読経とは、願掛けの呪文ではない
お経とは願い事を仏様に伝える呪文ではない。呪文ではないので、お経は暗唱して、唱えてはならない。読経とは、経典の文言を声に出して「読む」ことである。
お経の一語、一語の文言を毎回、読んで確認しながら、自分の今の言動に照らして、反省する所は無いかを問うことが読経である。自分の生き方を求めて読むことである。だから10年も20年も同じ経典を読んでいても、毎回、新しい発見がある。
法事で導師が読経する姿を見れば、必ず、経典を見ながら読んでおられる。経典を見ずに暗唱して読経はしない。昨日の33回忌の法事の読経でもそうであった。
それを法事の後に住職とお話をして、初めてそのことを知った。70にして69の非を知るである。
私はこの30年間、毎朝、般若心経、修証義を読経しているが、確かに毎回、自分の行動を振り返るきっかけとなっていた。佛はあの世にはいない。自分の内におわします。
この日の法要では、般若心経と修証義の第1章、第2章、第3章を導師と共に読経した。導師の読み方を聞きながら経を読むと新たな思いが湧いてくる。
馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集 「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より
2020-10-06 久志能幾研究所通信 1775 小田泰仙
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