2021年5月29日 (土)

恵峰先生を偲ぶ(7)東日本大震災での支援(3/4)

 2012年9月末、馬場恵峰先生は浄土ヶ浜の海水で書いた鎮魂の書の書を被災された各地に贈呈のため訪問された。

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大槌町の佐々木副町長に贈呈 2012年10月1日

2 宮古市の山本正徳市長に贈呈 2012年10月1日

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山田町の佐藤副町長に贈呈  2012年10月1日

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大船渡市の角田副市長に贈呈 2012年10月3日

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岩手県知事に名入り色紙を贈呈

 七言詩で、末尾を践、先、宣と韻を踏んでいる。3行目の最後は韻を踏まないのが規則。

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第3回目東北地方講演会訪問 岩手県知事室で  2012年10月2日

東日本大震災・復興記念講演会と浄土ケ浜の海水でしたためた「鎮魂の書」を贈呈するため訪問

  左から齋藤社長、奥様、馬場恵峰先生、達増拓也岩手県知事

  吉田県議、福田社長、齋藤社長のご子息

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2021-05-29   久志能幾研究所通信 2038 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月28日 (金)

恵峰先生を偲ぶ(6)東日本大震災の支援(2/4)

  

 馬場恵峰先生は2011年の東日本大震災での支援として、計6回、支援活動として東北に出かけられている。鎮魂の書の寄贈、講演会、励ましの揮毫会、等である。当時、交通網が寸断され、移動するには車でしか行けない場所を、6回とも一日中車に揺られて回られた。84歳の老体には過酷な体験であった。高齢の先生にはハードスケジュールで、さすがに恵峰先生は疲れたと仰っていた。その無償の行為に頭が下がる。

 「恵峰先生を偲ぶ会」(2021年4月11日)で、齋藤明彦氏とグレート小鹿氏が、その支援内容を紹介された。

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齋藤明彦氏とグレート小鹿氏

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 被災直後の浄土ヶ浜。浄土であるべき姿が地獄絵に激変した。

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 震災前の浄土ヶ浜の風景。さながら極楽浄土のごとし。

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恵峰先生の支援活動

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 山田町仮設住宅での揮毫会

  その場で希望の書を書いて差し上げた。

  人はたった一つの言葉で勇気づけられる。

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 陶器に恵峰先生の書を焼いて販売して孤児を支援

 

2021-05-28   久志能幾研究所通信 2037 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月27日 (木)

恵峰先生を偲ぶ(5)東日本大震災の支援活動(1/4)

 

浄土が浜の海水

 2011年4月2日、朋友の齋藤明彦社長(㈱電創総合サービス)が、書の師である馬場恵峰先生(当時84歳)の元を訪問して、哀悼の書の揮毫を依頼された。東日本大震災の被害に遭われた皆さんに元気になってもらうのが目的である。そのとき、三陸海岸宮古浄土が浜の海水を持参された。その海水を使って震災で犠牲になられた方たちへの鎮魂の書を依頼された。まだ震災で犠牲になられた方たちの精霊が漂っている浄土が浜の海水である。

 齋藤明彦社長は、震災後のかたづけの多忙の時期で、家族や社員の方からは白い目で見られたにも関わらずの長崎訪問である。当時、斎藤社長の会社も甚大な被害を受け、てんてこ舞いの状態であった。従業員の方で亡くなられた方は見えなかったのがせめてもの幸いである。

 恵峰先生は海水を使っての磨墨は、そのままではかなり書きにくいとのことで、薄めて書かれた。

 

同席のご縁

 齋藤社長が長崎の先生宅を訪問したとき、私もたまたま同席をするご縁を頂いた。私は恵峰先生の松尾芭蕉300年御忌で書かれた『奥の細道全集』を撮影するため訪問していた。齋藤社長とは明徳塾で机を並べて馬場先生の書を習う仲間である。齋藤社長とは長崎空港で別れたが、かなりお疲れのようであった。こういう無償の奉仕こそ生きた仕事である。

 考えるまもなく津波に押し流された方の無念が偲ばれる。明日はわが身と思い、時間(命)の有限性を再認識した。

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 箕面 加古川山荘にて(2011年4月16日 撮影)

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 恵峰先生の図書館にて(2011年4月2日)

 左端が齋藤社長、右端が恵峰先生、中央は福田社長、手前が「奥の細道全集」

2021-05-27   久志能幾研究所通信 2036 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月26日 (水)

おだ仏教 人生後片付け 7S

 

 天が行う究極の片づけは死である。天網恢恢疎にして漏らさず、で生老病の後の死こそ、最高の後片付けである。生あるものは必ず死を迎える。それが、天が行う片づけである。何時までも徳川家康が生きていては、世間が困るのだ。

 

 トヨタは片付けで5S(整理、整頓、清潔、清掃、躾)を徹底することで、世界一の自動車メーカになった。トヨタの5Sは綺麗にするのが目的ではない。5Sの目的は生産の仕組みづくりと生産性向上である。それで社員の争いがなくなり、儲かり、幸せになれた。

 

 「おだ仏教の人生後片付け」は、7S(整理、整頓、清潔、清掃、躾、施行、死)である。生あるものは必ず死である。その前に、7Sで無駄を省いて贅沢をして、天命を全うし、世に貢献して、心置きなくこの世を去っていく。贅沢な人生は素敵なのを実感することだ。奪うより、与えた方が幸せなのだ。時間は命である。7Sは時間を輝かせるための修行である。

 

 人は無くて七癖、あるべきは七S。7Sは「キレイにする」ことが目的ではない。最終目的は、人生を豊かにして魂を浄化することである。魂の浄化する仕組み作りの訓練は、時間と智慧を生む訓練である。結果として人生が豊かになる。

 

 ご縁も7Sで片づけたい。それが人生を豊かにする。人生屋敷をごみのような縁でゴミ屋敷にしてはならない。よきご縁こそが、よき人生を作る。それを誤嚥するから、人生を誤演する。

 

整理・整頓しないと時間の無駄が出る。

 整理とは不要なものを捨てる事。何時か使うだろうからと品物を残しても、結果は使わないことが常である。保管にもお金がかかる。捨てるにもお金がかかる。

 モノは分類しなくてもよい。整理をすれば、自ずとゴミが削除され分類される。

 勿体ないからと捨てないのは、在庫が増え、探し時間が増える。在庫するにもお金がかかる。その時間とお金が勿体ない。探すのにも時間(命)が消費される。

 不要なご縁にいつまでも縛られているから、豊になれない。不要な縁は整理すべき。縁切りは、人生で必要な禊ぎである。

 縁を切ったことを後悔するのを止めよう。それはその人と「ご縁が無い」というご縁だったのだ。私は菩提寺の住職からそう言われて、目が覚めた。

 不要なご縁を捨てられないのは、ケチ(計値)なのだ。そのご縁の価値を正しく評価する能力がないのだ。だから悪縁にまとわりつかれて、不幸になる。

 人生のご縁は加減乗除なのだ。不要なご縁なら、何時かは消える。

 

整頓とは、美の感性を鍛える訓練である。

 美意識こそ、経営の基礎である。整頓すれば、不要なものが見えてくる。

 人生の美学を追求しよう。ご縁を整頓しよう。真のご縁が見えてくる。

 

清潔、清掃

 モノにも生老病死がある。時間が経つと「老いて」醜態になり、老いて腐ってくる。所有するものを見直して新陳代謝すべき。

 法律上で、家電製品は壊れても直せない時が来る。製造メーカが7年経ったら保守部品を捨てるので、修理不能になる。だから壊れた家電を持っているだけ、無駄である。

 

 ご縁にも経年変化がある。経年変化で汚れてくる場合もある。全ての縁は移り変わる。無常である。

 そのご縁にカネにまつわる汚さを付けてはならない。金の貸し借りはご縁を汚す。だから金を貸すくらいなら、金をあげて縁を切ったほうが清潔だ。

 皇女の結婚のご縁も、結局は金が問題であった。

 どんなご縁でも、生まれた縁は、何時か死が訪れる。

 

躾とは身のこなしの「美」である。

 美意識から優れた経営が生まれる。無駄な動きを無くせば儲かる。

 ご縁の育ちが悪いと、醜い動きになり、害が身に及ぶ。

 皇女の結婚のご縁も、躾が悪い。

 

施行

 施して手放すから入ってくる。貯めこむばかりでは、腐ってくる。

 施行とは仏さまに、お宝を自分から貰って頂いたのだ。施行できたことを喜ぼう。自分が心身ともに貧しければ、布施はできない。

 自分では使わないお宝を人に布施しよう。それは単に布施ではなく、自分の煩悩を捨てる練習なのだ。モノにも精霊が籠っている。そのものが使われないと、精霊が悲しむ。施行しないと精霊から仕返しされる。

 

 死があるから新しい生が生まれる。死なくして成長はない。自分も昨日の自分が死んで、今朝、新しい自分が生まれた。今日から新しい人生が始まる。

 馬場恵峰先生の死も必然である。師は多くのことを弟子たちに与えて旅立たれた。私は師から多くを学び、それで新しい自分が生まれた。そのご縁に感謝をして合掌である。

 何時までも悪い縁と腐れ縁が続くから幸せになれない。問題があれば、その縁は殺さねばならぬ。悪縁が死ぬから、新しいご縁が始まる。

 

2021-05-26   久志能幾研究所通信 2035 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2021年5月25日 (火)

我家の御本尊様

 

虚空蔵菩薩

 2014年9月21日、1年弱待った虚空蔵菩薩座像(桧、5寸)が自宅に納佛された。明慶先生に製作をお願いした時、「いま大事な仕事にかかっているので、彼岸過ぎまで待って欲しい」と言われた。

 虚空蔵菩薩は寅年生まれの守り佛である。今まで無事に生きてこられたのを感謝するのと、今後の守り佛として見守ってもらうため、製作をお願いした。明慶先生の大事な仕事とは、高野山に納める四天王の製作であった。

 虚空蔵菩薩とは、広大な宇宙の無限の智慧と慈悲を持った菩薩という意味である。そのため智慧や知識、記憶といった面でのご利益をもたらす菩薩として信仰されている。

 「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるという修行を修した行者は、あらゆる経典を記憶し理解して忘れることが無くなるという。しかし、忘れることは人間の徳性である。忘れない人とは、神であり、人でなし。

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 松本明慶大仏師作 虚空蔵菩薩像 

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人の愚かさ

 1979年頃、私も仕事で悩み、人生に迷っていた。ある新興宗教の教祖著の『密教入門(求聞持聡明法)』を読み、それに嵌りかけた。しかし物理的に凡人が、真言を百日間かけて百万回唱えるという修行が出来るわけがない。冷静に考えると、記憶を絶対に忘れないとは、人間でなくなることである。過去の嫌な失敗談を何時までも覚えていては、地獄である。今まで何回、嫌なことで死にたいと思ったことか。それが人間の特性として、忘れるから良いのであって、何時までも覚えていることは決して善ではない。

 当時は天中殺も流行した時代である。この新興宗教の手法を盗用して、オウム真理教が勢力を拡大して、地下鉄サリン事件を起こした。有名大学出の若者が堕ちていった。頭が良い人は、楽をして成功を手に入れたがる。人とは愚かな存在で、歳を取らないと己の愚かさに気がつかない。人は愚かな事をしてみて、初めて愚かな事をしてはダメと気づく。

 

文殊菩薩

  文殊菩薩は、衆知を集めて知恵を出せと教えている。三人寄れば文殊の知恵である。自分だけの考えでは駄目なのだ。文殊菩薩は、迷いや煩悩を断ち切る宝刀を右手に掲げ、左手に経典(佛の教え)を持ち、迷える衆生を導いている。

 しかし三人寄っても、それが正しいとは限らない。個人ではなく集団になると、集団浅慮で、かえって短絡的に意思決定をしてしまう時もある。そこには賢さが無くなっている。

 

Dsc06572s_2 松本明慶大仏師作 文殊菩薩像 

知識と知恵 

 知識とは議論において相手をねじ伏せるための武器である。時としてその知識が己の行動を縛る。智慧とは議論をしなくても問題を解決する佛智見である。知識で論理的に戦うことは、理でしか戦えない偏った戦いである。理だけでは感情を理解できない。だから「感動」はあっても「理動」はない。智慧とは理知をもって俯瞰的に物事を導く佛力である。お釈迦様はこの佛智見を衆生に教示するため現れた。

 

知識過剰

 しかし、どんなモノでも過剰にあると毒になる。モノが過剰にあると探す時間と保管の時間を取られ、人生の時間(命)が蝕まれる。人生経営指標の無形資産回転率が低下する。モノには精霊が籠もっていて、使われない悲しみの表われである。知識もありすぎると、どれが有用なのかが分からなくなる。1テラの知識量よりも一つの智慧が勝る。

 

智慧の経営

 浄土とは智慧で悟る世界である。穢土とは知識に振り回される煩悩が溢れる世界である。普賢菩薩と文殊菩薩は浄土から穢土に、理知を運ばれる。

 知識は時代と共に正誤が変わるが、智慧は不変である。知識を武器に相手を論破する競争よりも、黙々と下に根を伸ばす精進で智慧を育むことが大事である。不毛な議論は時間の無駄で、議論の正誤は歴史が正してくれる。多くの人が嫌がることは正しいことではない。人に喜ばれてこそ功徳である。不毛の議論は犬も食わぬ。

 

Dsc012821s    馬場恵峰書『人生訓80恵峰選』(2005年)より

賢くあれ

 Appleのジョブズは新しいことを創造した人間として、母校のスタンフォード大学の講演で「愚かであれ」と唱えた。目的を達成するために、愚かもののように邁進するのは必要だが、知恵は必要だ。

 凡人の私は、ホモサピエンスとして「賢くあれ」と唱えたい。ジョブズは世界一の金持ちになったが、間違った健康知識で癌を悪化させた。彼は癌に勝てず56歳で世を去った。世界一の財力でも、金と知識だけでは病気には勝てない。

 人生を生きていくために貯めなければならないのは、金でなく智慧である。賢さである。病気になって金の力や知識の力で治すのではなく、智慧と賢さ病気にならないことだ。知識があっても、意思が強くないと、実行できず、免疫力を強くできず病気に負ける。

 

普賢菩薩

 今の混迷の時代、我々に必要なことは、賢くなることだ。政府は当にならない。自分の身は自分で守る。知識がいくらあっても、意味がない。あまねく賢く振舞わないと、現世では負ける。政府もマスコミも賢くなく、烏合の衆である。

 私は、毎日、普賢菩薩様に手を合わせている。賢く物事に対処したいと、誓っている。普賢菩薩は合掌して私に向き合っている。合掌して祈るとは、心を無にして、謙虚に反省して今後の自分の行動を誓うことだ。それがサムライの心得である。普賢菩薩は釈迦如来を守る脇侍である。

 私が2019年に大病を患い、その病気の快癒を願って、文殊菩薩と普賢菩薩は、2019年7月に納佛された。

 

Dsc06566s_3   松本明慶大仏師作 普賢菩薩像

我家の御本尊

 御本尊とは、信仰の大切な対象である。2015年、我が家のお墓を改建したご縁で、仏壇にはご先祖の為に釈迦如来を祀った。如来とはかくの如く来たりしものという意味である。佛として理想の姿である。

 私は現世の自分の守り佛として、虚空蔵菩薩と文殊菩薩と普賢菩薩を居間に祀った。自分の守り本尊として、釈迦如来様では畏れ多いと思ったからである。

 

4k8a02641s_2 松本明慶大仏師作 釈迦如来像 

集団指導体制?

 一般的には、釈迦如来とその脇侍として文殊菩薩と普賢菩薩が祀られる。釈迦如来像は一般的に文殊菩薩と普賢菩薩の倍の大きさで作られるが、我が家は集団指導体制(?)として、大きさがほぼ同じである。例えれば一般の会社組織と同じで、社長も役員も同じ立場という体制とした。

 菩薩とは如来を目指し仏道を修行している仏様である。みんな同じ菩薩様なのだ。その身分に差はない。まとめ役として虚空蔵菩薩を中心に祀った。

 文殊菩薩は、衆知を集めて知恵を出せ、宝剣で煩悩を断ち切れと教えている。普賢菩薩は合掌して、佛を信じる衆生を、あまねく賢くあれと導いている。その二佛の菩薩を統括するのが、虚空蔵菩薩である。私は毎日、智慧があり、普く賢くありたいと虚空蔵菩薩と文殊菩薩と普賢菩薩に手を合わせている。

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2021-05-25   久志能幾研究所通信 2034 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2021年5月24日 (月)

釈迦如来像の人相学的な考察

                                  

 自分が面談する相手の顔に、全てが書いてある。自分の人生時間を失わないために、面談相手の顔を観察せよ、服を熟視せよ、態度を俯瞰せよ。言動を考えよう。付き合うその人が、自分の人生を左右する。だからこそ、真剣に相手の人相を観察しよう。人相学は、統計学の学問である。怪しい占いではない。だから私は意識して、相手の人相を観察して、人間学を研究している。

 

 半世紀も人間稼業をやってきたなら、体験学習的に人相学が体にしみ込んでいるはずだ。本能的に、その人物像が分かるはずだ。強欲な人間は、強欲な顔をしている。だらしない人間は、だらしない顔をしている。人間関係で失敗するのは、その本能が教えてくれている情報を活用していないからだ。

 半世紀も人間稼業をやってきたなら、己の行動と考えが、己の顔を作ってきたはずだ。リンカーンは「40過ぎたら、己の顔に責任を持て」と言った。

 如来とは、かくの如く来たりしもの、という意味である。仏さまとして、あるべき姿とお顔が如来様である。自分も人格者を目指すなら、人格者としてかくの如く来たりし顔を造るべし。

 

釈迦如来座像

 松本明慶先生作の釈迦如来座像のお顔は端正である。お釈迦様のお顔であるので端正は当たり前である。松本明慶先生作の釈迦如来座像は慈悲に満ちた眼差しで、思わず手を合わせたくなる。

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 松本明慶先生作 釈迦如来座像  総高さ40cm 『佛心』松本明慶工房刊

 写真掲載は松本明慶仏像彫刻美術館の掲載許可を得ています。

 

某教団の釈迦如来像

 2013年頃、私がG経営研究会で知り合った社長に勧誘され、入団しそうになった某新興宗教団体がある。その教団の釈迦如来像を人相学的に観察すると興味深い。その唇はぶ厚い形状である。唇は生命力を表す。厚い唇は生命力に溢れ、物欲性欲も強いとされるので、その仏様のお顔は上品ではない。また上唇の厚みが下唇よりも薄く、全体のバランスが悪い。これは我が強いことを表している。私の昔の上司がこの唇のタイプであった(私は苦労をさせられた。言い出したらきかない性格であった)。上に反った唇のカーブも不気味である。

 

 目は少しつり上がっている。その目は、何か信用を置けない雰囲気を与える。垂れ目のタレレントの萩本欣一さんは憎めない親しみを感じる顔相であり、欣ちゃんの垂れ目がそれを表している。この仏像の目とその表情からは、ありがたい眼施をされているとは思えない。

 

 鼻柱はは太い。その鼻柱は強欲さを感じさせる。二重顎(三重顎?)は肥満ぎみの証である。食欲を自制できていないのか。ほうれい(鼻と口の間)が短いので、あまり良い人相とは言えない。ほうれいの長い人は長命といわれ福相である。頬のふくらみもなにか異様である。私は冷たい印象を受けた。耳の形と大きさも意味があるのだが、なにか異様である。

 

 全体的なお顔の印象が、東大寺の大仏や明慶大仏師作の仏像に比べると不気味である。ありがたみがほとんど感じられないのは私だけであろうか。お釈迦様のお顔であるので、端正であるはずである。それが感じられない。

 

 その教団の釈迦如来像は、キンキラキンの金箔仕上げで、分厚いまぶた、分厚い唇等と、日本人の私には違和感を覚える。そのお顔の造りはインド人、中国人系である。浄土では金とか物欲とは無関係の世界であるが、黄金の釈迦如来像ではあまりに俗世間的である。

 危機管理上で、その教団の仏像の写真掲載を控えます。

 

仏像はその国の文化の顕れ

 仏像や宗教はその国の文化なのだ。その国が醸成した思想や文化がそのまま宗教に反映されてその象徴として仏像の姿に現れる。厳しい砂漠の自然が、厳しい掟のあるユダヤ教を生んだ。目には目を歯には歯を、である。そういう戒律で縛らないと生きて行けない自然環境である。温和な自然の中で生まれた仏教とは、環境が異なり、違った雰囲気を伝えている。同じ仏教でもインド、中国の仏教と日本の仏教とは大きな差が出てきている。それが仏像のお顔に表れる。それが文化の差の表れなのだ。

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 日本の宮廷文化 京都・御所 著者撮影

 

2021-05-24   久志能幾研究所通信 2033 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

痴者の戯言「全社一丸となって頑張ろう」

「うちは小さくてもピッリと辛い。D社になんかに負けないぞ」

 

 上記は前職の社長や役員が口癖でよく社員に訓示していた言葉である。「全社一丸となって」とは聞こえはよいが、愚者の遠吠え、痴者の「万歳突撃」の叫びである。泥縄の経営である。それは、指導者の管理能力のなさと智慧のなさを表している。「全社一丸となって」頑張らなくてもよいように、危機管理をするのが賢者の経営者である。

 弱い組織をどうするかが指導者の役目である。織田信長は尾張武士が弱いことを知り尽くしていたから、鉄砲を使った。織田信長は知恵と素早い決断で、天下が取れた。

 

多様性

 画一性には成長性がない。そこには智慧がない。多様性こそ、成長の鍵である。そんなレベルの社長や役員が跋扈した会社は、30年後、競合他社に吸収合併されて市場から消えた。遠い昔、前職の会社はD社と同等レベルであったが、今ではD社ははるか上を行っている。当然の帰着であった。

 日本と大垣が衰退続けている原因は、その多様性を許容する余裕のない政治屋の偏狭さである。すべて役人ファーストの政治が原因である。国民は貧困になり、政治屋が私腹を肥やしている。

 

齟齬のある政策

 少子化にかこつけて、外人労働者導入を強力に推進して儲けている人材派遣業の元政府高官・竹中平蔵がいる。国賊ものである。その分、日本の若者の雇用がなくなる。日本には188万人の完全失業者がいる。それなのに、外人労働者数は127万人である。企業がきちんと労働対価を払わないから、激安の給与の人材派遣業が跋扈するのだ。安い賃金の外人労働者を許すから、日本人の給与がそれにつられて下がる。ますます日本は貧乏になっていく。

 

少子化対策「万歳突撃」

 日本政府も大垣市も「全力で少子化対策をしてます」、「大垣市は子育て日本一です」と掛け声だけは勇ましく、実質は何もしていない。『大垣未来ビジョン』でも「大変だ、テイヘンだ」というだけで、具体的な政策はどこにも記述がない。

 大垣市は、幼児予算だけ目立つようにして、残った金を自分達の利権に使っている。大垣市の役人の給与は岐阜県一の高額である。役人が堕落しているから、少子化が止まらない。日本と大垣の没落が止らない。日本人の年収が下がり続けている。大垣市の公示地価が暴落し続けている。それが、この30年間の政策の答えだ。政治は結果が総てである。

 

真の少子化対策

 少子化対策で必要な対策は、子供が安心して生める環境作りである。それを増税、景気対策の愚策、教育費の削減(先進国中で最低のレベル)、正規社員の削減、派遣社員の増加、外人労働者導入、給与の30年来の減少等、全て政治家の劣化とそれに起因する政策の愚劣さが少子化の原因である。

 日本で子供を産んだら、地獄の苦しみがあるのに、だれが生むものか。一人を育てるのに4千万円がかかるのだ。

 大垣市の学校の教育環境は最悪である。大垣市の児童生徒一人当たりの教育費は県下最低レベルである。3年前は学校にエアコンさえなかった。当時、エアコン設備率は2.1%で県下最低であった。岐阜県の他市はほとんど100%であったのに。大垣市民として恥ずかしい。

 

子育て以前の問題

 子育ては幼児期間だけでなく、子供が就職して独り立ちするまでである。それ以前に大事なのは子供を安心して生める体制づくりである。大垣市が、幼児だけ優遇したとしても、それは春画的対策である。今ではどこの市でもやっている。だから大垣市の施策は智慧がない。大垣市はこの20年間、無為無策無能の政治が続いて、大垣市の没落が続き、子供を安心して産める状態ではなくなった。また児童生徒一人当たりの教育費が県下最低になり、少子化に拍車をかけている。政治は結果が総てである。

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2021-05-24   久志能幾研究所通信 2032 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月23日 (日)

認知症 惚けの情けは 悪女の深情け

認知症 医者も共に 惚けている

認知症 皆で惚ければ 怖くない

 

 惚(ぼ)けると惚(ほ)れるは、同じ漢字。恋は人を見る目を盲目にする。認知症は人生を盲目にする。惚れて盲目になった人は幸せだ。皇族の御方のように、周りが困るのだ。惚けて認知症になった方が得なのだ。しかし、家族は地獄である。

 医者だって認知症になる。がん専門医だって癌になる。その比率は一般患者と変わらない。医師だって、認知症や癌になる真因が分かっていない。

 

鬱病患者 囲い込んで 薬漬け

 鬱病は、医師が薬を投与してさらに症状が酷くなる。鬱病は薬では治らない。病院は、守秘義務を盾に患者の情報を会社(上司)にドアを閉ざす。私の部下が鬱病になって、その情報取集をしようとしても、医者は門を閉ざしたので困惑した。医師からの情報が何も入ってこないのだ。どうすればよいのだ。

 その私も会社の合併のドタバタで、人間関係の軋轢を受け、鬱症状になった。医者に行けば、間違いなく鬱病と診断される状態であった。医師は来る患者を拒まず、全て鬱病患者にしてしまう。その方が楽だし、誰からも非難されないし、儲かるのだ。

 無責任で無知な会社の保健婦は「小田さんは軽い鬱だから、薬を飲めばすぐよくなりますよ」である。

 私は鬱病の薬の害毒を知っていたから、病院に行かず、自分で治した。太陽に当たり、散歩をして、睡眠を十分にとり、体調を整えた。劣悪な職場環境から身を遠ざけた。それで今の私がある。

 

食べれない それなら胃瘻 金儲け

 胃瘻される本人は、意思表示ができない。体が受け付けないのに、無理やり栄養素を入れられるのは拷問である。私なら、それまでして生き永らえたくない。家族は、世間体で延命治療を強いられるが、胃瘻される本人は地獄である。生物は食べられなくなったら、自然死が一番楽だ。それを病院の金儲けで生かされるのは、地獄である。病院にとって胃瘻は、手間がかからず、楽に儲かり、利益率の高い医療処置である。

 

飲み代が 薬代に変わる 還暦後

 高齢者の25%が7種類以上の薬を飲んでいるという。それが原因で、食欲がなくなり、副作用で病気になる危険性が高い。

 薬局の店舗数はコンビニより多い。それも増え続けている。日本衰退の象徴である。薬局数約5万9千店、コンビニ数は約5万6千店。郵便局は約2万3千店。(2017年)

 大企業の健康保険組合は、若く、健康体の人が多いのでその保険料は安い。それに比べて、高齢で病気餓鬼の人の多い国民健康保険料は高い。己が高齢者になって知る世の不合理である。

 

病院で 病気をもらい 金払う

 「病院で 病気をもらい その治療費を払う」ことをトヨタでは「自工程完結」という。

 病院も経営しなければならぬ。だから必死に病気を探して、金を稼ぐ。並みの人間なら、体中をしらみつぶしに探せば病気の一つも見つかるもの。

 下手に病院の待合室に行けば、病原菌が浮遊する環境に身を置く危険がある。 病院に行く暇があったら、狂った生活、狂った食生活をヤメ、運動をして、自己免疫力を上げよう。病院は治療をしてくれるが、病気を治してはくれない。病気を直すのは己である。

 

2021-05-23   久志能幾研究所通信 2031 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

一流を夢みて

 

百不当の一老

 効果のないと思われる小さな積み重ねが、臨界点に達すると劇的な時間創出となる。臨界点に達するまでに止めてしまうから、それまでに費やした時間が無駄になる。

 どんな道でも、1万時間をかければその道のプロになれる。

 1万時間とは、一日8時間を3年半かければ達成する。

 

 下図は佛像彫刻に深夜まで取り組む松本明慶工房の若い仏師たち。1万時間という彫刻修行が、名人を作る。毎日の修行の積み重ね以外に名人は生まれない。

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夢とは

 人生は夢のように流れ去る。だからこそ現実を一所懸命に生きるために夢を持つことは真剣に生きることをいう。夢が人生を作る。

 

「一生実現できない夢、志をもつこと」

 高原慶一朗ユニチャーム社長の座右の銘。

 利己的な夢を抱いて生きると、小さい利己的な未来が待っている。

 

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 馬場恵峰先生書

 日中文化資料館にて撮影   2010年10月8日

2021-05-23   久志能幾研究所通信 2030 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月22日 (土)

狂騒曲「高血圧 大事な金づる 治してなるものか」

生かさず 殺さず 高血圧患者

高血圧 基準値変えて 医者は大儲け

 

 殆どの医師は、高血圧症に対して、降圧剤を処方するだけ。私はそれで30年間、降圧剤を飲まされ続けた。それで高血圧症が治るわけではない。それは対処療法である。

 体は自律神経の働きで必要と検知して、血圧を上げて血を全身に送っている。それを降圧剤で下げると、白血球等の免疫酵素を含んだ血が末端に行き届かず、がん、認知症、脳梗塞等の遠因となる。

 私はそれが遠因で、白内障、記憶力減退、網膜剝離、網膜静脈閉塞症まで罹患した。網膜静脈閉塞症は血圧が正常になって治った。

 

医者の台所都合

 医者の台所都合で、高血圧症が簡単に治ってもらっては困るし、それでは儲からない。高血圧症患者は大事な金づるなのだ。一度、降圧剤を飲ませることに成功すれば、死ぬまで患者として縛り付けることが出来る。その奴隷の鎖から逃れる術を医師は口が裂けても言わない。医師も生活がかかっているからだ。

 私も父もその被害者であった。父は最後はガンで世を去った。私は、私と父の癌は降圧剤が原因と思っている。

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高血圧症患者を増産

 2000年、日本高血圧学会が高血圧の基準値を(160/95mmHg以上)から(140/90mmHg)以上に引き下げた。それにより、今まで高血圧と診断されなかった人たちが治療対象になってしまった。その数2,100万人。それまで高齢者の血圧値の基準は、(年齢+90)が基準であったが、若きも老いも一律に同じ基準値となった。なにかおかしいではないか。

 基準値を下げた理由も根拠が薄いようだ。高齢者は血圧が高い方が長生きで元気なのだ。血圧を下げると、寿命が縮むというデータさえあった。

 血圧を無理に下げると認知症にさえなる。頭に必要な血が行かないためである。血圧が高いと脳溢血の危険があると言うが、死に方の選択は本人がするべきで、何方を選ぶのは本人である。

 

 高血圧症の基準値を変えることで一挙に2,100万人分(日本人口の2割)の降圧剤の売り上げ増が出来た。一度、患者を高血圧症にしてしまえば、死ぬまでお客様である。だから医師は高血圧の真因を探さず、治さず、降圧剤だけを処方する。私は30年間、その呪いに縛られた。日本高血圧学会と製薬業界の癒着が疑われる。

 この項、「高血圧症 3千7百万人のからくり」(近藤誠著)(文芸春秋2001.4)のデータを参考に記述

 

真因解明

 私は高血圧になった真因を、ネットで探した。その過程で久留米の真島消化器クリニックをネットで見付けて診察予約をした。ところが予約で空いていたのは半年後であった。このクリニックは海外からも診察を受けにくる人も多いという。しかし先約のキャンセルがあり、3か月後に診察を受けることができた。

 それで、真島先生に検査をしてもらい、血管内に蓄積したプラークが、高血圧の原因だと突き止めた。

 その検査結果では、血管内部のプラークの蓄積厚みが2.7mmもあり、脳梗塞、心筋梗塞寸前の状態であった。滑り込みセーフで、真島院長の指導で食事療法に取り組み、2年がかりで高血圧症を治した。今、高血圧の薬は飲んでいない。

 やはり真因を突き止めないと病気は治らない。

 

2021-05-22   久志能幾研究所通信 2029 小田泰仙

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