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2020年10月 6日 (火)

読経とは、願掛けの呪文ではない

 

 お経とは願い事を仏様に伝える呪文ではない。呪文ではないので、お経は暗唱して、唱えてはならない。読経とは、経典の文言を声に出して「読む」ことである。

 お経の一語、一語の文言を毎回、読んで確認しながら、自分の今の言動に照らして、反省する所は無いかを問うことが読経である。自分の生き方を求めて読むことである。だから10年も20年も同じ経典を読んでいても、毎回、新しい発見がある。

 法事で導師が読経する姿を見れば、必ず、経典を見ながら読んでおられる。経典を見ずに暗唱して読経はしない。昨日の33回忌の法事の読経でもそうであった。

 それを法事の後に住職とお話をして、初めてそのことを知った。70にして69の非を知るである。

 私はこの30年間、毎朝、般若心経、修証義を読経しているが、確かに毎回、自分の行動を振り返るきっかけとなっていた。佛はあの世にはいない。自分の内におわします。

 この日の法要では、般若心経と修証義の第1章、第2章、第3章を導師と共に読経した。導師の読み方を聞きながら経を読むと新たな思いが湧いてくる。

 

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馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集 「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より

2020-10-06 久志能幾研究所通信 1775  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年10月 5日 (月)

その時になって後悔しないの?

 

 今日、2020年10月5日、遠戚の人の33回忌の法要を執り行った。彼は身寄りがなく、法要をする親戚がなく気の毒で、供養として法要を住職にして頂いた。参列者は私一人である。

 彼も仏になって33年である。33回忌とは、あの世で一段、位が上がって仏道を精進する。彼も静寂な世界で吾が親族を見守っている。

 彼は孤独死であった。彼も死ぬときは無念であったろう。だれでも死ぬ時は一人である。誰でも、死は必然で、いつ訪れるやも知れぬ。それも己の歳が、後期高齢者資格に近づけば、他人ごとではない。私は癌を罹患して、余命宣告を受けた身である。死は明日のことなのだ。その法要の読経を聞きながら、その間際に、やっておけばよかったと後悔しないか、自問した。

 

生とは

 生は死とセットで生命体である。生だけがあるのではない。

 死があるから、生が輝く。

 どんな生命体、職位、職業にも、寿命、任期がある。

 死なない生命体はない。

 永遠に今の状態が続くと思うのは、傲慢である。

 多く人は死を忘れている。

 忘れるというよりも、それに蓋をして見ないようにしているだけ。

 死を考えるとは、生を考えること。

 

人生の目的

 何のために生きているのか。

 いつまで惰性で働くのか。

 それで回りが幸せになるのか。迷惑ではないのか。

 あと、何年生かされると思っているのか。

 残された時間はそんなにも多くない。

 残り少ない人生で、やりたいことがないのか。

 

死の床での後悔

 その時になって、今が後悔しない生き方なのか。

 残り少ない時間を、人に迎合して生きて、その時に後悔しないのか。

 何のために、ギャンブルに手を出すのか。

 何のために殺生をするのか。

 それで何が残るのか。

 何のために、群れるのか。

 命を削る狂気の液体なのに、なぜ酒を飲む。

 己と妻子を癌、認知症にするタバコなのに、なぜ吸う。

 一日、無為に過ごすことがその間際で後悔しないか。

 その趣味が自分の人生にどういう付加価値を与えるのか。

 人は裸で生まれて、裸で死んでいく。何も持って逝けない。

 名誉も、金もモノも女もこの世に置いて逝く。

 死を前提に人生を考えないから、その間際で後悔する。

 今まで、畜生界で生きてきても、最期の時間くらいは、天上界は無理として、せめて人間界で生きたいと思う。

 

 今日、静かなお寺のお堂で生死を考える良い機会を得た。法要にお金がかかったが、それに見合うご縁を頂いた。

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Photo   馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集 「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より

2020-10-05 久志能幾研究所通信 1773  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年10月 2日 (金)

トヨタ生産方式 vs 大垣市凄惨システム

 

 トヨタ生産システムでは、まず顧客から出発して、各工程で、「この工程は顧客に対してどのような付加価値を生み出すか」を問かける。

   ジェフリー・K・ライカ―著『ザ・トヨタウェイ』

 トヨタ生産方式では、前工程は神様、後工程は、お客様である。前工程の神様の要求は絶対である。自分の工程で、後工程のお客様を如何に喜ばせるかが、付加価値創造の要である。

 

熾烈な原価低減活動

 トヨタ生産システムでは、他社よりも高い付加価値を生み出すために、時間を減らすことを重点に活動する。だから1分、100円の時間レートで生産を考える。時間の無駄、材料の無駄、作業の無駄無理を無くして、付加価値を上げて、生産するモノのコストを下げる。それがカイゼン活動である。

 今でもトヨタ自動車の部品単価の原価では、10銭単位で値引き交渉がある。一つの部品の製造で、0.1円の改善によるコストダウンでも、0.1円×2,000,000個で200,000円の儲けである。一つの部品で1円のコストダウンが成功すれば、大漁である。その積み上げで、一台の車が出来る。

 

トヨタの原価低減活動

 だから部品メーカは、部品の1円単位のコストダウンのため、毎週30人程の責任者・担当者が集まり、喧々諤々の議論で、原価低減対策会議を行う。その会議では泡を飛ばしての激論である。なにせ品質を下げて原価を下げても、それが原因で死亡事故にでもなれば、担当者の首が飛ぶし、役員の首も飛ぶ。会社も倒産する恐れがある。その事例がタカタであり、三菱自動車である。トヨタでは原価低減は真剣勝負である。それは自動車部品の開発には、人の命がかかっているからだ。

 ある時は、ある部品のОリングシールの締め代を0.05mm変えるか変えないかで激論になり、延々4時間も会議が続いてた。私は音を上げた。それほどに原価低減活動は熾烈である。そうやって原価低減をしないと、他社に仕事が取られてしまうのだ。

 そうやって原価低減案で試作した部品は、規格の上下限で製作した試作品で耐久試験をする。ある場合は、北海道の網走に寒冷地試験場にその部品を持ち込み、寒冷地の評価試験をする。そしてその安全を確認してから、やっと生産ラインに載せることが出来る。だから一つの部品の設計変更には多大な工数がかかる。

 そういう乾いた雑巾を絞るような地道な活動で、トヨタは自動車を作っている。だからトヨタとトヨタグループは過酷な自動車業界の生存戦争の中、生き延びている。

 日産のカルロス・ゴーンは、安易な人員整理、資産の切り売り、系列の切り捨て、検査の誤魔化しで、如何にも業績が回復したように見せかけた。そのカルロス・ゴーンのリバイバルプランは、20年目で化けの皮が剝がれた。問題があってもそれを対処療法で胡麻化したからだ。

 

大垣市の役人天国、市民には凄惨

 大垣市では、お役人の市長が神様である。市民は年貢の市民税を納める下人扱いである。大垣市では役人には天国だが、大垣市民は凄惨である。

 

士農工商の体制

 小川敏の大垣市政では、まず士農工商の体制の上で、自分達の利権のため、「この工程で自分たちのために、どれだけ付加価値(利権)を出すか」で、市政の方針が決まる。大垣市では、市長やお役人は「士」で、商売人が一番下の階級である。お上に陳情しても人間扱いされない。

 だから、「大垣市中心市街地活性化計画」では、まず自分たち役人のために県下一豪華な大垣新市庁舎を建て、ついでに街の活性化方策の泥縄を結う。だから全くその活性化の効果がない。その計画で「新市庁舎建設が街の活性化の核である」と妄言する。誰が考えても、新市庁舎が観光の核になるはずがない。下々はそんなことは気が付かないと思っているようだ。「大垣市中心市街地活性化計画」では、最初に新市庁舎建設ありき、である。

 

 「元気ハツラツ市行事」では、自分達の利権、市外の業者の利権のため、出店の露店商から金を取って招き、在来の商店の商売の邪魔をする。そのため、大垣駅前大通りを通行止めにして、在来の商店主の商売の邪魔をしても知ったことではないのだ。その行事で運営方法のPDCAを回さず、10年近く強引に実行した。その会計報告もマル秘である。それでこの10年で1億円が消えた。

 

大垣市の原価意識のお粗末さ

 大垣市の手配する物件は、杜撰な原価計算で、利権がらみで値段が決められて発注される。その原価計算も、市の職員では計算不能で、裏で業者に見積もりが依頼される。それが行政の実態である。

 だから、126億円もかけて大垣新市庁舎を作ったばかりなのに、その付帯公園に、市民から寄付金を要請する恥ずかしさも平然とする。

 

我思う、我あり

 小川敏、思う、我あり、でその結果が化けて出る。その結果が、この19年間で大垣駅前商店街の80%が店を閉める惨状である。小川敏が市長になって19年間、連続の大垣市公示地価の下落である。公示地価は、神さま示す市長の通信簿である。今の地価は、小川敏の過去の政策の産物、結果である。

 

福岡市の行政

 福岡市の高島市長は、市民に対して付加価値の生まない行事は取り止めた。市長は、表敬訪問を受けず、儀礼的行事には出ない。それをやっても福岡市民にはなんのメリットも生まないからだ。

 大垣市市長の小川敏は、市長表敬訪問、寄付贈呈式に、御用新聞社を呼んで、翌日の紙面に満面の笑みをたたえて(本性の渋面も多い)、紙面を飾る。それで大垣市民にどういう付加価値を与えたか。まるでガキである。そんな暇があったら、大垣市が発展する手段を考えて欲しい。

 

自分に対して

 ODA佛教生産システムでは、10年後の自分から出発して、「世のために、10年後の自分のために、その未来の姿を思い浮かべ、この行動、教育、経験、奉仕活動が、どのような付加価値を生み出すか」を考えて行動する。

 私は自己に対する教育投資(セミナー参加、図書購入、IT機器の購入等)では、常に一定の金額を投資する。不況になって残業手当が減ってもその金額は減らさない。その結果が、私の場合、今の4トンの蔵書である。

 実際はあまりそんなことまで考えて投資はしないが、現実は仏様のご縁で、縁ありて花開くことが多い。有難いことだ。

 道元禅師曰く「佛とは大人なり」。それから言うと、小川敏は小人なり。

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2020年10月 1日 (木)

時間とは何か  磨墨知590-2

 

 人生は言葉の定義で生き様が変わる。言葉をどのように解釈して行動に移すのか、それによって人生の歩き方が変わる。解釈の仕方は国や民族の人生観そのものである。人生をつまらないものと定義すれば、つまらない人生を送る。価値あるものと定義すれば、価値を作るための生き方をする。

 それ故、時間を「量」と捉えるか、「命」と捉えるかでは、生き様に大きな差が出るはずである。

 辞書での解説とは、辞書の各編集者の解釈にすぎない。解釈が同じでないことは下記の辞書例を見れば一目瞭然である。辞書は、あくまで個人的見解である。自分の人生を創る為に、自分で時間を定義しよう。

 ODA佛教の辞書では「時間とは与えられた命である」。

 

リース物件

 その命は、必ず死ぬことが確定のリース物件である。それも仏様から授かったリース物件である。そのリース期間中に、どけだけ自分の命を輝かせられるかを問われる。リース物件だから期限が来れば、仏様に返さねばならぬ。リース満期前でも、使い方が間違っていると、仏様から強制的に没収される。

 

生存的地盤か生命的地盤のどちらで生きる?

 人は生存的地盤で生きると、単なる我欲だけで生きることである。己が死ぬことを考えず物欲、金欲、権利欲に執着して生活し、何時までもそれが続くと思ってしまう。金を持てば更に金が欲しくなる生活となる。権力の座に就けば、何時までもその座を離さない。まるで大垣市の小川敏のような存在である。

 それを生命的地盤で生きると覚悟すると、命は生と死を含めた存在であることを意識して生きる。己も何時かは死ぬ身であることを意識して生きる。だからこそ生命体として己の命を輝かせて生きることが出来る。

 

真のおとなになる

 道元禅師『正法眼蔵』に曰く「諸仏は大人なり」。仏教で佛になるとは、大人(だいにん)になるの意味である。小人(しょうにん・ガキ・こども)で生まれて、修行をして、本当に意味の「大人」になる事を、佛になるという。今の世は、あまりに大人になっていない未熟児が多すぎる。それは佛(真のおとな)になる修行をせず、生存的地盤だけで生きるからだ。

 今の日本社会が停滞している原因は、西洋の個人主義、利己主義、拝金主義、刹那主義、欲望主義に侵されたためである。だからこそ、命が生死を含む存在であることを認識して生きることだ。

 

命の寿命

 どんなモノにも命がある。モノにも命があり、職位にも命がある。大統領、市長なら4年、社長なら2年である。その職位の命が尽きるまでに、その使命をどれだけ全うできるかが問われる。頑張って成果を上げれば、2期目もあるかもしれない。その覚悟がないと、無為無策の任期を務めることになる。

 モノも大事に使えば、その寿命を全うして、自分の道具として一生使える。私は高いモノを大事に長く使っている。

 人間の命のリース期間は、平均で80年である。そのリース期間中で、自分の体を大事に使って、与えられた使命をどれだけ果たすかである。

 幸いなことに、リース物件の己の体を大事に使えば、そのリース期間延長は仏様からご褒美で授けられる。だから死んでもいいから(?)、健康管理が必要なのだ。天才ではない凡人の我々は、長生きすることだ。

 

各辞書での「時間」の定義

 0 時間とは与えられた命である。(ODA佛教の辞書) 

 だから時間にも死がある。時間とは、あくまで自分の命の刻みである。一刻一刻、命は尽きていく。それに対して、他人の時間は止まっている。それを早退性原理(相対性原理?)という。己は皆に見送られ「早退」して、あの世に逝くのだ。だから、その前にやるべき使命を果たすべく、定時(寿命)まではこの世に留まるように精進すべきだ。

1 A continuous measurable quantity forum the past, through the present, and into the furture (Longman)

 過去から現在を通して未来に向って連続的に数えられる量

2 What is measured in minutes, hours, days, etc. (Oxford Adbanced Learner’s Dictionary)

  分、時、日等で測定できるもの 

3 the quantity that you measure using a clock (Macmillan Egnilish Dictionary)

  時計を使って計測する量

4 the part of existence which is measured in seconds, minutes, hours, weeks, months, years, etc. (Cambridge Adavanced Learner’s Dictionary)

  秒、分、時、週、月等で計測される存在の一部

5 a quality that goes on and on without end, separating things that happened before from those that will happen. (The Lincolm Writing Dictionary)

   起こってしまった事象を起こるであろう事象を分離する終りなき継続する品質

6 the past, present, and future; every moment that has ever been or ever will be (Webster’s New World Children’s Dictionary)       

 過去、現在、未来;  継続するか継続するであろう各瞬

 7 The past, present, and future measured in seconds, minutes, hours, and so on.(Scholastic Children’s Dictionary)      

 秒、分、時、等で計測される過去、現在、未   

8 Indefinite, unlimited duration in which things are considered as happening in the past, present, or future; every moment there has ever been or ever will be. (Webster’s New World Dictionary)           

9 A nonspatial contimuum in which events occur in apparently errebersible succession form the past through the present to the future.(The American Heritage Dictionary)

10 System of distinguishing events; a dimension the enables two identical events occurring at the same point in space tobi disitinguished, measured by the intervalbetween the events. (Encarta World English Dictionary)

11 A period during which something(as an action, process, or condition) exists or continues; an interval comprising a limited and continuous action, condition, or state of being; measured or measurable duration. (Webster Third International Dictionary)

12  A rasional system in which events, following from one to another, can be measured; the passing of minutes, hours, days, or years (Randoum House Webster’s Intermediate English Dictionary)     

13 A certain point in the day or night, that you say in hours and minutes/ all the seconds, minutes, hours, days, weeks, months and yeaes. (Oxford Elementary Learner’s Dictionary)

14 Time is what we measure in minute, hours, days, and years. You use time to ask or talk about a specific point in the day, which can be stated in hours and minutes and is shown on clocks. (Collins COBUILD New Student’s Dictionary) 

15 The passing of hours, days, years,etc. measured by clocks./ the passing of time/yeas,/ the process of time/ the years happnening and becoming past of the past. (Larousse English Dictionary(france))

2020-10-01 久志能幾研究所通信 1769  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月27日 (日)

時間の戦略(改) 磨墨知38. 

 

 戦略とは「何をしないか=(略)」を選択する戦い手法である。全てに手を出していては時間がいくらあっても足らない。旧日本軍は戦線を拡大し過ぎて自滅した。

 時間は有限であり、何物にも変えられない資源なのだ。失った金は、稼げば取り戻せるが、失った時間は取り戻せない。

 自分に人生の理想の夢がある場合は、冗長な作業、世間話、人罪からの妨害、余興は人生の遊びとして扱うべきで、一定以上の割合にしてはならない。

 人生を脅かす魔モノのような存在が、病気である。その魔モノは、妖艶な美女如き美味食で、己を病気にさせる。美食こそが人生最大の抵抗勢力である。なにせ収入(税収60兆円)のうち、病気を治すための医療費(43兆円)が半分以上を占める現代である。それが抵抗勢力である。医療費に群がる輩が、己の人生を狂わせる。

 

 人生の理想(Ideal)=エネルギー(E) ÷ 抵抗勢力(R)

 

 戦争(病気も戦争だ)に勝つためには、戦略が必用だ。自分の持つエネルギーを増やすのは大変だ。夢を実現するために、それに対する抵抗勢力の力を減らせば、理想の実現エネルギーを大きくできる。

 私が食にこだわるのは、病気になりたくないためだ。病気が自分の夢を妨害する最大の抵抗勢力である。敵は身のうちである。

 

織田信長の戦略

 織田信長が鉄砲を最大限に活用したのは、尾張武士が弱かったからだ。信長は、弱い尾張武士を強くする戦術ではなく、戦わなくても(戦いを略する)、弱い兵士が鉄砲で相手を攻撃する戦略を考えた。武田信玄は武田四天王の力を合わせて、敵を突破しようとした。武田軍は日本最強の武士軍団で、赤備えとして恐れられた。だから飛び道具など必要でなかった。

 

ODA信永信用金庫の戦略

 自分の出来の悪い頭と身の回りの資源の貧弱さを理解すれば、抵抗勢力の力を弱めて、自分は飛び道具で武装するしかない。

 人生で最大の抵抗勢力とは、美食を餌に誘惑をかける食欲産業である。それが自分を病気にする。自分の自制心の無さが最大の敵である。

 現代の飛び道具とはIT機器である。そして自分の智慧である。凡人の自分が、人と同じことをしていて、勝てる(儲かる)ワケがない。

 人モノカネ情報が現代の資源である。それを司るのが時間である。それを有効活用するため、戦略をもって戦おう。私はIT投資にはケチケチしない。

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 テキスト「武道としての情報設計」(2006)

  

2020-09-27 久志能幾研究所通信 1763  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月21日 (月)

心の垢を落とそう

 人が活動すれば汗をかく。人は毎日、お風呂でその汚れを落とす。動かなくても生きていれば、体に垢も溜まる。お風呂で、たわしで、タオルで、石鹸で、その垢を落とす。それが清潔な人間としての身だしなみの生活である。しかし心に溜まった垢を落とす人は少ない。

 人として生きていれば、欲があり、他人と衝突して、怒りが起きる。その怒りが心を垢で汚す。心に邪念が起きると、素直な心に垢がつく。

 素直な心で、感謝して生きれば、心に垢は溜まらない。それが幸せの基である。その呪文が「ありがとう」である。

人は使命を持って生まれてくる。最大の使命が、この世で、最低一人の人間を幸せにする責務がある。その最初の一人が己である。それを期待してご先祖は、己をこの世に遣わした。

 

3大排泄

 人は動物として、皮膚からの排泄(汗、垢)、腸からの排泄(便)がある。それに対して、人間は霊長類として、心があるから、3つ目の排泄として、心の浄化が必用である。その排泄をやらないから、畜生の欲望だけの、堕落した存在から脱却できない。

 動物ではない人間は、一生かけて魂を浄化するのが、人間が人間たる責務である。

 

心を汚す「欲」

 人は成長するごとに、色んな欲が増えてくる。生存欲、食欲は勿論、青年になり色気づくと女が欲しくなり、金が出来ると更に二号さんまで欲しくなる。それは限度がない。

 欲とは、「谷」底に突き落とされても、「欠」けないと書いて、「欲」である。生きている限り欲は無くならない。生存欲が無くなれば、死んでしまう。だから人間として、生きていくために良い欲を持つべきだ。認知症になれば、それがなくなるから、それは脳死である。

 金も集めれば集めるほど、限度が無くなり、守銭奴・餓鬼道への道をまっしぐらである。幸いに、多くの人はそれほど能力がないので、自然と世間からその限度を思い知らされて、諦める。まともに働けば、大金は手にできない。過剰な金には強欲の汚れが付いて回る。

 権利欲・名誉欲も一度手に入れた利権、権力の座は、決して手放さない強欲に包まれる。その欲からはどす黒い垢が生まれる。

 

人は死ぬ

 多くの汚濁にまみれた金満家、色欲魔、権力欲魔の人間に、忘れていることがある。人を何時かは死ぬのだ。金も地位も女もあの世には持って行けない。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。無垢な赤ん坊で生まれて、汚濁に満ちた人生を歩み、痴呆の老人になって、垢まみれで死んでいく。痴呆になったとき、その垢も消える。

 

旅立ち

 私は痴呆症になって、人に笑われて心の垢が火葬場で焼かれるよりも、最期まで正常な意識で、心の垢を落として、旅たちたいと思う。

 長く生きると、ものも増え、しがらみも増え、心のわだかまりも増える。それは、人生の山を下山する時は、全て不要なモノだ。死ぬ前に少しずつ、それを捨てていくのが、人間としての心の浄化である。

 たまには心を空にし、広い場所で、高い場所で、清楚な神社で、静かなお寺で、自分を見直すのも良き心の掃除である。私は飛行場で飛行機の離着陸を眺めていると、俗世間の憂さを忘れて心が清らかになる。それも俗世間からの旅立ちである。

 

心の富者の家

 金持ちの家は、不要なモノがなく、すっきりしている。貧乏人の家はモノだらけで混沌としている。それでは幸せとは言えない。心の豊かな人は、心のしがらみもこだわりも少なく、幸せである。心の金持ちを目指そう。

 それが出来ないのは、比較3原則(非核三原則?)で、他人と比較し、過去の自分と比較し、親と比較して、欲を出して人モノかねを集めるからだ。それは自分の心の惨めさの表れである。心に綺麗な人は、ものに拘らない。

 

非欠惨原則

 仏教の3つの教えの一つは、他人との比較を禁じている。他と比較すれば、必ず優越感や劣等感を抱き、それが心の汚れの原因となる。それが自分を苦しめ、自分で自分を無くしてしまう。所詮、死ぬ時には意味のない比較3原則である。何時か、必ず死ぬ身には、その比較は大したことではない。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。

 

そうは言っても

 そうは言っても、私はまだ成仏も悟りもしていないので、人間として欲望のオンパレードである。私は聖人君主ではない。その欲が無くなれば生きている意味がない。私はまだ金も女もモノも名誉も欲しい。美味いものも食べたい。修行中の身として、今はその整理途中ではある。

 人に説法するのと、現実の自分の行動とは別である。私も人間だもの、理想に燃え、理想を語っても、その実行は難しい。それが出来ていれば、今頃は仙人である。だから、私は死ぬまでが修行として、夜間飛行を続けている。夜間飛行でも、北極星の方向が分かれば、目的地を見失う心配はない。そうやって心の垢の汚れを落とすこと心がけている。

 

角熟

 私は円熟でなく、角熟、欠く熟、書く熟を目指している。人間として欠点を持ったまま、人格を熟するのだ。そうすれば、欠点が人間味となる。人は神、如来の完璧さを求めては、人でなくなる。「人でなし」である。菩薩とは、仏道を修行する仏様の姿である。

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2020-09-20 久志能幾研究所通信 1756  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月15日 (火)

磨墨知401. 尖った「絵の具」を増やそう

 人生のキャンパスに絵を描くため、自分が使える「絵の具」の種類を増せば、時間効率とその出来栄えの深みが増す。絵の具とは、自分の才能、努力、資源である。それプラスが、好きこそモノの上手なれである。それに対するコダワリの深さである。私はそれをオダワリと称している。

 私は今まで多くの趣味に手を出して楽しんできた。それも深追いである。それこそが自分の「絵の具」を増やすことだ。人並みの「絵の具」では、人並みの成果しか出ない。私は仕事と趣味にこだわりを持ち、本業に精進できて幸せである。人生で、会社と家の往復だけで、金儲けだけに過ごした日々だけは、つまらない。

 

労働基準法に反旗

 私はもっと働きたいのに、2000年ごろから社会問題となって過労死防止、労働基準法順守とかで、会社は働きたくても働かせてくれなかった。休む権利があるなら、働く権利もあるはずだ。おカネの問題ではないのだ。日本中で定時になったら「早く帰れ」と大合唱である。労働と仕事を区別できない労使が私の邪魔をした。労働とは頭を真っ白にして肉体を酷使して成果を作ること。だから現場の労働は、厳密に労働時間管理が必要である。

 しかし研究等の仕事は、労働基準法とは別なのだ。頭を使って創造物を造るのは、奴隷労働とは違うのだ。だから創造性ある仕事はすればするほど、面白い。時間の経つのを忘れさせる。それを制限するのはおかしい。

 その仕事の疲れをいやすため別分野の没頭が、本業を更に輝かせてくれる。私にはそれが飛行機の写真撮影や模型製作、音楽演奏、演奏撮影、美術館巡り、読書、エッセイ作成であった。ODAのオダワリのこだわりは半端ではないと自負している。

 

宝物の言葉のお返し

 ミシガ大学でのテクニカルライティングセミナーの体験記をまとめた『ミシガ大学セミナー体験記』(1994年)を関係者に回覧したら、K君からの感想文で(1999年頃)、宝物の言葉をお返しにもらった。下記はその返信文。

 

 私が子供のころに先生から教わって、いまだに頭に残っているという教えが、「絵の具をけちけち使っていては、良い絵は描けない」です。それを「社会人として実践するには、絵の具(時間と労力は知力)を出来る限り注ぎ込むことと解釈し、これまで頑張ってきました。しかし、この様なやり方はただ自分をすり減らすだけで、“良い絵”を描くことにはなっていなかったと今は感じています。

 “絵の具”をたくさん出せるように、自分をキープする大切さ(=自己啓発)を思い出させてくれる大きなきっかけを『ミシガン大学体験記』から感じることができ、大変ありがたく思っています。」

 

「絵の具」

 「絵の具」の話は、初めて聞いた「いい言葉」である。絵の具はふんだんに使ってこそいい絵が描けるはずだ。今は「なにもそこまでしなくても」と言われるくらいやらないと、「お客様」に感動してもらえない。お客様が「そこまでしてくれるか」のと涙を流さんばかりに喜んでくれるまでやるのがプロだ。そのためには絵の具を使うのに躊躇してはならぬ。絵の具は多量に、かつ多種を使うべきだ。仕事をやっていく上で、我々の後工程、回りの人は全てお客様と認識すれば、自ずとやるべきことは明白になる。

 

誰にも負けない「絵の具」

 さらに大事なことは、だれも持っていない絵の具を手に入れること。それも尖った絵の具である。それを使って誰にも描けなかった人生絵を描くこと。既製品の絵の具では、並みの人生絵しか描けない。

 

固まった絵の具

 既製品の絵の具でもいいから、頭を使った絵の具の使い方をしなくてはならない。いくら体の汗をかいて頑張っても、頭を使わなかったため、定年後、終わった人になる悲劇がある。その後が認知症である。絵の具を使わないから、持てる絵の具が固まって、チューブから出てこないのだ。その悲劇が頻繁に新聞紙上を賑わすようになった。

 

固まらない絵の具

 私の絵の具の特徴は、長期間かたまらないこと。50年たっても私のその趣味に対する情熱は変わらず、固まらない。私には他に自慢する能力は無いが、この継続性だけは人に自慢できる。

 

教育に金の糸目を付けない

 何処にもない尖った「絵の具」を入手するためには、私は「教育投資には金の糸目をつけない」である。私は昔、本屋、新聞等で目についた本やテープ等を見境なく買いまくっていた。結果として、月に本代を4~5万円使っていた。その20年後の結果が4トンの蔵書である。そのままでは床が抜けるので、床を補強して書庫を造る羽目になった。この蔵書が、私の「絵の具」の一つである。

 K君は、「絵の具」を「時間と労力と知力」と定義したが、これを私は、人生キャッシュフローと定義する。いかに自分の成長のために、お金を使うかだ。

 お金で幸福は買えないが、不幸を避ける段取りと知恵はお金で入手できる。その知恵の集大成が「本」である。なぜなら、本には著者の「時間と労力と知力」が主役されている。その本の内容を自ら手に入れようとすると膨大な時間と人工がかかる。それがたった千円前後で入手可能なのだ。だから、その点で自著『ミシガ大学セミナー体験記』にも、付加価値が高いと自負している。それをT君の感想文で再確認できた。

 

 人生を豊かにする道具は、尖った絵の具である。

 

2020-09-15 久志能幾研究所 1751 小田泰仙 

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月14日 (月)

磨墨知590-3. 何を置いて逝くのか(改定)

老いて、追いて、負うて、於いて、擱いて、

 人間は一生をかけて(80年×365日=29,200日)、何を現世に置いてあの世に旅たつのか。自分は何をおいていくか、自問しよう。

 土から生まれた肉体は、いつかは土に帰る。土でできた肉体は大きな器である。最初は小さな器も、学びで大きくなる。その器に何を入れて昇華させるのか。それが人間の生き様であり、成果である。それが時間の創造である。

 かけた時間に相応して、人生が決まり、昇華する価値が決まる。人は何にお金を使い、何に時間を使い、誰に出会い、何を志したか、何時の時代に、何処で生きたかで、人生が決まる。人生は決して夢幻ではないのだ。

 

何を追うのか?

 己が生きた証を後進が継いでくれる。そのために、生前に何を追うのか?

何を追うて死ぬのか?

 河村義子先生は、大垣に音楽の文化を根付かせようと音楽に命を捧げた。その精霊の魂を後進が受け継いでいる。

 

何を負うていくのか?

 人は重荷を背負って長い坂を登っている。人生で何を背負っていく決意があるのか? それは途中で逝っても悔いのない重荷なのか? その覚悟が曖昧だから、人生が曖昧になる。

 私の枕もとの壁に、徳川家康公の家康遺訓の軸を掲げている。目覚めと就寝時に、嫌でも目に入り読んでいる。

 

 人の一生は重き荷を背負って遠き道を行くが如し。(家康遺訓)

 

何を擱いていくのか?(おいて  例:箸を擱く)

 自分にとって、人生で一番大事なことは何か? 死とは、それを擱いて逝くのだ。それは何かを認識して、死の直前まで、それを擱かずに全力投球しよう。私は死んだらペンを擱く。

 

何に於いてなら死ねるのか?

 人は金のためには死ねないが、義のためなら死ねる。何の義に於いて、この世を生きるのか。

 

 やることをやり切れば、後は野となれ山となれ、でよい。それが言えれば、良き人生であったと、安らかに永眠できるだろう。

 昨年、癌を患い、この項が頭にこびりついて離れない。それで以前(2018年10月26日)に公開した内容を改定した。

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人生ホテルのチェックアウト

 人は人生ホテルに、裸でチェックインして、裸でチェックアウトする。どんな立派なホテルに泊まっても、いつかはチェックアウトしなければならぬ。それも自分の意思ではなく、ある日突然に追い出される。その時、身につけるのは経帷子のみ。その時、己は此の世に何を置いて逝くのか。それを意識して生きよう。

S   馬場恵峰書

2018-10-26   初稿

2020-09-13 改定 久志能幾研究所 1750  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月13日 (日)

キャッシュフローで人生が決まる

 人生経営の基本原則は、キャッシュベースの経営にある。

 「私の会計学の基本原則は『キャッシュベースの経営』にあります。会計の原則である『キャッシュ』に着目して経営判断を行う。」(稲盛和夫氏談 週刊ダイヤモンド 2018/03/03号)

 

企業の場合

フリーキャッシュフロー=【営業キャッシュフロー】+【投資キャッシュフロー】

FCF=営業CF+投資CF

 

フリーキャッシュフローとは、借入金返済、株主への配当、蓄えに回すなど企業の意思で使い道を決められる。これが企業価値を決定する。

営業キャッシュフローとは、本業で稼いだおカネ

投資キャッシュフローとは、工場建設や株式の購入、貸付などが該当する。

 

 企業に当てはめると、トヨタ自動車は高収益企業なので、営業CFは常時トップに位置する。投資CFがゼロなら、高キャシュフローの超優良企業である。

 しかしトヨタ自動車は、多額の設備投資をしているため、FCFが大幅なマイナスになってしまう。しかし10年後の今は、トヨタ自動車は、世界の自動車メーカの中で勝ち組になっている。

 

 いくら調子に乗って稼いで豪遊しても、自社や自分の将来への投資をしなければ、ジリ貧である。

 なるべく楽をして稼いで、楽しく過ごそうが、グローバル経済主義者の本音である。だからグローバル経済主義経営者は、投資をせず(投資CFを最小に)、いかにも儲かっているかのように決算書を粉飾する。

 カルロス・ゴーンはリバイバルプランで、資産を切り売りし、将来の投資を削り、人を削り、系列を削り、如何にも日産が儲かったかのように見せていた。そのツケが今回の日産の経営危機である。

 

人生の場合

【人生フリーキャッシュフロー】=

           【可処分所得】+【投資キャッシュフローの絶対額】

人生FCF=営業CF+投資CF

 

人生フリーキャッシュフローとは、借入金返済、投資、蓄えに回すなど個人の意思で使い道を決められる。これが人生の価値を決定する。

可処分所得とは、生活費を除いて稼いだおカネ。

投資キャッシュフローとは、自己投資、教育投資、ご縁投資に該当する。

 

 どれだけ自分へ投資しているかで、人生が決まる。それを表す指標が、「人生FCF」である。これは多いほど良い。人生キャッシュフローでは、企業系と違い、投資キャッシュフローは絶対値換算で、営業キャッシュフローとの和である。

 それは教育だけではなく、食事にかけるお金も、自分の体への投資となって、健康に長く働く資本となる。食事をケチッて体を傷めれば本末転倒である。体こそが、お金を稼ぐ資本なのだ。

 ご縁にかけるお金も将来への運命投資である。金を貯めるだけの人生では、ジリ貧である。大金が貯まって、ふと回りを見渡すと人は遠ざかっていては、悲劇である。人こそが、自分の人生に幸せを運んでくれる。

 

2020-09-13 久志能幾研究所通信 1749  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月12日 (土)

余命宣告で終活。断捨離なし。モノを買いまくる

 私は2019年初の癌手術後、医師から余命宣告を受けた。だから死後の後始末の段取りだけはしたが、断捨離は止めた。それどころか、欲しいものを買いまくり始めた。

 とどめが第二の家であった。2019年初の癌手術後に余命宣告をされて、年末に、今の自宅より大きな家を買った。それも朝に物件を見つけて、夜に買うことを不動産屋に連絡した。我ながら呆れたが、後悔はしていない。友人は呆れ果てているが、よくぞ決断したと、自分で自分を褒めてあげたい。 

 家の購入を決めるまでの単位時間当たりの購入金額は、過去最大であった。時間がないのだ。残された時間は、後38年間しか(?)ないのだ。私は医師の言う余命時間などを信じてはいない。オダエモンの教祖として、生き延びる手段を万全にして生きている。それでも買うなら死ぬまでに買わねばならぬ。死の直前では、買いたくても体力も時間も無くなるのだ。モノを買うにも体力がいる。認知症になればオシャカである。

 

子孫に美田を残さず

 金を残しても、使い切れなかった悔いだけが残る。子孫に残すと、子孫が逆に不幸になる。下手に残しても、国のお役人の贅沢に消えるだけだ。それなら自分で使ってしまえ。

 

断捨離に思う

 もう年だからと、身辺整理で断捨離をする人の気がしれない。断捨離をするとは、大事な想い出を捨てること。想い出こそが人生なのだ。記憶こそが人生である。認知症になれば、記憶がなくなり、それが脳死であり、人の死である。自分の人生でやったことだけが記憶であり、人生なのだ。

 領収書一枚にも、大事な想い出がある。その品物を買うために、どれだけ苦労をしたかが自分の歴史である。それを見ると、当時の四苦八苦が思い出される。その足跡が、自分の歩いた道なのだ。だから私は主な領収書は50年前のものでもほとんど残している。

 最近、保管資料を見直したら、大学生当時、両親に買ってもらった武藤のドラフターの領収書を発見した。当時、T定規で製図をしていたが、それがトラック式のドラフターになって、嬉しかったことが思い出された。両親は、学業にためなら、金を惜しまず買ってくれた。当時の父の給与明細書を見ると、無理して買ってくれたことが分かる。今更ながら、仏壇の前で親に手を合わす。

 

人生の走馬灯

 ましてや、当時の写真こそが人生の走馬灯の映像である。つい最近、1966年代から2000年までのフィルム約100本をカメラ屋でデジタル化した。その費用が約10万円である。自宅にフィルムスキャナーはあるが、時間がもったいないのでカメラ屋に頼んだ。その費用が高いとは思わない。お宝が生まれたのだ。

 2000年以降は、デジタルカメラに変わったので、写真データはHDにアーカイブとして保管してある。しかしそれ以前の写真は、フィルムと印画紙しかない。それを断捨離で捨てるなどトンデモない。その記録をデジタル化して、整理編集して、それを見直して検索できるようにした。それを人生の反省記録としてまとめた。それからエッセイを書き、このブログで紹介している。

 

航跡が消える時

 想い出を捨てることは、死ぬことだ。想い出が空になれば後は死ぬしかない。人生航路で、自分のやった足跡が航跡である。船が進んでその後に残る波の乱れが、生きた証である。その波もいつかは消える。せめて生きている間は、その航跡を保管したいと思う。

 

定年の挨拶を念頭において仕事をした

 「何事もなく大過なく無事にすごせた」と定年の挨拶で済ませるのは、サラリーマン生活を生きたのではなく、生き永らえたのだ。仕事をすれば、あちこち衝突して波乱万丈の結果となるのだ。私は若い頃から、この挨拶だけはせず、定年を迎えようと思っていた。私が定年になり、それの思いは成し遂げられたと自負している。だから、その記録は捨てるわけにはいかない。

 私はその想い出を糧に、これからの生きる命にしている。今までの経験を使って、もっと波風を立て、多くの深い経験を死ぬまでやり続けたいと思う。それを後世に記録に残したいと思う。

 

断捨離は後の人任せ

 断捨離は、私の死後、後の人がやればよい。捨てるだけなら、子孫か業者が簡単にやってくれる。人生の残り時間が少ないのに、そんなことに時間をかけるのは、愚かである。死ぬ直前まで、自分の歴史を刻むべきだ。死ぬ直前まで現役なのだ。断捨離は死後のことでよい。後は野となれ山となれでよい。

 

両親の記録

 私の両親は断捨離などせず、旅立った。私は、後の残った遺品の整理で、両親の歩んだ道をたどった。そこに両親の私に対する愛情を感じて、遺品を整理していると手が止る。

 父は記録魔で、何かあるとメモで記録が残してあった。父の手紙類は全てクリアファイルに時系列で収納した。

 母は昔かたぎで、捨てるのが嫌い、勿体ないで全て残して旅立った。それを捨てるのが子ども役目である。その遺品整理で母の歴史と苦労が分かった。それが断捨離で何も残っていないなどでは、子供には残酷だと思う。

 私は断捨離に反対である。断捨離とは、終わった人の生前火葬である。

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 馬場恵峰書

 

2020-09-12 久志能幾研究所通信 1747  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。