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2020年9月12日 (土)

余命宣告で終活。断捨離なし。モノを買いまくる

 私は2019年初の癌手術後、医師から余命宣告を受けた。だから死後の後始末の段取りだけはしたが、断捨離は止めた。それどころか、欲しいものを買いまくり始めた。

 とどめが第二の家であった。2019年初の癌手術後に余命宣告をされて、年末に、今の自宅より大きな家を買った。それも朝に物件を見つけて、夜に買うことを不動産屋に連絡した。我ながら呆れたが、後悔はしていない。友人は呆れ果てているが、よくぞ決断したと、自分で自分を褒めてあげたい。 

 家の購入を決めるまでの単位時間当たりの購入金額は、過去最大であった。時間がないのだ。残された時間は、後38年間しか(?)ないのだ。私は医師の言う余命時間などを信じてはいない。オダエモンの教祖として、生き延びる手段を万全にして生きている。それでも買うなら死ぬまでに買わねばならぬ。死の直前では、買いたくても体力も時間も無くなるのだ。モノを買うにも体力がいる。認知症になればオシャカである。

 

子孫に美田を残さず

 金を残しても、使い切れなかった悔いだけが残る。子孫に残すと、子孫が逆に不幸になる。下手に残しても、国のお役人の贅沢に消えるだけだ。それなら自分で使ってしまえ。

 

断捨離に思う

 もう年だからと、身辺整理で断捨離をする人の気がしれない。断捨離をするとは、大事な想い出を捨てること。想い出こそが人生なのだ。記憶こそが人生である。認知症になれば、記憶がなくなり、それが脳死であり、人の死である。自分の人生でやったことだけが記憶であり、人生なのだ。

 領収書一枚にも、大事な想い出がある。その品物を買うために、どれだけ苦労をしたかが自分の歴史である。それを見ると、当時の四苦八苦が思い出される。その足跡が、自分の歩いた道なのだ。だから私は主な領収書は50年前のものでもほとんど残している。

 最近、保管資料を見直したら、大学生当時、両親に買ってもらった武藤のドラフターの領収書を発見した。当時、T定規で製図をしていたが、それがトラック式のドラフターになって、嬉しかったことが思い出された。両親は、学業にためなら、金を惜しまず買ってくれた。当時の父の給与明細書を見ると、無理して買ってくれたことが分かる。今更ながら、仏壇の前で親に手を合わす。

 

人生の走馬灯

 ましてや、当時の写真こそが人生の走馬灯の映像である。つい最近、1966年代から2000年までのフィルム約100本をカメラ屋でデジタル化した。その費用が約10万円である。自宅にフィルムスキャナーはあるが、時間がもったいないのでカメラ屋に頼んだ。その費用が高いとは思わない。お宝が生まれたのだ。

 2000年以降は、デジタルカメラに変わったので、写真データはHDにアーカイブとして保管してある。しかしそれ以前の写真は、フィルムと印画紙しかない。それを断捨離で捨てるなどトンデモない。その記録をデジタル化して、整理編集して、それを見直して検索できるようにした。それを人生の反省記録としてまとめた。それからエッセイを書き、このブログで紹介している。

 

航跡が消える時

 想い出を捨てることは、死ぬことだ。想い出が空になれば後は死ぬしかない。人生航路で、自分のやった足跡が航跡である。船が進んでその後に残る波の乱れが、生きた証である。その波もいつかは消える。せめて生きている間は、その航跡を保管したいと思う。

 

定年の挨拶を念頭において仕事をした

 「何事もなく大過なく無事にすごせた」と定年の挨拶で済ませるのは、サラリーマン生活を生きたのではなく、生き永らえたのだ。仕事をすれば、あちこち衝突して波乱万丈の結果となるのだ。私は若い頃から、この挨拶だけはせず、定年を迎えようと思っていた。私が定年になり、それの思いは成し遂げられたと自負している。だから、その記録は捨てるわけにはいかない。

 私はその想い出を糧に、これからの生きる命にしている。今までの経験を使って、もっと波風を立て、多くの深い経験を死ぬまでやり続けたいと思う。それを後世に記録に残したいと思う。

 

断捨離は後の人任せ

 断捨離は、私の死後、後の人がやればよい。捨てるだけなら、子孫か業者が簡単にやってくれる。人生の残り時間が少ないのに、そんなことに時間をかけるのは、愚かである。死ぬ直前まで、自分の歴史を刻むべきだ。死ぬ直前まで現役なのだ。断捨離は死後のことでよい。後は野となれ山となれでよい。

 

両親の記録

 私の両親は断捨離などせず、旅立った。私は、後の残った遺品の整理で、両親の歩んだ道をたどった。そこに両親の私に対する愛情を感じて、遺品を整理していると手が止る。

 父は記録魔で、何かあるとメモで記録が残してあった。父の手紙類は全てクリアファイルに時系列で収納した。

 母は昔かたぎで、捨てるのが嫌い、勿体ないで全て残して旅立った。それを捨てるのが子ども役目である。その遺品整理で母の歴史と苦労が分かった。それが断捨離で何も残っていないなどでは、子供には残酷だと思う。

 私は断捨離に反対である。断捨離とは、終わった人の生前火葬である。

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 馬場恵峰書

 

2020-09-12 久志能幾研究所通信 1747  小田泰仙

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