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2023年1月28日 (土)

太上は ニコニコ黙って 腐縁切る

 

 太上とは、ファーストクラスに乗る人である。そういう人の行動を真似すると人生を成功に導ける。また幸せな人生にすることが出来る。昔の中国では、太上になるための教育方法を「孟母三遷」と言った。

 美月あきこ著『ファーストクラスに乗る人のシンプルな習慣』(祥伝社、2009年)によれば、ファーストクラスに乗る人は、CAにはほとんど負荷をかけず、お世話をしていて心地よいという。それがエコノミークラスやビジネスクラスに乗る人達との差だという。エコノミークラスやビジネスクラス乗る人たちは、CAに最大限のサービスを要求するという。ファーストクラスに乗る人はそんな意地汚いことはしないそうだ。

 そこに私は人生の縮図を見た。人生の航空旅行は、ファーストクラスに乗るつもりで生きていきたい。

 私の「死ぬまでにやりたい100項」の一つが、ファーストクラスで飛ぶことだが、まだ実現できていない。お金があるからファーストクラスに乗れるのではない。お金が出来て、なおかつその資格を仏さまが認めてくれたら、そのご褒美で乗れるのだと思う。そのために頑張りたい。

 しかし12時間ほどのフライトで、100万円は高すぎる。そんな考えの貧乏人根性ではファーストクラスに乗るのは無理ある。それよりも架空の人生航路でファーストクラスの人生を送ることを考えるのがよい。それが「太上は ニコニコ黙って 腐縁切る」である。人生は悪縁や腐縁を避けられれば、極楽のファーストクラスの人生を送れる。

 

悪縁・腐縁

 私はこの20年間、経営者向けの研修会に多く参加して、多くの社長と出会いがあった。しかし社長だから、人格者だと思っていたら、実際はピンからキリまでいることを発見した。社長といっても中小零細企業の社長である。大企業の人格ある社長とは違うのだ。社員数だって数人から数百人の会社まである。自分で起業すれば、誰でも社長である。だから全ての社長が人間的に出来ているはずがない。

 中には人格の高い人もいたが、その反面、詐欺同然のことをする社長、車検に出した私の車を営業車代わりに乗り回した自動車整備会社の社長、ドタキャンをして違約金まで踏み倒す非常識人、統一教会まがいの新興宗教を勧誘してくる社長等と様々な社長のくずが多くいた。

 私はそんな輩達とはすぐに縁を切ったので、大きな被害に遭わずにすんだ。

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道徳観念の無い社長に騙された

 G経営者研究会で知り合った自動車整備会社の社長に、自車の車検をお願いした。車検後、入れたはずのガソリンがほとんど無い。おかしいと思い、ドラレコを確認すると、その社長が私の車を営業車代わりに乗り回していることが録画されていた。なおかつ運転中に電話で営業活動をしていた。当時はハンズフリーの携帯がない時代で、法律違反である。

 それでその社長とは距離を置き、二度と車検は依頼していないし、付き合いも断った。10年ほど経つが、従業員が4名のその会社は全く発展していない。当たり前である。それが仏様のお裁きだろう。同じG経営研究会の仲間だからと信用した自分が愚かであった。

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宗狂社長から勧誘された

 新興宗教を勧誘してきたのはG経営研究会の元会長である。大きな会計事務所の会長とグルになって勧誘をしてきた。私は、その経営研究会が社長たちの集まりの元会長であったので、信用してしまった。それが大きな間違いであった。その教団は統一教会と同レベルの怖ろしい教団であった。

 下手をすれば、私は全財産を失い、失明するところであった。その教団では、入団すると太陽を見つめる修行が課される。その会長もその修行の話しはしなかったが、「前に何かのきっかけで失明寸前になった」ことがあると私に告白した。多分、太陽を見つめる修行をして失明寸前になったのだろう。弱視の私がその修行をすれば、失明確実であった。

 また信徒数と建てた教団本部建設費用から計算すると信徒一人当たり1千万以上の金が寄進として吸い上げられている

 その教団から脱会しようとすると、地域の信徒が大勢自宅に押し掛けてきて「無間地獄に堕ちるぞ」と大騒ぎをして脱退を阻止するという。

 数年前、岐阜県のある村長が襲撃される事件が起きた。犯人は捕まっていない。教団の新本部建設の用地問題で、それに関係していると噂になったが、真相は闇の中である。

 その家で葬儀があると、地域の信徒が全てを取り仕切り、香典は全て持ち去ってしまうという。

 私を救ったのはネット情報であった。一時は試しに入会して、ダメなら退団すればよいと安易に思っていたが、緊急事態として、入会儀式直前に、関係を断った。危ないところであった。

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経営者の倫理観無し

 G経営研究会のある経営者は、あるОB会のイベントの幹事を引き受け、ホテル予約のダブルブッキングをやらかした。その経営者は懇意のホテルに新規の予約をしたのだが、先に予約したホテルのキャンセルを忘れた。それでドタキャン扱いとなり、数10万円の違約金を請求された。その幹事は金が無いとホテルに泣きつき、1万円で勘弁してもらったという。かの経営者は金が無いと言いながら、ベンツを乗り回してした。その幹事はG経営研究会の有力幹部である。その経営者は、子供向きに論語の先生もやっていた。論語読みの論語知らずである。

 私はそのイベントの幹事に誘われ、途中まで一緒に活動した。しかしその過程で彼らの不誠実なやり方に呆れ、反吐が出て、私は幹事を降りた。それが正解であった。そのまま付き合っていれば大変なことになる処であった。

 私は、師の名誉の為にその後始末に走り回った。九州の師にも相談し、そのホテルに出向き、お詫びとして書も進呈した。

 その1年後、その幹事のゴ贔屓のホテルは耐震問題で、取り壊された。その思い出の出のホテルは跡形もない。仏様のお裁きだろう。

 先の道徳観念の無い社長とこの経営者は大の仲良しである。類は類を呼ぶのだろう。友を見ればその人の人格が分かる。

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住む世界が違う人との腐れ縁

 私のピアノ先生が、数年前、最期の演奏会を計画した。懇意の演奏家たちをドイツから招いての演奏会である。私は当時、先生の病状もその決意も知らなかった。私がそのチケット購入を先生と縁の深い事務局長にお願いしたら、「休みの日に、わざわざ出かけねばならないほどの演奏会ですか」と言われ購入を断られた。その答えを私から聞いて、先生曰く「あの人は住む世界が違うのよ」であった。それ以来、私はその人と縁を切った。

 その1年後、先生が突然亡くなられた。それは私には突然の訃報であった。その人は、通夜に来たが、義理で来たようで、焼香を済ませると早々に帰って行った。私はその姿を見て、縁を切って正解であったと確信した。

 

他山の石

 人生では悪縁と付き合うと、それに影響されて、自分の人生に悪影響を及ぼす。やんごとなき方のKK問題は、穢れた悪縁との付き合いが原因で、大騒動になった例である。

 それは仏教の縁起である。その悪縁を他山の石として学べばよい。他山とは多くの人の生き方の例を示す言葉である。その縁は玉石混交である。

 

縁切り

 出会った縁が、悪縁と認定出来たら、「いつもニコニコ、太上は黙って悪縁を切る」を実行しよう。悪縁の人に説教やアドバイスをしても無駄である。そんなことをすれば、逆恨みされるのがオチである。その人とは「この世では縁が無い」という縁をいただいたのだ。お釈迦様でも「仏の顔も三度まで」と仰せだ。そう思い、そっとその人から離れるのが、人生の危機管理である。別名「君子危うきに近寄らず」である。

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馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」久志能幾研究所刊

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2023-01-28  久志能幾研究所通信 2599  小田泰仙

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2023年1月15日 (日)

縁起 「この世で縁がない人」との付き合い方

 

 性善説、性悪説を唱えるのは儒教である。「全てのことは縁に始る」との縁起説は仏教である。これは恵峰先生の三回忌法要で圓鏡寺の住職様が、説法でこの教えを説かれた。

 私は、昨年12月24日に九州での恵峰先生の三回忌、昨日(1月14日)に東京での親戚の三回忌に参列して縁起説を意識した。恵峰先生は、儒教の「性善説、性悪説」の教えを否定された。性悪説に従えば、悪人がいくら勉学、修行をしても、善人にはなれないことになるからだ。

 

 仏教の縁起説では、人生は縁の出会いで始まる。良い出会いが、良い縁を招く。だから良き出会いを求めばならぬ。また出会いを良いものにする努力をしなければならない。

 その出会いは全て心が決める。心とはすなわち、その人の魂である。魂の向上を目指さないと、人生は豊かにならない。類は類を呼ぶからだ。

 

4k8a93721s 馬場恵峰書

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縁の多様性

 世間を騒がしているKK問題もやんごとなきお家の騒動も、全て悪縁、穢れた縁との付き合いから始まっている。縁起である。

 安陪さんを殺めた山上徹也容疑者も、その母が間違った教えの縁に関わったのが始まりである。間違った縁につながると、間違った思想に洗脳されてしまう。それから、いくら正気に戻そうとしても無駄である。

 

縁なきご縁

 親戚関係でも、相手がある考えに思い込むと(洗脳状態)、いくら当方が正論を言っても、理解しようとさえしない。だから話し合いが無駄である。それは山上徹也被告の母を説得して1億円のお布施を止めさせるようなものである。その人とは「この世では縁がない」という縁でつながっている。

 現在、私が分かり合えていない親戚たちは80歳以上である。もう時間が無く、生きている間に分かり合える縁もなかろう。それが、「この世では縁がない」という縁である。つい最近、その中の2名が亡くなった。私と分かり合えないままに世を去ったのだ。歳月という名の「佛様のお裁き」である。

 

 515事件では、犬養毅首相が「話せば分かる」というのに、反乱軍は「問答無用」と発砲した。此の世では縁がなかった。その極端な例の惨劇である。

 

 もしお釈迦様が生きておられて、習近平と話し合う機会があっても、ご縁が無いから、分かり合えないであろう。我々が思い違いの人との分かり合いが無理なのと、同じである。

 

全方位外交の愚

 日本には1億2千万人の人間がいる。全能でない凡人の我々は、その全てに人間と縁を結べるわけではない。限られた付き合いの中で、その縁を結んでも、「縁がない人」と無理に縁を結ぼうとするから軋轢が起きる。そういう縁には、近づかず、そっと縁を遠ざけるのが、賢い人の行動である。

 お釈迦様は、全ての人と仲良くせよとは仰せでない。お釈迦様でさえも、縁なき衆生を「縁なき衆生は度し難し」と突き放されている。お釈迦様ではない凡人の我々は、全ての人と平等に付き合うなど無理なのだ。

 第二次世界大戦中のドイツでヒトラーから迫害を受けたユダヤ人で、命を守れたのはドイツから逃げ出した人達だけであった。狂人のヒトラーと個人で戦うのは、狂気の沙汰なのだ。ライオンが襲ってきたら、ウサギのような我々は逃げるしかない。

 

 日本政府も狂国や敵国と、全方位友好外交をする必要はない。それなのに、ノー天気外交で、媚中派の岸田政権は、敵国、味方国の区別なく全方位友好外交を強行している。財界の太鼓持ちのマスコミに踊らされている現状は、痴呆症外交である。次の選挙で自民党にお灸を据えないと、日本国家が危なくなる。

 

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2023-01-15  久志能幾研究所通信 2589  小田泰仙

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2023年1月13日 (金)

「コンド―さん」と絶縁 ご縁のカンバン方式

 

 私は「今度、〇〇します」が口癖の人とは、意識的に縁を遠ざけている。そういう人には、「今度は」は永遠にやってこない。

 私ががんになり、それを伝えると、そういう人は「今度お見舞いに行くね」と言うが、その人が今だかって来たためしがなかった。現実に、そういう人が数人もいた。

 そのうちの一人から4年ぶりにメールの年賀が来て、「一度会いたいですね」と書いてあったので、何時もどうぞ、と返信したが、全く応答がない。

 私ががんになり、その件で、虚言を吐く多くの知人が明らかになり、喜ばしい限りだ。残り少ない人生で、そんな人と付き合いを避けることは、自分の人生時間を創造することなので嬉しいのだ。

 

 人生でやりたいことがあれば、今、やればよい。今度やろうとして、そんな「今度」は永遠にやってこない。いつやるの? 今でしょう!

 

トヨタ生産システム

 それをトヨタ生産システムでは、カンバン方式という。必要な時に必要な数だけを前工程から引いて、必要な数だけを生産して、後工程に流す。早からず、遅からず、である。 

 人生でやるべき事を確実にやっていれば、幸せのご縁は必ずやってくる。幸運の女神もトヨタ生産方式に則って幸運を生産している。トヨタ生産方式で生産すれば、効率的で、女神さまも楽なのだ。

 それが「縁ありて花開き、恩あって実を結ぶ」である。

  

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2023-01-13  久志能幾研究所通信 2588  小田泰仙

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2023年1月 3日 (火)

一念の計は、山籠もり禊にあり

 

 今年の大晦日と元旦は、大垣フォーラムホテルに籠って「一念の計(一年の計)」を考えた。山籠もりとして、ホテルの最高の部屋に籠り、外界の喧騒を断ち切り、冷水で身を清め、今までの人生の振り返り、今後の人生を考える時間を持てたのは、有意義であった。それは私の禊ぎでもあった。それが一事一心一念道である。

 大垣フォーラムホテルさんからの厚遇に感謝である。これも亡き馬場恵峰先生の陰ながらの御差配と感じた。

 

展望

 その修行は、ホテルの天井界(8階)にある一番大きな部屋を利用した。その部屋は通常の部屋の3倍の広さである。寝室も居間とは別にあり、トイレも洗面台もクローゼットも2つある部屋である。居間には台所の流しも備わっている。宮様も利用するお部屋である。天上界からの展望も素晴らしく、初日の出(ただし1月2日。元旦は寝過ごして拝めなかった)も拝めた。冷水シャワーで身も清めた。

 また展望の視野内に、元三洋電機(羽島市)のアーチ型の巨大なソーラーパネルも眺められて、その最後の姿を拝んだ。このパネルは今年中には撤去されるとのこと。時代の流れを感じた。その現実に万物の生老病死を突き付けられた。生物だけではなく、建物にも生老病死があり、永遠の命はないことを思い知らされた。

 やりたいことが出来るのは、生きているうち、今のうちなのだ。自分の今までの人生を展望して、残りの人生を精一杯に生きようと決意した。今、生きていることが奇跡なのだ。

 人の生は偶然だが、死は必然である。

 人生計画は死から逆算して、立案すべきである。

 いつまでもあると思うな 親と自分の命。

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    天井界の部屋

 

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       元三洋電機のアーチ型ソーラーパネル  ホテル8階の部屋より   2023年1月2日

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振り返り

生老病死、ご縁は夢幻

 この部屋は、2018年4月、私が馬場恵峰先生ご夫妻を彦根と関ヶ原合戦場跡に案内した後、大垣で恵峰先生をお泊めした部屋である。翌日、私は恵峰先生ご夫妻を名鉄犬山ホテルへレクサスLSでお送りした。三根子先生に大変喜んでもらえて幸せであった。

 そのレクサスLSも、恵峰先生が大垣に来られることが決まり、それならばと構えていたら、ご縁で直前に入手できた。しかし、私はレクサスLSの維持費の高さに音を上げて2年後には手放した。別荘と二号さんは、持ってはならないのだ。乗らない時の維持費が大変なのだ。しかしそれも良きご縁で、よき経験であった。早からず、遅からず、ご縁はやってくる。恵峰先生ご夫妻をレクサスLSで送迎できたことは稀有の必然のようなご縁であった。今は、レクサスLSを買う気になれない。それは佛のご差配であったようだ。レクサスLS所有は108の夢の一つであったが、実際それを所有して見ると、「ああこんなもんか」と現実に目が覚めるのだ。それも良き経験である。今ではそれは夢幻であった。それも人生を振り返るための貴重な経験である。人生ではやってはいけないことをやってみて、やってはならないと悟るのだ。人とは愚かな存在だ。

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「佛様のお裁き」 

 その翌日の10月21日、馬場恵峰先生は塾ОB会の講師として、名鉄犬山ホテルに泊られた。しかしそのホテルは1年後の2019年8月に急に閉鎖された。耐震強度問題が露見して、安全上の観点で、取り壊されてこの世から消滅した。それも因果である。先生が泊まられた時、事故が起きなくてよかったと思う。宿泊客の命を最優先にした名鉄さんの決断は素晴らしいと思う。建物さえ、生老病死の因縁があり、あっという間に消滅する。まるで人の生死のようだ。

 それが今回、ご縁があり、私自身が大垣フォーラムホテルのその部屋に泊まることになった。自分でその部屋に泊まってみて、恵峰先生ご夫妻を極上のいい部屋にお泊めして良かったと改めて思った。

 翌日に恵峰先生が泊まられた名鉄犬山ホテルの部屋は普通室であった。馬場恵峰先生はその会の講演者なのだから、一般よりも格上の部屋にすべきだと思う。それが講師の先生への敬意である。

 その酷い扱いに比べて、私はよいことをしたと、改めて4年前のことを思い出し、嬉しくなった。それは名鉄犬山ホテルを予約した幹事達の人格の低さから起きた事件である。人格に低い人間は、何をやってもダメなのだ。当時、私はその幹事たちと事前準備をしている途中で、彼らの人格の低さに反吐が出て、私は幹事役を辞退して縁を切った。

 「佛様のお裁き」が、幹事達のドタキャンの露見とその後の不祥事である。そしてその思い出のホテルの取り壊しである。私は、その時の自分の絶縁の決断を褒めてあげたいと思う。悪縁と付き合うと、その分の大事な人生時間が潰される。

 そのOB会の直前、その幹事たちのドタキャン失態が露見した。私はその幹事役を降りていたので関係が無かった。しかし馬場恵峰先生の名誉のため、私はその後始末に走り回ることになった。恵峰先生と相談して、迷惑をかけた旅館に塾ОBの代表としてお詫びをして、先生の書を進呈した。その書は「縁あって花開き、恩あって実を結ぶ」の掛け軸であった。

 違和感を覚える人との付き合いは、心配が現実の危ない事件に発展する。この件で、よき知恵を授かった。その感性を大事にすることが危機管理である。

P1100226s 名鉄犬山ホテル   2018‎年‎3‎月‎27‎日撮影(事前調査で訪問)

 その1年後、取り壊された。その跡地には2022年3月1日、新しいホテルが開業した。

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  名鉄犬山ホテル前の駐車場で  この車で恵峰先生を送迎した。

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歳月人を待たず

 その翌年の2019年2月、私はガンの手術を受け、病床に伏した。手遅れ寸前で5年後の生存率は、51%の状態であった。なんとか生き延びることが出来た。佛さまが助けて下さったようだ。

 その10か月後の2019年12月13日、恵峰先生は自身の死を悟られたようで、中国へお世話になった方々に最後の挨拶をするため中国旅行に出発された。その前日、「夕焼け小焼け」の童謡の意味を先生の教室で解説された。それが恵峰先生の生徒たちへの最後のメッセージであったようだ。三根子先生は、その3か月後の2020年3月3日に突然、亡くなられた。それから新型コロナウイルスが猛威を振るい、私が九州に行けなくなり、8か月が経ったら、恵峰先生が倒れられた。その後、一月ほど寝込まれ2021年1月1日、亡くなられた。

 恵峰先生が死の床で繰り返し口にされたのは、「縁あって花開き、恩あって実を結ぶ」、「ありがとう、ありがとう」の感謝の言葉であった。

 もう恵峰先生をこの大垣フォーラムホテルの部屋にお泊めする機会はこない。私は1週間前(2022年12月24日)に馬場恵峰先生の三回忌に参列したばかりで、一連の流れに、歳月人を待たず、を痛感した。

 故馬場恵峰先生の高台に立つ図書館2階の書斎からは、長崎空港、九州高速道路、長崎新幹線(当時は建設途中)が眺められて、恵峰先生は、よく思索にふけっておられた。このホテル8階からの眺めも、同じように、名神高速道路の車、東海道新幹線の走る姿が眺められて、感慨にふけさせられた。

 

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 日中文化資料館の図書館2階からの眺め  2011年4月2日

  大村湾の長崎空港と目の前に九州高速道路と長崎新幹線の予定地が見える。

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今後の計画

ホテルでのお仕事

 私は、その部屋の6人用会議机に資料を広げ、もう一つの机にはノートPCを置き、人生計画作成のお仕事に没頭した。作業エリアが広く、資料を広げたままに出来るため、私は今までになく快適に思索を練ることが出来た。年に一度、静かな環境で自分の人生を振り返ることは良いことだ。

 部屋には計2台の大型テレビが設置されていたが(居間に1台、寝室に1台)、一度も電源は入れなかった。未来の計画をして夢を見たいのに、下世話で騒々しいテレビなど見る気にならない。

 禁酒しているので酒は一滴も飲まず、コーヒーと白湯だけで過ごした。この宿泊は、今までの穢れを落とす山籠もりの禊なのだから。

 

持ち込んだ資料は、

 「人生計画・自戒」のクリアファイル、

 「死ぬまでにやりたい108の夢」のクリアファイル、

 「人生の課題」のクリアファイル、

 青山俊董著『わが人生をどう料理するか』、

  叔母が青山俊董堂長より頂いた本で、叔母が私に贈ってくれた。

  青山俊董堂長は、私の叔母(京都の尼寺の住職)の師である。

 田口佳史著『超訳 言志四録』、

 松本明慶友の会会誌「苦楽吉祥」最新号、

 大村智博士の新聞記事、

 書抜きした京大カードから抜粋した約50枚で、ある。

 

 「人生計画・自戒」のクリアファイルには、「18歳から105歳までの人生実績・計画表」、自戒の言葉、「家系図」、研修記録、自分の性格分析等がファイルされている。自戒の言葉や年度計画も40年前からの資料が残してある。その変遷が、それで自分の歴史であり、自分の成長も辿れる。年に一度、それらを見直して今後の10年間の予定を考えている。

 「108の夢」のクリアファイル、には「死ぬまでにやりたい108の夢」の資料がファイルされている。今までの実績、これからやりたいことのリストを更新した。まだやりたいことが108個まで出しきれていないのが残念だ。紙にやりたいことを書いておくと、自然と実現するものだ。夢の実現には、まず見える形にするのが、秘訣である。

 「課題」のクリアファイルには、教育問題、認知症問題、少子化問題、日本再生、大垣再生、資金調達等の自分で考えたいテーマの資料(雑誌の切り抜き等)をファイルしている。それを見直して、新たな知見を書き込んだ。

 溜め込んだ情報と知識を、賢さで智慧に消化すると新たな知見が浮かんでくる。そのために場を変えてみるのも効果があった。それも極端に変えるのも良いことだ。それで惰性の人生が変えられる。

 ニュートンの運動力学第一法則は、止まっているものは永遠に止まっている、である。それを変えるには、少しの力を与えればよい。

 

 

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 大きな机の上に広げた資料を展望

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永眠の練習

 部屋の寝室には大きなダブルベッドと普通サイズ(それでもデカい)のベッドの2つが設置されていた。貧乏性の私は初日は、大きなダブルベッドは遠慮して、普通サイズのベッドで寝た。しかし翌日の夜、気を取り直して、使えるものを使わないと勿体ないと考え直し、2日目は大きなダブルベッドを使って、永眠の練習をした。お陰で熟睡が出来きて、日の出前に目が覚め、2日の日の出を拝むことが出来た。

 人は毎日が永眠の練習である。一生の内、一度だけ目が覚めない時がある。それが永眠(死)である。私は次の言葉が大好きだ。

 よく働いた一日は、安らかな眠りが与えられる。よく働いた一生は安らかな永眠を賜る。

             ゲーテ

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2023-01-03  久志能幾研究所通信 2581  小田泰仙

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2022年12月28日 (水)

宗教はウーバーイーツと同じ

宗教とはご先祖の教え

 宗教の「宗」は、「ウ冠」と「示」からなる象形文字である。ウ冠は我家の事、「示」は神事でお供えや生贄を置く台の象形文字である。つまりその家の教えが宗教である。言うなればご先祖から伝わる家訓である。

 つまり仏教とは、お釈迦様(仏の悟りを開かれた方)の説かれた教えである。キリスト教はキリスト様の教えである。すべてを称して宗教である。

 家訓とは、「正直であれ、勤勉であれ、盗むな、人を殺すな」等のその家の教えである。三井家の家訓、豊田家の家訓、住友家の家訓の内容は、まるで宗教の経典と同じである。すばらしい家訓がその家を繁栄に導いた。神様が繁栄に導いたわけではない。ご先祖の教えが家を繁栄に導いたのだ。いわば人生を生きていくための家庭料理法のようなレシピである。

 その例として住友家の家訓を文末に示す。住友財閥は、日本の三大財閥の1つで、ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥である。その歴史は400年以上前にさかのぼる。

  それに対して仏教やキリスト教やイスラム教の三大宗教は、全国チェーン店レストランのレシピである。そのレシピは家庭料理と中身が大きく変わるわけではない。言っていることは、人間として当たり前のことを戒律として定めただけだ。家庭料理と外食レストラン(大量生産、大衆向け)の料理の中身が同じであるのに似ている。

 まるでスマホで外食を頼むウーバーイーツ(Uber Eat)と同じで、信じる宗教(好きな料理)を何処に頼むかで、配達される料理が変わる。日本では新興宗教が跋扈しているので、すこし宗教の興味を持てば、信徒獲得に飢えた新興宗教団体が入会勧誘に飛んでくる。まるでウーバーイーツの出前と同じである。

 Uber Eats の登録店舗数が2021年に 10 万店を超えた。Uber Eats は2016 年 9 月に東京で 150 のレストランパートナーとして始まり、現在 Uber Eats は 35 都市以上で展開している。

 日本には18万余の宗教団体があるという。その数はUber Eatsといい勝負である。日本では、一人平均2~3個の宗教を信じているようだ。それは馴染みの個人営業の飲食店(Uber Eat)があると同じである。

 

日本の宗教の実態

 日本の信者数は2億1972万人、日本の宗教法人総数は18万3581(文化庁 1994年度『宗教年鑑』より)。日本の人口は1億2千万人だが、統計によると、一人2つぐらいの宗教を掛け持ちしているようだ。意思を持って信者になるには、高校生くらいにならないと思想が確立しないだろう。それを考えると8,000万人が信者候補である。だから一人で3つぐらいの宗教を信じているようだ。つまり神様、仏様、鬼太郎様である。日本人はキリスト教のように一神教でないので、節操がない。

 

オダブツ教

 だから自分の家の代々の家訓をその家の宗教として子供に教えればよい。小田家の家訓を宗教にしたのが、オダブツ教である。世界の宗教の本質は同じである。その宗教が生まれた環境でその戒律が変わる。貧乏な家の家訓と裕福な家の家訓が違うように、温暖な環境の地で生まれた仏教は穏やかな戒律である。厳しい砂漠の環境で生まれたユダヤ教、キリスト教は厳しい戒律を信徒に課している。

 しかしその本質は同じである。宗教とは茶筒を環境により切り方を変えて見える世界の差と同じである。茶筒を横に切れば丸、縦に切れば長方形、斜めに切れば楕円形である。見える形は違うが本質は同じである。まるで盲人が像を撫でて、その形態を他人に伝えると同じである。愚かな人間にはその本質を伝えきれない。

 

新興宗教の怖ろしさ

 家庭料理と外食レストランの差は、それに洗脳という調味料が有るか無いかである。その調味料は麻薬のようなものだ。それに気が付くかどうかで、人生が変わる。ある人は、麻薬のような調味料に洗脳されて、一億円もお布施を出す事件が起きた。そのバタフライ効果で、安陪さんが殺された。宗教とは何かを自分で考えず、宗教に嵌った人の末路である。

 宗教とは我が家の教え、助けてくれるのは自分と悟れば、人生に破綻はない。

 ベートベン曰く「神に頼るとは何事か。自分で解決せよ」と。

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資料

住友家 家訓

1. 主務の権限を越え、専断の所為あるべからず。

2. 職務により自己の利を図るべからず。

3. 一時の機に投じ、目前の利に走り、危険の行為あるべからず。

4. 職務上過誤、失策、怠慢、疎漏なきを要す。

5. 職務上に係り許可を受けずして、他より金銭物品を受領し又は私借すべからず。

6. 名誉を害し、信用を傷つくるの挙動あるべからず。

7. 私事に関する金銭の取引その他証書類には各店、各部の銘柄をもちうべからず。

8. 廉恥を重んじ、貧汚の所為あるべからず。

9. 自他共同して他人の毀誉褒貶に関して私議すべからず。

10. 機密の事を漏洩すべからず。

11. わが営業は信用を重んじ、確実を旨とし、もって一家の強固隆盛を期す。

12. わが営業は時勢の変遷・理財の得失をはかり、弛張興廃することあるべしといえども、いやしくも浮利に走り軽進すべからず。

13. 予州別子銅山の鉱業は我が一家累代の財本にしてその業の深長は実に我が一家の隆衰に関す。よろしく旧来の事跡に徹して将来の便宜をはかり、ますます盛大ならしむべきものとす。

 

  

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2022-12-27  久志能幾研究所通信 2576  小田泰仙

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2022年12月22日 (木)

尖った鉛筆に母の愛、無謀な東大進学、H様問題

 

 私が学生時代、飛行機好きの私は名古屋大学の航空学科に進学したい夢を抱いたが、東大に入るよりはるかに難しいことが分かった。また当時は、日本の航空機産業が壊滅状態で就職口も皆無に近く、メシが食えないと分かり早々に諦めた。私の学力と志望校のレベルがあまりにかけ離れていた。どんな夢でも叶わないことはないはずだが、それに対する道が隔絶しすぎていると、嫌でも納得して諦める。それが普通の人間の常識だ。だから私の飛行機好きはあくまで趣味でとどまっていた。

進学校での辛い日々

 並みの才能では、進学校でいくら必死に勉強しても上位になれない冷酷な現実があった。あまり勉強していないような学友が、はるかに良い成績を出している。進学校では、周りは自分より成績の良い生徒ばかり。そういう現実を知って、社会の厳しさを実感する。学力が平均より少しだけしかよくない私は、進学校で塗炭の苦しみを味わった。

 当時(1960年代末)は、団塊の世代がしのぎを削り、4当5落と言われた受験戦争時代である。自分がそういう時代に生れた宿命である。しかし時代が変って生まれれば、特攻の隊員に選ばれたやもしれれぬ。父の5人兄弟のうち3名が戦争に行き、2名は戦死である。私が平和な時代に生れたことに感謝である。

 私が地元の進学校に合格した時、母は喜んでくれた。私が学生時代には、両親から「勉強しろ」と言われたことは一度もない。私は自分で勉強を真面目にこなして、同時に趣味として飛行機に凝っていた。

母のあたたかい支援

 それでも、学業では毎夜1時、2時、3時まで机に向かう日々であった。母は黙って夜食を作ってくれて、鉛筆も削ってくれていた。当時は何とも思わなかったが、今、その鉛筆の束を眺めると母の愛情を感じる。

  (今は、当時の睡眠を削って勉強したことを反省している。脳生理学の研究では、睡眠はしっかりとらないと記憶力が低下することが分かってきた。)

 その鉛筆の束は今でも大事に残してある。今見ると、まるで花を生けたあるように見える。当時の鉛筆入れは、廃空き缶利用である。当時の母の節約ぶりが推察できる。それが母として最大限の愛情の証しだと思う。母は若い頃は華道の池ノ坊の師範であった。また洋裁の先生であった。できた母であった。

 その尖った鉛筆の削り方で、母の尖った性格を思い出す。母は標準偏差から外れた能力の持ち主だった。知人の社長が「お前の母親は、大垣中の会社社長の誰でも太刀打ちできない。女傑だ」と一目置いていた。それでも母は私の勉強の仕方には何も言わなかった。

 今にして振り返ると、経営上(師範として教育上で)の観点から、母は自分の経験したことのないことには、口を出さなかったのだと思う。私も会社に入って多くの仕事を経験して、その仕事を経験しないと偉そうに口は出せないのだ。現場の人が一番よく知っているのだ。会社では研究開発部に長く所属していたので、全て自分でやる経験をさせてもらった。それが自分の宝である。

 

Dsc09762s 50年前に母が削った鉛筆の束。今も母の形見として大事に保存している。

 今見ると、花を活けたように見える。

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天皇陛下対応

 多分同期の中では、私が誰より多くの種類の仕事の経験をしたと思う。1975年頃(不況の折)、工場実習の名目で土方の仕事、コンクリート打ち、道路つくりもさせられたこともあった。その道路は、トヨタの天皇(豊田英二社長)が来社さることで社内が大騒ぎとなり、研究開発部への道を舗装することが決まった。それで実習中の若手(技術者)を集めて道路工事が始まった。私はその工事に一土方として駆り出された。今にしては、お笑いの対応である。当時は大不況で、会社にカネがなかったのだ。それで土方とはどんなものかを実体験した。

 また私は3Kの最たる現場(鍛造、鋳造、熱処理工場)の管理職も担当した。また特設消防隊長として放水訓練も経験した。だから管理職として、現場を経験して多くの知見を得た。経験がないと、現場の人間には何も言えない。だから両親は私の受験勉強に対して、何も言わなかったのだろう。50年経って今になりそれに思い至った。母は若い頃は華道の池ノ坊の師範であった。できた母であった。

 

H様問題で炎上

 現在、ネット上でH様問題が炎上している。世には息子の絶対的学力が低いのに、息子を見栄で東大に行かせたいと裏で画策する親がいる。両親とも学生時代は勉強を真面目にせず、遊び惚けて下駄を履かせてもらって卒業した。両親は苦労をしていないので人間が出来ていないようだ。

 だからこの両親は安易に東大入試を上から視線で眺めている。自分が受験勉強を真面目にしてこれば、それがそれだけ難しいかはわかる。両親は学生時代には遊び惚けていたのだ。それなのに、息子には勉強方法に口出し、超有名進学校で受験勉強を強いても滑稽である。

 有名進学校では勉強についていくだけでも大変だ。だからその裏の画策が「蒸気」を逸している。要は思考の沸騰点を超えている。だから国民は呆れている。皇統の危機である。子供の将来は親次第である。自分が管理職、経営者として実務をこなしてきた故にわかる、この両親に感じる違和感である。

 子供は親の背中を見て育つ。H様問題は、良き反面教師の実例である。

 

Img_64111s 馬場恵峰書

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2022-12-21  久志能幾研究所通信 2572  小田泰仙

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2022年12月 8日 (木)

断捨離はご先祖をゴミ箱に捨てる愚業。それは認知症への道

 

 現在、断捨離が流行っている。しかし私は断捨離に反対だ。断捨離とは自分の記憶、過去を捨てる事だ。同時にそれは記憶を司る海馬の一部を捨てる事だ。脳には容量の限度があり、全ては記憶できない。その記憶できない部分は当時の書類や写真に記録されている。

 だから私は過去の資料を整理整頓はするが、大事な記録を捨てることはない。断捨離を推奨しているのは、軽薄なオバンである。かの女には歴史への尊重がない。有るのは今の快楽だけである。歴史の重みを認識できない人間は、ご先祖を敬わないものだ。

 

Learn from yesterday, live for today, hope for tomorrow.

The impotant thing is not to stop questing.

                                     Albert Einstein

 昨日から学び、今日を懸命に生き、明日への希望を持て。

大切なのは、問うことを止めないことだ。

 

 公式文書は図書館や新聞社で探せばよいが、自分の過去の記録は、自分の家の中にしかない。家の写真アルバム、手紙等は過去の記憶の倉庫なのだ。それを捨てるとは、自分の過去を捨てる事。過去を思い出して自分の人生を振り替えて新しいこれからの人生を考えることができる。

 人生はやり直しはできないが、何時でも再出発できる。それを刺激してくれるのが、過去の資料、写真である。それが出来なくなるのは、過去の資料を断捨離して、記憶を捨てた時だ。形あるものが亡くなった時、記憶の中のメモリーも消える。それは人生が消える時。認知症への第一歩である。

 

アルバム再整理

 最近、家族の写真を整理して、アルバムに再整理した。両親とその家族の若いころ(1920年頃)からの写真を現在まで100年間、時系列に並べた。そんな歴史を見直すと、自分の幸せを再度感じる。その歴史を見れば、ぐれることも自殺も考えないだろう。家族の写真を見ると、家族の思いは私に幸せになって欲しいとの願いだけのようだ。それに応えるのが、両親への最大の供養である。

 

インパール作戦

 叔父(父の弟)のシナ事変への出兵への天皇陛下からの下賜品などが出てきた。軍服姿の父や叔父たちの写真もある。その叔父の死亡通知も自家では保管している。ビルマで戦病死の報である。その実態は、エリートと言われる将校の愚かな作戦(インパール作戦)のせいで、2万弱の兵士が餓死病死となったようだ。日本軍は、兵士への補給を全く考えていない狂気の作戦であった。その捨て駒にされた叔父が哀れである。英軍は日本兵と戦わず、日本軍が自滅するのを見ているだけで勝ったようだ。

 父を含め我が家では3人が戦争に行ったが、父しか生きて帰ってこなかった。弟の一人はビルマで、一人はシベリアの土となった。父が地獄のシベリア抑留になったのも我家の歴史なのだ。ビルマで戦死した叔父には戦後、勲八等が贈られた。佐藤栄作内閣発行の天皇陛下の叙勲の賞状が我家の歴史記録である。

 父のシベリア抑留に対して、戦後、竹下登内閣からの感謝状と銀杯が来ている。それも我家の歴史記録である。

 私は、頂いた命を大事にしたいと思う。父が戦死をしていれば、私はこの世に存在しない。

 

過去を学び、後世の繋ぐ

 過去に家族が悲惨な歴史体験に巻き込まれたのも、厳然たる家族の歴史である。現代はそうでない平和さを喜びたい。ご先祖が受けた辛酸さを忘れてはならない。今後、そういう道に進まないように、国民として意思を表明しなければ、また国民が犠牲となる。現代でもインパール作戦のように、国民、市民を全く無視した政治が行なわれている。過去のアルバムを見て、ご先祖の霊が語り掛けていると感じる。

 岸田首相、石田仁大垣市長の愚かな政治に反対の声を上げねば、我々はご先祖が受けた被害をまた受ける。最低でも選挙でその意思を示そう。

 大垣市民は、最遅でも2025年の大垣市長選でその反対の意思を示せばよい。今のままの政治姿勢では石田仁大垣市長の続投はないのだ。

 媚中派の公明党に振り回され、決断をしない岸田首相に日本を任せると日本の未来が危ないのだ。

 流行に洗脳されて過去を断捨離すると、自分の未来はない。それは今だけを生きる犬畜生と同じだ。

 

Dsc097521s1 我が家の100年間の写真集

Dsc09753s  叔父の叙勲賞状

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2022-12-08  久志能幾研究所通信 2562  小田泰仙

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2022年11月 2日 (水)

お墓に蓮華の模様  泥沼の蓮華の教え

 

 お墓つくりで最後まで悩んだ案件が、蓮華の模様の有無である。「簡素に華美に走らず」の基本方針で、お墓つくりを進めたが、蓮華の模様をつけるかどうかで最後まで悩んでしまった。最初は蓮華の模様無しで進めたが、親戚の助言や蓮華の意味を考えて、伏せ蓮華の模様を付ける事に変更した。受け蓮華だと結構目立つのだが、伏せ蓮華ならそんなにも華美とは見えないことを確認して決断した。ご先祖供養としての気持ちとして伏せ蓮華の模様も許されると判断した。

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 泥中之蓮 六根清浄

 蓮華とは蓮の花のことで、蓮は仏教の世界で最高の花である。蓮の花は泥の沼の中に美しく咲く。それに対してワサビは清純な山の中の清流の中に咲く。人間社会の中で正義を貫きすぎると自身はワサビの存在となってしまう。正義とは狭義な存在である。神仏の身でない人間は、清濁併せ呑む大きな度量が必要である。清らかな環境で育って清純な心を持っても、人としてワサビの存在になっては佛になれまい。それを仏教は蓮華の花で教えている。

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六根清浄

 六根清浄とは、人間に具わった六根を清らかにする修行である。六根とは、五感(眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(意識))と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である。

 六根は人間の認識の根幹である。それが我欲などの執着にまみれていては、正しい道(八正道)を往けない。そのため執着を断ち、心を清らかな状態にする修行が六根清浄である。そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないために俗世との接触を絶つ修行が行なわれた(山ごもりなど)。

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 馬場恵峰書『百m巻物』  日中文化資料館蔵 

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自然に学ぶ

 四季の自然のつるといの中様々に学び気付く事多し、ふと見ればはきだめに南瓜の芽がいくつも出て、せい髙あわだち草が菜の花畑のおうに泥沼から蓮の花咲き可憐さ華麗言葉を失う。それらの自然存在に気付く時、自然はこの事以外においても野采果実等々物を造り育てる名人でその物を最大限に活かすのが人間である。

 人間皆それぞれすばらしい種子であり、明日、否、今どんな何とした花が咲くのか貴重な宝を人間持っている。何事も縁を活かし勇気出して新しい自分の道を進もう。

 「そのうちって‥‥」「いや今のうち、今でしょう」そのうちのいいわけはいいわけに結ばらぬ。 人生チャンス二度なしの受けとめ、今そこからです。耳で見て、目で聴く心眼を開いて行きましょう。 智学び仁もって人の道守り勇気出して大切なあなたの人生、私の生涯明日を念じ今大切にと。

        文:馬場恵峰

 

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 馬場恵峰書『百m巻物』  日中文化資料館蔵 

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 人は泥沼の人間社会の中で、いかに美しい人生の華を咲かせるかが問われる。人は汚れた世界で生きていく。しかし汚れたままではいけない。自分を美しくする環境や人との出会いを求めなさい、が仏教の教えである。

     

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 蓮の花  Wikipedia 「ハス」より引用 
                                                                                                       

 蓮(LOTUS)は、古代エジプト、インド、ギリシア、ローマの神殿にもさりげなく彫刻されている。西洋でも高貴な花として認められている。ギリシア神話では、その実を食べると現世の苦悩を忘れるとされた。ギリシア神話の世界では、神の世界にも現世のギリシアとされ、生々しい神の恋愛話や武勇伝が神話を彩っている。

 私も2010年、2011年とローマやシシリア島に20日間の旅行をしたが、当時はそんな意識が無いので、目に入らなかったが、写真で神殿等を見ると確かにLOTUSの模様がある建築物が多くある。

 その後、2017年に戸田極子公爵夫人の足跡をたどるためウィーンへの旅した。そこの楽友協会の「黄金の間」でそのロータスの飾りを発見した。

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2022-11-02  久志能幾研究所通信 2531  小田泰仙

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2022年10月31日 (月)

人生は食べ放題の旅 バイキング店で体重を減らす

 

 この宇宙は全てバイキング料理店で構成されている。何をどれだけ食べようが、やろうが、集めようが自分のやりたい放題である。対価は全て自分の行動と言う貨幣で支払えばよい。

 そこで注意すべきは、己の「分」の問題である。人は往々にして自分の器(分)以上に集め、食べ、やりすぎるので、人生の破綻(地獄)を見る。人には肉体的制限と、時間的制限の限界がある。人には、最大で100年と言う時間制限がある。時間は貧富には関係のない佛様からの貸与品である。お金はいくら集めても、死ぬときに手放さねばならない。徳がないのに、不相応な財産を残すと子孫の財産争いで家が不幸になる。金にあかして美食に溺れる天国を味わっても、肥満からくる高血圧、心筋梗塞、脳梗塞、ガンに襲われて地獄を見る。病気とは、自制心に負けた己の食べ放題への対価である。

 

ダイエットは食べ放題のお店で

 私はダイエットのために、食べ放題のお店に通ったことある。昨年10月(2014年)から始めて、ほぼ毎日行って、2015年7月現在、半年間で約5kgの体重減となり、その結果として高血圧であった状態がかなり正常化した。

 毎日食べ放題に行くのは地獄である。それは、お代わり自由で食べられるのに、それを0.8食分で抑える自制心との戦いが地獄である。食欲があり、時間もあり、目の前に美味しいものが並んでいる。体力的に3食分でも楽に食べられるが、それを我慢する試練である。そのご褒美が体重減である。目の前に食べ物があっても、必要以上には食べないようになった。間食も減った。

 バイキング料理店のよい点は、自分の意思が強固なら、スイーツを控え、良質のたんぱく質、炭水化物、野菜等をバランスよく摂取できる。お代わりさえしなければ、食べ過ぎの危険性は少ない。

 この修行ができていない5年ほど前は、バイキング料理店でつい3食分を食べ、喜んでいた自分がいた。肥満が原因の病気と言う天罰を受け、目が覚めた。天罰を受けても目の覚めない人が多いのが哀しい。

 

棚ぼたの罠

 家系図に登場する家の親戚で、己の器以上に親からの財産贈与を得て、家が傾いた事例が多々ある。その人の器(分)以上の量を入れたがための咎である。人は立って半畳、寝て1畳、食べて飲んで1升である。それ以上に体に入れるから不幸の原因になる。「棚からぼた餅という遺産」の罠に嵌ったのある。最期になって、「金はいくらでも出すから助けてくれ」と医師に言っても手遅れである。その前に、沸様が体の不調でその前兆を知らしていたはず。その類の愚か者が家系図に死屍累々である。器が小さいのに、それ以上に入れれば溢れるのは自然の理である。お金は貯めるのは簡単だが、使い方が難しい。

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 馬場恵峰先生書『人生訓八十恵峰』より

 

2022-10-31  久志能幾研究所通信 2529  小田泰仙

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2022年10月26日 (水)

本物の金銀、空手来空手去

 

金銀は、慈悲と情け、義理と礼、身の一代に使うためなり

        馬場恵峰師 知己塾 2013年5月9日

 

 カネはあの世には持って行けない。カネとは、人生劇場で与えられた役を演じるための準備費用である。その費用は自分で払う。より多く払えば、より良い役が与えられ、良い演技ができる。カネは、運命の方向を左右する「お足」である。その使い方で、方向が変わる。カネを貯めるものと勘違いして、それをケチるから、悪縁の事件で足止めされ、幸福になれない。

 グローバル経済主義者のカネの亡者は1%しかいないのに、使い切れないほどの金を取り込み、99%の人を貧困に陥れ、貧富の差を拡大させた。カネが何のために有るか、理解していないのだ。だからカネの亡者が戦争を招くマネーゲームに「狂じて」いる。それが原因で戦争が起きる。それがウクライナ戦争である。

 

空手来、空手去 

 意味:人は裸でこの世に来て、裸であの世に去る

  李秉喆(リヘイテツ)の座右銘

  李秉喆はサムスングループを創業した企業家。

 

 李秉喆は、稼いだカネを社会と国家の繁栄のために役立てたいとの思いでサムソンを育てた。

 その子息の李健熙(イ・ゴンヒ)が、その志を継いでサムスンを世界的企業に発展させた。しかし後継者の教育には失敗したようだ。李秉喆の孫たちが財産争いで裁判まで起して醜態を晒している。総帥となった孫の李在鎔は収賄で逮捕され収監された。恩赦で出所したが、その後は振るわない。子供や孫たちは李秉喆の座右銘を理解していないようだ。先代の苦労を忘れた後継者がかじ取りを始めて、サムソンは没落を始めた。

 サムスンの前身は、1938年、日本統治時代の朝鮮大邱市で、李秉喆が株式会社三星商会として設立された。蘇洞(現在の允恭洞)において40人の従業員を抱える小さな貿易会社としてスタートした。そのサムソンも世界的企業に成長したが、創立84年を迎え、100年を前に挫折しそうである。サムソンからは悪い噂しか流れてこない。

 

 トヨタ自動車は1933年に創業された。その後の展開でサムソンと比較すると、両社の行動に、仁義礼智信で差を感じてしまう。サムソンからは仁義礼智信が感じられない。サムソンはグローバル経済主義に徹した会社である。隙があれば他国から技術を盗んでも平気のようだ。人は使い捨ての社風のようだ。

 それが今後起こると予想される経済危機で、その差が明確になるだろう。

 

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  仁義礼智信 馬場恵峰書

 

Dsc01221s 馬場恵峰師 知己塾  2013年10月10日

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2022-10-25  久志能幾研究所通信 2524  小田泰仙

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