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2018年2月13日 (火)

「雙松岡塾の碑」に歴史を学ぶ

 2015年11月29日、大村高等学校関西同窓会の皆さんの案内で、「大村藩蔵屋敷跡」碑を見学後、100mほど離れた大阪検察局の敷地内にある「雙松岡塾の碑」を見学した。この碑は大村藩蔵屋敷跡の碑と同じく、大村高等学校関西同窓会の皆さんが「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を保存する会」として再建した。雙松岡塾は、文久元(1861)年に創立された漢学塾で、尊王攘夷を鼓舞して、後の明治維新の原動力の一つになった。尊王攘夷を鼓舞した塾であったので、幕府に睨まれ僅か半年で閉鎖の憂き目を見た。

 この碑は、大阪市教育委員会より大阪市顕彰史跡第194号に指定されている。史跡の紹介は大阪市のホームページ www.city.osaka.lg.jpで閲覧できる。

 

雙松岡塾の碑の文字

(正 面)雙松岡

(背 面)下記が現代語訳。原文は漢文読み下しで紙面の都合で省略

「雙松岡は松林飯山、松本奎堂、岡鹿門の塾である。三人は皆 昌平黌の秀才であった。文久元年(1861年)11月、玉江橋と田蓑橋の二橋の間にあって堂島川の川面に面して建っていた一軒家でこの塾を開き、尊王攘夷を鼓吹し名声が大いに上がった。しかし最後は幕府の役人から危険視され、圧迫を受けたため翌年五月解散し大坂の地を去った。その後模写して碑表に刻み、併せてこの文を碑裏に記すこととする。」(大村高等学校関西同窓会で現代語訳)

 

 松林飯山(22歳)は、井伊直弼大老が1860年3月3日、桜田門外で討たれたことを急脚便で知り、3月20日付の岡鹿門宛の手紙で快哉を叫び、「井伊大老の十の大罪」を列挙して糾弾している。和親条約を朝廷、列藩と議することなく結んだこと、徳川将軍家後継で多くは一橋公を望んだのに13歳の紀州公を迎えたこと、水戸老公は忠義の人なのに蟄居、幽閉したこと、などなどを挙げている。飯山は大村藩に帰り藩校の五教館で教授(校長)として正論(勤王思想・藩政改革)を説いていたが、大村上小路の自宅近くで凶刃に倒れた。享年29才。

 

 松林飯山は幕末の大村藩士、儒学者、勤王志士である。天保10年2月(1839)生れ、慶応3年1月(1867)暗殺された。29歳。父は医者で松林杏哲。飯山は筑前早良郡羽根戸村に生れ、幼名は駒次郎、後に漸之進、更に廉之助と改めた。飯山は号。

 幼少のころから神童の誉れ高く、3歳で字を書き、唐詩百首を暗誦し、4歳で『大学』を、5歳で『論語』を、6歳で『孟子』を、7歳で『詩経』を読み終えた。その原本も残されている。4歳のときの書「松梅」もあり、5歳で松、菊、桃の漢詩を詠んでいる。

 弘化4年(1847)9歳の時に父に従い大村藩領の蠣の浦に移った。

 嘉永3年(1850)12歳の時に藩の役人にその才能を見いだされ、藩主大村純煕の前で唐詩選の購読を命じられ、一字も誤りなく進講したので、一座のものは驚いた。これにより藩士に取り立てられ、俸一口を賜り、藩校・五教館で学ぶことを命じられた。

 この五教館では一年年長の渡辺昇も学んでいて、飯山に何としても追いつき、追い越そうと「一十百千」と大きく書いて勉学に励んだが叶わなかったという話が残っている。

 嘉永5年(1852)14歳になると、江戸に出て勉学することを命じられ、安積艮斎の塾に入門した。やがて頭角を現し塾生の首席となった。

 安政3年(1856)18歳で幕府の学問所、昌平坂学問所(昌平黌)に入った。ここでもその才能を認められ、20歳にして異例の若さで助教(詩文掛)に任じられた。

 安政6年(1859)21歳で昌平黌を退黌、7年間の江戸での学問修行を終え、3月に大村に帰った。藩主は飯山を上士 (馬廻)に列し、祿60石を給した。更に藩校五教館の祭酒(教授、校長)に任じようとしたが、これは固辞して次席の学頭(助教授)となった。

 万延元年(1860)8月22歳の時、暇乞いをして、大阪への遊学を許された。このあと文久元年(1861)23歳、文久2年(1862)24歳の6月までは京阪の儒学者、勤王志士たちとの交流を密にした。文久元年11月から2年5月までは堂島に塾を開いた。昌平黌の時の親友、三河の松本奎堂、仙台の岡鹿門と3人の共同塾である。塾名を雙松岡(そうしょうこう)とした。3人の名字を一字ずつとって名付けたもの。この塾には多くの若者が集まり学んでいたが、勤王思想の拠点として危険視され、奉行所から閉鎖を命じられ6ヶ月で閉じて文久2年7月に飯山は大村に帰った。同年8月五教館学頭を任じられた。

 文久3年(1863)25歳、1月大阪への出張を命じられた京都の政情探索のためである。6月大村に帰った。10月には五教館祭酒(教授、校長)に任じられた。この頃から学問だけでなく、藩政へも参画するようになった。藩を勤王側にもっていこうと同志を集め勤王三十七士同盟を結成し、その中心人物となった。

 元治元年(1864)26歳、10月藩政改革のため建白書を藩主に上書。賞罰を厳にすること、賄賂を禁ずること、奢侈を禁ずること、礼節を重んずることを進言。11月 用人に。

 慶応元年(1865)27歳、鹿島藩、佐賀藩、島原藩に特使として赴き勤王を説く

 慶応2年(1866)28歳、五教館では「正気百首」「照顔録」等で勤王思想を鼓舞。

 慶応3年(1867)29歳、1月3日 夜 城での謡初式からの帰路自宅前で佐幕派の一味に襲われ暗殺された。家老も重傷を負った。藩主は激怒し、大掛かりな犯人捜索が行われ、佐幕派数十名が捕らえられ、26人が斬首された。この大事件のあと大村藩は勤王倒幕派として纏まり、戊辰戦争では官軍として大津、江戸、会津、秋田まで転戦し、新体制樹立に貢献した。大村藩は明治2年の論功行賞で薩長土に次ぐ3万石を賜った。(松林飯山の項、吉本信之氏著 2015年12月4日)

 

 松本奎堂は、彼は尊皇攘夷の強烈な信奉者であった。彼は頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていた。彼はそれを生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていった。

 松本の出身地三河国刈谷は、徳川家にゆかりの地で、藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であった。しかし松本は早くから尊王の志に目覚め、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾さを憎み、「志を得た暁には墓を暴き、骨を鞭打ってやる」と罵ったという話が伝わる。彼は譜代藩出身で昌平坂学問所の舎長(塾頭)まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であった。それが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも過激な志士の一人であった。

 松本は文久3(1863)年、天誅組の挙兵をして弾を受け戦死した。享年33。辞世の句は「君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ 峰の松風」。法名は天誅院殿忠誉義烈奎堂居士。明治24年(1891年)、従四位が追贈された。(この項、wikipediaより編集)

 岡鹿門は、仙台に帰り、鹿門だけが天寿を全うした。享年82才。

 

明治維新を成就させた小さな波

 勝てば官軍で、明治になり松本奎堂は名誉を回復した。人柄を彷彿とさせる院殿まで付いた立派な戒名である。多くの志士達の血が、明治維新の後ろ盾になった。一つのエネルギーは小さいが、そのエネルギーが集り徳川幕府に無言の圧力をかけ、徳川慶喜の大政奉還になった。一人の力は小さく、幕府により粉砕されてしまったが、繰り返し繰り返し押し寄せる波の如く、幕府に圧力をかけたのだ。雙松岡塾の存在は決して無駄ではなかった。

 今、大垣市も愚政のため衰退の危機に直面している。手遅れになる前に、市民一人一人が、目覚めて行動を起こすべきなのだ。小さな声が集れば、政治を動かせるのだ。大垣市に平成の維新が必要である。

 

佛様の智慧

 松本奎堂の佛になった墓を暴き骨に鞭打つという思想は中国や韓国の思想である。日本の和と寛容を尊び佛の前では全て平等との思想とは相容れないがゆえ、非業の死になったようだ。中国や韓国の死んでも恨みを忘れないという思想には辟易である。彼の国とは距離を置いたほうが争いごとは避けられる。日本人同士でも、非常識な縁なき人と無理につきあうと、身に害が及ぶのを身近に見てきて、今回でその感を強くした。加齢を重ね多少は智慧がついたようだ。

 もし時代の歯車が同調すれば、松本奎堂も吉田松陰神社で吉田松陰の墓の隣に、頼三樹三郎と並んでお墓が建てられたかもしれない。そして大村藩も長州藩のように井伊直弼公を親の敵として憎んだかもしれにない。

 

十念寺を訪問

 彼は刈谷藩の出身で、刈谷市十念寺に墓があり、市内に彼の碑も建立されている。刈谷市は私も前職の会社のときに32年間も過ごした街であるが、今日までこのご縁には気がつかなかった。今回のお墓作りから展開されるご縁のつながりの広がりに驚いている。

 2017年12月7日、刈谷市通学路の調査に行った時、この十念寺を訊ねたが、名鉄刈谷市駅前の案内看板地図にこの十念寺が表示されておらず、迷ってしまって、墓参が叶わなかった。後でお寺さんに聞けば、案内看板地図に載せるにはお金がかかるので表示していないとのこと。十念寺は刈谷藩主の菩提寺である。そんなご恩あるお寺の場所を、刈谷市駅前の観光案内看板地図に載せないことに、最近の歴史を大事にしない風潮に情けない思いがした。刈谷市の教育委員会は何をしているのか。職務怠慢である。私は、この2018年2月末に再度、訪問する予定である。

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 碑の前で雙松岡塾跡の碑を見る馬場恵峰先生

 説明者は保存会代表の川添純雄氏(左側)、吉本信之氏(右側)

      2015年11月29日

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2018-02-13

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年2月12日 (月)

「大村藩蔵屋敷跡」碑の見学でのご縁

 2015年10月8日、私は松本明慶師の造佛された四天王像の写真撮影のため、高野山に行った。その帰りに梅田のNTTテレパーク堂島ビルに寄って、馬場恵峰先生が揮毫した「大村藩蔵屋敷の跡」の碑を事前調査した。肝心の馬場恵峰先生がまだ完成したこの碑を見ていないので、お墓建立の開眼法要の後、九州への帰路の伊丹空港に行く途中で、寄り道をしてこの碑の見学する予定を立てた。

 2015年11月29日、彦根での墓改建の開眼法要が終り、その後の会席を彦根キャッスルホテルで終えてから、15:24米原発の新幹線で梅田の大村藩蔵屋敷跡の碑の見学に向った。新大阪駅まで代表の川添純雄様に車で迎えに来ていただき、現地に向った。前回に来たときは道に迷ってしまったので、現地への案内をお願いした。現地では大村高等学校関西同窓会の4名の方が対応して頂いた。恵峰先生もこの碑を見るのは今回が初めてで、大層喜ばれた。案内をした甲斐があった。

 同じ場所に建つ他の2つの碑と比較しても、恵峰先生揮毫の碑は、伸びやかな優雅な書体で、長く後世に残る碑となった。この建立に携った長崎県立大村高校OBの皆さんも喜んでおられるのが、碑の書体から伝わってきた。

 恵峰先生が自家の墓の字を揮毫するとき、「大きな碑文では、上に位置する字は大きく書く」と言われたのを思い出した。確かに、「大村藩蔵屋敷の跡」の字の「大」のが他の文字よりも大きく書かれている。その文字を下から仰ぎ見ると全体のバランスが良く見えるだ。

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 馬場恵峰先生、三根子先生  2015年11月29日撮影

Edsc_1903t  20151129日撮影 笠野氏撮影 

2018-02-12

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2017年12月15日 (金)

身体の保全と危機管理

日本は「農薬大国」

 日本は「農薬大国」で、年間約60万トンもの農薬が生産されている。農薬は主に殺菌剤、除草剤、殺虫剤として使われており、これらの中には、発がんリスクの高い猛毒を含む。我々は普段の食事で、体によいと思って食べている野菜や果物と共に、そのような毒物も摂取している可能性がある。実際、日本人の体内脂肪から有機塩素材(農薬)の残留量が世界平均の3倍も検出されたというデータもある。

 日本の年間約60万トンの農薬を一人当たり年間に換算すると、6kgの農薬を「浴びて」いる計算になる。輸入される外国の農産物に使われる農薬や防腐剤を含めると、恐ろしい量の「毒」を浴びていることになる。

 葬儀屋の話によると、昔に比べて日本人は死後腐りにくくなったという。それだけ多くの防腐剤が、食品を通して体に取り込まれているのだろう。

 

日本のがん患者の増加

 1975年の医師数が約13万人、がん死者数は約13万人だった。その後の40年間で、医師数は約3万人増加し、がんに関する研究や治療は格段に進歩したのに、2014年のがん死者数は36万人を越えた。

 1970年代の日本の総医療費は10兆円であった。2010年代に総医療費は40兆円までに拡大したが、がん患者は減るどころか3倍に増えている。

 1950年から2010年までの60年間でみて、平均的に肉の摂取量9.8倍、卵6.3倍、牛乳・乳製品が18.2倍と著増し、米が半分、芋類は10分の1と激減した。つまり、肉・卵・牛乳・バター・マヨネーズなどに代表される「高脂肪」の欧米食こそが現代日本人のがんの大きな原因の一つであると推定される。その証拠として、以前多かった胃がんや子宮頸がんなどの日本型のがんは減少して、肺、大腸、乳、卵巣、子宮体、前立腺、すい臓、食道がんなどの欧米型のがんが著増している。

 

「宇宙根源の理」に反した食物

 畜産品は、利益最優先で牛、豚、鶏の成長を早めるため、成長ホルモンが投入されている。畜舎の中に過密状態で育てるため、伝染病にかからないように、多量の抗生物質が飼料に投入され無理に飼育されている。そうやって育った肉や乳製品を多く食べれば、病気にもなるのは「理」に合っている。「理」に適わない食品が体に毒になる。それは「宇宙根源の理」に反した食物である。

 ハムや加工肉を日に50g以上食べ続けると大腸がんになる確率が、18%増加するとWHOから報告があったばかりである。ハムや加工肉は、防腐剤や添加物が多く入っている。そんな肉を長年食べれば、病気になるのが必然である。

 

食は生命

 2000年も前から漢方医学では「食は生命」としている。贅沢な欧米型の現代食生活を謳歌すると、20年後に病気と言う悪魔のサイクルのご縁を頂く。因果応報である。がんという病気を対処療法で治しても、その根本原因である食生活を直さないと病気は治らない。気づいた時には遅いが、遅くても、一日でも早く食生活を正すのが、ご先祖へのご恩返しである。

 

2017-12-15

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2017年11月19日 (日)

老いて学び

 人間の成長とは、出来ないことが出来るようになることではない。加齢を重ね、昔できたことが出来なくなった自分を発見して、その問いに答えることが、人間の成長である。成長とは過去の自分を捨てることである。佛像彫刻においても、材料の多くを削って捨てなければ、真の佛の姿は現れない。削り捨てるべきは、厚い自分の殻である。それを捨てるには多大な苦痛が伴う。

 人は加齢という佛力によって、持っていた資産(若さ、体力)が剥ぎ取られて、新しい自分が顕在化する。駿馬も老いれば騾馬に劣る。しかし裸になった自分に、新しい真の自分を発見する。今まで固定資産だと思って持っていたのは人生会社のバランスシート上の流動資産であった。時期がくればそれは不良債務に変貌する。それに気がつくのが成長である。

 

人生バランスシートの劣化

 還暦を迎えて国家試験の受験に挑戦していた。その過程で、人生バランスシト(自分の体・脳・心という資産)の劣化が明らかになった。若い頃の記憶力なら相応の努力をすれば、60点の合格点はなんとか取れるはずだが、老化劣化した記憶力では、同じ間違いを繰り返す醜態を体験した。目を酷使するので、若い頃には問題なかった目の障害が顕在化した。その原因の表面的症状は高血圧に現れていた。血管内部にコレステロールのカスが付着して血流が流れにくくなり、高血圧となっている。同じ現象が脳内の血管にも起こっているはずで、若い時のような頭の血の巡りの良さが無くなっている。体の中で網膜は一番弱い血管で、長い間、過酷な使用をしたため、目の網膜の血管の流れに支障がでる網膜の病気となった。その結果、試験結果が若人に劣ることになった。

 

人生バランスシートの改善

 その治療として血圧の降圧剤を飲むのは対処療法である。その根本原因を特定し、その対策の治療を始めた。血管の内部が細くなっているので、血圧を上げて血を流そうと体が動いているのに、血圧を下げては、血の巡りも悪くなるはずである。そのため医師から処方される降圧剤は服用するが、血管の内部のつまりを無くすための改善行動(食事・運動・生活スタイル)を真剣に取組んだ。1年程の取り組みで、相応の効果が見られるようになった。

60年かけて酷使してきた人体という組織は、それ相応の時間をかけて経営改善を施さないと、元には戻らない。今までの宮仕えで、過度な長時間労働、睡眠時間の不足、精神面での痛めつけ、体に良くない添加物まみれでカロリー過多の外食や不規則な食生活で、心身を痛めつけていた。このままは道半ばで倒れた多くの仲間の後を追うことになると気がついた。

真因を解明して対処

 病気の真因を完全に元に戻すのは無理だが、その根本原因が分かれば、対処は可能である。何もせずに医師の処方する降圧剤だけを服用していては、つるべ落としのように体が衰退する。国家資格受験という過度な負荷をかけて、体・脳・心の問題点が判明した。体の異変の根本原因が判明したのが、年老いて学びに挑戦した最大の成果であった。そのまま放置すれば、失明、心筋梗塞、脳梗塞に罹患した恐れが高い。今でもその危険性はあるが、それを認識して生活スタイルの改善に取組んだので、その危険性がかなり低減したようだ。ご先祖から頂いた命は、学び続けて後進に何かを残すために使いたい。

 

少にして学べば壮にして為すこと有り。

壮にして学べば老いて衰えず。

老いて学べば死して朽ちず。   佐藤一斎著『言志四録』

 

 青少年時代に学べば、壮年になって為すことがある。

 壮年時代に学べば、老年に なって気力が衰えない。

 老年時代に学べば、死んでもその業績は朽ちない。

 

Photo 馬場恵峰書 実践至道  2008年

2017-11-19

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2017年10月21日 (土)

和敬静寂

 和敬清寂とは、茶道の心得を示す標語であるが、もともとは禅の言葉でもある。茶道の祖といわれる村田珠光が、足利義政から茶の精神を尋ねられたとき、「和敬静寂」と、答えたという。この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分とされる。茶道と禅を極めた井伊直弼公が好んだ言葉でもある。

 その意味は、人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味である。特に千家ではこの標語を千利休の定めた「和」、「敬」、「清」、「寂」を表す「四規」として重要視している。四規「和敬清寂」の4つの文字の中に、お茶の心がこめられている。

 

「和」とは、口+禾(音)で、音符の禾は、会に通じて、遇うの意味である。人の声と声とが調和をして、なごむの意味を表す。和とは二つ以上の数を加えた値という意味もある。人が出会うご縁は、その時には良い縁もあれば悪い縁もある。両方のご縁に出会って人生である。良い縁ばかりの人生はありえない。悪縁が逆縁の菩薩となって人を鍛えることになる。

「敬」とは、攵+苟(音)で、苟は髪を特別な形にして、身体を曲げ神に祈る様をかたどる。攵は、ある動作をするで、お互いに敬いあうという意味である。敬を持って来たご縁をありがたく受け止める。「敬縁」こそが人生修行である。

「清」とは、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるという意味である。すべて修行と思えば、何事も受け止められる。

「寂」とは、宀+叔(音)で、屋内がいたましく、寂しいの意味を表す。死の意味もある。安らかとか、どんな時にも動じない心を表す。お茶を飲むとき、お点前のとき、また、お客になったとき、お招きをしたときなどに、この「和敬清寂」を念頭に行するのが茶道である。

 

和敬清寂:宋に留学した大応国師が帰朝した際、将来した(持ち帰ること)劉元甫(りゅうげんぽ)の「茶道清規」を抄録して「茶道経」と名付けて刊行した。それによると茶禅儀の創始者は守端禅師で、その門下元甫長老が和敬清寂を茶道締門と定めて茶道会を組織した。これが和敬清寂の起源であるという。(「茶道辞典」より)

 

一期一会

 和敬清寂と併行して使われる言葉が「一期一会」である。全ての事象の出逢い、お客様との出合い、接遇は、無私に心で、分け隔てなく、平常心で接するのが、禅の心である。そうすれば正しい判断と正しい行動ができる。それ故、井伊直弼公はこの言葉を好んだのだろう。それは長い間、直弼公が部屋住みとして冷遇された境遇に置かれた自身への戒めの言葉でもあったようだ。冷遇された境遇へも、分け隔てなく、自身への修行として捉えた直弼公の心であろう。

 ご縁があり、恵峰先生にこの書を楠の板材に書いていただき、お世話になっている長松院に2015年9月18日、奉納した。

 

図1 「和敬清寂」 馬場恵峰書 2015年晩秋

図2 長松院 お茶室 2015年9月18日

図3 板取をする馬場恵峰先生

図4 下書き     2015年9月11日

    これは当初の材木。もっと良い木があったので変更された。

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2017年10月14日 (土)

朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり

 2015年10月22日、全5回の伊與田塾「百歳の論語」(致知出版社主催)の最終講義が品川プリンスホテルで行われた。その講義で一番心に残った言葉が上記である。

 「朝に道を聞けば」とは「天命を悟ること」である。「夕べに死すとも可なり」の境地は、死線を越える苦労をした人しか分からない。いくら万巻の書を読んでも、悟りに境地には至らない。理屈で考える学者には分からない。理屈で考える人は、道を聞いても死んでは意味がないと考える。だからいくら学問を積み重ねても、この境地には達しない。芸術でも職人の世界でも、同じである。単にルーチンワークで年月を重ねるだけでは、この境地に達しない。

 1400年前に造った五重塔は台風が来てもびくともしない。それは天命を知った職人が造った塔であるからだ。ところが、最新技術を駆使したはずの高層マンションが、傾く不祥事が頻発している。何で後から直ぐ露見するごまかしをするのか。これは技術の問題ではない。効率、売上至上主義に走り、道から外れた仕事をした結果である。

 

道と術

 論語に曰く「吾十有五而志干学三十而立四十而不惑五十而天命」。この言葉は単に年齢を重ねれば悟れることを言ってはいない。死線を越えるような無限の苦労の後に閃きがあり、天命を知ることになる、である。

 単に経験の積み重ねるやり方だけだと「術」に終始する。あくまで「道」に達しないと、本物にはなりえない。柔道、書道、茶道、華道等の全てに当てはまる。

 最近、芸術の字とかで、読めない毛筆の字が、テレビ番組の題名や展覧会での書展で、氾濫している。字は読めてこそ存在がある。それを感性で書いたから、読めなくても良いでは、「道」から外れる。それは「書芸」、「書術」であり、「書道」ではない。「芸」とは草冠に「云」である。意味は匂い草のことで、特定に人には良い匂いの意味である。時代が変わり、人が変わるとそれが良い匂いだとは限らない。

 「術」とは小手先のノウハウである。それではその道の本質には達しない。書道について言えば、あくまでも「何時でもどこでも誰にでも分かる字」を書くのが書の「道」である。これは全ての諸芸や、仕事道、生きる道に通じることだ。「道仙」という名に思い馳せると、今回の伊與田先生に言葉が重みを感じる。

 

伊與田覺先生の生き様

 伊與田覺先生は現在100歳(2015年10月)で、体調は決して良好ではない。腎臓は1つを摘出、残った腎臓も20%しか働いていないという。右目は加齢黄斑変性症でほとんど見えない。幸いに左目は小さい字でも読める視力である。心臓がかなり悪い。先生自身でも生きているのが不思議だと言う。移動は車椅子である。そんな体で、月に1回、3時間の論語の講義を半年に亘り、5回続けられて、この10月22日に最終講義となった。

 

天命

 そんな先生の天命が、論語を世に伝える仕事である。10歳から論語を読みだし、この92年間、毎日論語を読んでいるという。先生に言わせると生かされている人生であるという。「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」を実感するという。

 天命に生きる道は、なによりも健康が最優先である。自分の健康を支える周りの人への感謝の念が、自分の体を生かさせてくれる。ご先祖と両親、回りの人への感謝を忘れたとき、その人のお役目が終ったとき、天は命を取り上げるようだ。例えタイムラグがあっても、である。自分の天命は何か、それを考えたい。それが第二の人生の課題である。

 その伊與田覺先生も、2016年11月25日に逝去された。ご冥福をお祈りいたします。

 

図1 恵峰書「迷って百年、悟って一日」の言葉に惚れて入手

図2 恵峰書「あせって」の「せ」の字に魅了されて入手

図3 記念撮影の伊與田覺先生 2015年10月22日

図3 手を振って元気に退場される伊與田覺先生

    後ろで介助者が手を握って支えている

    品川プリンスホテル 2015年10月22日

図4 恵峰先生よりの贈り物

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2017年10月13日 (金)

お墓の文字彫り完成

 自家のお墓の再建で、恵峰先生に揮毫していただいた書体で、墓石の文字彫りが大阪で進められた。その墓石に字を彫る工程が終り、2015年11月14日(土)、松居石材店に完成した墓石が到着した。私は名古屋での授業が終ったあと、雨の中、新幹線を飛ばして(?)、彦根に確認に行った。現地に16:40到着した。

 入庫した墓石は見事の出来栄えで、恵峰先生の字が光っていた。この一体構成の墓石作りに携った方々への感謝の念で一杯である。機械設計者としての見地で、墓石の角の加工や2面の交差線の加工状況に驚嘆である。隅の加工では刃具の固定フランジが干渉するので、最終加工は手仕上げと推定した。石職人の大変な技能と労苦がかかっており半端な仕事ではない。チャイナの石材加工技術の高さに脱帽である。

 当日は大雨であったが、据付工事予定の週明け月曜日・火曜日は天気予報で晴れとのことで、神仏の配慮に感謝である。

 墓石の表には、「黄鶴北尾道仙」、裏面に「享保19年甲寅4月27日に近江で死去」との刻印を再現した。享保19年は1734年で、元禄文化が栄えた時代から少し時が経った時代である。生誕年は元の墓石が風化で判別不能のため、判別ができた「12月17日濃州大垣で生まれる」とだけ刻印をした。2017年9月の今になって、チェリストのティム愛用のチェロが、ほぼ同じ時代に製作されたことを知り、何か因縁を感じた。

 

図1 字彫りが完成した墓石

 

2017-10-13

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2017年10月11日 (水)

墓面の揮毫 4/4(型紙とTIMMチェロ)

 馬場恵峰先生に書体の大まかな了承をもらったので、2015年9月30日(水)、松居石材店で、松居店主と二人で、型紙の確認をしながら、鉛筆と消しゴムで少しの修正をすることになった。それでも小1時間ほどの手間がかかった工数となった。書家が揮毫した書をそのまま墓石に彫ると、字の線が細く見えて、貧弱な字体に見えるという。そのため、上下の配置の隙間や線の太さを誇張して太くする必要があるとのことで、二人がかりで修正をした。型紙を作るのがこんなにも大変だとは思わなかった。松居店主も、今はほとんどがパソコンのフォントで作成するので、手書きの字の型紙作りの作業は10年ぶりとのこと。型紙の完成まで、結果として長崎の先生宅に3回、松居石材店に何回も通うこととなった。それでも納得できる仕事ができて良きご縁の巡り合いであった。

 

再修正

2015年10月10日(土)、松居石材店店主より、「黄鶴」の字が傾いているのと、「仙」の字の大きさを修正したとの連絡があり、彦根に出向き確認をした。一つの墓面の型紙を作るのは大変な労力である。難しいお願いを嫌な顔をせず対応していただいた松居さんに感謝です。

 

TIMMのチェロとのご縁

 北尾道仙は、1734年没のご先祖である。能関係の謡いの名手と推定される。2017年9月29日、大垣市の音楽堂で河村先生と共演したドイツのティムさんの愛用のチェロが、300年前の1717年頃に制作されたという。同じ音楽関係でもあり、ちょうどご先祖が活躍した頃に生まれたチェロで、本件の歴史を知り今秋にして、何かご縁を感じた。

 

図1 型紙 松居石材商店にて

図2 型紙 2015年9月18日版

図3 型紙 最終版

図4 生誕300年のチェロを演奏するTIMM(リハーサル)

   チェロの表面の傷跡に300年の歴史を感じる

   大垣市音楽堂にて  2017年9月29日  

 

2017-10-11

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2017年10月10日 (火)

墓面の揮毫 3/4 訃報

型紙の最終確認

 2015年9月28日(月)、恵峰先生が扇面に書かれた書の撮影のため、長崎大村市の先生宅を訪問した。その日は8面の扇の書を撮影することになった。この日、墓面の字体の最終確認をしてもらうため、墓面の型紙を持参した。必要なら、最終的に修正していただこうと思っていた。ところが時間は待ってはくれなかった。

 

松本市長の訃報

 恵峰先生は、前日9月27日の深夜10時に、中国3日間の旅から帰宅したばかり。恵峰先生が中国に到着した日の9月25日に、大村市の松本崇市長が急性肝不全で亡くなられた報せがあったという。私が訪問した朝に、今から市長宅に弔問に出かけるとのこと。またかなりお疲れの様子で、型紙の相談するのには気が引けて、出来なかったのが顛末であった。

 

松本市長とのご縁

 松本市長とは2012年の大村市制70周年記念の馬場恵峰書展での祝賀パーティと2013年の馬場恵峰先生県民栄誉賞受賞の祝賀会で二度だけお会いしたことがあるご縁である。享年74歳、まだまだ早すぎる逝去である。その時、恵峰先生ご夫妻から「留守番をお願いします」と言われて、一瞬の判断ミスで、行きそびれてしまった。一緒に弔問に行けばよかったと思ったが後の祭りであった。これもご縁である。松本市長様のご冥福をお祈り申し上げます。

 

図1 大村市制70周年記念の馬場恵峰書展での祝賀パーティで

    2012年12月14日

図2 馬場恵峰先生県民栄誉賞受賞祝賀会で祝辞を述べる松本市長

     2013年12月23日

図3 扇面の書 馬場恵峰書

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2017-10-10

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2017年10月 9日 (月)

墓面の揮毫 2/4

 2015年8月24日に恵峰先生に書いて頂いた書体を松居石材さんに検討してもらったところ、石材に字を彫った後に、島になる石の部分に薄い所があり、掃除等で力がかかると石が欠ける恐れがあるという。そのため再度、先生に揮毫してもらうため2015年9月11日、長崎に出かけた。途中、広島に寄ったためもあり、新幹線で8時間の旅となった。

 字体の修正以外に、小田の「小」の字がお互い納得できる字体のたどり着くまで5枚ほどの試行をすることになり、大変な仕事となってしまった。上の字数が少なく、段々と多くなっていく書体の字は、字のバランスが難しいという。まだ「小田」は良いが、「一瀬」などは最高の難しさとか。

 最後の最後に先生も私も満足できる字体となった。字体には好みがあり、書く人と見る人で好みも別れ、碑文の字体は一番難しいという。結局、先生も2日かかり、私も4日をかけての墓面の字体作成の仕事となった。だから普通の書家は、碑文の字は嫌がって書かないという。一般的なパソコン文字の書体にすれば、こんな問題は起きなかった。石屋の松居さんも、手書きの書体の墓面作成は10年ぶり以上のことだと言う。恵峰先生の書の墓面となって、ご先祖さまも喜んでおられると思う。そんな手間のかかる慕面の字の作製に、快く多くの時間を割いて頂いた恵峰先生に感謝です。

 

図1 下書き

図2~3 揮毫をされる馬場恵峰先生 2015年9月11日

図4  2015年8月24日(右)に対して、9月11日(左)を書いて頂き、左の書体に決定した。左に決定

図5  試行錯誤での揮毫

図6  最終的に決定した書体

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