l0_命の器で創る夢の道 Feed

2017年9月23日 (土)

閻魔大王に閻魔帳を突きつけられて…

 閻魔大王の閻魔帳には、己の日々の善悪の所業が記録されている。その閻魔帳とは、己の体そのものであることに、目の病気を患ってから初めて気がついた。人が自分の死を意識するのは、病気をして各器官にも寿命のあることを思い知り、終りを意識せずに登ってきた未来への道が、登りきった坂の上の曲がり角で陥没しているのを発見したときなのだ。その時になって初めて、後ろからヒタヒタと迫り来る死を明確に認識する。

 

四季は、なお、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前より来らず、かねて後ろに迫れり。人みな死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

          (吉田兼行『徒然草』第155段  1331年)

  

あそこまで登れば新しい道が見えると登ってきた道に、いつしか夕日が迫る。夕日が己の姿を照らし、その陰が長く地表に延びる。

 

あの世のトヨタ生産方式

 人は還暦を過ぎるとあの世ではなく、この世で閻魔様より閻魔帳を見せ付けられる。昔は死んでから閻魔様に前に行って、閻魔帳に記録された前世の善悪の所業を審判された。しかし、人の寿命が昔の40年から80年に延びたので、閻魔様もあの世では暇になって、閻魔様が、負荷の平準化のためトヨタ生産方式を導入して、現代人に因果応報を生前に知らしめている。閻魔様も不届きものが増えて、その審判の忙しさで過労死寸前なのだ。なにせ1975年には206,702人だった癌患者が、2012年には865,238人(厚生省データ)と急増なのだ。その忙しさ解消のため、健康に関する審判を現世ですることになった。ご先祖から預かった体を虐めると病気になるのは、自然の理である。病気とは己の体への悪業の積分の結果である。己の体を正しく維持管理しなかった証である。それを「運が悪い」とか、「なんで私だけが」と言うのは、お門違いである。全てのことには原因がある。それを仏教では因果応報という。それに早く気が付いた人が、閻魔様より長寿というビザ有効期限延長書がもらえる。その分、閻魔様の負荷が減る。たまには閻魔様の身になって考えよう。

 

この世の地獄

 昔は老衰が自然な死亡の原因であった。人は寿命として納得して死んでいった。時代が変わり、人は贅沢になり、贅沢が原因で様々な病気を発症する。医療技術が進歩しているが故、金を積み名医にかかれば病気は治ると思い込む。しかし、それが拒絶されると「お前はヤブ医者か」と正直に病状を話す医師を罵倒する。藁にすがった己の愚かさを悟り苦しみ死んでいく。これは地獄である。それは、生あるものは必ず死を迎える、という真理を考えないで生きてきた証である。

 

己の道

 古代中国の各都市は城壁で囲まれていた。その外側は魑魅魍魎(ちみもうりょう=山の怪物や川の怪物)が住む恐しい場所と信じられていた。城壁の外に出て、その恐ろしい場所を通って他の都市に行くときは、異教徒を殺し、魔よけとしてその生首をぶら下げて歩いたという。その歩いた所が道となった。それが道の語源である。道の「しんにゅう」は十字路を意味する。

 

未来を拓く道

 現代で、全く新しい分野の道に進むには、自分の首をかけて未開の地に道を創る意気込みが必要である。何時の時代も、新しい道には夢がある。夢は命をかけてこそ実現できる。時として足元は、己を含めた多くに先人の失敗で血の海である。死屍累々の中をひたすら前進して道を創る。なにもしないでいれば、座して死ぬだけである。己の失敗という生首が、後進の道しるべとなる。それも人生、人生に無駄はない。一人の成功の足元には先輩の尊い失敗がある。自分はその失敗を避けて、可能性のある新しい道を進む。先人に感謝をして進むべし。

 

図1 馬場恵峰書(2013年入手)

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2017-09-23

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2017年9月22日 (金)

人生道を疾走

 人生の街道を「自分の体」という乗り物で疾走するには、安全が最優先である。それは自動車の運転で問われる課題と同じである。その中でも、普通の運転者より高い技量が求められる自動車メーカのテストドライバー資格での最優先事項は安全である。試験車運転資格試験で問われるのは、3Sの能力である。3Sとは、安全 (Safety)に、素早く(speedy)、滑らかに(smooth)である。これを言い換えると、次の表現になる。

 

 自分の子供が急病になって、車で病院に連れて行かなければならない。焦って安全運転を怠れば、事故で病院にたどり着けず、子供が死んでしまう。低速で走れば、時間がかかり子供が死んでしまう。スピードを出して乱暴に運転すれば、振動や衝撃で容態が悪化して、子供は死ぬ。安全に、素早く、滑らかに運転して、我が子を病院に送り届ける。これがテストドライバーに求められる能力で、これがないと自動車部品の評価はできない。

 

仕事のやり方の象徴

 これは安全確認の心構え(危機管理)である。これは全ての仕事のやり方を象徴である。子供を仕事の置きなおすと、仕事の心得そのものである。この資格の実技試験で、急ブレーキを踏むと一発で不合格である。なぜなら危険の予想が出来ていないとの判定である。事前に危険を予測できるのに、それを怠った結果が急ブレーキである。安全確認の心構え(危機管理)ができていない。

 3秒前に方向指示をしてから車線変更をする。要するに、自分や組織は何処の方向に向うのか、周りにも部下にも、適正な時期に示せ、である。

 サイドブレーキを引く時は、カチャカチャという音を立てず、ノブを押しながら引け。車をいたわり優しく操作をせよ、である。仕事や周りへの心配りである。

 曲がる時は、右よし左よし後方よし、と呼称する。安全の自己徹底で、仕事でチェックリストを使うのと同じである。今でも私は呼称運転をしている。

 

私の運転の作法

・曲がらない。ひたすら大通りを走り、裏道は走らない

 曲がるからタイヤに余分な摩擦が生じてタイヤが磨耗し、ガソリンを無駄にする。曲がるとは無駄な変化があるから、事故を起こす。近道のため曲がって走っても、到達時間は同じ。裏道は事故が多い。人生道はひたすら真っ直ぐに表街道を走る。

・ブレーキを踏まない

 ブレーキを踏むのは予想運転をしていないため。止まるにも、エンジンブレーキをかければ、省エネにもなり、ブレーキパッドも減らない。相手にブレーキを踏ませない。無理な運転をするから、相手がブレーキを踏むという迷惑をかける。人生道は譲り合って、走る。私の車のブレーキパッドとタイヤの寿命は普通の人の2倍です。

・なるべく車を使わない

 事故は[事故確率]×[走行距離]の確率で起きる。各要素の数値を減らせば、事故の確率は減る。車とは目的地に行く手段である。走るのを目的にしてはならない。

 

後日談(2013年)

 2013年2月14日、馬場先生宅に知己塾出席のため訪問した。当日、先生の運転で市内へ食事に誘われた。その時の運転が、先生の人格らしからざる水準であった。要するに、仏の馬場恵峰先生がハンドルを握ると人が変わった。車は人を虜にする魔物である。そこに車の素晴らしさと恐ろしさがある。見るに見かねて、後日、運転の改善をお願いする手紙に、自著の運転ノウハウ資料『交通安全の科学』を添付して、おそるおそる差し上げた。なにせ私の師である。事故があれば日本の宝の損失である。諫言を書くのは一大決心であった。

 その後、三根子先生から絵葉書の礼状が届き、「心暖まる運転のご忠告ありがたくお受け致します。私も実はハラハラドキドキで乗せていただく時もあり、言うとオコルので、言えません。でも小田先生からお便りをいただき助かりました。心から感謝です」である。馬場先生は神業の筆力を持ってみえるが、やはりシャイな暖かい人間であった。安心した。

 その1ヵ月後の3月27日、岐阜駅じゅうろくプラザで先生の講演会があり、「平常心」の掛け軸を書かれた。先生の手にかかると数分間でうん万円の書が完成する。その背景には80年間の修行がある。

 翌日、馬場先生は「奥の細道むすびの地記念館」の見学のため大垣を訪問され、私が案内をさせて頂いた。その昼食会場で、前日の「平常心」の掛け軸を贈られた。さすが人生の達人の先生は、お礼の表現もさりげなく、超一流の芸を駆使される。感謝です。

 車の運転では平常心が必要である。自分という乗り物で、人生道を平常心で走り、走った跡を「道」にする。平気で死ねる、平気で生きられることが人生修行である。横を走る車と比較し、競争する必要はない。人と比べることは自分を失うこと。

 

後日談2(2017年9月)

 今でも夜遅く先生宅を訪問すると、先生が私をホテルまで送ると言う。91歳の先生に、深夜、車で送らせるのは、弟子として恐縮でもあり、今までは言い訳をしてタクシーを呼んでいたが、考え直して、それが先生の元気の素のようであるから、「運命に身を任せて?」車で送って頂いている。最近は以前に比べれば大分運転がおとなしくなった。やはり言うべきことは、言わないと駄目である。先日、恵峰先生が健康診断で国立病院に行ったら、担当医師から「恵峰先生の頭はまだ20歳代である。どうしたらそうなるのか?」と逆質問されたという。絶句!

 

2017-09-22

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2017年9月21日 (木)

法界定印と佛の心

 この世の所業を色づけして見るのは、自分の欲である。「欲」とは「谷」に落ちても「欠」けないものと書いて「欲」である。「慾」は、死ぬまで消えない人間の業である。慾は大事である。生きる慾まで無くしたら、生きる屍である。生きる為、魂の浄化を忘れて、刹那的に欲望のまま60年も娑婆で生きてこれば、人間は、餓鬼にも幽霊にもゾンビにも認知症にも落ちぶれる。

 

法界定印

 法界定印とは、座禅を組むとき、右手を下にして左手を上にして組む印相である。印を組むとは、心の状態を印のごとくにして、魂の姿を象徴する形である。法とはサンズイの水が去ると書く。何時でもどこでも誰にでも通用する世界で、心の平安、悟りを得たことを示す印相である。

 法界定印とは、右手(right、正しい、浄、陽)で、我儘な左手(left、誤、不浄、陰)を支え包み込んで現す座禅の印である。仏教発祥の地インドでは、左手は不浄の手であるが、左右の手に善も悪もない。己の持つ善悪の心がそれを勝手に決める。それを全て包含した形が法界定印である。なぜ右手が下か、それは開祖様がそう決めたに過ぎない。

 

真面目に殺し合いを防ぐ

 いくら佛に帰依しても、矛盾に満ちた世の中は正しいことばかりでは、生きて行けない。世には強欲に他国を侵略しようと企んでいる国がある。平和の時は友好でよいが、戦争の時は真面目に敵と殺し合いをしないと銃後の肉親が皆殺しになる。時代と状況と価値観の差で善悪の評価が180度変わる。平和時に1人を殺せば極悪非道の殺人者だが、戦争時に原爆で10万人を殺せば英雄である。1945年3月10日の米軍による東京大空襲で、10万人の女、子供の非戦闘員が米軍に焼き殺された。アウシュビッツのホロコースト以上の犯罪である。この無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲がされた。スミソニアン博物館でエノラ・ゲイ展を企画した館長は、在米軍人会から袋叩きの目に遇って博物館を去った(1997年)。火事場泥棒のロシアは、シベリア抑留で日本人を10万人殺した。私の父が極寒の地に抑留された。私の叔父が殺された。これが矛盾に満ちた人間社会である。

 やるべきことは、そうならない状況に陥らないように対処すること。非道の国に、聖人の論理は通用しない。ウィーン国際条約を破ったり、不可侵条約さえ破棄して攻めてくる国が近隣周辺に存在する。それをご先祖やチベットの僧侶が命を犠牲にして教えてくれた。チベットに平和憲法がなかったから侵略されたのではない。自国を守る軍隊がなかったのだ。プロレスラーに喧嘩を売るバカはいない。守るべき武力を持っていれば、強盗もおいそれとは侵略してこない。非武装中立とは、自宅の戸締りをせず、就寝したり外出するのと同じである。鍵を掛けないのはバカである。サヨクが外出時に施錠しないとは聞いたことがない。狩猟民族の欧米がアジア諸国を植民地にしたのは、江戸時代から昭和の時代である。アジア諸国に列強欧米の侵略を防ぐ戦力がなかったためである。アジアで日本とタイ以外は、欧米の植民地にされた。その歴史を学ばない民族は亡ぶ。

 

佛の教え

 禅では人間が持つこだわりを捨てよと諭す。捨てたらそのこだわりを捨てたことも忘れろという。こだわるとは、己の心に壁を作ること。心を閉ざし、色眼鏡でモノを見ることである。

 佛像を真摯に見つめていると、自分が悲しいときは、佛像も一緒に悲しんでくれ、嬉しいときは共に喜んでくれるのを感じる。落ち込んでいると叱ってくれる。佛像に語りかけると、応えてくれる。佛像は自分の心を写す鏡である。佛像は自分の心に相応して表情を変える。自分の心の格が上がれば、佛像の心の声が聴こえる。

 釈迦如来の佛像が示す法界定印の形は、左手が下で右手が上であり、人間が座禅でする法界定印とは、鏡で写すが如く左右逆である。佛像は人間の心を鏡として表す姿の象徴として作られた。そのため、鏡に映るがごとくに左右逆に彫られたようだ。法界定印を調べたがよく分からず、本稿は私の解釈です。

 

運転における法界定印

 座禅と佛像の法界定印を調べていて、車の運転姿勢に考えが及び、ハンドルの握る形が車界定印であると思い至った。自動車メーカのテストドライバー資格の訓練では、ハンドルの操作方法が厳しく指導される。娑婆の自動車学校で指導する方法とは違うことを、この運転資格を取得するため訓練を受けたとき教えられた。

 この訓練では、ハンドルは2時と10時の位置に手を置き、ハンドルを軽く押さえつけるだけで、握り締めてはダメと教えられる。握り締めると、それに拘束されてスムースなハンドルさばきがしづらくなり、試験車評価試験で必要なスピーディなハンドル操作が出来ないからである。曲がる時は、ハンドルを送る感覚で、ハンドルに手を添えて曲がる操作をする。真っ直ぐな道では、ハンドルをそっと押さえて振れないようにするだけである。実に理にかなった説明である。

 

人生運転の操舵

 人生で、緊急事態の遭遇したとき、あるべきものを握り締めて放さないと、適切な行動が取れない。くだらないしがらみに囚われて、多大な損失を蒙ることもある。人生の曲がり角で、前の履歴を握り締めて、滑らかな方向転換に失敗した人は多い。人生の曲がり角を曲がり、新しい世界に方向展開する場合は、前の世界は捨てなければならない。それをきつく握り締めているから禍となる。ものに執着して手に入れても手放すことをしない人生とは、餓鬼道の人生。食べても食べても満足感がない。それでは人生を快走できない。

 座禅で印を崩すと痛い警策が肩に飛んでくる。車の運転で横着をすると痛い目の交通事故に遇う。人生道の王道は、法界定印を行じて走れ。平常心で人生道を歩め。法界定印を行じると、人生という自分の乗り物のコンプライアンス値が高まる。

 

図1 座禅の法界定印

図2 仏像の法界定印

図3 正しいハンドルの抑え方

図4 ハンドルを握り締めてはダメ

図5 間違ったハンドルの握り方

図5 恵峰先生の揮毫

 恵峰先生が岐阜で講演をされた時200名の聴衆の前で揮毫をされた。正に平常心での揮毫である。この書を翌日、贈って頂いた。感謝。岐阜にて。2013年3月27日

図6 恵峰先生書

 

2017-09-21

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2017年9月18日 (月)

食の至福という罠

 清涼飲料水を筆頭に、ファーストフード店で販売される飲料物には大量の砂糖が入っている。それは習慣化して毒として体を蝕む。食品メーカはどんどん消費して儲かるように仕向けている。それにペアとなるスナック菓子は、助長作用で、食べ出したら「止まらない、止められない」である。困ったことのその毒は、大層美味なのである。美味しいものには毒がある、という定理が通用する。

 

 コカ・コーラ 650mℓ           砂糖 65グラム

 リプトン・アイス・ティー590mℓ      砂糖 52グラム

 スターバックス・アイス・フレーバー・テラ 砂糖 28グラム

           低脂肪乳を使って好みのシロップで味付け

     28グラムとは、ドーナツの2.5個分の砂糖である。

「人気ドリンクとお菓子の砂糖含有量を調べてみたら」CNN.co.jp 2014/07/08より

 

 同じように俗世間には美味しいものが満ちている。その周りには蟻のように群がってくる害虫がいる。美味しいものを食べる椅子にしがみ付いて、離れない。その椅子が高いところにあるほど、美味しく悪魔的である。食い散らされて、まき散らされる害毒が多くに人に降りかかる。餓鬼道に堕ちた下達の人には、何を言っても無駄である。

 

飽食の罠

 日本でも食生活やライフスタイルの欧米化に伴い,肥満人口は増加の一途をたどり,今や推計2300万人に達している(男性1300万人,女性1000万人)。特に男性の場合、どの世代でも10年前、20年前より大幅に肥満者割合が増加である。とくに40代から60代の肥満者は30%を超えている。このうちの約半数は病気を持たない“健康な肥満者”である。残りの半分にあたる1100万人は糖尿病や高脂血症、高血圧症、膝関節症などの生活習慣病を合併しており、これが医師の治療を必要とする「肥満症」である。

 工場で生産される加工食品は、塩、脂肪、砂糖が飽食の罠の鍵となる成分である。単に味覚を刺激するだけでなく、食品の魅力を上げて再購買を狙う目的で味付けが研究開発される。多くの研究開発費をかけ、脳に抵抗しがたい魅力を封じ込める味付けがされる。それが健康にいいかどうかは二の次で、売れるかどうかが評価の対象である。製造した食品がどれだけ売れるかが成果主義の評価である。多大な研究開発費を投じた商品は、大量生産をしないと、業界の自転車操業的な体質が保てない。低脂肪、低糖、無糖、という表示にマーケティング、心理作戦に金をかけ、消費者のサイフを狙う。それが別の「毒」を盛ることになる恐れもある。その昔、人工甘味料に発ガン性成分が含まれていたが露見した歴史がある。

 

肥満の害

 肥満は万病の元で、糖尿病、高血圧、ガン等の遠因となっている。病気になると大量の薬の投与となり、医療機関と薬剤関係が儲かり、ますます病気を作ることになる。悪魔のサイクルである。

 薬とは、炎上(患部)場所に消防車が消火のための放水と同じである。火事には確かに効くが、患部以外にも大量に水が浸透して、火事でない部位(健康な部位)も被害を受ける。薬には患部と健康部位の区別が付かない。つまり薬は基本的に毒なのだ。抗がん剤でガンは治りました、患者は死にました、が現実である。薬は、健康な部位も攻撃する。

 

隣家の火事

 それについて昔の火事を思い出した。2005年10月27日、自家の隣のアパートが火事になり、消防署が延焼を防ぐために私の家に大量の放水をした。お陰で延焼は防げたが、大量の水は火事になっていない自家の壁や屋根を破壊した。薬を飲むとは、火事と同じことが、自分の体に中で起こっているのだ。

 

図1 右が火事の火元のアパート、左が自家 

図2 火元の部屋  2005年10月28日撮影

図3 放水で被害にあった自宅の部屋 

図4 放水で被害にあった自家の天井・壁

 

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2017年9月 6日 (水)

エイリアンとの戦いに負けると痴呆症

 TVのバラエティ番組、グルメ探索番組、お笑いバラエティ等を集中して見続けることは、痴呆症の洗脳教育と同じである。テレビの痴呆的番組と距離をおき、自分と家族を理知的、理性的な世界に置きたかったら、テレビ番組は見ないことだ。痴呆的番組で国民を洗脳し、CMで嗜好品の中毒状態にして、視聴者を食い物にしている。私はテレビの契約を解約した。必要な映像は、ビデオカタログで見て、ビデオディスクを購入するか、知人に頼んで録画してもらって、ディスクで見ている。

 

馬鹿馬鹿しい怪物

 下記のマニュアルは、玉木正之氏が『時事英語研究』1994年1月号で紹介したコラム「テレビという馬鹿馬鹿しい怪物」の抜粋である。これは氏が出演したテレビトーク番組の台本である。これを見ると、テレビ局はテレビを習慣的に見ているしている人間を考えさせないように仕組んでいるのだと断言できる。この手に視聴者が乗れば、無意識にCMの製品に手が出て、その結果益々テレビ局の売上が増大する。 

 自然界には「使わない器官は退化する」という大原則がある。現在のテレビ番組は我々の思考能力を使わせなくする習慣を作る傾向がある。テレビのばかばかしい番組を見ることはとは、ばかになる練習をしていることである。

 

 

 某トーク番組の台本 

  『○△(番組名)をより面白くするために』

 ・正論   より 本音

 ・抽象的  より 具体的    ←抽象的に考えるのが成長なのに

 ・理論的  より 体験的    ←論理が人生を正しく導く

  ・考える  より 遊び感覚   ←これではバカになる

 ・重い   より 軽い

 ・泣き   より 笑い

 ・悲観的  より 楽観的

 ・隠す   より 顕す(露顕)

 ・流れ   より 飛躍      ←論理の破綻である

 ・じっくり より ざっくり    ←緻密さの放棄

 *意見、反論は指名がなくてもドシドシご発言ください

 

酒を飲んで放送

 1970頃の私がまだ大学生のころ、東海テレビの「ナイトショー」で風刺コントの特集番組があり、「かたえくぼ」の常連として出演依頼が来た。そこでリハーサル後に、本番前の小1時間ほどの間に、スタジオ内のバーカウンターで、酒を飲まされた。ディレクター曰く「皆さんにリラックスして喋ってもらうためです。多少顔が赤くなっても、ライティグで目立ちません」。今にして思うと、何といいかげんなことかと感じた。上記の台本を見てテレビの本質を悟った。

 

日本中にエイリアンが跋扈中

 誰一人いない長崎空港の出発ロビーで、大型テレビがワイドショーの映像を流していた。なにか現代社会の象徴のような風景である。そうまでして日本人をバカする洗脳したいのかと。その昔、シガニー・ウィーパ主演の映画「エイリアン」を思い出した。エイリアンが、人間を捕まえて毒で動けないようして繭の中に閉じ込め、その人間の体内に我が子を生みつけ、我が子の餌として人間を生かしておく情景である。テレビ人は現代人の生血を吸って繁栄している。頭の中に住み付き、テレビを見ないでは過ごせなくさせる。そして二度と戻ってこない大事な時間がテレビに吸い取られていく。食べてはいけない食料品のCMに洗脳されていく。正にエイリアンに頭が占領されている。あとは痴呆化の進展があるばかり。なんで、「みのもんた」ごとき司会者が、数億円の年収を得るのか、それを許容する視聴者にも責任がある。テレビのワイデショーで「○○が健康に良い」と特集を放映すると、売れすぎて途端にスーパーの売り場から○○が消滅する。1973年のオイルショック時のトイレットペーパ騒動を思い出される。余りに刹那的な流行を作る出す現代のテレビである。日々日本の知性が劣化していく。テレビが過剰に扇動し、付加価値の生まない時間を増大させている。時間と知性と健康を貪り尽くすエイリアンの繁殖である。

 

病院の痴呆風景

 通っている眼科医院でも、診察の順番取りために朝一番に行くと、誰もいない待合室で、朝のモーニング番組が付けっ放しである。愚劣な番組ばかりを見せられては、眼も更に悪くなるでしょうに。それが眼科医のたくらみなら知能犯である。人が来て、美味くもない食品のCMをさも美味そうに繰り返し流せば、見せる洗脳教育でその製品は売れる。そして段々日本人が劣化していく。愚劣な事件が起きるのも故あること。グルメ番組の視聴率を見て、テレビ局はますます下劣な番組を流す。悪魔のサイクルである。

 図1 長崎空港の出発ロビー 2013年10月11日 11:19

 

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2017年9月 3日 (日)

介護という地獄

 現在、65歳以上の15%が認知症と言われる。認知症になると、発病から死まで約10年に渡り、世話をしなければならない。そして総計で約1,000万円の介護費用がかかる。親の介護のため仕事も辞めなければならない。全て子供、家族が負担する悲劇である。親を精魂込めて介護しても、「お前は誰だ? 俺をベッドに縛り付けてお前は鬼か」と言われては、絶望である。親の脳死である。お互いの記憶を共有してこそ肉親である。

 

この世の地獄

 本人も徘徊防止でベッドに縛り付けられ、食欲もないのに喉に穴を開けられチューブで無理やり栄養剤を流し込まれる。己の体の痒い場所も掻けず、寝返りもできない状態にされてまで生きたくはない。死にたくても死ねないのは地獄である。死ぬときは、人間として尊厳ある死を迎えたい。無理やり胃瘻までして、生かせて儲かるのは医療機関、製薬会社、介護産業である。全て税金が投入される。そして介護をされ介護をして、される方もする方も不幸になる事件が頻発する。次タイトルは本頁を執筆中に入ってきたニュースのヘッドラインである。

「母の世話にイライラした」暴行し死なせた疑い、容疑の60歳女を逮捕(産経ニュース 2014.7.19)」

 

介護という名の「人喰い」

 介護を受けるとは、その人を介護する人の人生を喰うこと。働きたい人や休みを取りたい人を強制的に介護に駆り立てる。それは他人の人生を奪うこと。職業としての介護なら、その日の勤務が終れば開放されるが、肉親の介護の場合は、24時間365日の拘束である。いつ終わるか分からないから余計地獄の苦しみを味わう。自分のことは何もできなくなる。認知症では、回復の目処がないので地獄である。介護する人の貴重な働く人生が、「共に」失われる。「人喰い」である。日本の損失である。今は豊かな時代であるから成立する「介護」であるが、つい最近の時代までは、姥捨て山の風習が存在した。そうしないと、家族が共倒れになる貧しい時代をご先祖は生きてきた。

 

親の義務

 子供が可愛ければ、生涯現役で働くか学問をするように、心身の健康管理に勤めるべきである。自分が介護を受ける身になることは、子供や肉親を不幸のどん底に落とすことになる。働けるのに働かず、痴呆的なテレビを見続け、添加物が多いファーストフード、スナック類を食べ、運動もしなければ、確実に認知症になる。極楽生活の中に天がしくんだ落とし穴(認知症)は、10年後、20年後に、時限爆弾のように爆発する。親の後姿をみて子供も育ち、同じような生活をすると、子孫も同じように認知症と言う時限爆弾を抱えることになる。親の後姿での教育の恐ろしさは、三田圭子の息子の覚せい剤事件、「みのもんた」の息子の窃盗事件で実証すみである。

 それは税金の無駄遣いであり、国力の低下である。今の元気な老人がもっと働けば、少子化での問題も多少なりとも解決する。40年前は10兆円であった日本の医療費は、現在40兆円まで膨れ上がっている。病人は減らず、認知症患者がうなぎ上りである。昔は、認知症など話題にも上らなかった。1億の人口として計算すると、1家庭あたり年10万の負担増となっている。だれが30兆円を食べているのか。何かおかしい。

 

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2017年9月 2日 (土)

インプラント 41(ご縁)

3.41 御仏の導きによるご縁

 インプラント手術のキャンセルのきっかけには、朝の散歩でご縁ができた南園堂の世話人からの電話であった。この人とは朝の散歩の関係で知り合い、家のリホームをお願いしていた。以前に私のインプラント手術を話したら、手術の直前にインプラント事件を特集したTV番組を見て、心配して私に電話をしてくれた。前からインプラントには一抹の心配があったが、理屈の上では問題ないと判断していたので、そのままになっていた。この電話は私の迷っていた背中を押してくれた。これは御仏の導きではないかと思い、ひとまず手術をキャンセルした。ンプラント手術2時間前の当日のこと。今にして思えば御仏のご配慮である。

 

南園堂の世話人とのご縁

 今の自分が直面している課題(縁)に思い巡らせながらする朝の散歩は、頭の活性化につながるのか、様々な考えがわいて来る。人生とは旅である。そこで出会う縁をどう解釈するかが、人生の分かれ道ではないかと思う。縁をご縁にするかどうかの経営判断をするには最適の朝の「四季の路」の旅でもある。

 朝の散歩は、2010年9月末に、38年間(37年5ヵ月)勤めた会社を定年退職し、故郷の大垣市に活動拠点を移してから、朝の日課として「四季の路」を歩いている。「四季の路」は、大垣市が俳聖松尾芭蕉の『奥の細道』の旅で詠まれた俳句の碑を市内中心部の水門川沿いに建立し、「ミニ奥の細道」として整備した遊歩道である。毎朝5時半に起床して、仏壇の前でのお勤め後、日の出に合わせて散歩に向かう。自宅から徒歩10分(820m)の距離にある八幡神社と南園堂でお参りをして、そこから「四季の路」を散策して住吉燈台に向かい、住吉神社、市中央部の大垣公園、濃尾護國神社、大垣城、四季の路を通って帰宅する。自宅から住吉燈台まで約25分、往復で1時間弱、道々、芭蕉『奥の細道』の紀行で詠まれた俳句の碑を横目で見ながらの「ミニ奥の細道」朝の旅である。

 

南園堂とのご縁

 この道中の途中にある南園堂は、興福寺(奈良市)の日本で唯一の別院である。年1回開催されるお寺の不空権羂索観音様のお祭りには、興福寺の管長様以下6名の僧侶がお見えになりお勤めをされる。同堂の延命地蔵菩薩のお祭りには、副管長様が見えて読経のお勤めをされる。その後、奈良などでは簡単にはお会いもできない副管長様と親しくご一緒にお昼の会食をいただくご縁があった。今回の南園堂の世話人の役員さんからの電話は、そんなご縁でのお告げと解釈した。

 

大悲禅院の住職とのご縁

 このお寺は、大垣城の南東鬼門の守護寺のご住職(当時、70歳)で朝の散歩のとき、たまたまお会いできて、立ち話で伺ったこと。

 「昨日(10月13日)、「大垣せんべい」をかじったら歯が折れた。インプラントを考えたが、先日のインプラント特集テレビ番組を見て、恐ろしいと感じた」

 このお寺には、大垣藩初代藩主の戸田氏鉄公が入部されたとき持参された秘仏が安置されている。年2日間のみ、この秘仏がご開帳されてお参りができる。昨年、私は初めてお参りをさせていただき撮影の許可を頂いた。このご住職様との今朝の会話も、本資料執筆中のことで、不思議なご縁の賜物であった(2012年10月14日早朝)。この御住職様とは過去2年間でも数回しか、朝に出会うことはなかった。この日もいつものように、朝の散歩の途中でお参りに寄らせていただいた。そのご縁のお陰であるかと思う。ありがたいこと。この御仏の導きの巡り会わせで、インプラント手術を避けることができたのかも知れない。合掌。

   

大垣せんべい(日本のお菓子)

 大垣せんべいは150年前の創業当時(幕末の安政6年(1859年))のままの製法で作られており、材料に卵を使っていないため、その硬さは日本一と思われる。その味は美味で、一度味わうと病み付きとなる。私の好物の和菓子のひとつである。大垣の3大銘菓のひとつである。150年前の製法そのままで、変な添加物は入っていない良質な和菓子である。食べ過ぎの危険もなく、コーク類を飲まねばならない味でもなく、健康を考えた場合、この種のお菓子が日本人には最適である。

 

欧米の菓子類

 欧米の肥満の原因のひとつが、ポテトチップスに代表される脂っこい菓子類で、それにあった砂糖の大量に入ったコークを飲まざるを得ない習慣である。私も米国で食事をして2週間ほど過ごした時期、最初は飲めなかった1リットルのコークが、後半は平気で飲めるようになった。これが健康によい訳がない。甘い清涼飲料水は虫歯や歯周病の原因にもなり、歯を失うことになる。そしてインプラントのお世話になるのである。欧米人は肥満体が多く、それが原因で日本人よりも平均寿命が短いと推定される。それ故、インプラントの長期間の影響はあまり考えなくてもよいのかも知れない。

 

図1 四季の路の終着 住吉燈台

図2 南圓堂 大垣市

図3 南圓堂 南園堂での読経  興福寺の副管長様

図4 南園堂延命地蔵菩薩前での厳経

   僧侶は奈良市・興福寺の副管長様  2011年8月24日

図5 大悲禅院 大垣市

 

2017-09-02

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獣心呑器  現世は来世の前兆

 今、己が立っている階段には、次のステージの幾(きざし)が現れる。大学入学でもその前の高校時代に、受験地獄を経験し、大学という天国に行く前に、高校で進学クラス、就職クラスと分けられ、進学クラスも、国立大学コース、私立大学コースと選別をされる。人間も、人生の第4コーナを回った高齢者になると、来世に向うため、天上界、人間界、畜生界、地獄界に選別をされる。現在を見れば来世でのポジションは分かる。

 

終末の四界

 天上界は、生涯現役で天寿を全うする人達で、5%である。あと15%の人が頭もそこそこしっかりしたまま、世に迷惑をかけず死を迎える。

 人間界は、普通に老化して、病気になって亡くなる人達で、60%である。

 畜生界に行く人は1割で、己の不摂生の限りを尽くし、余命1年と医師から宣告されてから、焦って金はいくらでもだすから助けてくれと医師に泣きつく人達である。かのアップルの創業者で世界一の大金持ちのジョブズ氏でさえもガンには勝てなかったのに。いまだ死病からお金で助かった人はいない。

 地獄界は認知症の患者で、10%(65歳以上の高齢者2874万人のうち280万人。(2010年))である。自分のことが分からなくなり、肉親を不幸のどん底に落とす人達である。すべて2・6・2の法則に分類される。

 

入界の法則

 自分が第二の人生に向うとき、今までの因果応報で選別されて入る「界」が決まる。天の采配は非情で正確であるが、全て己が招いた結果である。せめて最悪の地獄界(認知症)には罹患しないように、今からでも遅くないので精進すべきである。病気は発病すべくして、その原因を己が作っている。過度な酒・タバコの飲用、食べすぎ、太りすぎ、過度な偏食等である。頭を使わないという習慣である。

 若いときは生物の法則で成長し、健康も若さの慣性で維持できたが、60歳を過ぎると、人は坂の上に乗せたボールと同じ状態に置かれる。何もしなければ、自然とボールは下に転げ落ちる。頭は錆びる一方である。それを防ぐのが、自分の健康管理である。健康とは体の管理と、心と頭の健やかさを保つということである。現代社会の、痴呆的、退廃的な誘惑に負けて美味しいものを食べすぎ、頭も使わず遊びほうけると、病気にもなるし、痴呆にもなる。自然の「法」である。「法」とはサンズイ(水)が上から下に去ると書く。何時でも何処でも誰にでも当てはまる法則である。

 

図1 認知症患者は65歳以上の15%に上る(日本経済新聞2014/07/09より)

 

2017-09-02

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2017年9月 1日 (金)

国も認知症になる

 JALの倒産(2010年1月19日)の因縁で、大垣市で開催された松本明慶仏像彫刻展(2010年11月)で明慶先生と初めてお会いするというご縁を頂いた。その1週間後にローマに飛んだ。JALの倒産のためローマ便のフライト枠が減少して、10月に予定していた予約が取れず、定年記念旅行が延びたのである。その3年後の2013年5月に、明慶先生も同じローマに旅たち、私も感銘を受けたピエタ像に会い、ホテル「バール・ミケランジェロ」で仏様のお顔を彫刻された。その記録がNHKBSプレミアムで放送された「旅のチカラ ミケランジェロの街で仏を刻む~松本明慶・イタリア~」である。その時の監視役が「魂(オニ)」という舞台設定であった。これは夢想だにしない展開であった。ローマ旅行は、還暦を迎え、第一の人生の卒業旅行として、そして次の人生のための充電のためのプロジェクトであった。

 

旅行先に選定

 当初はどこかの国の美術館めぐりをする予定であったが、世界の美術館の大半を、訪問してしまっていることに気づき、別の所を検討して、ローマが候補先に浮かんできた。その頃、塩野七生著『ローマ人の物語』全15巻の読破に再挑戦して、読んでいる途中で、5巻目に入っていた。この書は数年前に読み始めて、数巻目で挫折をしていた。定年前の数ヶ月前から、なぜかこの本を読み直す気になって読んでいるところであった。この書は塩野七生氏がライフワークとして、1992年から毎年1冊ずつ書き上げ、15年後の2006年に校了した1000年のローマ帝国興亡史である。この書には、人間の営みの根源的な座標軸が書き込まれている。

 

ローマの歴史

 それに対して、中国にも3000年の歴史があると言われるが、それは単に王朝の興亡があるだけで、一つの帝国の組織的な盛衰、興亡の歴史ではない。『史記』、『十八史略』、『三国志』に記載された国の興亡での人間模様は、身内の裏切り、肉親同士の殺し合いに終始している。ローマ史とは次元が違う。このDNAの伝承が、現代の中国共産党の言動の原点ではないかと思う。

 ローマ帝国は1300年間の繁栄を築いている。歴史上、こんなにも長い間、継続した帝国は他にはない。それが継続した原因の元でも嗅いでみようと、ローマ行きを決めた。

 ローマ旅行をして、ローマにハマった。ローマには全世界の観光資源の40%が集中していて、面白い、の一言で、とても10日間では見終えることはできない。次回の旅行のため、『イタリア語のテキスト』、『NHKラジオ・イタリア会話入門講座』のテキスト、『ラテン語の基礎』を購入し、勉強の準備を始めた。ローマの遺跡の碑文のほとんどがラテン語で書かれている。ラテン語の素養があると、ローマの旅は視野が深まる。この旅行で約80万円の投資であったが、それに見合うものを得た。お金は貯めるのではなく、あくまで自己投資として使うものだ。ローマ史を研究すると、その歴史には、人間の営み、会社経営のヒント、自分の人生の歩き方のヒントが多く散りばめられている。

 

なぜローマ帝国は1000年も続いたのか

1.征服した異民族を受け入れ、その文化を尊重して、統治した。

  自分たちの文化を押し付けなかった。

2.ローマの法律を守るなら、征服した異民族にもローマ市民権を与えた。寛容であった。

3.卓越したリーダーがいた。

4.国民がよく働いた

5.リーダーが自信と誇りを持っていた

6.軍事でハイテクを駆使(当時の土木工事技術は他の民族を凌駕)

 

なぜローマ帝国は滅んだのか

1.国民が働かなくなった

2.リーダーが自信と誇りを失った

3.防衛は外国人傭兵が主体で、自ら国を守る意欲を失った

4.国土の荒廃と食料自給率の低下

5.産業の空洞化

6.モラルの頽廃

7.経済・財政が悪化

  (関根茂章「ローマ帝国の滅亡が教えるもの」致知2002-5 p51)

 

これを会社に当てはめると

1.社員が働かなくなった

2.リーダーが自信と誇りを失った

3.親会社依存、実務は外注、派遣社員が主体、自社を守る意欲喪失

4.企業基盤の荒廃と自己資本比率の低下

5.産業の空洞化(製造は中国、社内は手配師の仕事しかしない)

6.モラルの頽廃(汚い会社内、トイレの汚れ、社員が挨拶しない)

7.会社のバランスシートが悪化

 

これを家庭に当てはめると

1.主人が働かなくなった、子供が勉強しなくなった

2.主人が自信と誇りを失った

3.教育は学校任せ、自らの城を守る気概を失った

4.家庭の荒廃と外食の増加

5.子供の躾、指導の放棄、少子化(家庭の責務は子供の育成・教育)

6.道徳の低下、モラルの頽廃(欧米の悪い意味の個人主義の台頭)

7.家庭財政が悪化(収入の低下、子供の就職難、フリータの増加、親の失業)、

 

これを個人に当てはめると

1.働かなくなった、勉強しなくなった

2.自信と誇りを失った

3.部下の教育はセミナー任せ、自らの城を守る気概を失った

4.自分の城の荒廃

5.自身の育成(自己の最大の生産品は自己啓発です)

6.道徳の低下、モラルの頽廃(悪い意味の個人主義の台頭)

7.財政が悪化(収入の低下)

 

現代の世相

 歴史を串刺しで振り返ってみる。国民が堕落すると、国も弱体化し、崩壊に向う。まるで国が認知症に罹ったような有様である。現在の日本で認知症患者が65歳以上で15%、グレーゾーンの人を含めると28%という数値は、みほとけからの警告だと思う。なにせ国民が認知症になるようなお膳立てがテンコ盛りの現代生活である。

 ・痴呆的テレビ番組の氾濫(見ていて恥ずかしい)。

・殺し合いの場面の氾濫。

・飽食の流行

・本・雑誌の販売数の減少

・マスコミの堕落、偏向したマスコミの横暴

・添加物が多量に入った食品の氾濫

・サプリメント、薬の宣伝の氾濫

・大人の退廃、その後姿を見て育った子供の退廃

・親が子供を殺し、孫が祖父を殺す、子が親を殺す時代

・うなぎ上りの医療費の増大にもかかわらず、患者も増大

・スマホばかり見つめて勉強をしない学生の氾濫

・グローバル経済主義教団に騙されて、正規社員になれない若者が増大

・自殺者3万人ほどが10年間も続く

 

図1 書庫の『ローマ人の物語』

図2,3 コロシアム  :コロシアムはローマ市民の不満をそらす目的で、格闘技の娯楽を与えるため建造されたと言われる。現代でいえばテレビの代わりである。多くの生贄が殺されるのをローマ市民が熱狂して見物した。末世の産物である。(2010年11月撮影)

 

2017-09-01

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2017年8月30日 (水)

仕事の目的

 仕事とは、生きる目的と生きる糧で構成される。松本明慶先生曰く「私は、みほとけを謹刻することによってのみ生かされている」

 アウシュビッツやシベリアの極限状態では、生きる目的を持った者だけが生き延びた。生き延びるとは、ご先祖から頂いた命を全うすること。私の父もシベリア抑留から生き延びて帰国した。それで今の私の生がある。零下30度の極寒労働地、極貧の食事、劣悪な極酷の労働条件。朝,目を覚ますと若い戦友が隣のベッドで冷たくなっている。半分の戦友がシベリアの土に消えた。アウシュビッツでは20人に一人しか生き延びられなかった(致死率95%)。シベリア抑留開始の初期は、ロシア側の準備不足があり、致死率は80%にも達した。最終的には10%の致死率である。しかしその極限条件下でも生き延びた人達がいる。下記はドイツ強制収容所から生還し、その体験を記した『夜と霧』の著者(心理学者)、ヴィクトル・E・フランクルがとった行動である。

 

◇ 働ける体であるように見せる   働けなければ、自動的にガス室行き

  常に若く見えるように、立ったり歩いたりする時は背筋をピッと延ばしていた。

  若く見えるように髭を毎日剃った。

  最後のパン一切れを人に与えても、ガラスの破片で髭を剃ってもらった。

   病気にならない           病人になれば、自動的にガス室行き

◇ 常に未来を信じる   将来、講演会で自分が演説している姿を思い浮かべた。

◇ 収容所でのしみは意味があると認識 無意味だと生きる価値が無い

◇ 愛する人との魂での会話

◇ 感動を失わない                 沈みゆく太陽の夕焼けの風景に感動

◇ ユーモアを失わない             自分を見失わない魂の武

 

 現代でも、経営者の判断ミスで経営不振に陥り、リストラをする企業が氾濫する。リストラをしないと会社が倒産する。その時、中間管理職としてトップの指示で誰の肩を叩くかの選択に迫られたとき、上記の項目に当てはまらない部下が目に付くのではないか。アウシュビッツもシベリア抑留も決して過去の話ではない。今、リストラされれば、中高年者では、再就職は困難を極める。そうなれば年収200万円の貧困層に落ちぶれる。

 

仕事の意味とは

 下記資料は新人教育講座「修身」の一部である。この講座は2002~2005年、私が思いを込めて開設をして、講義を続けた。若い人に、我々が生み出すべき付加価値は何か、何のために働くのか、等の日本人として当たり前の価値観を自覚してもらうためである。しかし2006年、会社が対等合併(実質は吸収合併)となり、合併相手会社の出身の上司が成果主義・拝金主義に染まっていたため、この講座の実施が禁止された。「(金儲けに関係ない)余計なことは教えるな。時間の無駄だ」である。エゲツナイ体質が伝統の合併相手先会社の事業部は、私が会社を去った2年後、業界カルテル問題が露呈して、欧米へ多額の課徴金を支払うことになった。

 

2017-08-30

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