フリーデス(死の解放)をフリーセックスから学ぶ
フリーデス free death
先週、私の町内で2名の方が連続して亡くなられた。季節の変わり目の夜に鳴る救急車のサイレント音はその知らせである。お二方とも94歳、85歳で、天寿と言えるお歳である。その音は自分にも迫ってきた「死」を予告する。人は古希を超えると、余命は統計的に10年以下である。いつお迎えが来ても不思議ではない。ましてや、がんを罹患していれば、なおさらその思いは強い。
生あるものは、生老病死である。生は偶然だが、死は必至である。頭では分かっていても、何とか死から逃れたいと思うのが人間の性である。その死の束縛からのがれることが、フリーデスである。
お迎えは、突然に来る。いま忙しいからと、拒否はできない。それは私が前職で働いていた期間、20名余の仲間が、還暦前に世を去ったことでも身に染みている。死はいつも突然である。
だからいつお迎えがきても良いように、事前準備をしっかりして、いつ死んでもいいように毎日を充実して生きることが大事だ。それを私は下重暁子著『明日死んでもいいための44のレッスン』(玄冬舎)を読んで再認識した。毎日を最期の日として、心残りが無いように生きる。それがフリーデスである。
日本は災害の多い国である。その準備をしておけば安心である。死も同じく災害である。その事前準備をしっかりとしよう。死はいわば、真夜中の停電である。死は停電だから、懐中電灯に相当するものを準備しよう。
死の懐中電灯
具体的な死後の準備と、死の前の心の準備が必要だ。私はお墓の準備した。そして戒名を授かり、戒名を墓誌へ刻字(字に朱を入れた)した。葬儀と死後50年間の法要を菩提寺に依頼済みである。後は安心して死ぬだけである。そうなるとなかなかお迎えが来ない。皮肉である。
心の準備は宗教である。私は曹洞宗と自分教に帰依している。それが心の安らぎを与えてくれる。宗教はそれで十分である。自分が信じれるならどんな宗教でも構わない。それが死生観である。
お釈迦様はあの世が有るともないとも言われなかった。「人生は無常、ただ精進せよ」とだけ言い残された。最期の日まで、人間として正しい道を歩み、精進をするだけ。その途中で突然に死が訪れる。人は生まれ、死んでいく。その途中の道で、幸せであれば十分である。それで死の恐怖から解放される。それがフリーデスである。
Free: (to do smoothing) not under the control or in the power of somebody else (Oxford現代英英辞典)
自由とは、誰かの力で支配されない状態。
自由とは
ものごとの決定の自由とは、「自ら」に「由る」ことである。どんな決定でも、自分に自由がある。自らがしっかりしていれば、どんな決定でも、その先の延長線上に死がある。その死には自分の責任がある。その歩いている途中で幸せであれば、何時死んでも悔いはない。
フリーセックス
スウェーデンのフリーセックスでいう「Free」とは、性の拘束、社会規則や昔の慣習からの自由・開放という意味である。日本で取り立たされている淫乱不埒なセックス風俗の推進ではない。スウェーデンでは援助交際もヘルスないし、ポルノショップも大都会で数軒しかない。
スウェーデン ストックホルム駅 1985年9月14日 著者撮影
日本の繁華街とは比べるべくもない。これではポルノショップも商売にならない。
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例えばsmoking freeとはタバコの煙からの自由という意味で「禁煙場所」である。スウェーデンでは、小学校から性教育がきちんとされている。この国では愛がないと何事も進まない。結婚も離婚も自由だから不倫もない。結果として、望まれないで生まれてくる子供はほとんどない。Freeだから愛に自己責任がある。一人の人間としての人生時間を両親から愛を持って育てられるから責任ある人生を送れる。日本の親が躾け教育を放棄した現実が、「切れる」子供の多発である。無責任な親が日本の社会の時間を奪っている。親が子供の教育に責任をもたなくて子供の将来の時間はない。
日本では金があり、上級国民であれば、性の世界で何でもありだ。例えば木原誠二のご乱交ご淫行は週刊文春で告発されているが、日本最高権力者の岸田首相は目て見ぬふりである。それが日本の恥ずかしい実態で、汚職フリーセックスである。公務員の正規の給与ではそんなことはできない。やましい所から金が出てないと、あり得ない話である。
馬場恵峰書
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2023-10-02 久志能幾研究所通信 2752号 小田泰仙
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