心の垢を落とそう
人が活動すれば汗をかく。人は毎日、お風呂でその汚れを落とす。動かなくても生きていれば、体に垢も溜まる。お風呂で、たわしで、タオルで、石鹸で、その垢を落とす。それが清潔な人間としての身だしなみの生活である。しかし心に溜まった垢を落とす人は少ない。
人として生きていれば、欲があり、他人と衝突して、怒りが起きる。その怒りが心を垢で汚す。心に邪念が起きると、素直な心に垢がつく。
素直な心で、感謝して生きれば、心に垢は溜まらない。それが幸せの基である。その呪文が「ありがとう」である。
人は使命を持って生まれてくる。最大の使命が、この世で、最低一人の人間を幸せにする責務がある。その最初の一人が己である。それを期待してご先祖は、己をこの世に遣わした。
3大排泄
人は動物として、皮膚からの排泄(汗、垢)、腸からの排泄(便)がある。それに対して、人間は霊長類として、心があるから、3つ目の排泄として、心の浄化が必用である。その排泄をやらないから、畜生の欲望だけの、堕落した存在から脱却できない。
動物ではない人間は、一生かけて魂を浄化するのが、人間が人間たる責務である。
心を汚す「欲」
人は成長するごとに、色んな欲が増えてくる。生存欲、食欲は勿論、青年になり色気づくと女が欲しくなり、金が出来ると更に二号さんまで欲しくなる。それは限度がない。
欲とは、「谷」底に突き落とされても、「欠」けないと書いて、「欲」である。生きている限り欲は無くならない。生存欲が無くなれば、死んでしまう。だから人間として、生きていくために良い欲を持つべきだ。認知症になれば、それがなくなるから、それは脳死である。
金も集めれば集めるほど、限度が無くなり、守銭奴・餓鬼道への道をまっしぐらである。幸いに、多くの人はそれほど能力がないので、自然と世間からその限度を思い知らされて、諦める。まともに働けば、大金は手にできない。過剰な金には強欲の汚れが付いて回る。
権利欲・名誉欲も一度手に入れた利権、権力の座は、決して手放さない強欲に包まれる。その欲からはどす黒い垢が生まれる。
人は死ぬ
多くの汚濁にまみれた金満家、色欲魔、権力欲魔の人間に、忘れていることがある。人を何時かは死ぬのだ。金も地位も女もあの世には持って行けない。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。無垢な赤ん坊で生まれて、汚濁に満ちた人生を歩み、痴呆の老人になって、垢まみれで死んでいく。痴呆になったとき、その垢も消える。
旅立ち
私は痴呆症になって、人に笑われて心の垢が火葬場で焼かれるよりも、最期まで正常な意識で、心の垢を落として、旅たちたいと思う。
長く生きると、ものも増え、しがらみも増え、心のわだかまりも増える。それは、人生の山を下山する時は、全て不要なモノだ。死ぬ前に少しずつ、それを捨てていくのが、人間としての心の浄化である。
たまには心を空にし、広い場所で、高い場所で、清楚な神社で、静かなお寺で、自分を見直すのも良き心の掃除である。私は飛行場で飛行機の離着陸を眺めていると、俗世間の憂さを忘れて心が清らかになる。それも俗世間からの旅立ちである。
心の富者の家
金持ちの家は、不要なモノがなく、すっきりしている。貧乏人の家はモノだらけで混沌としている。それでは幸せとは言えない。心の豊かな人は、心のしがらみもこだわりも少なく、幸せである。心の金持ちを目指そう。
それが出来ないのは、比較3原則(非核三原則?)で、他人と比較し、過去の自分と比較し、親と比較して、欲を出して人モノかねを集めるからだ。それは自分の心の惨めさの表れである。心に綺麗な人は、ものに拘らない。
非欠惨原則
仏教の3つの教えの一つは、他人との比較を禁じている。他と比較すれば、必ず優越感や劣等感を抱き、それが心の汚れの原因となる。それが自分を苦しめ、自分で自分を無くしてしまう。所詮、死ぬ時には意味のない比較3原則である。何時か、必ず死ぬ身には、その比較は大したことではない。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。
そうは言っても
そうは言っても、私はまだ成仏も悟りもしていないので、人間として欲望のオンパレードである。私は聖人君主ではない。その欲が無くなれば生きている意味がない。私はまだ金も女もモノも名誉も欲しい。美味いものも食べたい。修行中の身として、今はその整理途中ではある。
人に説法するのと、現実の自分の行動とは別である。私も人間だもの、理想に燃え、理想を語っても、その実行は難しい。それが出来ていれば、今頃は仙人である。だから、私は死ぬまでが修行として、夜間飛行を続けている。夜間飛行でも、北極星の方向が分かれば、目的地を見失う心配はない。そうやって心の垢の汚れを落とすこと心がけている。
角熟
私は円熟でなく、角熟、欠く熟、書く熟を目指している。人間として欠点を持ったまま、人格を熟するのだ。そうすれば、欠点が人間味となる。人は神、如来の完璧さを求めては、人でなくなる。「人でなし」である。菩薩とは、仏道を修行する仏様の姿である。
馬場恵峰書
2020-09-20 久志能幾研究所通信 1756 小田泰仙
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