善は急げ 2年ぶりの墓参り
今日(2022年9月28日)、2年ぶりに墓参りに彦根に行ってきた。昨年は、コロナ禍でとても出かけられなかった。また昨年は私の体力的にも厳しい状況であった。がんの手術後2年目で、体調が不安定であった。
少し涼しくなり、状況も少し好転したので、お墓参りに出かけた。
写経奉納
その時、今まで書き溜めた写経を約30枚持参した。それを菩提寺に奉納した。これは今まで一日2行ずつ写経してきた分である。1枚の写経をすると約1時間かかり、とても毎日は続かない。馬場恵峰先生は、一日2行で良いから写経を続けると良いと言われたので、それを実行している。それが今まで約30枚溜まっていた。馬場恵峰先生は、写経こそが御先祖への一番の供養だと言われた。
お墓の経緯
このお墓は7年前の2015年に建てた。たまたま、親戚である京都の尼寺で住職であった叔母が亡くなり、その家が絶家になってしまった。それでその家のお墓の面倒は誰が見るかで問題となり、私がそのお守りをする事を申し出て、私が自家のお墓を改建する過程で、3家のお墓を統合する話となった。それで、6基のお墓を統合して3基のお墓に改建した。
7年経った今では、このお墓を建てることは、物理的、金銭的、精神的、体力的にも、とてもじゃないが出来ない状態だ。良い時に決断をして、立派なお墓を建てて良かったと、今回墓参りをして、しみじみと思った。
当時、馬場恵峰先生も健在でお墓の字を揮毫して頂けた。お墓開眼法要にも、馬場恵峰先生ご夫妻に、九州からわざわざ参列して頂けた。しかしその先生も、奥さまの三根子先生もその4年後には亡くなられた。
当時、たまたま金銭的にも余裕があり、レクサス以上の価格になった墓費用を都合できた。今は癌闘病生活での出費と別宅事務所を購入したため、すっからかんで、今ならこのお墓は作れない。
当時は精神的にも体力的にも元気で走り回っていた。お墓の字の揮毫で九州まで飛んで、先生にお願いできた。その後、がんを患い、すっかり体力がなくなり、とてもそんな大プロジェクトを実行できない状態だ。
またこの原石を中国で加工して、輸入したが、現在はそれも経済、政治的に叶わない。そのお墓の石自体が中国から入手できない。またそれを加工する職人もいないそうだ。中国でも、職場環境が厳しい石職人には成手がないそうだ。日本と同じである。豊かになった中国の若者も、3K職場の石職人は避けるそうだ。
善は急げ
お墓などは、作ろうと思っても作れるものではない。作れる時と作れるご縁が無いと作れない。これは自分の力だけではない。見えざる力が働いたとしか思えない。何ごとも、やれるときにやらないと永遠にできない。それを先人は、「善は急げ」と言ったのだろう。今日、住職様と雑談をしていて、本件を住職様は「善は急げ」で良かったと表現された。
当時、私はトヨタの石田退三氏が言う「悪いことに使うのでなければ、カネは何とかなる」という言葉を信じて、お墓を建てた、それが「善は急げ」なのだ。
このお墓を建てられたのは、人知を超えた働きがあったと感じている。お墓に向かい手を合わせ、その見えないものに畏敬を感謝の気持ちで手を合わせた。
今私が此の世に存在するのも、ご先祖様があってのこと。晩年の松下幸之助翁は「感謝と畏れを忘れるな」とよく言ったという。お墓を前にそれを思い出した。
墓地の惨状
お墓参りをして、回りのお墓を見ても、墓参りに来ている人は皆無であった。いつもなら数人は必ず姿をみかけたのだが。またお墓の前に、お花も供えられていない。皆さんはコロナ禍で墓参りにも来ていないようだ。
帰りにお土産を買うため、近くの「たねや」に寄ったが、店内は閑散としていた。以前のお店は、お客が溢れているのと様変わりである。2階の食事場所も閉鎖である。以前は10名ほどの店員が忙しくしていたのに、今日は3名しかおらず、コロナ禍に襲われた菓子店の惨状を目のあたりにした。
政府ののろまな対策に怒り心頭である。またこの国民の災難の時、それにかこつけて強欲な金儲けに走る輩にも怒り心頭である。
2022-09-28 久志能幾研究所通信 2503 小田泰仙
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