩のように井伊直弼公を親の敵として憎んだかもしれにない。

 

十念寺を訪問

 彼は刈谷藩の出身で、刈谷市十念寺に墓があり、市内に彼の碑も建立されている。刈谷市は私も前職の会社のときに32年間も過ごした街であるが、今日までこのご縁には気がつかなかった。今回のお墓作りから展開されるご縁のつながりの広がりに驚いている。

 2017年12月7日、刈谷市通学路の調査に行った時、この十念寺を訊ねたが、名鉄刈谷市駅前の案内看板地図にこの十念寺が表示されておらず、迷ってしまって、墓参が叶わなかった。後でお寺さんに聞けば、案内看板地図に載せるにはお金がかかるので表示していないとのこと。十念寺は刈谷藩主の菩提寺である。そんなご恩あるお寺の場所を、刈谷市駅前の観光案内看板地図に載せないことに、最近の歴史を大事にしない風潮に情けない思いがした。刈谷市の教育委員会は何をしているのか。職務怠慢である。私は、この2018年2月末に再度、訪問する予定である。

9l4a8450

 碑の前で雙松岡塾跡の碑を見る馬場恵峰先生

 説明者は保存会代表の川添純雄氏(左側)、吉本信之氏(右側)

      2015年11月29日

9l4a8454

2018-02-13

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年2月12日 (月)

「大村藩蔵屋敷跡」碑の見学でのご縁

 2015年10月8日、私は松本明慶師の造佛された四天王像の写真撮影のため、高野山に行った。その帰りに梅田のNTTテレパーク堂島ビルに寄って、馬場恵峰先生が揮毫した「大村藩蔵屋敷の跡」の碑を事前調査した。肝心の馬場恵峰先生がまだ完成したこの碑を見ていないので、お墓建立の開眼法要の後、九州への帰路の伊丹空港に行く途中で、寄り道をしてこの碑の見学する予定を立てた。

 2015年11月29日、彦根での墓改建の開眼法要が終り、その後の会席を彦根キャッスルホテルで終えてから、15:24米原発の新幹線で梅田の大村藩蔵屋敷跡の碑の見学に向った。新大阪駅まで代表の川添純雄様に車で迎えに来ていただき、現地に向った。前回に来たときは道に迷ってしまったので、現地への案内をお願いした。現地では大村高等学校関西同窓会の4名の方が対応して頂いた。恵峰先生もこの碑を見るのは今回が初めてで、大層喜ばれた。案内をした甲斐があった。

 同じ場所に建つ他の2つの碑と比較しても、恵峰先生揮毫の碑は、伸びやかな優雅な書体で、長く後世に残る碑となった。この建立に携った長崎県立大村高校OBの皆さんも喜んでおられるのが、碑の書体から伝わってきた。

 恵峰先生が自家の墓の字を揮毫するとき、「大きな碑文では、上に位置する字は大きく書く」と言われたのを思い出した。確かに、「大村藩蔵屋敷の跡」の字の「大」のが他の文字よりも大きく書かれている。その文字を下から仰ぎ見ると全体のバランスが良く見えるだ。

9l4a8444

 馬場恵峰先生、三根子先生  2015年11月29日撮影

Edsc_1903t  20151129日撮影 笠野氏撮影 

2018-02-12

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年12月15日 (金)

身体の保全と危機管理

日本は「農薬大国」

 日本は「農薬大国」で、年間約60万トンもの農薬が生産されている。農薬は主に殺菌剤、除草剤、殺虫剤として使われており、これらの中には、発がんリスクの高い猛毒を含む。我々は普段の食事で、体によいと思って食べている野菜や果物と共に、そのような毒物も摂取している可能性がある。実際、日本人の体内脂肪から有機塩素材(農薬)の残留量が世界平均の3倍も検出されたというデータもある。

 日本の年間約60万トンの農薬を一人当たり年間に換算すると、6kgの農薬を「浴びて」いる計算になる。輸入される外国の農産物に使われる農薬や防腐剤を含めると、恐ろしい量の「毒」を浴びていることになる。

 葬儀屋の話によると、昔に比べて日本人は死後腐りにくくなったという。それだけ多くの防腐剤が、食品を通して体に取り込まれているのだろう。

 

日本のがん患者の増加

 1975年の医師数が約13万人、がん死者数は約13万人だった。その後の40年間で、医師数は約3万人増加し、がんに関する研究や治療は格段に進歩したのに、2014年のがん死者数は36万人を越えた。

 1970年代の日本の総医療費は10兆円であった。2010年代に総医療費は40兆円までに拡大したが、がん患者は減るどころか3倍に増えている。

 1950年から2010年までの60年間でみて、平均的に肉の摂取量9.8倍、卵6.3倍、牛乳・乳製品が18.2倍と著増し、米が半分、芋類は10分の1と激減した。つまり、肉・卵・牛乳・バター・マヨネーズなどに代表される「高脂肪」の欧米食こそが現代日本人のがんの大きな原因の一つであると推定される。その証拠として、以前多かった胃がんや子宮頸がんなどの日本型のがんは減少して、肺、大腸、乳、卵巣、子宮体、前立腺、すい臓、食道がんなどの欧米型のがんが著増している。

 

「宇宙根源の理」に反した食物

 畜産品は、利益最優先で牛、豚、鶏の成長を早めるため、成長ホルモンが投入されている。畜舎の中に過密状態で育てるため、伝染病にかからないように、多量の抗生物質が飼料に投入され無理に飼育されている。そうやって育った肉や乳製品を多く食べれば、病気にもなるのは「理」に合っている。「理」に適わない食品が体に毒になる。それは「宇宙根源の理」に反した食物である。

 ハムや加工肉を日に50g以上食べ続けると大腸がんになる確率が、18%増加するとWHOから報告があったばかりである。ハムや加工肉は、防腐剤や添加物が多く入っている。そんな肉を長年食べれば、病気になるのが必然である。

 

食は生命

 2000年も前から漢方医学では「食は生命」としている。贅沢な欧米型の現代食生活を謳歌すると、20年後に病気と言う悪魔のサイクルのご縁を頂く。因果応報である。がんという病気を対処療法で治しても、その根本原因である食生活を直さないと病気は治らない。気づいた時には遅いが、遅くても、一日でも早く食生活を正すのが、ご先祖へのご恩返しである。

 

2017-12-15

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年11月19日 (日)

老いて学び

 人間の成長とは、出来ないことが出来るようになることではない。加齢を重ね、昔できたことが出来なくなった自分を発見して、その問いに答えることが、人間の成長である。成長とは過去の自分を捨てることである。佛像彫刻においても、材料の多くを削って捨てなければ、真の佛の姿は現れない。削り捨てるべきは、厚い自分の殻である。それを捨てるには多大な苦痛が伴う。

 人は加齢という佛力によって、持っていた資産(若さ、体力)が剥ぎ取られて、新しい自分が顕在化する。駿馬も老いれば騾馬に劣る。しかし裸になった自分に、新しい真の自分を発見する。今まで固定資産だと思って持っていたのは人生会社のバランスシート上の流動資産であった。時期がくればそれは不良債務に変貌する。それに気がつくのが成長である。

 

人生バランスシートの劣化

 還暦を迎えて国家試験の受験に挑戦していた。その過程で、人生バランスシト(自分の体・脳・心という資産)の劣化が明らかになった。若い頃の記憶力なら相応の努力をすれば、60点の合格点はなんとか取れるはずだが、老化劣化した記憶力では、同じ間違いを繰り返す醜態を体験した。目を酷使するので、若い頃には問題なかった目の障害が顕在化した。その原因の表面的症状は高血圧に現れていた。血管内部にコレステロールのカスが付着して血流が流れにくくなり、高血圧となっている。同じ現象が脳内の血管にも起こっているはずで、若い時のような頭の血の巡りの良さが無くなっている。体の中で網膜は一番弱い血管で、長い間、過酷な使用をしたため、目の網膜の血管の流れに支障がでる網膜の病気となった。その結果、試験結果が若人に劣ることになった。

 

人生バランスシートの改善

 その治療として血圧の降圧剤を飲むのは対処療法である。その根本原因を特定し、その対策の治療を始めた。血管の内部が細くなっているので、血圧を上げて血を流そうと体が動いているのに、血圧を下げては、血の巡りも悪くなるはずである。そのため医師から処方される降圧剤は服用するが、血管の内部のつまりを無くすための改善行動(食事・運動・生活スタイル)を真剣に取組んだ。1年程の取り組みで、相応の効果が見られるようになった。

60年かけて酷使してきた人体という組織は、それ相応の時間をかけて経営改善を施さないと、元には戻らない。今までの宮仕えで、過度な長時間労働、睡眠時間の不足、精神面での痛めつけ、体に良くない添加物まみれでカロリー過多の外食や不規則な食生活で、心身を痛めつけていた。このままは道半ばで倒れた多くの仲間の後を追うことになると気がついた。

真因を解明して対処

 病気の真因を完全に元に戻すのは無理だが、その根本原因が分かれば、対処は可能である。何もせずに医師の処方する降圧剤だけを服用していては、つるべ落としのように体が衰退する。国家資格受験という過度な負荷をかけて、体・脳・心の問題点が判明した。体の異変の根本原因が判明したのが、年老いて学びに挑戦した最大の成果であった。そのまま放置すれば、失明、心筋梗塞、脳梗塞に罹患した恐れが高い。今でもその危険性はあるが、それを認識して生活スタイルの改善に取組んだので、その危険性がかなり低減したようだ。ご先祖から頂いた命は、学び続けて後進に何かを残すために使いたい。

 

少にして学べば壮にして為すこと有り。

壮にして学べば老いて衰えず。

老いて学べば死して朽ちず。   佐藤一斎著『言志四録』

 

 青少年時代に学べば、壮年になって為すことがある。

 壮年時代に学べば、老年に なって気力が衰えない。

 老年時代に学べば、死んでもその業績は朽ちない。

 

Photo 馬場恵峰書 実践至道  2008年

2017-11-19

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年10月21日 (土)

和敬静寂

 和敬清寂とは、茶道の心得を示す標語であるが、もともとは禅の言葉でもある。茶道の祖といわれる村田珠光が、足利義政から茶の精神を尋ねられたとき、「和敬静寂」と、答えたという。この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分とされる。茶道と禅を極めた井伊直弼公が好んだ言葉でもある。

 その意味は、人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味である。特に千家ではこの標語を千利休の定めた「和」、「敬」、「清」、「寂」を表す「四規」として重要視している。四規「和敬清寂」の4つの文字の中に、お茶の心がこめられている。

 

「和」とは、口+禾(音)で、音符の禾は、会に通じて、遇うの意味である。人の声と声とが調和をして、なごむの意味を表す。和とは二つ以上の数を加えた値という意味もある。人が出会うご縁は、その時には良い縁もあれば悪い縁もある。両方のご縁に出会って人生である。良い縁ばかりの人生はありえない。悪縁が逆縁の菩薩となって人を鍛えることになる。

「敬」とは、攵+苟(音)で、苟は髪を特別な形にして、身体を曲げ神に祈る様をかたどる。攵は、ある動作をするで、お互いに敬いあうという意味である。敬を持って来たご縁をありがたく受け止める。「敬縁」こそが人生修行である。

「清」とは、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるという意味である。すべて修行と思えば、何事も受け止められる。

「寂」とは、宀+叔(音)で、屋内がいたましく、寂しいの意味を表す。死の意味もある。安らかとか、どんな時にも動じない心を表す。お茶を飲むとき、お点前のとき、また、お客になったとき、お招きをしたときなどに、この「和敬清寂」を念頭に行するのが茶道である。

 

和敬清寂:宋に留学した大応国師が帰朝した際、将来した(持ち帰ること)劉元甫(りゅうげんぽ)の「茶道清規」を抄録して「茶道経」と名付けて刊行した。それによると茶禅儀の創始者は守端禅師で、その門下元甫長老が和敬清寂を茶道締門と定めて茶道会を組織した。これが和敬清寂の起源であるという。(「茶道辞典」より)

 

一期一会

 和敬清寂と併行して使われる言葉が「一期一会」である。全ての事象の出逢い、お客様との出合い、接遇は、無私に心で、分け隔てなく、平常心で接するのが、禅の心である。そうすれば正しい判断と正しい行動ができる。それ故、井伊直弼公はこの言葉を好んだのだろう。それは長い間、直弼公が部屋住みとして冷遇された境遇に置かれた自身への戒めの言葉でもあったようだ。冷遇された境遇へも、分け隔てなく、自身への修行として捉えた直弼公の心であろう。

 ご縁があり、恵峰先生にこの書を楠の板材に書いていただき、お世話になっている長松院に2015年9月18日、奉納した。

 

図1 「和敬清寂」 馬場恵峰書 2015年晩秋

図2 長松院 お茶室 2015年9月18日

図3 板取をする馬場恵峰先生

図4 下書き     2015年9月11日

    これは当初の材木。もっと良い木があったので変更された。

1039a09701

2img_5949

3p1070174

4p1070177  

2017-10-21

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。