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2021年7月25日 (日)

人生とお墓の耐震対策(1/2)

 

 東南海地震が数十年後には起きることが確実視されている。数十年後、私が、浮世から隠遁し、平穏に納骨室内で眠っているのに、住処のお墓が倒壊しては大変である。人生は生きている間より、死んだ後の方が長いのだ。お墓を改建した本人として責任問題である。そうなっては、ご先祖様にも申し訳ない。

 現在住んでいる家は築40年であるが、5年がかりで耐震補強のリフォーム工事をして耐震強度0.4から1.0に上げた(耐震基準では1以上が必要)。それにかかった合計費用は新築した方が安かった。その件が頭にあり、お墓を改建するにあたり、耐震対策を検討した。

 

耐震の為の本体構成

 阪神淡路大震災の時の墓地の被害状況を写真で見て、耐震構造のお墓にすることにした。石と石の間に心金を入れることで、倒壊防止になるとのこと。ところが松居石材商店の家のお墓が一体構成のお墓となっているのを見学して、一体構成のお墓構成に変更した。

 最初は、小田家のお墓だけの予定で進めたが、成り行きで3基のお墓全て一体構成に変更にした。価格が3倍に跳ね上がったが、トヨタの石田退三氏の言葉「悪いことに使うのでなければ、お金は何とでもなる」を思い出して、決断した。

 一体構成の墓石は全国で6基ほど存在するが(2015年当時)、3基全て一体構成の墓は、本邦初とのことになった。意図して本邦初にしたわけではない。これもご縁である。

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 阪神淡路大震災後の住吉墓地(日本石材工業新聞)

一般的な耐震構成

 下図は一般的な耐震構成である(松居石材商店のカタログより)。阪神淡路大震災以降に採用され出した構成である。それでもまだ半数にも実施率は達していない。普通のお墓はただ置いてあるだけの構成である。

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石屋さんのこだわり

 供養塔の製作にはエピソードがある。製作は中国の石屋である。残念だが、現在は中国の方が、石の加工技術は上である。石屋の松居さんがその仕上がり具合を確認のため中国に出張した。しかし現地で確認したら、供養塔の球面部の出来が悪かったという。どうしても納得できず、中国の石屋とやり合って結局作り直しとなった。供養塔が一体構成なので、球面部だけ作るわけにはいかない。最初から全部製作し直しである。えらいこっちゃ。

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 加工が終わり中国から入庫した墓石。これから字を彫る。三基とも一体構成。

   2015‎年‎10‎月‎21‎日(大阪の石材店で)

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一体構成の供養塔

 

通気穴

 お墓はお骨を土に還す装置である。その中が暗く湿気が多いのは、ご先祖様に申し訳なかろうと、納骨室の側面に通気口を空けることにした。ご先祖様の霊もこの通気口から出入りができるとの意図である。これは松居家菩提のアイデアを借用した。(将来、私もここから現世に遊びに行ける?)

 松居家墓の通気口はアルミ製の蓋である。松居家の墓石は白系の御影石である。それに対して当家の墓石が黒系なので、通気口の蓋が白っぽいアルミ製の蓋では、違和感があるため、蓋を同じ石材に材質を変更した。なおかつ、豪雨で側面からの雨の浸入にそなえて、通気穴の中央部に堰を設けた。お骨が水浸しになっては、辛かろうと思っての対策である。これは長年、機械設計・開発に携り、機械内部への切削液の浸入防止で苦労した経験があってこと。Photo_4 通気穴の中央部に堰を付けた

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 通気穴に蓋をした状態

 

 お墓の大きさ

 現状の自家の竿石サイズは9寸(約27.3㎝)であるので、その大きさを踏襲した。9寸は一般的なお墓の大きさである。それにあわせて供養塔、神道式の墓石の大きさを決めた。これにより供養塔と道仙氏のお墓が現状より大きくなった。

 2021-07-25   久志能幾研究所通信 2100  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年7月21日 (水)

墓の納骨室は、人が土に還るための宇宙船

 

 今回(2015年)改建したお墓の文字は、馬場恵峰先生に書いて頂いた。先生には、ご快諾して頂いた。普通の書家は、お墓や石碑等への揮毫は、永遠に残るので嫌がり、まず書いてくれない。恵峰先生に揮毫していただいたことは、ありがたいことです。

 馬場恵峰先生のご先祖は、武田家の武田四天王といわれた馬場信春公である。武田三代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。井伊家の赤備えは、もともと武田信玄軍団の赤の装備に由来する。徳川家康が、徳川四天王と称された井伊直政の武功を称えて、赤備えを許したというご縁である。

 

納骨室内部に梵字を彫る

 お墓の納骨室内の五面に梵字を彫ることにした。ご先祖様に安らかに眠っていただく環境を作るためである。何時かは自分も入る寝室である(予定では38年後?)。

 この発想は、2015年3月12日に馬場恵峰先生宅で、三重塔と五重塔の写真撮影をした時のことが頭にあり、今回の発想となった。その時は今回のお墓建立の話は全くない状態である。これも恵峰先生とのご縁の賜物である。さすがに石芝台の狭い内部側面に般若心経の字を彫るのは難しく梵字とした。

 

 納骨室内の5面に刻む梵字は納骨室内が一つの浄土であることを象徴する文字である。下図のように梵字を5面に配置することで、金剛界曼荼羅の世界を作る。

 供養塔で外側に梵字を配置した例は多いが、内部に梵字を配置した事例は本邦初ではないかと、石屋さんは言う。完成してお墓を封印すれば、納骨室内部は見えない。これは私のこだわりである。

 これは恵峰先生宅で、三重塔と五重塔の内部に書かれたお経の撮影をして思いついた事項である。恵峰先生とご縁が無く、この三重塔と五重塔に出会わなければ思いつかなかった。恵峰先生とのご縁に感謝である。

 

お墓は人が土に還る宇宙船

 納骨室内に敷いた土は山土である。お墓とはお骨を土に還す装置である。土の上の置かれたお骨は、80年経つと自然と土になる。お骨を納骨用の陶器の壺に収めただけでは、土に還らない。お墓は浄土へ旅立つ宇宙船なのだ。

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納骨室内の梵字

 納骨室内の側面まで磨いているので製作工数が大変である。普通は、納骨室は外から見えない場所なので、磨いて仕上げることはない。その分、コストが上がるから、石屋さんはやらない。6年後の今(2021年)、これを回想して、よくやったと呆れる思いである。今でもやっておいてよかったと思う。将来の自分の居場所を造ったのだ。ご先祖様も喜んでいただける。

 今、このお墓を作ろうとしても、やれない。馬場恵峰先生は今年亡くなられたし、私の体力も気力も金力もない。新型コロナ禍で外国から材料も輸入できない。このお墓の建立の打ち合わせの為、石屋さんは数回、中国に出張された。思いついた時、やるべきことをやってよかったと思う。

 

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三重塔と清龍寺・寛旭和尚から贈られた観音像(2014年6月26日)を納めた三重塔(恵峰先生宅で撮影 2015年3月12日)

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 恵峰先生と管主寛旭和尚       

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寛旭和尚は将来の中国仏教界のトップに立つ方  福田琢磨氏撮影

 

 2021-07-20   久志能幾研究所通信 2095  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月15日 (土)

自分を見る目

 

 下記は馬場恵峰先生89歳(2015年)の時のエピソードである。

 

 恵峰先生は、原田観峰師より「自分を外に放り投げて、自分を外から眺められる人間になれ」と指導されたという。自分を客観的に見つめることの難しさは、己に欲がある限り困難を極める。

 

 高野山開山1200年の年に納佛された四天王は、その中門を通ると、上から自分を睨みつける四天王の目つきに圧倒される。そんな目で、自分の行動を見つめるのも、道を誤らない方法であろう。

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 松本明慶大仏師作 広目天  高野山中門 2015年4月25日撮影

 

自己への問い

 欲に任せて生きていけば、利己の花しか咲かない。縁ある花は開かない。欲無くして生きては、花も咲かないし、実も結ばない。欲を無くしたら、人間ではない。せめて良き欲を持とう。

 「花を開かせたなら、実を結ぶ人間になれ」と恵峰先生は耳にたこができるほど毎回、力説される。

 

 自分を外から見て、上から観て、次のように問いかけられたらどう答えるか。

 「あんたは何のために生きているのか? 何の花を咲かせたいのか? どんな実を結びたいのか? あんたいくら若くても、何時かは(50年後?)あなたも死ぬ身だ。今からどう生きるのだ。死ぬとき、今のままで悔いはないのか?」

 

自分の過去の境遇

 私の家のお墓を作る過程で、自分とご先祖と回りの親戚の葛藤や軋轢に接することが多くあった。なぜ、あの親戚達は愚かな行動を取るのかが不思議であった。家系図を頭の隅に置き、自分を離れて客観的にその状況を観察すると、彼らの生い立ち、生まれ育った環境、現在に状況が見えてきた。そして自分がよき親、よき師、恵まれた環境で生かされてきた状況が分かった。両親ご先祖に手を合わさずにはおられない。還暦を過ぎ、お墓を作って新たに得た感慨である。

 

恵峰先生の最後の言葉

 その恵峰先生の言葉で最近多いのが、「私も89歳で、何時までも皆さんにお話が出来るわけではない。だからこそキツイ言葉も吐くが許して頂きたい」である。当日の午前中に国立病院で定期診察に行かれて、異常なしとの診断を受けての言葉である。89歳の御歳で血圧も正常との驚異的な健康体である。それでも80歳の時に初めてお会いしたときの若さに比べれば老いられた。

 

 「何時までもあると思うな、親と金」は、全ての森羅万象に通じる。万年の寿命と思われたお墓にも100年ほどの命しかないことを、今回のお墓つくりで思い知った。ましてや生身の人間の命は儚い。だからこそ今の命を大事にして生きるべきだとの思いを強くした。少しでも恵峰先生から多く学んでおきたいと思う。

 2015年12月14日、恵峰先生宅を墓開眼法要のお礼挨拶と先生の書の写真撮影、書道教室参加のため訪問した。その夜が月書会の忘年会があり書道教室はお休みとのことで、急遽、忘年会に参加をさせていただいた。その忘年会での恵峰先生の挨拶で、上記の原田観峰師の話を聞かされ上記に思い至った。

 

  次図の歌の意味は、「月松会に集う皆さんは鶴と亀なんだ。心技を修めて、体の栄養だけではなく、頭の栄養を永久の壽の糧として欲しい」である。

 この歌を当日の朝、忘年会に参加するお弟子さんのため15枚の色紙に自作の和歌を揮毫された。15枚の色紙は全て書き方が異なって書かれた。

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   恵峰先生宅で見つけた色紙  2015年12月14日

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  忘年会での挨拶   2015年12月14日   「天新」にて

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やまざとに 

集う月松 

鶴亀は 

心技おさめて 

永壽の糧たり

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忘年会で色紙の説明をされる恵峰先生  20151214

2021-05-15  久志能幾研究所通信 2020 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月13日 (木)

「和敬静寂」を奉納

 

 和敬清寂とは、茶道の心得を示す標語であるが、もともとは禅の言葉でもある。茶道の祖といわれる村田珠光が、足利義政から茶の精神を尋ねられたとき、「和敬静寂」と、答えたという。この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分とされる。茶道と禅を極めた井伊直弼公が好んだ言葉でもある。

 その意味は、人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味である。特に千家ではこの標語を千利休の定めた「和」、「敬」、「清」、「寂」を表す「四規」として重要視している。四規「和敬清寂」の4つの文字の中に、お茶の心がこめられている。

 

 「和」とは、口+禾(音)で、音符の禾は、会に通じて、遇うの意味である。人の声と声とが調和をして、なごむの意味を表す。和とは二つ以上の数を加えた値という意味もある。人が出会うご縁は、その時には良い縁もあれば悪い縁もある。両方のご縁に出会って人生である。良い縁ばかりの人生はありえない。悪縁が逆縁の菩薩となって人を鍛えることになる。

 

 「敬」とは、攵+苟(音)で、苟は髪を特別な形にして、身体を曲げ神に祈る様をかたどる。攵は、ある動作をするで、お互いに敬いあうという意味である。

 敬を持って来たご縁をありがたく受け止める。それが人生修行である。

 

 「清」とは、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるという意味である。すべて修行と思えば、何事も受け止められる。

 

 「寂」とは、宀+叔(音)で、屋内がいたましく、さびしいの意味を表す。死の意味もある。安らかとか、どんなときにも動じない心をあらわす。

お茶を飲むとき、お点前のとき、また、お客になったとき、お招きをしたときなどに、この「和敬清寂」を念頭に行するのが茶道である。

 

一期一会

 併行して使われる言葉が「一期一会」である。全ての事象の出逢い、お客様との出合い、接遇は、無私に心で、分け隔てなく、平常心で接するのが、禅の心である。そうすれば正しい判断と正しい行動ができる。

 それ故、井伊直弼公はこの言葉を好んだのだろう。それは長い間、部屋住みとして冷遇された境遇に置かれた自身への戒めの言葉でもあったようだ。冷遇された境遇へも、分け隔てなく、自身への修行として捉えた直弼公の心であろう。

 

和敬清寂(わけいせいじゃく):宋に留学した大応国師が帰朝した際、将来した(持ち帰ること)劉元甫(りゅうげんぽ)の「茶道清規」を抄録して「茶道経」と名付けて刊行した。それによると茶禅儀の創始者は守端禅師で、その門下元甫長老が和敬清寂を茶道締門と定めて茶道会を組織した。これが和敬清寂の起源であるという。(「茶道辞典」より)

 

 ご縁があり、恵峰先生にこの書を楠の板材に書いていただき、お世話になっている菩提寺に2015年9月18日、奉納した。

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 菩提寺 お茶室  2015年9月18日

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  馬場恵峰先生   2015年9月11日  

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     下書き     2015年9月11日

2021-05-13 久志能幾研究所通信 2018 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

     

2021年1月20日 (水)

自分を見る目を持て

 

 馬場恵峰師は、原田観峰師より「自分を外に放り投げて、自分を外から眺められる人間になれ」と指導された。自分を客観的に見つめることの難しさは、己に欲がある限り困難を極める。

 

 高野山開山1200年の年に納佛された四天王は、その中門を通ると、上から自分を睨みつける四天王の目つきに圧倒される。そんな目で、自分の行動を見つめるのも、道を誤らない方法であろう。欲に任せて生きていけば、縁ある花も開かない。「花を開かせたなら実を結ぶ人間になれ」と恵峰先生は耳にたこができるほど毎回、力説される。

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  高野山中門 増長天  松本明慶大仏師作  2015年4月15日撮影

 

 お墓を作る過程で、自分とご先祖と回りの親戚の葛藤や軋轢に接することが多くあった。なぜ、あの親戚達は愚かな行動を取るのかが不思議であった。家系図を頭の隅に置き、自分を離れて客観的にその状況を観察すると、彼らの生い立ち、生まれ育った環境、現在に状況が見えてきた。そして如何に自分がよき親、よき師、恵まれた環境で生きてきたかが分かるにつれ、両親ご先祖に手を合わさずにはおれない。還暦を過ぎ、お墓を作って新たに得た感慨である。

 

89歳の教え

 その先生の言葉で最近多いのが「私も89歳で、何時までも皆さんにお話が出来るわけではない。だからこそキツイ言葉も吐くが許して頂きたい」である。当日の午前中に国立病院で定期診察に行かれて、異常はないとの診断を受けての言葉である。89歳の御歳で血圧も正常との驚異的な健康体である。それでも80歳の時に初めてお会いしたときの若さに比べれば、見た目でも老いられた。

 「何時までもあると思うな、親と金」は、全ての森羅万象に通じる。万年の寿命と思われたお墓にも100年ほどの命しかないことを、今回のお墓つくりで思い知った。ましてや生身の人間の命ははかない。だからこそ今の命を大事にして生きるべきだとの思いを強くした。少しでも恵峰先生から多く学んでおきたいと思う。

 

2015年忘年会

 2015年12月14日、恵峰先生宅を墓開眼法要のお礼挨拶と先生の書の写真撮影、書道教室参加のため訪問した。その夜が月書会の忘年会があり、書道教室はお休みとのことで、急遽、忘年会に参加をした。その忘年会での恵峰先生の挨拶で、上記の原田観峰師の話を聞かされ上記に思い至った。

 次図の歌の意味は、「月松会に集う皆さんは鶴と亀なんだ。心技を修めて、体の栄養だけではなく、頭の栄養を永久の壽の糧として欲しい」である。

 この歌を当日の朝、忘年会に参加するお弟子さんのため15枚の色紙に自作の和歌を揮毫された。15枚の色紙は全て書き方が異なって書かれた。

 

5年後

 5年前、「何時までも皆さんにお話が出来るわけではない。」と言われた馬場恵峰師は今年の1月1日にご逝去された。死の直前、不吉な予感を覚えて、九州に飛び、直前に数回お会いできたのがせめての救いである。三根子先生もその前年の3月に突然に亡くなられた。ご冥福をお祈り申し上げます。

 何時かは己も死ぬのだ。それが師の最期の教えである。師は最後まで後進に残す作品作りに没頭し、弟子の教育に邁進し、自身の人格向上に精進された。中国に自費で250回以上も行かれ、民間の日中友好に尽力された。縁あって花開き、実を結ぶことを後ろ姿で後進に教えられた。

 己でも後40年は生きられないのだ。せめて「花を開かせ実を結べる人間」になれる」ように、それに一歩でも近づくように精進をしたい。それが先生への供養である。

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 忘年会で色紙の説明をされる恵峰先生   2015年12月14日

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  恵峰先生宅で見つけた色紙       2015年12月14日

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 やまざとに  集う月松鶴亀は  心技おさめて     永壽の糧たり

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  忘年会で色紙の説明をされる恵峰先生     隣は三根子先生

 2015年12月14日

2021-01-20 久志能幾研究所通信 1895  小田泰仙

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2019年3月 6日 (水)

豪徳寺に参拝(1/3)

 20151012日、弘前市の新戸部八州男社長を訪問した後、翌日、豪徳寺を訪問して、井伊直弼公のお墓所と日下部鳴鶴の墓所に参拝した。

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豪徳寺の由来

彦根藩二代目藩主井伊直孝公が豪徳寺(東京都世田谷区)の近くを通りかかった時、猫が手招きをしたため、お寺に入ったところ、丁度激しい雷雨が降りだし落雷の難を危うく逃れたという逸話がある。そのため和尚の法話を聞くことができ、後に豪徳寺を井伊家の御菩提所としたといわれる。一説には招き猫発祥の地ともされている。

豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置いている。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。

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   『書天王が描く世界』 p36より

 

2019-03-06  久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月11日 (月)

身体の保全と危機管理、がん増加の真因

日本は「農薬大国」で、年間約60万トンもの農薬が生産されている。農薬は主に殺菌剤、除草剤、殺虫剤として使われる。これらの中には、発がんリスクの高い猛毒を含む。我々は普段の食事で、体によいと思って食べている野菜や果物と共に、そのような毒物も摂取している恐れがある。日本人の体内脂肪から有機塩素材(農薬)の残留量が世界平均の3倍も検出されたというデータもある。

 日本の年間約60万トンの農薬を一人当たり年間に換算すると、6kgの農薬を「浴びて」いる計算になる。輸入される外国の農産物に使われる農薬や防腐剤を含めると、我々は恐ろしい量の「毒」を浴びている。

 

ガン患者の増加

1975年の医師数が約13万人、がん死者数は約13万人だった。その後の40年間で、医師数は約3万人増加し、がんに関する研究や治療は格段に進歩したのに、2014年のがん死者数は36万人を越えた。

1970年代の日本の総医療費は10兆円であった。2010年代に総医療費は40兆円までに拡大したが、がん患者は減るどころか3倍に増えている。

 1950年から2010年までの60年間でみて、肉の摂取量9.8倍、卵6.3倍、牛乳・乳製品が18.2倍と著増し、米が半分、芋類は10分の1と激減した。つまり、肉・卵・牛乳・バター・マヨネーズなどに代表される「高脂肪」の欧米食が現代日本人のがん増加の原因の一つであると推定される。その証拠として、以前多かった胃がんや子宮頸がんなどの日本型のがんは減少して、肺、大腸、乳、卵巣、子宮体、前立腺、すい臓、食道がんなどの欧米型のがんが著増している。

 畜産品は、利益最優先で牛、豚、鶏の成長を早めるため、成長ホルモンが投入されている。畜舎の中に過密状態で育てるため、伝染病の予防で多量の抗生物質が飼料に投入され無理に飼育されている。そうやって育った肉や乳製品を多く食べれば、病気にもなるのは「理」に合っている。「理」に適わない食品が体に毒になる。それは「宇宙根源の理」に反した食物である。

 ハムや加工肉を日に50g以上食べ続けると大腸がんになる確率が18%増加するとWHOから報告があった。ハムや加工肉は、防腐剤や添加物が多く入っている。そんな肉を長年食べれば、病気になるのが必然である。

2000年も前から漢方医学では「食は生命」としている。贅沢な欧米型の現代食生活を謳歌すると、20年後に病気と言う悪魔のサイクルのご縁を頂く。因果応報である。がんという病気を対処療法で治しても、その根本原因である食生活を直さないと病気は治らない。気づいた時には遅いが、遅くても、一日でも早く食生活を正すのが、ご先祖へのご恩返しである。

データは2016年当時。 『書天王が描く世界』(全246頁)p220より

 

2019-02-11   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

縁は正義を嫌う

--  価値観の相違を乗り越えて

 正義を通すと、人は鬼にならざるを得ない。お互いが相手の価値観を排除しあうから、戦いとなる。お互いが阿修羅ごとき戦う神となると、相手には悪魔のごとき所業を犯すのが常である。お互いに価値観を受け容れて許容する心が仏心である。全て受け容れるから海の如く大きな器ができる。佛教は神仏融合を含めて包容力があるから日本の「和」の精神にあって受け容れられた。一神教は、排他的な思想が濃いため不幸なご縁を作り出す。聖徳太子の憲法17条は、和の精神である。

 

 自佗は時に随うて無窮なり。海の水を辞せざるは同事なり、是の故に能く水聚りて海となるなり。(修證義)

 

お釈迦様は2500年前、自分が生まれ育った国を他国に滅ぼされる憂き目を受けている。その際、お釈迦様は他国の軍を前にして3回、座って止めようとした。しかし、4回目は止めることをせず、他国に攻め滅ぼされた。お釈迦様は、武力に対して、武力ではなく対話と行動で止めようとした。

浄土宗を開いた法然上人は、幼少期に武士であった父親を敵対する者によって殺される経験をしている。父は死の直前に若き法然上人に対し、「敵を恨んではならない。これは前世における行いの報いなのだ。もし、おまえが恨み心をもったならば、その恨みは何世代にもわたって尽きることはないだろう。早く俗世を逃れ、出家して私の菩提を弔ってほしい」と遺した。それにより、法然上人は敵を討つことをやめ、自分や人々が救われる道を求めて、僧侶となった。法然上人は、報復の連鎖を繰り返すことをやめたのだ。

 

幕末から現代の戦い

1860年、安政の大獄では、幕府の体制を守り、開国して欧米の植民地侵略から日本を守るため井伊直弼公は鬼となり多くの志士を処罰した。それから幕末の殺伐たる争いが巻き起こった。

1868年、西郷隆盛軍は、江戸城明け渡しを求めて、100万人が住む街を焼き討ちすると脅して、勝海舟に降伏を迫った。どんな理由があれ、平和に暮らす民を焼き討ちするという発想が許せない。そこには大儀を掲げ、己の価値観が最高という驕りがある。

太平洋戦争後のビルマでは、戦勝国の英国兵は現地人をモノ扱いして、人間とは認めていなかった。倉庫の食糧を盗むため侵入した現地人を英国兵が射殺した。英国兵は、動かない死体を足で蹴って「end」と表現したと、会田雄次氏はその著書の『アーロン収容所』で書いている。「dead」なら人間としてその対応しなければならないが、「end」だから、モノ扱いをすれば良いと考えているようだ。欧米人にとって、有色人種は人間ではない。価値観の隔離した動物扱いの存在である。

1945年、米国は非戦闘員20万人を原爆で殺した。日本人が白人であれば、決して落とさなかった原爆である。

1940年、ドイツ帝国は、アウシュビッツでユダヤ人を工場生産のように死を大量生産した。ヒットラーがユダヤ人の価値観を認めなかったからである。

現代でも中共は、チベット弾圧を繰り返し、約120万人の人民を虐殺した。人口の約20%にも及ぶ。日本に換算すると2,000万人の民を殺したことになる。

中共が建国以来、自国民の4,000万人を死に追いやったのは歴然たる史実である。共産党にとって、人民は労働力で人という価値を認めていない。

1946年、ソ連のシベリア抑留では80万人の日本人が強制労働をさせられ、10万人が極寒の異国の土になったといわれる。私の父もシベリア抑留されたが、生還できたから、今の私の命がある。父の弟はシベリアの土になった。共産党のソ連にとって、捕虜は人間ではなく単なる労働力であった。国際法上でも違法であるが、その国際法の価値観を己の価値観に合わせて無視をした。

 2015年、パリISテロでは、ISは己の正義を信じてマシンガンの銃口を無実のキリスト教徒に向けた。宗教の価値観の違いを認めなかった結果である。

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2019-02-11   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

縁がないというご縁で、吾が縁道を歩む

 2015年に改健したお墓の当初計画は、現のお墓に入っている親戚と合祀する予定であった。しかしその親戚より改建を反対されて、実施を諦めた。墓誌にもその親戚の戒名を刻めない情けない事態になった。しかしお陰で別の場所に今回のお墓を改建するご縁を得た。その親の子の情けない対応に接したのだが、住職から、「この世では縁がないというご縁」を頂いたと解釈すべきと助言を頂き、成り行きに任せることにした。無理を通しても却って悪縁を招くと考えた。

 

縁無き衆生

縁のない人には「縁の無いというご縁」がある。縁無き衆生度し難し、である。「度」とは秤のことである。人間界での浅はかな秤では、計りしれないご縁のつながりがあり、この世では縁のない人である。黙って身を引くのが、佛様のお計らいと感じた。

 201511月のパリでのISテロのような者たちのように、価値観が違って育てられると、話せば分かるとはいかない。問答無用の惨劇となる。相手の価値観を尊重して、そっと当方が身を引くのが、この世では正しい選択と思う。

 いままで60余年を生きてきて、人との葛藤で正論を掲げて何度も痛い目をあってきた。今回、やっとその「縁がないというご縁」の存在に気づかされた。親の子供に対する教育の失敗は、本人の没後23年目でやって来る。

 

ご縁の道

 人に道に縁道あり。その道が高速道路の場合もあれば、曲がりくねった山道の場合もある。そこを走る車や人は、目的も能力も違う。その道が同じと思うから、自分勝手に走り衝突が起きる。人は人として、己の道を歩めば交通事故も無い。高速道路と一般道は立体交差で衝突がないようになっている。同じように、走る世界が違うため、他の人とは歩む縁道が違う解釈して、己の世界で、最終目的地に向って、一歩、一歩を歩めばよい。遅いか早いかは別にして、最終目的地は「死」である。それに向って、歩む過程が人生道である。そう思うとき、人をうらやんだり、妬んだりする心が消える。人と葛藤が生じるとき、その人とは歩む縁道が違うと解釈すれば、怒りも消える。

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  東山魁夷画伯「道」、軸は馬場恵峰先生書

 

『書天王が描く世界』(全246頁)p177より

2019-02-11   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

ご縁の破れ窓理論

 惚けの始まりか、認知症の始まりか、単なる運動神経の老化のせいか、201511月初旬に、自車をバック時に壁にぶつけ、バンパーを傷つけてしまった。半年前に悪戯でボディに傷をつけられたため、全面塗装をしたばかりである(警察に被害届を提出)。車歴15(2015年当時)でも全面塗装後は、気持ちよく乗ることができていた矢先のことである。このまま放置しておいても、大した問題ではないが、何か引っかかるものがあり、修理することにした。修理費用で4万円余がかかったが、そのまま放置するより、懐に痛い思いをすることで、今後、細心の注意をすることができると考えての修理であった。

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その修理が、20151114日に終り、1115日(日)に納車された。馬場恵峰師揮毫の墓石字を確認した翌日のことである。たった一つの傷を放置すると、全体が崩壊するという「蟻の一穴」の格言と「破れ窓理論」を思い出して、修理をして正解であったと思う。

 

破れご縁

 これから思い起こしたのが、ご先祖や周りのご縁の展開での歴史の流れに俯瞰すると、悪縁の風が入ってくる運命の窓が破れていると、家が傾く事象に思い至った。小さな縁を大事にしない人たち、ご先祖のご縁を大事にしない人たちは、破れ窓の「運命の家」に住んでいると思う。破れ窓の在る家には「破れご縁」が入ってくる。悪縁が悪縁を呼ぶ悪魔のサイクルに陥るようだ。逆も真なりで、よきご縁と付き合うと、良きご縁が循環するようで、それを今回のお墓つくりで体感した。

 私の親戚にも、両親の七回忌以降の法事をやっていない家がある。そんな考え方だから、その家とやり取りをしても不愉快になったので、付き合いをやめてしまった。それが当方にとってはよき展開であったようだ。「君子悪縁に近寄らず」である。今回のお墓作りで体得した人生の智慧は、「割れ窓理論」で説明される。それを私なりに解釈したのが「ご縁の割れ窓理論」である。

 

割れ窓理論

割れ窓理論(英: Broken Windows Theory)とは、軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング(英語版)が考案した。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」との考え方からこの名がある。

 

割れ窓理論とは

治安が悪化するまでには次のような経過をたどる。

1.建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。

2.ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。

3.住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。

4.凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。

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したがって、治安を回復させるには、一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる(ごみはきちんと分類して捨てるなど)。警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する。などを行えばよい。

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ビジネス界の例[編集]

ビジネス界において、割れ窓理論を適用して成功を収めている例がある。

日本・東京ディズニーランド・東京ディズニーシーでは、ささいな傷をおろそかにせず、ペンキの塗りなおし等の修繕を惜しみなく夜間に頻繁に行うことで、従業員や来客のマナーを向上させることに成功している。

アメリカのデパートチェーン、ノードストロームは、単に傷を治しておくという消極的対策だけでなく、「割れ窓」の対極である意味合いのピアノの生演奏を顧客に提供するなどして、成果につなげている。

                 Wikipediaより 20151118日より編集

 

   『書天王が描く世界』(全246頁)p128より

2019-02-11   久志能幾研究所 小田泰仙

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