c-馬場恵峰師の書・言葉 Feed

2023年10月15日 (日)

私の蓄財術、7つの財産

 

 お金は財産ではない。お金は銀行のコンピューター上に記録された数字の羅列でしかない。お金は人生劇場への入場料として必要である。そのためにお金を使わなければ、良い舞台に立てず、よい経験が得られず、良い人生を送れない。お金はチャンスを掴むための経費である。場末の安い劇場では、そこから得られる「利」は少ない。だから高くても良質な舞台を選ぼう。「利」とは仏様が与える恩恵である。

 現金だけ集めても、それを使わなければ、心の貧乏人である。お金は使ってなんぼである。必要な入場料を払わず、現金を掴んで離さなければ、良い舞台に立てない。真の財産は、新たな舞台に挑戦する勇気、それに躊躇しない逞しさと心の豊かさである。それを徳という。

 

1 人生経験という財産

 財産とは成功体験だけでなく、失敗経験もより大きな財産である。多くの失敗を犯し、流した涙と汗の分だけ、多くの智慧と徳が付き、結果として後年の成功を得られる。エリート呼ばれる上級国民が、人生後半でドジをやるのは、若い時に大事に保護されて、その失敗を経験していないからだ。自転車の訓練でも、最初に沢山転ぶと乗る技術が上手くなると同じだ。だから上級国民の末路は悲惨である。人生三大不幸の一つが、「若くして高台に登る」である。

 

 約40年まえ、私が前職で主任として働いていた職場に、エリート扱いを受けた若手2人が異動してきた。二人ともエリート意識丸出しの鼻持ちならないやつであった。そして古参の非エリートの私を追い抜き、超厚遇をされるようになった。二人は会社から大学院に派遣され、博士号まで取らせてもらい、海外出張さえ最優先であった。同じ職場で、私は貧乏くじを引かされた。その10年後、贔屓していた上司はいなくなり、任されたプロジェクトが中止となり、その一人は会社を後ろ足で泥を掛けるように退社し、もう一人は会社に残ったが、後年、閑職で定年を迎えた。それが自分はエリートと自認もし、周りからもそう呼ばれた若者の末路であった。天網恢恢疎にして漏らさず、を実感した。

 

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2 師の教え、思い出

 人生の道を歩くうえで、師の教えがお宝であることに思い至る。それは人生道を歩く上の地図であり、コンパスである。それが無ければ人生道で迷う。16年間、人生道を教えて頂いた馬場恵峰先生には感謝しかない。

 それで私は約1000万円の金を使ったが、相応の学習財産ができた。約1000万円は16年間での九州までの交通費、宿泊費、師の書画購入代等である。馬場恵峰先生は中国に240回以上も行き、その旅費で約8,000万円が消えたという(一回の旅行で約30万円余である)。恵峰先生は「それで手元に何も残っていないが、経験・信用・人脈と言う財産が残った」という。私は師の後ろ姿から多くを学んだ。

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3 健康力

 健康でなければ、美味しいものも食べられないし、旅行もできない。毎日が憂鬱である。健康でないと、お金も使えない。お金を使うには、体力がいる。

 私ががんを罹患して、体力がなくなった。それを失って初めて、健康の重要さを痛感した。体力が無ければ、お金も使えない。健康でなければ、決して幸福になれない。死んでもいいから健康最優先である。

 

 

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 上図は病気見舞いのお礼として皆さんに配った色紙。

 馬場恵峰先生に、約20枚を揮毫していただいた。

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4 少しの友

 社長業をやっている知人から、年賀状が500通だ、知り合いが数百人いるとかの自慢話をよく聞く。そんな「友人」が500人いても、その「友人」と1時間話しあっても、合計で500時間が必要だ。その友好関係を維持するには膨大な時間とお金がかかる。そんな中途半端な名目だけの「友人」と付き合うことに時間を使っていたら、人生が終わってしまう。心を許した徳のある友人は数人で十分である。

 

5 少しのお金

 日本でお金と言われる代物は、日本銀行券である。それはあくまで、日本銀行が保証した、兌換券でしかない。日本銀行が保証しなければ、紙くずである。

 1947年、日本政府は新円を発行し、今まで持っていた円を使用不能にした。ほんの76年前のことだ。それで母の父(私の祖父)の退職金が紙くずとなった。だから母は、私に「政府を信用するな」と口を酸っぱくして教えた。

 国体が変われば、お金は紙くずとなる。その時に必要な財産とは、どんな時代、どんな社会でも生きていける才覚を養うことである。その時に、稼ぐことができる能力が、真の財産力だ。両親は、戦後の激動の時代を裸一貫からがむしゃらに働き、一財産を作り、私に残してくれた。

 お金は、当面の生活が出来る少々を持っていればよい。チャップリンは「人生で必要なものは、勇気と想像力と少しのお金」と言った。あの世にはお金を持って行けない。稼いだ「お金」は、自分の人生体験と能力向上に振り向ける。今は、明日を知れぬ激動の時代である。隣国からの日本侵攻、南海トラフ大地震が起きるやも知れぬ。その時にその持てる生きる力がものを言う。

 

 

6 社会貢献という財産

 社会に貢献したということは、天に貯金をしたことだ。それで将来、自分だけでなく、子孫にも利子(社会からの恩恵)が支払われる。

 先の大戦では、私の家系で叔父が2名、お国に命を捧げた。一人は極寒のシベリア、もう一人は灼熱のインパール作戦の地で亡くなった。父はシベリア抑留に人生の一時期を捧げた。それで今の日本がある。父がシベリアで死んでいたら、私の生はない。私はその恩恵を私は受けて生きている。毎日、感謝で仏壇に手を合わせている。

 馬場恵峰先生は、60歳の時、社会貢献として、家屋敷を担保に入れ、生命保険に入り、1億円の借金をして、日中文化資料館を建てた。その借金は24年かけて84歳の時、完済した。だから天は師を94歳まで現役で活躍させる恩恵を与えた。

 

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 350坪の敷地に建つ日中文化資料館  大村市

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5 賢さという財産

 いくら知識・智慧・財産があっても賢くないと、それを使いこなせない。賢くないと、頭の良さは悪知恵となり、周りに害毒をまき散らす。木原誠二、ジャニーズ喜多川のように。

 日本のエリートと呼ばれる類は、知識はあっても智慧と徳が無い。ましてや賢さもない。更に公僕と言う意識は皆無である。記憶テストで高得点だけを取った東大出のエリートが日本滅亡の政策をごり押ししている。今の日本の停滞の原因は、トップの堕落が原因である。己の蓄財に熱心で、日本を泥船化して、一緒に沈んでいくことに気が付かない。その結果、増税邁進、中韓迎合、保身の無為無策、世論無視である。木原誠二問題、統一教会問題、ジャニーズ性加害事件、谷町の闇、宝塚歌劇団問題、等はエリート政治家の利権が関係している。

 

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  松本明慶大仏師作 普賢菩薩像

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6 素直さという財産

 いくら幸運に恵まれても、驕ってしまえば、衰退である。素直に置かれた状況を受け入れる素直さ、回りの人の意見を聞ける素直な能力も大事な財産である。どんな状況でも、生きていることに感謝である。

 

7 宗教力

 宗教の「宗」とは家の「ウ冠」と神への捧げものを表す「示」からなる象形文字である。つまり宗教とはその家の教えである。仏教やキリスト教は、大量生産に相当する大手企業と同じである。家の家訓は家庭料理と同じである。それはご先祖が何代にも亘って作り上げてきた教えである。2000年前は、それらの大規模宗教団体が成立していないので、各家の教えが宗教であった。要は家庭料理である。毒のある外食(新興宗教団体)よりも、家庭料理(家の家訓)を大事にしよう。それは財産である。母や父の教えを守る。それも宗教力である。

 

 

2023-10-15  久志能幾研究所通信 2759号  小田泰仙

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2023年10月11日 (水)

死神や 来りしならば 感謝砲 

 

 死神には、「でも」も「だって」も通じない。

   死神が来たら、感謝の気持ちで迎えよう。

  「でも、まだ死にたくない」「だって、まだ若いから死ぬを許して」と泣きついても死神は聞く耳を持たぬ。

 

死は解釈次第

 死は誰にでも訪れる。死はいつも突然であり、死神は必ず来る。死神も手ぶらでは、あの世に帰らない。だから死に対しては、その下準備をしておくべきなのだ。

 死神が来るのも、事故に遭うのも、病気になるのも、良きご縁に出会うのも、全て同じである。郵便ポストが赤いのも、死神がくるのも、みんな自分が悪いのだ。死と言う出会いの縁をどういう風に解釈するかの違いである。全ての出会いには意味がある。だからどんな良縁、悪縁が来ても、感謝で受けとめるのが最良の差し手である。それを素直に受けとめないから、不幸になる。師の死が、弟子の奮起になることもある。明治維新は吉田松陰の死が大きく影響した。

 この世で起きる出来事は単なる事実で、そこには善悪はない。それを人がどう解釈があるだけである。交通事故に遭遇しても、それに反省して、再発防止を講じて次に想定された悲惨な事故を回避できれば、逆に幸運と言える。スピード違反で捕まっても、それで将来の死亡事故が回避されたと思えばよい。よくぞ捕まえてくれたと、感謝である。

 私が1994年、ニューヨークでケチャップ泥棒にあい、もう少しで盗難被害にあうところであった。当人は不幸だが、やったほうは、カモに出会ったと思って幸運だったろう。やった犯人には、目の前をカモがネギをしょって歩いていた、ラッキー、である。それはブロードウェイ5番街でお昼時に起きた事件だが、それがニューヨークの貧民街で起きれば、そこの住人には、当たり前の事象、やられた方が、馬鹿なのだ。あくまで盗難事件という事実があるだけだ。それをどう解釈するかは、人間社会の勝手である。

 

生死に善悪なし

 それと同じで、生死も事実があるだけで、それに善悪はない。もし人が死ななければ、地球上で人間が溢れ、食料難で人類が滅亡してしまう。老いた親が死ななければ、家族が介護で疲れ果てて、家庭が破綻してしまう。昔はそれを防ぐため、姥捨て山という風習が存在した。それほど昔の人は悲惨な生活をしていた。それに比べれば、今は幸せなのだ。

 人が永遠に死ななければ、宇宙根源の理に反することになる。死んでくれてありがとう、である。

 There are no facts. Only interpretenision.

 事実はない。解釈の違いがあるだけ。  ニーチェ

 人が出来ることは、死が訪れても感謝の気持ちで迎える、である。生があっても感謝である。宇宙根源の理で、生も死も同一の事象である。

 いくら若くして死んでも、幼児時期に死ななかったのは、幸せなのだ。私の家系でも、幼児時期に、死んでいる子が多くいる。それに比べれば青年まで生きられたのなら、大幸運である。ましてや還暦をすぎれば、いつ死んでも超幸運である。還暦まで生きれば、1億円の宝くじが2百万回、連続で当たったと同じ確率である。そう思うと、死は自然と受け入れることが出来る。

 そのためには、いつ死んでもいいように、今日のやるべきことをやって、一日を終える。そして人生の使命を果たすべく、一つ一つ確実にやる事こそが、生あるものとしての勤めであろう。

 

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 馬場恵峰書

2023-10-11  久志能幾研究所通信 2756号  小田泰仙

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2023年10月 8日 (日)

いい日旅立ち、否断捨離、睡眠、永眠、遺品整理

 

 私は還暦を過ぎても、断捨離はせず、モノを買いまくっている。とはいえ、年金生活者の財力と持ち家の広さと体力には限界があるので、買っても多寡がしれている。私は分相応で買っている。

 いいものを買って、長く大事に使う、が私の方針である。車は1999年に購入し、現在、24歳で現役である。スピーカYAMAHA NS1000 Mは現在、メインのスピーカではないが、まだ現役である。買ってから48年が経った。40年前に買ったラックスのアンプも修理をして現役である。ラックス社は30年経っても、そのアンプを直してくれた。

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 長く大事に使える品を選別していると、そんなに多くの品は買えない。買いまくるといっても、それでバランスが取れている。

 

 私は思い出の品は捨てずに、60年間でも保存している。写真記録は、100年前の祖父祖母のアルバムから今までの分を保存している。思い出の品こそ、人生である。今自分が生きているのは、ご先祖の存在があったためだ。その記憶が無くなったら、生きている意味がない。思い出の品に人生の記憶が籠っている。

 だから断捨離は我が家ではやっていない。両親も断捨離などしなかったから、昔の資料が残っていた。よくぞ、残してくれたと感謝である。昔気質の両親は、モノを捨てずに溜め込み過ぎであった。両親は、モノがない時代を生きてきたのだ。今のモノが溢れた状況が異常である。そのお陰で家系図を1734年没のご先祖までさかのぼれて、作成できた。

  2年前に祖父の100回忌を執り行った。今年は祖母の50回忌である。私は法事をきちんと執り行っている。法事を出来るだけ、幸せである。それはその齢まで生かされていることだ。死んでいれば、それは執り行えない。

 断捨離の人生とは、切ない儚い人生だ。思い出は、品物に形を変えて「思い出のお墓」として残っている。その思い出が自分の人生を創ってきた。そのお墓を捨てることは、はか無い、である。断捨離を自慢するミニマリストを観相学でみると、人間として下品な趣がある。

 

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動物と人間の違い

 動物が巣をつくり縄張りを確保すると、そのエリア中にトイレ(巣の外の決まった場所)と寝床と保存食置き場を確保する。人間様は人生檻の自宅を建てると、トイレ、ベッド、そして生存には必要ない思い出の品を家中に保管する。人はパンだけで生きているわけではない。それが畜生と人間の差である。その差の象徴の想い出の品を断捨離するのは、畜生の浅ましさである。思い出こそ人生である。

 人生の伴侶が認知症になり、一緒に過ごした思い出を全て失ってしまったら、それは妻の格好はしていても、妻とは思えないだろう。一緒に居ても楽しくないだろう。それでは、彼女と楽しい昔話が出来なくなる。それと同じである。思い出を共有してこそ、長年連れ添った妻である。思い出が身近にあってこそ、吾が人生である。放浪者のように、何ももたずに生活するのは、社会性のある人間ではない。人間とは人と人との間で共生できる生き物だ。行動をすれば何らかの足跡が残る。その証しが思い出品である。

 

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 上図は、50年分のスクラップ記事情報を納めた本箱。

 今までの50年分で62個のボックスファイルに整理した。それを日々見直している。そうすると当時のことが思い出されて、「よくやったね、頑張ったね」と自分で自分を褒めて、いつ死んでもいい気持ちになる。

 一つのボックスファイルは約10kgである。62個で、総重量620kgであり、思い出は重いで...?

 

6S

 6S(整理・整頓・清掃・清潔・躾・睡眠)を徹底する。

 6Sであれば、断捨離なしでも、家がゴミ屋敷になることはない。

 必要なものがすぐ出せるようにすることは、整理整頓である。

 不要なものやゴミを捨て、住む家の中を清掃して清潔にする。

 ご先祖の恩に報いる生活をする。そういう躾が人生を豊かにする。

 それは断捨離とは違う。今の断捨離ブームでは、人生で大事な思い出まで捨てている。

 睡眠は脳内の老廃物の整理整頓清掃清潔である。十分な睡眠が健康維持に必要である。睡眠不足が認知症を招く。

 毎日の睡眠とは永眠の事前練習である。その日に、やることをやり切れば、後は安らかに眠ることが出来る。人生の使命を果たせば、安らかに永眠できる。

 よく働いた一日は、安らかな眠りを賜う。

 よく働いた一生は、安らかな永眠を賜う。  ゲーテ

 死は睡眠に似ている。眠りにつき、人生でただ一度だけ目の覚めない時がある。それが永眠である。そのままいつもの眠りについて、朝になったら死んでいたというのが、理想である。

 

理想の死にかた

 『幸福論』を書いたカール・ヒルティは77歳まで現役で働いていた。1909年没だから、現在なら100歳に近い年齢である。彼は、朝、いつものように散歩に出かけ、帰ってきたら、疲れたと言って横になり、そのまま永眠した。

 

 やるべきことをやっていれば、何時旅立っても後悔はない。その日がいい日で、旅立ちの日である。やるべきことをやらず、やり残すから、後悔が残る。

 私は今はやることが多すぎ、忙しすぎて、死んでいる暇がない。死ぬんだって、その準備に時間がかかる。死は人生で最大で最後のイベントなのだ。

 

お迎えはカンバン方式(トヨタ生産システム)

 カンバン方式とは、後工程が必要な品数を前工程に要求して、その分を生産するシステムである。お迎えが来たということは、あの世が、貴方を必要としているのだ。お迎えが来たら、すぐ行かねばあの世の管理者が困ることになる。あの世だって、閻魔様の裁判スケジュールがある。閻魔様も忙しのだ。三途の川の河の渡し舟だって、運行スケジュールがある。あの世でも生産計画(死亡計画?)があるのだ。だから、お迎えがきたら、何時死んでいいように、下準備をしておかねばならない。

 

遺品整理

 遺品は遺品整理屋に頼めば、10万円~20万円ほどでやってくれる。ある人の遺品整理の費用見積もりを取ったら、10万円だった。その金額を比較すると、断捨離する時間が勿体ない。時間は命である。その分の時間を有意義に使おう。20万円程の金を残して、モノを買いまくればよいのだ。

 

 カネはあの世に持って行けない。何時死んでもいいように、カネを使いまくろう。使わないと悔いが残る。高齢者がカネを使えば、日本経済が復活する。それが高齢者の世間への御恩返しだ。カネを持っている高齢者が金を使わないのが問題なのだ。カネを子孫に残せば、子孫が堕落する。

 

 

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2023-10-07  久志能幾研究所通信 2756号  小田泰仙

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2023年10月 3日 (火)

感謝 累計閲覧総数40万回超え 書く目的

 

 本日、2023年10月3日、当ブログの累積閲覧総数が400,000回を超えました。皆様の閲覧にお礼を申し上げます。

 

 2017年5月26日から本ブログを初めて6.3年(通算2322日)、記事総数が2,752通になりました。一日当たり平均1.18通の記事を書いてきた計算です。

 

自分を変える         

 この6年間、多くの事件がありました。師が2名も亡くなり、自分もがんになり、死線をさ迷いました。師との別れ、病気との出会い、お墓造りでのご先祖との出会いがありました。そして「フリーデス」の言葉との出会いがありました。言葉にも出会いがあります。その言葉に出会っても、自分が成長していないと、見過ごしてしまう。たった一言で人生が変わる場合もあります。言葉は言霊なのです。

 出会う事件とは、自分のレベルに相応した事象しか遭遇しません。その事件を通して自分の立ち位置を確認し、自分を見直し、課題を見てきました。それを文章化で視える化で明確にすることは、自分の生き方を見直すことにもなります。それで皆さんの参考になれば幸いです。 

  フリーデス(死の解放)をフリーセックスから学ぶ

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付加価値

 世のブログやYouTubeでは、だらだらと書いてあるブログや無作為に話す動画が多いのが現実です。動画では、カネ稼ぎが目的で、視聴者の時間を無視した作品が多く、二度と見たくもない動画が氾濫しています。私は50年経っても、皆さんが何らかの付加価値を見出し、かつ古さを感じない緻密な文章にすべく、読み直しに耐えるべく、何度も校正を経てから上げています。

 私も人間ですので、多少の誤字脱字の見落としはご了承ください。気が付いた時点で、内容を含めて更新しています。写真の追加も頻繁にしています。

 その点で、YouTubeでは撮り直し、動画修正には時間がかかり過ぎます。そんなことに命を使いたくない。だからそれへの参入に二の足を踏んでいます。

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2023-10-03  久志能幾研究所通信 2753号  小田泰仙

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2023年10月 2日 (月)

フリーデス(死の解放)をフリーセックスから学ぶ

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 先週、私の町内で2名の方が連続して亡くなられた。季節の変わり目の夜に鳴る救急車のサイレント音はその知らせである。お二方とも94歳、85歳で、天寿と言えるお歳である。その音は自分にも迫ってきた「死」を予告する。人は古希を超えると、余命は統計的に10年以下である。いつお迎えが来ても不思議ではない。ましてや、がんを罹患していれば、なおさらその思いは強い。

 

 生あるものは、生老病死である。生は偶然だが、死は必至である。頭では分かっていても、何とか死から逃れたいと思うのが人間の性である。その死の束縛からのがれることが、フリーデスである。

 お迎えは、突然に来る。いま忙しいからと、拒否はできない。それは私が前職で働いていた期間、20名余の仲間が、還暦前に世を去ったことでも身に染みている。死はいつも突然である。

 だからいつお迎えがきても良いように、事前準備をしっかりして、いつ死んでもいいように毎日を充実して生きることが大事だ。それを私は下重暁子著『明日死んでもいいための44のレッスン』(玄冬舎)を読んで再認識した。毎日を最期の日として、心残りが無いように生きる。それがフリーデスである。

 日本は災害の多い国である。その準備をしておけば安心である。死も同じく災害である。その事前準備をしっかりとしよう。死はいわば、真夜中の停電である。死は停電だから、懐中電灯に相当するものを準備しよう。

 

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死の懐中電灯

 具体的な死後の準備と、死の前の心の準備が必要だ。私はお墓の準備した。そして戒名を授かり、戒名を墓誌へ刻字(字に朱を入れた)した。葬儀と死後50年間の法要を菩提寺に依頼済みである。後は安心して死ぬだけである。そうなるとなかなかお迎えが来ない。皮肉である。

 心の準備は宗教である。私は曹洞宗と自分教に帰依している。それが心の安らぎを与えてくれる。宗教はそれで十分である。自分が信じれるならどんな宗教でも構わない。それが死生観である。

 お釈迦様はあの世が有るともないとも言われなかった。「人生は無常、ただ精進せよ」とだけ言い残された。最期の日まで、人間として正しい道を歩み、精進をするだけ。その途中で突然に死が訪れる。人は生まれ、死んでいく。その途中の道で、幸せであれば十分である。それで死の恐怖から解放される。それがフリーデスである。

 

Free: (to do smoothing) not under the control or in the power of somebody else     (Oxford現代英英辞典)

自由とは、誰かの力で支配されない状態。

 

自由とは

 ものごとの決定の自由とは、「自ら」に「由る」ことである。どんな決定でも、自分に自由がある。自らがしっかりしていれば、どんな決定でも、その先の延長線上に死がある。その死には自分の責任がある。その歩いている途中で幸せであれば、何時死んでも悔いはない。

 

 

フリーセックス

 スウェーデンのフリーセックスでいう「Free」とは、性の拘束、社会規則や昔の慣習からの自由・開放という意味である。日本で取り立たされている淫乱不埒なセックス風俗の推進ではない。スウェーデンでは援助交際もヘルスないし、ポルノショップも大都会で数軒しかない。

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 スウェーデン ストックホルム駅 1985年9月14日 著者撮影

 日本の繁華街とは比べるべくもない。これではポルノショップも商売にならない。  

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 例えばsmoking freeとはタバコの煙からの自由という意味で「禁煙場所」である。スウェーデンでは、小学校から性教育がきちんとされている。この国では愛がないと何事も進まない。結婚も離婚も自由だから不倫もない。結果として、望まれないで生まれてくる子供はほとんどない。Freeだから愛に自己責任がある。一人の人間としての人生時間を両親から愛を持って育てられるから責任ある人生を送れる。日本の親が躾け教育を放棄した現実が、「切れる」子供の多発である。無責任な親が日本の社会の時間を奪っている。親が子供の教育に責任をもたなくて子供の将来の時間はない。

 日本では金があり、上級国民であれば、性の世界で何でもありだ。例えば木原誠二のご乱交ご淫行は週刊文春で告発されているが、日本最高権力者の岸田首相は目て見ぬふりである。それが日本の恥ずかしい実態で、汚職フリーセックスである。公務員の正規の給与ではそんなことはできない。やましい所から金が出てないと、あり得ない話である。

 

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 馬場恵峰書

2023-10-02  久志能幾研究所通信 2752号  小田泰仙

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2023年9月27日 (水)

六つ墓村の墓じまい、タタリで癌に? (1/2) 改訂版

ご先祖のお墓を墓じまい

 祖母の親戚の叔母が2008年に亡くなり家が絶えた。叔母は京都の尼寺の住職であった。人間国宝の日本舞踊四世家元 四代目井上八千代の葬儀(2004年3月)では、この安寿様が導師を勤められた。舞妓さんたちがお参りする尼寺である。安寿様は愛知専門尼僧堂の青山俊董堂長に師事された。祖母は北尾家の最後の人であり、逝去された事でご先祖の4つあるお墓をどうするかの問題が表面化した。北尾家は井伊直弼公にご縁のある人であった。

 2015年、私が両親の23回忌、13回忌の法要をした時にそれが判明した。叔母はいつも何も言わない方であったが、意図があって親戚に連絡をしなかったのかもしれない。自分の代で家が途絶えることで、お墓の件で、菩提寺の住職にしかるべき対応をお願いしていたようだ。しかしその住職も認知症で2014年、施設に入院してしまったので、安寿様がどういうお願いをされたか不明である。安寿様も想定外である。その住職は私と同年である。人ごとではないが、前住職の認知症はなるべくして発病した業である。天網怪怪疎にして漏らさず。それも20年のタイマー付きである。

 叔母は、曹洞宗の住職として、永平寺に納骨をされていた。2015年4月27日、私は、福井の大本山の永平寺に出かけて回向のお経を上げていただいた。親族控え室で小一時間ほど待ち、本堂に入った。その日は3家の納経の儀があり、8名の僧侶により読経を上げていただき焼香と拝礼をした。なにかほっとした。

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旅立ち

  自分も何時かは旅立たねばならない。その時、後の人に自分の意思が正確に伝えられるかは分からない。死人に口なしで意思が捏造されることもある。明日、不慮の事故や脳梗塞、心筋梗塞で倒れるかもしれない。この3つの死因の比率は約30%である。死後の準備の間もないまま来世に旅立つ人が数多いのが現実である。今回の事象でそれの現実を教えてもらった。これが家系図の作成、遺言状の作成をする決断のご縁となった。

 

お墓の再建

 今回の件はご先祖からの啓示であった。私が叔母の先祖代々のお墓をお守りし、この機会に50年余を経過した小田家の墓を再建し、祖母方の先祖代々のお墓を統合・合祀する決断をした。同時に彦根藩に関係した北尾道仙の墓を再建する。

 50年余を経過すると、墓石の品質が明かになる。質の良い石は50年くらいでは劣化しないが、品質の悪い石は10年程でも劣化が目立つようになる。墓石のほころびが、魂を込めた仕事の大切さを教えてくれた。松居石材商店(文政12(1828)年創業)の松居保行店主が、本件で墓参りに行った時、たまたま仕事で墓地に来ていて、現物の墓石でその石の質の差を説明してくれた。

 

明徳

 今の自分の仕事の品質(徳)が10年、100年、1,000年後に明らかにされる。それが明徳の現れである。今の仕事にどれだけの徳を込めるかである。松本明慶先生が高野山中門の四天王に、今後の1,000年間の守り佛としての思いを込めて造立した志が伝わってきた。この教えこそが師天王の教えである。

 その経緯もあり、私はそのお墓を引き継ぐことを決意した。そして六基あった古いお墓を墓じまいして、三基のお墓を新たに建てた。それでご先祖のために、父方と母方のご先祖の墓を統合した供養塔として五輪塔を建てた。

 今振り返ると、お墓を建てた年は、高野山開山1200年の2015年で、再興された中門に松本明慶大仏師が四天王を納佛し、開眼法要をした年であった。よき因縁であった。

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 ご先祖のお墓

  京都の安寿様が守っておられた。その叔母が亡くなり、正式に墓じまいの法要をして、新たに五輪塔を建てた。

 

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 墓の字は馬場恵峰師に揮毫していただいた。

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 父方と母方のご先祖の墓を統合した供養塔としての五輪塔

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 松本明慶大仏師作 広目天

  高野山中門に納佛直前の姿 松本工房にて  ‎2014‎年‎11‎月‎23‎日

  高野山中門に設置されると、邪鬼の姿を含めての姿は、柵のためあまり見えない。この全身の姿を拝めたのは稀有なご縁であった。

 邪鬼は四天王に踏みつけられているのではない。四天王を支えているのだ。自分の生がご先祖に支えられていると同じである。ご先祖の姿はお墓でしか見えない。それは邪鬼の様と似ている。邪鬼とは現世で生きる我々を支える仏様の全てである。

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松本明慶大仏師作 持国天

  高野山中門に納佛直前の姿 松本工房にて  ‎2014‎年‎11‎月‎23‎日

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 高野山中門の広目天 開眼法要後 2015年4月25日

 足元の邪鬼の姿は前面の柵のため良く見えない。

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  高野山中門の持国天 開眼法要後 2015年4月25日

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2023-09-25  久志能幾研究所通信 2749号  小田泰仙

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2023年9月20日 (水)

お墓参り お花無し、最高のお供えもの

 私はお盆のお墓参り時に、お花は供えない。これは裕福な叔母からの助言である。お墓に供えるお花は、見栄、世間体である。そんなことに金を無駄に使うな、との教えであった。

 死んだご先祖のお墓に花を供えても、お供物を供えても、墓石に毛布を掛けても、ご先祖は喜びはしない。それよりも、その金額をお布施として、お寺さんに寄進した方がよい。私はそうしている。お寺への手土産も、その代金分をお寺さんに寄進している。そうすればお寺さんもそのお金を墓地の維持管理費に回せる。皆さんのためになる。

 また自家のお墓は遠方にあるので、毎日参上して、お花を手入れができない。この炎天下の折、水を追加することもできない。花が枯れて腐っても、その廃棄処理もできず、却ってお寺さんに迷惑をかける。だから私はお花を供えない。

 

 ご先祖や亡き両親が墓参りで一番喜ぶことは、自分が元気で幸せに暮らしていることを墓前で報告し、その姿を見せることだ。健康でないと墓参りにも行けまい。墓前で手を合わせる事が出来る幸せを感じ、育ててくれた恩に感謝することが、最大の供養である。その感謝の念を持って生きていくと運命は好転する。それは感謝することの練習なのだ。感謝こそ人生を作る基礎要素である。

 

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 ガンになり、しばらく墓参りができず過ごし、久しぶりに墓参りを出来たことで、健康の有難さを痛感した。健康で幸せでないと墓参りもできない。

 

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 上図は病気見舞いのお礼として皆さんに配った色紙。

 馬場恵峰先生に、約20枚を揮毫していただいた。

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  色紙が汚れないように、後ろから書くのです。

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‎  日中文化資料館の教室にて 馬場恵峰先生 2019‎年‎10‎月‎11‎日、

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 その馬場恵峰先生もその2年後、94歳で亡くなられた。馬場恵峰先生は、健康に気を使って、最期まで現役で活躍された。健康こそが、親に恩を返す手段である。健康でなければ、感謝もできない。死んでもいいから?、健康第一である。

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2023-09-20 久志能幾研究所通信 2744号  小田泰仙

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2023年9月16日 (土)

命無常、動画「魅惑の美少年 Top10発表」、焼香順違反

 

 私は最近、よくYouTubeを観る。特にジャニーズ問題や木原事件の動画が氾濫していてつい見てしまう。その内容をグダグダと解説されていて、いつの間にか1時間が経ってしまう。何時もその後に後悔である。その内容は雑誌の文書なら3分で終わる。

 「魅惑の美少年 Top10」等の過激題名の動画に気もそぞろになる。またその他に「なになにのTOP10」、「人生が終わるやってはいけないTOP5」、「幸せになる最大の手段 TOP10」等の動画が氾濫しており、そのタイトルの誘惑に負けて、つい視聴をしてしまう。見終わって、大体の場合は時間を損した」と大後悔である。

 

 その発表の多くがランキングの10番目の最後からの発表である。まるで喪主の焼香を最後にした焼香順序の発表のようだ。その時は、私はすぐその動画視聴を打ち切る。そのまま見続けるのは時間の無駄である。私の人生時間を強奪されるからだ。なぜ一番大事な1番目の発表が最後なのだ? 

 

時間は命

 命とはこの世で使える時間の総量である。つまり論理思考のない動画は、その時間を強奪する。ある意味、殺時、殺人である。視聴者の時間を大事にしない利己主義の動画を見れば、人生の破綻である。論理思考の無い動画を見ても、自分の命が無駄遣いされるからだ。時間は命である。ビジネス文書では、一番大事な項目からの説明が求められる。そんな動画を見る生活を続けていたら、人生の大事な時間が無くなってしまう。

 魅惑的で華麗な美少年も、いつしか加齢して中年となる。そして醜態な性被害、性加害の裁判に巻き込まれる。さらに歳を取り、「紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし」(修証義)の老年期に入り、この世から消える。美少年はそんな人生を望んだのだろうか。それは死生学の正道から外れた外道の道である。

 命は無常である。命は刻一刻と尽きて行く。その動画作成者は、時間など無限にあると思って、視聴者の時間を奪っている。それは犯罪である。ジャニーズの性暴力問題より罪が重いと私は思う。なにせその視聴者の命の数は多い。その時間分で、視聴者が人生の付加価値を生み出せなくなった。日本の損失である。

 

 「道を得る事は根の理鈍によらず。人人皆法を悟るべきなり。精進と懈怠によりて得道の遅滞あり。進怠の不同は志の至ると至らざるとなり。志の至らざるは無常を思わざる故なり。念念に死去する。畢竟してしばらくも留まらず。暫く存ずる間、時光を空しく過ごすことなかれ(『正法眼蔵隋聞記』)

 

 だらだらとYouTubeを見るのは、命の無常を思わないからだ。命は刻一刻と尽きて行く。無為にYouTubeを見続けるのは、自分の命の使命(志)を忘れたためだ。人生の大事を急げ、である。800年前の道元禅師の言葉は今でも心に響く。

 

YouTube動画のタイトル

 動画では最初の5分から10分ほどを見ないとその内容が分からない。YouTube動画のタイトルトルは過激気味で、その内容を正しく表示されていない動画が多い。動画再生の時間稼ぎ、金儲け主義で、視聴者のことを考えていない動画が氾濫している。文書なら一記事を10秒で一覧でき、読むに値するか判断が出来る。それが動画との大きな差である。

 

動画への考え

 私のブログの読者から、YouTubeへの参入を勧められているが、私はどうしても視聴者の時間を奪うような気がして、参入を躊躇している。やはり文書と動画では、情報伝達の時間効率が違う。動画を見ると、どうしても思考が扇情的に支配され、動画作成者の思想が一方的に押し付けられがちである。その分、深い洞察ができないように思う。

 ブログの記事や雑誌の記事なら、考えながら読むことができる。

 ヒトラーの演説も、一方的な主張の押しつけで、一種の洗脳効果がある。あの演説を文書にして読めば、ドイツ国民はあのような扇情された誤った道には行かなかったのではないか。

 動画が氾濫すると、日本人の思考が劣化するように危惧している。今の日本社会の問題は、愚劣なテレビ番組が氾濫したの一因である。テレビに洗脳され、本を読まなくなった日本人の思考レベルはかなり劣化した。その象徴が日本政治の劣化である。政治のレベルは国民のレベルである。下劣な政治家に無知な国民が投票した結果が、今の政治の堕落である。

 

真実の声

 私は文書で何を伝えるか、そのための情報伝達の構成はどうあるべきかを考えて文書を書いている。その作業はいまのYouTube動画のスタイルでは難しいと思う。

 ただしYouTubeは、洗脳機械のテレビよりは権力への忖度が少ないので、真実を報道できて良い。YouTubeがなければ、木原誠二事件もジャニーズ事件も世に出なかっただろう。その点は評価できる。今のマスゴミは腐っていて、腐臭がする。私は6週間前に日本経済新聞の購読を止め、マスコミから遠ざかっている。変な洗脳報道を受けないので、健やかな気分である。

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2023-09-16  久志能幾研究所通信 2741号  小田泰仙

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2023年9月14日 (木)

お墓の断捨離、三度の死、永遠の命

 

 先日(9月11日)、暑さも少し和らいだので墓参りに行ってきた。最近の異常な暑さのため、このお盆の墓参りを控えた。老いて体力の衰えた身には命の危険がある。今回、無事墓参りが出来て安堵である。雨の予想であったが、雨にも降られず良き墓参りであった。帰ってきたら雨になった。ご先祖様のご加護に感謝である。

 

 お寺の墓地を見渡して、お墓(墓石)も生老病死である、とつくづくと実感した。私が2015年に自家のお墓を改建したとき、今まで6基あるお墓を、3基に統合した。古いお墓は正式の手順を踏んで墓じまいをした。今までの複数のご先祖の墓を統合し、先祖代々の供養塔として五輪の塔を建てた。

 今までは6基のお墓にお参りをしなければならず、時間もかかり、お花代も馬鹿にならなかった。それを3基に統合して良かったと思う。お墓だって、整理整頓清潔清掃が必要である。

 

ご先祖の墓を再建

 今回のお墓の改建で、一番古いご先祖様である「北尾道仙」のお墓を再建することにした。「北尾道仙」は1734年に没したご先祖である。その敬称として「黄鶴」が付いていた。私の叔母が長年、その経歴を探していた。それを私が継続して調査して、大変なご先祖であることが分かり、このお墓だけ別に再建することにした。叔母は京都の尼寺の住職であった。

 

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 墓の字は馬場恵峰師に揮毫していただいた。

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墓石の生老病死

 他家のお墓を見ると、同じ場所に古い墓石が積み重ねて置かれている。墓石の字も風化でかすれており、誰の墓石かもわからない状態で、墓石が積み重ねて置かれている。その墓の所有者は、古い墓石を廃棄処分することが、罰当たりとでも思っているのだろう。しかし、それは逆にご先祖に対して失礼だと思う。位牌でも50年経つとお焚き上げするのが正式の手順である。墓石だって、生老病死があり、寿命がある。特に風雪の厳しい土地では、建立後50年も経つと、墓石がぼろぼろになりがちだ。お墓の石だってお役目が済めば丁寧に弔ってあげるべきだと思う。

 

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  所狭しと置かれたご先祖の墓石の例

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  琵琶湖の風雪で風化した墓石
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墓地のゴミ屋敷

 その朽ちた状態で墓石を放置するのは、却ってご先祖様に失礼だと思う。またそれを管理する子孫を苦しめることになる。そんなことをご先祖も望んでいないだろう。その墓石を墓じまいすることが正解である。墓地の整理整頓である。それを放置すると、その墓地がゴミ屋敷のようになる。

 

三度の死

 人は三度死ぬ。一度目は肉体的な死である。二度目は故人を知っている人が此の世からいなくなる時である。三度目は、この世にその痕跡が無くなったときである。

 その時に墓石があっても意味がない。遠い時代の親戚の人はそれに当る。

 

 しかし、孔子、佐藤一斎師、安岡正篤師、渡部昇一師等の方はその著書が何度も再版され、その師はその著書で世に語りかけている。師がまだ生きていると同じである。そういう師のお墓は保存してお参りしても良いだろう。その師は永遠の命がある。

 私の師であった馬場恵峰先生もその遺作の書画が大量に我が家にある。私はそれを部屋に飾って、先生の遺徳を偲んでいる。その場合も恵峰先生は私の中でまだ生き続けている。わたしはそういう存在に憧れる。

 

2023-09-14  久志能幾研究所通信 2740号  小田泰仙

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2023年9月10日 (日)

「めんどくさい出症」は認知症の前兆

 

 何ごとも、正しくやるのはめんどくさいものだ。昔ながらの細かな決め事がある。なぜこんなことまでやるの?と思うことが多々ある。しかし「めんどくさい」てくるのは認知症の前兆である。

 だからこそ、めんどうなことをやるべきだ。めんどくさいことをやることは、認知症防止の訓練となる。めんどくさいと思ってやらないと、認知症へまっしぐらである。

 脳はその性格上、無意識にさぼる方向に舵を切る。脳も楽をしたいのだ。考えることは重労働である。だから、「さぼろう」という誘惑に負けると認知症へまっしぐらである。脳を堕落させてはならない。

 「めんどくさい」とは「めんどうなこと」が腐臭を帯びて「臭く」なっている状態である。脳は生鮮食品である。放置するとすぐ腐る。生物界の鉄則は、使わない器官は退化する、である。

 だから、「楽な生活ができる介護施設に入ると、認知症の進行が急速に進む」と介護士は証言する。

 日本社会にワープロが普及して、日本人は漢字を使うことが楽になったが、ワープロが無ければ、漢字を正確に自分の手で書けなくなった。それと同じである。それこそ使わない機能は退化する、である。

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   馬場恵峰書  老いの川柳
 

料理

 料理するのがめんどくさいとインスタント食品ばかりを食べると、添加物等の毒で更に認知症が進む。またインスタント食品は植物繊維質が少なく、便秘になりがちだ。便秘症も認知症になりやすい。

 料理こそ、頭をフル活用させる頭の訓練手段である。自炊をすれば、添加物の毒から逃れられるし、お金は貯まる。料理をすることは、今ある食材をどう使うか、どうすれば美味しくなるか、頭はフル回転である。

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噛むのがめんどくさい

 最近は硬い食物を避け、簡単に咀嚼できるものが売れている。噛むことは脳に刺激が行き、ボケ防止の一役を担っている。それが少なくなると、早くボケる。また植物性の繊維質の少ない流動食を食べると、便秘になりがちだ。さらに噛まないからだ液の分泌も少なくなり、腸内環境も悪化し、消化に悪い影響を与える。便秘症の人とそうでない人を比較すると、認知症になる速度が2.7倍も速くなるという(東北大学加齢研究所の中瀬秦然氏の研究で)。

研究テーマ

 私は人を料理して喰うことが趣味である。久志能幾研究所では、人間の生き方、人間の始末の仕方を研究している。それが死生学である。人生最大のテーマは、自分の死にざまである。今それに注力して研究している。近い将来、私も死ぬ。生は偶然だが、死は必然である。

 しかし最近は、煮ても焼いても食えぬヒトが増えて閉口している。人は喰われなくなったら、おしまいである。特に毒親、毒息子、子殺し親、親殺し子、拝金の毒政治屋、死刑になりたいから殺人を犯す鬼、認知症老人が跋扈している。それを喰うと反吐が出る。それに当れば、食中毒である。

 人に美味しく喰われるとは、それは利他行で社会に貢献している証である。

 

現金払い

 今はキャッシュレスが大流行りである。それは消費者が罠にはまった状態である。スマホ決済やペイペイ電子決済等は、頭を悪くし、金遣いを荒くさせる。それがカード会社の付け目である。その悪だくみに乗せられれば、お金は貯まらない。同時進行で、頭の回転が鈍くなる。

 

 私は手持ちの現金額とおつりを考えて、現金払いが多い。必要に応じてクレジットカードや鉄道用カード、特定スーパーの蓄金カードを使う。私はペイペイが嫌いで、いつもニコニコ現金払いである。ローンも組んだことが無い。

 私はペイペイの平社員ではない。自分有限会社の社長である。社員は一人で、社長、部長、事務員の掛け持ちである。とんだ部長法?ですいません、である。

 

信用

 そもそも「クレジット」とは「信用」のことである。自分自身では相手は信用してくれないので、その代役としてクレジットカードで信用を得ている。おかしなものだ。

 100年前の日本には、ツケ、顔という先進的な信用システムがあった。自分の顔さえ出せば、ツケでモノが買えた。世界最先端の信用システムであった。大晦日に集金人に来るので、それで払えばよい。大晦日の集金人から逃げられれば、1年後の大晦日まで猶予が貰える? 懐かしい落語の世界である。

 しかしそれが今は、人を信用しないクレジットカード決済である。西洋文化を取り入れて、「カードのない相手は泥棒と思え」というシステムを導入した。それは日本の信用の文化とは隔絶したシステムである。日本は野蛮な世界の軍門に下ったのだ。情けない。

 

 スマホ決済やカード決済などは、カード会社のお金を多く使わせるたくらみである。その手数料は高い。カードを使う時、消費者には、その負担分は見えないが、その分は、隠れて価格に薄く広く上乗せされている。そうしないとお店もやっていけない。だから売上高の小さな個人店舗は現金の方を喜ぶ。支払い時、消費者が楽になっても、その分、しっかりと密かにカード会社に手数料を取られている。

 私はその昔、その仕組みを知っていたので、高額商品を買う時、カード払いで価格交渉して、その後、現金で払うからと手数料分の5%を値引きさせていた。高額商品の5%は結構大きい。

 

おカネの恩返し

 お金を払う時は、お金に感謝を込めて相手に渡す。そうすれば、後日、お金がお友達を連れて帰ってきてくれる。お金はお足である。それがキャッシュレスでは、そうはいかない。お金に足がなければ幽霊だ。だからすぐ消えてしまう?

 

カードの目的

 そもそもクレジットカードは、ユダヤ人が消費者に金遣いを荒くさせるために発明した消費誘惑道具である。クレジットカードを発明したユダヤ人は、決してカードを使わない。カードを使うと、お金を使い過ぎることをユダヤ人が知っているからだ。それがユダヤ人にお金持ちが多い理由である。ユダヤ人は、世界から迫害を受けてきた歴史がある。現金取引はユダヤ人の危機管理である。

 

脳も労働ボイコット

 人は40歳を過ぎると、年に0.5%ずつ脳の容積が減っていく。60歳では40歳の時より脳の容積が10%も減っている。楽をすると更にその減少速度が加速する。「あれ、それ、その」を連発するとは、脳が言語領域の職務を放棄したわけである。脳の劣化防止として、めんどくさくてもキチンとモノが言えるように日々訓練をしよう。それが家族を地獄に落とすことを防ぐ。認知症になると本人は極楽とんぼ状態だが、家族は地獄である。

 

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ピアノ

 ピアノを弾くのはめんどくさいことだ。しかしやり出すと病みつきになる。私はボケ防止として、65歳からピアノを習い始めた。64歳でグランドピアノを買い、河村義子先生の個人レッスンを受け始めた。河村義子先生ががんで亡くなられ、また私にもがんが発見された。今はがん治療の病後が芳しくなく、体力も無く、ピアノ練習を休止している。今は、ピアノ練習を再開しようと体力増強に取り組んでいる。ピアノを弾くことは、両手を使っての運動なので認知症防止に効果が高い。

 

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左手の活用

 認知症防止の目的で、時折、左手で箸を持って食事をしている。時間がかかるが、却ってゆっくりと食べるのでよいようだ。私は、蕎麦でも左手で食べることが出来る。

 

書道

 認知症防止には、手書き、それも毛筆での手紙、写経がよい。馬場恵峰先生への手紙は、相手が書道の達人なので、ワープロ文書と言うわけにいかず、礼状は全て手書き、毛筆であった。毛筆でも毛筆のペンである。さすがに墨を磨ってのことはできない。それは時間がかかり過ぎ、続かない。

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写経

 写経もよい認知症防止である。今は法華経の音読に熱中してお休み中だが、今までは毎日写経をしていた。それは一日に般若心経の2行だけの写経である。そうしないと続かない。2行だけなら、10分程度で済ませられる。約1週間で一枚の写経が完成する。

 2018年にウィーンに行ったときも、ホテルで写経をした。

 2015年にお墓を作った時は、約110枚の写経をして、お墓に納めた。ご先祖様が認知症になることから守って下さるだろう。

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音読

 本を黙読するよりは、音読した方がめんどくさいが、脳の活性化には効果がある。私は朝のお勤め以外に、法華経を音読している。漢文の読み下しと、石原慎太郎の新解釈現代語訳の法華経を音読である。

 

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  馬場恵峰書 

 

2023-09-10  久志能幾研究所通信 2739号  小田泰仙

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