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2019年2月11日 (月)

縁がないというご縁で、吾が縁道を歩む

 2015年に改健したお墓の当初計画は、現のお墓に入っている親戚と合祀する予定であった。しかしその親戚より改建を反対されて、実施を諦めた。墓誌にもその親戚の戒名を刻めない情けない事態になった。しかしお陰で別の場所に今回のお墓を改建するご縁を得た。その親の子の情けない対応に接したのだが、住職から、「この世では縁がないというご縁」を頂いたと解釈すべきと助言を頂き、成り行きに任せることにした。無理を通しても却って悪縁を招くと考えた。

 

縁無き衆生

縁のない人には「縁の無いというご縁」がある。縁無き衆生度し難し、である。「度」とは秤のことである。人間界での浅はかな秤では、計りしれないご縁のつながりがあり、この世では縁のない人である。黙って身を引くのが、佛様のお計らいと感じた。

 201511月のパリでのISテロのような者たちのように、価値観が違って育てられると、話せば分かるとはいかない。問答無用の惨劇となる。相手の価値観を尊重して、そっと当方が身を引くのが、この世では正しい選択と思う。

 いままで60余年を生きてきて、人との葛藤で正論を掲げて何度も痛い目をあってきた。今回、やっとその「縁がないというご縁」の存在に気づかされた。親の子供に対する教育の失敗は、本人の没後23年目でやって来る。

 

ご縁の道

 人に道に縁道あり。その道が高速道路の場合もあれば、曲がりくねった山道の場合もある。そこを走る車や人は、目的も能力も違う。その道が同じと思うから、自分勝手に走り衝突が起きる。人は人として、己の道を歩めば交通事故も無い。高速道路と一般道は立体交差で衝突がないようになっている。同じように、走る世界が違うため、他の人とは歩む縁道が違う解釈して、己の世界で、最終目的地に向って、一歩、一歩を歩めばよい。遅いか早いかは別にして、最終目的地は「死」である。それに向って、歩む過程が人生道である。そう思うとき、人をうらやんだり、妬んだりする心が消える。人と葛藤が生じるとき、その人とは歩む縁道が違うと解釈すれば、怒りも消える。

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  東山魁夷画伯「道」、軸は馬場恵峰先生書

 

『書天王が描く世界』(全246頁)p177より

2019-02-11   久志能幾研究所 小田泰仙

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