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2020年12月 1日 (火)

人生は、自分が夢見た通りになる

 

 「叶う」とは、「口」と「十」からなり、10人の意見(口)を一致させる意を表す。(漢和辞典)

 「叶う」は「口」と「十」からなる。自分の言うことが(口)を、「十」を実現させる。十の横棒は現世の世界を表す。縦棒は過去から現代、未来への歴史を表す。つまりこの世の過去から現在未来を表す象形文字である。「叶う」とは、この世で、自分が思ったことが実現するということだ。(オダブツ教辞典)

 自分が思ったことは、プラスのこともマイナスもことも含まれる。

 

マイナスの言葉

 自分が駄目な人間だと思えば、潜在意識がそういう行動を取らせることになって、全ての行動でダメな人間になる方法を選択して、結果としてダメな人間になる。だから決して後ろ向きの言葉を発してはなるまい。

 夢夢、最期は沖縄の海にドボンなどと思ってはなるまい。

 

プラスの言葉は天女の羽

 大きな夢を持てば、日々の行動で少しでもそれを実現しようとする行動を取る。それが小さな行動でも、1年5年20年と積み重なれば、潜在意識、行動の全てで大きな蓄積となる。棒ほど願って針ほど叶うことかもしれないが、確実にそれは実現に近づき、何らかの形になる。具体的に動けば、何らかの具体的回答が仏様から授かる。

 毎日、前向きの言葉で自分を元気づけ、小さくても継続的な改善の行動を取れば、1年で1.4倍となる。3年間で3倍の成長となる。

 365日のべき乗  1.001^365       =  1.44 (複利計算)

 3年間のべき乗   1.001^(365*3)    =  2.99

 10年間のべき乗  1.001^(365*10) =  38

  毎日、自分の行動や考え方を見直して、無駄な行動や考えを0.1%だけでよいので改善して、その改善を3年間継続すると、能力は3倍になり、何もやらない場合より10倍の差となる。

 その当時、ド田舎の会社と馬鹿にされたトヨタには、優秀な学生は入社しなかった。それが小さなカイゼンを積み重ね、トヨタは世界一のカーメーカーになった。

 トヨタより優秀な人間が多く入社していた日産は、労使紛争に明け暮れ、ゴーンに骨までしゃぶられた。

 東大出で俺が一番だと思って大垣市を支配した小川敏は、大垣市を没落させた。一番だと思うから、改善などしないのだ。

 私も夢を持って生きていた。グランドピアノの所有は40年後に実現した。第二のサテライト事務所の別宅は45年後に実現した。本の出版も50年後に実現した。

 

後ろ向きの言葉は刃

 後ろ向きの言葉には毒がある。それを聞かされる友は、陰気な気分にさせられる。それは相手の心を傷付ける暴力である。もっとも不愉快になる人は、自分の内なるもう一人の主である。その後ろ向きの言葉が潜在意識を傷つける。結果として、己は内なる主から復讐を受けるのだ。 

 

言霊

 自分はご先祖から霊を受けて、此の世に生を受けた以上、最低一人の人間を幸せにする責任が発生する。その最初の一人が己である。人とは「霊が止る」と書いて「人」である。

 人間としてこの世に生を受けたのなら、日々の朝は、希望をもって起き、努力をして昼間を働き、夜は感謝して眠りにつきたい。それをサポートするのがプラスの言霊である。それは自分教の経文である。

 

宗教とは

 宗教の「宗」とは、「ウ冠」に「示」である。ウ冠は自分の家、「示」は神様の事である。つまり自分の家の神様の「教え」が宗教なのだ。伊藤家には伊藤教があり、井上家には井上教がある。小田家にはオダ仏教がある。百の家があれば、百の教えがある。みんな違ってみんな良い。自信をもって自家の教祖になろう。教祖になろうという元気がなくては、魑魅魍魎が住む此の世では生きていけない。

 宗教の自由は、憲法で保障されている。それを規制したから、戦争が起きた。人類の不幸である。その不幸は今でも続いている。その点で日本は相対的に幸せである。

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2020-12-01  久志能幾研究所通信 1846  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月30日 (月)

人生の回数券に賞味期限あり

 

 人生の回数券を大事にしよう。老いた親、老いた師、老いた友と、あと何回会えるかを考えよう。そのために使える回数券の数は限られている。当方がその回数券を使える元気さがあっても、老いた親や老いた師が死の直前になれば、残りの回数券が取り消される。一回の回数券を使えば、使える機会は一回減るのだ。「Go To 取ら減る」だ。

 今回の面会が最期の利用かもしれない。人の明日は分からない。だから一期一会として、今回の出会いがこの世の最後と覚悟して、全力で向き合うべきなのだ。

 相手どころか、自分が交通事故、心筋梗塞で、明日死ぬかもしれぬ。そうなれば持っていた回数券は全てパーとなる。

 この2年間で、私は師を二人も突然に失ってそれを痛感した。人の明日は分からない。

 

 師や友と10年の出会いがあれば、10年の縁が生まれる。多くの人は、日頃の回数券は無限にあると思って使っているが、ある日に突然、医師から余命宣告されれば、その回数券は大金を積んでも手に入らなくなる。

 だからこそ、師や友との出会いは、悔いのない出会いにしなければならぬ。そこまでやってくれるのかと、師や友を感激させてこそ、真の師事である。私はそうやって、悔いのないようにしてきたつもりだが、現実は悔いばかりだ。

 

最期の教え

 孝行したいときに親はなし。いつまでもあると思うな、親とカネ。命は日々尽きていく。だからこそ今を精一杯生きよう。親と師の最期の教えが「あんたも何時か死ぬのだよ。悔いのない人生を送れ」である。

 

2020-11-30  久志能幾研究所通信 1845  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月24日 (火)

計画に10%の時間をあてる  磨墨知45

 

 理系の自分は、「現場(製造ライン)の改善には、実験・試験を行って実証する。その場合の計画は、実験の命を左右する」と考えている。無駄な実験をやらず、2度手間、追加のテストを避けよう。それが時間節約で、良き成果が生まれる。そのために計画に時間をかけよう。それは人生と同じだ。自分の人生をぶっつけ本番でやってはいけない。行事の計画を立て、その事前シミュレーションをしよう。

 そのテスト・行動で、何を得ようとするのか?

 どうすれば本番で一番効率よく実行可能なのか?

 

人生の出来事は全て実験

 日々の行動は、人生目的達成の為の事前実験である。その行動をする前に、計画を見直して行動しよう。事前に小さな選択間違いを発見して、その実験(生き方)を見直そう。そのやるべきことの優先順位を決め、効率を求めよう。日々の小さな行動の積み重ねが、人生だ。その小さな結果の差の積み重ねが、出鱈目の人生を送る輩と大きな差を生む。

 

人に会うのも実験

 人と会うとは、相手と己の時間(命)を使って行う大実験である。自分の生き方を実験しているのだ。その「実験」で、何の知見を得るのか、考えて訪問を受け入れよう。

 老いた師と話すにしても、何を師から教えられたいのか、計画を立てて教えてもらおう。老いた師とも、何時かは別れがくる。後から後悔しないように、面談内容を計画しよう。

 部下に話すにしても、部下がどういう風に成長すべきかを計画を立て、話す順序を考えるべきだ。

 友と話すにしても、何を伝えたいか、何を分かってもらいたいかを考えて、話す順序を計画しよう。

 子供と話すにしても、相手の成長レベルを考えて、話をしていく順序を考えよう。

 

面談時間は命の燃焼。二度と来ない時間。

 その時間をその人と会うことに使ってしまうと、此の世ではもう会えないもう一人が生まれる。その時間に存在する自分も、二度と会えない時間を過ごす自分なのだ。次に会う時は、何方かがもっと成長していて、もう会ってもらえないかもしれない。また新型コロナに罹り死ぬかもしれない。だから時間は命なのだ。祈りを込めて命を使うべきだ。そういう覚悟をして人と会うべきだ。

 人と会うとは、自分と相手の命を使っての闘いである。人生で使える時間は有限である。ましてや還暦を過ぎた人、古希を超えた人との会話なら、貴重な時間である。今日が最後の面談かもしれない。だから、人と会う時に、全力で相手と向き合わないと、相手に失礼である。だからこそ、どういう計画で、今回はどういう話をするか、会う前にその計画を立てないと、命の会話が死んでしまう。

 

命の燃え尽き

 還暦を過ぎれば、残された時間は少ない。何時お迎えが来ても不思議ではない。サムソンの総帥李健煕も実質72歳で逝った。突然の急性心筋梗塞である。何も準備できなかったようだ。大垣共立銀行の土屋嶢会長も新型コロナに罹り、突然に74歳で逝った。アップルのジョブズは56歳で逝った。

 おカネがあっても長生きできるわけではない。彼らは世界最高の医療を受けても、簡単に死んでいる。その事例を立て続けに見せつけられた。自分の歳を考えると人ごとではない。人生の大原則は、人はいつか、必ず死ぬのだ。

 私が前職で一緒に仕事をした仲間の多くが定年前に死んだ。還暦後2,3年で死んだ仲間も多い。その数は24人にも上る。ビジネス戦争の犠牲者である。今なら新型コロナ禍で、仕事を失い、路頭に迷い、自殺するかもしれない。人の命は、明日が分からない。

 だから、その貴重な時間を使った面談中に、「勝手に(かけてきた相手は状況が分からない)」かかってきた携帯電話に、無頓着で出るのは面談相手に無礼である。命に対して無礼である。面談中にスマホで株式欄を見るなど、言語道断である。相手は何も言わないが、相手に閻魔帳には、怖しいコメントが記載されている。今後の付き合いにも影響が出るだろう。私はそれで相手を評価している。

 命の大事さを考え、面談の計画さえあれば、そんなことにはなるまい。

 

人生工場

 人生とは、人間学の壮大な実験工場なのだ。人生の愚行を頻度分析、回帰分析、分散分析、実験計画法で、最適解を求めよう。心理分析で、自分と他人の行動を予見しよう。そうすれば自分は、人よりも優れた人生占い師にもなれる。私はそうしている。私は人生工場の保守管理室長である。

 

天気予報

 行き当たりばったりの人生よりも、事前に、実行する時間の10%を計画に充てれば、正否の予想が出来て、失敗の率も減る。未来は自分で予想して、自分で創ればよいのだ。事前に予想される失敗の元を絶てば、愚かに時間を浪費しなくて済む。相手の心理を読んで行動すれば、良い結果が得られるはずだ。危機管理にもなる。

 偉人の自伝や伝記を読めば、その軌跡が分かる。偉人の失敗を他山の石としよう。

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  馬場恵峰書

 

2020-11-24 久志能幾研究所通信 1835  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月21日 (土)

「鬼」の貴方が「神」になるとき

 男でも貴方は「鬼子母」?

 己は煩悩にまみれた108人の子供の親である。欲望、煩悩という我儘な子供達である。己はそれを溺愛している。

 その中に、酒の好きな子がいる。自分の分身である酒好子である。タバコが好きな子がいる。喫煙菌子である。妻以外の女に夢中になる自分と瓜二つである。妾好子である。徘徊放浪が好きな徘徊孤子が、自分を誘惑している。だから家でゆっくりと思索・瞑想などしていられない。

 最悪の鬼とは、子供を溺愛する鬼親である。子供を厳しく育てないと、大人に成長しない。その典型事件が三田佳子や「みのもんた」の子供が犯罪を犯し、更生せず再犯を繰り返したことで証明される。

 己は、その煩悩の子達の一人でもいなくなると気が狂う。禁断症状で半狂乱になる。たかがタバコではないか、酒ではないか。それが我慢できないなのだ。その己を人は「鬼子母」という。

 

「鬼子母神」伝説

 鬼子母は、500人の子を持つ鬼母である。鬼子母は、500人の子を養うため、栄養を付けねばならぬ。鬼子母は、人の子をさらい、その肉を食うのが哀しい性となっていた。人々は鬼子母を鬼女として恐れていた。街角や村から子の遊ぶ姿が消えた。まるで新型コロナ禍と同じである。

 お釈迦様は、鬼子母を救いたいと考え、鬼子母が一番可愛がっている末っ子を密かに連れ去った。鬼子母は、半狂乱になり世界中を7日間駆け抜け回って探したが発見できず、悲しみのあまりやつれはてた。思い余って、釈尊の前に身を投じて救いを求めた。

 釈尊は、冷たく言い放った。「あなたには、500人もの子がいるではないか。一人ぐらいどうでもいいではないか」と。

 鬼子母は、「何人いようと、最愛の子を失った悲しみは何物にも代えがたい」と泣き叫んだ。

 釈尊は静かに諭された。「沢山の子供の中の一人を失っても、それほど悲しいのに、人の親からたった一人しかいない子供を、あんたは奪い、その肉を食ったのだ。あんたのせいで、多くの人が悲しみのどん底に突き落とされた。子供を失った親の悲しみが分かるか?」

 我が悲しみを通して、人の悲しみが分かり、その悲しみの原因を作った自分の罪の深さを思い知った鬼子母は、泣き伏した。

 懺悔の涙に洗われた鬼子母に、釈尊は愛児を返し、人肉と同じ香りや味がするという石榴の実を与えて、子を守る母なる神として生きる道を諭された。

 もし鬼子母に、人の子を喰うという悲しい性がなければ、仏に出会えなかったであろう。もし鬼子母に、我が子を失うという苦しみに導かれなければ、佛に出会うこともなかったであろう。仏に出会えなければ、子供喰いの鬼母で終わるところを、釈尊の慈悲の方便で、鬼子母は悲しみと苦しさを通して佛性に目覚めて、子供の守り神へと変身した。

 法華経において鬼子母神は、法華信仰者の擁護と法華経の弘通を妨げる者を処罰することを誓っていることから、法華信仰者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。

 この項、青山俊董著「もう一人の自分への旅」、wikipedia「鬼子母神」より編集、加筆。

 

鬼の悟り

 私も飽食、甘党、ワークホリックという悪癖がなければ、癌になることもなく、健康に目覚めることもなかった。私もオダ仏教経典「健康読本」?を書くこともなかった。病気になったのは、仏様のお導きである。

 世の中には、酒やタバコを断つのが死ぬほど辛く思う人もいる。「禁煙など簡単だ」と、何度も何度も禁煙、禁酒を誓うだけする人が多くいる。釈尊から見れば、他に多くの楽しみがあるので、一つくらい断っても、問題ないではないかと。それは、自分が病気になり、余命宣告されないと、分からないのだ。その時になって「金はいくらでも出すから助けてくれ」と言っても遅いのだ。

 酒やタバコは、己の肝臓や肺の細胞を食い漁っている鬼子母である。それが己である。己は理性ある人間なのに、その行動は鬼子母となんら変わらない。

 アルコールは食物と違い、肝臓で薬物と同じ工程を踏まないと、分解されない。その分解の時、肝臓の細胞が傷つくが、細胞分裂で再生されて元に戻る。しかし酒量の限度を超えると、肝臓の細胞が細胞分裂の許容回数を超え、再生不能となり死ぬ。それが肝硬変である。

 肺の細胞は、他の組織と違い、再生不能である。煙草で死んだ肺細胞は、二度と再生しない。煙草は己の肺細胞を喰う鬼子母である。

 己は理性ある霊長類として、煩悩を適宜に抑えて生きたいもの。神にならなくてもいいから、人間として精神の成長を遂げたい。神になってしまっては、人ではないので、「人でなし」になってしまう。

 末期ガン宣告された土壇場になって「金はいくらでも出すから助けてくれ」では、鬼が笑う。一刻でも早く「鬼子母」の煩悩から目覚めれば、一刻早く、体の細胞への負荷が減り、一刻の延命となる。

 

「飽食鬼」から神に変身

 私は癌になり、仏様から余命宣告をされた。私は心を入れ替えて「飽食鬼」から「知足富神」(足るを知り、富める神となる)に変身した。鬼が云うと書いて「魂」である。魂が昇華して神になる。それがお陀仏教のご神体?である。人間様から出世した神様だから、酸いも甘いも知る人間味あふれる神様だ。

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 松本明慶大仏師作「鬼子母神」 一木造り  『慈』小学館より

 手に持つのは石榴(ざくろ)の実

 本図は、松本明慶仏像彫刻美術館より転載許可を得ています。

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         馬場恵峰書

2020-11-21 久志能幾研究所通信 1832  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月20日 (金)

電話セールスへの怒り

 

 先日、19時頃のくつろいでいた時間にセールス電話がかかってきた。電気料金を安くする契約という電話セールスである。今時、自宅への電話セールスなどは、時間泥棒の暴力である。

 曰く、「電力料金を安くするために、今の契約内容を教えてください」である。

 私は「バカヤロー」と思い切り電話口で怒鳴って電話を切った。

 馬鹿野郎!、何で俺が貴様の金儲けのために、俺の命の時間を削り、赤の他人のお前に電気の契約内容を教えなければならないのか。

 前回も同じような電話セールスがあり、色々と質問をされ、それに答えてから、自宅がオール電化であることを告げると、「それなら今のままが一番安いですね」である。人を馬鹿にするな、である。

 

日本の未来のために

 この種の電気セールスの電話が、月に一度か2か月に一度くらいの頻度で掛かってくる。電気販売の自由化で、電気販売会社が氾濫しているようだ。

 時代は激変している。今時、経営者が従業員に電話セールスを強いる会社など、さっさと辞めた方が将来のためだ。こんなレベルの低い経営者がいるから、日本の第三次産業の生産性が低いのだ。日本の成長が停滞しているのだ。自分や子息が下記の仕事についているなら、将来の為に転職が望ましい。それが日本の未来の為に望ましい。

 

10~20年後になくなる仕事トップ15

1 電話販売員

2 不動産登記の審査・調査

3 手縫いの仕立て屋

4 コンピューターを使ったデータ収集・加工・分析

5 保険業者

6 時計修理工

7 貸物取扱人

8 税務申告代行者

9 フィルム写真の現像技術者

10 銀行の新規口座開設担当者

11 図書館司書の補助員

12 データ入力作業員

13 時計の組立・調整工

14 保険金請求・保険契約代行者

15 証券会社の一般事務員

  月刊誌『プレジデント』の記事より

 

AIと勝負

 自分が社会の為に生み出す付加価値は何かを考えよう。機械やAIに置き換えられない能力を付けよう。そうしないと失業する。

 自分が今の会社を首になったら、新たに雇ってくれる会社があるだろうか、自問しよう。それが危機管理である。今のコロナ禍でリストラが進んでいる。他人ごとではないのだ。

 

2020-11-20  久志能幾研究所通信 1830  小田泰仙

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2020年11月16日 (月)

「浦島太郎物語」とは我が人生物語

 

 浦島太郎が龍宮城で、乙姫様から酒池肉林の接待を受け、楽しく時間を過ごすと、時間が無為に超特急で過ぎていった。童話では、「鯛や平目の楽しい舞い踊り」と書かれるのは子供の教育上で、ぼかした表現である。実際の大人な世界では、酒池肉林、キャバレー遊びの事で、人生の欲望に満ちた遊びの世界のことである。

 人によっては、家族団らんで過ごした何気ない日々の生活が、最期の時を迎える時、それが「鯛や平目の楽しい舞い踊り」の日々であったとなるのだ。平穏無事な生活とは贅沢極まりない幸せなのだ。ある時、親が倒れて、その団らんのひと時が、地獄の日々に暗転する。実際はその平穏無事な日々が極楽であったと後になってから回顧するのだ。毎日の贅沢三昧の食事に飽きて、お茶漬けが御馳走と感じる時が、贅沢な日々の暮らしが「鯛や平目の楽しい舞い踊り」であったと悟ると同じである。

 

大垣市長の立場なら

 己が大垣市長の立場なら、部下や出入りの業者が自分の「市長という名の権力」に平伏し、おべっかいを使い、自尊心をコチョコチョとくすぐるので、己はルンルン気分で過ごす。それが、「鯛や平目の楽しい舞い踊り」の日々なのだ。自分が市長でなければ、人気もないし、人望もないので人が寄り付かない。だから乞食と市長は3日やれば辞められえない。

 その19年間に時間は無為に過ぎた。浦島太郎物語のように、20年目で目が覚めて玉手箱を開ければ、故郷の大垣には死に絶えた大垣駅前商店街が立ち並んでいる。大垣駅前の亀の池には、死んだカメがミイラのように並んでいる。そのカメ(華名)が、自分を龍宮城の大垣市長の座に運んでくれた。市民の多くは東大出というカメ(華名)に騙されて投票した。それは名ばかりの死んだカメであった。過去の知識の記憶力だけで生きてきたカメであった。知識だけでは現代経済には通用しない。現代の激変する社会で、都市の経営には知恵が必要だ。今の市長には経営能力がない。恨めしや夢の大垣物語である。

 母の教えの玄関に造花のように死んだもの(生なきもの)を飾ると、その家は衰退する」を私は信じている。造花には精気が感じられないのだ。造花から陰気を受ける。造花を見て家の主が元気になるわけがない。だから私は自宅玄関に造花を絶対に置かない。

 大垣市は、その生なき置物を大垣駅前のカメの池に陳列している。縁起でもない。恥さらし、不気味である。置物のカメを置いた理由は、「生きた亀は、その管理に金がかかる」という大垣市役所の言いぐさである。それは市の職員が吝嗇な市長の事を考えて忖度した結果である。だから大垣は没落した。

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  大垣駅前のカメの池の置物   2019年1月18日撮影

終着駅近くで

 ふと気が付いて玉手箱を開ければ(定年後や親が死んだ後、ふと人生を振り返ると)、老いた醜い自分が鏡に写る。目はかすみ、髪の毛は薄く、シミが増え、頭は回らず、呂律も回らない老いた自分を発見するのだ。己の歳を考えると、平均寿命まで、いくばくもない。親の死という最後の教えが「あんたも何時か死ぬのだよ。命と時間を大事にしなされ」であった。

 人生の最盛期を酒池肉林に埋没した人生で、何が残ったのか。親はとうの昔に死に、妻が去り、家はローンが破綻して競売にかけられ、子供が己を避け、仲間も多くが死に、竹馬の友も死んだ。回りの人たちは自分から遠ざかっていく。それが浦島太郎の物語の教えである。他人ごとの物語ではない。浦島太郎の物語は子供用ではなく、人生をさ迷う愚かな大人を諭す寓話なのだ。

 

桃太郎の鬼退治物語

 桃太郎の鬼が島の鬼退治物語は、人生の上り坂で活動する昼の物語である。鬼とは自分の劣等感、僻み、マイナス思考、煩悩である。己の内に潜むもう一人の己(鬼)を退治すれば、人生が開けるとの教えである。

 

昼と夜の物語、プラスマイナスゼロ

 浦島太郎物語は、人生の夜の物語である。自然界では、プラスがあればマイナスがある。人生でも、どこかで落とし前を付けないと、物理学上で、計算が成り立たない。宇宙根源の理である。だからこの二つの物語は、多くの教訓が示唆されている。俗世間を知らない子供には理解不能な寓話である。

 

玉手箱を開けて

 浦島太郎の役を演じて、玉手箱を開けてしまったら、人生の終焉である。私はその玉手箱をうっかり開けてしまって、あわてて閉めた。しかし玉手箱から出た煙の直撃を受けて(?)癌になってしまった。しかし冷静にその煙の成分を調べて(真因を調査して)、生活習慣、心を入れ替えて、なんとか今を生きさせてもらっている。神仏に感謝です。

 

2020-11-16 久志能幾研究所通信 1826  小田泰仙

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2020年11月14日 (土)

西濃の小京都・大垣  栄光とその没落、夜明け

大垣の夜明け

 看板を見れば、その都市が分かる。市長の心が分かる。神は細部に現れる。大垣市民は市長の交代を熱望している。次回の市長選挙では、西濃運輸と市商連、その他からの立候補が予定されている。やっと大垣の夜が明ける。

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大垣の夜明けを待つ大垣市民

 その昔、大垣は西濃の小京都と呼ばれて栄えていた。明治時代には、大垣城近くに料亭「吉岡楼」があり、京都から三味線のお師匠さんが出稽古で来られて、大垣の弟子に教えていたという。当時は大垣に芸の花が咲いていた。私の母は、その後継の料亭「新吉」の女将さんと親交があり、その話をよく聞いた。母が倒れてからも、新吉の女将さんは大垣市民病院に頻繁にお見舞いに来てくれた。

 

乱暴医

 江馬蘭斎は延享4年(1747年)大垣藩鷲見荘蔵の家に生まれ、のちに大垣藩藩医江馬元澄の養子となる。漢方医学を究め、医学に並々ならぬ自信を持ちはじめたが、杉田玄白前野良沢の『解体新書』を読み大きな衝撃をうけて蘭学を志す。寛政4年(1792年)江戸に出て杉田玄白、前野良沢に弟子入りする事を決めた。46歳からの挑戦であった。

 当時、人生50年と言われた時代、かつ殿様の医師として地位を極めていたのに、46歳から新たな分野へに挑戦である。見習いたい心掛けだ。人生60、70ははなたれ小僧である。馬場恵峰師は現在94歳で日々新たな挑戦をされている。その師から見て親子ほども若い私は、おちおち遊んでなんかいられない。日々精進、「乱暴」と思える挑戦に取り組んでいる。

 

江馬蘭齋の挫折

 江馬蘭齋は、3年の後、自身の蘭学のレベルが師に並ぶとの自信を得ると帰郷し、大垣に私塾好蘭堂を開いた。しかし当時は蘭学に強い偏見のある時代であったため敬遠され、人は集まらずに生活は窮乏することになる。

 

人生の激変

 多くの民は、江馬蘭齋である蘭方医は乱暴医だとして、敬遠していたが、寛政10年(1798年)、京都西本願寺門主文如の病を治してから評判が激変した。西本願寺門主文如が病に倒れた時、漢方医学ではもはや手の施しようがないという時に、蘭方医学の助けを得ようと蘭齋に声がかかり、蘭齋が薬を処方した。するとたちまち薬効が出て、文如上人は命を取り留め、歩けるまでに快復した。この事はすぐに世間に知れ渡り、患者や弟子志望者が蘭齋の元に殺到した。その賑わいに旅籠まで建つほどであった。以後この私塾から300を越す門弟が巣立ち、蘭齋は美濃蘭学の祖と称された。蘭齋は、享年92の最期まで現役で後進の指導にあたった。

 

京都より先に西洋医学

 江戸時代は、大垣は交通の要所であり、西洋医学を学んで帰郷した蘭賽は日本中でも西洋医番付前頭4枚目に位置するほど著名になった。だからその江馬蘭賽を訪ねてくる偉人が多くいた。頼山陽もその一人であった。頼山陽は江馬蘭齋の娘・江馬細香と恋に落ちる。

 その江馬蘭齋が西洋医学を西濃地区に広めた。大垣での西洋医学の広がりは、京都よりも早かった。

 

蘭齋の倹約ぶり

 蘭齋は堅実な倹約家で硯の水も雨水を受けて使っていた。水の豊富な大垣で何故そんな事をするのかと問われると、「こういう小さな事から倹約する気持ちを持たなければ、本当の倹約は出来ない」と答えたという。しかし師の前野良沢が困窮しているのを知ると愛読書を売って金に換え、師に送るなどただ倹約に走るだけではない一面もみせている。

 この項、wikipedia「江馬蘭齋」、『大垣市史』(大垣市)より編集、加筆

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小川敏の吝嗇ぶり

 それに対して、現市長の小川敏は、親譲りの吝嗇を発揮して、大垣市予算に反映している。しかし自分達への贅沢には金遣いが荒い。浮いたカネを自分達の給与に振り向けている。県下一豪華絢爛たる新市庁舎を建てて、悦に入っている。大垣市の児童生徒一人当たりの教育費を県下最低にして、その資源を自分達で使い放題である。後進の育成に尽力した江馬蘭齋と大違いである。大垣駅前商店街の活性化に全く効果がない「元気ハツラツ市行事」に1億円も散財して平気でいる。大垣市の経営にPDCAを回さないし、回す能力がない。小川敏に江馬蘭齋の爪の垢を煎じて飲ませたい。

  

大垣の挫折

 本来、大垣は京都やボストンと同じように、歴史的名所が数多くあるので観光名所の宣伝をすべきなのに、現市長の小川敏は、大垣の中心地に掲示してある市内観光看板のメンテさえカネをケチり、看板が錆びだらけ、ハゲハゲだらけで放置している。それは大垣の教育をも放棄したことを象徴している。小川敏は、未来への投資を怠り、大垣というブランドを棄損したのだ。結果として大垣が没落して当然である。

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 大垣市の中心地・新大橋にある観光看板(サビサビ、ハゲハゲ)

 2019年9月27日撮影(今も変わらない)

    歩道が立派なのは、岐阜県に管轄責任があるため。

 

京都御所を彦根城に移す?

 彦根藩の井伊直弼大老は、幕末の混乱を危惧して、非常事態の場合、天皇を彦根城にお連れして、仮の御所にするつもりで彦根城を整備した。だから彦根城の造りは半端ではない。

 現在、彦根市は彦根城をメインの観光として、観光に力を入れている。彦根城を世界遺産にしようという活動もしている。そのため、その市内の観光看板は立派である。大垣の観光看板と比較すると、大垣の看板は恥ずかしい。

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 彦根市の観光看板(立花町・商工会議所前)

 2020年10月5日撮影

 

 

2020-11-14 久志能幾研究所通信 1824  小田泰仙

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2020年11月10日 (火)

「死にたい」悟段活用

死にたい、死に体、死に戴、死に諦、師にタイ

 

死にたい

 悲しい時は悲しむがよい。思いっ切り悲しむのがよい。悲しみという苦痛が自分を育ててくれる。ルンルン気分だけで過ごした人間より、はるかに深みのある人間に育ててくれる。

 挑戦をしない人間は、死にたいという境遇にはならない。大きな挑戦をするから、失敗、挫折をして死にたい気持ちになるのだ。しかしその挫折は、飛躍のために、思考を深め、下に根を伸ばしてエネルギーを蓄積の時なのだ。

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    馬場恵峰書

死に体

 人生に悩みもなく、ボケーと暮らせば、生きていても「死に体」である。息はしていても、生き永らえているだけだ。定年後、やることもなく、無為に過ごせば、死に体である。

 「起きたけど 寝るまで とくに用もなし」

 「あれソレで 一日過ごし 吾忘れ」

 それではそのまま認知症への道をまっしぐら。65歳以上の日本人は、15%が認知症。75歳以上だと25%が認知症。

039a33931s   馬場恵峰書

 

死に戴

 人生では、最期に神仏から死を戴くのだ。その死にざまで、生きざまが分かる。立派な死を戴くように、日々精進すべきなのだ。よく働いた一日が安らかな眠りを誘うように、よく働いた人生は、安らかな死を戴く。世の中に貢献もせず、中途半端な生き方をするから、野垂れ死にするのだ。

 

死に諦

 生あるものは、必ず生老病死苦である。死を諦め、死を明らかにしたとき、新しい人生が生まれる。

 「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なく、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃としてねごうべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり」修証義

 死を意識するから、人間なのだ。涅槃を意識するのだ。犬猫では死など考えない。死を意識するから、人生は限りある時間と悟り、命を燃やして生きるのだ。

 

師にタイ

 人間なら、志を立てたら、人生では師を持ち、その師を超えることを目標にすべきだ。師を超えられなくても、せめてタイの成績に持ち込みたい。

 「師にタイ」は「しにたい」活用の最高段である。師を超えるのが、師への最大の恩返しである。

 師を持たない人生とは、さ迷える孤舟の航海である。エンジンのなく、北極星も知らず、海を漂うだけの人生である。船が港を出て、湾内の周りを長い間漂っても、それで長い航海をしたと自慢はできない。単に歳を取って白髪が増えただけである。それは、長年会社と自宅を往復して、大過無くサラリーマン生活を送っただけの人生だ。

 だからこそ

「三年かけて師をさがせ。良き師に恵まれてこそ自己の人生に花は咲く」

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P18_039a01822s馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集 「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より

2020-11-10 久志能幾研究所通信 1820  小田泰仙

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2020年11月 9日 (月)

「トヨタの片づけ」で人生を片づけ隊

 

 トヨタは5Sで世界一になった。5Sとは整理・整頓・清潔・清掃・躾である。

トヨタの片づけ格言

◆きれいにするのがゴールではない

 最終目的は、仕事の効率化、利益確保、人の育成、理念の達成である。

 見た目がきれいに整頓されていても、整理されていないと使えない。

 整理とは、何時でも使える状態に管理すること。

◆人を責めるな、仕組みを責めろ

 片付かなくなってしまった仕組みを改めよ。

 片付かないと、自身が損の痛みを直接感じる仕組みを作れ。

◆ムダという宝を探せ

 無駄の中に、改善のネタが埋まっている。

 それを一つ一つ改善すれば、業界でトップになれる。

 小さな改善の積み重ねでトヨタは世界一になった。

◆捨てるのが「もったいない」「いつか使う」は諸悪の根源

 「いつか」という時間には、高いコストがかかっている。

 期限の無い、「いつか使う」は、無駄の最たるもの。

◆ものを持つことはコストになる

 モノを持てば、減価償却が発生する。

 モノには場所も税金も人工もかかる。

◆指導者は桃太郎たれ

 部下をキビ団子という報酬を掲げ、結束して力を合わせよう

 

人生の片づけ

 これを自分の「人生の片づけ」に当てはめて、人生をオダブツ教の6Sで人生を乗り切るべし。

 6Sとは、整理・整頓・清潔・清掃・躾・創造である。創造(智慧)こそ時間創造の基本である。整理・整頓・清潔・清掃・躾・創造があれば、人生を歩むスピードが上がる。

 知識ばかりあっても、整理されてないと情報のゴミとなり、使えない。情報を智慧のレベルに上げよ。

 

目的地

 綺麗ごとの人生では、人生の最終目的に到達できない。泥だらけ、傷だらけの人生であっても、人生の目的を全うすればよい。遅くてもよい、着実に早く決断をすること。即決でなくてよい、早い時期に決める。歩む速度が遅くても、早く決めれば、敵よりも早く目的地に着く。敵とは優柔不断なもう一人の己である。何処へ行くかを早く決めるべし。

 いくら頑張っても、あと50年は生きられない。自分の人生をどう片づけるのか。癌になってもその片づけはできるが、認知症になってしまえば、片づけが出来ない。

 

システム構成

 こんな私に誰がしたと嘆かないで、自分の人生は自分で片づけるべし。

 人生のお荷物はAI付きブルドーザーを使って片づけよう。

 

無駄こそお宝

 人生で無駄なことは一つもない。病気も不遇も事故も全て自分の成長にために必要な事象である。人生が総て思い通りに行けば、鼻持ちならぬ人間になってしまう。

 病気をするから体の限度が分かり、体を大事にする。人の痛みが分かる。

 会社での冷遇も、自分の至らなさを教えてくれる仕組みである。仏様が頑張れと言っている。

 小さな事故が自分の危機管理の至らなさを思い知らせてくれる。それは仏様からの啓示である。そのまま突っ走れば、大事故に遭い死亡である。

 先日も、事故寸前となる事象に遭遇したので、仏様からの啓示と思い、ドライブレコーダーを前後2カメラ方式にすることにした。危機管理である。

 体で体験しないと智慧にならない。それが格物致知である。

 

「いつか」などは永遠に来ない

 今しかない。今使わないものは、永遠に使わない。捨てるべし。

 必要な時に、必要なものを買えばよい。

 モノを溜めるのが習性であった母は、日用品を大量に保存していた。昔の人は皆同じである。私は母の死後、その処分のため時間とお金を使った。今はモノを処分するのにお金がかかる。保管場所も土地代という金がかかる。

 

所有コスト

 モノを持てば、減価償却費がかかる。友人、知人を多く持っても同じだ。何時かはそれらが陳腐化する。知人友人が自分と同じように成長してくれればよいが、波長が合わなくなると別れがくる。

 教育も知恵も経験も維持しないと減価する。現代は知識も陳腐化の速度が速い。そのための訓練、練習の保持活動が必要だ。それにはお金がかかる。自分はどんな能力を持つのか。費用を考えてその能力を持とう。

 変な宗教思想を持てば、お布施という金ばかりを教団に貢ぐことになる。正しい思想を持とう。思想には所有コストがかかる。正しい思想は一つあれば十分だ。正しい宗教には、お金はあまりかからない。

 人生のお荷物は早く下ろせ。

 

モノを持つとは

 そのモノを持って、自分の人生を助けてくける存在のモノを持つべきだ。そのものと心中する気で、棺桶まで持って行く覚悟がなければ手に入れないことだ。

 モノを買うとは自分を買うことだ。安いものを買えば、自分の人生を安物扱いすることになる。大事な人生が、ぞんざいに扱われてしまう。すぐゴミ箱行きとなる。モノを多く持てば、自分の持つ資源がぼやけてしまう。自分の資源を整理整頓清潔清掃にして、世の中で活用しよう。

 

自分というお荷物

 自分が、認知症になり、粗大ゴミ同然になればその片づけコストが大変だ。人様に迷惑をかける。今後、日本は老人大国となり、その社会的負担が増加する。

 自分が、そんな存在になるなら、沖縄のきれいな海にドボンした方が、世の為かもしれない。だからこそ人間として、存在付加価値のある人物になるべきだ。人として世の中に貢献してこそ、生きている価値がある。そうすれば仏様と社会が生かしておいてくれる。自分は生きているのではない、生かされているのだ。仏様が世の中で不要と判断すれば、死が訪れる。世の中で不用品にないように学び続けなければならぬ。

 

人は学ばないと、人間ではなくなる。

学ばないと宿命的存在、つまり動物的、機械的存在に成り下がる。

学ぶことで運命的存在、つまり人間的存在になる。

よく学問修行をすると、自分で自分の運命を創っていくことができる。

              安岡正篤

 

鬼退治

 人生の片づけとは、自分の内に存在する「鬼」を退治すること。後ろ向き、劣等感、僻み、等の自分をディスカウントする負の潜在意識が「鬼」である。外の敵は容易に退治できる。しかし内なる鬼は強敵である。それを退治しないと、人生は片づかない。鬼を退治して、人生目標を目指して、菩薩になろう。菩薩とは佛になるために修行をしている。それが生きる意味だ。私は毎日、馬場恵峰師の書を見て自分の人生を確認している。

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    「魂(オニ)」は松本明慶大仏師作、「不動心」は馬場恵峰書

P10400341s  馬場恵峰書

2020-11-09 久志能幾研究所通信 1818  小田泰仙

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2020年11月 6日 (金)

狂い方の方程式

 

人は何故間違えるのか?

 人は常識に囚われるから、良識を間違える。

  良

  常

  正

   ↓

 現状を「」に「」を突き付けて認識する。そうすれば間違えない。

  「認」とは、もともと「忍」から生まれた漢字である。

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過去のしがらみ

 自分が何のために生れたか、何のためにそれをするかを認識するのが、教養である。頭の良し悪しは関係ない。逆に頭のいい人ほど、過去に得た知識に囚われて、判断を誤まる。

 頭のいい人が、過去に戦争で大量殺人の罪を犯している。エリートが日本経済政策を誤った道に進めた。エリートがオウム真理教に走った。エリートが行政を間違えて、都市を衰退させた。エリートは頭がいいと自惚れているから、人の意見は聞かない。みんなエリートと呼ばれた頭脳明晰(記憶力が良いだけ。頭が固い)な人ばかりである。だから日本の失われた30年が生まれた。

 大垣市にも失われた20年が生まれた。市長の小川敏が、人の意見も聞かず、頭が固いのが原因である。

 

学びとは

 大学に行かせるのは親のメンツだけである。何のために学ぶかを「認識」しないから、人生を誤まる。学ぶとは他人の振り見て、己を見直すことだ。知識偏重に陥ると、他人から学ばなくなる。だって、自分が一番偉いと思ってしまうから。特に東大出はそうである。

 

創造とは

 過去の知識を現代の現象に結び付けて、新しい価値観を生み出すのが創造の学問である。創造とは、過去の知識を分解して再結合するのが、創造である。発明は全く新しいことを生み出すこと。それは天才の仕事である。

 創造は凡人にもできる仕事である。アップルのiPodは過去の技術を再構築しただけで作られている。iPodに発明に相当する技術はない。その創造が、今の日本のエリートと呼ばれる知識偏重人間にはできない。だから日本は停滞している。

 

記憶の限界

 「学びとは記憶とすることだけ」とするから、人生を誤まる。それは過去の世界である。過去の知識の記憶は、学びの単なる導入部である。その知識がいつまでも、正しいわけではない。

 現代は、50年前の知識の記憶力の良し悪しだけの試験で評価された人間が、日本経済の舵を取っているから、日本経済は停滞している。

 自分の価値観から見て、他人があそこまでやっているなら、自分はそれ以上に、また別の観点で、やってみようと取り組むのが挑戦である。そこで常識に囚われて引き返すのが、エリートと呼ばれる知識偏重人間である。それでは、現状を打破できない。改革者は限度を超える。限度を超えなかった改革など、過去にない。

 

変わろう

 現状を常識で認識するから、自分は変われない。その常識は過去のものとして、正識しよう。常識を超えているか、間違っているかは、やってみないと分からない。それは後世の人が判断してくれる。現代で評価されようとは、考え方が狭い。

 人の振り見て、わが身を直すな。狂いたまえ。

 変革者は、人の振り見て、わが身を直さなかった。

 

新しい世界に飛び出す

 勉強とは、心を豊かにする事で、立身出世の為ではない。学問とは過去と他人の過ちを、現代にフィードバックして、新しい価値を生むことだ。過去の知識とは失敗の辞典である。昔の知識のまま事業を進めても、変革は起こせない。

 青年よ、狂いたまえ。心に火をつけ、過去の常識を捨てないと、新型コロナ後の世界を生き延びれない。新型コロナ前の常識は壊れてしまった。

 

煎餅人生

 私は狂っていると呼ばれたい。そう呼ばれないのでは、常識の壁に押しつぶさた「煎餅人生」を送っているのだ。すこし曲げ応力をかけると、すぐ割れてしまう薄ぺっらい人生だ。そんな根性では自己変革などはできない。どうせ後50年は生きられないのだ。限度を超えて生きてこそ、生きる価値がある。

 「人間は本質的に狂の部分を持っている。狂っているときが一番正常で健全だ」 ギリシャの哲学者セネカ

 

 人が狂っていない時とは、過去の常識という「亡霊」に取りつかれている時だ。その固定観念を打ち破らないと変革はない。狂わないとその固定観念は壊せない。狂ってしまい、後は野となれ山となれでよいではないか。狂って間違っているかどうかは、神仏のみぞ知る。世を変えた人は、当時は、皆から狂っていると言われた。当時は、変革者が命を賭けて戦った。そして命を落とした。今は命を賭けなくても、変革に挑戦はできる。幸せな時代である。

 五十にして天命を知り、六十にして耳に順い、

 七十にしてその心の欲する所の矩を超えず、の論語式では駄目なのだ。今は2000年前の時代ではないのだ。

 心に火をつけて、矩を超えよう。変革をしよう。何かが変わる。

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「矩」とは 

 「矩」とは矢+巨(音)からなり、音符の巨は、定規の意味。矢はまっすぐで正しい意味を表す。現代は、その定規(道徳、掟、きまり、法則)が変貌している。それに合わせて生き方を変えないと、時代に殺される。

 

2020-11-06 久志能幾研究所通信 1815  小田泰仙

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